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「カタルーニャ州」の版間の差分

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{{Infobox settlement
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| 州都
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| 自治州法 || 2006年6月18日<br/>(改正前は1979年12月22日)
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'''カタルーニャ州'''([[カタルーニャ語]]:{{lang|ca|Catalunya}} [kətəˈluɲə], [[カスティーリャ語]]:{{lang|es|Cataluña}}, [[アラン語]]:{{lang|oc|Catalonha}})は、[[スペイン]]の[[スペインの地方行政区画|自治州]]。州都は[[バルセロナ]]。自治州政府は[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ]]。
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| blank_name_sec1 = 自治州法
| blank_info_sec1 = 2006年改正<br/>(1979年制定<ref name=britannica>{{cite web |url=http://global.britannica.com/place/Catalonia |title=Catalonia |publisher=Global Britannica.com |date=2015-10-11 |accessdate=2016-01-12}}</ref>)
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'''カタルーニャ州'''({{lang-ca|Catalunya}} [kətəˈluɲə], {{lang-es|Cataluña}}, [[アラン語]]:{{lang|oc|Catalonha}})は、[[スペイン]]の[[スペインの地方行政区画|自治州]]。州都は[[バルセロナ]]。
スペイン北東部、[[ピレネー山脈]]の南に位置し、[[地中海]]に面する。スペイン国内では[[バレンシア州]]と[[アラゴン州]]に接する。ピレネー山脈で[[アンドラ]]と[[フランス]]([[ミディ=ピレネー地域圏]]、[[ラングドック=ルシヨン地域圏]])に接している。


カタルーニャ州はスペイン北東部の[[地中海]]岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた{{sfn|田澤|2000|pp=3-7}}。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している{{sfn|田澤|2000|pp=3-7}}。
'''カタロニア'''は英語由来の表記。


1979年に自治州の地位を得た<ref name=britannica/>。
== カタルーニャの由来 ==
[[ファイル:Liber Iudiciorum visigòtic.png|thumb|100px|right|カタルーニャ語で書かれたものとしては最古とされる12世紀の文書]]
カタルーニャ(Catalunya)という名が使われ始めたのは12世紀である<ref>[http://www.enciclopedia.cat/fitxa_v2.jsp?NDCHEC=0016436 Enciclopèdia Catalana online: Catalunya ("Geral de Cataluign, Raimundi Catalan and Arnal Catalan appear in 1107/1112")] '''in Catalan'''</ref>。[[スペイン辺境伯領]]を成立させた小さな伯領の塊を指す言葉であった。この伯領は徐々に[[フランク王国]]から独立していく。言葉の起源には様々な解釈がされている。一般に広く通用している説は、カタルーニャは城の国であると示唆している<ref>[http://www.gencat.cat/catalunya/cat/historia/historia2.htm La formació de Catalunya]</ref>。カストラー(''castlà'')という言葉は城の主という意味に進化する<ref>[http://neni.galeon.com/aficiones1345631.html Curiositats sobre Catalunya i el català]</ref>。この説は、カステーリャ(''castellà''、カスティーリャ人)と同義語であることを示唆する。


== 名称 ==
別の説は、''Catalunya''が『ゴート人の土地』を意味するゴティア(''Gothia'')からきたとする。スペインの辺境伯領はGothiaとして知られる土地の一つであったからだという<ref>Bulke, Ulrich. (1900). [http://books.google.com/books?id=tz3g_YzTQaUC&pg=PA154&dq=gothia+catalonia&ei=eSG3SLezDZTEzAS338H0Bg#PPR3,M1 A History of Spain from the Earliest Times to the Death of Ferdinand the Catholic]. Longman, Greens and Co. London, UK</ref>。 批評家たちはむしろその説は単純すぎるとみなしている<ref>[http://www.mediterranees.net/vagabondages/divers/catalogne.html La Catalogne : son nom et ses limites historiques]. Histoire de Rousillon.</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=nUABAAAAMAAJ&q=gotholandia&dq=gotholandia&hl=es&pgis=1]</ref>。
「カタルーニャ」(Catalunya)という名称の語源は不明であるが、[[スペイン辺境領]]に基づくこの地方の諸伯領を総称する地名として、12世紀以後に使われ始めた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=283-286}}。名称の起源には様々な説があるが、どの説も決め手に欠けるとされる{{sfn|田澤|2000|pp=28-31}}。「城代」を意味するcastellanusまたはcatlanusがcataláに変化し、やがてCataluñaとなったとする説があるが、この説は言語学的に無理があるとされる{{sfn|田澤|2000|pp=28-31}}。カロリング朝フランク王国時代のスペイン辺境伯領は「ゴート人の土地」を意味するGotholandiaとして知られる土地であり、Gotholandia がCataluñaとなったとする説があるが{{sfn|田澤|2000|pp=28-31}}<ref>Bulke, Ulrich. (1900). "A History of Spain from the Earliest Times to the Death of Ferdinand the Catholic", Longman, Greens and Co. London, UK</ref>、言語学的に無理がある{{sfn|田澤|2000|pp=28-31}}、単純すぎる<ref>{{cite web |url=http://www.mediterranees.net/vagabondages/divers/catalogne.html |title=La Catalogne : son nom et ses limites historiques |publisher=Histoire de Rousillon |accessdate=2016-01-06}}</ref>とされる。Otgar Golantという貴族の居城Cathaló城が由来であるとする説、アラビア語で「城」を意味するcálatとアラゴン地方の古地名Talunyaが由来であるとする説、バルセロナ郊外にある地名Montcadaが由来であるとする説、ラケタニ族(Lacetani)が由来であるとする説などもある{{sfn|田澤|2000|pp=28-31}}。


英語表記はCataloniaであり、英語表記に由来する'''カタロニア'''と書かれることもある{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|1992|p=72}}。
また、別の説はこの地方に定住していたイベリア人の一部族ラケタニ([[:en:Lacetani]])の名だとしている。彼らはローマの影響を受けており、この名がやがてKatelans、Catalansへと進化していったとする<ref>[http://www.histocat.cat/pdf/talaiotic1.pdf El Misteri de la Paraula Cathalunya]</ref>。


== 歴史 ==
== 地理 ==
=== 位置・形状・面積・人口 ===
[[ファイル:Empuries VilleRomaine Thermes.JPG|left|thumb|200px|[[アンプリアス]]に残るローマ浴場跡]]
[[File:NASA Satellite Catalonia.jpg|thumb|right|カタルーニャ州の衛星画像]]


カタルーニャ州は[[イベリア半島]]と[[スペイン]]の北東部にあり、[[地中海盆地]]の北西岸にある{{sfn|田澤|2013|pp=19-22}}。面積はスペイン全土の6.4%にあたる約32,000km<sup>2</sup>であり{{sfn|立石|奥野|2013|pp=22-25}}、スペインの17自治州中第6位である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。面積は日本の[[関東地方]]とほぼ等しい{{sfn|樺山|1979|p=30}}。緯度は北緯42度付近であり、日本での同緯度地域は[[北海道]]南部である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。
=== 古代 ===
[[古代]]、イベリア半島の他地域同様に古代ギリシャ人が[[ロザス]]へ入植した。その後[[カルタゴ]]の植民地、次いで[[古代ローマ|ローマ]]の植民地であった。中心都市であるバルセロナはもともと[[ポエニ戦争]]を戦った[[ハンニバル・バルカ]]を輩出したカルタゴの名家[[バルカ家]]の領土であり、都市名もバルカ家に由来する。属州[[ヒスパニア]]の一部となり、タラッコ(現在のタラゴナ)は主要都市の一つであった。


人口はスペイン全土の16%にあたる約750万人であり{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}、ヨーロッパの中では主権国家である[[デンマーク]]よりもやや多く{{sfn|田澤|2013|pp=19-22}}、日本の[[九州地方]]の約半分である<ref name=haff20140917>{{cite web |url=http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/16/catalonia-independence_n_5832278.html |title=カタルーニャ州、スペインから独立めざす理由は? 住民投票めぐり綱引き |publisher=[[ハフィントン・ポスト]] |date=2014-09-17 |accessdate=2016-01-22}}</ref>。人口密度では[[マドリード州]]と[[バスク州]]に次いで17自治州中第3位である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。バルセロナを中心とするバルセロナ都市圏に人口が集中しており、バルセロナの自治体人口は約160万人、都市圏人口は約210万人である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。
[[ローマ帝国]]崩壊後、4世紀に渡り[[西ゴート王国]]に支配される。8世紀、ムーア人の[[アルアンダルス]]支配下に入る。732年の[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキ]]([[:en:Abdul Rahman Al Ghafiqi]])を敗死させた[[フランク王国]]が旧西ゴート領を征服、または旧西ゴート貴族と同盟して現在のカタルーニャ北端部を獲得した。795年、[[カール大帝]]は[[スペイン辺境伯]]領として知られるようになる緩衝地帯をつくった。これは、[[後ウマイヤ朝]]のアルアンダルスとフランク王国の間の防御バリアーとして、地元貴族が別個に統治する弱小王国からなる州、[[セプティマニア]]を背後にしていた。


南側で[[バレンシア州]]と、西側で[[アラゴン州]]と州境を接しており、北側で[[フランス]]([[ミディ=ピレネー地域圏]]、[[ラングドック=ルシヨン地域圏]])と国境を接している<ref name=britannica/>。地中海を挟んでバルセロナの南200kmには[[バレアレス諸島]](バレアレス諸島州)がある{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。バルセロナからスペインの首都[[マドリード]]までの距離は約600kmであり、日本では[[東京都]]から[[神戸市]]とほぼ等距離である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。地中海岸、ピレネー山脈、エブロ川流域をそれぞれ辺とする「三角形」の形状をしており、中世にはすでにカタルーニャ地方の形状が三角形であると言及されていた{{sfn|樺山|1979|p=31}}。
=== カタルーニャ君主国の成立 ===
カタルーニャ文化は中世に発展し始めた。カタルーニャ北端にかたまる小さな伯領が、これらの弱小王国から生じた。中世以降は、フランク王国と臣従関係となった[[バルセロナ伯]]領が、その他の伯領を通婚による相続で獲得し、カタルーニャ最大の領主となった。バルセロナ伯は王を名乗らなかったものの実質的に独立し、現在フランスに含まれる[[ルシヨン]]地方を含めてピレネー山脈の両側に支配を拡げ、[[カタルーニャ君主国]]を成立させた。987年、[[ユーグ・カペー]]をフランス王に承認しなかったカタルーニャは、フランスのくびきから脱した。1137年、バルセロナ伯[[ラモン・バランゲー4世]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニーラ]]が結婚し、以後[[バルセロナ家]]の下でアラゴン王国との[[同君連合]]が成立した。これは[[アラゴン連合王国]]などと呼ばれるが、アラゴンがカタルーニャを吸収したのではなく、2カ国は平等な立場であった。法制度・司法制度はそれぞれ独自のものを維持し続けた。


=== 地勢 ===
1258年のコルベイユ条約で、フランスは正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。13世紀に[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]](カタルーニャ語ではジャウマ1世)の下で[[バレアレス諸島]]や[[バレンシア州|バレンシア]]への[[レコンキスタ]]を進めた。1410年、バルセロナ家の[[マルティン1世 (アラゴン王)|マルティン1世]]が後継を定めず急逝したために、候補者を選びアラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3カ国が投票するかたちを取った[[カスペの妥協]]で、カスティーリャ・トラスタマラ家出身の[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド・デ・アンテケーラ(フェルナンド1世)]]が新国王に選ばれた。アラゴン王家は14世紀から15世紀の間(バルセロナ家、のち[[トラスタマラ家]])、優れた海運力を持ち[[シチリア王国]]や[[ナポリ王国]]も支配し、地中海帝国を築いた。
[[File:Catmorfo.png|thumb|left|カタルーニャの地理区分<br/>{{colorbox|#ff3f3f}} ピレネー山脈<br>{{colorbox|#ffa545}} 前ピレネー<br>{{colorbox|#fff915}} カタルーニャ中央低地<br>{{colorbox|#679772}} カタルーニャ海岸山脈]]


カタルーニャ州の地形は起伏に富んでおり、3つの地理区分に分けることができる。フランス国境ともなっている北のピレネー山脈、地中海沿岸にある{{仮リンク|カタルーニャ海岸山脈|es|Cordilleras Costero Catalanas}}と平地に挟まれた部分、中央部の{{仮リンク|カタルーニャ中央低地|es|Depresión Central Catalana}}である。平地は地中海岸とエブロ川流域にわずかにあるのみである{{sfn|樺山|1979|p=31}}。地中海に面した海岸線の長さは580kmに及ぶ{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。
=== 自治 ===
カタルーニャにおける議員と立法府の体系は、聖域(カトリック教会)と停戦会議(assemblees de pau i treva)で、最古の記録は1027年からあった。これらは当初、[[ビック (スペイン)|ビック]]司教ウリバ(1046年没)によって召集された特別な地方会議であった。ウリバは名の知られた扇動者であったが、会議は次第にバルセロナ伯の宮廷へ取り込まれていった。初のカタルーニャの法典(Usatges de Barcelona)は、これらの会議でなされた決定をもとにしてバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世によって発布された。


北部から中央部にはピレネー山脈の東部と前ピレネーが連なる{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|1992|p=72}}。カタルーニャ州の最高峰は、ピレネー山脈の{{仮リンク|ピカ・ダスタツ|es|Pica d'Estats}}(3,143m)である。フランス領カタルーニャに山頂がある[[カニグー山|カニゴー山]](2,785m)は、18世紀までカタルーニャ最高峰とされていた。カタルーニャ州の大部分は標高数百メートルの高原であり、ピレネー山脈の高峰を除けば急峻な山岳は存在しない{{sfn|樺山|1979|p=31}}。
バルセロナ伯がアラゴン王を兼ねるようになってから、積極的な領土拡大が続けられ、アラゴン王・バルセロナ伯の経済力・軍事力には限界が見え始めた。特に経済危機や軍事拡大期に不十分となった。軍の確保と王家の収入安定は、宮廷の堅実な拡張及びその手続きの形式化を必要とした。それはやがてカタルーニャ議会、コルツ・ジャナラル・デ・カタルーニャ(corts general de Catalunya)またはコルツ・カタラーナス(Corts catalanes)と呼ばれるようになった。


カタルーニャ州の主要な河川には、[[エブロ川]]、[[リュブラガート川|リュブラガット川]]、{{仮リンク|テル川|es|Río Ter}}があり、いずれも地中海に注いでいる<ref name=britannica/>。エブロ川はイベリア半島で最大の流域面積を持つ河川であり、カタルーニャ州最南端部で地中海に注ぐ{{sfn|樺山|1979|p=31}}。エブロ川の支流である[[セグラ川 (エブロ川水系)|セグラ川]]はピレネー山脈から南西に向かって流れ、リェイダ県にカタルーニャ中央低地を形成している。リュブラガット川の河口部にはバルセロナを中心とするバルセロナ都市圏が形成されており、ジローナ(テル川)とリェイダ(セグラ川)もそれぞれ河川の河岸に市街地が形成されている{{sfn|樺山|1979|p=31}}。
コルツはカスティーリャにおける[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]と同じく、教会の代表、封建貴族、王立都市代表の3身分から構成されていた。コルツの主な機能は、王または臣下が提案した法の承認であった。コルツの開催時期は不規則で(王が新たな収入を欲したときに行われた)、会期の間に王の制定法を承認し、議会独自の法も承認した。1283年から、全ての法律にはコルツの承認が必要とされることが決められた。コルツが開かれない時期も王権を監視するため、永久的な議会の代表部を設置した。これが[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ]](Generalitat de Catalunya、現在ではカタルーニャ自治州政府を指す)である。民族の意志が反映されるコルツと、君主に次いでカタルーニャ社会を統治する常設機関ジャナラリターは、カタルーニャの自治の象徴であった。


=== 低迷の時代 ===
=== 気候 ===
[[File:Cadaqués.jpg|thumb|right|地中海に面したリゾート地である[[カダケス]]]]
1469年、アラゴン王子フェルナンド(後の[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]])とカスティーリャ王女イサベル([[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]として1474年に即位)が結婚した。フェルナンド2世がアラゴン王となった1479年が、カスティーリャとアラゴン王国が同君連合となった年とみなされている。しかしカタルーニャ=アラゴンがカスティーリャに吸収されたのではなく、あくまで君主同士の結婚による結びつきのみであり、アラゴン、カスティーリャの領域・慣例法・独自法は維持された。


カタルーニャ州の気候は変化に富んでおり、概して[[地中海性気候]]であるものの、地域によって異なる{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。[[タラゴナ県]]、[[バルセロナ県]]、[[ジローナ県]]の沿岸部は地中海性気候であるが、
当時のカタルーニャ=アラゴンと、カスティーリャの国力の違いは明白であった。14世紀、15世紀と続いた疫病の流行、内乱の結果、カタルーニャ=アラゴンは人口を激減させていた。地中海帝国の名を誇った交易は、[[オスマン帝国]]が台頭してからは以前とは比べものにならないほど縮小されていた。[[大航海時代]]の到来で、商業活動の中心は大西洋貿易へと移っていたことも災いした。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸植民、対アメリカ大陸貿易から、カタルーニャ=アラゴンは排除されていた。富はカスティーリャに集まり、[[レコンキスタ]]の完了や王権強化に追われるフェルナンド2世はカスティーリャからカタルーニャ=アラゴンへ戻ることはまれで、[[副王]]を置いて統治を行っていた。徐々に政治的権力はアラゴンからカスティーリャへ、カスティーリャから[[スペイン帝国]]へと移っていった。
[[リェイダ県]]やバルセロナ県などの内陸部は{{仮リンク|大陸性地中海性気候|en|continental Mediterranean climate}}の様相を見せる。[[ピレネー山脈]]の山々は山岳気候か、高い頂上では[[高山気候]]である。


地中海沿岸の夏季は暑く降水量に乏しく、最高気温は摂氏30度前後となるが、海風は湿気を含んでいる。一方でピレネー山脈地方では夏季の降水量が多く、しばしば嵐となる。冬季のピレネー山脈は寒く、しばしば降雪がある。降雪は沿岸部など標高の低い場所でもしばしば見られる。春季と秋季には全域で降水量が多い。ピレネー山脈に近い山間部は別として、カタルーニャ州の大部分では雪が積もったり厳しい寒さとなることがなく、地中海岸には冬季でも暖房なしで過ごせる場所もある{{sfn|樺山|1979|p=32}}。
[[ファイル:Nova planta Catalunya 1.jpg|right|thumb|150px|カタルーニャの自治全てを廃止した新国家基本法]]
1640年から10年余り続いた[[収穫人戦争]](カタルーニャ反乱)は、スペインが世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える。この時、カタルーニャはフランス王国への編入を決議してフランス軍を迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権の保持を主張し、フランスの宰相であった[[リシュリュー]]を辟易させたと言われている。これは、中世から続くカタルーニャの自治意識を踏まえれば、フランスの絶対王政に拒否感を示したのは無理のないことだった。また、フランス軍が進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍に協力しようとせず、呆れたフランス軍がカタルーニャの防衛を放棄して撤退したほどであった。要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こうが構わない」という考え方だったのである<ref>色摩力夫『黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー』</ref>。結局1651年から1653年にかけて、フェリペ4世の庶子[[フアン・ホセ・デ・アウストリア]]により反乱は鎮定された。また、1659年の[[ピレネー条約]]でカタルーニャ北部の[[ルシヨン]]がフランスへ割譲され、今日のスペインとフランスの国境が定まった。


夏季の内陸部は沿岸部より暑く乾燥する。気温は最高で摂氏35度を超え、稀に摂氏40度に達することもある。海岸では夜になると摂氏14度から摂氏16度と涼しくなる。谷や平野では一般的に霧は見られないが、[[セグラ川 (エブロ川水系)|セグラ川]]流域などでは[[雨氷]]が冬季の風物詩となっている。ただし、イベリア半島の他地域と比べると夏季の気温は穏やかであり、概してイベリア半島の他地域よりも降水量が多い{{sfn|樺山|1979|p=32}}。
18世紀初めの[[スペイン継承戦争]](1701年 - 1714年)では、カタルーニャはバレンシアと共に[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]に対抗し、カール大公(後の[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]])の側について戦った。戦争は初めカール大公が有利だったが([[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]]、[[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]])、1710年にフェリペ5世側が徐々に巻き返した。1711年、[[ヨーゼフ1世]]が逝去すると後継問題が急浮上し、1713年に[[ユトレヒト条約]]を締結すると、1714年にカール6世は神聖ローマ皇帝に即位し、スペイン王位を断念することになった。とり残されたバルセロナはスペイン・ブルボン軍に包囲され降伏([[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])、陥落の1714年9月11日は、国としてのカタルーニャが死んだ日とされている。1716年に布告された[[新国家基本法]]([[:en:Nueva Planta decrees]])により、自治権を剥奪され単なる州の地位に転落した。この後、スペイン・ブルボン家のもとで中央集権体制が推進される。その過程でカスティーリャ語の導入(官庁・学校でのカタルーニャ語の禁止)、カスティーリャ人官僚や資本の移入が急激に進められ、カタルーニャはスペインの構成州に変えられたかのようだった。

=== 近代・現代 ===
18世紀以降はスペイン国内で最も早く[[産業革命]]が起こった。きっかけは、これまで禁止されていたカタルーニャ=新大陸間の自由貿易が解禁されたことである。最初、羊毛の織物業、鉄鋼業、製紙業の生産が増加した。次に、イギリスのように、綿織物工業が近代化の起爆剤となった。1760年、カルロス3世はバルセロナに貿易委員会を設置した。栽培技術の向上からワイン生産が伸びて輸出がさかんとなった。石炭や鉄といった原材料の資源に乏しいカタルーニャが、スペインが次々と海外領土を失い新大陸貿易の市場を失っても生産を伸ばし続けられたのは、代替となった[[蒸気機関]]のおかげであった。[[リョブレガート川]]やテル川、フルビア川沿いには、水力タービンを備えた製糸工場が立ち並んでいた。1832年、紡績と織の工程を全て蒸気機関で行うスペイン初の工場が、バルセロナに完成した。

富を蓄え、自信をつけたカタルーニャ人の間で、自らのカタルーニャ人としての出自を誇るという意味から、カタルーニャ語・カタルーニャ文化の復活([[ラナシェンサ]])が叫ばれ、[[ロマン主義]]の影響を受けた文化芸術活動が盛んになる。20世紀初頭、フランスの[[アールヌーボー]]流行を受けカタルーニャでは[[ムダルニズマ]]と呼ばれる芸術運動が華開く。[[アントニ・ガウディ|ガウディ]]は正にこの時代の人間である。
1931年に、ボルボン朝の中央集権的王政が打倒され、共和政にかわり民主的な新しい憲法が成立した。共和国政府は、カタルーニャ地方、[[バスク州|バスク地方]]、[[ガリシア州|ガリシア地方]]を独自の言語や文化を持つ地域として大幅な自治権(自治政府)を認めた。しかし、1933年末のスペイン総選挙では、右派が勝利した<ref>共和国になって選挙権を得た女性票が右派を支持した</ref>。翌1934年右派のアレハンドロ・レルーの反動的組閣人事が発表されると、[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ]]首班の[[リュイス・クンパンチ]]は、10月6日ジャナラリター庁舎のバルコニーで「[[カタルーニャ共和国]]」の成立を宣言した。
1936年、バルセロナで[[人民オリンピック]]が開催される数時間前に[[スペイン内戦]]が勃発、[[フランシスコ・フランコ]]率いる反乱軍が3年かかって[[スペイン第二共和政]]政府を倒した。内戦後のフランコ時代には、カスティーリャ語以外の言語の公での使用が大幅に制限され、カタルーニャ愛国主義と結びつく公の活動の類は禁止された。例として、アナーキズム、社会主義、民主主義、共産主義に関する本を出版したり、単に公の場でこれらの思想を議論することも禁止された。この抑圧は、政府機関や公開行事におけるカタルーニャ語の使用禁止となって現れた。カタルーニャ語での民俗行事・宗教行事は再開され、大目に見られていた。マスメディアでのカタルーニャ語使用は禁止されていたが、1950年代から劇場内で使用が許可された。また、独裁政権下でもカタルーニャ語での出版は続けられた。

フランコの没後1978年に新憲法が制定され、新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章において、カタルーニャ語はカスティーリャ語とともにカタルーニャ自治州の公用語とされた。

2006年6月18日、自治権の拡大を問う自治憲章改定案への住民投票が行われ、74%の圧倒的多数の賛成で承認された。改定案は、独立ではなく地方分権を拡大するものであった。同州は、税、司法、行政の分野でそれまで以上の権限を持つことになった。

しかし、自治では不十分であるとして、カタルーニャでは独立を求める声が一定数ある。特に、[[2010年欧州ソブリン危機|ソブリン危機]]に端を発する[[スペイン経済危機 (2012年)|経済危機]]の状況下で、経済政策においてカタルーニャが他の自治州よりも不当に扱われているとの思いから、独立勢力は勢いを得つつある<ref>{{cite news |title=カタルーニャの独立機運をたきつける経済的不満、スペイン |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2013-9-14|url=http://www.afpbb.com/article/economy/2968159/11346552 |accessdate=2013-9-14|author= Daniel BOSQUE}}</ref>。2012年11月25日のカタルーニャ州議会選挙では、独立を主張する4つの政党が合計87議席と、全体の約3分の2を獲得している<ref>{{cite news |title=スペイン・カタルーニャ州議会選で独立派が勝利、住民投票の実施は微妙 |newspaper=[[トムソン・ロイター|Reuters]] |date=2012-11-27|url=http://jp.reuters.com/article/domesticEquities2/idJPTK824387820121126 |accessdate=2013-9-14}}</ref>。9月11日は「カタルーニャの日」という記念日であり、この日には独立を求めるカタルーニャ市民が100万人単位で集まり、[[人間の鎖]]を作って政府に独立を求めている<ref>{{cite news |title=カタルーニャ独立運動 募る政府への不満 |newspaper=[[NHK]] |date=2012-11-1|url=http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/11/1101m.html |accessdate=2013-9-14}}</ref>。2014年11月9日に実施された[[2014年カタルーニャ独立住民投票|カタルーニャ州独立を問う住民投票]]ではカタルーニャ州は国家であるべきであり、独立を望む声が80.76%に達した<ref>{{Cite web
| url=http://www.cataloniavotes.eu/independence-referendum/
| title=The 9N2014 Vote
| publisher=カタルーニャ州選挙管理員会
| language=英語
| accessdate=2015-11-04
}}</ref>。2015年9月27日に投開票された[[2015年カタルーニャ自治州議会選挙|カタルーニャ自治州議会選挙]]ではカタルーニャ州独立賛成派が135議席中過半数の72議席を獲得し<ref>{{Cite web
| url=http://www.cataloniavotes.eu/the-27s2015-vote/#results
| title=The The 27S2015 Vote
| publisher=カタルーニャ州選挙管理員会
| language=英語
| accessdate=2015-11-04
}}</ref>、2015年11月9日、カタルーニャ議会は[[カタルーニャ独立手続き開始宣言]]を採択した<ref name>{{Cite news
| url=http://jp.reuters.com/article/2015/11/09/catalonia-vote-idJPKCN0SY1PR20151109
| title=カタルーニャ州、スペインからの分離独立プロセス開始へ
| work=ロイター
| publisher=[[ロイター]]
| date=2015-11-10
| accessdate=2015-11-11
}}</ref><ref name=bloomberg20151110>{{Cite news
| url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NXK3356JIJVF01.html
| title=カタルーニャ州議会、スペインからの独立プロセス開始の決議案可決
| work=bloomberg.co.jp
| publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]
| date=2015-11-10
| accessdate=2015-11-11
}}</ref>。

== 政治 ==
=== ジャナラリター(政府) ===
[[ファイル:Parlament de Catalunya façana.JPG|right|thumb|200px|カタルーニャ自治州議会]]
カタルーニャ州は、[[バスク州]]、[[ガリシア州]]、[[アンダルシア州]]と並んで、スペイン国内で高度の自治が与えられている。カタルーニャ自治憲章は、制定法の基礎であるスペイン憲法に次ぐ基本法である。カタルーニャ州の自治政府はバルセロナに置かれた[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|ジャナラリター・ダ・カタルーニャ]](Generalitat de Catalunya)として政治的に組織される。現在のジャナラリターは、[[カタルーニャ自治州議会]]、自治州首相([[:ca:President de la Generalitat de Catalunya|President]])、内閣([[:ca:Govern de Catalunya|Govern]])からなる。


ヨーロッパの地中海沿岸地域の中では相対的に降水量が多く、バルセロナの平均降水量は800mmに達する{{sfn|樺山|1979|p=32}}。降水量600mmの等雨線はほぼリュブラガット川に沿っており、リュブラガット川よりも北東側は「湿ったカタルーニャ」、南西側は「乾いたカタルーニャ」と呼ばれる{{sfn|樺山|1979|p=268}}。この等雨線は生態相の境界にもなっており、北東側は樹林が、南西側は灌木が卓越している{{sfn|樺山|1979|p=33}}。気候的な観点以外に、歴史的な観点でもリュブラガット川は北東側の旧カタルーニャと南西側の新カタルーニャを隔てる境界である{{sfn|樺山|1979|p=268}}。
中世に誕生したジャナラリターは、スペイン継承戦争後に公布された新国家基本法(1716年)によって廃止された。20世紀には[[スペイン第二共和政|第二共和政]]の下で復活したが、[[スペイン内戦]]により再び廃止され、1978年の新憲法によって再び復活した。


{{Weather box
=== 公安 ===
|location = バルセロナ
カタルーニャは、起源が18世紀に遡る独自の警察組織、モスズ・ダスクアドラ([[:ca:Mossos d'Esquadra]])を持っている。1980年以降、モスズ・ダスクアドラはジャナラリターの指揮下にある。1994年以降、スペイン国内全体を統括する[[グアルディア・シビル]]、スペイン内務省統括の国家警察([[:es:Cuerpo Nacional de Policía]])に替わって拡大した。グアルディア・シビル及び国家警察は、カタルーニャ州内での港湾、空港、沿岸、国境線、税関、身分証明、他の組織の軍事監視といった特定の機能行使のため、一部の代理部を残している。
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|Jan high C = 13.4
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{{cite web |url=http://www.worldweather.org/083/c01232.htm |title=Weather Information for Barcelona |publisher=[[世界気象機関]] |accessdate=2011-03-09}}</ref>、スペイン気象庁(AEMet)<ref>{{cite web|url=http://www.aemet.es/es/elclima/datosclimatologicos/valoresclimatologicos?l=0076&k=cat |title=Meteorología |publisher=スペイン気象庁(AEMet) |accessdate=2011-03-09}}{{リンク切れ|date=2016-01}}</ref>
|date=August 2010}}


=== 司法 ===
== 地域 ==
[[File:Eixample aire.jpg|thumb|right|300px|カタルーニャ州の州都[[バルセロナ]]]]
州内でのほとんどの裁判制度は、国の司法機関が処理している。法制度は、カタルーニャでは分けて処理されるいわゆる民法を例外として、スペイン国内一定である。


カタルーニャ州は[[バルセロナ県]]、[[ジローナ県]]、[[リェイダ県]]、[[タラゴナ県]]の4県からなり{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|1992|p=72}}、それぞれ県名と名前を同じくする[[バルセロナ]]、[[ジローナ]]、[[リェイダ]]、[[タラゴナ]]が県都である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。41の[[カタルーニャの郡|クマルカ]](郡)と947の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)がある。郡境は県境と一致しない場合があり、例えばサルダーニャ郡は東側半分がジローナ県、西側半分がリェイダ県である{{sfn|立石|奥野|2013|p=19}}。
=== 民族主義 ===
* [[カタルーニャ・ナショナリズム]]


=== 県と県都 ===
2014年11月9日に独立を問う住民投票が行われた。スペイン国の憲法裁判所は住民投票を認めず、しかし2015年9月27日の[[2015年カタルーニャ自治州議会選挙|州議会選挙]]での独立派勝利を経て、2015年11月9日にはカタルーニャ議会は独立手続き開始宣言を可決した。
{| class="wikitable" style="font-size: smaller"

! [[スペインの県|県]]
=== 政党 ===
* 主要政党
** [[カタルーニャ民主集中]](CDC)
** [[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)
** [[カタルーニャ社会主義者党]](PSC)- 全国政党[[スペイン社会労働党]](PSOE)の協力政党。
** [[カタルーニャ国民党]](PPC)- 全国政党[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)の連合政党。
** [[アスケーラ・ウニーダ・イ・アルタルナティーバ]](EUiA)- 全国政党連合[[統一左翼 (スペイン)|統一左翼]](IU)の地域政党連合。
** [[人民統一候補]](CUP)
** [[シウダダノス|シウタダンス=市民党]](C's)
** [[ジュンツ・パル・シ]](C's)- 2015年の[[2015年カタルーニャ自治州議会選挙|州議会選挙]]でCDCとERCを中心に設立された連合体。
** [[カタルーニャ・シ・カ・アス・ポット]](CSQEP)- 2015年の州議会選挙で[[ポデーモス]]とEUiAを中心に設立された連合体。
** [[カタルーニャ民主連合]](UDC)
* その他の政党
** [[バルサローナ・アン・クムー]](BeC)- 2015年の地方自治体選挙のためにポデーモスを中心に設立されたバルセロナのローカル政党。同選挙ではBeCをモデルとした連合体が躍進。同年のカタルーニャ州議選でのCSQEPのモデルとなった。
** [[集中と統一]](CiU)- CDCとUDCによって1980年に結成された政党連合。2015年に解体するまで州政治を動かしてきた。

== 県と都市 ==
カタルーニャ州は4つの県から構成される。
(2010年1月1日現在 出典:[http://www.idescat.cat/ IEC(カタルーニャ統計局)]、人口は2011年推計値)

{| class="wikitable" style="font-size: 95%;"
! 県
! 県都
! 県都
! 面積(km²)
! 面積(km<sup>2</sup>)
! 人口<br>(2010年<ref>[http://www.idescat.cat/ IEC] カタルーニャ統計局(IEC)</ref>)
! 人口(人)
! 人口密度(人/km²
! 人口密度<br>(人/km<sup>2</sup>
! 自治体数
! 自治体数
! 単一居住地域数<ref>単一居住地域とはカスティーリャ語で[[:es:Entidad singular de población|Entidad singular de población]]で、人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが。地方、過疎地域などは、一つの自治体の中にいくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる</ref>
! 単一居住<br>地域数<ref group="注">{{仮リンク|単一居住地域|es|Entidad singular de población}}は人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが、大都市以外の地域や過疎地域などは、一つの自治体の中にいくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる</ref>
|-
|-
| [[バルセロナ県]]
| [[バルセロナ県]]
191行目: 240行目:
| [[リェイダ県]]
| [[リェイダ県]]
| [[リェイダ]]
| [[リェイダ]]
| style="text-align:right" |12,168.4
| style="text-align:right" |12,168.4
| style="text-align:right" |441,858
| style="text-align:right" |441,858
| style="text-align:right" |36.1
| style="text-align:right" |36.1
197行目: 246行目:
| style="text-align:right" |1,020
| style="text-align:right" |1,020
|-
|-
| [[タラゴナ県|タラゴ]]
| [[タラゴナ県]]
| [[タラゴナ]]
| [[タラゴナ|タラゴーナ]]
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| style="text-align:right" |6,308.2
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| style="text-align:right" |810,564
205行目: 254行目:
| style="text-align:right" |475
| style="text-align:right" |475
|-
|-
| style="text-align:center" |'''計'''
! style="text-align:center" |カタルーニャ州
|
|
| style="text-align:right" |'''32,108.0'''
! style="text-align:right" |32,108.0
| '''7,535,251'''
! style="text-align:right" |7,535,251
| style="text-align:right" |'''234.0'''
! style="text-align:right" |234.0
| style="text-align:right" |'''947'''
! style="text-align:right" |947
| style="text-align:right" |'''3,898'''
! style="text-align:right" |3,898
|}
|}
=== 主な自治体 (2010年)===
41のクマルカ([[カタルーニャの郡]])と947の[[地方自治体|自治体]]がある。


=== 主な自治体 ===
{| class="wikitable" style="font-size: 95%;"
{| class="wikitable" style="font-size: smaller"
! 順位
! 順位
! [[地方公共団体|自治体]]
! [[ムニシピオ|基礎自治体]]
! [[スペインの県|県]]
! 県
! 人口
! 人口<br>(2010年)
|-
|-
| 1
| 1
| [[バルセロナ]]
| [[バルセロナ]]
| バルセロナ県
| バルセロナ県
| 1,619,337
| style="text-align:right" |1,619,337
|-
|-
| 2
| 2
| [[スピタレート・ダ・リュブラガート]]
| [[ロスピタレート・デ・リョブレガート|ロスピタレート・ダ・リュブラガート]]
| バルセロナ県
| バルセロナ県
| style="text-align:right" |258,642
| style="text-align:right" |258,642
248行目: 296行目:
|-
|-
| 6
| 6
| [[タラゴナ|タラゴ]]
| [[タラゴナ]]
| タラゴナ
| タラゴーナ県
| style="text-align:right" |140,184
| style="text-align:right" |140,184
|-
|-
269行目: 317行目:
| 10
| 10
| [[レウス]]
| [[レウス]]
| タラゴナ県
| タラゴナ県
| style="text-align:right" |106,622
| style="text-align:right" |106,622
|}
|}


<gallery>
ジローナ県の県都であるジローナは96,236人で11番目である。上記以外の主な都市には、[[フィゲラス|フィゲーラス]]、[[トゥルトーザ]]がある。
File:Girona panoramic.JPG|[[リェイダ県]]の県都[[リェイダ]]
File:E5320-Vista-de-Tarragona.jpg|[[タラゴナ県]]の県都[[タラゴナ]]
File:Girona panoramic.JPG|[[ジローナ県]]の県都[[ジローナ]]
</gallery>


== 歴史 ==
=== 4プロビンシア(provincies)から7ベゲリア(vegueries)へ ===
=== 先史時代 ===
2010年7月27日カタルーニャ州議会でベゲリアス法案が賛成多数で可決された(賛成:[[カタルーニャ社会主義者党]](PSC)、[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)、ICV-EUiA、反対:[[集中と統一|CiU]]、国民党他)。現行のスペインの50県体制、カタルーニャについては4県体制はスペイン支配の象徴でもあり、今春から与党提議の7 vegueriesへの移行法案が議論されていた。Vegueriaとは中世から1716年のDecreto de Nueva Planta de 1716が施行されるまでの間とられていた制度である。それによると、現在カタルーニャ州は4つの県(Provincia)、バルセロナ県、タラゴナ県、ジローナ県、リェイダ県に分けられているが、新制度では7つの[[:ca:Vegueria|Vegueria]]、バルサローナ(Barcelona)、カタルーニャ・サントラル(Catalunya Central)、ジローナ(Girona)、リェイダ(Lleida)、タラゴーナ(Tarragona)、テーラス・デ・レブラ(Terres de l'Ebre)、アルト・ピリネウ(Alt Pirineu)に分けられるとされる。<!--これを機に新地名はカタルーニャ語により近いかな表記を採用したいと思う。カタルーニャ語ではアクセントのない母音は曖昧音化されるので、アクセントのないeはかな表記した場合は、 eよりもaの音価により近い、もとより、8母音システムのカタルーニャ語を5母音システムの日本語で表記すること自体無理があるのは承知しているが、あえて、より近い表記を試みたい。したがって、バルセロナはバルサローナに、Terresは最終音節のeにはアクセントが落ちないのでeではなく曖昧母音になるためテーラスの表記にした。またVegueriaの訳語をどうするか、検討したいと思う。-->
[[File:Caune de l'arago.jpg|thumb|right|カタルーニャ最古の人類の痕跡が残るアラゴ洞窟]]


カタルーニャ地方に残る最古の人類の痕跡は、[[トータヴェル]](現フランス・ピレネー=オリアンタル県)近郊の{{仮リンク|アラゴ洞窟|ca|Cova de l’Aragó}}に残る[[氷河期|リス氷期]](約30万年前)のものである{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。中期旧石器時代(紀元前8万年-紀元前3万5000年)にはカタルーニャの大部分に[[ネアンデルタール人]]が住んでおり、後期旧石器時代(紀元前3万5000年-紀元前1万年)にはカタルーニャ全体で5,000-8,000の人口があったとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。旧石器時代にはカタルーニャ北東部([[ジロネース|ジルネース]]、アンプルダー)と南部(バッシュ・カム、プリウラット)に居住者が多く、地方外の[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]や[[ガンディア]](いずれも地中海沿岸で現バレンシア州)などの地域とも交流があった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。
== 地理 ==
[[ファイル:Catmorfo.png|thumb|left|カタルーニャの地理区分:<br/>
'''赤'''. ピレネー山脈<br/>
'''橙色'''. 準ピレネー山脈<br/>
'''黄'''. セントラル盆地<br/>
'''緑'''. カタルーニャ海岸山脈]]
カタルーニャ州は、3つの地理区分に分けることができる。フランス国境ともなっている北のピレネー山脈、地中海沿岸にあるカタルーニャ海岸山脈([[:es:Cordilleras Costero Catalanas]])と平地に挟まれた部分、中央部のセントラル盆地([[:es:Depresión Central Catalana]])である。


[[新石器時代]](紀元前6000年-紀元前3000年)にはムンサラット文化が生まれ、集団埋葬が行われた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。[[青銅器時代]](紀元前3000年-紀元前2000年)には大きな部族が誕生し、北部では[[巨石記念物]]の文化が発達した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。[[鉄器時代]](紀元前2000年-紀元前1000年)には[[ケルト人]]が[[ピレネー山脈]]を超えてやってきて、火葬の文化や金属加工の技術をもたらした{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。
カタルーニャ州内の最高峰は、ピレネー山中にあるピカ・ダスタツ([[:es:Pica d'Estats]]、3,143m)である。18世紀までカタルーニャ最高峰とされていたカニゴー山(Canigó、フランス語では[[カニグー山]])は、2,785mである。カタルーニャの州内を、西から東へと大河[[エブロ川]]が流れ、[[ムンシアー]]で地中海へ注ぐ。


=== 気候 ===
=== 古代 ===
[[ファイル:Sant Climent de Taüll.jpg|thumb|150px|right|ピレネの丘陵あるウイ]]
[[File:Tarragona.Pont del diable aqüeducte.jpg|thumb|left|マ時代建設されたラゴナの水道橋]]
[[ファイル:Cadaqués.jpg|thumb|150px|right|地中海に面したリゾート地、カダケス]]
カタルーニャ州の気候は変化に富んでいる。[[タラゴナ県]]、[[バルセロナ県]]、[[ジローナ県]]のある海岸部は人口が多く、[[地中海性気候]]である。[[リェイダ県]]や[[バルセロナ県]]内陸部を含む内陸地方は、ほとんどが大陸性地中海性気候([[:en:continental Mediterranean climate]])の様相を見せる。[[ピレネー山脈]]の峰峰は山岳気候か、高い頂上では[[高山気候]]である。


エーゲ海の[[ロドス島]]からはギリシア人がやってきて、紀元前776年にはカタルーニャ北東端の[[ロザス湾]]に面する[[ロザス]]に植民市を建設した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。紀元前575年頃には小アジアの[[ポカイア]]人が[[アンプリアス]]を建設している{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=11-14}}。
地中海地方では、夏は乾燥して暑く、海風は湿気を含んでいる。夏季の最高気温は30℃前後となる。夏季はピレネー山脈地方で雨が多い時期にあたり、しばしば嵐となる。冬は涼しいか、その状況のために寒い。ピレネー山脈では、しばしば降雪があり、時には海岸部のような標高の低い場所でも見られる。春と秋は全体として典型的な雨季にあたる。


カタルーニャはローマ人の[[イベリア半島]]征服の拠点のひとつとなったが、[[カルタゴ]]人と衝突して地中海沿岸で領土争いを繰り広げた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=14-16}}。[[第二次ポエニ戦争]]の紀元前218年にはカルタゴの[[ハンニバル]]がカタルーニャを通ってローマに進軍したが、紀元前216年にはローマが[[エブロ川]]以北の土地を占領し、そこにタラコ(現・[[タラゴナ]])を建設した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=14-16}}。紀元前197年にはイベリア半島の北半分に{{仮リンク|ヒスパニア・キテリオール|en|Hispania Citerior}}属州(共和政ローマ期)が設置され、ローマ人はこの地方のローマ化を推進した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=14-16}}。タラコに加えて[[バルセロナ]]と[[トゥルトーザ]]という3つのローマ植民市が建設され、ローマ人は旧ギリシア植民市の港を流用した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=14-16}}。タラコはヒスパニア・キテリオール属州から再編された[[ヒスパニア・タラコネンシス]]属州(帝政ローマ期)の首都となり、ローマ支配下のイベリア半島でもっとも重要な都市だった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=14-16}}。
内陸部は、夏に海岸部より暑く乾燥する。気温は最高で35℃を超え、幾日か40℃に達することもある。海岸では夜になると気温14℃から16℃と涼しくなる。霧は谷や平野では通常見られず、特にありえるのはセグラ川などで冬の風物詩となっている[[雨氷]]である。

3世紀以後には北方から[[フランク族]]などがタラコネンシス属州に侵入し、5世紀には農民の反乱が興って多くの町が放棄された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=16-19}}。480年以降には西ゴート族がカタルーニャを含むイベリア半島の占領を進めていった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=16-19}}。テウディス(531年-548年在位)は短期間バルセロナを拠点としたが、後継者のアタナギルドは[[トレド]]に首都を移し、589年にはイベリア半島が統一されて西ゴート族の中央集権国家が誕生した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=16-19}}。カタルーニャは周縁の地位に甘んじ、一方で一定の独立性を保った{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=16-19}}。

=== 中世 ===
[[File:Condados de la Marca.svg|thumb|left|9世紀のスペイン辺境領]]

711年には[[イスラーム教徒]]の[[ムーア人]]がイベリア半島に侵入すると、その分遣隊はわずか数年間にリェイダ、ジローナ、タラゴナ、バルセロナが相次いで征服した{{sfn|関|立石|中塚|2008a|pp=198-200}}。カタルーニャはイスラーム教徒の支配下に入り、[[リュブラガート川|リュブラガット川]]以北の「旧カタルーニャ」ではイスラーム教徒の支配が100年間にも満たなかったが、リュブラガット川以南の「新カタルーニャ」は12世紀半ばまでイスラーム教徒の支配下にあった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=16-19}}。

785年には[[カロリング朝]][[フランク王国]]の[[カール大帝]]軍が[[ジローナ]]を征服し、801年にはフランク王国の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ1世]](敬虔帝)軍が包囲戦の末にバルセロナを征服した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=20-26}}{{sfn|関|立石|中塚|2008a|pp=198-200}}。これによって旧カタルーニャがフランク王国に編入され、795年にはイスラーム勢力に対する緩衝地帯の役割を果たす[[スペイン辺境領]]が設置された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=20-26}}。878年には{{仮リンク|ギフレー1世 (バルセロナ伯)|label=ギフレー1世|es|Wifredo el Velloso}}(多毛伯)が[[バルセロナ伯]]に任ぜられ、後の歴史家はギフレー1世がカタルーニャの初代君主であると考えている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=20-26}}。ギフレー1世はその子孫がバルセロナ伯を継承する世襲制を確立させ、この王朝は1412年まで続いた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=20-26}}。985年から988年にはイスラーム勢力の[[マンスール|アル=マンスール]]軍がバルセロナの町を破壊して略奪したが、これに対してフランク王国が救援を行わなかった。このことがきっかけでバルセロナ伯は[[ユーグ・カペー]]を[[西フランク王国|西フランク]]王として承認することを拒否し、987年に[[カタルーニャ君主国]]が生まれた。カタルーニャが主権への道を歩み出したのはこの1000年頃であるとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=20-26}}。

=== カタルーニャ君主国 ===
[[File:Pt-Reconquista2.jpg|thumb|right|イベリア半島におけるレコンキスタの経過]]

カタルーニャ君主国には封建制が定着していき、他のキリスト教勢力とともに[[レコンキスタ]](国土回復運動)に関与した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。1090年にはタラゴナ、1148年にはトゥルトーザ、1149年には[[リェイダ]]がキリスト教徒の手に戻り、1153年にはカタルーニャ君主国の境界がエブロ川まで南下した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。新カタルーニャに住んでいたイスラーム教徒には権利や宗教が保障され、キリスト教徒は征服した土地への植民を行った{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。

==== アラゴン=カタルーニャ連合王国 ====
[[File:Petronila Ramon Berenguer.jpg|thumb|left|[[アラゴン連合王国|アラゴン=カタルーニャ連合王国]]を成立させたペトロニーラ(左)とラモン・バランゲー4世(右)]]

1137年にはバルセロナ伯[[ラモン・バランゲー4世]]が、隣国[[アラゴン王国]]の女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニーラ]]と婚姻関係を結んで王位継承権を得た{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}{{sfn|関|立石|中塚|2008a|pp=212-216}}。ここに[[アラゴン連合王国|アラゴン=カタルーニャ連合王国]]と呼ばれる[[同君連合]]が成立したが、バルセロナ伯とアラゴン王国の独自性は維持された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。「カタルーニャ」という名称が初めて文献に登場するのはこの時代であり、アラゴン王国と対比してバルセロナ伯が統治する土地を指す際に使用された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。1147年にはカスティーリャ王国の[[アルメリア]]征服を支援したことで、[[アリカンテ]]までの地中海沿岸がカタルーニャの土地となり、ラモン・バランゲー4世はイベリア半島でもっとも強大な権力を持つ君主となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=26-31}}。

{{File clip |Jaume I Palma.jpg | width =230 | 0 | 0 | 40 | 0 | w = 706 | h = 1569 | バレアレス諸島を再征服したハイメ1世}}

以後のバルセロナ伯はピレネー山脈以北への進出を試み、1179年にはアルフォンス1世が[[ラングドック]]地方をバルセロナ伯の支配下に置いた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=31-35}}。アルフォンス1世の治世(1162年-1196年)でピレネー以北の領土が最大に達したが、1213年にはラングドック地方を手放した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=31-35}}。[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]](ジャウマ1世)(征服王)は1229年にイスラーム教徒からマヨルカ島を奪還し、1231年にはバレアレス諸島全体を征服し、1238年にはバレンシア王国を征服し、1265年から1266年にはムルシアを征服した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=31-35}}。ハイメ1世はコルツと呼ばれる身分制議会(聖職者・貴族・王領)を導入し、財政・司法・立法などに権限を及ぼした{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=31-35}}。定期的に開催されたコルツは13世紀末に最盛期を迎え、1283年にはすべての法律の制定にはコルツの承認が必要であるとする決定が下されている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。1354年にはジャナラリタット(議会の決定の執行機関)が常設され、君主の不在時や緊急時にはジャナラリタットが国家を統治している{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。1258年にはハイメ1世とフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の間で{{仮リンク|コルベイユ条約|en|Treaty of Corbeil (1258)}}が結ばれ{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=31-35}}、フランスは正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。

1282年にはイタリア半島の南に位置する[[シチリア島]]の住民がアンジュー朝に対する暴動[[シチリアの晩祷]]を起こし、アラゴン王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペラ2世]]がシチリア王に据えられた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}{{sfn|関|立石|中塚|2008a|pp=222-226}}。カタルーニャとアラゴンの傭兵部隊である[[アルモガバルス]]は[[ビザンツ帝国]]の[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]に雇われ、[[オスマン帝国]]軍を小アジアまで押し戻した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。しかし、雇用主のビザンツ帝国が1305年にアルモガバルスの首領ルジェ・ダ・フローを暗殺したことで、アルモガバルスはビザンツ帝国内で「カタルーニャの復讐」と呼ばれる報復を行い、[[アテネ公国]]を占領、ネオパトリア公国を樹立した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。ハイメ1世の死去後、次男の{{仮リンク|ジャウメ3世 (マヨルカ王)|label=ジャウメ3世|en|James III of Majorca}}に与えられたマヨルカ島は独立した[[マヨルカ王国]]となっていたが、1344年には[[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペラ3世]]がマヨルカ王国をアラゴン=カタルーニャ連合王国の手に戻した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。カタルーニャが「君主国」(principat)と呼ばれるようになったのはペラ3世の治世である{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。

[[File:Imperi de la Corona d'Aragó.png|thumb|left|アラゴン=カタルーニャ連合王国の最大版図(1443年)]]

ハイメ1世がカタルーニャの地中海進出の基礎を築き、その後継者らが「カタルーニャ帝国」とも呼ばれる地中海帝国を形成させた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。カタルーニャは海図の製作技術に優れ、船足の早いガレー船を建造することができ、地中海沿岸の主要な港に商品の集散基地を持った{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。カタルーニャ人商人は、北アフリカのマグレブ地方、ギリシャの[[ロドス島]]、[[キプロス島]]、西アジアの[[ダマスカス|ダマスクス]]などにも勢力を伸ばし、地中海中央部ではシチリア島が政治的な拠点となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。絶頂期は1320年-1330年頃まで続いたが、14世紀にはペストの流行、イナゴの大量発生、地震、飢饉などの災難に見舞われ、1390年のカタルーニャの人口は1300年の75%にまで落ち込んだ{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。この一方で、首都バルセロナには地中海全体に権限が及ぶ商業組織ができ、15世紀初頭のバルセロナには商品取引所が存在した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。14世紀中頃には海事慣習法集が作成され、1484年に刊行されると数世紀に渡って地中海地域共通の慣習法として用いられた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。

1410年にはバルセロナ伯の[[マルティン1世 (アラゴン王)|マルティン1世]]が男子の跡継ぎを残さずに急逝したために、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3王国が投票する[[カスペの妥協]]で後継者を選出し、カスティーリャ・トラスタマラ家出身の[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド・デ・アンテケーラ]](フェルナンド1世)がカタルーニャ君主国の新君主に選ばれた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=36-42}}。1443年にはカタルーニャのアルフォンス5世が[[ナポリ王国]]の王位に就いた。アルフォンス5世の治世にはイベリア半島、イタリア半島(ナポリ王国)、アルバニア、スロベニア、マルタ、エーゲ海のいくつかの島が支配下にあり、アラゴン=カタルーニャ連合王国の版図は最大となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=44-45}}。北アフリカにあるいくつかの王国からは貢物が届き、カタルーニャの船舶はエジプトの港に自由に入港できた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=44-45}}。

=== 低迷・従属の時代 ===
==== スペイン王国時代 ====
[[File:Catalonia2.png|thumb|right|1659年のピレネー条約でフランスに割譲された地域(深緑)とカタルーニャ(淡緑)]]

1469年、アラゴン王子フェルナンド(後の[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]])とカスティーリャ王女イサベル([[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]として1474年に即位)が結婚した。1479年にはフェルナンド2世がアラゴン王となり、この年はスペインが統一された年、カタルーニャにとって政治的独自性を奪われた年であるとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。この婚姻によってアラゴン=カタルーニャ連合王国とカスティーリャ王国が統合されたわけではなく、それぞれの領域の法制度は維持された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。しかし、当時のカタルーニャ=アラゴンとカスティーリャの国力の違いは明白であった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。14世紀と15世紀にカタルーニャの人口は激減し、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。さらには[[大航海時代]]が到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋に移っていた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸との貿易や植民活動から、カタルーニャ=アラゴンは排除された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。16世紀と17世紀はカタルーニャにとって「衰退の時代」と呼ばれる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=49-52}}。地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向は強まり、フェルナンド2世は[[副王]]を置いてカタルーニャを統治した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=46-48}}。

1640年から10年余り続いた[[収穫人戦争]](カタルーニャ反乱)は、スペインが世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える<ref name=shikama>{{cite book |last=色摩 |first=力夫 |title=黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー |publisher=中央公論社 |year=1996 |pages=}}</ref>。この時、カタルーニャはフランス王国への編入を決議してフランス軍を迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権の保持を主張し、フランスの宰相であった[[リシュリュー]]を辟易させたと言われている<ref name=shikama/>。これは、中世から続くカタルーニャの自治意識を踏まえれば、フランスの絶対王政に拒否感を示したのは無理のないことだった<ref name=shikama/>。また、フランス軍が進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍に協力しようとせず、呆れたフランス軍がカタルーニャの防衛を放棄して撤退したほどであった<ref name=shikama/>。要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こうが構わない」という考え方だったのである<ref name=shikama/>。1652年に降伏したバルセロナはスペイン王国の[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の支配下に戻り、[[フアン・ホセ・デ・アウストリア]]副王によって融和政策がとられた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=49-52}}。[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]](1635年-1659年)後の1659年に結ばれた[[ピレネー条約]]では、カタルーニャの意思とは無関係に{{仮リンク|ルセリョー|en|Rossello (comarca)}}郡([[ペルピニャン]]など)、{{仮リンク|クンフレン|en|Conflent}}郡([[プラード (ピレネー=オリアンタル県)|プラード]]など)、{{仮リンク|バリャスピー|en|Vallespir}}郡([[セレ]]など)、{{仮リンク|カプシー|en|Capcir}}郡(Formiguèresなど)、{{仮リンク|アルタ・サルダーニャ|en|French Cerdagne}}郡などがフランスへ割譲された([[フランス領カタルーニャ]]){{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=49-52}}。

==== 18世紀 ====
[[File:Sitio-barcelona-11-septiembre-1714.jpg|thumb|left|スペイン継承戦争中の第3次バルセロナ包囲戦]]

1700年に[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が死去すると[[スペイン継承戦争]](1701年-1714年)が起こった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]は中央集権的・権威主義的であったため、カタルーニャはバレンシアとともにカール大公(後の[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]])の側について戦い、オーストリアとイギリスはバルセロナでカール大公を王座に就けた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。1705年の[[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]]、1706年の[[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]]はカール大公側が優勢だったが、徐々にフェリペ5世側が巻き返した。1711年にカール大公の神聖ローマ皇帝への即位が決定し、カール大公がバルセロナを去ると、その後はカタルーニャが主要な戦場となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。[[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]]を経て1714年9月11日にはバルセロナが陥落し、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。自由を奪われた日である9月11日は、後に「[[ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ|ディアーダ]]」と呼ばれる国民の祝日となっている。1716年に布告された{{仮リンク|新国家基本法|en|Nueva Planta decrees}}によって議会や政府などが廃止され、公的な場でカタルーニャ語を使用することが禁じられた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。カタルーニャの独立性が奪われた一方で、この中央集権化で18世紀の経済発展の引き金になったとする見方もある{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=52-54}}。

[[File:Nova planta Catalunya 1.jpg|right|thumb|150px|新国家基本法(1716年)]]

1726年から1728年頃にはカタルーニャ経済が上向き、人口が増大した。1718年のバルセロナの人口は3万4000人だったが、1789年には10万人に、18世紀末には12万5000人に達したとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}。18世紀前半には特に農業が発展し、ブドウの栽培が拡大した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=288-290}}。18世紀後半には商業が発展し、小麦の輸入、ワインと蒸留酒の輸出が行われた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}。新大陸市場はスペインの他地域に独占されていたが、1778年にはカタルーニャの商人に対してアメリカ全地域の貿易許可が下りた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}。羊毛産業・製紙業・製油業・製鉄業が活性化された後に、18世紀後半には綿織物工業が生まれ、インド更紗がカタルーニャの綿織物の名声を築いた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}。カタルーニャはスペイン随一の経済先進地域となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=54-58}}。

カタルーニャの中でも沿岸部はブドウ・アーモンド・ハシバミなどの商業作物の栽培で繁栄したが、内陸部は小麦とオリーブという伝統的な農業に依存していた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。カタルーニャ内での農村部から都市部への移動が行われ、19世紀前半にバルセロナは人口が急増した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。

==== 19世紀 ====
[[File:ImpulsorsTrenMataro.jpg|thumb|left|1848年にスペインで初めて開通した鉄道(バルセロナ=マタロー)]]

1832年にはミュール紡績機が初めて導入され、[[リュブラガート川]]や{{仮リンク|テル川|es|Río Ter}}に沿って水力を利用するいくつもの工業団地が建設された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。1848年にはカタルーニャ初の鉄道がバルセロナ=[[マタロー]]間に開通し、1860年代までに主に地元資本によって鉄道網が築かれた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。1844年のバルセロナ銀行を契機に相次いで銀行が設立され、1851年にはバルセロナ株式市場が設立された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。1830年代には初めて労働者によるストライキが行われ、1840年にはスペイン初の労働組合と機織工組合がカタルーニャで生まれた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。1787年には9万5000人だったバルセロナの人口は、工業化の影響で1857年には18万4000人と倍増し、カタルーニャ全体の14%を占めた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=298-301}}。バルセロナでは繰り返し都市暴動が起こり、共和主義・民主主義を求める声が強まり、労働者が組織だって闘争を行った{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=298-301}}。

1856年時点でカタルーニャの人口はスペイン全体の10%にすぎなかったが、綿工業ではスペイン全体の94%、綿工業を含む繊維工業では66%、繊維工業を含む製造業では26%を占めている{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=288-290}}。19世紀半ばにはカタルーニャが「スペインの工場」となったものの、バスク地方と違って石炭・鉄鉱石の天然資源を欠くカタルーニャでは製鉄業は栄えず、さらなる工業化の障壁となった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。1860年代末には連邦共和主義が台頭し、労働運動が盛んに行われた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=302-304}}。

[[File:Primera Guerra Carlista.svg|thumb|right|第一次カルリスタ戦争におけるカルリスタ勢力の分布図]]

[[第一次対仏大同盟]]の一環である{{仮リンク|ピレネー戦争|en|War of the Pyrenees}}(1793-1795、大戦争)では、カタルーニャを中心とするスペイン=フランス国境地帯が戦場となり、一時はカタルーニャ北部がフランス軍に占領された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=290-291}}。1790年代後半から1800年代のスペインはイギリスに対して長期間の抗争を行い、これによってカタルーニャ経済は大きな影響を受けた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=290-291}}。[[半島戦争]](スペイン独立戦争、1808年-1814年)中にはフランス軍のデュエーム将軍がバルセロナに入城したが、カタルーニャ全土でフランスに対する抵抗運動が起こった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=58-60}}。スペイン独立戦争では多くの犠牲者が出て、カタルーニャ社会は不安定な状況となった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=58-60}}。1820年にはバルセロナでクーデターが起こり、1822年には農民反乱が起こっている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=58-60}}。神聖同盟諸国はこの状況を憂慮し、1823年から1827年にはフランス軍がスペインに侵入してバルセロナを占領している{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=58-60}}。1833年にはスペイン王国の摂政となった自由主義派の[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]が中央集権をいっそう推し進めたため、保守主義派(カルリスタ)は前王の弟である[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|カルロス]]を擁立してマリア・クリスティーナに対抗{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=295-296}}。[[カルリスタ戦争|第一次カルリスタ戦争]](1833年-1840年)が勃発し、カルリスタ側に就いたバルセロナでは自由主義的法制に対して蜂起が起こっている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}。1842年にはバルセロナの職人集団が摂政[[バルドメロ・エスパルテロ]]将軍に対して反乱を起こし、スペイン軍によるバルセロナ包囲戦が行われた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}。1846年から1849年にはカタルーニャを舞台として第二次カルリスタ戦争が起こっている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}。

1868年にはカタルーニャ地方出身の[[フアン・プリム]]将軍がクーデター(九月革命)を起こしてエスパルテロ政権を倒しているが、このクーデターはカタルーニャがスペインを連邦制に向かわせた試みであるとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}。カタルーニャでの第三次カルリスタ戦争(1872年-1876年)はバスク地方ほどの勢力には至っていない{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=302-304}}。1873年に[[スペイン第一共和政]]が成立すると、[[エスタニスラオ・フィゲラス]]、{{仮リンク|フランセスク・ピ・イ・マルガイ|es|Francisco Pi y Margall}}というカタルーニャ人が大統領に就任している{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=302-304}}{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=62-64}}。第一共和政は約2年間の短命に終わり、1875年には[[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]が即位して王政復古がなされた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=302-304}}。

[[File:PiC-Casarramona-0294.JPG|thumb|left|カタルーニャ三大工場建築のひとつ「カザラモーナ工場」(1912年)]]

19世紀半ばには{{仮リンク|ブエナベントゥラ・カルロス・アリバウ|es|Bonaventura Carles Aribau}}が書いたカタルーニャ語詩『祖国』(1833年)を発端として、[[カタルーニャ語]]とカタルーニャ文化の復興運動である[[ラナシェンサ]](ルネサンス)運動が興った{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=304-306}}。当初は教養人による民俗や文芸の再評価に過ぎなかったものの、やがてカタルーニャ語復権運動に変化し、1871年には[[アンジャル・ギマラー]]によって文芸誌『ラ・ラナシェンサ』が創刊された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=304-306}}。19世紀末には[[モデルニスモ|ムダルニズマ]]という建築や美術中心の文芸運動が興り、建築の分野では[[アントニ・ガウディ]]や[[リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー|リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー]]など、美術の分野では[[ラモン・カザス]]や[[サンティアゴ・ルシニョール]]などが活躍した。

王政復古後のスペインでは保守党と自由党という二大政党制が築かれたが、1880年代にはカタルーニャ主義を掲げる勢力が台頭し、1891年設立のカタルーニャ主義連合は中央政府に対してカタルーニャの自治を要求するマンレザ綱領を策定した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=306-309}}。{{仮リンク|アンリク・プラット・ダ・ラ・リバ|es|Enric Prat de la Riba}}は1901年に{{仮リンク|リーガ・ラジウナリスタ|es|Lliga Regionalista}}(地域主義連盟)を結成し、この地方のブルジョワの支持を得た{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=306-309}}。19世紀末のカタルーニャ地方はスペイン全体の約10%の人口を有していたが、繊維生産の約80%、国内総生産の15%以上を占めており、「スペインの工場」と呼ばれた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=306-309}}。鉄鉱石や石炭などの資源を欠くために製鉄業は発展しなかったが、綿工業ではスペインで独走状態にあった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。1898年のスペインの[[米西戦争]]敗北とキューバの喪失はカタルーニャ経済にも打撃を与えたが、この敗北でカタルーニャ主義は勢いを強めた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=306-309}}。

==== 20世紀 ====
[[File:Semana Trágica (1909).jpg|thumb|left|[[悲劇の一週間]]で煙を上げるバルセロナの町(1909年)]]

20世紀前半のバルセロナは人口が100万人を超え、域外出身者比率が34.2%となった結果、住宅・衛生環境・教育などの移民問題が発生した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|p=310}}。20世紀初頭には水力発電による電化が進み、[[第一次世界大戦]]の戦争特需では金属・化学・セメントなどの産業が発展した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=310-311}}。1909年7月末には「[[悲劇の一週間]]」と呼ばれる市民暴動・政府軍による弾圧が起こり、113人が死亡して数千人が投獄された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=311-312}}。1914年にはカタルーニャの4県による連合体、{{仮リンク|マンクムニタット・ダ・カタルーニャ|label=マンクムニタット|es|Mancomunidad de Cataluña}}が発足した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=312-315}}。言語学者の[[プンペウ・ファブラ]]はカタルーニャ語の文法・正書法・辞書を著してカタルーニャ語の擁護運動に大きく貢献した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=312-315}}。1917年には[[リュイス・クンパニィス|リュイス・クンパンチ]]などが主導するカタルーニャ共和党(現・[[カタルーニャ共和主義左翼]]:ERC)が設立され、1919年には{{仮リンク|フランセスク・マシア|es|Francesc Macià}}がナショナリスト民主連合を組織した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=312-315}}。

[[File:Macia 2a tongada scans 003 editora 8 44 1.jpg|thumb|right|初代ジャナラリタット首相のマシア]]

1923年には[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]軍事独裁政権が誕生し、公共の場でのカタルーニャ語使用や民俗舞踊である{{仮リンク|サルダーナ|ca|Sardana}}の禁止、民族旗の追放など、カタルーニャに対する弾圧が行われた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=315-316}}。マシアらは国際的反響を呼ぶ抵抗運動を行い、7年間の独裁政権を経て[[カタルーニャ・ナショナリズム]]は急進化した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=315-316}}。1931年には[[スペイン第二共和政]]が成立すると、[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|ジャナラリタット]](自治政府)が発足し、1932年9月にはスペイン国会で{{仮リンク|カタルーニャ自治憲章 (1932年)|label=1932年カタルーニャ自治憲章|es|Estatuto de autonomía de Cataluña de 1932}}が承認された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=316-318}}。10月には初のカタルーニャ議会選挙が開催され、ERCのマシアが初代カタルーニャ首相に就任した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=316-318}}。1934年にはスペイン国会で右派が政権を獲得し、中央政府に反発したクンパンチが逮捕されて自治憲章が無期限停止となった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=318-319}}。1936年には再び左派の人民戦線が勝利し、カタルーニャ自治憲章が復活した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=318-319}}。

1936年にはバルセロナで[[人民オリンピック]]が開催される予定だったが、開会の直前に[[スペイン内戦]]が勃発した。1938年3月にはバルセロナが反乱軍による無差別爆撃を受け、4月にはリェイダが占拠された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=319-322}}。フランコによってカタルーニャ自治憲章が廃止され、1939年1月26日にはバルセロナが反乱軍の手に陥落した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=319-322}}。カタルーニャにおけるスペイン内戦の犠牲者数は7万人以上に上るとされる{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=319-322}}。カタルーニャでは共和国側の犠牲者が多かった一方で、フランコ体制を支持していた多数の聖職者が反体制派のアナーキストによって殺害されている<ref name=endou2011>{{citation |last=遠藤 |first=美純 |title=スペイン「歴史的記憶法」とカタルーニャ |journal=ソシオロジカ |publisher=創価大学出版会 |year=2011-03 |volume=35 |issue=1・2 |pages=105-119}}</ref>。

==== フランコ体制下(1939-1975) ====
1939年以後のフランコ体制下のカタルーニャでは、カタルーニャ語とカタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧がなされた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-324}}{{sfn|田澤|2013|pp=71-76}}。自治政府や自治憲章が廃止され、首相のクンパンチは銃殺されたほかに、多くの共和国支持者が投獄・処刑された{{sfn|田澤|2013|pp=71-76}}。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名が禁じられ、スペイン継承戦争後にカタルーニャ自治の象徴となったカザノバの像は撤去された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}<ref name=endou2011/>。1939年から1953年までのカタルーニャ地方では、クンパンチも含めて3,585人が軍法会議にかけられて銃殺された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-324}}。

国際的孤立や[[マーシャル・プラン]]からの除外などが影響して、1940年代のスペイン経済は壊滅的な状況にあった{{sfn|田澤|2013|pp=71-76}}。さらには、フランコはスペイン内戦時に人民戦線の支配下にあったカタルーニャやバスク地方以外の地域での産業振興を行い、1950年前後までのカタルーニャ経済は停滞を余儀なくされた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-324}}。工業指数が1930年の水準に戻ったのは1951年のことであり、部門別労働者比率でも1930年と1950年は似たような値を示している{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-324}}。

1960年代から1970年代初頭のカタルーニャでは急速な経済成長が起こり、外国資本の投資や観光客が増加した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=326-327}}。労働力が農業から工業やサービス業に転換{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。観光業・関連サービス業・商業・金融業などの第三次産業が発展し、金属・化学・建設などの工業生産指数も伸びた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=326-327}}。バルセロナには国策自動車会社[[セアト]]の工場が建設され、小型車セアト600は高度成長のシンボルとなった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。観光業の発展によって、ヨーロッパ北部から[[コスタ・ブラバ]]などに多数の観光客が押し寄せた{{sfn|田澤|2013|pp=71-76}}。

1961年にはノバ・カンソー運動(新しい歌)がカタルーニャ語の復権に先鞭を付け、カタルーニャ語教育への関心も高まった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=327-329}}。1967年には文化支援団体{{仮リンク|オムニウム・クルトゥラル|en|Òmnium Cultural}}が設立され、カタルーニャ語講座や文学コンクールの主催、民間教育機関の設立などを行った{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。1971年には反フランコ派が結集してカタルーニャ会議が結成された{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=327-329}}{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。

=== カタルーニャ自治州 ===
==== 自治州発足(1975-) ====
1975年にフランコが死去すると、[[アドルフォ・スアレス]]内閣の下で{{仮リンク|スペインの民主化|en|Spanish transition to democracy}}が進められた。1977年6月には1936年以来初となる民主的総選挙([[1977年スペイン議会総選挙]])が行われ、カタルーニャでは左派政党が約5割、カタルーニャ民族主義政党が3/4の得票を得た{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=330-331}}。スアレス首相は[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|ジャナラリタット]](自治政府)の復活を優先し、1977年10月にはタラデーリャスが政党の枠組みを超えたジャナラリタットを組織した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=330-331}}。スアレス首相の下で地域主義を容認する[[スペイン1978年憲法]]が制定され、{{仮リンク|カタルーニャ自治憲章 (1979年)|label=1979年カタルーニャ自治憲章|es|Estatuto de autonomía de Cataluña de 1979}}が制定されてカタルーニャ自治州が発足した。1977年9月11日のカタルーニャ国民の日には参加者数が100万人を超えるデモが行われている{{sfn|田澤|2013|pp=76-79}}。

1973年には経済の急成長が頭打ちとなり、1979年の第二次[[石油危機]]では繊維・金属・電化製品・建設の各業界が打撃を受け、1982年にはカタルーニャ銀行が倒産した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|p=332}}。1979年の失業率は8.9%だったが、1985年には22.8%にまで上昇し、スペイン平均を上回る高い数字を示した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|p=332}}。世界経済の復調に合わせて、1985年頃からはカタルーニャ経済も回復。1986年にはスペインが[[ヨーロッパ共同体]](EC)に加盟し、経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出した外国企業はスペイン全体の1/3を占めた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=334-335}}。1992年にはスペイン初の夏季オリンピックとして[[バルセロナオリンピック]]が開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしている{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=334-335}}。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、国内移民に代わってEU外からの移民が増加した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=334-335}}。

==== 独立運動(2006-) ====
[[File:La Unión i el Fènix P1160234.JPG|thumb|left|独立デモで振られる独立旗のアスタラーダ]]

===== 独立志向の高まり =====
2003年には23年ぶりにCiUが政権党から外れ、州首相となったPSCの{{仮リンク|パスクアル・マラガイ|en|Pasqual Maragall I Mira}}は自治憲章の改正に着手{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=336-337}}。2006年には民族としての独立性、カタルーニャ語をスペイン語に優先して公用語として使用すること、財政・司法・域内行政など自治権の拡大を謳った新たな{{仮リンク|カタルーニャ自治憲章 (2006年)|label=2006年カタルーニャ自治憲章|es|Estatuto de autonomía de Cataluña de 2006}}が制定された{{sfn|田澤|2013|pp=30-36}}{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}。

しかし、スペインの二大政党のひとつで右派の[[国民党 (スペイン)|国民党]]はこの自治憲章が違憲であるとしてスペイン憲法裁判所に提訴し、2010年6月28日には民族性や独立性の部分が違憲であるとする判決が下された{{sfn|田澤|2013|pp=30-36}}{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており<ref name=wsj>{{cite web |url=http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304334104579521371624640560 |title=スペインのバスク自治州、独立機運が下火に カタルーニャと好対照 |publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2014-04-24 |accessdate=2016-01-04}}</ref>、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため、カタルーニャ州住民は[[2010年欧州ソブリン危機|ソブリン危機]]に端を発する[[スペイン経済危機 (2012年)|スペイン経済危機]]の状況下で不満を募らせていた{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}<ref>{{citation |last=八嶋 |first=由香利 |title=ヨーロッパ統合の中の「国づくり」 カタルーニャ「独立問題」の背景にあるもの |journal=歴史学研究 |publisher=青木書店 |year=2015-06 |volume= |issue=932 |pages=48-54}}</ref><ref>{{cite news |title=カタルーニャの独立機運をたきつける経済的不満、スペイン |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2013-9-14|url=http://www.afpbb.com/article/economy/2968159/11346552 |accessdate=2013-9-14|author= Daniel BOSQUE}}</ref>。カタルーニャ州内の税金の90%は国庫に納められてから再配分されるが、州内から拠出された額よりも州内に投資された額が少ない「財政赤字」が問題となっている<ref name=okuno2015>{{citation |last=奥野 |first=良知 |year=2015 |title=カタルーニャにおける独立志向の高まりとその要因 |journal=愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・国際学編) |publisher= |volume= |issue=47 |pages=129-166}}</ref>。カタルーニャ州は毎年約8%の「財政赤字」を抱えており、これは国際的にも異例なほど高い数字であるとされる<ref name=okuno2015/>。[[バルセロナ大学]]経済学部長のアリゼンダ・パルジーアはカタルーニャの状況を「スウェーデン並みの税金を払いながら、スペイン平均以下の社会サービス」と語り、そのような状況にもかかわらずエゴイスティックであると批判されることに抗議している<ref name=okuno2015/>。

[[カタルーニャ・ナショナリズム]]の機運が高まったのは、自治憲章の違憲判決と税制の不公平感という2点が理由である{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}。独立支持派がはっきりと増加するのは、この2010年半ばのことである<ref name=okuno2015/>。1990年代のカタルーニャ独立支持派は3割程度だったが、2010年代には5割を超えるほどになった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=312-316}}。2014年10月に世論研究センター(CEO)が「ここ数年で独立主義者になった」カタルーニャ住民に対して理由を問うた調査では、第1位が「中央政府のカタルーニャに対する言動」(42%)であり、第2位の「経済問題/税の配分問題」(13.4%)を大きく引き離している<ref name=okuno2015/>。

===== 大規模街頭デモ =====
{{seealso|ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ}}

[[File:Manifestació10J-293.JPG|thumb|right|独立運動の起点となった2010年の大規模街頭デモ]]

2010年7月10日にはオムニウム・クルトゥラルが「私たちはネーションだ、決めるのは私たちだ」をスローガンとする抗議デモを主催し、1977年のデモをしのぐ110万人が参加した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=312-316}}<ref name=okuno2015/>。2011年11月には中央集権志向が強い国民党政権(ラホイ政権)が誕生し、2012年後半には独立支持派が飛躍的に増加<ref name=okuno2015/>。2012年9月11日の[[ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ|カタルーニャ国民の日]]には、「カタルーニャ、新しいヨーロッパ国家」をスローガンとして[[2012年カタルーニャ独立デモ|150万人が参加した大規模なデモ]]が行われた{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}。カタルーニャ州の人口の20%にも相当する人々がバルセロナ中心部に集まり、いくつもの大通りが独立旗を掲げる人々で埋まった{{sfn|田澤|2013|pp=36-43}}。このデモは世界的にみて近年初の大規模民族主義デモであり、その規模の大きさが世界中でニュースとなった<ref name=tazawa2014>{{citation |last=田澤 |first=耕 |title=カタルーニャを揺るがす民族の悲願 傷つけられた誇りと経済危機の重圧 |journal=中央公論 |publisher=中央公論社 |year=2014-12 |volume=129 |issue=12 |pages=114-119}}</ref>。この大規模デモから2か月後の11月25日に行われた[[カタルーニャ州議会]]選挙では、独立賛成派の4政党が計87議席と、全体の約3分の2の議席を獲得した<ref>{{cite news |title=スペイン・カタルーニャ州議会選で独立派が勝利、住民投票の実施は微妙 |publisher=[[ロイター]] |date=2012-11-27 |url=http://jp.reuters.com/article/domesticEquities2/idJPTK824387820121126 |accessdate=2013-9-14}}</ref>。2013年のカタルーニャ国民の日には「[[人間の鎖]]」に類する「[[カタルーニャ独立への道]]」が組織され、約160万人のカタルーニャ市民がカタルーニャ旗を掲げながら、平和的に400キロメートルに渡って手を繋ぎ合った<ref name=okuno2015/><ref>{{cite news |title=カタルーニャ独立運動 募る政府への不満 |publisher=[[NHK]] |date=2012-11-1|url=http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/11/1101m.html |accessdate=2013-9-14}}</ref>。1714年から300年の節目の年である2014年のカタルーニャ国民の日には、180万人がバルセロナの2本の通りに並んで「V」の人文字を作り、さらには人文字を黄地に赤縞のサニェーラ色に染め上げた<ref name=tazawa2014/>。2015年のカタルーニャ国民の日には約180万人が参加したデモが行われ、「カタルーニャ共和国」の成立を目指して国外からも著名人が招待された。

===== 独立プロセスの進行 =====
2014年11月9日に実施された[[2014年カタルーニャ独立住民投票|カタルーニャ州独立を問う住民投票]]では、「カタルーニャ州は国家であるべきであり、独立を望む」とする声が80.76%に達した<ref>{{Cite web |url=http://www.cataloniavotes.eu/independence-referendum/ |title=The 9N2014 Vote |publisher=カタルーニャ州選挙管理員会 |language=英語 |accessdate=2015-11-04}}</ref>。[[2015年カタルーニャ自治州議会選挙]]では、独立賛成派の総得票率は47.7%と過半数に達しなかったものの<ref>{{Cite web |url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO93905310S5A111C1000000/ |title=スペイン、カタルーニャ独立の愚 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2015-11-12 |accessdate=2016-01-22}}</ref>、議席数では過半数の135議席中72議席を獲得し<ref>{{Cite web |url=http://www.cataloniavotes.eu/the-27s2015-vote/#results |title=The The 27S2015 Vote |publisher=カタルーニャ州選挙管理員会 |language=英語 |accessdate=2015-11-04}}</ref>、州議会選挙から約2か月後には州議会が[[カタルーニャ独立手続き開始宣言]]を採択した<ref name>{{Cite news | url=http://jp.reuters.com/article/2015/11/09/catalonia-vote-idJPKCN0SY1PR20151109 | title=カタルーニャ州、スペインからの分離独立プロセス開始へ | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2015-11-10 | accessdate=2015-11-11 }}</ref><ref name=bloomberg20151110>{{Cite news | url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NXK3356JIJVF01.html | title=カタルーニャ州議会、スペインからの独立プロセス開始の決議案可決 | work=bloomberg.co.jp | publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] | date=2015-11-10 | accessdate=2015-11-11}}</ref>。2016年1月には[[ジュンツ・パル・シ]]の[[カルラス・プッチダモン]]がマスの後任の州首相に就任し、18か月で「カタルーニャ共和国」を建国する見通しを示した。

== 政治 ==
[[File:Pujol MHC.jpg|thumb|left|23年間も州首相の座にあったプジョル]]

1975年にフランコが死去し、1976年から[[アドルフォ・スアレス]]政権によって政治改革が進められると、その過程で1977年9月29日にはスアレス首相によって[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|ジャナラリタット]](自治政府)の復活が宣言された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=202-206}}。その後カタルーニャ自治憲章の策定が行われ、スペイン国会での可決と住民投票での承認を経て、1979年12月18日に自治州の地位を得た<ref name=britannica/>。この自治憲章は[[スペイン1978年憲法]]で認められる最大限の権限移譲を意図して策定されたものであり、1932年の自治憲章よりも強い権限が認められている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=202-206}}。カタルーニャは「自治地域」(1932年自治憲章)よりも強い「民族体」であると明記され、「カタルーニャの固有の言語」であるとされたカタルーニャ語が自治州公用語となった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=330-331}}。スペインの17自治州のうちバスク州とナバーラ州の2自治州は独自の徴税権を認められたが、カタルーニャ州は他の14自治州と同じく、一度国庫に納めた税金を中央政府から交付される体制が取られ{{sfn|立石|奥野|2013|pp=202-206}}、権限が不十分なものであるとする声もあった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=330-331}}。

民主化後初となる[[1977年スペイン議会総選挙]]では、左派の{{仮リンク|カタルーニャ社会党|es|Partido de los Socialistas de Cataluña}}(PSC)がカタルーニャ州の第一党となった。一方で、1980年に行われた初の[[カタルーニャ州議会]]選挙ではカタルーニャ民族主義の[[集中と統一]](CiU)が第一党となり、CiUは{{仮リンク|ジョルディ・プジョル|es|Jordi Pujol}}州首相の下で23年間もカタルーニャ州の政権を維持した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=207-211}}。国政選挙では左派のPSCが優勢、州議会選挙ではカタルーニャ民族主義のCiUが優勢であり、選挙の種類によって有権者の投票行動が変化するという特殊な状況が長く続いた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=207-211}}{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=330-331}}。スペイン中央政府からの権限移譲は順調に進み、カタルーニャ州政府は1980年代半ばから教育・文化政策、福祉政策、環境、領土整備、医療、公共事業、司法、言語政策などの権限を持つようになった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=202-206}}{{sfn|立石|奥野|2013|pp=207-211}}。スペイン議会総選挙でCiUは権限移譲を目的に、右派・左派を問わずその時々の政権と議会内協力を行った{{sfn|立石|奥野|2013|pp=207-211}}。カタルーニャ州最大の都市であるバルセロナ市議会やその周辺地域の自治体議会では、常にPSCが支配的である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=207-211}}。

2003年の州議会選挙ではCiUが第一党を守ったが、PSC、[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)、カタルーニャ緑のイニシアティブ(ICV)の3政党による連立政権が誕生し、PSCの{{仮リンク|パスクアル・マラガイ|en|Pasqual Maragall I Mira}}が州首相に就任した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=212-213}}。2010年の州議会選挙ではCiUが政権に返り咲き、[[アルトゥール・マス]]が州首相に就任した。[[カタルーニャ・ナショナリズム]]の趨勢が大きく変化した2012年の州議会選挙ではERCが躍進し、CiUとERCが議会内協力を結んでマスが州首相に再選{{sfn|立石|奥野|2013|pp=212-213}}。2015年には「カタルーニャ独立の賛否」を単一の争点とした州議会選挙が行われ、集中と統一を構成していた[[カタルーニャ民主集中]](CDC)とERCが中心となった[[ジュンツ・パル・シ]](JxS)が第一党となった。

[[File:Parlament de Catalunya façana.JPG|right|thumb|カタルーニャ自治州議会]]

[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|ジャナラリタット]]と呼ばれるカタルーニャ自治州政府はバルセロナに置かれており、[[カタルーニャ自治州議会]]、{{仮リンク|カタルーニャ自治州首相|ca|President de la Generalitat de Catalunya}}、{{仮リンク|カタルーニャ自治州内閣|ca|Govern de Catalunya}}によって構成されている。
<!--中世に誕生したジャナラリタットは、スペイン継承戦争後に公布された新国家基本法(1716年)によって廃止された。20世紀には[[スペイン第二共和政|第二共和政]]の下で復活したが、[[スペイン内戦]]により再び廃止され、1978年の新憲法によって再び復活した。

=== 公安・司法 ===
カタルーニャ州は18世紀に遡る独自の警察組織、{{仮リンク|モスズ・ダスクアドラ|ca|Mossos d'Esquadra}}を有している。1980年以降、モスズ・ダスクアドラはジャナラリタットの指揮下にある。1994年以降、スペイン国内全体を統括する[[グアルディア・シビル]](治安警察)、スペイン内務省統括の{{仮リンク|スペイン国家警察|es|Cuerpo Nacional de Policía}}に替わって拡大した。グアルディア・シビル及び国家警察は、カタルーニャ州内での港湾、空港、沿岸、国境線、税関、身分証明、他の組織の軍事監視といった特定の機能行使のため、一部の代理部を残している。

州内でのほとんどの裁判制度は、国の司法機関が処理している。法制度は、カタルーニャでは分けて処理されるいわゆる民法を例外として、スペイン国内一定である。-->

=== 政党 ===
* 主要政党
** [[カタルーニャ民主集中]](CDC)
** [[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC) : 左派のカタルーニャ主義政党であり、[[スペイン第二共和政]]のカタルーニャ自治政府では政権を担った{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。1989年の党大会でカタルーニャ語圏の独立を目標に掲げた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。
** {{仮リンク|カタルーニャ社会党|es|Partido de los Socialistas de Cataluña}}(PSC) : 全国政党[[スペイン社会労働党]](PSOE)の協力政党{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。スペイン連邦主義を掲げる左派政党である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。
** {{仮リンク|カタルーニャ国民党|es|Partido Popular de Cataluña}}(PPC) : 全国政党[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)の連合政党。スペイン主義を掲げてカタルーニャ主義には批判的であるが、社会・経済面では集中と統一と共通する政策が多かった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。
** {{仮リンク|アスケーラ・ウニーダ・イ・アルタルナティーバ|es|Esquerra Unida i Alternativa}}(EUiA)- 全国政党連合[[統一左翼 (スペイン)|統一左翼]](IU)の地域政党連合。
** {{仮リンク|人民統一候補|es|Candidatura de Unidad Popular}}(CUP) : カタルーニャ人の民族解放やカタルーニャ語圏の独立を掲げ、2012年州議会選挙では初めて議席を獲得(3議席)した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。
** [[シウダダノス|シウタダンス=市民党]](C's) : カタルーニャ主義に反対する右派政党として2006年に結成された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。2006年州議会選挙では望外の3議席を獲得し、2012年州議会選挙では9議席まで増やした{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。2014年頃からは全国的な人気を得て国民党の支持者を奪い<ref name=timessteals>{{cite web |url=http://www.thetimes.co.uk/tto/news/world/europe/article4371158.ece |title=Catalonia’s nude lawyer steals voters from PM |work=[[タイムズ]] |date=2015-03-04 |accessdate=2015-03-16 |language=English}}</ref>、2015年のスペイン議会総選挙では40議席・350万票を得て第四党に大躍進した。
** [[ジュンツ・パル・シ]](JxS)- 2015年の[[2015年カタルーニャ自治州議会選挙|州議会選挙]]でCDCとERCを中心に設立された連合体。
** [[カタルーニャ・シ・カ・アス・ポット]](CSQEP)- 2015年の州議会選挙で[[ポデーモス]]とEUiAを中心に設立された連合体。
** [[カタルーニャ民主連合]](UDC)
* その他の政党
** [[バルサローナ・アン・クムー]](BeC) : 2015年の地方自治体選挙のためにポデーモスを中心に設立されたバルセロナのローカル政党。同選挙ではBeCをモデルとした連合体が躍進。同年のカタルーニャ州議選でのCSQEPのモデルとなった。
** [[集中と統一]](CiU) : CDCとUDCによって1980年に結成された政党連合。中道右派のカタルーニャ主義政党であるとされ{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}、1979年の自治州発足から2012年の州議会選挙まで一貫してカタルーニャ州議会で第一党の地位にあった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}。2012年以後にはカタルーニャ主義から進んでカタルーニャの独立を目指すようになったが、独立姿勢には政党連合内にも温度差が見られ{{sfn|立石|奥野|2013|pp=214-217}}、このことが原因となって2015年には政党連合が解体された。

<gallery>
File:Logo CiU.png|長年にわたって州政府第一党の座にあった[[集中と統一]](CiU)
File:LogotipERC.jpg|カタルーニャの独立を掲げる[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)
File:Ciudadanos-icono.svg|カタルーニャの独立に反対している[[シウダダノス]](C's)
File:Logotip del PSC.svg|歴史的に州内での総選挙に強いカタルーニャ社会党(PSC)
</gallery>
<!--=== 4県から7ベゲリアへ ===
現行のカタルーニャ州4県体制はスペイン支配の象徴でもあり、2010年春から与党提議の7ベゲリアへの移行法案が議論されていた。ベゲリアとは中世から1716年の{{仮リンク|新国家基本法|en|Nueva Planta decrees}}が施行されるまでの間採用されていた地域区分制度である。2010年7月27日、[[カタルーニャ州議会]]でベゲリアス法案が賛成多数で可決された<ref group="注">賛成:{{仮リンク|カタルーニャ社会党|es|Partido de los Socialistas de Cataluña}}(PSC)、[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)、ICV-EUiA、反対:[[集中と統一|CiU]]、{{仮リンク|カタルーニャ国民党|es|Partido Popular de Cataluña}}他</ref>。カタルーニャ州は4つの[[スペインの県|県]](Provincia)、バルセロナ県、タラゴナ県、ジローナ県、リェイダ県に分けられているが、新制度では7つの{{仮リンク|ベゲリア|ca|Vegueria}}、バルサローナ(Barcelona)、カタルーニャ・サントラル(Catalunya Central)、ジローナ(Girona)、リェイダ(Lleida)、タラゴナ(Tarragona)、テーラス・デ・レブラ(Terres de l'Ebre)、アルト・ピリネウ(Alt Pirineu)に分けられるとされる。これを機に新地名はカタルーニャ語により近いかな表記を採用したいと思う。カタルーニャ語ではアクセントのない母音は曖昧音化されるので、アクセントのないeはかな表記した場合は、 eよりもaの音価により近い、もとより、8母音システムのカタルーニャ語を5母音システムの日本語で表記すること自体無理があるのは承知しているが、あえて、より近い表記を試みたい。したがって、バルセロナはバルサローナに、Terresは最終音節のeにはアクセントが落ちないのでeではなく曖昧母音になるためテーラスの表記にした。またVegueriaの訳語をどうするか、検討したいと思う。-->


== 経済 ==
== 経済 ==
[[File:Barcelona Torre Agbar 01.jpg|thumb|right|ライトアップされた[[トーレ・アグバール]]]]
カタルーニャは、スペイン経済の主要な牽引役であり、[[第三次産業]]の比率が高い。<ref>[http://ec.europa.eu/regional_policy/atlas/spain/factsheets/pdf/fact_es51_en.pdf European Structural Funds in Spain (2000-2006)]</ref>。
* [[第一次産業]]: 2.8%
* [[第二次産業]]: 37.2% (スペイン平均は29%)
* [[第三次産業]]: 60% (スペイン平均は67%)


カタルーニャは18世紀末から19世紀前半にかけて、繊維産業を契機として機械・金属・化学と発展していく[[産業革命]]が生じたスペイン唯一の地域であり、今日でも社会経済的特徴として豊かな産業集積が挙げられる<ref name=okuno2015/>。近現代から今日に至るまで、カタルーニャは[[バスク州|バスク地方]]とともにスペイン経済を牽引してきた地域である<ref name=okuno2015/>。経済拠点としてのバルセロナの影響圏はカタルーニャ州内に留まらない<ref name=kiuchi261>{{cite book |last=木内 |first=信蔵 |title=ヨーロッパⅠ |publisher=朝倉書店 |series=世界地理 |year=1979 |pages=261-263}}</ref>。
2007年、カタルーニャ州の[[GDP]]は2025億9百万[[ユーロ]]で、一人当たりのGDPは24,445ユーロだった。<ref>[http://www.cidem.com/catalonia/en/about/facts/index.jsp] CIDEM</ref>。この年、GDPの成長は3.7%であった<ref>[http://www.cidem.com/catalonia/en/about/facts/index.jsp] CIDEM</ref>。[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の状況では、2009年のカタルーニャ州は景気後退を受けGDP-2%に減少すると予想されている<ref>[http://www.elpais.com/articulo/economia/BBVA/descarta/economia/catalana/caiga/elpepuespcat/20090114elpepueco_7/Tes]</ref>。


2000年から2006年のカタルーニャ州の産業別従業者比率は、[[第一次産業]]が2.8%、[[第二次産業]]が37.2%、[[第三次産業]]が60%であり<ref>[http://ec.europa.eu/regional_policy/atlas/spain/factsheets/pdf/fact_es51_en.pdf European Structural Funds in Spain (2000-2006)]</ref>、スペイン平均と比較すると[[第二次産業]]の比率が高い。
貯蓄銀行はカタルーニャの主要な収入源の一つである。スペイン国内の貯蓄銀行46行のうち10行がカタルーニャ発祥で、ラ・カイシャ(La Caixa、カタルーニャ語の発音ではラ・カッシャ、[[:es:Caja de Ahorros y Pensiones de Barcelona|Caja de Ahorros y Pensiones de Barcelona]])はヨーロッパ初の貯蓄銀行である<ref>[http://www.pdf.lacaixa.comunicacions.com/im/esp/199507rkg_esp.pdf Ranking of Savings Banks] </ref>。最初の[[プライベート・バンク]]はカタルーニャ発祥であり、[[サバデイ]]に本店を置くバンク・サバデイはスペインのプライベート・バンクで第4位である<ref>[http://www.euroinvestor.es/Stock/ShowStockInfo.aspx?StockID=555911] Profile of "Banc Sabadell" in Euroinvestor]</ref>。


スペインの{{仮リンク|貯蓄銀行_(スペイン)|label=貯蓄銀行|es|Cajas de ahorros de España}}46行のうち10行がカタルーニャ州を拠点としており、{{仮リンク|ラ・カイシャ|es|La Caixa}}(ラ・カッシャ)はヨーロッパ随一の貯蓄銀行である<ref>{{cite web|url=http://www.pdf.lacaixa.comunicacions.com/im/esp/199507rkg_esp.pdf |title=Ranking of Savings Banks |format=PDF |accessdate=25 April 2010 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/20081029161516/http://www.pdf.lacaixa.comunicacions.com/im/esp/199507rkg_esp.pdf |archivedate=29 October 2008 }}</ref>。スペイン初の[[プライベート・バンク]]は[[サバデイ]]に拠点を置く{{仮リンク|サバデイ銀行|es|Banco Sabadell}}であり、今日ではスペインのプライベート・バンクで第4位である<ref>{{cite web |url=http://www.euroinvestor.es/Stock/ShowStockInfo.aspx?StockID=555911 |title=Profile of "Banc Sabadell" in Euroinvestor |publisher=Euroinvestor.es |accessdate=2011-01-06}}</ref>。
2004年のバルセロナ株式市場は、約2050億ユーロを取引した。これはマドリード株式市場に次いでスペイン2位の取引高である


住民の勤勉さや、ヨーロッパや中近東へのアクセスの良さなどから、多くの外国企業がカタルーニャ州に進出しているものの{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}、独立問題に揺れる近年の政治情勢を踏まえて、州内からスペインの他地域に企業が移転する傾向がある。2014年には987社が州内からスペインの他地域(主に[[マドリード州]])に移転し、スペインの他地域から州内に移転した企業は602社にとどまった<ref>{{cite web |url=http://www.expansion.com/economia/grafico/2015/05/04/55474c83e2704e69438b456f.html |title=Relocation of companies |publisher=エスパンシオン |date=2015-05-04 |accessdate=2016-01-12}}</ref>。2015年時点のカタルーニャ州の長期[[信用格付]]は、[[スタンダード&プアーズ]]によればBB(投資不適格)<ref>{{cite news |title=カタルーニャ州、投資不適格=米S&Pが2段階下げ―スペイン |agency=時事通信社 |date=2012-09-01 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201209/2012090100081 |accessdate=2012-09-23}}</ref>、[[ムーディーズ]]によればBa2(投資不適格)、[[フィッチ・レーティングス]]によればBBB-(低投資適格)である<ref>{{cite news|title=S&P mantiene la deuda de Cataluña en "bono basura"|url=http://www.expansion.com/catalunya/2015/04/17/5531492622601d6b098b456e.html|accessdate=13 August 2015|publisher=エスパンシオン |date=17 April 2015}}</ref><ref>{{cite news|title=Standard & Poor's degrada la calificación de Catalunya a 'bono basura'|url=http://www.lavanguardia.com/economia/20120831/54344088562/standard-poor-s-catalunya-bono-basura.html|accessdate=13 August 2015 |publisher=[[ラ・バングアルディア]] |date=31 August 2012}}</ref><ref name=agency-ratings>{{cite news|title=Rating: Calificación de la deuda de las Comunidades Autónomas |url=http://www.datosmacro.com/ratings/espana-comunidades-autonomas|accessdate=14 August 2015}}</ref>。いずれの格付機関においてもカタルーニャ州の長期信用格付はスペインの自治州内で最下位タイである<ref name=agency-ratings />。
カタルーニャ人世帯の最大の支出は住居費であり、2005年12月の調査によると、カタルーニャはマドリードに次いで『住宅価格の高い州』である。平均で1平方mあたり3,397ユーロである。


=== 域内総生産(GRP) ===
2012年に表面化した[[スペイン経済危機 (2012年)|スペインの経済危機]]では、経済・財政難に直面。米格付け会社[[スタンダード・アンド・プアーズ]]は、同年8月31日、自治州政府の資金調達が難しくなるとして、同州の長期[[信用格付]]けを引き下げ投資不適格級(BB)とした<ref>{{cite news |title=カタルーニャ州、投資不適格=米S&Pが2段階下げ―スペイン |agency=時事通信社 |date=2012-09-01 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201209/2012090100081 |accessdate=2012-09-23}}</ref>。 
2010年代のカタルーニャ州の域内総生産はスペイン全体の約20%(2013年度は18.8%)を占め、スペインの17自治州中もっとも経済規模が大きな自治州である<ref name=okuno2015/>。2010年代の域内総生産は[[アイルランド]]、[[フィンランド]]、[[ポルトガル]]を上回り、[[デンマーク]]に匹敵する{{sfn|田澤|2013|pp=19-22}}<ref name=haff20140917/>。2014年のカタルーニャ州の域内総生産(GRP)は1997億9700万ユーロであり、スペインの17自治州中第1位だった<ref>{{cite web |url=http://www.datosmacro.com/pib/espana-comunidades-autonomas |title=Espana Comunidades Autonomas |publisher=Datos Macro |accessdate=2016-01-06}}{{リンク切れ|date=2016-01}}</ref>。1人あたり域内総生産は26,996ユーロ/人であり、マドリード州(31,004ユーロ)とバスク州(29,683ユーロ)と[[ナバーラ州]](28,124ユーロ)に次いで17自治州中第4位だった<ref name="ine.es">{{cite web |url=http://www.ine.es/prensa/np901.pdf |title=Producto Interior Bruto regional. Año 2014 Cuentas de renta del sector hogares. Serie 2010-2012 |publisher=[[スペイン国立統計局]](INE) |accessdate=2016-01-06}}</ref>。この年の域内総生産成長率は1.4%だった<ref name="ine.es"/>。


== 人口統計 ==
=== 第一次産業 ===
主要な産業は工業、観光業、農業、漁業である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。伝統的な農業には、輸出品としてのブドウ、アーモンド、オリーブ栽培や、ワイン、オリーブオイル生産、内部重要向けのコメ、ジャガイモ、トウモロコシ栽培がある<ref name=britannica/>。今日では耕地面積が大きく減少している上に、伝統的作物のオリーブやブドウの畑が、都市で消費される果実や野菜の畑に取って代わっている<ref name=britannica/>。ブタやウシの畜産は盛んになっている<ref name=britannica/>。カタルーニャ州沿岸の地中海では多様な魚類が獲れることで知られており、これはカタルーニャ州に著名なレストランが多いことの一因となっている{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。
[[ファイル:Usdesolcat.png|right|thumb|200px|カタルーニャ州の人口分布図]]
カタルーニャ州の2008年の公式人口は7,354,411人で、そのうちの移民割合は概算で12.3%であった。バルセロナ都市地方([[ルスピタレート・ダ・リュブラガート]]、[[バダローナ]]、[[クルナリャー・ダ・リュブラガート]]など)の面積2,268平方km圏内には、3,327,872人が暮らし、バルセロナの半径15km以内におよそ170万人が暮らしている<ref>[http://www.vilaweb.cat/www/elpunt/noticia?p_idcmp=2004564 "Catalunya arriba a set milions d'habitants"], Diari El Punt.</ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/crossing_continents/6226305.stm "Catalans grapple with migrant influx"], BBC News. 3 January 2007</ref>。


=== 第二次産業 ===
1900年のカタルーニャ人口は1,984,115人であったが、1970年には5,107,606人であった<ref>http://www15.gencat.net/pres_catalunya_dades/AppPHP/cat/poblacio.htm {{ca icon}}</ref>。これは、1960年代から1970年代にかけて起きた大規模な国内人口移動で生じた増加である。スペイン内陸部から産業の発達した都市への人口流入が起き、カタルーニャでは[[アンダルシア州]]、[[ムルシア州]]、[[エストレマドゥーラ州]]からの人口流入の波がやってきた。
カタルーニャの織物業が初めて文献に登場するのは1283年から1313年の間であり、織物業は長らくこの地域の主産業であり続けた<ref name=britannica/>。19世紀のカタルーニャでは産業革命が起こり、19世紀半ばには「スペインの工場」となった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。特に綿工業を中心とする繊維工業が栄えたものの、バスク地方と違って石炭・鉄鉱石の天然資源を欠いたため、製鉄業や造船業などの重工業は発展しなかった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。スペイン初の[[労働組合]]はカタルーニャで誕生している{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=64-68}}。バルセロナは製紙、グラフィックアート、化学、金属加工が卓越しており、織物業の中心はサバデイやタラサである<ref name=britannica/>。バルセロナには日本の自動車会社である[[日産]]の工場がある<ref name=britannica/>。カタルーニャで石油の需要が増加したことで、タラゴナの石油精製所が拡張された<ref name=britannica/>。

=== 第三次産業 ===
スペイン初の高速自動車道路は、フランスのペルピニャンとバルセロナを結ぶ道路だった<ref name=kiuchi265>{{cite book |last=木内 |first=信蔵 |title=ヨーロッパⅠ |publisher=朝倉書店 |series=世界地理 |year=1979 |pages=265-268}}</ref>。夏季にはイギリスや北ヨーロッパから地中海岸の[[コスタ・ブラバ]]などに多くの観光客が押し寄せる{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。[[ピレネー山脈]]はウィンタースポーツや登山などが人気である{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。2012年には観光税の徴収を開始した<ref name=brava152>{{cite web |url=http://costabravatouristguide.com/152-catalonia-tourist-tax-fees |title=Catalonia Tourist Tax |publisher=Costa Brava Tourist Guide |accessdate=24 June 2015}}</ref>。この税収は観光促進や観光関連インフラの充実に使用される<ref name=brava152/>。

== 社会 ==
=== 人口 ===
[[File:Usdesolcat.png|right|thumb|カタルーニャ州の人口分布図]]

14世紀末のカタルーニャ地方の人口は約45万人と推定されており、18世紀初頭までほぼ変化がなかったとされているが、18世紀以後に大きく変化した<ref name=kiuchi263>{{cite book |last=木内 |first=信蔵 |title=ヨーロッパⅠ |publisher=朝倉書店 |series=世界地理 |year=1979 |pages=263-264}}</ref>。1787年のカタルーニャの人口は87万人だったが、1857年には165万人となり、スペイン全土に占める比率も7.8%から10.7%に増加した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。19世紀前半にはまだ国内移民は多くなく、基本的には[[産業革命]]の進行による自然増によるものである{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=301-302}}。1900年には196万人(スペイン比10.5%)だったが、アラゴン・バレンシア・ムルシア・アルメリアなどからの国内移民が増加した結果、1930年には279万人(同11.8%)まで増加した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=310-311}}。バルセロナではこの30年間に人口が倍増して100万都市となったが、その影響で都市環境の悪化に悩まされている{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=310-311}}。スペイン内戦とその後の混乱で人口の伸びが停滞し、1950年の人口は324万人だったが、1960年代以降の経済成長で大量に国内移民を受け入れたことで、1975年には566万人にまで急増した{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-323}}。1961年から1975年の間に、アンダルシア地方などからカタルーニャに95万人が流入している{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。1970年にはカタルーニャの人口の38%が非カタルーニャ人であり、乱開発、インフラや公共サービスの不足、公害などの生活環境の悪化につながった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=308-311}}。

民主化後の1980年代にはカタルーニャ経済が低迷し、1981年には595万人、1991年には605万人と、人口の伸びは低調だった{{sfn|関|立石|中塚|2008b|p=332}}。1990年代にはEU外からの移民が増加し、2003年の外国人居留者は約40万人(6%)に上っている{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=334-335}}。2003年時点での国籍別ではモロッコ人(30%)、エクアドル人(6%)、ペルー人(4.6%)の順に多く、地域としてはラテンアメリカ諸国、北アフリカ、アジア諸国からの移民が多い{{sfn|田澤|2013|pp=23-26}}。2008年のカタルーニャ州の人口は7,354,411人であり、そのうちの移民の比率は12.3%であった。面積2,268km<sup>2</sup>のバルセロナ都市圏には3,327,872人が暮らし、バルセロナの中心部から半径15km以内に約170万人が暮らしている<ref>{{cite web |url=http://www.vilaweb.cat/www/elpunt/noticia?p_idcmp=2004564 |title=Catalunya arriba a set milions d'habitants |publisher=ディアリ・アル・プン |accessdate=2016-01-06}}</ref><ref>{{cite web |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/crossing_continents/6226305.stm |title=Catalans grapple with migrant influx |publisher=[[BBC News]] |date=2007-01-03 |accessdate=2106-01-06}}</ref>。カタルーニャの人口は沿岸部に偏っており、内陸部の人口は減少傾向にある<ref name=britannica/>。


=== 言語 ===
=== 言語 ===
[[File:Liber Iudiciorum visigòtic.png|thumb|100px|right|カタルーニャ語で書かれたものとしては最古とされる12世紀の文書]]
[[ファイル:Vista desde la punta del caballo (Salou).jpg|right|thumb|200px|サロウ岬]]

カタルーニャ州では[[ロマンス諸語|ロマンス語]]の一つである[[カタルーニャ語]]が話されており、[[カスティーリャ語]](スペイン語)とともに公用語とされている。またリェイダ県のピレネー山脈中の[[アラン谷]]では、[[オック語]]の一つ[[ガスコーニュ語]]の方言である[[アラン語]]が話されており、同地域ではカスティーリャ語、カタルーニャ語とともに公用語とされていた。2010年9月22日「アラン地域のオクシタン語、アラン語に関する法律」(Llei de l'occità, aranès a l'Aran)が自治州議会で可決され、アラン語は、カスティーリャ語、カタルーニャ語とともにカタルーニャ州全体の公用語に規定された<ref>{{cite web|url=http://www.abc.es/agencias/noticia.asp?noticia=525849|title=El aranés se convierte en la tercera lengua oficial de Cataluña|publisher=ABC|language=スペイン語|date=2010-09-22|accessdate=2013-12-15}}</ref>。
カタルーニャの固有言語は[[カタルーニャ語]]であり、カタルーニャ語は[[スペイン語]]よりも[[フランス語]]や[[イタリア語]]に近い言語である<ref name=okuno2015/>。バルセロナを含むカタルーニャ州東部では主にカタルーニャ語中部方言が、カタルーニャ州西部では主にカタルーニャ語北西部方言が話され、標準カタルーニャ語は中部方言に基づいている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=47-51}}。カタルーニャ州でカタルーニャ語を理解する住民は約95%、話したり書いたりできる住民は約75%であるが、カタルーニャ語を母語としている住民は約30%、「自分の言語」としている住民は50%弱である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=26-29}}。ピレネー山中にある[[アラン谷]]では[[オック語]]の一つで[[ガスコーニュ語]]の方言である[[アラン語]]が話されており、2010年にはスペイン語とカタルーニャ語に加えてアラン語もカタルーニャ州全体の公用語に規定された<ref>{{cite web |url=http://www.abc.es/agencias/noticia.asp?noticia=525849 |title=El aranés se convierte en la tercera lengua oficial de Cataluña |publisher=[[ABC (新聞)|ABC]] |language=スペイン語 |date=2010-09-22 |accessdate=2013-12-15}}</ref>。


=== 言語の歴史 ===
フランコ政権下では公教育の場からカタルーニャ語が排除され、公の場全てで禁止され、カタルーニャ人の親が自分の子供にカタルーニャ語の名を与えることすら許されなかった。
9世紀にはこの地域の[[ラテン語]]の文章の中にカタルーニャ語の特徴を持った単語や表現が現れ、11世紀末にはカタルーニャ語で書かれた文章が登場した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=47-51}}。13世紀にはアラゴン=カタルーニャ連合王国がバレンシア地方やバレアレス諸島を征服して今日のカタルーニャ語圏に近い地域が統一され、「カタルーニャ語の父」[[ラモン・リュイ]]などがカタルーニャ語の成熟に貢献した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=47-51}}。15世紀は「カタルーニャ語文学の黄金世紀」だったが、16世紀から18世紀にはカタルーニャ語文学が衰退し、18世紀初頭のスペイン継承戦争後には中央集権的政策が進められてカタルーニャ語の公的な使用が禁じられた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=61-64}}。19世紀半ばからは[[ラナシェンサ]]と呼ばれる文芸復興運動が起こり、スペイン第二次共和政下の1932年にはカタルーニャ地方での公用語に位置づけられた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=47-51}}。


1930年代後半の[[スペイン内戦]]後に国歌の中央集権化を推し進めた[[フランコ体制下のスペイン|フランコ体制下]](1939-1975)では、公的使用が禁じられて弾圧を受けた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=47-51}}。内戦以前のカタルーニャでは年間700冊以上の書籍・年間200冊以上の雑誌が出版されていたが、カタルーニャ語出版物は全面的に禁じられた<ref name=endou2011/>。自治体・道路・広場などの名称はスペイン語名に変更され、カタルーニャ語名を戸籍簿に登録することが禁じられた{{sfn|関|立石|中塚|2008b|pp=322-324}}{{sfn|田澤|2013|pp=71-76}}。カタルーニャ主義に関与した教育関係者は一様に罷免され、カスティーリャ地方やエストレマドゥーラ地方からスペイン語教師が送り込まれている<ref name=endou2011/>。カタルーニャ文化の規制は1946年に緩和され、1962年には実質的に自由化されたが、公教育やマスメディアでカタルーニャ語の使用が始まるのはフランコ死去後のことである<ref name=endou2011/>。
現在、カタルーニャ語は自治州政府、その管轄下の公共機関で使用される言語である。基礎的な公教育の場では、週3時間のスペイン語授業を除いてカタルーニャ語が使われる。ビジネスにおいては、カタルーニャ語で全ての情報(メニューやポスターなど)を掲示するよう求められている(従わないと罰金が科せられる)。[[アラゴン語]]やカスティーリャ語にはいずれも情報表示義務はない。


{{quotation|1. カタルーニャの独自の言語はカタルーニャ語である。<br>2. カタルーニャ語はカタルーニャの公用語である。また、スペイン国家全体の公用語であるスペイン語も公用語である。|1979年カタルーニャ自治憲章第3条}}
罰金の導入は、カタルーニャ語使用拡大のため1997年の言語法で導入された<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1998.html Catalonia's linguistic law]</ref>。法律ではカタルーニャ語とカスティーリャ語が公用語であると保証されている。公私に渡る個人の活動で偏見なしに市民によって使われている<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1998.html Second article of Catalonia's linguistic law] </ref>。たとえジャナラリターが常にコミュニケーションにカタルーニャ語を使用し、一般市民に対してカタルーニャ語で通知が伝えられたとしても、市民が望めばカスティーリャ語でジャナラリターから情報を得ることができる<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1998.html#a9 Ninth article of Catalonia's Linguistic Law]</ref>。


民主化後に制定された[[スペイン1978年憲法]]では各自治州が独自の公用語を用いることを認めており、カタルーニャ州はスペイン語に加えてカタルーニャ語も公用語とした{{sfn|立石|奥野|2013|pp=38-39}}{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。1983年には言語正常化法を制定し、1998年には言語正常化法を発展させた言語政策法を制定した{{sfn|田澤|2013|pp=30-36}}{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。公立の初等・中等教育ではほぼすべてでカタルーニャ語が採用されており、カタルーニャ語は教育言語として定着している{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。1998年には[[エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ]]紙がスペイン語版に加えてカタルーニャ語版の発行も始め、2011年にはカタルーニャ地方最大の新聞である[[ラ・バングアルディア]]紙も追随した{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。カタルーニャ公営鉄道、バルセロナ地下鉄、バスなどの公共交通ではカタルーニャ語が基本であり、[[レンフェ]](スペイン国鉄)は両言語でアナウンスしている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。カタルーニャ州の言語政策は国家公用語であるスペイン語を軽視していると批判されることもある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=65-68}}。なお、1993年に独立国家となったアンドラ公国はカタルーニャ語を公用語としている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=38-39}}。
1978年の民主化以降、自治政府による積極的な言語政策を通じて、カタルーニャ語は再び社会の幅広い層で使われるようになっている。


== カタルーニャ文化 ==
== 文化 ==
=== 民俗 ===
=== 民俗 ===
[[File:3d10 fm de vilafranca.jpg|thumb|right|人間の塔]]
[[ファイル:Festa major de la Seu d'Urgell.JPG|thumb|ラ・セウ・ドゥルジェイでの[[ヒガンテスとカベスドス|巨人と石頭]]]]
[[人間の塔]](castells、castellers)は、カタルーニャ民族の証に数えられる。チーム(colles castelleres)の競い合いによって人間の塔がつくられる。18世紀、カタルーニャ南部で生まれたとされている。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている。


[[人間の塔]](カステイス)はカタルーニャの象徴の一つとされる組体操であり、結束・団結・努力などカタルーニャ人の民俗的特質を表しているとされる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=115-116}}。大きなものでは約150人が参加し、3階建てのビルに相当する約10mの塔を組む{{sfn|田澤|2013|pp=228-233}}。人間の塔は18世紀末にタラゴナ地方のバイスで生まれたとされており{{sfn|田澤|2013|pp=228-233}}、20世紀前半には消滅しかけたものの、1960年代以降にカタルーニャ文化が見直されるようになるとカタルーニャ地方全土に広がった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=115-116}}。1990年代にブームが起こり{{sfn|田澤|2013|pp=228-233}}、2010年時点では56のチーム、8,000人が活動しているとされる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=115-116}}。2010年には「人間の塔」が、「ベルガのパトゥム」に次いでカタルーニャ地方で2番目の無形文化遺産となった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=115-116}}{{sfn|田澤|2013|pp=228-233}}。
サルダーナ([[:ca:sardana|sardana]])は、カタルーニャの民俗舞踊として非常によく知られており、その他の舞踊にはバリ・デ・バストン、モイシガンガ、南部のホタが知られる。カタルーニャ音楽の一種アバネレスは、特に夏季の[[コスタ・ブラバ]]で歌われている。アンダルシーア発祥の[[フラメンコ]]は人気がなく、むしろ[[ルンバ]]がより一般的に好まれている。


カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊として{{仮リンク|サルダーナ|ca|Sardana}}がある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。男女が交互になって手を高く上げて繋ぎ、輪を描くようにして踊る{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。サルダーナはリズムの取り方やステップの踏み方が独特である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。サルダーナは激しく情熱的な[[フラメンコ]]とは対比的であり、闘牛(スペインの象徴)と人間の塔(カタルーニャの象徴)の関係に似ているとされる{{sfn|田澤|2013|pp=228-233}}。フランコ体制下ではサルダーナは禁じられており、20世紀初頭や1970年代末の民主化以後にカタルーニャ精神の象徴であるとする意味合いが込められた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。
より規模の大きな祝祭で、カタルーニャの大衆文化が常に存在している。[[ヒガンテスとカベスドス|巨人(gegants)と石頭(capgrossos)]]のパレード、コレフォック(祭りの締めくくりに街頭で爆竹の一種を打ち鳴らすこと)である。[[ベルガ]]のパトゥムは、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている<ref>[http://www.bergueda.com/lapatum/festa.asp Patum de Berga] </ref>。


=== カタルーニャの象徴 ===
=== 祭礼 ===
[[File:Festa major de la Seu d'Urgell.JPG|thumb|left|ラ・セウ・ドゥルジェイでの[[ヒガンテスとカベスドス|巨人人形]]]]
カタルーニャは以下のようなシンボルを持つ<ref>[http://www.gencat.net/generalitat/eng/estatut/titol_preliminar.htm#a8 Statute of Catalonia (Article 8) ]</ref>
[[ファイル:Flag of Catalonia.svg|thumb|right|200px|カタルーニャの旗]]
[[ファイル:Spain.Barcelona.Diada.Sant.Jordi.Ramblas.06.Florista.JPG|right|thumb|200px|サン・ジョルディの日に花を買い求める人々]]
* カタルーニャの旗、または[[サニェーラ]](Senyera)は、カタルーニャ・アラゴン・シチリアなどを支配したアラゴン王家の紋章<ref>その起源は[[バルセロナ伯]]([[カタルーニャ君主国]])が用いた紋章にある。なお、フランスの[[プロヴァンス]]の紋章も起源を同じくする。</ref>を基礎にしたものである。金色の地に4本の赤い横線がひかれている。これは1932年以降公式の象徴となっている。
* カタルーニャの日<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1980.html Law 1/1980 where the Parlamient of Catalonia declares that 11th of September is the National Day of Catalonia]</ref>は、9月11日で祝日とされている。カタルーニャ語で[[ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ|ラ・ディアーダ]](La Diada)と呼ばれる。スペイン継承戦争末期、1714年の第3次バルセロナ包囲戦でブルボン軍にバルセロナが陥落した日を記念している。
* カタルーニャの国歌『アルス・サガドース』(''Els Segadors''、[[収穫人たち]])は、古くから歌い継がれてきた曲で、1899年にエミリ・グアニャベントにより現在の詞に編成された。1993年2月25日に施行された法律で公式歌とされた<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1993.html Law 1/1993 National Anthem of Catalonia]</ref><ref>[http://search.boe.es/datos/imagenes/BOE/1993/074/A09308.tif Law 1/1993 in the BOE]</ref>。この曲は1639年から1640年に、当時の[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の圧制に不満を爆発させたカタルーニャが独立を求め、[[収穫人戦争]]が起きたことから生まれた。''鎌を振れ''(Bon cop de falç)と繰り返し歌われる。
* [[サン・ジョルディの日]](La Diada de Sant Jordi)は、毎年4月23日、カタルーニャ中の全ての市町村で広く祝われる祝祭である。この日、人々は本とバラの花を交換し合う。カタルーニャ人は、民族の誇りを表すためにサニェーラを街頭や家々に掲げる。
* [[FCバルセロナ]]は、カタルーニャの国際的に有名な象徴である。本拠地[[カム・ノウ]]は、前述したフランコ政権下でカタルーニャ語の使用が許可された数少ない場所として、いまなお市民の心のよりどころとなっている。長きに渡って[[レアル・マドリード]]とライバル関係にあり、2チームの対戦は[[エル・クラシコ]]と呼ばれ毎シーズン注目を集めている。


スペイン北部の祭礼には[[ヒガンテスとカベスドス|巨人人形]]が登場することがあり、約3-4mの人形の中に人間が入ってパレードに参加する{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。バルセロナのマルセーの祭礼では、巨人人形に加えて、ドラゴンやタラスク(亀と蛇が合体した怪物)などの人形もそろって行進し、夜間にはドラゴンやタラスクが爆竹を鳴らし火を噴きながら歩くコラフォックが行われる。
2010年7月28日、カタルーニャ自治州議会において、自治州内における闘牛禁止法案が、賛成68票、反対55票、棄権9票の結果、可決された。法律は2012年1月1日より施行される<ref>[http://www.lasprovincias.es/rc/20100728/mas-actualidad/sociedad/debate-parlament-toros-201007280002.html Las provincias. Cataluña prohíbe las corridas de toros]</ref>。これに関してはカタルーニャ州南部(タラゴナ県)で盛んな牛の角に松明を付ける祭り([[:es:Toro embolado|Toro embolado]])やコレボウス([[:ca:Correbous|Correbous]])についての是非の問題も沸き起こった<ref>{{cite web|url=http://www.elmundo.es/elmundo/2010/09/22/barcelona/1285150930.html|title=El Parlament blinda los 'correbous' dos meses después de prohibir los toros|publisher=El Mundo|language=スペイン語|date=2010-09-23|accessdate=2012-06-14}}</ref>。


[[ベルガ]]では聖体祭に{{仮リンク|パトゥム|es|Patum de Berga}}という祭礼が行われ、巨人人形やドラゴンに似た怪物や巨人人形がパレードや寸劇を繰り広げる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=124-126}}{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。2005年にはカタルーニャ地方で初めて「ベルガのパトゥム」が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=124-126}}{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。
=== カタルーニャの食文化 ===
カタルーニャの料理は、地中海沿岸地域の伝統的な食事と似た特徴を持つ。フランスの[[ピレネー=オリアンタル県]]、[[アンドラ]]といったカタルーニャ文化圏でも食されている。多様で非常に多くの農産物(トマト、ナス、ニンニク、赤ピーマン、[[アーティチョーク]]、マメなど)、海産物(イワシ、マグロ、タラ)、[[オリーブオイル|オリーブ油]]、[[豚肉]]の[[ハム]]や[[ソーセージ]]、[[ラム (子羊)|ラム肉]]が使われる。大まかに分けて内陸部が豚肉を中心とした料理、海岸部が魚介を中心とした料理とされる。
* [[アイオリソース]]
* サルスエラ(sarsuela) - 魚介の[[煮込み]]
* アスクデーリャ(escudella)- シチューの一種。豆、ジャガイモ、キャベツの他、ボティファッラというソーセージと肉を入れるのが特徴
* カルスターダ(Calçotada) - タラゴナ特産のネギCalçotを直火で焼いてソースを付けて食べる
* [[パ・アム・トゥマカット]](パン・コン・トマテ) - パンにトマトをすりつけ(ニンニクをすりつけるところもある)、塩とオリーブ油で食べる。肉料理の付け合わせにされる。
* [[クレマカタラーナ|クレマ・カタラーナ]] - 洋菓子
* {{仮リンク|パナリェット|es|Panellet}} - 11月1日のカスタニャーダ祭りで用意される伝統菓子。小麦粉、砂糖、粗挽きアーモンド、卵、ジャガイモ(またはサツマイモ)で作る。


[[File:Caganer pages.jpg|thumb|right|カガネル人形]]
[[カタルーニャのワイン]]はスペイン国内では[[リオハ・ワイン]]に次ぐ高品質ワイン産地として知られている。とくに、フランスの[[シャンペン]]と同じ方式で作られるスパークリングワインの[[カバ (ワイン)|カバ]]がよく知られている。

スペインでは[[クリスマス]]に[[キリストの降誕]]の場面を模したベレン(Belén)と呼ばれる立体模型を製作することが多いが、カタルーニャ地方ではこの生誕飾りがパセブラと呼ばれる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。パセブラには必ず[[カガネル]](排便人形)が飾られ、翌年の豊穣などを祈願する{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。この時期になると子どもはカガ・ティオー(糞しろ、丸太)と呼ばれる人形を作り、クリスマスに「糞しろ、丸太、糞しろ丸太」と歌いながら人形を棒で叩くと、菓子やおもちゃが貰える{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。

春季には聖週間や復活祭が行われ、白いシュロ飾りやチョコレート菓子などが登場する{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}。聖木曜の沈黙の行列を行う都市もあり、キリストの受難劇を含む行列を行う村もある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}。4月23日にはカタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの祭礼が行われ、人々はバラの花や本を贈りあう{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。夏至の時期である6月23日にはサン・ジュアンの祭礼が行われ、この日には爆竹を鳴らすのが一般的な風習となっている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}。カタルーニャの象徴である[[カニグー山|カニゴー山]]でたき火を行い、その火をカタルーニャの全自治体の祭礼会場に届けることでカタルーニャ地方の一体感を再確認する日でもある{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。9月24日はバルセロナの守護聖人であるマルセー(慈悲の聖母)の日であり、この日を中心とする一週間にはコンサート、マラソン、航空ショー、花火など様々なイベントが開催される{{sfn|立石|奥野|2013|pp=117-120}}。11月1日の諸聖人の日と11月2日の死者の日が祝われ、焼き栗などが食べられる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=110-114}}。

=== シンボル ===
[[File:Senyera (Pl. Octavià, S. Cugat del Vallès) 01.jpg|thumb|left|カタルーニャ国旗のサニェーラ]]

カタルーニャ州は自治州旗([[サニェーラ]])、国祭日([[ディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ|ディアーダ]])、自治州歌(『[[収穫人たち]]』)を有している{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}。

金色地に4本の赤線を引いたサニェーラが生まれたのは9世紀末であるとする伝承があり、1150年にはこのデザインがバルセロナ伯[[ラモン・バランゲー4世]]の紋章となった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}。やがて[[アラゴン連合王国|アラゴン=カタルーニャ連合王国]]の王家の象徴となり、1979年のカタルーニャ自治憲章でサニェーラがカタルーニャ自治州旗とされた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}。[[アラゴン州]]旗にも類似の図柄が採用されており、フランスの[[プロヴァンス]]地方の紋章も起源を同じくしている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}。

毎年9月11日はカタルーニャ国民の日(ディアーダ)と呼ばれる祝祭日であり、18世紀初頭の[[スペイン継承戦争]]でバルセロナが陥落した日(1714年9月11日)を由来としている<ref name=okuno2015/>{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。この戦争後にはブルボン朝によってカタルーニャ語の公的使用が初めて禁じられ{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}、カタルーニャ文化は衰退の時代を迎えた。カタルーニャ地方の自由と固有制度の喪失を想起させる日を記念日とすることで、自らのアイデンティティの保持を表明している{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}。1886年に初めてカタルーニャ国民の日が記念され、フランコ体制下でこの記念日は抑圧されたが、1980年にはカタルーニャ州政府によって復活した<ref>[http://www.enciclopedia.cat/fitxa_v2.jsp?NDCHEC=0047406&BATE=l%2520Onze%2520de%2520Setembre Onze de Setembre] Gran Enciclopèdia Catalana</ref>。カタルーニャ地方各地でスペイン継承戦争の英雄を追悼する行事が行われ、多くの市民がサニェーラなどを揺らす{{sfn|田澤|2013|pp=220-227}}。2012年には約150万人が参加する[[2012年カタルーニャ独立デモ|大規模な独立デモ]]が組織され<ref name=okuno2015/>、このデモによってカタルーニャ独立の機運が高まったとされる。

様々な行事で「傲慢な人びとよ、立ち去れ!」と歌われる『[[収穫人たち]]』は、1993年のカタルーニャ州議会の決議によって自治州歌とされた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=43-46}}<ref>[http://noticias.juridicas.com/base_datos/CCAA/ca-l1-1993.html Law 1/1993 National Anthem of Catalonia] Noticias Juridicas</ref><ref>[http://search.boe.es/datos/imagenes/BOE/1993/074/A09308.tif Law 1/1993]スペイン国家官報(BOE)</ref>。この歌は農民を中心とする民衆が権力者に対抗した[[収穫人戦争]](1640年-1650年)に由来する{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=49-52}}。

=== 世界遺産 ===
ユネスコの[[世界遺産]]にはカタルーニャ州から5件が登録されている。

* [[アントニ・ガウディの作品群]](1984年登録、2005年拡大)
* [[ポブレー修道院]](1991年登録)
* バルセロナの[[カタルーニャ音楽堂]]と[[サン・パウ病院]](1997年登録)
* [[タラゴナ]]の考古遺産群(2000年登録)
* [[バル・デ・ボイ]]のカタルーニャ・ロマネスク様式教会群(2000年登録)


<gallery>
<gallery>
File:Sagradafamilia-overview.jpg|[[サグラダ・ファミリア]]
File:Arroz negro.gif|イカスミ入りパエリャ
File:Hospital de Sant Pau 01.jpg|[[サン・パウ病院]]
File:Calçots i romesco.jpg|ロメスコソースをそえたカルソターダ
File:Poblet Monastery.jpg|[[ポブレー修道院]]
File:Fuet - photo from Flickr.jpg|オソナ郡特産のポークソーセージ、フエト
File:Meister aus Tahull 001.jpg|[[バル・デ・ボイ]]のフレスコ画
File:Blancher cava.JPG|カバのメーカー
File:Roman aqueduct Tarragona.jpg|[[タラゴナ]]のラス・ファレーラス水道橋
</gallery>
</gallery>

=== 芸術 ===
==== 音楽 ====
[[File:Liceu - Interior.jpg|thumb|left|リセウ大劇場の内部]]

19世紀後半に生まれた[[エンリケ・グラナドス]]と[[イサーク・アルベニス]]は、スペインの国民学派を代表する音楽家である{{sfn|田澤|2013|pp=149-154}}。グラナドスは演奏活動の傍らで音楽教育者としても成功したが、第一次世界大戦中にイギリス船でアメリカ合衆国に向かう途中、ドイツの潜水艦の攻撃を受けて亡くなった{{sfn|田澤|2013|pp=149-154}}。アルベニスは『スペイン組曲』や『イベリア組曲』などのピアノ曲を書き、音楽家や画家などに多くの友人がいた{{sfn|田澤|2013|pp=149-154}}。[[フェデリコ・モンポウ]]は「[[クロード・ドビュッシー]]の後継者」と呼ばれ、カタルーニャ民謡を用いた曲集やカタルーニャ語の歌曲などを残した{{sfn|田澤|2013|pp=149-154}}。[[パブロ・カザルス|パウ・カザルス]]は世界最高のチェリストと呼ばれる{{sfn|田澤|2013|pp=155-161}}。カザルスはスペイン内戦勃発後に亡命し、フランス領カタルーニャの[[プラード (ピレネー=オリアンタル県)|プラード]]で長らく暮らした{{sfn|田澤|2013|pp=155-161}}。プラードではカザルスが中心となったプラード音楽祭が開催されるようになり、『パセブラ』を作曲したのもこの地である{{sfn|田澤|2013|pp=155-161}}。1971年の国連総会ではカタルーニャ民謡『[[鳥の歌 (カザルス)|鳥の歌]]』を演奏し、自身を「カタルーニャ人」であると述べている{{sfn|田澤|2013|pp=155-161}}。

世界的なオペラ歌手の[[モンセラート・カバリェ]]と[[ホセ・カレーラス]]はカタルーニャ地方出身である{{sfn|田澤|2013|pp=161-168}}。カバリェは1965年にアメリカ合衆国で知名度を得て、その後世界的なスター歌手となった{{sfn|田澤|2013|pp=161-168}}。カレーラスはカバリェに見出され、1987年に発病した白血病を乗り越えて活躍している{{sfn|田澤|2013|pp=161-168}}。著名なオペラ歌手を輩出している背景には、19世紀前半に設立された[[リセウ音楽院]]と[[リセウ大劇場]]の存在がある{{sfn|田澤|2013|pp=161-168}}。

==== 美術 ====
[[File:CasaBatllo 0054.JPG|thumb|right|ムダルニズマ期にガウディが設計した[[カサ・バトリョ]]]]

カタルーニャ地方にアラブの遺跡はほとんど存在しない{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=136-137}}。11世紀以後にはカタルーニャのキリスト教美術が目覚ましく変化し、カタルーニャ地方のフレスコ画の数と質は西ヨーロッパで際立っているとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=137-140}}。ロマネスク様式の修道院・教会・大聖堂が数多く建設され、バルセロナ美術館にはいくつものロマネスク絵画の傑作が収蔵されている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=137-140}}。ゴシック時代にはカタルーニャ様式と呼ばれる簡素さを好む様式が生まれ、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土であったサルデーニャやナポリなどでもこの様式の特徴がみられる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=141-145}}。

政治的背景が理由で1500年頃のルネサンス期のカタルーニャ美術は低調だった{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=145-146}}。17世紀末にはカタルーニャにバロック美術の波が到来し、特に建築の分野で数多くの作品が残っている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=146-148}}。1750年以降にはネオ・クラシック美術の影響が強く、19世紀には建築がロマン主義に移行した。

19世紀後半には大都市の再開発が行われ、19世紀末には特に建築の分野でムダルニズマが花開いた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=150-153}}。[[アントニ・ガウディ]]は[[サグラダ・ファミリア]]教会に心骨を注ぎ、[[リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー|リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー]]や{{仮リンク|ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク|es|Josep Puig i Cadafalch}}も活躍した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=150-153}}。画家では[[サンティアゴ・ルシニョール]]や[[ラモン・カザス]]が登場し、彼らが開いたカフェ『[[四匹の猫]]』では[[パブロ・ピカソ]]の初個展が開催された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=150-153}}。

スペイン内戦が勃発すると多くの芸術家が亡命してパリや南仏に逃れたが、第二次世界大戦後にはカタルーニャで芸術活動が再開された{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|p=155}}。1960年代から1970年代には、[[ジョアン・ミロ]]と[[サルバドール・ダリ]]という2人のカタルーニャ人芸術家が名声を高めた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|p=155}}。1948年には{{仮リンク|ムデスト・クシャ|es|Modest Cuixart}}、{{仮リンク|ジュアン=ジュゼップ・タラッツ|es|Joan-Josep Tharrats}}、[[アントニ・タピエス]]が美術団体「ダウ・アル・セット」(サイコロにおける7の目)を結成し、後には3人ともに国内外で評価を高めた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=157-160}}。タピエスは現代のカタルーニャ美術界の代表的存在であり、様々な素材を用いて精神性や美を追求した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=157-160}}。1960年代以降にはカタルーニャの建築界が高い評価を受けており、世界的に{{仮リンク|ウリオル・ブイーガス|es|Oriol Bohigas Guardiola}}、[[リカルド・ボフィル]]らの名が知られている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=157-160}}。


=== 文学 ===
=== 文学 ===
==== 中世 ====
{{main|カタルーニャ語文学|:ca:Literatura catalana}}
[[File:Ramon Llull.jpg|thumb|left|「カタルーニャ語の父」ラモン・リュイ]]
{{節stub}}


12世紀のカタルーニャ人はカタルーニャ語ではなく主に[[オック語]]で詩作を行っていた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=82-86}}。13世紀に活動した[[ラモン・リュイ]]は「カタルーニャ語の父」と呼ばれており、小説とも言える『ブランケルナ』、哲学の方法論である『アルス・マグナ』などを著した{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。リュイの作品は内容の豊かさや言語的創造性の高さが注目され、普遍的な価値が認められている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=82-86}}。リュイの創作の中心は散文だったものの、韻文作品は他のカタルーニャ人詩人と同じくオック語で執筆している{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=82-86}}。14世紀のカタルーニャ地方では散文が優勢となり、ジローナ出身のフランセスク・アシメネス、祈祷師としてもヨーロッパ中で知られていたビセン・ファレーなどが登場した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=88-91}}。1323年のトゥールーズの詩会議では詩作法が定められたため、カタルーニャの詩人は[[プロヴァンス語]]で書いた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=88-91}}。
== 観光地と世界遺産 ==
[[ファイル:Sagradafamilia-overview.jpg|thumb|right|180px|[[サグラダ・ファミリア]]]]
カタルーニャ州では、次のものが[[世界遺産]]に登録されている。
* [[アントニ・ガウディの作品群]]
* バルセロナの[[カタルーニャ音楽堂]]と[[サン・パウ病院]]
* [[ポブレー修道院]]
* [[タラゴナ]]の考古遺産群
* [[バル・デ・ボイ]]のカタルーニャ・ロマネスク様式教会群


[[File:Tirante el Blanco 1511.jpg|thumb|right|マルトゥレイによる騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』]]
バルセロナはカタルーニャでの観光の中心ともなっている。[[モンセラート]]の修道院には多くの観光客が訪れる。


15世紀はカタルーニャ文学の黄金時代とされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=91-96}}。詩人の{{仮リンク|アウジアス・マルク|es|Ausiàs March}}と「イベリア半島初の小説」を書いた{{仮リンク|ジュアノット・マルトゥレイ|es|Joanot Martorell}}は、いずれもカタルーニャ語圏の[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]生まれの作家である{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=91-96}}。詩人の家系に生まれたマルクはほとんどカタルーニャ語のみを用いて10,263編の詩を残し、後世のカスティーリャ詩人やカタルーニャ詩人に影響を与えた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=91-96}}。その後のカタルーニャではイタリアやオリエント世界の影響を受けた[[騎士道小説]]が登場し、1490年にはマルトゥレイが騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』を著した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=96-99}}。[[ミゲル・デ・セルバンテス]]は『[[ドン・キホーテ]]』の主人公の言葉を借りて、騎士道小説としては『ティラン・ロ・ブラン』が最高であると称えている{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。ペルー人作家の[[マリオ・バルガス・リョサ]]は、マルトゥレイを「神の代理人の系譜の第一号である」と賞賛している{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。中世カタルーニャの詩や小説の繁栄に対して、演劇では優れた作品がなかったとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=99-100}}。
== 参考文献 ==

* 立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
{{quotation|わしはこの物語(『ティラン・ロ・ブラン』)を、たのしみの宝、なぐさみの泉と思ったことを覚えとりますて。(中略)この種の物としては、まことに世界一の本じゃ。よいかね、この物語では、騎士というものが飯をちゃんとくうし、眠るにも死ぬにも床へはいるし、臨終には遺言をしたためるし、どんな騎士物語にも書いてないいろいろの事をするのじゃ。|『ドン・キホーテ』第1部第6章<ref group="注">ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』永田寛定(訳), 〈岩波文庫〉, 岩波書店, 1988年を出典として、ジュアノット・マルトゥレイ, マルティ・ジュアン・ダ・ガルバ(作)『完訳 ティラン・ロ・ブラン』田澤耕(訳), 岩波書店, 2007年, p.1002の解説より引用。</ref>}}
* 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中公新書、2000年

* 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー』中央公論社、1996年
==== 文学の衰退期と再興 ====
* 樺山紘一『カタロニアへの眼』刀水書房、1979年
15世紀にはスペイン王国に併合された影響で、民衆は変わらずカタルーニャ語を使用していたものの、宮廷や知識人の間ではスペイン語化が進んだ{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=101-103}}。カタルーニャ地方が政治的・経済的に低迷した16世紀以後にはカタルーニャ文学も停滞し、16世紀から18世紀はカタルーニャ文学の衰退期と呼ばれてきた{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=101-103}}。一方、スペイン王国ではセルバンテスや[[ロペ・デ・ベガ]]などが登場してスペイン語文学が黄金期を迎え、カタルーニャ人作家もカタルーニャ語とスペイン語の両言語で創作活動を行った{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=101-103}}。17世紀・18世紀のカタルーニャでは口承文学が勢いを得て、民衆の間ではカタルーニャ語文学が生きながらえたことが19世紀の再興につながっている{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=101-103}}。

[[File:Ángel Guimerá, de Audouard.jpg|thumb|left|カタルーニャ最高の劇作家であるギマラー]]

1833年に{{仮リンク|ブエナベントゥラ・カルロス・アリバウ|es|Bonaventura Carles Aribau}}がカタルーニャ語で書いた詩『祖国』(1833年)を発端として、[[カタルーニャ語]]とカタルーニャ文化の復興運動である[[ラナシェンサ]](文芸復興)運動が興った{{sfn|関|立石|中塚|2008b|p=305}}{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=103-104}}。中世に開催されていた「花の宴」という詩歌競技会が復活し、「カタルーニャの国民的詩人」と呼ばれる[[ジャシン・バルダゲー]](『アトランティダ』)、劇作家の[[アンジャル・ギマラー]](『低地』『海と空』)などが活躍した{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。1904年の[[ノーベル文学賞]]はギマラーと[[フレデリック・ミストラル]]の共同受賞が予定されていたが、ギマラーは政治的活動が理由で受賞を逃している{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。

19世紀末には[[カタルーニャ・ナショナリズム]]が勢いを増した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=107-108}}。19世紀末から20世紀初頭には[[モデルニスモ|ムダルニズマ]](近代主義)運動が興り、画家でもあった[[サンティアゴ・ルシニョール]]、女流作家{{仮リンク|ビクトル・カタラー|es|Víctor Català}}、詩人[[ジュアン・マラガイ]]などが活躍した{{sfn|田澤|2013|pp=174-179}}。1906年頃から1923年頃にはノウサンティズマ(1900年主義)運動が興り{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=112-114}}、1910年代以降にはアバンギャルド文学が興隆した{{sfn|田澤|2013|p=179-185}}。1930年代には第二次共和政の教育政策や言語政策にも助けられ、カタルーニャ文学は特に詩などの分野で活況を呈した{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|p=116}}。

==== 内戦後の弾圧と現代 ====
1930年代の[[スペイン内戦]]後の[[フランコ体制下のスペイン|フランコ体制]]ではカタルーニャ語が弾圧され、カタルーニャ語作家は地下に潜伏するか他国に亡命した{{sfn|田澤|2013|p=179-185}}。1960年代になるとようやくカタルーニャ語文学の出版も可能となり、1961年にはカタルーニャ語で歌う{{仮リンク|ノバ・カンソー|es|Nova Cançó}}(新しい歌)運動が文学界にも影響を及ぼした{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=117-125}}。カタルーニャ語の限界を追求した{{仮リンク|ジュゼップ・ビセンス・フォシュ|es|Josep Vicenç Foix}}、内戦後もバルセロナで暮らした{{仮リンク|サルバドー・アスプリウ|es|Salvador Espriu}}などの詩は国外でも広く知られている。{{仮リンク|マヌエル・ダ・ペドロロ|es|Manuel de Pedrolo}}の『第二創世記のタイプ原稿』はカタルーニャ語文学史上最大の売り上げを記録している{{sfn|田澤|2013|p=179-185}}。マヨルカ島を舞台にした小説を書いた{{仮リンク|バルタサー・プルセル|es|Baltasar Porcel}}、『引き船道』などを書いた{{仮リンク|ジャズス・ムンカダ|es|Jesús Moncada}}は、いずれもノーベル文学賞の候補に推された{{sfn|田澤|2013|p=179-185}}。1970年代末の民主化以後のカタルーニャでは詩の分野で優れた作家が多いとされ{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=125-131}}、演劇界はさらなる創意工夫が必要であるとされる{{sfn|ジンマーマン|ジンマーマン|2006|pp=125-131}}。

=== スポーツ ===
[[File:Palau San Jordi Torre Calatrava Barcelona.jpg|thumb|right|[[バルセロナオリンピック]]の会場となった[[パラウ・サン・ジョルディ]]]]

カタルーニャ自治州政府は20世紀初頭からスポーツ振興に力を入れており、各競技のカタルーニャ代表を国際大会に参加させることを目標としている{{sfn|立石|奥野|2013|p=110}}。ローラーホッケーのカタルーニャ代表は暫定的に国際大会への参加を認められているが、その他の競技では国際大会への参加は実現していない{{sfn|立石|奥野|2013|p=110}}。

==== オリンピック ====
1931年の[[国際オリンピック委員会]](IOC)総会では1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。[[ナチス・ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]総統は[[ベルリンオリンピック]]を政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで[[人民オリンピック]]の開催が企画された{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。しかし、開会式当日の7月19日に[[スペイン内戦]]が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。それから56年後、カタルーニャ人の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]がIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出した[[バルセロナオリンピック]]が開催された{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。

==== サッカー ====
[[File:Chelsea on Tour - Barcelona 311006.jpg|thumb|left|FCバルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウ]]

[[FCバルセロナ]]はサッカーやバスケットボールなどの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、サッカー部門は世界戦略を展開する強豪クラブである{{sfn|立石|奥野|2013|p=104}}。マドリードに本拠地を置く[[レアル・マドリード]]とライバル関係にあり、両者の対戦は[[エル・クラシコ]]と呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず{{sfn|立石|奥野|2013|p=104}}、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である{{sfn|立石|奥野|2013|p=108}}。ホームスタジアムである[[カンプ・ノウ]]は、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した{{sfn|立石|奥野|2013|p=106}}。FCバルセロナはソシオと呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である{{sfn|立石|奥野|2013|p=105}}。

バルセロナにはFCバルセロナの他に[[RCDエスパニョール]]というサッカークラブもあり、1930年代初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる{{sfn|立石|奥野|2013|p=107}}。バルセロナの2クラブ以外には[[ジローナFC]]、[[ジムナスティック・タラゴナ]]、[[CEサバデル|CEサバデイ]]、[[CFバダロナ]]、{{仮リンク|UEリャゴステラ|en|UE Llagostera}}、[[リェイダCF]]などのクラブがある<ref>{{cite web |url=http://www.worldsoccer.com/columnists/steve-menary/problems-facing-football-in-an-independent-catalonia-340821 |title=Problems facing football in an independent Catalonia |publisher=World Soccer |date=2013-05-25 |accessdate=2016-01-06}}</ref>。カタルーニャ・サッカー連盟は[[サッカーカタルーニャ選抜]]を組織しており、毎年のクリスマス休暇には国外の代表チームなどを招いて親善試合を行っている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=109-110}}。

==== 闘牛 ====
[[File:050529 Barcelona 027.jpg|thumb|right|ムヌマンタル闘牛場]]

カタルーニャの[[闘牛]]が初めて文献に登場するのは1387年であり、1834年にはバルセロナにアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きな{{仮リンク|アレーナス闘牛場|es|Plaza de toros de las Arenas}}が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後の{{仮リンク|ムヌマンタル闘牛場|es|Plaza de toros Monumental de Barcelona}})が建設された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。バルセロナ以外ではフィゲーラス、タラゴナ、ジローナ、ウロット、サン・ファリウ・ダ・ギショルス、リュレット、ビックなどに闘牛場があり、一方でカタルーニャ地方南部では闘牛ではなく{{仮リンク|コラボウス|ca|Correbous}}([[エンシエロ|牛追い]])が人気だった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。

レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。2009年には[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、{{仮リンク|カタルーニャ国民党|es|Partido Popular de Cataluña}}と[[シウダダノス]]が反対票を投じ、[[集中と統一]]やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。

2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行され<ref>{{cite web |url=http://www.lasprovincias.es/rc/20100728/mas-actualidad/sociedad/debate-parlament-toros-201007280002.html |title=Las provincias. Cataluña prohíbe las corridas de toros |publisher=Las Provincias |date=2010-07-28 |accessdate=2016-01-06}}</ref>、禁止法に関連してタラゴナ県で盛んな{{仮リンク|トロ・アンブラード|es|Toro embolado}}(牛の角に松明を付ける祭礼)や牛追いの是非についての議論も沸き起こった<ref>{{cite web |url=http://www.elmundo.es/elmundo/2010/09/22/barcelona/1285150930.html |title=El Parlament blinda los 'correbous' dos meses después de prohibir los toros |publisher=[[エル・ムンド (スペイン)|エル・ムンド]] |language=スペイン語 |date=2010-09-23 |accessdate=2012-06-14}}</ref>。

== 食文化 ==
=== カタルーニャ料理 ===
[[File:La Boqueria.JPG|thumb|left|バルセロナの市場「[[ラ・ボケリア|ラ・ブカリーア]]」]]

カタルーニャ料理は[[ラード]]中心のスペイン田舎料理とオリーブオイル中心の地中海料理の双方の要素を併せ持っている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。変化に富んだ風土のために食材の多様性が豊かであり、多くの民俗と交流してきた歴史から料理法も豊富である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。カタルーニャ地方の焼き菓子には[[クレマカタラーナ|クレマ・カタラーナ]]や{{仮リンク|パナリェット|es|Panellet}}があり、11月1日の諸聖人の日には伝統的にパナリェットや焼き栗が食べられる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=131-132}}。

[[File:Rovellons.jpg|thumb|right|カタルーニャ地方で採れた野生のアカハツタケ]]

カタルーニャ人は日本人に劣らないほどのキノコ好きの民族であり、スペイン中南部のマドリードやアンダルシア地方をはるかに上回る種類のキノコが食される{{sfn|田澤|2013|pp=207-211}}。もっとも簡単な料理法はオリーブオイルとニンニクでソテーすることであるが、オムレツやスクランブルエッグなどの卵料理にも使用され、子牛の肉と一緒に煮込む料理はカタルーニャ地方の「おふくろの味」である{{sfn|田澤|2013|pp=207-211}}。日本に比べてキノコ狩りが盛んであり、またバルセロナの市場「[[ラ・ボケリア|ラ・ブカリーア]]」にはキノコ専門店がある{{sfn|田澤|2013|pp=207-211}}。

[[パ・アム・トゥマカット]]は[[パン・ド・カンパーニュ]]にトマトを塗ってオリーブオイルと塩を振りかけた簡素な料理であり、スペインの中でも特にカタルーニャにのみ見られる料理である{{sfn|田澤|2013|pp=204-207}}。焼き野菜や[[アンチョビ]]などを乗せることもあり、パ・アム・トゥマカットはカタルーニャ人のアイデンティティの拠り所{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}、カタルーニャ人の国民食ともいわれている{{sfn|田澤|2013|pp=204-207}}。

2011年度のスペイン版[[ミシュランガイド]]で三ツ星を獲得したレストランは7軒あったが、うち4軒はカタルーニャ地方のレストランだった{{sfn|田澤|2013|pp=214-219}}。ジローナ県の[[ロザス湾]]近郊には[[フェラン・アドリア]]がオーナーシェフを務めている[[エル・ブジ]]があり、世界の料理界を驚かせた独創的な料理で知られる{{sfn|田澤|2013|pp=214-219}}。

=== 魚・野菜・肉 ===
[[File:Fideua - xurde.jpg|thumb|left|パエリアの一種であるフィデウアー]]

白身魚とエビや貝などをトマトベースで煮込んだ[[ブイヤベース]]、魚介類のスープ、白身魚のソテー、フライ、アンチョビなどのオイル漬けなど、地中海に面したカタルーニャでは豊富な魚介類料理がある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。タラと野菜のサラダであるアスカシャーダ、サラダにアンチョビやタラを添えてソースをかけたシャトーなどがカタルーニャ地中海沿岸料理の典型である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。

[[File:Fuet - photo from Flickr.jpg|thumb|right|ビック周辺で食べられるフエット]]

肉や魚ではなく野菜をメインに据えた料理が多いのもカタルーニャ料理の特徴である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。パプリカやナスや玉ねぎなどの焼き野菜である{{仮リンク|アスカリバーダ|es|Escalivada}}があり、サラダにソーセージや卵などを乗せたものは「カタルーニャ風サラダ」と呼ばれる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。カタルーニャ料理には松の実が多用され、松の実を加えて炒めたほうれん草は「ほうれん草のカタルーニャ風」と呼ばれる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。カタルーニャでコメは野菜の一種であり、バレンシア風パエリア、土鍋で炊いたリゾットなどがある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。木曜日には外食でパエリアを食べる習慣があり、パエリアのコメの代わりにパスタを用いる{{仮リンク|フィデウアー|es|Fideuá}}はカタルーニャ地方南部の沿岸部の名物である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。冬季の郷土料理として{{仮リンク|カルソッツ|es|Calçot}}(焼きネギ)があり、家族や友人が集まった際にネギを焼いてパーティをすることも多い{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。

カタルーニャでは一般的に牛、羊、鶏、七面鳥、ウサギ、豚などの肉類が食べられ、煮込むことの多い牛肉の食べ方にはフランス料理の影響も見られる{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。ソーセージの種類は豊富であり、焼いたソーセージに白インゲン豆を添えて、[[アイオリソース]]で食べるのがカタルーニャ風である{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。バレアレス諸島のソーセージとして{{仮リンク|ソブラサーダ|es|Sobrasada}}があり、ビック周辺では細めのサラミである{{仮リンク|フエット|es|Fuet}}が作られている{{sfn|立石|奥野|2013|pp=127-130}}。

=== ワイン ===
[[File:Cava (5303223614).jpg|thumb|right|スパークリングワインであるカバ]]

{{main|カタルーニャのワイン}}

カタルーニャ州は[[地中海性気候]]の影響を強く受けており、地中海沿岸部は温暖で一定の降水量があるが、内陸部に入るにつれて気候は乾燥する<ref>{{cite book|first=Jancis |last=Robinson |authorlink=ジャンシス・ロビンソン|year=2006 |title=The Oxford Companion to Wine |publisher=Oxford University Press |volume=3 |isbn=0-19-860990-6}}</ref>。カタルーニャ地方はローマ時代からヨーロッパにおける一大ワイン産地であり{{sfn|田澤|2013|pp=211-214}}、現代のスペインワイン革新の先駆者的な存在であるとされている<ref name=otaki67>{{cite book|和書|last=大滝 |first=恭子|last2=永峰 |first2=好美|last3=山本 |first3=博|authorlink3=山本博 (弁護士)|year=2015|title=スペイン・ワイン|publisher=早川書房|pages=67-71}}</ref>。カタルーニャ州のワインの特色には、多様なワインを生産していること、外国品種と固有種を組み合わせた新しいスタイルのワインを生産していることの2点が挙げられる<ref name=otaki67/>。

今日、この地域のブドウ畑の70%は白ブドウ品種が占めている<ref>{{cite book |title=The Sotheby's Wine Encyclopedia |last=Stevenson |first=Tom |publisher=Dorling Kindersley |year=2005 |isbn=0-7566-1324-8}}</ref>。[[プリオラート (DOQ)]]はリオハ (DOC)とともにスペインで2つしかない[[デノミナシオン・デ・オリヘン|特選原産地呼称]](DOC)産地である{{sfn|田澤|2013|pp=211-214}}。この地方のワインの代名詞的存在として[[スパークリングワイン]]の[[カバ (ワイン)|カバ]]がある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=78-81}}。[[サン・サドゥルニ・ダノヤ]]などの[[ペネデス (DO)]]がカバの産地であり{{sfn|田澤|2013|pp=211-214}}、輸出量の観点で言えばカバはリオハ (DOC)を凌いでスペイン最大のワイン産地である。カタルーニャ地方の主要なワイナリーには、カバの[[フレシネ]]社、カバの[[コドルニウ]]社、スティルワインの[[ミゲル・トーレス (ワイナリー)|ミゲル・トーレス]]社などがある{{sfn|立石|奥野|2013|pp=78-81}}{{sfn|田澤|2013|pp=211-214}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 関連項目 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
* [[ピレネー条約#カタルーニャの行く末]]
|last=池上 |first=岑夫
* [[スペインの歴史]]
|authorlink=池上岑夫
* [[アラゴン王国]]
|last2=牛島 |first2=信明
* [[バルセロナ伯]]
|authorlink2=牛島信明
* [[カタルーニャ君主国]]
|last3=神吉 |first3=敬三
* [[アラゴン連合王国]]
|authorlink3=神吉敬三
* [[カガネル]]
|last4=金七 |first4=紀男
* [[サッカーカタルーニャ代表]]
|authorlink4=金七紀男
* [[FCバルセロナ]]([[バルセロナ]]のサッカークラブ)
|title=スペイン・ポルトガルを知る事典
* [[RCDエスパニョール]](バルセロナのサッカークラブ)
|publisher=平凡社
* [[FCバルセロナ (バスケットボール)]]
|year=1992
* [[.cat]]
|others=監修はほかに小林一宏, フアン・ソペーニャ, 浜田滋郎
* [[:en:Pi de les Tres Branques]](英語) - カタルーニャの象徴的な木である三枝のヨーロッパアカマツ
|isbn=
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|last=川成 |first=洋
|authorlink=川成洋
|last2=坂東 |first2=省次
|authorlink2=坂東省次
|title=スペイン文化事典
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}}
* {{cite book|和書
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|title=カタロニアへの眼
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* {{cite book|和書
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|title=カタルーニャの歴史と文化
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* {{cite book|和書
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<!--* {{cite book|和書
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* {{cite book|和書
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* {{cite book|和書
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* {{cite book|和書
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}}
* {{cite book|和書
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<!--* {{cite book|和書
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* {{official|http://www.gencat.cat/}} {{ca icon}} {{es icon}} {{en icon}}
* [http://www.gencat.cat/ Generalitat de Catalunya] - 州政府のサイト(カタルーニャ語、スペイン語、英語)
* [http://home.att.ne.jp/banana/cck/link.html 関西カタルーニャセンター]
* [http://www.spain.info/ven/comunidades-autonomas/cataluna.html カタルーニャ] スペイン政府観光局 {{ja icon}}
* [http://www.spain.info/ven/comunidades-autonomas/cataluna.html スペイン政府観光局オフィシャルサイト カタルーニャ](日本語)
* [http://home.att.ne.jp/banana/cck/link.html 関西カタルーニャセンター] {{ja icon}}

* [http://www.helpcatalonia.cat/ HELP CATALONIA] (英語)
** [http://www.helpcatalonia.cat/2014/09/tokyo-university-of-foreign-studies.html Tokyo University of Foreign Studies offers Catalan language and culture studies] (英語)
* [http://www.vilaweb.cat/opinio_contundent/4207574/why-catalans-are-separatist.html Why Catalans are separatist] - なぜカタルーニャは独立しようとしているのか (英語)
* [http://www.economist.com/blogs/prospero/2014/07/johnson-languages-spain How to make a country for everybody] - カタルーニャ・ナショナリズムとカタルーニャ語について (英語)


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2016年1月30日 (土) 08:27時点における版

カタルーニャ州

Catalunya
Cataluña
Catalonha
カタルーニャ州旗
カタルーニャ州の紋章
紋章
収穫人たち
北緯41度49分 東経1度28分 / 北緯41.817度 東経1.467度 / 41.817; 1.467座標: 北緯41度49分 東経1度28分 / 北緯41.817度 東経1.467度 / 41.817; 1.467
国名 スペイン
州都 バルセロナ
政府
 • 種別 自治権委譲(立憲君主制憲政下)
 • 議会 カタルーニャ州政府
 • 首相 カルラス・プッチダモン (ジュンツ・パル・シ)
面積
 • 合計 32,114 km2
面積順位 6位 (スペイン中6.3%)
人口
(2005)
 • 合計 7,364,078人人
 • 密度 223.9人/km2
 • 順位
2位 (スペイン中15.96%)人
呼称
 • スペイン語 catalán/-ana
 • カタルーニャ語 ccatalà/-ana
ISO 3166コード CT
自治州法 2006年改正
(1979年制定[1]
公用語 スペイン語カタルーニャ語アラン語
下院 47人(350人中)
上院 23人(264人中)
ウェブサイト カタルーニャ州政府

カタルーニャ州カタルーニャ語: Catalunya [kətəˈluɲə], スペイン語: Cataluña, アラン語Catalonha)は、スペイン自治州。州都はバルセロナ

カタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた[2]。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している[2]

1979年に自治州の地位を得た[1]

名称

「カタルーニャ」(Catalunya)という名称の語源は不明であるが、スペイン辺境領に基づくこの地方の諸伯領を総称する地名として、12世紀以後に使われ始めた[3]。名称の起源には様々な説があるが、どの説も決め手に欠けるとされる[4]。「城代」を意味するcastellanusまたはcatlanusがcataláに変化し、やがてCataluñaとなったとする説があるが、この説は言語学的に無理があるとされる[4]。カロリング朝フランク王国時代のスペイン辺境伯領は「ゴート人の土地」を意味するGotholandiaとして知られる土地であり、Gotholandia がCataluñaとなったとする説があるが[4][5]、言語学的に無理がある[4]、単純すぎる[6]とされる。Otgar Golantという貴族の居城Cathaló城が由来であるとする説、アラビア語で「城」を意味するcálatとアラゴン地方の古地名Talunyaが由来であるとする説、バルセロナ郊外にある地名Montcadaが由来であるとする説、ラケタニ族(Lacetani)が由来であるとする説などもある[4]

英語表記はCataloniaであり、英語表記に由来するカタロニアと書かれることもある[7]

地理

位置・形状・面積・人口

カタルーニャ州の衛星画像

カタルーニャ州はイベリア半島スペインの北東部にあり、地中海盆地の北西岸にある[8]。面積はスペイン全土の6.4%にあたる約32,000km2であり[9]、スペインの17自治州中第6位である[10]。面積は日本の関東地方とほぼ等しい[11]。緯度は北緯42度付近であり、日本での同緯度地域は北海道南部である[10]

人口はスペイン全土の16%にあたる約750万人であり[10]、ヨーロッパの中では主権国家であるデンマークよりもやや多く[8]、日本の九州地方の約半分である[12]。人口密度ではマドリード州バスク州に次いで17自治州中第3位である[10]。バルセロナを中心とするバルセロナ都市圏に人口が集中しており、バルセロナの自治体人口は約160万人、都市圏人口は約210万人である[10]

南側でバレンシア州と、西側でアラゴン州と州境を接しており、北側でフランスミディ=ピレネー地域圏ラングドック=ルシヨン地域圏)と国境を接している[1]。地中海を挟んでバルセロナの南200kmにはバレアレス諸島(バレアレス諸島州)がある[10]。バルセロナからスペインの首都マドリードまでの距離は約600kmであり、日本では東京都から神戸市とほぼ等距離である[10]。地中海岸、ピレネー山脈、エブロ川流域をそれぞれ辺とする「三角形」の形状をしており、中世にはすでにカタルーニャ地方の形状が三角形であると言及されていた[13]

地勢

カタルーニャの地理区分
    ピレネー山脈
    前ピレネー
    カタルーニャ中央低地
    カタルーニャ海岸山脈

カタルーニャ州の地形は起伏に富んでおり、3つの地理区分に分けることができる。フランス国境ともなっている北のピレネー山脈、地中海沿岸にあるカタルーニャ海岸山脈と平地に挟まれた部分、中央部のカタルーニャ中央低地スペイン語版である。平地は地中海岸とエブロ川流域にわずかにあるのみである[13]。地中海に面した海岸線の長さは580kmに及ぶ[10]

北部から中央部にはピレネー山脈の東部と前ピレネーが連なる[7]。カタルーニャ州の最高峰は、ピレネー山脈のピカ・ダスタツスペイン語版(3,143m)である。フランス領カタルーニャに山頂があるカニゴー山(2,785m)は、18世紀までカタルーニャ最高峰とされていた。カタルーニャ州の大部分は標高数百メートルの高原であり、ピレネー山脈の高峰を除けば急峻な山岳は存在しない[13]

カタルーニャ州の主要な河川には、エブロ川リュブラガット川テル川があり、いずれも地中海に注いでいる[1]。エブロ川はイベリア半島で最大の流域面積を持つ河川であり、カタルーニャ州最南端部で地中海に注ぐ[13]。エブロ川の支流であるセグラ川はピレネー山脈から南西に向かって流れ、リェイダ県にカタルーニャ中央低地を形成している。リュブラガット川の河口部にはバルセロナを中心とするバルセロナ都市圏が形成されており、ジローナ(テル川)とリェイダ(セグラ川)もそれぞれ河川の河岸に市街地が形成されている[13]

気候

地中海に面したリゾート地であるカダケス

カタルーニャ州の気候は変化に富んでおり、概して地中海性気候であるものの、地域によって異なる[10]タラゴナ県バルセロナ県ジローナ県の沿岸部は地中海性気候であるが、 リェイダ県やバルセロナ県などの内陸部は大陸性地中海性気候英語版の様相を見せる。ピレネー山脈の山々は山岳気候か、高い頂上では高山気候である。

地中海沿岸の夏季は暑く降水量に乏しく、最高気温は摂氏30度前後となるが、海風は湿気を含んでいる。一方でピレネー山脈地方では夏季の降水量が多く、しばしば嵐となる。冬季のピレネー山脈は寒く、しばしば降雪がある。降雪は沿岸部など標高の低い場所でもしばしば見られる。春季と秋季には全域で降水量が多い。ピレネー山脈に近い山間部は別として、カタルーニャ州の大部分では雪が積もったり厳しい寒さとなることがなく、地中海岸には冬季でも暖房なしで過ごせる場所もある[14]

夏季の内陸部は沿岸部より暑く乾燥する。気温は最高で摂氏35度を超え、稀に摂氏40度に達することもある。海岸では夜になると摂氏14度から摂氏16度と涼しくなる。谷や平野では一般的に霧は見られないが、セグラ川流域などでは雨氷が冬季の風物詩となっている。ただし、イベリア半島の他地域と比べると夏季の気温は穏やかであり、概してイベリア半島の他地域よりも降水量が多い[14]

ヨーロッパの地中海沿岸地域の中では相対的に降水量が多く、バルセロナの平均降水量は800mmに達する[14]。降水量600mmの等雨線はほぼリュブラガット川に沿っており、リュブラガット川よりも北東側は「湿ったカタルーニャ」、南西側は「乾いたカタルーニャ」と呼ばれる[15]。この等雨線は生態相の境界にもなっており、北東側は樹林が、南西側は灌木が卓越している[16]。気候的な観点以外に、歴史的な観点でもリュブラガット川は北東側の旧カタルーニャと南西側の新カタルーニャを隔てる境界である[15]

バルセロナの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 13.4
(56.1)
14.6
(58.3)
15.9
(60.6)
17.6
(63.7)
20.5
(68.9)
24.2
(75.6)
27.5
(81.5)
28.0
(82.4)
25.5
(77.9)
21.5
(70.7)
17.0
(62.6)
14.3
(57.7)
20.0
(68)
日平均気温 °C°F 8.9
(48)
10.0
(50)
11.3
(52.3)
13.1
(55.6)
16.3
(61.3)
20.0
(68)
23.1
(73.6)
23.7
(74.7)
21.1
(70)
17.1
(62.8)
12.6
(54.7)
10.0
(50)
15.6
(60.1)
平均最低気温 °C°F 4.4
(39.9)
5.3
(41.5)
6.7
(44.1)
8.5
(47.3)
12.0
(53.6)
15.7
(60.3)
18.6
(65.5)
19.3
(66.7)
16.7
(62.1)
12.6
(54.7)
8.1
(46.6)
5.7
(42.3)
11.1
(52)
降水量 mm (inch) 41
(1.61)
39
(1.54)
42
(1.65)
49
(1.93)
59
(2.32)
42
(1.65)
20
(0.79)
61
(2.4)
85
(3.35)
91
(3.58)
58
(2.28)
51
(2.01)
640
(25.2)
平均降水日数 (≥1 mm) 5 4 5 5 5 4 2 4 5 6 5 5 55
平均月間日照時間 149 163 200 220 244 262 310 282 219 180 146 138 2,524
出典:世界気象機関[17]、スペイン気象庁(AEMet)[18]

地域

カタルーニャ州の州都バルセロナ

カタルーニャ州はバルセロナ県ジローナ県リェイダ県タラゴナ県の4県からなり[7]、それぞれ県名と名前を同じくするバルセロナジローナリェイダタラゴナが県都である[10]。41のクマルカ(郡)と947のムニシピ(基礎自治体)がある。郡境は県境と一致しない場合があり、例えばサルダーニャ郡は東側半分がジローナ県、西側半分がリェイダ県である[19]

県と県都

県都 面積(km2) 人口
(2010年[20]
人口密度
(人/km2
自治体数 単一居住
地域数[注 1]
バルセロナ県 バルセロナ 7,726.4 5,526,536 713.3 311 1,312
ジローナ県 ジローナ 5,905.0 756,293 127.5 221 1,091
リェイダ県 リェイダ 12,168.4 441,858 36.1 231 1,020
タラゴナ県 タラゴナ 6,308.2 810,564 128.2 184 475
カタルーニャ州 32,108.0 7,535,251 234.0 947 3,898

主な自治体

順位 基礎自治体 人口
(2010年)
1 バルセロナ バルセロナ県 1,619,337
2 ロスピタレート・ダ・リュブラガート バルセロナ県 258,642
3 バダローナ バルセロナ県 218,886
4 タラサ バルセロナ県 212,724
5 サバデイ バルセロナ県 207,338
6 タラゴナ タラゴナ県 140,184
7 リェイダ リェイダ県 137,387
8 マタロー バルセロナ県 122,905
9 サンタ・クローマ・ダ・グラマネート バルセロナ県 120,060
10 レウス タラゴナ県 106,622

歴史

先史時代

カタルーニャ最古の人類の痕跡が残るアラゴ洞窟

カタルーニャ地方に残る最古の人類の痕跡は、トータヴェル(現フランス・ピレネー=オリアンタル県)近郊のアラゴ洞窟カタルーニャ語版に残るリス氷期(約30万年前)のものである[21]。中期旧石器時代(紀元前8万年-紀元前3万5000年)にはカタルーニャの大部分にネアンデルタール人が住んでおり、後期旧石器時代(紀元前3万5000年-紀元前1万年)にはカタルーニャ全体で5,000-8,000の人口があったとされる[21]。旧石器時代にはカタルーニャ北東部(ジルネース、アンプルダー)と南部(バッシュ・カム、プリウラット)に居住者が多く、地方外のバレンシアガンディア(いずれも地中海沿岸で現バレンシア州)などの地域とも交流があった[21]

新石器時代(紀元前6000年-紀元前3000年)にはムンサラット文化が生まれ、集団埋葬が行われた[21]青銅器時代(紀元前3000年-紀元前2000年)には大きな部族が誕生し、北部では巨石記念物の文化が発達した[21]鉄器時代(紀元前2000年-紀元前1000年)にはケルト人ピレネー山脈を超えてやってきて、火葬の文化や金属加工の技術をもたらした[21]

古代

ローマ時代に建設されたタラゴナの水道橋

エーゲ海のロドス島からはギリシア人がやってきて、紀元前776年にはカタルーニャ北東端のロザス湾に面するロザスに植民市を建設した[21]。紀元前575年頃には小アジアのポカイア人がアンプリアスを建設している[21]

カタルーニャはローマ人のイベリア半島征服の拠点のひとつとなったが、カルタゴ人と衝突して地中海沿岸で領土争いを繰り広げた[22]第二次ポエニ戦争の紀元前218年にはカルタゴのハンニバルがカタルーニャを通ってローマに進軍したが、紀元前216年にはローマがエブロ川以北の土地を占領し、そこにタラコ(現・タラゴナ)を建設した[22]。紀元前197年にはイベリア半島の北半分にヒスパニア・キテリオール英語版属州(共和政ローマ期)が設置され、ローマ人はこの地方のローマ化を推進した[22]。タラコに加えてバルセロナトゥルトーザという3つのローマ植民市が建設され、ローマ人は旧ギリシア植民市の港を流用した[22]。タラコはヒスパニア・キテリオール属州から再編されたヒスパニア・タラコネンシス属州(帝政ローマ期)の首都となり、ローマ支配下のイベリア半島でもっとも重要な都市だった[22]

3世紀以後には北方からフランク族などがタラコネンシス属州に侵入し、5世紀には農民の反乱が興って多くの町が放棄された[23]。480年以降には西ゴート族がカタルーニャを含むイベリア半島の占領を進めていった[23]。テウディス(531年-548年在位)は短期間バルセロナを拠点としたが、後継者のアタナギルドはトレドに首都を移し、589年にはイベリア半島が統一されて西ゴート族の中央集権国家が誕生した[23]。カタルーニャは周縁の地位に甘んじ、一方で一定の独立性を保った[23]

中世

9世紀のスペイン辺境領

711年にはイスラーム教徒ムーア人がイベリア半島に侵入すると、その分遣隊はわずか数年間にリェイダ、ジローナ、タラゴナ、バルセロナが相次いで征服した[24]。カタルーニャはイスラーム教徒の支配下に入り、リュブラガット川以北の「旧カタルーニャ」ではイスラーム教徒の支配が100年間にも満たなかったが、リュブラガット川以南の「新カタルーニャ」は12世紀半ばまでイスラーム教徒の支配下にあった[23]

785年にはカロリング朝フランク王国カール大帝軍がジローナを征服し、801年にはフランク王国のルイ1世(敬虔帝)軍が包囲戦の末にバルセロナを征服した[25][24]。これによって旧カタルーニャがフランク王国に編入され、795年にはイスラーム勢力に対する緩衝地帯の役割を果たすスペイン辺境領が設置された[25]。878年にはギフレー1世スペイン語版(多毛伯)がバルセロナ伯に任ぜられ、後の歴史家はギフレー1世がカタルーニャの初代君主であると考えている[25]。ギフレー1世はその子孫がバルセロナ伯を継承する世襲制を確立させ、この王朝は1412年まで続いた[25]。985年から988年にはイスラーム勢力のアル=マンスール軍がバルセロナの町を破壊して略奪したが、これに対してフランク王国が救援を行わなかった。このことがきっかけでバルセロナ伯はユーグ・カペー西フランク王として承認することを拒否し、987年にカタルーニャ君主国が生まれた。カタルーニャが主権への道を歩み出したのはこの1000年頃であるとされる[25]

カタルーニャ君主国

イベリア半島におけるレコンキスタの経過

カタルーニャ君主国には封建制が定着していき、他のキリスト教勢力とともにレコンキスタ(国土回復運動)に関与した[26]。1090年にはタラゴナ、1148年にはトゥルトーザ、1149年にはリェイダがキリスト教徒の手に戻り、1153年にはカタルーニャ君主国の境界がエブロ川まで南下した[26]。新カタルーニャに住んでいたイスラーム教徒には権利や宗教が保障され、キリスト教徒は征服した土地への植民を行った[26]

アラゴン=カタルーニャ連合王国

アラゴン=カタルーニャ連合王国を成立させたペトロニーラ(左)とラモン・バランゲー4世(右)

1137年にはバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世が、隣国アラゴン王国の女王ペトロニーラと婚姻関係を結んで王位継承権を得た[26][27]。ここにアラゴン=カタルーニャ連合王国と呼ばれる同君連合が成立したが、バルセロナ伯とアラゴン王国の独自性は維持された[26]。「カタルーニャ」という名称が初めて文献に登場するのはこの時代であり、アラゴン王国と対比してバルセロナ伯が統治する土地を指す際に使用された[26]。1147年にはカスティーリャ王国のアルメリア征服を支援したことで、アリカンテまでの地中海沿岸がカタルーニャの土地となり、ラモン・バランゲー4世はイベリア半島でもっとも強大な権力を持つ君主となった[26]

バレアレス諸島を再征服したハイメ1世
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バレアレス諸島を再征服したハイメ1世

以後のバルセロナ伯はピレネー山脈以北への進出を試み、1179年にはアルフォンス1世がラングドック地方をバルセロナ伯の支配下に置いた[28]。アルフォンス1世の治世(1162年-1196年)でピレネー以北の領土が最大に達したが、1213年にはラングドック地方を手放した[28]ハイメ1世(ジャウマ1世)(征服王)は1229年にイスラーム教徒からマヨルカ島を奪還し、1231年にはバレアレス諸島全体を征服し、1238年にはバレンシア王国を征服し、1265年から1266年にはムルシアを征服した[28]。ハイメ1世はコルツと呼ばれる身分制議会(聖職者・貴族・王領)を導入し、財政・司法・立法などに権限を及ぼした[28]。定期的に開催されたコルツは13世紀末に最盛期を迎え、1283年にはすべての法律の制定にはコルツの承認が必要であるとする決定が下されている[29]。1354年にはジャナラリタット(議会の決定の執行機関)が常設され、君主の不在時や緊急時にはジャナラリタットが国家を統治している[29]。1258年にはハイメ1世とフランス王ルイ9世の間でコルベイユ条約が結ばれ[28]、フランスは正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。

1282年にはイタリア半島の南に位置するシチリア島の住民がアンジュー朝に対する暴動シチリアの晩祷を起こし、アラゴン王ペラ2世がシチリア王に据えられた[29][30]。カタルーニャとアラゴンの傭兵部隊であるアルモガバルスビザンツ帝国アンドロニコス2世パレオロゴスに雇われ、オスマン帝国軍を小アジアまで押し戻した[29]。しかし、雇用主のビザンツ帝国が1305年にアルモガバルスの首領ルジェ・ダ・フローを暗殺したことで、アルモガバルスはビザンツ帝国内で「カタルーニャの復讐」と呼ばれる報復を行い、アテネ公国を占領、ネオパトリア公国を樹立した[29]。ハイメ1世の死去後、次男のジャウメ3世英語版に与えられたマヨルカ島は独立したマヨルカ王国となっていたが、1344年にはペラ3世がマヨルカ王国をアラゴン=カタルーニャ連合王国の手に戻した[29]。カタルーニャが「君主国」(principat)と呼ばれるようになったのはペラ3世の治世である[29]

アラゴン=カタルーニャ連合王国の最大版図(1443年)

ハイメ1世がカタルーニャの地中海進出の基礎を築き、その後継者らが「カタルーニャ帝国」とも呼ばれる地中海帝国を形成させた[29]。カタルーニャは海図の製作技術に優れ、船足の早いガレー船を建造することができ、地中海沿岸の主要な港に商品の集散基地を持った[29]。カタルーニャ人商人は、北アフリカのマグレブ地方、ギリシャのロドス島キプロス島、西アジアのダマスクスなどにも勢力を伸ばし、地中海中央部ではシチリア島が政治的な拠点となった[29]。絶頂期は1320年-1330年頃まで続いたが、14世紀にはペストの流行、イナゴの大量発生、地震、飢饉などの災難に見舞われ、1390年のカタルーニャの人口は1300年の75%にまで落ち込んだ[29]。この一方で、首都バルセロナには地中海全体に権限が及ぶ商業組織ができ、15世紀初頭のバルセロナには商品取引所が存在した[29]。14世紀中頃には海事慣習法集が作成され、1484年に刊行されると数世紀に渡って地中海地域共通の慣習法として用いられた[29]

1410年にはバルセロナ伯のマルティン1世が男子の跡継ぎを残さずに急逝したために、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3王国が投票するカスペの妥協で後継者を選出し、カスティーリャ・トラスタマラ家出身のフェルナンド・デ・アンテケーラ(フェルナンド1世)がカタルーニャ君主国の新君主に選ばれた[29]。1443年にはカタルーニャのアルフォンス5世がナポリ王国の王位に就いた。アルフォンス5世の治世にはイベリア半島、イタリア半島(ナポリ王国)、アルバニア、スロベニア、マルタ、エーゲ海のいくつかの島が支配下にあり、アラゴン=カタルーニャ連合王国の版図は最大となった[31]。北アフリカにあるいくつかの王国からは貢物が届き、カタルーニャの船舶はエジプトの港に自由に入港できた[31]

低迷・従属の時代

スペイン王国時代

1659年のピレネー条約でフランスに割譲された地域(深緑)とカタルーニャ(淡緑)

1469年、アラゴン王子フェルナンド(後のフェルナンド2世)とカスティーリャ王女イサベル(イサベル1世として1474年に即位)が結婚した。1479年にはフェルナンド2世がアラゴン王となり、この年はスペインが統一された年、カタルーニャにとって政治的独自性を奪われた年であるとされる[32]。この婚姻によってアラゴン=カタルーニャ連合王国とカスティーリャ王国が統合されたわけではなく、それぞれの領域の法制度は維持された[32]。しかし、当時のカタルーニャ=アラゴンとカスティーリャの国力の違いは明白であった[32]。14世紀と15世紀にカタルーニャの人口は激減し、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われた[32]。さらには大航海時代が到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋に移っていた[32]。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸との貿易や植民活動から、カタルーニャ=アラゴンは排除された[32]。16世紀と17世紀はカタルーニャにとって「衰退の時代」と呼ばれる[33]。地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向は強まり、フェルナンド2世は副王を置いてカタルーニャを統治した[32]

1640年から10年余り続いた収穫人戦争(カタルーニャ反乱)は、スペインが世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える[34]。この時、カタルーニャはフランス王国への編入を決議してフランス軍を迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権の保持を主張し、フランスの宰相であったリシュリューを辟易させたと言われている[34]。これは、中世から続くカタルーニャの自治意識を踏まえれば、フランスの絶対王政に拒否感を示したのは無理のないことだった[34]。また、フランス軍が進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍に協力しようとせず、呆れたフランス軍がカタルーニャの防衛を放棄して撤退したほどであった[34]。要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こうが構わない」という考え方だったのである[34]。1652年に降伏したバルセロナはスペイン王国のフェリペ4世の支配下に戻り、フアン・ホセ・デ・アウストリア副王によって融和政策がとられた[33]フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年に結ばれたピレネー条約では、カタルーニャの意思とは無関係にルセリョー英語版郡(ペルピニャンなど)、クンフレン英語版郡(プラードなど)、バリャスピー英語版郡(セレなど)、カプシー英語版郡(Formiguèresなど)、アルタ・サルダーニャ英語版郡などがフランスへ割譲された(フランス領カタルーニャ[33]

18世紀

スペイン継承戦争中の第3次バルセロナ包囲戦

1700年にカルロス2世が死去するとスペイン継承戦争(1701年-1714年)が起こった[35]フェリペ5世は中央集権的・権威主義的であったため、カタルーニャはバレンシアとともにカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の側について戦い、オーストリアとイギリスはバルセロナでカール大公を王座に就けた[35]。1705年の第1次バルセロナ包囲戦、1706年の第2次バルセロナ包囲戦はカール大公側が優勢だったが、徐々にフェリペ5世側が巻き返した。1711年にカール大公の神聖ローマ皇帝への即位が決定し、カール大公がバルセロナを去ると、その後はカタルーニャが主要な戦場となった[35]第3次バルセロナ包囲戦を経て1714年9月11日にはバルセロナが陥落し、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれた[35]。自由を奪われた日である9月11日は、後に「ディアーダ」と呼ばれる国民の祝日となっている。1716年に布告された新国家基本法英語版によって議会や政府などが廃止され、公的な場でカタルーニャ語を使用することが禁じられた[35]。カタルーニャの独立性が奪われた一方で、この中央集権化で18世紀の経済発展の引き金になったとする見方もある[35]

新国家基本法(1716年)

1726年から1728年頃にはカタルーニャ経済が上向き、人口が増大した。1718年のバルセロナの人口は3万4000人だったが、1789年には10万人に、18世紀末には12万5000人に達したとされる[36]。18世紀前半には特に農業が発展し、ブドウの栽培が拡大した[36][37]。18世紀後半には商業が発展し、小麦の輸入、ワインと蒸留酒の輸出が行われた[36]。新大陸市場はスペインの他地域に独占されていたが、1778年にはカタルーニャの商人に対してアメリカ全地域の貿易許可が下りた[36]。羊毛産業・製紙業・製油業・製鉄業が活性化された後に、18世紀後半には綿織物工業が生まれ、インド更紗がカタルーニャの綿織物の名声を築いた[36]。カタルーニャはスペイン随一の経済先進地域となった[36]

カタルーニャの中でも沿岸部はブドウ・アーモンド・ハシバミなどの商業作物の栽培で繁栄したが、内陸部は小麦とオリーブという伝統的な農業に依存していた[38]。カタルーニャ内での農村部から都市部への移動が行われ、19世紀前半にバルセロナは人口が急増した[38]

19世紀

1848年にスペインで初めて開通した鉄道(バルセロナ=マタロー)

1832年にはミュール紡績機が初めて導入され、リュブラガート川テル川に沿って水力を利用するいくつもの工業団地が建設された[39]。1848年にはカタルーニャ初の鉄道がバルセロナ=マタロー間に開通し、1860年代までに主に地元資本によって鉄道網が築かれた[38]。1844年のバルセロナ銀行を契機に相次いで銀行が設立され、1851年にはバルセロナ株式市場が設立された[39]。1830年代には初めて労働者によるストライキが行われ、1840年にはスペイン初の労働組合と機織工組合がカタルーニャで生まれた[39]。1787年には9万5000人だったバルセロナの人口は、工業化の影響で1857年には18万4000人と倍増し、カタルーニャ全体の14%を占めた[40]。バルセロナでは繰り返し都市暴動が起こり、共和主義・民主主義を求める声が強まり、労働者が組織だって闘争を行った[40]

1856年時点でカタルーニャの人口はスペイン全体の10%にすぎなかったが、綿工業ではスペイン全体の94%、綿工業を含む繊維工業では66%、繊維工業を含む製造業では26%を占めている[37]。19世紀半ばにはカタルーニャが「スペインの工場」となったものの、バスク地方と違って石炭・鉄鉱石の天然資源を欠くカタルーニャでは製鉄業は栄えず、さらなる工業化の障壁となった[38]。1860年代末には連邦共和主義が台頭し、労働運動が盛んに行われた[41]

第一次カルリスタ戦争におけるカルリスタ勢力の分布図

第一次対仏大同盟の一環であるピレネー戦争(1793-1795、大戦争)では、カタルーニャを中心とするスペイン=フランス国境地帯が戦場となり、一時はカタルーニャ北部がフランス軍に占領された[42]。1790年代後半から1800年代のスペインはイギリスに対して長期間の抗争を行い、これによってカタルーニャ経済は大きな影響を受けた[42]半島戦争(スペイン独立戦争、1808年-1814年)中にはフランス軍のデュエーム将軍がバルセロナに入城したが、カタルーニャ全土でフランスに対する抵抗運動が起こった[43]。スペイン独立戦争では多くの犠牲者が出て、カタルーニャ社会は不安定な状況となった[43]。1820年にはバルセロナでクーデターが起こり、1822年には農民反乱が起こっている[43]。神聖同盟諸国はこの状況を憂慮し、1823年から1827年にはフランス軍がスペインに侵入してバルセロナを占領している[43]。1833年にはスペイン王国の摂政となった自由主義派のマリア・クリスティーナが中央集権をいっそう推し進めたため、保守主義派(カルリスタ)は前王の弟であるカルロスを擁立してマリア・クリスティーナに対抗[44][45]第一次カルリスタ戦争(1833年-1840年)が勃発し、カルリスタ側に就いたバルセロナでは自由主義的法制に対して蜂起が起こっている[44]。1842年にはバルセロナの職人集団が摂政バルドメロ・エスパルテロ将軍に対して反乱を起こし、スペイン軍によるバルセロナ包囲戦が行われた[44]。1846年から1849年にはカタルーニャを舞台として第二次カルリスタ戦争が起こっている[44]

1868年にはカタルーニャ地方出身のフアン・プリム将軍がクーデター(九月革命)を起こしてエスパルテロ政権を倒しているが、このクーデターはカタルーニャがスペインを連邦制に向かわせた試みであるとされる[44]。カタルーニャでの第三次カルリスタ戦争(1872年-1876年)はバスク地方ほどの勢力には至っていない[41]。1873年にスペイン第一共和政が成立すると、エスタニスラオ・フィゲラスフランセスク・ピ・イ・マルガイスペイン語版というカタルーニャ人が大統領に就任している[41][44]。第一共和政は約2年間の短命に終わり、1875年にはアルフォンソ12世が即位して王政復古がなされた[41]

カタルーニャ三大工場建築のひとつ「カザラモーナ工場」(1912年)

19世紀半ばにはブエナベントゥラ・カルロス・アリバウスペイン語版が書いたカタルーニャ語詩『祖国』(1833年)を発端として、カタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(ルネサンス)運動が興った[46]。当初は教養人による民俗や文芸の再評価に過ぎなかったものの、やがてカタルーニャ語復権運動に変化し、1871年にはアンジャル・ギマラーによって文芸誌『ラ・ラナシェンサ』が創刊された[46]。19世紀末にはムダルニズマという建築や美術中心の文芸運動が興り、建築の分野ではアントニ・ガウディリュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネーなど、美術の分野ではラモン・カザスサンティアゴ・ルシニョールなどが活躍した。

王政復古後のスペインでは保守党と自由党という二大政党制が築かれたが、1880年代にはカタルーニャ主義を掲げる勢力が台頭し、1891年設立のカタルーニャ主義連合は中央政府に対してカタルーニャの自治を要求するマンレザ綱領を策定した[47]アンリク・プラット・ダ・ラ・リバスペイン語版は1901年にリーガ・ラジウナリスタスペイン語版(地域主義連盟)を結成し、この地方のブルジョワの支持を得た[47]。19世紀末のカタルーニャ地方はスペイン全体の約10%の人口を有していたが、繊維生産の約80%、国内総生産の15%以上を占めており、「スペインの工場」と呼ばれた[47]。鉄鉱石や石炭などの資源を欠くために製鉄業は発展しなかったが、綿工業ではスペインで独走状態にあった[39]。1898年のスペインの米西戦争敗北とキューバの喪失はカタルーニャ経済にも打撃を与えたが、この敗北でカタルーニャ主義は勢いを強めた[47]

20世紀

悲劇の一週間で煙を上げるバルセロナの町(1909年)

20世紀前半のバルセロナは人口が100万人を超え、域外出身者比率が34.2%となった結果、住宅・衛生環境・教育などの移民問題が発生した[48]。20世紀初頭には水力発電による電化が進み、第一次世界大戦の戦争特需では金属・化学・セメントなどの産業が発展した[49]。1909年7月末には「悲劇の一週間」と呼ばれる市民暴動・政府軍による弾圧が起こり、113人が死亡して数千人が投獄された[50]。1914年にはカタルーニャの4県による連合体、マンクムニタットスペイン語版が発足した[51]。言語学者のプンペウ・ファブラはカタルーニャ語の文法・正書法・辞書を著してカタルーニャ語の擁護運動に大きく貢献した[51]。1917年にはリュイス・クンパンチなどが主導するカタルーニャ共和党(現・カタルーニャ共和主義左翼:ERC)が設立され、1919年にはフランセスク・マシアスペイン語版がナショナリスト民主連合を組織した[51]

初代ジャナラリタット首相のマシア

1923年にはミゲル・プリモ・デ・リベラ軍事独裁政権が誕生し、公共の場でのカタルーニャ語使用や民俗舞踊であるサルダーナカタルーニャ語版の禁止、民族旗の追放など、カタルーニャに対する弾圧が行われた[52]。マシアらは国際的反響を呼ぶ抵抗運動を行い、7年間の独裁政権を経てカタルーニャ・ナショナリズムは急進化した[52]。1931年にはスペイン第二共和政が成立すると、ジャナラリタット(自治政府)が発足し、1932年9月にはスペイン国会で1932年カタルーニャ自治憲章スペイン語版が承認された[53]。10月には初のカタルーニャ議会選挙が開催され、ERCのマシアが初代カタルーニャ首相に就任した[53]。1934年にはスペイン国会で右派が政権を獲得し、中央政府に反発したクンパンチが逮捕されて自治憲章が無期限停止となった[54]。1936年には再び左派の人民戦線が勝利し、カタルーニャ自治憲章が復活した[54]

1936年にはバルセロナで人民オリンピックが開催される予定だったが、開会の直前にスペイン内戦が勃発した。1938年3月にはバルセロナが反乱軍による無差別爆撃を受け、4月にはリェイダが占拠された[55]。フランコによってカタルーニャ自治憲章が廃止され、1939年1月26日にはバルセロナが反乱軍の手に陥落した[55]。カタルーニャにおけるスペイン内戦の犠牲者数は7万人以上に上るとされる[55]。カタルーニャでは共和国側の犠牲者が多かった一方で、フランコ体制を支持していた多数の聖職者が反体制派のアナーキストによって殺害されている[56]

フランコ体制下(1939-1975)

1939年以後のフランコ体制下のカタルーニャでは、カタルーニャ語とカタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧がなされた[57][58]。自治政府や自治憲章が廃止され、首相のクンパンチは銃殺されたほかに、多くの共和国支持者が投獄・処刑された[58]。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名が禁じられ、スペイン継承戦争後にカタルーニャ自治の象徴となったカザノバの像は撤去された[59][56]。1939年から1953年までのカタルーニャ地方では、クンパンチも含めて3,585人が軍法会議にかけられて銃殺された[57]

国際的孤立やマーシャル・プランからの除外などが影響して、1940年代のスペイン経済は壊滅的な状況にあった[58]。さらには、フランコはスペイン内戦時に人民戦線の支配下にあったカタルーニャやバスク地方以外の地域での産業振興を行い、1950年前後までのカタルーニャ経済は停滞を余儀なくされた[57]。工業指数が1930年の水準に戻ったのは1951年のことであり、部門別労働者比率でも1930年と1950年は似たような値を示している[57]

1960年代から1970年代初頭のカタルーニャでは急速な経済成長が起こり、外国資本の投資や観光客が増加した[60]。労働力が農業から工業やサービス業に転換[59]。観光業・関連サービス業・商業・金融業などの第三次産業が発展し、金属・化学・建設などの工業生産指数も伸びた[60]。バルセロナには国策自動車会社セアトの工場が建設され、小型車セアト600は高度成長のシンボルとなった[59]。観光業の発展によって、ヨーロッパ北部からコスタ・ブラバなどに多数の観光客が押し寄せた[58]

1961年にはノバ・カンソー運動(新しい歌)がカタルーニャ語の復権に先鞭を付け、カタルーニャ語教育への関心も高まった[61]。1967年には文化支援団体オムニウム・クルトゥラル英語版が設立され、カタルーニャ語講座や文学コンクールの主催、民間教育機関の設立などを行った[59]。1971年には反フランコ派が結集してカタルーニャ会議が結成された[61][59]

カタルーニャ自治州

自治州発足(1975-)

1975年にフランコが死去すると、アドルフォ・スアレス内閣の下でスペインの民主化英語版が進められた。1977年6月には1936年以来初となる民主的総選挙(1977年スペイン議会総選挙)が行われ、カタルーニャでは左派政党が約5割、カタルーニャ民族主義政党が3/4の得票を得た[62]。スアレス首相はジャナラリタット(自治政府)の復活を優先し、1977年10月にはタラデーリャスが政党の枠組みを超えたジャナラリタットを組織した[62]。スアレス首相の下で地域主義を容認するスペイン1978年憲法が制定され、1979年カタルーニャ自治憲章スペイン語版が制定されてカタルーニャ自治州が発足した。1977年9月11日のカタルーニャ国民の日には参加者数が100万人を超えるデモが行われている[63]

1973年には経済の急成長が頭打ちとなり、1979年の第二次石油危機では繊維・金属・電化製品・建設の各業界が打撃を受け、1982年にはカタルーニャ銀行が倒産した[64]。1979年の失業率は8.9%だったが、1985年には22.8%にまで上昇し、スペイン平均を上回る高い数字を示した[64]。世界経済の復調に合わせて、1985年頃からはカタルーニャ経済も回復。1986年にはスペインがヨーロッパ共同体(EC)に加盟し、経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出した外国企業はスペイン全体の1/3を占めた[65]。1992年にはスペイン初の夏季オリンピックとしてバルセロナオリンピックが開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしている[65]。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、国内移民に代わってEU外からの移民が増加した[65]

独立運動(2006-)

独立デモで振られる独立旗のアスタラーダ
独立志向の高まり

2003年には23年ぶりにCiUが政権党から外れ、州首相となったPSCのパスクアル・マラガイ英語版は自治憲章の改正に着手[66]。2006年には民族としての独立性、カタルーニャ語をスペイン語に優先して公用語として使用すること、財政・司法・域内行政など自治権の拡大を謳った新たな2006年カタルーニャ自治憲章スペイン語版が制定された[67][68]

しかし、スペインの二大政党のひとつで右派の国民党はこの自治憲章が違憲であるとしてスペイン憲法裁判所に提訴し、2010年6月28日には民族性や独立性の部分が違憲であるとする判決が下された[67][68]。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており[69]、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため、カタルーニャ州住民はソブリン危機に端を発するスペイン経済危機の状況下で不満を募らせていた[68][70][71]。カタルーニャ州内の税金の90%は国庫に納められてから再配分されるが、州内から拠出された額よりも州内に投資された額が少ない「財政赤字」が問題となっている[72]。カタルーニャ州は毎年約8%の「財政赤字」を抱えており、これは国際的にも異例なほど高い数字であるとされる[72]バルセロナ大学経済学部長のアリゼンダ・パルジーアはカタルーニャの状況を「スウェーデン並みの税金を払いながら、スペイン平均以下の社会サービス」と語り、そのような状況にもかかわらずエゴイスティックであると批判されることに抗議している[72]

カタルーニャ・ナショナリズムの機運が高まったのは、自治憲章の違憲判決と税制の不公平感という2点が理由である[68]。独立支持派がはっきりと増加するのは、この2010年半ばのことである[72]。1990年代のカタルーニャ独立支持派は3割程度だったが、2010年代には5割を超えるほどになった[73]。2014年10月に世論研究センター(CEO)が「ここ数年で独立主義者になった」カタルーニャ住民に対して理由を問うた調査では、第1位が「中央政府のカタルーニャに対する言動」(42%)であり、第2位の「経済問題/税の配分問題」(13.4%)を大きく引き離している[72]

大規模街頭デモ
独立運動の起点となった2010年の大規模街頭デモ

2010年7月10日にはオムニウム・クルトゥラルが「私たちはネーションだ、決めるのは私たちだ」をスローガンとする抗議デモを主催し、1977年のデモをしのぐ110万人が参加した[73][72]。2011年11月には中央集権志向が強い国民党政権(ラホイ政権)が誕生し、2012年後半には独立支持派が飛躍的に増加[72]。2012年9月11日のカタルーニャ国民の日には、「カタルーニャ、新しいヨーロッパ国家」をスローガンとして150万人が参加した大規模なデモが行われた[68]。カタルーニャ州の人口の20%にも相当する人々がバルセロナ中心部に集まり、いくつもの大通りが独立旗を掲げる人々で埋まった[68]。このデモは世界的にみて近年初の大規模民族主義デモであり、その規模の大きさが世界中でニュースとなった[74]。この大規模デモから2か月後の11月25日に行われたカタルーニャ州議会選挙では、独立賛成派の4政党が計87議席と、全体の約3分の2の議席を獲得した[75]。2013年のカタルーニャ国民の日には「人間の鎖」に類する「カタルーニャ独立への道」が組織され、約160万人のカタルーニャ市民がカタルーニャ旗を掲げながら、平和的に400キロメートルに渡って手を繋ぎ合った[72][76]。1714年から300年の節目の年である2014年のカタルーニャ国民の日には、180万人がバルセロナの2本の通りに並んで「V」の人文字を作り、さらには人文字を黄地に赤縞のサニェーラ色に染め上げた[74]。2015年のカタルーニャ国民の日には約180万人が参加したデモが行われ、「カタルーニャ共和国」の成立を目指して国外からも著名人が招待された。

独立プロセスの進行

2014年11月9日に実施されたカタルーニャ州独立を問う住民投票では、「カタルーニャ州は国家であるべきであり、独立を望む」とする声が80.76%に達した[77]2015年カタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派の総得票率は47.7%と過半数に達しなかったものの[78]、議席数では過半数の135議席中72議席を獲得し[79]、州議会選挙から約2か月後には州議会がカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択した[80][81]。2016年1月にはジュンツ・パル・シカルラス・プッチダモンがマスの後任の州首相に就任し、18か月で「カタルーニャ共和国」を建国する見通しを示した。

政治

23年間も州首相の座にあったプジョル

1975年にフランコが死去し、1976年からアドルフォ・スアレス政権によって政治改革が進められると、その過程で1977年9月29日にはスアレス首相によってジャナラリタット(自治政府)の復活が宣言された[82]。その後カタルーニャ自治憲章の策定が行われ、スペイン国会での可決と住民投票での承認を経て、1979年12月18日に自治州の地位を得た[1]。この自治憲章はスペイン1978年憲法で認められる最大限の権限移譲を意図して策定されたものであり、1932年の自治憲章よりも強い権限が認められている[82]。カタルーニャは「自治地域」(1932年自治憲章)よりも強い「民族体」であると明記され、「カタルーニャの固有の言語」であるとされたカタルーニャ語が自治州公用語となった[62]。スペインの17自治州のうちバスク州とナバーラ州の2自治州は独自の徴税権を認められたが、カタルーニャ州は他の14自治州と同じく、一度国庫に納めた税金を中央政府から交付される体制が取られ[82]、権限が不十分なものであるとする声もあった[62]

民主化後初となる1977年スペイン議会総選挙では、左派のカタルーニャ社会党スペイン語版(PSC)がカタルーニャ州の第一党となった。一方で、1980年に行われた初のカタルーニャ州議会選挙ではカタルーニャ民族主義の集中と統一(CiU)が第一党となり、CiUはジョルディ・プジョル州首相の下で23年間もカタルーニャ州の政権を維持した[83]。国政選挙では左派のPSCが優勢、州議会選挙ではカタルーニャ民族主義のCiUが優勢であり、選挙の種類によって有権者の投票行動が変化するという特殊な状況が長く続いた[83][62]。スペイン中央政府からの権限移譲は順調に進み、カタルーニャ州政府は1980年代半ばから教育・文化政策、福祉政策、環境、領土整備、医療、公共事業、司法、言語政策などの権限を持つようになった[82][83]。スペイン議会総選挙でCiUは権限移譲を目的に、右派・左派を問わずその時々の政権と議会内協力を行った[83]。カタルーニャ州最大の都市であるバルセロナ市議会やその周辺地域の自治体議会では、常にPSCが支配的である[83]

2003年の州議会選挙ではCiUが第一党を守ったが、PSC、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)、カタルーニャ緑のイニシアティブ(ICV)の3政党による連立政権が誕生し、PSCのパスクアル・マラガイ英語版が州首相に就任した[84]。2010年の州議会選挙ではCiUが政権に返り咲き、アルトゥール・マスが州首相に就任した。カタルーニャ・ナショナリズムの趨勢が大きく変化した2012年の州議会選挙ではERCが躍進し、CiUとERCが議会内協力を結んでマスが州首相に再選[84]。2015年には「カタルーニャ独立の賛否」を単一の争点とした州議会選挙が行われ、集中と統一を構成していたカタルーニャ民主集中(CDC)とERCが中心となったジュンツ・パル・シ(JxS)が第一党となった。

カタルーニャ自治州議会

ジャナラリタットと呼ばれるカタルーニャ自治州政府はバルセロナに置かれており、カタルーニャ自治州議会カタルーニャ自治州首相カタルーニャ語版カタルーニャ自治州内閣カタルーニャ語版によって構成されている。

政党

経済

ライトアップされたトーレ・アグバール

カタルーニャは18世紀末から19世紀前半にかけて、繊維産業を契機として機械・金属・化学と発展していく産業革命が生じたスペイン唯一の地域であり、今日でも社会経済的特徴として豊かな産業集積が挙げられる[72]。近現代から今日に至るまで、カタルーニャはバスク地方とともにスペイン経済を牽引してきた地域である[72]。経済拠点としてのバルセロナの影響圏はカタルーニャ州内に留まらない[87]

2000年から2006年のカタルーニャ州の産業別従業者比率は、第一次産業が2.8%、第二次産業が37.2%、第三次産業が60%であり[88]、スペイン平均と比較すると第二次産業の比率が高い。

スペインの貯蓄銀行スペイン語版46行のうち10行がカタルーニャ州を拠点としており、ラ・カイシャスペイン語版(ラ・カッシャ)はヨーロッパ随一の貯蓄銀行である[89]。スペイン初のプライベート・バンクサバデイに拠点を置くサバデイ銀行であり、今日ではスペインのプライベート・バンクで第4位である[90]

住民の勤勉さや、ヨーロッパや中近東へのアクセスの良さなどから、多くの外国企業がカタルーニャ州に進出しているものの[10]、独立問題に揺れる近年の政治情勢を踏まえて、州内からスペインの他地域に企業が移転する傾向がある。2014年には987社が州内からスペインの他地域(主にマドリード州)に移転し、スペインの他地域から州内に移転した企業は602社にとどまった[91]。2015年時点のカタルーニャ州の長期信用格付は、スタンダード&プアーズによればBB(投資不適格)[92]ムーディーズによればBa2(投資不適格)、フィッチ・レーティングスによればBBB-(低投資適格)である[93][94][95]。いずれの格付機関においてもカタルーニャ州の長期信用格付はスペインの自治州内で最下位タイである[95]

域内総生産(GRP)

2010年代のカタルーニャ州の域内総生産はスペイン全体の約20%(2013年度は18.8%)を占め、スペインの17自治州中もっとも経済規模が大きな自治州である[72]。2010年代の域内総生産はアイルランドフィンランドポルトガルを上回り、デンマークに匹敵する[8][12]。2014年のカタルーニャ州の域内総生産(GRP)は1997億9700万ユーロであり、スペインの17自治州中第1位だった[96]。1人あたり域内総生産は26,996ユーロ/人であり、マドリード州(31,004ユーロ)とバスク州(29,683ユーロ)とナバーラ州(28,124ユーロ)に次いで17自治州中第4位だった[97]。この年の域内総生産成長率は1.4%だった[97]

第一次産業

主要な産業は工業、観光業、農業、漁業である[10]。伝統的な農業には、輸出品としてのブドウ、アーモンド、オリーブ栽培や、ワイン、オリーブオイル生産、内部重要向けのコメ、ジャガイモ、トウモロコシ栽培がある[1]。今日では耕地面積が大きく減少している上に、伝統的作物のオリーブやブドウの畑が、都市で消費される果実や野菜の畑に取って代わっている[1]。ブタやウシの畜産は盛んになっている[1]。カタルーニャ州沿岸の地中海では多様な魚類が獲れることで知られており、これはカタルーニャ州に著名なレストランが多いことの一因となっている[10]

第二次産業

カタルーニャの織物業が初めて文献に登場するのは1283年から1313年の間であり、織物業は長らくこの地域の主産業であり続けた[1]。19世紀のカタルーニャでは産業革命が起こり、19世紀半ばには「スペインの工場」となった[38]。特に綿工業を中心とする繊維工業が栄えたものの、バスク地方と違って石炭・鉄鉱石の天然資源を欠いたため、製鉄業や造船業などの重工業は発展しなかった[38][39]。スペイン初の労働組合はカタルーニャで誕生している[39]。バルセロナは製紙、グラフィックアート、化学、金属加工が卓越しており、織物業の中心はサバデイやタラサである[1]。バルセロナには日本の自動車会社である日産の工場がある[1]。カタルーニャで石油の需要が増加したことで、タラゴナの石油精製所が拡張された[1]

第三次産業

スペイン初の高速自動車道路は、フランスのペルピニャンとバルセロナを結ぶ道路だった[98]。夏季にはイギリスや北ヨーロッパから地中海岸のコスタ・ブラバなどに多くの観光客が押し寄せる[10]ピレネー山脈はウィンタースポーツや登山などが人気である[10]。2012年には観光税の徴収を開始した[99]。この税収は観光促進や観光関連インフラの充実に使用される[99]

社会

人口

カタルーニャ州の人口分布図

14世紀末のカタルーニャ地方の人口は約45万人と推定されており、18世紀初頭までほぼ変化がなかったとされているが、18世紀以後に大きく変化した[100]。1787年のカタルーニャの人口は87万人だったが、1857年には165万人となり、スペイン全土に占める比率も7.8%から10.7%に増加した[38]。19世紀前半にはまだ国内移民は多くなく、基本的には産業革命の進行による自然増によるものである[38]。1900年には196万人(スペイン比10.5%)だったが、アラゴン・バレンシア・ムルシア・アルメリアなどからの国内移民が増加した結果、1930年には279万人(同11.8%)まで増加した[49]。バルセロナではこの30年間に人口が倍増して100万都市となったが、その影響で都市環境の悪化に悩まされている[49]。スペイン内戦とその後の混乱で人口の伸びが停滞し、1950年の人口は324万人だったが、1960年代以降の経済成長で大量に国内移民を受け入れたことで、1975年には566万人にまで急増した[101]。1961年から1975年の間に、アンダルシア地方などからカタルーニャに95万人が流入している[59]。1970年にはカタルーニャの人口の38%が非カタルーニャ人であり、乱開発、インフラや公共サービスの不足、公害などの生活環境の悪化につながった[59]

民主化後の1980年代にはカタルーニャ経済が低迷し、1981年には595万人、1991年には605万人と、人口の伸びは低調だった[64]。1990年代にはEU外からの移民が増加し、2003年の外国人居留者は約40万人(6%)に上っている[65]。2003年時点での国籍別ではモロッコ人(30%)、エクアドル人(6%)、ペルー人(4.6%)の順に多く、地域としてはラテンアメリカ諸国、北アフリカ、アジア諸国からの移民が多い[10]。2008年のカタルーニャ州の人口は7,354,411人であり、そのうちの移民の比率は12.3%であった。面積2,268km2のバルセロナ都市圏には3,327,872人が暮らし、バルセロナの中心部から半径15km以内に約170万人が暮らしている[102][103]。カタルーニャの人口は沿岸部に偏っており、内陸部の人口は減少傾向にある[1]

言語

カタルーニャ語で書かれたものとしては最古とされる12世紀の文書

カタルーニャの固有言語はカタルーニャ語であり、カタルーニャ語はスペイン語よりもフランス語イタリア語に近い言語である[72]。バルセロナを含むカタルーニャ州東部では主にカタルーニャ語中部方言が、カタルーニャ州西部では主にカタルーニャ語北西部方言が話され、標準カタルーニャ語は中部方言に基づいている[104]。カタルーニャ州でカタルーニャ語を理解する住民は約95%、話したり書いたりできる住民は約75%であるが、カタルーニャ語を母語としている住民は約30%、「自分の言語」としている住民は50%弱である[105]。ピレネー山中にあるアラン谷ではオック語の一つでガスコーニュ語の方言であるアラン語が話されており、2010年にはスペイン語とカタルーニャ語に加えてアラン語もカタルーニャ州全体の公用語に規定された[106]

言語の歴史

9世紀にはこの地域のラテン語の文章の中にカタルーニャ語の特徴を持った単語や表現が現れ、11世紀末にはカタルーニャ語で書かれた文章が登場した[104]。13世紀にはアラゴン=カタルーニャ連合王国がバレンシア地方やバレアレス諸島を征服して今日のカタルーニャ語圏に近い地域が統一され、「カタルーニャ語の父」ラモン・リュイなどがカタルーニャ語の成熟に貢献した[104]。15世紀は「カタルーニャ語文学の黄金世紀」だったが、16世紀から18世紀にはカタルーニャ語文学が衰退し、18世紀初頭のスペイン継承戦争後には中央集権的政策が進められてカタルーニャ語の公的な使用が禁じられた[107]。19世紀半ばからはラナシェンサと呼ばれる文芸復興運動が起こり、スペイン第二次共和政下の1932年にはカタルーニャ地方での公用語に位置づけられた[104]

1930年代後半のスペイン内戦後に国歌の中央集権化を推し進めたフランコ体制下(1939-1975)では、公的使用が禁じられて弾圧を受けた[104]。内戦以前のカタルーニャでは年間700冊以上の書籍・年間200冊以上の雑誌が出版されていたが、カタルーニャ語出版物は全面的に禁じられた[56]。自治体・道路・広場などの名称はスペイン語名に変更され、カタルーニャ語名を戸籍簿に登録することが禁じられた[57][58]。カタルーニャ主義に関与した教育関係者は一様に罷免され、カスティーリャ地方やエストレマドゥーラ地方からスペイン語教師が送り込まれている[56]。カタルーニャ文化の規制は1946年に緩和され、1962年には実質的に自由化されたが、公教育やマスメディアでカタルーニャ語の使用が始まるのはフランコ死去後のことである[56]

1. カタルーニャの独自の言語はカタルーニャ語である。
2. カタルーニャ語はカタルーニャの公用語である。また、スペイン国家全体の公用語であるスペイン語も公用語である。 — 1979年カタルーニャ自治憲章第3条

民主化後に制定されたスペイン1978年憲法では各自治州が独自の公用語を用いることを認めており、カタルーニャ州はスペイン語に加えてカタルーニャ語も公用語とした[108][109]。1983年には言語正常化法を制定し、1998年には言語正常化法を発展させた言語政策法を制定した[67][109]。公立の初等・中等教育ではほぼすべてでカタルーニャ語が採用されており、カタルーニャ語は教育言語として定着している[109]。1998年にはエル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ紙がスペイン語版に加えてカタルーニャ語版の発行も始め、2011年にはカタルーニャ地方最大の新聞であるラ・バングアルディア紙も追随した[109]。カタルーニャ公営鉄道、バルセロナ地下鉄、バスなどの公共交通ではカタルーニャ語が基本であり、レンフェ(スペイン国鉄)は両言語でアナウンスしている[109]。カタルーニャ州の言語政策は国家公用語であるスペイン語を軽視していると批判されることもある[109]。なお、1993年に独立国家となったアンドラ公国はカタルーニャ語を公用語としている[108]

文化

民俗

人間の塔

人間の塔(カステイス)はカタルーニャの象徴の一つとされる組体操であり、結束・団結・努力などカタルーニャ人の民俗的特質を表しているとされる[110]。大きなものでは約150人が参加し、3階建てのビルに相当する約10mの塔を組む[111]。人間の塔は18世紀末にタラゴナ地方のバイスで生まれたとされており[111]、20世紀前半には消滅しかけたものの、1960年代以降にカタルーニャ文化が見直されるようになるとカタルーニャ地方全土に広がった[110]。1990年代にブームが起こり[111]、2010年時点では56のチーム、8,000人が活動しているとされる[110]。2010年には「人間の塔」が、「ベルガのパトゥム」に次いでカタルーニャ地方で2番目の無形文化遺産となった[110][111]

カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊としてサルダーナカタルーニャ語版がある[112]。男女が交互になって手を高く上げて繋ぎ、輪を描くようにして踊る[112]。サルダーナはリズムの取り方やステップの踏み方が独特である[112]。サルダーナは激しく情熱的なフラメンコとは対比的であり、闘牛(スペインの象徴)と人間の塔(カタルーニャの象徴)の関係に似ているとされる[111]。フランコ体制下ではサルダーナは禁じられており、20世紀初頭や1970年代末の民主化以後にカタルーニャ精神の象徴であるとする意味合いが込められた[112]

祭礼

ラ・セウ・ドゥルジェイでの巨人人形

スペイン北部の祭礼には巨人人形が登場することがあり、約3-4mの人形の中に人間が入ってパレードに参加する[112]。バルセロナのマルセーの祭礼では、巨人人形に加えて、ドラゴンやタラスク(亀と蛇が合体した怪物)などの人形もそろって行進し、夜間にはドラゴンやタラスクが爆竹を鳴らし火を噴きながら歩くコラフォックが行われる。

ベルガでは聖体祭にパトゥムスペイン語版という祭礼が行われ、巨人人形やドラゴンに似た怪物や巨人人形がパレードや寸劇を繰り広げる[113][114]。2005年にはカタルーニャ地方で初めて「ベルガのパトゥム」がユネスコ無形文化遺産に登録された[113][114]

カガネル人形

スペインではクリスマスキリストの降誕の場面を模したベレン(Belén)と呼ばれる立体模型を製作することが多いが、カタルーニャ地方ではこの生誕飾りがパセブラと呼ばれる[115][114]。パセブラには必ずカガネル(排便人形)が飾られ、翌年の豊穣などを祈願する[114]。この時期になると子どもはカガ・ティオー(糞しろ、丸太)と呼ばれる人形を作り、クリスマスに「糞しろ、丸太、糞しろ丸太」と歌いながら人形を棒で叩くと、菓子やおもちゃが貰える[114]

春季には聖週間や復活祭が行われ、白いシュロ飾りやチョコレート菓子などが登場する[115]。聖木曜の沈黙の行列を行う都市もあり、キリストの受難劇を含む行列を行う村もある[115]。4月23日にはカタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの祭礼が行われ、人々はバラの花や本を贈りあう[115][114]。夏至の時期である6月23日にはサン・ジュアンの祭礼が行われ、この日には爆竹を鳴らすのが一般的な風習となっている[115]。カタルーニャの象徴であるカニゴー山でたき火を行い、その火をカタルーニャの全自治体の祭礼会場に届けることでカタルーニャ地方の一体感を再確認する日でもある[114]。9月24日はバルセロナの守護聖人であるマルセー(慈悲の聖母)の日であり、この日を中心とする一週間にはコンサート、マラソン、航空ショー、花火など様々なイベントが開催される[112]。11月1日の諸聖人の日と11月2日の死者の日が祝われ、焼き栗などが食べられる[115]

シンボル

カタルーニャ国旗のサニェーラ

カタルーニャ州は自治州旗(サニェーラ)、国祭日(ディアーダ)、自治州歌(『収穫人たち』)を有している[116]

金色地に4本の赤線を引いたサニェーラが生まれたのは9世紀末であるとする伝承があり、1150年にはこのデザインがバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の紋章となった[116]。やがてアラゴン=カタルーニャ連合王国の王家の象徴となり、1979年のカタルーニャ自治憲章でサニェーラがカタルーニャ自治州旗とされた[116]アラゴン州旗にも類似の図柄が採用されており、フランスのプロヴァンス地方の紋章も起源を同じくしている[116]

毎年9月11日はカタルーニャ国民の日(ディアーダ)と呼ばれる祝祭日であり、18世紀初頭のスペイン継承戦争でバルセロナが陥落した日(1714年9月11日)を由来としている[72][114]。この戦争後にはブルボン朝によってカタルーニャ語の公的使用が初めて禁じられ[114]、カタルーニャ文化は衰退の時代を迎えた。カタルーニャ地方の自由と固有制度の喪失を想起させる日を記念日とすることで、自らのアイデンティティの保持を表明している[116]。1886年に初めてカタルーニャ国民の日が記念され、フランコ体制下でこの記念日は抑圧されたが、1980年にはカタルーニャ州政府によって復活した[117]。カタルーニャ地方各地でスペイン継承戦争の英雄を追悼する行事が行われ、多くの市民がサニェーラなどを揺らす[114]。2012年には約150万人が参加する大規模な独立デモが組織され[72]、このデモによってカタルーニャ独立の機運が高まったとされる。

様々な行事で「傲慢な人びとよ、立ち去れ!」と歌われる『収穫人たち』は、1993年のカタルーニャ州議会の決議によって自治州歌とされた[116][118][119]。この歌は農民を中心とする民衆が権力者に対抗した収穫人戦争(1640年-1650年)に由来する[33]

世界遺産

ユネスコの世界遺産にはカタルーニャ州から5件が登録されている。

芸術

音楽

リセウ大劇場の内部

19世紀後半に生まれたエンリケ・グラナドスイサーク・アルベニスは、スペインの国民学派を代表する音楽家である[120]。グラナドスは演奏活動の傍らで音楽教育者としても成功したが、第一次世界大戦中にイギリス船でアメリカ合衆国に向かう途中、ドイツの潜水艦の攻撃を受けて亡くなった[120]。アルベニスは『スペイン組曲』や『イベリア組曲』などのピアノ曲を書き、音楽家や画家などに多くの友人がいた[120]フェデリコ・モンポウは「クロード・ドビュッシーの後継者」と呼ばれ、カタルーニャ民謡を用いた曲集やカタルーニャ語の歌曲などを残した[120]パウ・カザルスは世界最高のチェリストと呼ばれる[121]。カザルスはスペイン内戦勃発後に亡命し、フランス領カタルーニャのプラードで長らく暮らした[121]。プラードではカザルスが中心となったプラード音楽祭が開催されるようになり、『パセブラ』を作曲したのもこの地である[121]。1971年の国連総会ではカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し、自身を「カタルーニャ人」であると述べている[121]

世界的なオペラ歌手のモンセラート・カバリェホセ・カレーラスはカタルーニャ地方出身である[122]。カバリェは1965年にアメリカ合衆国で知名度を得て、その後世界的なスター歌手となった[122]。カレーラスはカバリェに見出され、1987年に発病した白血病を乗り越えて活躍している[122]。著名なオペラ歌手を輩出している背景には、19世紀前半に設立されたリセウ音楽院リセウ大劇場の存在がある[122]

美術

ムダルニズマ期にガウディが設計したカサ・バトリョ

カタルーニャ地方にアラブの遺跡はほとんど存在しない[123]。11世紀以後にはカタルーニャのキリスト教美術が目覚ましく変化し、カタルーニャ地方のフレスコ画の数と質は西ヨーロッパで際立っているとされる[124]。ロマネスク様式の修道院・教会・大聖堂が数多く建設され、バルセロナ美術館にはいくつものロマネスク絵画の傑作が収蔵されている[124]。ゴシック時代にはカタルーニャ様式と呼ばれる簡素さを好む様式が生まれ、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土であったサルデーニャやナポリなどでもこの様式の特徴がみられる[125]

政治的背景が理由で1500年頃のルネサンス期のカタルーニャ美術は低調だった[126]。17世紀末にはカタルーニャにバロック美術の波が到来し、特に建築の分野で数多くの作品が残っている[127]。1750年以降にはネオ・クラシック美術の影響が強く、19世紀には建築がロマン主義に移行した。

19世紀後半には大都市の再開発が行われ、19世紀末には特に建築の分野でムダルニズマが花開いた[128]アントニ・ガウディサグラダ・ファミリア教会に心骨を注ぎ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネージュゼップ・プッチ・イ・カダファルクも活躍した[128]。画家ではサンティアゴ・ルシニョールラモン・カザスが登場し、彼らが開いたカフェ『四匹の猫』ではパブロ・ピカソの初個展が開催された[128]

スペイン内戦が勃発すると多くの芸術家が亡命してパリや南仏に逃れたが、第二次世界大戦後にはカタルーニャで芸術活動が再開された[129]。1960年代から1970年代には、ジョアン・ミロサルバドール・ダリという2人のカタルーニャ人芸術家が名声を高めた[129]。1948年にはムデスト・クシャスペイン語版ジュアン=ジュゼップ・タラッツスペイン語版アントニ・タピエスが美術団体「ダウ・アル・セット」(サイコロにおける7の目)を結成し、後には3人ともに国内外で評価を高めた[130]。タピエスは現代のカタルーニャ美術界の代表的存在であり、様々な素材を用いて精神性や美を追求した[130]。1960年代以降にはカタルーニャの建築界が高い評価を受けており、世界的にウリオル・ブイーガススペイン語版リカルド・ボフィルらの名が知られている[130]

文学

中世

「カタルーニャ語の父」ラモン・リュイ

12世紀のカタルーニャ人はカタルーニャ語ではなく主にオック語で詩作を行っていた[131]。13世紀に活動したラモン・リュイは「カタルーニャ語の父」と呼ばれており、小説とも言える『ブランケルナ』、哲学の方法論である『アルス・マグナ』などを著した[132]。リュイの作品は内容の豊かさや言語的創造性の高さが注目され、普遍的な価値が認められている[131]。リュイの創作の中心は散文だったものの、韻文作品は他のカタルーニャ人詩人と同じくオック語で執筆している[131]。14世紀のカタルーニャ地方では散文が優勢となり、ジローナ出身のフランセスク・アシメネス、祈祷師としてもヨーロッパ中で知られていたビセン・ファレーなどが登場した[133]。1323年のトゥールーズの詩会議では詩作法が定められたため、カタルーニャの詩人はプロヴァンス語で書いた[133]

マルトゥレイによる騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』

15世紀はカタルーニャ文学の黄金時代とされる[134]。詩人のアウジアス・マルクスペイン語版と「イベリア半島初の小説」を書いたジュアノット・マルトゥレイスペイン語版は、いずれもカタルーニャ語圏のバレンシア生まれの作家である[134]。詩人の家系に生まれたマルクはほとんどカタルーニャ語のみを用いて10,263編の詩を残し、後世のカスティーリャ詩人やカタルーニャ詩人に影響を与えた[134]。その後のカタルーニャではイタリアやオリエント世界の影響を受けた騎士道小説が登場し、1490年にはマルトゥレイが騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』を著した[135]ミゲル・デ・セルバンテスは『ドン・キホーテ』の主人公の言葉を借りて、騎士道小説としては『ティラン・ロ・ブラン』が最高であると称えている[132]。ペルー人作家のマリオ・バルガス・リョサは、マルトゥレイを「神の代理人の系譜の第一号である」と賞賛している[132]。中世カタルーニャの詩や小説の繁栄に対して、演劇では優れた作品がなかったとされる[136]

わしはこの物語(『ティラン・ロ・ブラン』)を、たのしみの宝、なぐさみの泉と思ったことを覚えとりますて。(中略)この種の物としては、まことに世界一の本じゃ。よいかね、この物語では、騎士というものが飯をちゃんとくうし、眠るにも死ぬにも床へはいるし、臨終には遺言をしたためるし、どんな騎士物語にも書いてないいろいろの事をするのじゃ。 — 『ドン・キホーテ』第1部第6章[注 2]

文学の衰退期と再興

15世紀にはスペイン王国に併合された影響で、民衆は変わらずカタルーニャ語を使用していたものの、宮廷や知識人の間ではスペイン語化が進んだ[137]。カタルーニャ地方が政治的・経済的に低迷した16世紀以後にはカタルーニャ文学も停滞し、16世紀から18世紀はカタルーニャ文学の衰退期と呼ばれてきた[137]。一方、スペイン王国ではセルバンテスやロペ・デ・ベガなどが登場してスペイン語文学が黄金期を迎え、カタルーニャ人作家もカタルーニャ語とスペイン語の両言語で創作活動を行った[137]。17世紀・18世紀のカタルーニャでは口承文学が勢いを得て、民衆の間ではカタルーニャ語文学が生きながらえたことが19世紀の再興につながっている[137]

カタルーニャ最高の劇作家であるギマラー

1833年にブエナベントゥラ・カルロス・アリバウスペイン語版がカタルーニャ語で書いた詩『祖国』(1833年)を発端として、カタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(文芸復興)運動が興った[138][139]。中世に開催されていた「花の宴」という詩歌競技会が復活し、「カタルーニャの国民的詩人」と呼ばれるジャシン・バルダゲー(『アトランティダ』)、劇作家のアンジャル・ギマラー(『低地』『海と空』)などが活躍した[132]。1904年のノーベル文学賞はギマラーとフレデリック・ミストラルの共同受賞が予定されていたが、ギマラーは政治的活動が理由で受賞を逃している[132]

19世紀末にはカタルーニャ・ナショナリズムが勢いを増した[140]。19世紀末から20世紀初頭にはムダルニズマ(近代主義)運動が興り、画家でもあったサンティアゴ・ルシニョール、女流作家ビクトル・カタラースペイン語版、詩人ジュアン・マラガイなどが活躍した[132]。1906年頃から1923年頃にはノウサンティズマ(1900年主義)運動が興り[141]、1910年代以降にはアバンギャルド文学が興隆した[142]。1930年代には第二次共和政の教育政策や言語政策にも助けられ、カタルーニャ文学は特に詩などの分野で活況を呈した[143]

内戦後の弾圧と現代

1930年代のスペイン内戦後のフランコ体制ではカタルーニャ語が弾圧され、カタルーニャ語作家は地下に潜伏するか他国に亡命した[142]。1960年代になるとようやくカタルーニャ語文学の出版も可能となり、1961年にはカタルーニャ語で歌うノバ・カンソースペイン語版(新しい歌)運動が文学界にも影響を及ぼした[144]。カタルーニャ語の限界を追求したジュゼップ・ビセンス・フォシュスペイン語版、内戦後もバルセロナで暮らしたサルバドー・アスプリウスペイン語版などの詩は国外でも広く知られている。マヌエル・ダ・ペドロロスペイン語版の『第二創世記のタイプ原稿』はカタルーニャ語文学史上最大の売り上げを記録している[142]。マヨルカ島を舞台にした小説を書いたバルタサー・プルセルスペイン語版、『引き船道』などを書いたジャズス・ムンカダスペイン語版は、いずれもノーベル文学賞の候補に推された[142]。1970年代末の民主化以後のカタルーニャでは詩の分野で優れた作家が多いとされ[145]、演劇界はさらなる創意工夫が必要であるとされる[145]

スポーツ

バルセロナオリンピックの会場となったパラウ・サン・ジョルディ

カタルーニャ自治州政府は20世紀初頭からスポーツ振興に力を入れており、各競技のカタルーニャ代表を国際大会に参加させることを目標としている[146]。ローラーホッケーのカタルーニャ代表は暫定的に国際大会への参加を認められているが、その他の競技では国際大会への参加は実現していない[146]

オリンピック

1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会では1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた[147]ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー総統はベルリンオリンピックを政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで人民オリンピックの開催が企画された[147]。カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる[147]。しかし、開会式当日の7月19日にスペイン内戦が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた[147]。それから56年後、カタルーニャ人のフアン・アントニオ・サマランチがIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出したバルセロナオリンピックが開催された[147]

サッカー

FCバルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウ

FCバルセロナはサッカーやバスケットボールなどの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、サッカー部門は世界戦略を展開する強豪クラブである[148]。マドリードに本拠地を置くレアル・マドリードとライバル関係にあり、両者の対戦はエル・クラシコと呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず[148]、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である[149]。ホームスタジアムであるカンプ・ノウは、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した[150]。FCバルセロナはソシオと呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である[151]

バルセロナにはFCバルセロナの他にRCDエスパニョールというサッカークラブもあり、1930年代初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる[152]。バルセロナの2クラブ以外にはジローナFCジムナスティック・タラゴナCEサバデイCFバダロナUEリャゴステラリェイダCFなどのクラブがある[153]。カタルーニャ・サッカー連盟はサッカーカタルーニャ選抜を組織しており、毎年のクリスマス休暇には国外の代表チームなどを招いて親善試合を行っている[154]

闘牛

ムヌマンタル闘牛場

カタルーニャの闘牛が初めて文献に登場するのは1387年であり、1834年にはバルセロナにアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きなアレーナス闘牛場スペイン語版が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後のムヌマンタル闘牛場)が建設された[155]。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった[155]。バルセロナ以外ではフィゲーラス、タラゴナ、ジローナ、ウロット、サン・ファリウ・ダ・ギショルス、リュレット、ビックなどに闘牛場があり、一方でカタルーニャ地方南部では闘牛ではなくコラボウスカタルーニャ語版牛追い)が人気だった[155]

レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた[155]。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた[155]。2009年にはカタルーニャ共和主義左翼(ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された[155]。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、カタルーニャ国民党スペイン語版シウダダノスが反対票を投じ、集中と統一やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた[155]

2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わった[155]。カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行され[156]、禁止法に関連してタラゴナ県で盛んなトロ・アンブラードスペイン語版(牛の角に松明を付ける祭礼)や牛追いの是非についての議論も沸き起こった[157]

食文化

カタルーニャ料理

バルセロナの市場「ラ・ブカリーア

カタルーニャ料理はラード中心のスペイン田舎料理とオリーブオイル中心の地中海料理の双方の要素を併せ持っている[158]。変化に富んだ風土のために食材の多様性が豊かであり、多くの民俗と交流してきた歴史から料理法も豊富である[158]。カタルーニャ地方の焼き菓子にはクレマ・カタラーナパナリェットスペイン語版があり、11月1日の諸聖人の日には伝統的にパナリェットや焼き栗が食べられる[159]

カタルーニャ地方で採れた野生のアカハツタケ

カタルーニャ人は日本人に劣らないほどのキノコ好きの民族であり、スペイン中南部のマドリードやアンダルシア地方をはるかに上回る種類のキノコが食される[160]。もっとも簡単な料理法はオリーブオイルとニンニクでソテーすることであるが、オムレツやスクランブルエッグなどの卵料理にも使用され、子牛の肉と一緒に煮込む料理はカタルーニャ地方の「おふくろの味」である[160]。日本に比べてキノコ狩りが盛んであり、またバルセロナの市場「ラ・ブカリーア」にはキノコ専門店がある[160]

パ・アム・トゥマカットパン・ド・カンパーニュにトマトを塗ってオリーブオイルと塩を振りかけた簡素な料理であり、スペインの中でも特にカタルーニャにのみ見られる料理である[161]。焼き野菜やアンチョビなどを乗せることもあり、パ・アム・トゥマカットはカタルーニャ人のアイデンティティの拠り所[158]、カタルーニャ人の国民食ともいわれている[161]

2011年度のスペイン版ミシュランガイドで三ツ星を獲得したレストランは7軒あったが、うち4軒はカタルーニャ地方のレストランだった[162]。ジローナ県のロザス湾近郊にはフェラン・アドリアがオーナーシェフを務めているエル・ブジがあり、世界の料理界を驚かせた独創的な料理で知られる[162]

魚・野菜・肉

パエリアの一種であるフィデウアー

白身魚とエビや貝などをトマトベースで煮込んだブイヤベース、魚介類のスープ、白身魚のソテー、フライ、アンチョビなどのオイル漬けなど、地中海に面したカタルーニャでは豊富な魚介類料理がある[158]。タラと野菜のサラダであるアスカシャーダ、サラダにアンチョビやタラを添えてソースをかけたシャトーなどがカタルーニャ地中海沿岸料理の典型である[158]

ビック周辺で食べられるフエット

肉や魚ではなく野菜をメインに据えた料理が多いのもカタルーニャ料理の特徴である[158]。パプリカやナスや玉ねぎなどの焼き野菜であるアスカリバーダスペイン語版があり、サラダにソーセージや卵などを乗せたものは「カタルーニャ風サラダ」と呼ばれる[158]。カタルーニャ料理には松の実が多用され、松の実を加えて炒めたほうれん草は「ほうれん草のカタルーニャ風」と呼ばれる[158]。カタルーニャでコメは野菜の一種であり、バレンシア風パエリア、土鍋で炊いたリゾットなどがある[158]。木曜日には外食でパエリアを食べる習慣があり、パエリアのコメの代わりにパスタを用いるフィデウアースペイン語版はカタルーニャ地方南部の沿岸部の名物である[158]。冬季の郷土料理としてカルソッツスペイン語版(焼きネギ)があり、家族や友人が集まった際にネギを焼いてパーティをすることも多い[158]

カタルーニャでは一般的に牛、羊、鶏、七面鳥、ウサギ、豚などの肉類が食べられ、煮込むことの多い牛肉の食べ方にはフランス料理の影響も見られる[158]。ソーセージの種類は豊富であり、焼いたソーセージに白インゲン豆を添えて、アイオリソースで食べるのがカタルーニャ風である[158]。バレアレス諸島のソーセージとしてソブラサーダスペイン語版があり、ビック周辺では細めのサラミであるフエットスペイン語版が作られている[158]

ワイン

スパークリングワインであるカバ

カタルーニャ州は地中海性気候の影響を強く受けており、地中海沿岸部は温暖で一定の降水量があるが、内陸部に入るにつれて気候は乾燥する[163]。カタルーニャ地方はローマ時代からヨーロッパにおける一大ワイン産地であり[164]、現代のスペインワイン革新の先駆者的な存在であるとされている[165]。カタルーニャ州のワインの特色には、多様なワインを生産していること、外国品種と固有種を組み合わせた新しいスタイルのワインを生産していることの2点が挙げられる[165]

今日、この地域のブドウ畑の70%は白ブドウ品種が占めている[166]プリオラート (DOQ)はリオハ (DOC)とともにスペインで2つしかない特選原産地呼称(DOC)産地である[164]。この地方のワインの代名詞的存在としてスパークリングワインカバがある[167]サン・サドゥルニ・ダノヤなどのペネデス (DO)がカバの産地であり[164]、輸出量の観点で言えばカバはリオハ (DOC)を凌いでスペイン最大のワイン産地である。カタルーニャ地方の主要なワイナリーには、カバのフレシネ社、カバのコドルニウ社、スティルワインのミゲル・トーレス社などがある[167][164]

脚注

注釈

  1. ^ 単一居住地域スペイン語版は人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが、大都市以外の地域や過疎地域などは、一つの自治体の中にいくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる。
  2. ^ ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』永田寛定(訳), 〈岩波文庫〉, 岩波書店, 1988年を出典として、ジュアノット・マルトゥレイ, マルティ・ジュアン・ダ・ガルバ(作)『完訳 ティラン・ロ・ブラン』田澤耕(訳), 岩波書店, 2007年, p.1002の解説より引用。

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参考文献

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外部リンク