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'''多号作戦'''(たごうさくせん)は、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]実施した'''レイテ増援輸送作戦'''のこと。主な揚陸地名をり'''オルモック輸送作戦'''ばれる。連合国側の名は'''オルモック湾海'''
'''多号作戦'''(たごうさくせん)は、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終盤の[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]<ref name="叢書五四445">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]445頁「一 全般経過の概要」「米軍レイテ、ミンドロに上陸」</ref>、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]と[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が協同で実施した'''レイテ増援輸送作戦'''のこと<ref name="叢書九三51">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]51頁「レイテ戦局悪化第一師団の緊急輸送/レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」</ref><ref name="木俣水雷548">[[#木俣水雷|日本水雷史]]548-549頁「多号第二~四次船団」</ref>
主な揚陸地の名をとり'''オルモック輸送作戦'''とも呼ばれる。連合国側の名称は'''オルモック湾海戦'''。
[[1944年]](昭和19年)10月末から12月中旬まで[[レイテ島]]への増援部隊輸送を第9次作戦まで繰り返した。
[[1944年]](昭和19年)10月末から12月上旬まで、[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]にともなう[[レイテ島]]西岸[[オルモック]]への増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返した{{sfn|岸見|2010|pp=26-27|ps=「多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要」}}<ref name="叢書五四448">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]448-449頁「増援兵力の輸送」</ref>。第10次作戦も予定していたが、[[12月15日]]の連合軍[[ミンドロ島]]上陸にともなう[[ミンドロ島の戦い|ミンドロ島地上戦]]の生起により、多号作戦は中止された<ref name="叢書五四445" /><ref name="叢書五四448" />。

== 概要 ==
[[1944年]](昭和19年)10月17日、連合軍は[[レイテ湾]]に終結して上陸作戦を開始<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]323-324頁「スルアン島来攻」</ref>([[ダグラス・マッカーサー]]将軍によるレイテ島上陸は20日)<ref>[[#叢書45|戦史叢書45巻]]495-496頁「米軍レイテに上陸 ― 十月二十日~二十二日」</ref><ref name="叢書九三24">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]24-26頁「レイテ島決戦に対する聯合艦隊の基本命令(十月二十七日)」</ref>、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]における[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]がはじまる<ref name="叢書九三14">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]14-18頁「レイテ地上決戦の発起」</ref>{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=398-400}}。
日本軍は[[捷号作戦|捷一号作戦]]を発動し<ref name="叢書四五471">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]471-473頁「発動 ― 十月十八日」</ref><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]288頁「捷一号作戦発動大命要旨」</ref>、日本海軍は[[連合艦隊]]の大部分を投入したが大損害を受けた<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]398-399頁「フィリピン沖開戦の戦果と被害」</ref>([[レイテ沖海戦]]){{Sfn|ニミッツ|1962|pp=349-352|ps=「レイテ湾海戦/むすび」}}<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]341頁「艦隊作戦の結末」</ref>。
一方、[[台湾沖航空戦]]で日本海軍が発表した大戦果を信じた日本陸軍は<ref name="生出将器250">[[#生出1997|戦場の将器]]250-253頁</ref><ref name="叢書八一313">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]313-315頁「台湾沖航空戦の状況と戦果発表」</ref>、従来のルソン島地上決戦の方針を転換し<ref name="叢書八一358">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]358-359頁</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]375-377頁「大本営の比島地上決戦方針転換と杉田大佐以下の派遣」</ref>、レイテ島地上決戦に切りかえた<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]310-311頁「レイテ島地上決戦方針の決定と航空作戦の問題」</ref><ref name="叢書五四447b">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]447-448頁「レイテ決戦に変更」</ref>。
日本陸軍(中央、現地軍)は海上決戦に期待しておらず、独力でレイテ地上決戦を進めることにした<ref name="叢書四八339">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]339-340頁「レイテ方面艦隊決戦の成果判断」</ref>。10月27日、[[昭和天皇]]は[[第4航空軍 (日本軍)|第四航空軍]]の奮闘を誉めると共に、「地上戦で連合軍を撃滅しなければ勝ったとはいえない」と強調した<ref name="叢書四八349">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]349-351頁「レイテ方面情勢検討」</ref>。

レイテ島への最初の増援輸送は、[[第35軍 (日本軍)|第35軍]](司令官[[鈴木宗作]]陸軍中将)が[[10月19日]]に発動した'''鈴二号作戦'''にともない、第16戦隊司令官[[左近允尚正]]海軍中将の指揮で行われた<ref name="叢書五四447a">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]447頁「レイテの戦闘/鈴二号作戦の発動」</ref>。
だが、作戦開始前の10月23日にマニラ沖合で重巡洋艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]](第16戦隊旗艦)が米潜水艦の雷撃で大破する<ref name="木俣軽巡577">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]577-579頁「鬼怒、旗艦となる(十月二十四日)」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]392-393頁「フィリピン沖海戦/十月二十三日」</ref>。残る2隻(軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]〈第16戦隊旗艦〉、駆逐艦[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])と輸送艦5隻による第二遊撃部隊警戒部隊は、[[ミンダナオ島]][[カガヤン・デ・オロ|カガヤン]]から[[レイテ島]]西岸[[オルモック]]への増援作戦を行う<ref name="叢書四五532" />。輸送部隊は[[10月26日]]朝に到着、揚陸に成功した<ref name="叢書五四447a" />。だが帰路で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、鬼怒と浦波が沈没した{{Sfn|福田幸弘|1981|p=403}}<ref name="叢書五四450">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]450-453頁「フィリピン沖海戦直後の水上部隊」</ref>。また鬼怒救援のため派遣された駆逐艦[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]](第18駆逐隊)も、空襲で撃沈された<ref name="叢書五四450" /><ref name="木俣水雷497">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]497-498頁「不知火、沈没(十月二十七日)」</ref>。

10月29日、[[南西方面艦隊]]によりレイテ島増援輸送作戦'''多号作戦'''が発動される<ref name="叢書九三51" />。この計画は第2次と第3次作戦からなり、10月下旬から11月上旬までに実施、レイテ島の米軍飛行場が本格始動する前に速やかに輸送作戦を行うことを考えていた<ref name="叢書九三51" />。なお多号作戦発動前にレイテ増援第1陣として、第16戦隊司令官が鈴号作戦にともなう増援作戦を既に行っており(上述)<ref name="叢書五四447a" />、鈴号作戦(10月19日発動)を多号作戦の第一次作戦とする場合もある<ref name="叢書五四448" /><ref name="叢書五四450" />。本作戦では通常の輸送船のほかに、敵制空権下での輸送作戦を前提とした[[第一号型輸送艦]]と[[第百一号型輸送艦]]([[機動艇|SB艇]])が集中投入された{{sfn|岸見|2010|p=28}}<ref name="写真13巻244">[[#写真十三|写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)]]244-245頁「小嶋和夫、多号作戦と一等、二等輸送艦」</ref>

日本海軍は多号作戦の掩護に、[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]司令長官[[志摩清英]]中将を指揮官とする'''第二遊撃部隊'''を投入した<ref name="叢書五四450" />。本作戦のため、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]や[[第一機動艦隊]]から[[駆逐艦]]を第二遊撃部隊に編入した<ref name="叢書五四450" />。第五艦隊麾下の第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(旗艦[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]])<ref name="生出将器245">[[#生出1997|戦場の将器]]245-246頁</ref>指揮下で行われた第2次作戦(第1師団主力、第26師団一部)では<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]364頁「挿図第二十九、玉船団掩護の境界と船団航路」</ref>、11月1日から2日かけて、第1師団のレイテ島[[オルモック]]への輸送および揚陸に成功した<ref name="叢書九三54" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]418-419頁「第一師団主力等のオルモック突入」</ref>。被害は輸送船1隻沈没だった<ref name="生出将器245" />。

多号作戦実施中の11月1日、南西方面艦隊司令長官は[[三川軍一]]中将から[[大川内傳七]]中将に交代する<ref name="叢書九三56">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]56-57頁「南西方面艦隊司令長官の交代と輸送作戦実施計画」</ref>。
11月4日に、改めて第3次作戦から第7次作戦までが発令された<ref name="叢書九三56" /><ref name="生出将器246">[[#生出1997|戦場の将器]]246-249頁</ref>。この計画では第3次作戦で主に兵站部隊を、第4次作戦で第26師団を輸送し、第5次作戦以降は第68旅団を輸送する計画だった<ref name="叢書九三56" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]423頁「方面軍のレイテ輸送計画」</ref>。
作戦準備中の11月5日、マニラ空襲で重巡洋艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]](第二遊撃部隊旗艦)が沈没{{Sfn|門司|2012|p=494}}<ref name="木俣撃沈163">[[#木俣2013日本|撃沈戦記]]163-167頁「マニラ湾燃ゆ」</ref>、第二次輸送に参加した駆逐艦2隻([[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]])が損傷する<ref name="叢書九三58" />。
準備の関係から第4次作戦(指揮官は[[木村昌福]]第一水雷戦隊司令官)が先におこなれ、11月9日夕刻にオルモック湾に到着したが[[大発動艇]]がそろわず揚陸作業に難航、人員の輸送のみ実施した<ref name="生出将器246" /><ref name="叢書八一435">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]435頁「レイテ突入輸送被害甚大」</ref>。空襲により、優速輸送船2隻と海防艦1隻が沈没した<ref name="叢書九三62" />。

第3次作戦は11月11日に[[オルモック湾]]で米軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の猛攻を受け、駆逐艦[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]を除いて全滅する<ref name="生出将器249">[[#生出1997|戦場の将器]]249-250頁</ref>(島風{{Sfn|秋月型|2015|p=229|ps=「島風(しまかぜ)」}}、若月{{Sfn|秋月型|2015|pp=79-80|ps=「若月(わかつき)」}}、浜波{{Sfn|秋月型|2015|pp=225-226|ps=「浜波(はまなみ)」}}、長波{{Sfn|秋月型|2015|pp=221-222|ps=「長波(ながなみ)」}}、掃海艇、輸送船沈没)<ref name="叢書五四450" /><ref name="叢書九三62" />。[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]]少将も旗艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]沈没時に戦死した<ref name="叢書九三64" /><ref name="生出将器249" />。
レイテ島への補給は断絶し、上陸した部隊も弾薬・糧食の不足に苦しんだ<ref name="叢書八一440">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]440-441頁「レイテへの補給途絶」</ref>。
そこで第5次以降は軍需品の輸送に切り替えられた<ref name="叢書九三75" />{{sfn|岸見|2010|p=61}}。

作戦準備中の11月13日と14日{{Sfn|門司|2012|p=500}}、米軍機動部隊(第38任務部隊)による[[マニラ空襲]]でマニラ在泊中の艦船は大打撃を受ける<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]392-393頁「米機動部隊のルソン来襲」</ref><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]394-395頁「第四航空軍の戦闘」</ref>。
多号作戦部隊の軽巡[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]<ref name="木俣軽巡603">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]603-605頁「木曽、マニラに死す(十一月)」</ref>と駆逐艦4隻(沖波{{Sfn|秋月型|2015|p=226|ps=「沖波(おきなみ)」}}、秋霜{{Sfn|秋月型|2015|p=228|ps=「秋霜(あきしも)」}}、初春、曙)が沈没・大破着底する<ref name="叢書五四450" /><ref name="叢書九三65" />。この被害により、第二次~四次作戦で護衛部隊の主力を担った第一水雷戦隊と第二水雷戦隊の残余はマニラから撤収した<ref name="叢書五四450" /><ref name="叢書九三67a" />。
日本軍は、残存する[[松型駆逐艦]]・[[睦月型駆逐艦]]・[[第一号型輸送艦]]・[[第百一号型輸送艦]]・[[駆潜艇]]を主力として多号作戦を続行した<ref name="叢書九三73a" />。投入可能輸送船はマニラ空襲ですべて沈没し<ref name="叢書九三75" />、駆逐艦・輸送艦・[[機動艇]]・大発動艇・海上トラックしか手段がなくなっていたのである{{sfn|岸見|2010|p=61}}{{sfn|岸見|2010|pp=76-77}}。この事態に、陸軍潜水艦「[[三式潜航輸送艇|まるゆ]]」もレイテ輸送作戦に投入された<ref name="木俣連合189">[[#木俣2013連合|連合軍撃沈]]、189-191頁「失敗した最後の反撃」</ref><ref name="叢書八一474b" />。海軍側の特殊潜航艇[[甲標的]]も、少数艇が偵察や襲撃をつづけた{{Sfn|志柿|2005|pp=170-173|ps=「特殊潜航艇の初戦果」}}<ref name="叢書九八383">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]383-384頁「セブ基地特殊潜航艇の作戦」</ref>。

第3次輸送船団の全滅前、大本営は[[第23師団 (日本軍)|第23師団]](満州)、[[第10師団 (日本軍)|第10師団]](台湾)、[[第19師団 (日本軍)|第19師団]](朝鮮半島)を、レイテ地上戦に投入することを企図していた<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]406-407頁「レイテ決戦の地上兵団増強検討」</ref><ref name="叢書四八424">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]424-425頁「十一月中旬後半、大本營のレイテ決戦遂行に対する自信動揺」</ref>。第23師団は11月末頃、第10師団は12月上旬、第19師団は12月下旬以降、現地に進出する計画であった<ref name="叢書四八414">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]414頁「レイテ決戦兵団輸送計画」</ref><ref name="叢書四八424" />。
第23師団は[[ヒ81船団]]でフィリピンへ移動中<ref name="叢書五四445" />、11月15日から17日にかけて米潜水艦に襲撃され、大損害をうける<ref name="叢書四八425">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]425-426頁「第二十三師団の輸送失敗とレイテ持久転移の直観」</ref><ref name="叢書八一469">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]469頁「第二十三師団の遭難」</ref>。レイテ地上決戦継続は不可能となったが<ref name="叢書四八425" />、大本営はレイテ決戦と増援作戦(多号作戦)を続行した<ref name="叢書四八426">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]426頁「比島方面兵力増強と参謀総長のレイテ決戦完遂意図開陳」</ref>。

11月23日以降の第5次作戦は、第一梯団(駆潜艇46号、輸送艦3隻)、第二梯団(駆逐艦[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]、輸送艦3隻)とも空襲をうけて失敗した<ref name="叢書九三76" /><ref name="叢書八一474a">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]474頁「第五次多号作戦」</ref>。25日には米軍機動部隊艦載機の空襲で、軽巡[[平海 (巡洋艦)|八十島]](輸送戦隊旗艦。輸送艦3隻とともに[[一式砲戦車]]を内地からマニラへ輸送任務中)<ref name="木俣軽巡599">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]599-603頁「八十島、輸送艦を率いる(十一月)」</ref>と重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]が沈没した{{Sfn|福田幸弘|1981|p=403}}<ref name="叢書九三76" />。
同時期のアメリカ海軍機動部隊も長期間の行動による疲労と、[[特別攻撃隊|日本軍特別攻撃隊]](陸軍機、海軍機)による損害に悩まされており、補給と休養のために後退する{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=398-400}}。連合軍は航空攻撃と共に魚雷艇や水雷戦隊を投入し、日本軍を迎撃した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=398-400}}<ref name="木俣連合193">[[#木俣2013連合|連合軍撃沈]]、193-195頁「米駆逐隊の迎撃」</ref>。
第6次作戦は陸軍輸送船2隻と護衛艦艇3隻をもって実施され、一部揚陸に成功するも船団は帰路で全滅した<ref name="叢書九三76" /><ref name="叢書八一474b">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]474頁「第六次多号作戦」</ref>。
第7次作戦は機動艇5隻・輸送艦3隻・駆逐艦2隻をもって行われた<ref name="木俣連合191">[[#木俣2013連合|連合軍撃沈]]、191-193頁「第七次輸送作戦」</ref><ref name="叢書八一474c">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]474-475頁「第七次多号作戦」</ref>。連合軍水雷戦隊の迎撃により、日本側は駆逐艦[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]をうしなう<ref name="木俣連合195">[[#木俣2013連合|連合軍撃沈]]、195-196頁「クーパー轟沈す」</ref>。だが[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]が米軍駆逐艦[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]を撃沈し、輸送作戦は成功した<ref name="叢書九三76" /><ref name="木俣連合197">[[#木俣2013連合|連合軍撃沈]]、197-198頁</ref>。多号作戦の部分的成功により、日本軍はレイテ決戦続行への希望をつないだ<ref name="叢書八一475">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]475-476頁「大本営のレイテ決戦指導構想」</ref>。

12月7日にアメリカ軍はレイテ島オルモック南部に部隊を上陸させ<ref name="叢書八一476a">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]476頁「米軍のオルモック進出」</ref>、オルモック市内を目指した<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]80頁「米軍のオルモック進出」</ref>{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=401-402}}。そのため第68旅団主力を輸送する第8次作戦(輸送船4、輸送艦1、駆逐艦〈梅、桃、杉〉、駆潜艇〈18号、38号〉)は揚陸地をオルモック北方のサンイシドロに変更する<ref name="叢書八一476b">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]476頁「第八次多号作戦」</ref>。陸兵の揚陸には成功したが、軍需品の揚陸は失敗した<ref name="叢書九三80b" />。輸送船も全滅状態になった<ref name="叢書八一476b" />。
第9次作戦(輸送船3、輸送艦2、駆逐艦2、駆潜艇2)では、オルモック陸上戦の中を強行揚陸という形となった<ref name="叢書九三81" /><ref name="叢書八一477">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]477頁「第九次多号作戦」</ref>。空襲・魚雷艇襲撃・地上砲火で駆逐艦2隻(夕月、卯月)、輸送船2隻、輸送艦1隻を喪失した<ref name="叢書九三81" />。

第10次作戦も「決号作戦」として計画されていたが<ref name="叢書九三82" /><ref name="叢書八一478">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]478-480頁「決号作戦不発」</ref>、12月13日にルソン島へ向かうアメリカ軍の上陸部隊が発見された<ref name="叢書九三85" /><ref name="叢書五四456">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]456頁「大船団、ミンダナオ海を西進」</ref>(実際には[[ミンドロ島]]に上陸){{Sfn|ニミッツ|1962|pp=403}}。情勢の急転により、第14方面軍は輸送予定部隊をルソン島に配備した<ref name="叢書八一478" />。14日には、海軍側も第10次作戦の中止を決定し<ref name="叢書五四448" />、ここに多号作戦は終了した<ref name="叢書九三82" /><ref name="叢書五四456" />。レイテ島に取り残された日本陸軍は持久作戦に転じた<ref name="叢書五四445" /><ref name="叢書八一504">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]504-505頁「方面軍、中南比持久転移命令」</ref>。12月31日附で多号作戦部隊は編成を解かれた<ref name="叢書五四448" />。

レイテ沖海戦と本作戦による大損害により、日本海軍の水上部隊は機能を失った<ref name="叢書五四445" />。またフィリピン方面の日本陸軍も精鋭部隊を消耗し、第23師団(ヒ81船団)の被害も相乗して、[[ルソン島の戦い|ルソン島地上戦]]に重大な支障を与えた<ref name="叢書五四445" />{{sfn|森田友幸|2000|pp=50-52|ps=「陸軍の作戦と海軍の支援」}}。


== 背景 ==
== 背景 ==
[[1944年]](昭和19年)10月16日、[[及川古志郎]]軍令部総長は[[昭和天皇]]に[[台湾沖航空戦]]の戦果合計を奏上、航空母艦だけで轟撃沈10隻・火災炎上(撃破)6隻という大戦果であった<ref>[[#叢書45|戦史叢書45巻]]445-447頁「大本營発表と勅語の下賜」</ref><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]273-274頁「臺灣沖航空戦に関連する情勢検討」</ref>。フィリピン方面の日本陸軍(第14方面軍、第4航空軍)は海軍の戦果発表を疑問視する向きもあったが<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]291頁「第14方面軍の概況」・278頁「第四航空軍の情勢判断」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]368-369頁「現地部隊の敵情判断」</ref>、日本陸海軍の大部分や国民はひさしぶりの大戦果に熱狂した<ref name="叢書八一313" />。
[[連合艦隊]]からの報告では[[レイテ沖海戦]]の戦果は[[空母]]7隻を撃破というものだった。先に行われた[[台湾沖航空戦]]の戦果報告もふまえ[[アメリカ軍]]兵力は正規空母3隻、他に[[護衛空母]]等であろう、と海軍部の判断は楽観したものになった。これを受け[[大日本帝国陸軍|陸軍]]も困難ではあるが戦局は日本側に有利と見ていた。そこで[[大本営]]は[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]、[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]、[[第68旅団 (日本軍)|第68旅団]]を[[ルソン島]]から[[レイテ島]]へ増援し、レイテ島で連合軍を一気に打ち破ろうと計画した。
同日午前中、日本軍索敵機が台湾東方430浬に空母7隻を基幹とする機動部隊を発見、大本営海軍部に動揺が走った<ref name="叢書四五447">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]447-450頁「過大な戦果報告」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]315-317頁「戦果再検討」</ref>。日本海軍が台湾沖航空戦の戦果判断を「空母4隻撃破程度」(実際は空母2隻損傷、巡洋艦3隻損傷程度)と修正するのには相当の時間を要し、この間にアメリカ軍はレイテ島に来襲、[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]がはじまった<ref name="叢書四五447" />。


10月17日、アメリカ軍を主力とする連合軍の大艦隊がフィリピン中部の[[レイテ湾]]周辺に集結<ref name="叢書九三14" />、まもなく[[レイテ島]]および周辺への上陸作戦を開始した<ref>[[#叢書45|戦史叢書45巻]]459-460頁「米軍スルアン島に上陸す ― 十月十七日」</ref><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]277-278頁「スルアン島に来攻当初の状況」</ref>。
== 概要 ==
[[連合艦隊]]は、[[横浜市]]の[[日吉 (横浜市)|日吉]][[慶應義塾大学|司令部]]から対応を指示する<ref name="叢書四五460">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]460-465頁「日吉司令部の決戦準備促進 ― 十月十七日」</ref>。連合艦隊の作戦指導の骨子は以下のようなものだった<ref name="叢書四五460" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]301頁「海軍側の状況」</ref>。また[[神風特別攻撃隊]]<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]301頁「神風特別攻撃隊の編成」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]374-375頁「海軍特別攻撃隊の編成」</ref>や水上特攻部隊([[四式肉薄攻撃艇|まるレ]]〈陸軍〉、[[震洋]]〈海軍〉)の編成と準備も始まっていた<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]72-73頁「肉薄攻撃艇」</ref>。
[[1944年]](昭和19年)10月29日、'''レイテ島増援輸送作戦'''(多号作戦)が発動される。この計画は第2次と第3次作戦からなり、10月下旬から11月上旬までに実施、レイテ島の米軍飛行場が本格始動する前に速やかに輸送作戦を行うことを考えていた。なお作戦発動前にレイテ増援第1陣として[[ミンダナオ島]][[カガヤン・デ・オロ|カガヤン]]からの増援を既に行っていた。第2次作戦では第1師団のレイテ島[[オルモック]]への輸送に成功した。


:一 リンガ泊地の第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、通称「栗田艦隊」)をレイテ湾の連合軍上陸地点に突入させる<ref name="叢書四五461">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]461-462頁</ref>。
11月4日に改めて第3次作戦から第7次作戦までが発令された。この計画では第3次作戦で主に兵站部隊を、第4次作戦で第26師団を輸送し、第5次作戦以降は第68旅団を輸送する計画だった。第3次作戦は船団が全滅し失敗、第4次作戦は人員の輸送のみ成功だった。そこで第5次以降は軍需品の輸送に切り替えられた。また[[マニラ空襲]]や本作戦での喪失により護衛に使える駆逐艦は桑、竹のみという厳しい状況となっていた。第5次作戦は失敗、第6次作戦は一部揚陸に成功するも船団全滅、第7次作戦はほぼ成功した。
:二 内海西部の[[第一機動艦隊]](司令長官[[小沢治三郎]]中将。[[第三航空戦隊]]、[[第四航空戦隊]])を南下させて米軍機動部隊を北方に誘致、第一遊撃部隊の突入を間接支援する<ref name="叢書四五461" />。
:三 残敵掃蕩のため[[南西諸島]]方面で行動中の第二遊撃部隊(司令長官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官、通称「志摩艦隊」)を中心に、海上機動反撃作戦を実施<ref name="叢書四五461" />。
:四 基地航空部隊をフィリピンに集中し、総攻撃を実施<ref name="叢書四五461" />。
:五 潜水艦を全力出撃させる<ref name="叢書四五461" />。


[[10月18日]]、日本軍([[大本営]]陸軍部・海軍部)は[[捷号作戦|捷一号作戦]](大陸命第1153号、大陸指第2234号)<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]328-330頁「捷一号決戦発動」</ref>を発動する<ref name="叢書四五471" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]327-328頁「陸海軍両総長の上奏」</ref>。日本軍の地上部隊は、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]隷下の[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]](司令官[[山下奉文]]陸軍大将、通称号「尚武」、ルソン島)、第14方面軍隷下の[[第35軍 (日本軍)|第35軍]](司令官[[鈴木宗作]]陸軍中将、通称号「尚」、中比~南比)と[[第16師団 (日本軍)|第16師団]](司令官[[牧野四郎]]陸軍中将、通称号「垣」、レイテ島)<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]387頁「挿図第十二、第十六師団の配備図」</ref>を基幹とする<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]385-386頁「第十四方面軍兵力配備の概要」</ref>{{sfn|岸見|2010|pp=16-17}}。
12月7日にアメリカ軍はオルモック南部に部隊を上陸させオルモック市内を目指した。そのため第8次作戦は揚陸地を変更、第9次作戦では陸上戦の中を強行揚陸という形となった。
台湾沖航空戦以前<ref name="叢書八一358" />、日本陸軍はフィリピン方面の決戦において、地上決戦は[[ルソン島]]で、中央・南部方面(レイテ島、ミンダナオ島)では航空攻撃を行う方針であった<ref name="叢書九三14" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]318-320頁「第十四方面軍の作戦計画指示」</ref>。だが[[台湾沖航空戦]]で日本海軍が主張する大戦果(誤認)にもとづき<ref name="叢書九三66" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]303-304頁「大本營陸海軍部の作戦連絡」</ref>、大本営陸軍部はレイテ島地上決戦に踏み切る{{sfn|岸見|2010|pp=18-22}}<ref name="叢書四八304">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]304-305頁「大本營の南方軍に対するレイテ地上決戦指導」</ref>。
戦局を楽観視していた南方軍も<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]306-307頁「第十四方面軍のレイテ地上戦闘指導」</ref>、大本営の意向によりレイテ増援の方針に転換する<ref name="叢書四八307">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]307-308頁「杉田大本營参謀の南方軍連絡」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]378-379頁「陸軍部の南方軍指導」</ref>。
ルソン島決戦方針のもとに準備をすすめてきた山下大将(第14方面軍)は不同意であったが{{sfn|岸見|2010|pp=16-17}}<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]380-382頁「第十四方面軍既定方針堅持」</ref>、上級司令部からの命令で同意した<ref name="叢書四八307" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]382-383頁「寺内総司令官の強力な方面軍指導」</ref>。
大本営の指導により、[[寺内寿一]]元帥(南方軍)は山下大将(第14方面軍)と[[富永恭次]]中将(第4航空軍)に対し10月22日に「第十四方面軍ハ海空軍ト協力シ成ルヘク多クノ兵力ヲ以テ『レイテ』島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スヘシ」と命令した<ref name="叢書九三14" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]309-310頁「南方軍のレイテ地上決戦命令下達」</ref>。


日本陸軍(大本営、南方軍)が描いていたレイテ地上決戦の骨子は<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]309頁「南方軍の反撃作戦企図の大要」</ref>、ルソン島の[[第26師団 (日本軍)|第26師団]](通称号「泉」)、上海からフィリピンへ進出中の[[第1師団 (日本軍)|第1師団]](通称号「玉」)、台湾所在の[[第68旅団 (日本軍)|第68旅団]]([[第10方面軍 (日本軍)|第10方面軍]]の海上機動反撃部隊。23日の大陸命第1159号で第14方面軍に編入)を[[レイテ島]]に急速増援し、レイテ島の[[第16師団 (日本軍)|第16師団]](第35軍隷下)と共に上陸した敵部隊を一挙に撃滅しようというものだった<ref name="叢書九三14" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]325-326頁「大本營海軍部の作戦連絡」</ref>。南方軍は、たまたま馬公市に到着した第二遊撃部隊(志摩艦隊)に、第68旅団の増援輸送を期待していた(詳細後述)<ref name="叢書四五500" />。日本海軍は「レイテ島に連合軍の航空基地が完成すると、制空権の喪失によりルソン島地上決戦は成立しない」と考えており、レイテ島地上決戦に賛成だった<ref name="叢書九三24" />。
第10次作戦も計画されていたが、12月13日にルソン島へ向かうアメリカ軍の上陸部隊が発見された(実際には[[ミンドロ島]]に上陸)。これを受け陸軍第14方面軍は輸送予定部隊をルソン島に配備した。14日に海軍側も第10次作戦の中止を決定し多号作戦は終了した。

[[10月19日]]、フィリピン中南部の防衛を担当する日本陸軍[[第35軍 (日本軍)|第35軍]](司令官[[鈴木宗作]]陸軍中将。[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]、[[第30師団 (日本軍)|第30師団]]、[[第100師団 (日本軍)|第100師団]]、[[第102師団 (日本軍)|第102師団]]、[[独立混成第54旅団]])は、南方軍と第14方面軍の下令により'''鈴二号作戦'''を発動した<ref name="叢書五四447a" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]372-373頁「第十四方面軍の状況」</ref>。鈴号作戦は、敵主力の上陸地点に応じて兵力を重点地区に海上機動し、当面の敵を撃滅するという作戦である<ref name="叢書五四447a" /><ref name="叢書八一151">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]151頁「第三十五軍の作戦計画」</ref>。鈴一号作戦はミンダナオ島[[ダバオ]]に上陸した場合、鈴二号作戦はレイテ湾方面上陸を想定している<ref name="叢書五四447a" /><ref name="叢書八一151" />。鈴二号作戦は第16戦隊司令官[[左近允尚正]]海軍中将指揮下の艦艇で実施された(詳細は下述)。

[[10月26日]]午前中、[[大本営]]海軍部([[軍令部]])で[[及川古志郎]]軍令部総長・[[米内光政]]海軍大臣・[[井上成美]]海軍次官等が出席し、今後の方針について検討をおこなった<ref name="叢書九三18">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]18-19頁「大本営海軍部の作戦指導方針/作戦会報を開く」</ref>。[[連合艦隊]]からの報告では、[[レイテ沖海戦]]の戦果は「第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]中将/[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官)はレイテ湾突入と敵攻略部隊撃滅を断念、一方で敵機動部隊に痛打を与えたが、連合艦隊の被害も少なくない」というものだった<ref name="叢書九三18" />。
[[大本営発表]](10月27日版)の戦果発表は「連合軍艦艇 撃沈:空母8隻、巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船4以上」・「撃破:空母7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻」・撃墜約500機・「日本軍損害 沈没:空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻」・「損傷:空母1隻中破、未帰還126機」で<ref name="叢書四八349" />、31日に追加で「撃沈:巡洋艦1、駆逐艦2」・「撃破:空母2、巡洋艦または駆逐艦3」である<ref name="叢書四五533">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]533-534頁</ref>。
同日、大本営陸軍部・海軍部の作戦会議がひらかれた<ref name="叢書四八349" />。先に行われた[[台湾沖航空戦]]の戦果報告もふまえ、[[アメリカ軍]]の空母40隻を撃沈破と認識<ref name="叢書四八349" />、残存兵力は正規空母3・巡洋艦改造空母3・特設航空母艦10・戦艦10程度という判断をくだす<ref name="叢書九三19">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]19-20頁「 「省部懇談」に諮る」</ref>。今後の作戦では「[[特攻兵器]]による必死必殺の戦法」を主力とすることになった<ref name="叢書九三19" /><ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]21-22頁「T攻撃部隊の再建」</ref>。また連合軍艦隊への攻撃を続行すると共に、日本陸軍地上兵団のレイテ増援輸送を支援することを決めた<ref name="叢書四五533" /><ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]20-21頁「捷一号作戦指導方針」</ref>。連合軍の航空兵力が大幅に弱体化(誤認戦果判断)した現戦局しか、勝機はないと判断したのである<ref name="叢書四八349" /><ref name="叢書八一409">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]409-411頁「各方面の情勢判断/大本営」</ref>。ただし、大本営陸軍部・海軍部ともレイテ地上戦は容易に勝利できると判断しており、すでに[[モロタイ島]]奪還を視野にいれていた([[モロタイ島の戦い]])<ref name="叢書八一409" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]351頁「大本營陸軍部のモロタイ情勢重視」</ref>。
梅津参謀総長の上奏に対し、[[昭和天皇]]は「地上戦で敵を撃滅しなければ勝ったことにならない。今一息であるから第一線(部隊)を激励せよ」と指導した<ref name="叢書四八349" />。

[[10月27日]]午前11時、第14方面軍は第一師団・第二十六師団・第六十八旅団のレイテ島投入と同島決戦(レイテ地上戦は第35軍が指揮)を発令した(尚武作命甲第125号および126号)<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]406-407頁「第十四方面軍レイテ決勝計画」</ref>。
同日夕刻<ref name="生出将器250" />、連合艦隊(司令長官[[豊田副武]]大将、参謀長[[草鹿龍之介]]中将、参謀副長[[高田利種]]少将、首席参謀[[神重徳]]大佐)は聯合艦隊機密第271715番電/聯合艦隊電令作第392号でレイテ島決戦に関する連合艦隊の基本命令を出す<ref name="叢書九三24" />。
:一 敵ハ我累次猛攻ニ屈セズ「レイテ」島「サマール」島方面ニ橋頭堡ヲ拡大中ナリ
:二 聯合艦隊ハ陸軍ト協同 第一、第二十六師団及第六十八旅団ヲ基幹トスル兵力ヲ速ニ「レイテ」島方面ニ輸送 一挙ニ敵ヲ撃滅セントス
:三 南西方面部隊ハ所在基地航空兵力ト協同シ 陸軍上陸部隊ノ直接護衛敵空母及輸送船ノ撃滅ニ任ジ 且戦略要点ノ防備ヲ強化之ヲ確保スベシ
:四 第一遊撃部隊ハ菲島又ハ北部「ボルネオ」方面ヲ根拠トシ 陸軍上陸部隊ノ間接護衛ニ任ジ 南西方面部隊ノ作戦ヲ強力ニ支援スベシ
:五 先遣部隊ハ全力ヲ菲島方面ニ集中 敵輸送路ノ遮断及敵機動部隊ノ捕捉撃滅ニ任ズベシ
:六 機動部隊本隊ノ一部ハ補給終了後内海西部ニ回航 [[第四航空戦隊]]([[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]、[[第六三四海軍航空隊|第六三四航空隊]]欠)、[[第三十一戦隊]]ヲシテ 主トシテ特別攻撃隊主力ヲ速ニ菲島方面ニ急送セシムベシ<br/>右兵力菲島到着ノ時機ヲ以テ 第四航空戦隊(隼鷹、龍鳳、第六三四航空隊欠)ヲ第一遊撃部隊ニ 第三十一戦隊ヲ南西方面部隊ニ夫々編入ノ予定

以上の基本命令により、[[南西方面艦隊]]司令長官[[三川軍一]]中将は南方軍と協同<ref name="叢書九三24" />。航空作戦を第一連合基地航空部隊(指揮官は[[福留繁]]中将、次席指揮官兼参謀長は[[大西瀧治郎]]中将)、レイテ増援陸軍部隊の護衛を第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官、旗艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]])、一連の作戦支援を潜水艦部隊(指揮官[[三輪茂義]]中将)と第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、旗艦[[大和 (戦艦)|大和]])が担当する<ref name="叢書九三24" />。
また連合艦隊はレイテ増援船団の支援として、第一遊撃部隊所属の第31駆逐隊([[岸波 (駆逐艦)|岸波]]、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]])を27日附で、また第一遊撃部隊の[[第二水雷戦隊]](司令官[[早川幹夫]]少将)を28日附で、それぞれ第二遊撃部隊に編入した(GF電令作第387号)<ref name="叢書九三51" />。この措置により、第二水雷戦隊は旗艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、第2駆逐隊([[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[清霜 (駆逐艦)|清霜]])、第31駆逐隊(岸波、沖波、長波、朝霜)、第32駆逐隊([[浜波 (駆逐艦)|浜波]])以下すべての艦艇が第二遊撃部隊に所属することになった<ref name="叢書五四450" />。
[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]](機動部隊)からは、[[秋月型駆逐艦]]で編制された第41駆逐隊([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[冬月 (駆逐艦)|冬月]])と第61駆逐隊([[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]])が編入されたが、稼働艦は2隻(霜月、若月)だけだった<ref name="叢書五四450" />。

10月29日、海軍側の最高責任者たる[[三川軍一]]南西方面艦隊司令長官は「レイテ増援輸送実施計画」(NSB電令作第30号)を発令、一連の増援輸送作戦を'''多号作戦'''と呼称し、「海陸空軍ノ緊密ナル協力ノ下ニ敵ガ『レイテ』島方面航空基地ヲ全幅活用シ得ザル以前ニ終了スル如ク万難ヲ排シ迅速ニ輸送ヲ強行ス」と述べた<ref name="叢書九三51" />。だがレイテ島の戦局は、日本軍の予想以上に悪化しつつあった<ref name="叢書九三53a">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]53頁「聯合艦隊参謀の報告」</ref>。


== 作戦経過 ==
== 作戦経過 ==
'''太字の艦船名'''は作戦中の喪失を表す。
'''太字の艦船名'''は作戦中の喪失を表す。
=== 多号作戦発動以前 ===
=== 多号作戦以前 ===
==== 第1次輸送 ====
==== 第1次輸送 ====
*第二遊撃部隊警戒部隊(指揮官[[左近允尚正]]第16戦隊司令官)
* 第16戦隊:青葉、'''鬼怒'''、'''浦波'''
* 第1輸送隊:[[第一号型輸送艦|一等輸送艦]]第6号、同9号、同10号
** 第16戦隊:青葉、'''鬼怒'''、'''浦波'''
** 第1輸送隊:[[第一号型輸送艦|一等輸送艦]]第6号、同9号、同10号
* 第2輸送隊:[[第百一号型輸送艦|二等輸送艦]][[第百一号輸送艦|第101号]]、同102号
** 第2輸送隊:[[第百一号型輸送艦|二等輸送艦]][[第百一号輸送艦|第101号]]、同102号

レイテ島への増援第1陣はカガヤンからの2個大隊、2000名強であり、この輸送任務は第16戦隊の[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]の3隻に命じられた。そのため同戦隊はマニラ方面へ進出すべく10月21日に[[リンガ泊地]]を出発した。マニラ入港直前で青葉は雷撃を受け航行不能になる。そのため青葉をマニラに残し、2隻は翌24日マニラを出港し、カガヤンには25日1600に到着した。これより前、第1輸送隊(輸送艦第6号、9号、10号)と第2輸送隊(輸送艦第101号、102号)にもカガヤンからオルモックへの兵員輸送が命ぜられており、こちらは既に陸兵を乗せ25日朝にカガヤンを出港、オルモックに向かっていた。第16戦隊も直ちにカガヤンで兵員を搭載し1730にオルモックへ向けて出港した。翌26日黎明にそれぞれオルモックに到着し兵員を揚陸、第16戦隊は0500にオルモックを出発しマニラに向かった。続いて出発した第1輸送隊もマニラに向かい、残る第2輸送隊は次の輸送任務のため[[ヴィサヤ諸島|ビサヤ地区]]に向かった。第16戦隊は同日1015から敵艦載機の攻撃を受け浦波は1224沈没、鬼怒は1400過ぎに航行不能となり1730沈没した。<!--乗員は後続の第1輸送隊に救助された。-->
重巡洋艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、軽巡洋艦[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、軽巡洋艦[[北上 (軽巡洋艦)|北上]](内地で修理中、レイテ沖海戦・多号作戦には関係せず)<ref>[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]265-266頁「北上(きたかみ)」</ref>、駆逐艦[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]で編成された第16戦隊(司令官[[左近允尚正]]中将)は、複雑な経緯でレイテ沖海戦および鈴号作戦(多号作戦第一次輸送)にのぞんだ<ref name="叢書四五500">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]500-502頁「第二遊撃部隊 ― 混迷続く」</ref><ref name="木俣軽巡574">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]574-577頁「鬼怒の多号一次輸送」<!--(原題は[[球磨 (軽巡洋艦)|球磨]]とするが、昭和19年1月11日に沈没、多号作戦には無関係で明確に誤記のため、事実どおり「鬼怒」とする)--></ref>。
まず第16戦隊は戦時編制において[[南西方面艦隊]](司令長官[[三川軍一]]中将、所在「マニラ」)に所属するが、捷号作戦時の兵力部署は第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]中将、旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」)の第四部隊で、リンガ泊地で栗田艦隊各艦とともに訓練に従事していた<ref name="叢書四五462">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]462-463頁</ref><ref name="松田軽巡45">[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]45-48頁「単独部隊としてマニラ急航」</ref>。
[[10月18日]]朝、連合艦隊司令部は第16戦隊を第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]中将、通称'''志摩艦隊'''{{Sfn|福田幸弘|1981|p=135|ps=「第二遊撃部隊」}}、旗艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」)に編入し<ref name="叢書四五462" />、同時に第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下に入れた<ref name="木俣水雷487">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]487-488頁「米潜水艦に追わる(十月十八日~二十日)」</ref>。連合艦隊は第二遊撃部隊(志摩艦隊)を海上機動反撃作戦に投入する意図をもち、第二遊撃部隊はマニラへの進出を命じられた<ref name="叢書四五462" />{{Sfn|福田幸弘|1981|p=136}}。
当時、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にリンガ泊地を出動、ブルネイに向けて移動中であった<ref name="木俣軽巡574" /><ref>[[#叢書45|戦史叢書45巻]]465-467頁「海軍部は水上部隊のルソン海峡東進を望む ― 十月十八日」</ref>。ところが三川中将は南方軍総司令部の海上機動計画が確定していないのを見て、第二遊撃部隊は馬公方面で、第16戦隊はブルネイ湾で待機するよう命じた<ref name="叢書四五472">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]472-474頁「聯合艦隊の基本命令 ― 十月二十日」</ref>。

[[10月19日]]正午、連合艦隊司令部は「三川中将指揮の海上機動反撃作戦の準備がおくれる場合は、第二遊撃部隊を小沢機動部隊の指揮下に復帰させる」予定を通知した<ref name="叢書四五472" />。同日、南方軍総司令部のレイテ島陸兵増援計画が具体化する<ref name="叢書四五472" />。ビサヤ地区(中部フィリピン諸島)から二個大隊2000名をレイテ島に輸送するという案だった<ref name="叢書四五472" />。レイテ島東側(連合軍上陸作戦中)に逆上陸するか、レイテ島西岸に揚陸するか、判断をせまられた三川中将は後者に決定し「陸兵輸送は第16戦隊と輸送艦2隻程度で可能」と報じた<ref name="叢書四五472" />。
三川中将の報告に対し、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下で作戦に従事させる旨を伝えた<ref name="叢書四五472" />。

[[10月20日]]朝、第二遊撃部隊は[[澎湖列島]][[馬公市]]に到着する<ref name="木俣水雷487" /><ref name="叢書四五500" />。同日正午、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にブルネイに入港した<ref name="叢書四五500" />{{Sfn|福田幸弘|1981|p=138}}。
同日夕刻、志摩中将は「第16戦隊を海上機動反撃作戦に従事させ、本隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)は栗田艦隊と共にレイテ湾に突入したい」と意見具申する<ref name="木俣水雷487" /><ref name="叢書四五500" />。ちょうどこの時、南方軍総司令部は台湾所在の第68旅団をフィリピンに輸送するよう命じられており、大本営陸軍部を通じて第二遊撃部隊に第68旅団の海上輸送を要請した<ref name="叢書四五500" />。南方軍の要請を知った[[西尾秀彦]]南西方面艦隊参謀長は大本営海軍部に対し「第二遊撃部隊(第21戦隊と第一水雷戦隊)は掩護決戦兵力として使用するのが妥当」、南方軍の要請は「却ッテ戦機ヲ失スル虞(おそれ)大ニシテ適当ナラズト思考ス」と意見具申した<ref name="叢書四五500" />。
大本営海軍部と陸軍部が協議した結果、第二遊撃部隊の第68旅団輸送は中止となった<ref name="叢書四五500" />。

[[10月21日]]、[[草鹿龍之介]]連合艦隊参謀長は第二遊撃部隊のレイテ湾突入を認めた<ref name="叢書四五500" />。同日1600、第二遊撃部隊〔第21戦隊(那智〈志摩長官旗艦〉、足柄)、第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将、軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]〈旗艦〉、第7駆逐隊〈[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]〉、第18駆逐隊〈[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〉)〕は馬公を出撃、[[ルソン島]]西岸を南下した<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]325頁「海軍側状況の大要」</ref><ref name="木俣水雷488">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]488-489頁「第21駆逐隊、受難(十月二十四日)」</ref>。
この間、第二航空艦隊の基地物件を台湾からフィリピンに輸送するため、第一水雷戦隊の第21駆逐隊([[若葉 (駆逐艦)|若葉]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])を分派<ref name="木俣水雷488" />{{Sfn|福田幸弘|1981|p=136}}。このあと、第21駆逐隊はスル海で空襲を受け若葉を喪失した(10月24日)<ref>[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]489-491頁「第21駆逐隊、全滅(十月二十四日)」</ref><ref name="叢書四五513">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]513-514頁「第二遊撃部隊の進撃」</ref>。
三川中将が第二遊撃部隊のスリガオ海峡経由レイテ湾突入を正式に命じたのは23日午前10時の南西方面艦隊電令作第687号「第二遊撃部隊本隊ハ指揮官所定ニ依リ行動 X日黎明「スリガオ」海峡突破「レイテ」湾ニ突入 第一遊撃部隊ノ作戦ニ策応 同方面所在敵攻略部隊ヲ撃滅スルト共ニ間接ニ警戒部隊ヲ援助スベシ」「警戒部隊(第十六戦隊)ハ電令作第六八四号ニ依リ行動陸軍部隊ノ輸送揚陸ニ任ズベシ」だったが{{Sfn|福田幸弘|1981|pp=136-137}}、志摩中将はレイテ湾突入を確信してすでに行動中であった<ref name="叢書四五500" /><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]335頁「挿図第二十八、艦隊決戦概見図」</ref>。以後の第二遊撃部隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)のスリガオ海峡における戦闘は省略する。

最終的にレイテ島への増援第1陣は、鈴二号作戦にともなう日本陸軍第35軍の兵力([[第30師団 (日本軍)|第30師団]]、通称号「豹」の一部)<ref name="叢書五四447a" />、すなわち[[ミンダナオ島]]カガヤンからの2個大隊・2000名強と決まった{{sfn|岸見|2010|p=24}}。またビサヤ地区の第102師団(通称号「抜」)を<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]386-388頁「戦況の推移〔十月十七日~十九日〕」</ref>、陸軍舟艇部隊と応援の海軍舟艇隊(セブ島に配備の小型機帆船3隻、第33特別根拠地隊の大発動艇4隻)で海上輸送することになった{{sfn|岸見|2010|p=24}}{{Sfn|志柿|2005|pp=118-119|ps=「海軍舟艇隊」}}。
22日午後、南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将は第16戦隊司令官[[左近允尚正]]中将に、16戦隊3隻(青葉、鬼怒、浦波)と輸送艦5隻(第6号、第9号、第10号、第101号、第102号){{sfn|岸見|2010|p=24}}<ref name="写真13巻244" />による陸兵輸送任務を命じた<ref name="叢書四五500" />。NSB(南西方面部隊)電令作第684号は以下のとおり<ref name="松田軽巡45" />。

:一、 101号、6号輸送艦は22日便宜マニラ発、24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし。先任艦長指揮の下に回航するものとす。
:二、 9、10号輸送艦はセブにおける作業終了後先任艦長指揮、24日夕刻までにカガヤンに回航すべし。
:三、 16戦隊は24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし(状況によりマニラ寄港差支えなし。)
:四、 前項各輸送艦カガヤン着後、NSB警戒部隊指揮官(十六戦隊司令官)の指揮下に入るべし。
:五、 警戒部隊指揮官はNSB第211910番電による陸海軍協定に基づき歩兵二大隊基幹兵力をカガヤンより輸送、これをレイテ島に揚陸せしむべし。
:六、 右作戦終了せば各艦は警戒部隊指揮官所定によりマニラに回航、第二次陸兵輸送に備うべし。但し16戦隊は決戦の状況により一YB(第一遊撃部隊)の作戦に策応せしむることあるべし。

左近允中将直率の各艦は『第二遊撃部隊警戒部隊』と呼ばれていたが<ref name="松田軽巡45" />{{Sfn|福田幸弘|1981|pp=135-136|ps=「(5)南西方面部隊(南西方面艦隊)(マニラ)」}}、兵力は分散していた<ref name="叢書四五500" />。
22日時点で左近允指揮官直率の第16戦隊(青葉、鬼怒、浦波)は前日にブルネイを出発し{{Sfn|福田幸弘|1981|p=137}}、23日マニラ着の予定で南シナ海を北上中だった<ref name="叢書四五500" />。第6号・第101号・第102号輸送艦は、マニラ湾方面にあった<ref name="叢書四五500" />。第9号・第10号輸送艦は[[甲標的]]を[[セブ島]]の第33特別根拠地隊に輸送する任務についていた<ref name="叢書四五500" />。

[[10月23日]]0445のマニラ入港直前<ref name="叢書四五505">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]505-506頁「十月二十三日」</ref>、青葉はアメリカ潜水艦[[ブリーム (潜水艦)|ブリーム]]の魚雷攻撃を受けて大破、航行不能になる{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=377-378|ps=「パラオおよびフィリピン」}}。第16戦隊司令官は洋上で旗艦を青葉から鬼怒に変更した<ref name="松田軽巡45" />。鬼怒は青葉をマニラまで曳航、青葉はそのまま同地にとどまった<ref name="木俣軽巡577" />{{Sfn|竹村悟|1986|pp=231-234|ps=「雷撃を受ける」}}。

[[10月24日]]午前7時、第16戦隊(鬼怒、浦波)はマニラを出撃したが、昼頃まで断続的に空襲を受け若干の被害をこうむった<ref name="松田軽巡48">[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]48-52頁「第一次オルモック輸送」</ref><ref name="松田軽巡49">[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]49頁「第十六戦隊行動図(19年10月24-26日)」</ref>。同日夜、日本陸軍第35軍の陸兵約500名が[[機帆船]]3隻で[[セブ島]]からレイテ島へむかったが、1隻が沈没した{{sfn|岸見|2010|p=24}}。

[[10月25日]]午前8時30分から正午頃まで、第16戦隊(鬼怒、浦波)はミンダナオ島とネグロス島の間でB-24爆撃機の空襲を受けた<ref name="松田軽巡48" /><ref>[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]579-581頁「B24重爆の大空襲(十月二十五日)」</ref>。鬼怒は至近弾で通信機が故障したが、航海には問題なかった{{sfn|岸見|2010|p=28}}<ref name="松田軽巡48" />。1600、2隻(鬼怒、浦波)はミンダナオ島カガヤンに到着した<ref name="松田軽巡49" /><ref name="木俣軽巡580">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]580-583頁「3 鬼怒、護送空母機に沈めらる」</ref>。
これより前、第1輸送隊(輸送艦第6号、9号、10号)と第2輸送隊(輸送艦第101号、102号)にもカガヤンからオルモックへの兵員輸送が命ぜられており(第1輸送隊は各艦350名、第2輸送隊は各艦400名)<ref name="松田軽巡45" />、こちらは既に陸兵を乗せ25日朝にカガヤンを出港、オルモックに向かっていた<ref name="木俣軽巡580" />。
第16戦隊(鬼怒、浦波)も直ちにカガヤンで陸兵約700名(2隻合計)と物資を搭載し、1730にオルモックへ向けて出港した<ref name="松田軽巡48" /><ref name="木俣軽巡580" />。

翌[[10月26日]]黎明、それぞれオルモックに到着し兵員を揚陸する<ref name="叢書五四447a" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]391-392頁〔十月二十六日〕</ref>。第16戦隊(鬼怒、浦波)は0500にオルモックを出発し<ref name="松田軽巡49" />、マニラ(鬼怒航海長の回想ではコロン)<ref name="松田軽巡48" />に向かった<ref name="木俣軽巡580" />。続いて出発した第1輸送隊もマニラに向かい、残る第2輸送隊は次の輸送任務のため[[ヴィサヤ諸島|ビサヤ地区]]に向かった<ref name="木俣軽巡580" />。
マニラに向け帰投中の第16戦隊[[パナイ島]]北東端附近を航行中の同日1015頃から、米軍空母艦載機の攻撃を受ける<ref>[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]52-55頁「最後の戦闘」</ref><ref name="木俣空母582">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]582-585頁「米護送空母部隊」</ref>。これは[[トーマス・スプレイグ]]少将の第77.4任務部隊(サマール沖海戦で栗田艦隊に攻撃された[[護衛空母]]部隊)で、海戦や神風特攻隊の攻撃で沈没艦や損傷艦を出したものの健在空母約10隻を擁しており、まだ充分な戦力を保持していた<ref name="木俣空母582" />。
浦波は1224に沈没<ref name="木俣軽巡585">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]585-587頁「鬼怒、沈没」</ref>。鬼怒も被雷と被弾により昼頃には航行不能となり、1730に沈没した<ref>[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]56-58頁「総員退去」</ref><ref name="松田軽巡58">[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]58-62頁「漂流者に機銃掃射」</ref>。左近允中将は輸送艦10号に救助されたあと<ref name="木俣軽巡585" />{{sfn|岸見|2010|p=30}}、27日にマニラで青葉に将旗を掲げた<ref name="叢書四五532">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]532頁</ref>。

この頃、第二遊撃部隊は主隊(那智〈艦首大破〉、足柄、不知火、霞、潮〈損傷〉)がコロン湾に、駆逐艦3隻(初春、初霜〈直撃弾1〉、曙)がマニラにあった<ref name="叢書五四450" />。浦波沈没・鬼怒航行不能との速報により、不知火(第18駆逐隊司令駆逐艦、司令[[井上良雄]]大佐)が救援のため出動する<ref name="木俣水雷497" />{{sfn|岸見|2010|p=29|ps=「不知火」不運}}。だが鬼怒は既に沈没しており(上述)、不知火は帰投中の27日にセミララ島で空襲を受け<ref name="木俣軽巡585" />、駆逐艦[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]座礁地点のすぐそばで撃沈された{{sfn|岸見|2010|p=30}}{{Sfn|福田幸弘|1981|p=394}}。不知火と同様に、早霜座礁地点の側で駆逐艦[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]も撃沈された{{Sfn|福田幸弘|1981|p=394}}。
なお鬼怒航海長によれば、不知火は26日午後6時30分頃<ref name="松田軽巡49" />、鬼怒生存者の目の前で空襲を受け轟沈したと回想している<ref name="松田軽巡66">[[#松田2017軽巡|軽巡海戦史]]62-67頁「輸送艦に救助されて」</ref>。救助された鬼怒航海長は、松型駆逐艦[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]の臨時艦長に任命された<ref name="松田軽巡66" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=104|ps=「田中艦長退艦? 飯村少佐臨時艦長?」}}。


==== 第2次輸送 ====
==== 第2次輸送 ====
* 第2輸送隊:'''輸送艦第101号'''、同'''102号'''
* 第2輸送隊:'''輸送艦第101号'''、同'''102号'''
ビサヤ地区に向かっていた第2輸送隊の輸送艦第101号には[[ボホール島]][[タグビララン|タガビララン]]から、また102号には[[ネグロス島]][[バコロド]]からオルモックへの兵員輸送がそれぞれ新たに命ぜられた。102号はバコロドへ向かう途中で敵機の攻撃により沈没した。101号は陸兵を乗せ10月26日深夜にタガビラランを出発した。途中の空襲で艦長、航海長が重傷を負ったがそのままオルモックに向かう。28日早朝に揚陸は成功したが揚陸中に敵機約80機の空襲を受け沈没した。
ビサヤ地区に向かっていた第2輸送隊の輸送艦第101号には[[ボホール島]][[タグビララン|タガビララン]]から、また102号には[[ネグロス島]][[バコロド]]からオルモックへの兵員輸送がそれぞれ新たに命ぜられた。これは鈴二号作戦にともなう、第35軍の[[第102師団 (日本軍)|第102師団]]輸送任務である<ref name="叢書五四447a" />。第102号輸送艦はバコロドへ向かう途中で敵機の攻撃により沈没した。101号は陸兵を乗せ10月26日深夜にタガビラランを出発した。途中の空襲で艦長、航海長が重傷を負ったがそのままオルモックに向かう。28日早朝に揚陸は成功したが揚陸中に敵機約80機の空襲を受け沈没した。


=== 第2次作戦 ===
=== 第2次作戦 ===
==== 多号作戦正式発動 ====
第二遊撃部隊は10月27日に不知火を喪失する一方、輸送作戦にそなえて兵力の増強を受けた<ref name="叢書五四450" />。第一遊撃部隊より[[第二水雷戦隊]](島風型駆逐艦〈島風〉、第2駆逐隊〈秋霜、清霜〉、第32駆逐隊〈浜波〉、第31駆逐隊〈岸波、長波、沖波、朝霜〉)、第三艦隊(第一機動艦隊)より第十戦隊の第41駆逐隊(霜月、冬月)と第61駆逐隊(若月、涼月)が加わった<ref name="叢書五四450" />。だが10月中にマニラに到着したのは沖波のみ<ref name="叢書五四450" />(同艦は重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]を護衛してマニラに先行していた)<ref>[[#最上出撃|最上出撃せよ]]189-190頁</ref>。編入された[[秋月型駆逐艦]]も涼月と冬月は修理中のため、稼働艦は2隻(霜月、若月)だけだった<ref name="叢書五四450" />。南西方面艦隊はレイテ島増援作戦を'''多号作戦'''と命名し、この第二次輸送から本格的な作戦がはじまった{{sfn|岸見|2010|p=32}}。

==== 第3船団 ====
==== 第3船団 ====
* 輸送艦第131号
* 輸送艦第131号
独立速射砲大隊1個師団(約340名)と武器弾薬、糧食などを積み10月28日マニラを出港。途中3か所で仮泊し10月30日にオルモック到着、揚陸は成功した。帰途に[[B-24 (航空機)|B-24]]の爆撃を受けて航行不能となり、曳航されてマニラに帰港した。
独立速射砲大隊1個師団(約340名)と武器弾薬、糧食などを積み10月28日マニラを出港。途中3か所で仮泊し10月30日にオルモック到着、揚陸は成功した。帰途に[[B-24 (航空機)|B-24]]の爆撃を受けて航行不能となり、第二次輸送部隊から救援にかけつけた第9号輸送艦と駆逐艦2隻(初春、初霜)に救援される<ref name="木俣水雷549" />。曳航されてマニラに帰港した。


==== 第4船団 ====
==== 第4船団 ====
* 輸送艦第10号、同6号、同9号
* 輸送艦第10号、同6号、同9号
第一梯団は第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)が第二十六師団の先遣部隊今堀支隊(隊長今堀銕作陸軍大佐、約1400名)を輸送する{{sfn|岸見|2010|p=34}}{{sfn|岸見|2010|pp=217-221}}。
10月31日にマニラを出港。11月1日1415にオルモックに到着した。1415には揚陸を終了しマニラへ向け出発。輸送艦第10号、6号は2日午後に帰着した。9号輸送艦は[[セブ島]]から第35軍司令部を載せ2日0430に再びオルモックに到着した。マニラまでは後述の第2次輸送部隊に組み込まれ帰着した。
10月31日、マニラを出港した(第二次輸送部隊と同日)<ref name="叢書九三54" />。味方直掩機の支援を受けつつ進撃する<ref name="叢書九三54" />。11月1日1415にオルモックに到着した。1415には揚陸を終了しマニラへ向け出発する。輸送艦第10号、6号は2日午後に帰着した。
輸送任務終了後、9号輸送艦は[[セブ島]]に立ち寄り第35軍司令部(鈴木陸軍中将)<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]374頁「レイテ地上戦況」</ref>と陸兵100名を載せ、第2次輸送部隊(指揮官木村昌福少将)揚陸中にオルモックに到着した{{sfn|岸見|2010|p=36}}{{Sfn|志柿|2005|pp=130-133|ps=「三十五軍司令部進出」}}。マニラまでは後述の第2次輸送部隊に組み込まれ帰着した。第35軍司令部のレイテ進出により、第33特別根拠地隊司令官の[[原田覚]]海軍少将(原田は、太平洋戦争開戦時の甲標的母艦[[千代田 (水上機母艦)|千代田]]艦長)<ref name="叢書九八383" />がセブ島陸海軍の指揮をとることになった{{Sfn|志柿|2005|pp=133-134}}。


==== 第2次輸送部隊 ====
==== 玉船団(第2次輸送部隊 ====
* 第1船団:'''能登丸'''、香椎丸、金華丸、[[高津丸]]([[陸軍特殊船]])
* 第1船団:'''能登丸'''(7,191トン)、香椎丸(8,407トン)、金華丸(9,305トン)、[[高津丸]]([[陸軍特殊船]]、5,350トン<ref name="叢書九三54" />
* 護衛部隊:沖縄、占守、[[第十一号海防艦|海防艦11号]]、同13号
* 護衛部隊:沖縄、占守、[[第十一号海防艦|海防艦11号]]、同13号
* 警戒部隊:[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]
* 警戒部隊:[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]

ルソン増援のため上海から到着した第一師団をマニラからオルモックに輸送する。10月31日にマニラを出港。途中空襲にあったが被害無く11月1日1830オルモックに到着、1900より揚陸を開始した。満月であるため、潮汐の干満差が大きく、揚陸には約24時間掛かる見通しだった<ref>[[#特攻船団]]201-202頁</ref>。翌2日に敵の空襲を受けたが味方戦闘機([[四式戦闘機]])の護衛もあり被害は無かった<ref>[[#特攻船団]]193頁</ref>。1305にB-24の24機などの攻撃を受けた。駆逐艦からの煙幕からはずれた能登丸が爆撃を受け沈没した<ref>[[#特攻船団]]204-205頁</ref>。ただし能登丸は馬32頭と若干の弾薬をのぞく90%の揚陸を終わっており<ref>[[#特攻船団]]203頁</ref>、他の船も最終的に金華丸97.5%、香椎丸、高津丸は100%の揚荷率をあげ、輸送作戦はほぼ成功した。11月4日、部隊はマニラに帰投した<ref>[[#特攻船団]]221頁</ref>。
日本陸軍のレイテ輸送作戦はなかなか決まらず、第一師団・第二十六師団のレイテ派遣と第三十五軍司令官指揮下編入、第一師団のレイテ突入先頭決定とマニラ到着は、いずれも[[10月27日]]であった<ref name="叢書四八352">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]352-353頁「第十四方面軍の情況判断、作戦指導の大要等」</ref><ref name="叢書四八362">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]362-363頁「地上決戦兵団輸送掩護計画」</ref>。
[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]([[通称号]]「玉」)は輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)に分乗し{{sfn|岸見|2010|p=204}}、特設護衛船団司令官[[松山光治]]少将指揮下の海防艦4隻(占守、沖縄、11号、13号)に護衛されて到着した<ref name="木俣空母787">[[#木俣空母|日本空母戦史]]787-788頁「タ号第二次船団、レイテ島へ(十一月)」</ref><ref name="木俣海防106">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]106-109頁「海防艦、レイテ島へ(十一月)」</ref>。
第二次多号作戦は、この輸送船4隻(第1師団、通称号「玉」より'''玉船団'''と呼称)をマニラからオルモックに輸送する作戦である{{sfn|岸見|2010|p=32}}<ref name="叢書四八364">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]364-365頁「玉船団出発直前の第二飛行師団戦闘状況」</ref>。日本陸軍航空隊(第四航空軍、司令官[[富永恭次]]陸軍中将)は船団直掩を担当、海軍航空隊は泊地掩護・魚雷艇掃蕩・間接護衛を担当する<ref name="叢書四八362" /><ref name="叢書四八363">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]363-364頁「第四航空軍の船団掩護部署」</ref>。この第二次輸送作戦に、日本軍(大本営陸軍部・海軍部、現地軍)は絶大の期待を寄せていた<ref name="叢書四八363" />。

10月29日にマニラを出発予定だったが、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて第二遊撃部隊旗艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]]が損傷した<ref>[[#最上出撃|最上出撃せよ]]191-193頁</ref><ref name="叢書九三52">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]52-53頁「大本営、第一師団船団の出撃遅延に焦慮す」</ref>。

[[10月30日]]の出発予定も、諸事情により延期された<ref name="叢書九三52" /><ref name="叢書九三53a" />。第1師団は海難事故にそなえて[[軍旗]]3旗を上海にのこしており、第四航空軍の第七輸送飛行隊で軍旗をマニラへ空輸した(11月2日着)<ref name="叢書四八352" />。連合軍はB-24重爆で日本軍拠点を空襲しつつ、レイテ島の飛行場整備を進めていた<ref name="叢書四八364" />。

[[10月31日]]、[[及川古志郎]]軍令部総長は[[昭和天皇]]に第一師団輸送計画について奏上する<ref name="叢書九三53b">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]53-54頁「及川軍令部総長、第一師団輸送計画を奏上」</ref>。連合軍の戦闘機・魚雷艇・水上艦艇出現の徴候に対し、第二遊撃部隊だけでなく[[甲標的]]([[特殊潜航艇]])や水上機部隊も投入して作戦を支援すると述べ、「各種ノ手段ヲ尽シテ本作戦ノ成功ヲ期シテ居リマス」と結んでいる<ref name="叢書九三53b" />。
同日0800、玉船団(第二次輸送部隊)はマニラを出港<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]365-368頁「第四航空軍のレイテ攻撃と玉船団掩護」</ref><ref name="叢書九三54">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]54-56頁「第二次輸送部隊、オルモック突入に成功す」</ref>。
陸軍徴用の優速船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)を、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将指揮下の警戒部隊6隻〔旗艦(霞)、第7駆逐隊(曙、潮)、第21駆逐隊(初春、初霜)、第31駆逐隊(沖波)〕、第七護衛船団司令官[[松山光治]]少将<ref name="木俣海防106" />指揮下の護衛部隊4隻(沖縄、占守、第11号海防艦、第13号海防艦)が護衛する<ref name="叢書九三54" /><ref name="木俣水雷549">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]549-550頁「第二次多号作戦」</ref>。また第4船団の輸送艦3隻も同時にマニラを出撃した<ref name="叢書九三54" />。

玉船団は日本陸軍機([[一式戦闘機]]、[[三式戦闘機]]、[[四式戦闘機]])に掩護されて進撃<ref name="叢書四八368">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]368-340頁「玉船団のオルモック突入成功」</ref>。[[11月1日]]、空襲にあったが被害無く、1830オルモックに到着、1900より揚陸を開始した<ref name="生出将器245" /><ref name="木俣水雷549" />。同日の日没は1813、月齢は14.9<ref name="叢書四八368" />。潮汐の干満差が大きく、揚陸には約24時間掛かる見通しだった<ref>[[#特攻船団]]201-202頁</ref>。
翌[[11月2日]]は快晴で、朝から連合軍機の連続空襲を受ける<ref name="叢書四八370">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]370頁「第一師団揚陸概成、B-24の来襲」</ref>。味方戦闘機([[零式艦上戦闘機]]<ref name="木俣空母787" />、[[四式戦闘機]])の護衛もあり被害は無かった<ref name="叢書四八370" />。正午頃より来襲機数が増え、直衛戦闘機隊はP-38に妨害されてB-24の爆撃を阻止できなくなった<ref name="叢書四八370" />。1305、B-24型重爆24機などの攻撃を受けた<ref name="木俣水雷549" />。駆逐艦が展開した煙幕からはずれた能登丸は、爆撃を受け沈没した{{sfn|岸見|2010|p=35}}<ref>[[#特攻船団]]204-205頁</ref>。ただし能登丸は馬32頭と若干の弾薬をのぞく90%の揚陸を終わっており<ref>[[#特攻船団]]203頁</ref>、他の船も最終的に金華丸97.5%、香椎丸、高津丸は100%の揚荷率をあげ、輸送作戦はほぼ成功した{{sfn|岸見|2010|p=36}}。

帰路、3隻(第9号輸送艦、初春、初霜)は第131号輸送艦救援のため分離した<ref name="木俣水雷549" />。11月4日、部隊はマニラに帰投した<ref name="木俣水雷549" /><ref>[[#特攻船団]]221頁</ref>。日本陸軍機の総出動機数142、未帰還2、大破1、撃墜8、撃破2、飛行場炎上5ヶ所(レイテ島タクロバン飛行場襲撃を含む)と記録されている<ref name="叢書四八370" />。

=== 南西方面艦隊長官の交代と輸送計画 ===
玉船団(第二次輸送船団)が作戦中の10月30日、及川軍令部総長は豊田連合艦隊長官に対し「一 聯合艦隊司令長官ハ第一輸送戦隊ヲシテ第六十八旅団ノ比島方面作戦輸送ヲ実施スベシ」「二 基隆ニ於テ陸軍SS艇五隻ヲ第一輸送戦隊司令官ノ指揮下ニ入ル」という指示を与えた(大海指第483号)<ref name="叢書九三57">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]57-58頁「軍令部総長の指示」</ref>。
11月1日、南西方面艦隊司令長官は[[三川軍一]]中将から[[大川内傳七]]中将に交代<ref name="生出将器246" />、大川内中将は第十三航空艦隊司令長官と第三南遣艦隊司令長官を兼務した<ref name="叢書九三56" />。
同日、[[軍令部]]次長[[伊藤整一]]中将・軍令部第一課長[[山本親雄]]少将・航空担当[[源田実]]大佐はクラーク基地に到着し、現地部隊と打ち合わせをおこなった<ref name="叢書九三61">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]61頁「軍令部第一課長の比島出張報告」</ref>。
11月4日、南西方面艦隊は第三次から第七次までの輸送作戦実施計画を発令した(NSB電令作第31号)(部隊、指揮官、兵力の順に表記)<ref name="叢書九三56" />。第三次輸送部隊と第四次輸送部隊は11月6日のマニラ出撃を予定していた<ref name="叢書九三58">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]58-59頁「米有力機動部隊の出現」</ref><ref name="叢書四八375">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]375-377頁「多号輸送計画の概要」</ref>。

;第三次輸送部隊
:第二警戒部隊 第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将 駆逐艦4隻
:第二護衛部隊 先任指揮官 掃海艇1隻、駆潜艇1隻ほか
:第二船団 先任指揮官 低速輸送船4隻・泉兵団(第26師団の一部、兵站部隊)

;第四次輸送部隊
:第一警戒部隊 第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将 駆逐艦6隻
:第一護衛部隊 第七護衛船団司令官 海防艦4隻
:第六船団 先任指揮官 高速輸送船3隻(玉船団を輸送した3隻)<ref name="叢書四八375" />・泉兵団

;第五次輸送部隊
:第三護衛部隊 第二十一駆逐隊司令 駆逐艦2隻
:第七船団 先任輸送艦長 第一輸送戦隊所属輸送艦6隻(11月5日マニラ着予定)<ref name="叢書九三57" />、第68旅団

;第六次輸送部隊
:第四護衛部隊 第一輸送戦隊司令官 駆逐艦3隻
:第八船団 第一輸送戦隊司令官所定 陸軍SS艇・輸送艦2隻(11月7日マニラ着予定)<ref name="叢書九三57" />、第68旅団

;第七次輸送部隊
:第九船団 陸軍側所定 陸軍SS艇・輸送艦2隻、第68旅団

=== 11月5日のマニラ空襲 ===
11月5日午前1時半、損損中の重巡2隻(青葉、熊野)はマタ31船団を護衛してマニラを出港した<ref>[[#最上出撃|最上出撃せよ]]194-196頁</ref><ref>[[#木俣2013日本|撃沈戦記]]176-179頁「マタ三一船団を守って」</ref>。日の出後、米軍第38任務部隊(機動部隊)<ref name="叢書九三59">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]59-61頁「南西方面艦隊の敵兵力判断」</ref>艦載機のべ600機がルソン島に襲来、マニラとクラーク地区を空襲する<ref name="叢書九三58" /><ref name="叢書四八379">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]379-381頁「米機動部隊のルソン空襲と輸送船団出港遅延」</ref>。
マニラ湾では、第五艦隊旗艦(第二遊撃部隊旗艦)[[那智 (重巡洋艦)|那智]]が沈没する<ref name="木俣撃沈163" /><ref name="叢書九三58" />。多号作戦従事中の駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]<ref name="木俣水雷550">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]550-551頁「曙の喪失」</ref>と[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]が損傷した<ref name="叢書九三58" />。
志摩清英中将など第五艦隊司令部は、前日よりマニラ陸上の南西方面艦隊司令部を訪問しており(偶然、[[伊藤整一]]軍令部次長と遭遇)<ref name="叢書九三61" />、無事だった<ref name="木俣撃沈163" />。クラーク地区では海軍戦闘機が邀撃するが、味方機の損害は未帰還機32を含め80機に達した<ref name="叢書九三58" />。陸軍航空隊は未帰還3・炎上13・大中破13で、地上待機中の輸送機や爆撃機の損害も多かった<ref name="叢書四八379" />。

11月6日、米軍機動部隊艦載機は再びルソン島を襲撃したが、マニラ方面の艦船の被害はほとんどなかった<ref name="叢書九三58" />。一連の空戦・空襲により航空隊の損害は空中戦・地上待機中被害とも甚大で<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]430-431頁「陸軍首脳部の苦悩」</ref>、フィリピン各地の日本陸軍航空隊にも限界がみえはじめた<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]384-385頁「十一月六日の航空状況」</ref><ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]387頁「十一月七日、第二飛行師団のレイテ攻撃と戦闘集団の邀撃戦闘」</ref>。
第三次輸送部隊・第四時輸送部隊は同日マニラを出撃予定だったが<ref name="叢書九三58" />、出撃できなかった<ref name="叢書四八379" /><ref name="叢書九三62">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]62-65頁「軍需品搭載船団の全滅」</ref>。一連の空襲により、輸送計画に遅延が生じた<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]427頁「レイテ突入部隊の出発遅延」</ref>。

日本側の索敵機は三群にわかれた米軍機動部隊を発見、南西方面部隊(指揮官[[大川内傳七]]南西方面艦隊司令長官)は「敵機動部隊は空母約15隻」と報じ(NSB戦闘概報、機密第06314番電)<ref name="叢書九三58" />、続いて機密第06743番電で以下の状況判断を報告した<ref name="叢書九三58" />。

:(一)「レイテ」島正面陸戦ノ戦況決シテ楽観ヲ許サズ
:(二)航空作戦有利ニ展開セザレバ 爾後ノ我ガ兵力注入作戦ハ成立シ難シ
:(三)「レイテ」方面ニ対スル我ガ地上軍ノ圧力緩和セバ 敵ハ陸軍兵力ノ余裕ヲ以テ比較的早期ニ「ルソン」作戦実施ノ算アリ
:(四)航空兵力ノ急速増強ニ依リ制空制海権ノ優勢取得ニ努ムルト共ニ 有力ナル地上兵力ヲ「レイテ」島ニ補給シ 天佑ヲ確信 全力ヲ集中シテ差当リ重点ヲ「レイテ」島決戦ニ指向 本作戦ノ完遂ヲ期スルヲ要ス

軍令部出張班(伊藤中将、山本少将、源田大佐)は11月7日にマニラを出発する<ref name="叢書九三61" />。天候不良のため台湾と九州を経由し、9日に帰京、翌10日に軍令部作戦室で現地の状況を説明した<ref name="叢書九三61" />。
一方、現地では[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]](司令官[[山下奉文]]陸軍大将)が南方軍に「第二十六師団のレイテ派遣中止」を進言していた<ref name="叢書四八413">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]413-414頁「第十四方面軍のレイテ決戦打ち切り論と南方軍の決戦続行論」</ref><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]429-430頁「方面軍幕僚にレイテ地上決戦断念意見擡頭」</ref>。南方軍は進言を却下したが、7日の輸送部隊マニラ出撃は延期された<ref name="叢書四八379" /><ref name="叢書九三62" />。
同7日、連合艦隊司令部(司令長官[[豊田副武]]大将、参謀長[[草鹿龍之介]]中将、参謀副長[[高田利種]]少将、首席参謀[[神重徳]]大佐)は「11日を期し、航空総攻撃のもと、第一遊撃部隊のレイテ突入とともに第三次、第四次増援を強行するの案」を通知した<ref name="叢書九三62" />。現地陸海軍部隊は、第四次輸送部隊を8日に、第三次輸送部隊は第四次輸送部隊のマニラ帰着後に出発させることに決する(NSB機密第08310番電)<ref name="叢書九三62" />。計画では軍需品の輸送を担当するはずだった第四次輸送部隊は、第26師団主力の輸送をになうことになった<ref name="叢書九三62" />。
同日、及川軍令部総長は[[昭和天皇]]への戦況奏上の中で「第一水雷戦隊司令官ノ指揮スル駆逐艦六隻、海防艦四隻及輸送船三隻ヨリ成リマスル多号作戦第四次輸送部隊ハ 第二六師団主力ヲ乗艦セシメ本日『マニラ』出港 明日午後『オルモック』ニ突入致ス予定デ御座イマス」と説明した<ref name="叢書九三62" />。


=== 第4次作戦 ===
=== 第4次作戦 ===
[[ファイル:Japanese escort ship CD-11 1944.jpg|thumb|220px|B-25の空襲を受ける海防艦第11号]]
[[ファイル:Japanese escort ship CD-11 1944.jpg|thumb|220px|B-25の空襲を受ける海防艦第11号]]
第3次作戦より先に実行された。そのため本項目も先に記す。
第3次作戦より先に実行された<ref name="木俣水雷551">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]551-555頁「第四次多号作戦」</ref>。そのため本項目も先に記す。
* 第6船団:'''香椎丸'''、金華丸、'''高津丸'''
* 第6船団:'''香椎丸'''、金華丸、'''高津丸'''
* 第1護衛部隊:沖縄、占守、'''海防艦第11号'''、同13号
* 第1護衛部隊:[[沖縄 (海防艦)|沖縄]][[占守 (海防艦)|占守]]、'''海防艦第11号'''、同13号
* 第1警戒部隊:霞、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、潮、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]
* 第1警戒部隊:霞、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、潮、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]
第26師団主力を輸送船3隻(香椎丸、金華丸、高津丸)で輸送、この3隻と海防艦4隻は第二次輸送部隊に参加した艦艇である<ref name="木俣水雷551" /><ref name="叢書九三62" />。
第26師団主力を以下の艦艇で輸送する。11月8日にマニラを出港。途中空襲にあったが被害は軽微で11月9日1815オルモック着、揚陸を開始した。しかし事前に用意していた50隻以上の[[大発動艇|大発]]は台風の高波で多くが砂に埋もれ、揚陸には5隻しか使用できなかった。また艦艇搭載の大発も空襲により使えなくなっており、揚陸作業は難航した。翌10日1230頃マニラに向け出港した。人員は全て揚陸したが、兵器弾薬等の揚陸は若干にとどまった。出港直後に[[B-25 (航空機)|B-25]]、35機の空襲を受け高津丸、香椎丸が沈没、海防艦11号が航行不能のため味方により処分された。
第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(旗艦「霞」)の指揮下<ref name="木俣水雷551" />、駆逐艦6隻(朝潮型〈霞〉、吹雪型〈潮〉、夕雲型〈秋霜、朝霜、長波〉、秋月型〈若月〉)と海防艦4隻(沖縄、占守、第11号、第13号)に護衛された第四次輸送部隊は<ref name="木俣海防111">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]111-114頁「第四次多号輸送」</ref>、[[11月8日]]午前マニラを出港する{{sfn|岸見|2010|pp=39-40}}<ref name="叢書四八388">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]388-389頁「第四次船団の出航と第四航空軍の戦闘」</ref>。第一師団の残余を乗せた第四船団は夕刻マニラを出撃した<ref name="叢書九三62" />。パラオ方面に発生した[[熱帯低気圧]]がフィリピンに接近しており、天候は悪化しつつあった<ref name="叢書四八388" />。

同日、豊田連合艦隊司令長官は第一遊撃部隊指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官(旗艦[[大和 (戦艦)|大和]])に「第一遊撃部隊ノ大部ヲ率ヰ第三次輸送船団ノ泊地入泊ニ策応『スルー』海又ハ『ミンダナオ』海方面ニ進出 輸送船団ノ間接護衛ニ任ズ」(GF電令作第08号、8日1121発電)と下令した<ref name="叢書九三63">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]63頁</ref>。栗田艦隊は2日前に入港した空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]から弾薬の補給を受けていた<ref name="木俣空母793">[[#木俣空母|日本空母戦史]]793-795頁「ボルネオにて(十一月)」</ref>。第一遊撃部隊は8日未明にブルネイを出撃し、翌日にはスルー海に進出した<ref name="叢書九三63" />。レイテ沖海戦での損害が大きかった重巡[[利根 (重巡洋艦)|利根]]は隼鷹隊(隼鷹、木曾、夕月、卯月)に同行し、マニラに向かった<ref name="木俣軽巡603" /><ref name="木俣空母793" />。

[[11月9日]]、第四次輸送部隊はオルモック湾口で空襲をうけた<ref name="叢書四八389">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]389-390頁「第四次船団揚陸の渋滞」</ref>。被害は輸送船2隻小破で、1815にオルモック着、揚陸を開始した<ref name="叢書九三63" /><ref name="生出将器246" />。30分後には第四船団の輸送艦3隻もオルモックに到着した<ref name="叢書九三63" />。ところが、オルモックはすでに米軍重砲隊の射程にはいっており<ref name="叢書四八389" />、船団は沖合に停泊せざるを得なかった(揚陸地点をイビルに変更)<ref name="叢書八一435" />。さらに事前に用意していた50隻以上の[[大発動艇|大発]]は台風の高波で多くが砂に埋もれ<ref name="生出将器246" />、揚陸には5隻しか使用できなかった<ref name="叢書四八389" />{{sfn|岸見|2010|pp=39-40}}。高津丸搭載の大発も空襲による損傷で使えなくなっており、揚陸作業は難航する<ref name="木俣海防111" />{{sfn|岸見|2010|pp=39-40}}。そこで、吃水の浅い[[海防艦]]を大発動艇のかわりに使用した<ref name="生出将器246" /><ref>[[#占守電探|占守電探室]]60頁</ref>。また揚陸作戦にはセブ島の大発動艇部隊が協力していたが、第四次輸送部隊揚陸日には抜兵団(第102師団)海上機動任務のためセブ島に帰って分散しており、一部しか協力できなかった{{Sfn|志柿|2005|pp=143-146|ps=多号作戦開始}}。

翌[[11月10日]]午前1030頃、第四次輸送部隊は揚陸作業を打ち切り、マニラに向け出港した<ref name="木俣水雷551" /><ref name="生出将器246" />。人員は全て揚陸したが、兵器弾薬等の揚陸は若干にとどまった{{sfn|岸見|2010|pp=41}}<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]414頁「第十四方面軍のレイテ会戦指導の問題」</ref>。第26師団は装備の欠乏と糧食の不足に悩まされ{{sfn|岸見|2010|pp=217-221}}、最終的にレイテ島上陸部隊は壊滅したとみられる{{sfn|岸見|2010|pp=222-224}}。

第四次輸送部隊は出港直後、オルモック湾で[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]35機の空襲を受け、高津丸と香椎丸が沈没、海防艦11号が航行不能のため味方により処分される<ref name="木俣海防111" />{{sfn|岸見|2010|pp=40|ps=「第4図 第4次輸送作戦戦闘図(星野清三郎作成)」}}。また金華丸と駆逐艦[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]が損傷した{{sfn|岸見|2010|pp=42-43}}<ref name="叢書九三63" />。
帰路で第三次輸送部隊(早川少将)とすれ違うときに、四次部隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)と三次部隊の駆逐艦2隻(初春、竹)を入れ替えた<ref name="木俣水雷551" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=107-109|ps=「「竹」多号作戦初出撃」}}{{sfn|岸見|2010|pp=44-45}}。第四次輸送部隊は11日夜にマニラへ戻った<ref name="生出将器246" />。

陸軍航空隊はのべ42機が出動し、13機を喪失<ref name="叢書四八389" />。第二飛行師団の出動可能機は戦闘機19(四式戦12、三式戦4、複戦1、一式戦2)、襲撃機5、双軽3、司偵6に減少<ref name="叢書四八389" />。夕刻、飛行第54戦隊の増援11機が到着した<ref name="叢書四八389" />。


==== 第4船団 ====
==== 第4船団 ====
* 輸送艦第10号、同6号、同9号
* 輸送艦第10号、同6号、同9号
第1師団の残を載せて11月8日にマニラを出港9日1830にオルモックへ到着した。
第1師団の残員約1000名(第49連隊、第57連隊){{sfn|岸見|2010|pp=42-43}}を載せて[[11月8日]]夕刻にマニラを出港<ref name="叢書九三62" />。9日1830にオルモックへ到着した(第四次輸送部隊のオルモック着から約30分後)<ref name="叢書九三63" />


=== 第3次作戦 ===
=== 第3次作戦 ===
[[ファイル:Shimakaze 1944-11-11.jpg|thumb|220px|空襲を受ける駆逐艦「[[島風 (駆逐艦)|島風]]」。魚雷発射管が横を向いており、投棄された後である事が判る。また既に速力も低下している。]]
[[ファイル:Shimakaze 1944-11-11.jpg|thumb|220px|空襲を受ける駆逐艦「[[島風 (駆逐艦)|島風]]」。魚雷発射管が横を向いており、投棄された後である事が判る。また既に速力も低下している。]]
[[ファイル:Japanese destroyer sinking Nov 1944.jpeg|thumb|220px|炎上し沈没寸前の駆逐艦「[[若月 (駆逐艦)|若月]]」。]]
[[ファイル:Japanese destroyer sinking Nov 1944.jpeg|thumb|220px|炎上し沈没寸前の駆逐艦「[[若月 (駆逐艦)|若月]]」。]]
* 第2船団:'''せれべす丸'''、'''泰山丸'''、'''三笠丸'''、'''西豊丸'''、'''天丸'''
* 第2船団:'''せれべす丸'''、'''泰山丸'''、'''三笠丸'''、'''西豊丸'''、'''天丸'''
* 護衛部隊:'''駆潜艇第30号'''、46号
* 護衛部隊:'''掃海艇第30号'''、駆潜艇46号
* 警戒部隊:'''島風'''、'''浜波'''、初春、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]
* 警戒部隊:'''島風'''、'''浜波'''、初春、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]
糧食弾薬等6000トン、兵站部隊2000名および第26師団(泉兵団)の一部を輸送する。計画では第4次輸送部隊がマニラ帰港後に出港する予定だったが、フィリピン周辺の天気予報は悪天候が続き航空機の攻撃が出来ないと予想された。そこで悪天候が続くうちに輸送を終了させようと11月9に急遽港した。しかし予報は外れ天候は10日には回復する。航空の援護の無いことが当初より危ぶまれていたがそのまま強行する形となった。出航後の10日未明にせれべす丸が座礁し、駆潜艇46号が警戒のため残った。本は途中で4次輸送部隊とすれ違警戒部隊の艦を一部交換す形となった初春、竹は第4次輸送隊に編入されマラに引き返し長波、朝霜、若月が第4次輸送部隊から本部隊に編入された。その結果、オルモ突入時の船団は以下の通りなった。
糧食弾薬等6000トン{{sfn|岸見|2010|pp=43-44}}、兵站部隊および第26師団(泉兵団)の一部を輸送する<ref name="叢書四八389" /><ref name="木俣水雷555">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]555-557頁「第二水戦全滅」</ref>。計画では第4次輸送部隊がマニラ帰港後に出港する予定だったが<ref name="叢書九三62" />、フィリピン周辺の天気予報は悪天候が続き「連合軍側は航空機の攻撃が出来ないと予想された<ref name="叢書九三63" />南西方面艦隊司令部は「八菲島中部東方海面ニ現セル低気圧ノ影響及目下敵動部菲島ヨリ離隔セル算アルコト並ニ一遊撃部隊出動ノ好機ヲ利用スルタメ」報告している<ref name="叢書九三63" />大本営海軍も「通信情報依レバ五六日菲島ニ来襲セシ敵機動部隊ハ『パラ』東方海面ニテ補給中ナルモノノ如判断し<ref name="叢書九三63" />

以上の判断により南西方面艦隊司令部は、悪天候が続くうちに輸送を終了させようと、第三次輸送部隊の11月9日出撃を決定した<ref name="木俣水雷555" /><ref name="叢書九三63" />。低速船5隻の内訳は、せれべす丸(5,863トン)、泰山丸(3,587トン)、三笠丸(3,143トン)、西豊丸(4,639トン)、天照丸(4,982トン)である{{sfn|岸見|2010|pp=43-44}}<ref name="叢書九三63" />。
午前3時に出港後まもなく、せれべす丸がポンドク半島(ルソン島南部)で座礁し{{sfn|岸見|2010|pp=43-44}}、駆潜艇46号が現場に残った<ref name="叢書九三63" />。
しかし予報は外れ、天候は回復しつつあった<ref name="木俣水雷555" />。
10日、本隊は途中で第四次輸送部隊とすれ違い(上述)、警戒部隊の艦を一部交換する形となった<ref name="木俣水雷555" /><ref name="叢書九三64">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]64-65頁「参考」</ref>。初春と竹は第四次輸送部隊に編入されマニラに引き返し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)が第四次輸送部隊から第三次輸送部隊に編入された{{sfn|岸見|2010|pp=44-45}}<ref name="叢書九三64" />。その結果、オルモック突入時の船団は以下の通りとなった<ref name="生出将器249" />。


* 第2船団:'''泰山丸'''、'''三笠丸'''、'''西豊丸'''、'''天昭丸'''
* 第2船団:'''泰山丸'''、'''三笠丸'''、'''西豊丸'''、'''天昭丸'''
* 護衛部隊:'''駆潜艇第30号'''
* 護衛部隊:'''掃海艇第30号'''
* 警戒部隊:'''島風'''、'''浜波'''、'''長波'''、朝霜、'''若月'''
* 警戒部隊:'''島風'''、'''浜波'''、'''長波'''、朝霜、'''若月'''

11日1200にオルモック到着予定だったが、オルモック湾手前で0830から1140までに艦上機延べ347機の攻撃を受けた。駆逐艦は煙幕を張ったが輸送船は全船沈没した。続いて護衛、警戒部隊も攻撃され朝霜を除く[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]など全ての艦が沈没した。島風沈没により、座乗していた[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]][[少将]]も戦死した。
[[11月11日]]日付変更後、米軍魚雷艇や空襲を受けたが被害はなかった<ref name="木俣水雷557">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]557頁「米魚雷艇と交戦(十一月十日)」</ref>。同日朝、予定どおりオルモック湾口までたどり着いた<ref name="叢書九三64" /><ref name="叢書四八390">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]390-391頁「第三次船団の全滅」</ref>。
1200にオルモック到着予定だったが、オルモック湾手前で0830から1140までに艦上機延べ347機の攻撃を受けた<ref name="生出将器249" /><ref name="木俣水雷558">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]558-560頁「米空母機の大空襲」</ref>。これは「日本軍戦艦部隊がレイテに向け進撃中」との情報により、燃料補給を中断してひきかえしてきた第38任務部隊の艦載機であった<ref name="叢書九三64" />。米軍機は戦艦部隊(栗田艦隊)を発見できず、オルモックに向け航行中の輸送船団(第三次輸送部隊)を発見し、攻撃したのである<ref name="叢書九三64" />。結果として、第一遊撃部隊の牽制出動が、第三次輸送部隊の全滅を招いたことになる<ref name="叢書九三64" />{{sfn|岸見|2010|pp=217-221}}。

駆逐艦は煙幕を張ったが、輸送船は全船沈没した{{sfn|岸見|2010|pp=46-48}}。続いて護衛・警戒部隊も攻撃された<ref name="木俣水雷558" />。朝霜を除く駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]<ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]64頁の軍令部総長の奏上文では「[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|濱風]]」となっているが、「濱波」の誤認。濱風は[[陽炎型駆逐艦]]、濱波は[[夕雲型駆逐艦]]。</ref>)と掃海艇第30号{{sfn|岸見|2010|pp=46-48}}<ref>[[#写真十三|写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)]]頁〔『掃海艇』行動年表 ◇第30号◇〕</ref>など、全ての艦が沈没した<ref name="叢書五四450" /><ref name="叢書九三64" />。島風沈没により、座乗していた[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]][[少将]]も戦死した<ref name="生出将器249" /><ref name="叢書九三64" />。
直衛の陸軍航空隊約20機は、飛行第54戦隊長黒川直輔少佐をふくめ8機を喪失した<ref name="叢書四八390" />。

=== レイテ決戦方針の動揺 ===
11月10日の時点で、多号作戦第三次輸送部隊と第四次輸送部隊は順調に輸送作戦を続行しているようにみえた<ref name="叢書九三69">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]69-70頁「現地陸軍部隊のレイテ決戦断念の意向と、大本営の規定方針の堅持/南方軍の意見具申」</ref>。大本営はあくまでレイテ決戦と精鋭戦力の増強(輸送)を基本方針としており、南方軍に対し台湾配備の第十師団のフィリピン投入を通知、くわえて「今ヤ決戦ノ機ヲ目前ニ控ユルノ秋 決戦兵団カ逐次順調裡ニ主決戦場ニ到着シツツアルコトハ同慶ニ堪ヘサルト共ニ 大本営ハ更ニ現地軍ノ有力兵団(部隊)ノ果敢機ニ投スル投入断行ヲ期待シ其ノ必成ヲ記念シアリ」と要望した<ref name="叢書九三69" />。
この前後、マニラで南方軍(寺内元帥)と第14方面軍(山下大将)はレイテ決戦について合同研究を実施する{{sfn|岸見|2010|pp=58-59}}<ref name="叢書九三69" />。
翌11月11日、寺内総司令官はレイテ決戦続行を決断し{{sfn|岸見|2010|pp=58-59}}、山下第14方面軍司令官も了承した<ref name="叢書九三69" /><ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]433-435頁「寺内総司令官レイテ決戦方針堅持」</ref>。
南方軍と南西方面艦隊では、今後のレイテ決戦輸送計画を立案する<ref name="叢書四八414" />。歩兵第5連隊1コ大隊は15日(マニラ)発、第26師団軍需品は18日発、歩兵第5連隊主力は20日発、第68旅団主力は20日発、独立混成58旅団主力は20日発、第23師団主力は27日発という内容である<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]435-437頁「第三十五軍の苦境」</ref>。
直後、第三次輸送部隊全滅の急報が入り「望ミヲ嘱シタル第二十六師団ハ三分ノ一強 軍需品ノ突入輸送ハ意外ナル蹉跌ニ依リテ成果予期ノ如クナラザル報ニ接シ」<ref name="叢書九三69" />、南方軍は「レイテ地上決戦続行は不利」と大本営に意見具申してレイテ決戦中止の決断を(暗に)求めた<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]415-417頁「南方軍の情勢判断と意見具申」</ref><ref name="叢書八一437">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]437-440頁「総司令官の比島作戦推移観察と大本営の指導」</ref>。

11月13日、大本営陸軍部はレイテ決戦方針の堅持を現地陸軍に伝達し<ref name="叢書四八416">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]416-417頁「大本營の対南方軍回答」</ref>、大本営陸軍部・海軍部はさらに増援部隊の派遣を計画していると述べた<ref name="叢書八一437" /><ref>[[#叢書93|戦史叢書93巻]]70頁「大本営、「既定方針ハ毫モ変化」なし」</ref>。
14日、参謀総長は昭和天皇に「『レイテ』方面ノ補給ノ状況ニ就テ」上奏し、18日に輸送船4-5隻、24日に輸送船3-4隻で軍需品を輸送するとの計画を述べた<ref name="叢書九三75">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]75-76頁「軍需品の緊急輸送/参謀総長の上奏」</ref>。ところが、投入予定の輸送船は13日と14日のマニラ空襲で全滅した(詳細後述)<ref name="叢書八一440" /><ref name="叢書九三75" />。

その頃、日本陸軍[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]乗船の輸送船は[[ヒ81船団]]に加わり<ref name="叢書八一469" />、11月13-4日に北九州を出発、マニラに向け南下中であった<ref name="叢書九三72">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]72-73頁「第二十三師団の海没」</ref><ref>[[#木俣空母|日本空母戦史]]817-819頁「5 神鷹の沈没(十一月十七日) ― 第二十三師団の海上輸送 ―」</ref>。第23師団は12月上旬にレイテ島へ進出する予定だった<ref name="叢書四八414" />。
11月15日以降、アメリカ海軍潜水艦の襲撃により3隻(空母[[神鷹 (空母)|神鷹]]〈11月17日〉<ref>[[#木俣空母|日本空母戦史]]822-823頁</ref><ref name="叢書四五582">[[#叢書45|戦史叢書45巻]]582-583頁「船舶および艦艇の喪失 ― 八月~十二月」</ref>、[[あきつ丸]]〈11月15日〉<ref>[[#木俣空母|日本空母戦史]]820-821頁</ref>、[[摩耶山丸]]〈11月17日〉<ref>[[#木俣空母|日本空母戦史]]821頁</ref>)が沈没し、6000名以上が戦死する大惨事となった<ref name="叢書九三72" />。第23師団司令部は師団長と参謀1名のみ救助され残りは全滅、機能を喪失した<ref name="叢書四八425" /><ref name="叢書九三72" />。残存部隊を乗せた特殊船2隻([[神州丸]]、[[吉備津丸]])も台湾に退避した。
大本営陸軍部はレイテ地上決戦が不可能になったことを悟ったが<ref name="叢書四八425" />、対外的には断固としてレイテ決戦を遂行すると表明した<ref name="叢書四八426" />。昭和天皇も戦況奏上の際に「陸海協力、全力をかけて勝ち抜くよう」と指導した(11月20日)<ref name="叢書八一470">[[#叢書81|戦史叢書81巻]]470-471頁「十一月二十日ころのレイテ戦局」</ref>。

11月17日<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]444-445頁「総司令部のサイゴン移転」</ref>、南方軍司令部(寺内元帥ほか)は空路でマニラからサイゴンへ後退した<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]417-418頁「南方軍司令部のサイゴン後退決心」</ref>{{sfn|岸見|2010|pp=238-239}}。

=== 水上艦隊の再編 ===
11月5日、日本海軍は[[第四航空戦隊]](司令官[[松田千秋]]少将)を第二遊撃部隊に編入する<ref name="叢書五四450" />。四航戦の[[航空戦艦]]2隻([[日向 (戦艦)|日向]]、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]])は[[第三十一戦隊]](五十鈴、霜月、桑、槇、杉、桃、梅)各艦と共に内地を出撃、南西方面にむかった{{Sfn|秋月型|2015|pp=309-311|ps=「僚艦沈没の悲報しきり」}}。

11月10日夜、隼鷹輸送隊<ref name="木俣水雷560">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]560-562頁</ref>(空母〈[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]〉、巡洋艦2隻〈[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]〉、第30駆逐隊〈[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]、[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]〉)がマニラに到着、隼鷹は搭載していた[[挺進連隊|陸軍パラシュート部隊]]や特攻ボート[[震洋]]、第31特別根拠地隊(司令官[[有馬馨]]少将、17日より[[岩淵三次]]少将)向けの物資を陸揚げした<ref name="木俣空母793" /><ref>[[#木俣空母|日本空母戦史]]790-793頁「2 隼鷹の砲弾緊急輸送(十月~十一月) ― 戦艦大和へ四十六センチ砲弾を ―」</ref>。
第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将)はレイテ沖海戦で旗艦[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]を失っていたので、木曾がマニラに残り第一水雷戦隊旗艦として多号作戦に参加することになった<ref name="木俣軽巡603" /><ref name="木俣空母793" />。隼鷹隊には、スリガオ海峡夜戦から生還したものの損傷の大きい白露型駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]が加わる<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]]p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』</ref>。11月12日、隼鷹隊(隼鷹、利根、時雨、夕月、卯月)はマニラを出港、内地に向かった<ref name="木俣空母793" />。

大本営がレイテ決戦方針を示した[[11月13日]]<ref name="叢書四八416" />、米軍機動部隊(第38任務部隊)はマニラを襲撃した{{sfn|岸見|2010|pp=50-53|ps=「マニラ湾の地獄」}}<ref name="叢書九三65">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]65-66頁「マニラ在泊艦船の被害甚大」</ref>。
マニラに到着したばかりの軽巡洋艦[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]は大破着底する<ref name="木俣軽巡603" />{{sfn|森田友幸|2000|pp=52-55|ps=「マニラ前進根拠地の機能喪失」}}。駆逐艦4隻([[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]<ref name="木俣水雷550" />、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]<ref name="木俣水雷550" />)は沈没するか大破着底し、給油艦[[隠戸 (給油艦)|隠戸]]が大破、駆逐艦[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]が損傷した<ref name="叢書九三65" /><ref name="木俣水雷560" />。輸送船の被害は甚大だった。唯一の優速船だった金華丸を含め、輸送船15隻(約7.3万トン)が沈没、ミンドロ島付近の輸送船2隻が沈没した<ref name="叢書九三65" />。

志摩長官は「このままでは健在の駆逐艦も全滅する」と南西方面艦隊(司令長官[[大川内傳七]]中将、参謀長[[有馬馨]]少将)に進言し、水雷戦隊のマニラ脱出を意見具申した{{sfn|森田友幸|2000|pp=53-54}}{{sfn|岸見|2010|pp=53-54}}<ref name="木俣水雷562">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]562-563頁「第一水戦、ブルネイへ脱走」</ref>。13日午後の時点で、大川内中将は木村第一水雷戦隊司令官に水雷戦隊の[[ボルネオ島]]西北部ブルネイへの回航を命じた(NSB電令作第749号)<ref name="叢書九三67a">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]67頁「第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航」</ref>。旗艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]]を喪失していた第二遊撃部隊司令部([[志摩清英]]第五艦隊司令長官など)も、各駆逐艦に便乗して撤退することになった{{sfn|岸見|2010|pp=53-54}}<ref name="叢書九三67a" />。
同日夜半、木村少将指揮下の駆逐艦5隻(霞〈木村司令官〉、初霜〈志摩長官〉<ref name="木俣水雷562" />、朝霜、潮、竹)はマニラを出発し、ブルネイにむかった<ref name="叢書五四450" /><ref name="叢書九三67a" />。
11月14日、ふたたび米軍機動部隊艦載機がマニラを襲撃し、曙・駆潜艇116号・輸送船3隻などが沈没した{{sfn|岸見|2010|pp=53-54}}。
米軍機動部隊の一連の空襲と情報分析により、先の[[台湾沖航空戦]]や[[レイテ沖海戦]]で日本海軍が主張した大戦果は誤報であることが確実となった<ref name="叢書九三66">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]66頁「米機動部隊兵力判断」</ref>。

11月15日、豊田連合艦隊長官は栗田中将に対し第一遊撃部隊所属の戦艦3隻([[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[金剛 (戦艦)|金剛]])、軽巡[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]、第17駆逐隊([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]])の内地回航と修理を<ref name="叢書五四450" />、シンガポールで修理中の2隻([[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]] )を除く3隻(戦艦〈[[榛名 (戦艦)|榛名]]〉、巡洋艦〈[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]〉)を大川内傳七中将(南西方面艦隊司令長官)の指揮下に編入するよう命じた(GF電令作第419号)<ref name="叢書九三67a" />。
大川内長官は、3隻(榛名、羽黒、大淀)を第二遊撃部隊指揮官[[志摩清英]]中将指揮下の支援部隊に編入したが<ref name="叢書九三67a" />、榛名はリンガ泊地到着直前に座礁し、高速航行と長期航海に支障をきたすようになった<ref>[[#叢書54|戦史叢書54巻]]452頁「注3」</ref>。
同日夜、大川内長官は多号作戦警戒部隊(第二遊撃部隊)に部署されていた第一水雷戦隊と第二水雷戦隊を支援部隊に編入、17日には支援部隊の待機位置をスマトラ島のリンガ泊地に指定した<ref name="叢書九三67a" />。

11月20日、日本海軍は水上艦艇の兵力を再編する<ref name="叢書九三67b">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]67-69頁「第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入」</ref>。[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]沈没時に全滅した第二水雷戦隊を再建するため、第一水雷戦隊を解隊して二水戦に転用する(木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に就任)<ref name="叢書九三67b" /><ref>[[#叢書54|戦史叢書54巻]]452頁「注2」</ref>。
旧第十戦隊の構成艦(矢矧、雪風、浦風〈21日沈没〉、磯風、濱風、霜月、冬月、涼月)も、二水戦に編入された<ref name="叢書九三67b" />。また第一水雷戦隊の穴埋めとして、[[第三十一戦隊]]〔軽巡[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]〈11月19日潜水艦雷撃で損傷、桃護衛下でシンガポール回航〉、第30駆逐隊(卯月、夕月)、第43駆逐隊(竹、梅、桃、槇、桐)、第52駆逐隊(11月15日新編、11月25日編入。桑、杉、樅、檜)、第21海防隊〕を第五艦隊に編入し、対潜作戦と輸送作戦護衛に従事させた<ref name="叢書九三67b" /><ref name="叢書九三73b">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]73-74頁「南西方面艦隊、駆逐艦の不足を訴う」</ref>。
ここに、多号作戦は[[松型駆逐艦]]、[[第一号型輸送艦]]、[[第百一号型輸送艦]](陸軍側呼称SB艇)、[[機動艇]](陸軍側呼称「SS」艇)を主力として再開されることになった<ref name="木俣連合189" /><ref name="叢書九三73a">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]73頁「現地陸海軍の作戦方針」</ref>。

22日時点での支援部隊(第五艦隊旗艦「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」)の兵力は、戦艦3隻(榛名、伊勢、日向)、巡洋艦3隻(足柄、羽黒、大淀)、駆逐艦5隻(霞、潮、朝霜、岸波、霜月)となった<ref name="叢書九三67a" />。第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]を旗艦としてシンガポールからマニラに進出しようとしたが、25日に潜水艦[[カヴァラ (潜水艦)|カヴァラ]]の雷撃で霜月は沈没{{Sfn|秋月型|2015|pp=80-81|ps=「霜月(しもつき)」}}、司令官[[江戸兵太郎]]少将を含め司令部全滅という結果になった<ref name="叢書九三73b" /><ref name="叢書五四454">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]454-455頁「水上部隊の漸減」</ref>。第三十一戦隊司令部(新任司令官は[[鶴岡信道]]少将)は12月上旬に内地で新編され、12月22日に空路でマニラに進出した<ref name="叢書五四454" />。

一方、栗田長官の第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)は[[11月16日]]夕方にブルネイを出発して内地へ帰投したが<ref name="叢書九三67a" />、21日未明に台湾沖でアメリカ潜水艦[[シーライオン (SS-315)|シーライオン二世]]<ref name="叢書四五582" />の襲撃により金剛と浦風を喪失した<ref name="叢書五四450" />{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=378-380|ps=「金剛」および「信濃」の撃沈}}。他の艦は23日に内海西部に到着<ref name="叢書五四450" />。第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は長門を横須賀まで護衛したあと、今度は空母[[信濃 (空母)|信濃]](特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]50基登載)を横須賀から呉まで護衛する。29日、信濃はアメリカ潜水艦[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]]<ref name="叢書四五582" />の雷撃で沈没した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=378-380|ps=「金剛」および「信濃」の撃沈}}。


=== 第5次作戦 ===
=== 第5次作戦 ===
11月13日と14日のマニラ空襲で、軍需品の輸送を担当するはずだった輸送船は全滅した<ref name="叢書九三75" />。レイテ島の日本軍は補給を断たれ、重装備も不足し、苦戦を強いられていた<ref name="叢書八一440" /><ref name="叢書八一470" />。そこで第68旅団の輸送をおこなうはずだった第五次~七次作戦は、軍需品の輸送に振り替えられた<ref name="叢書九三76">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]76-77頁「第五次~第七次多号作戦」</ref><ref name="木俣水雷563">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]563-564頁「多号第五次輸送の失敗(十一月二十五日)」</ref>。
第5次作戦は第1輸送戦隊の艦艇により軍需品の輸送を計画した。
同時期、[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]司令官[[山下奉文]]大将は、第三船舶司令部にレイテ島輸送作戦の決行を下令する<ref name="木俣撃沈100">[[#木俣2013日本|撃墜戦記]]100-101頁</ref>。これにより陸軍潜水艦「[[三式潜航輸送艇|まるゆ]]」3隻も投入された<ref name="木俣撃沈100" /><ref name="木俣連合189" />。またセブ島~レイテ島間では水雷艇や魚雷艇による輸送と連絡が行われていたが、こちらも制空権の喪失と優秀な米軍魚雷艇の活動により、損害を出しながらの運用だったという{{Sfn|志柿|2005|pp=148-155|ps=魚雷艇隊の悲劇}}。海路での物資補給は期待できず、日本陸軍航空隊は、空中空輸という方式でレイテ島日本軍に補給をつづけた<ref name="叢書四八446">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]446-447頁「第四航空軍レイテ方面攻撃続行(八紘隊の攻撃)」</ref>。


==== 第1梯団 ====
==== 第1梯団 ====
* 輸送船:'''輸送艦第101号'''、'''同141号'''、'''同160号'''
* 輸送船:'''輸送艦第101号'''、'''同141号'''、'''同160号'''
* 護衛艦艇:'''駆潜艇第46号'''
* 護衛艦艇:'''駆潜艇第46号'''
11月23日マニラを出港。24日カタイガンに待避していたが空襲により輸送艦は3隻とも沈没した。駆潜艇46号もマニラへの帰途、翌25日に被爆沈没し船団は全滅した。
11月23日<ref name="叢書八一474a" />、第一梯団は兵員1000名と軍需品を搭載してマニラを出港する{{sfn|岸見|2010|p=62}}。24日、マステバ島カタイガンに待避していたが空襲により輸送艦は3隻とも沈没した{{sfn|岸見|2010|p=62}}<ref name="叢書九三76" />。駆潜艇46号もマニラへの帰途、翌25日に被爆沈没<ref>[[#写真十三|写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)]]180頁「駆潜艇戦歴、第46号駆潜艇」</ref>し船団は全滅した{{sfn|岸見|2010|p=63}}。セブ島の第33特別根拠地隊(志柿大佐/先任参謀)は「ビサヤ地区での昼間避泊は絶対不可」「今ごろこんなことをやるというのは、よほどどうかしている」として意見具申したが、採用されなかったという{{Sfn|志柿|2005|p=162-164}}。輸送艦の生存者はマステバ島に上陸した{{sfn|岸見|2010|p=63}}{{Sfn|志柿|2005|p=162-164}}


==== 第2梯団 ====
==== 第2梯団 ====
* 輸送船:'''輸送艦第6号'''、同9号、'''同10号'''
* 輸送船:'''輸送艦第6号'''、同9号、'''同10号'''
* 護衛艦艇:竹
* 護衛艦艇:竹
竹駆逐艦長の宇那木勁少佐(新南群島で飯村少佐と艦長交替){{Sfn|南海の死闘|1994|pp=111-113|ps=「艦長宇那木少佐着任」}}の指揮下で、船団4隻(護衛艦〈竹〉、第一号型輸送艦3隻〈六号、九号、十号〉)という編成で{{Sfn|南海の死闘|1994|p=153|ps=再度レイテ島への出撃}}、11月24日にマニラを出港した<ref name="叢書八一474a" />{{sfn|岸見|2010|p=63}}。
11月24日マニラを出港。25日にカマリンドケ島<!--[[ボアク島|マリンドゥケ島]]?-->へ待避していたが、空襲により輸送艦6号、10号が沈没。9号は損傷により揚陸装置が故障、竹も損傷して、マニラに引き返した。『戦史叢書』では大河内長官の命令で帰投したとの記述があるが、竹の宇那木艦長は「輸送戦隊司令官より作戦続行命令が出たが独断でマニラに帰投した」と証言している<ref>「昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌」第12画像</ref>。
25日未明よりマリンドーケ島バナラカン湾<!--[[ボアク島|マリンドゥケ島]]?-->へ待避していたが{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=116-117|ps=「運命のバラナカン避泊」}}、米軍機動部隊艦載機の空襲により輸送艦6号と10号が沈没する{{sfn|岸見|2010|p=62}}{{sfn|岸見|2010|pp=64-67}}。9号は損傷により揚陸装置が故障、竹も損傷した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=124-127|ps=「艦長、苦悩の決断」}}。
第2梯団は竹駆逐艦長の決断により、マニラに引き返した<ref name="木俣水雷563" />{{sfn|岸見|2010|pp=62-67|ps=「命令違反」}}。『戦史叢書』では大河内長官の命令で帰投したとの記述があるが、竹の宇那木艦長は「輸送戦隊司令官より作戦続行命令が出たが独断でマニラに帰投した」と証言している<ref name="木俣水雷563" />{{sfn|岸見|2010|p=71}}。
26日にマニラに到着すると{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=127-129|ps=「再度「マニラ」帰港」}}、第一輸送戦隊司令官曽爾章少将が宇那木を出迎え「南西方面艦隊参謀長[[有馬馨]]少将が強硬だった。無事にもどってきてくれてよかった」と語ったという{{sfn|岸見|2010|p=71}}。第五次多号作戦は失敗した<ref name="叢書九三76" />。

==== その他 ====
米軍機動部隊の[[ルソン島]]に対する空襲は25日早朝からはじまり、マニラ入港直前の第一輸送戦隊(通称「八十島船団」。軽巡[[平海 (巡洋艦)|八十島]]、二等輸送艦〈113号、142号、163号〉)が沈没<ref name="木俣軽巡599" /><ref>[[#最上出撃|最上出撃せよ]]217-221頁</ref>、サンタクルズで修理中の重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]も沈没した<ref name="叢書九三76" /><ref>[[#木俣2013日本|撃沈戦記]]182-183頁「米空母機により沈没」</ref>。八十島船団はフィリピン地上戦に投入予定の[[一式砲戦車]]を輸送中であった<ref name="木俣軽巡599" />。

マニラを出撃した陸軍潜水艦[[三式潜航輸送艇|まるゆ]]3隻は、11月26日にカモテス海のバシハン島に到着し、揚陸用の人員と物資を搭載した<ref name="木俣撃沈100" />。11月27日未明、まるゆ2号艇(指揮官艇、潜航不能状態で出撃)は哨戒中の[[フレッチャー級駆逐艦]]4隻に補足されて撃沈された<ref name="木俣撃沈100" />。まるゆ1号艇と3号艇はレイテ島オルモック湾に到着し、米・緊急食・通信用バッテリー・[[大発動艇]]修理部品を陸揚げした<ref name="木俣撃沈100" /><ref>[[#木俣2013日本|撃沈戦記]]101-103頁「駆逐艦対陸軍潜水艦」</ref>。レイテ島に対する17日ぶりの物資補給成功であった<ref name="叢書四八446" />。


=== 第6次作戦 ===
=== 第6次作戦 ===
* 輸送船:'''神祥丸'''、'''神悦丸'''
* 輸送船:'''神祥丸'''、'''神悦丸'''
* 護衛艦艇:'''駆潜艇45号'''、'''同53号'''、'''哨戒艇105号'''
* 護衛艦艇:'''駆潜艇45号'''、'''同53号'''、'''哨戒艇105号'''
11月27日<ref name="叢書八一474b" />、戦時標準型貨物船の神祥丸(2,880トン)と神悦丸(2,211トン)を、護衛艦艇3隻(哨戒艇105号、駆潜艇〈45号、53号〉)が護衛し、マニラを出撃した{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}。途中空襲を受けたが大きな損傷無く、日本軍の空挺部隊の陽動作戦(飛行場制圧作戦)の支援をうけ{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}、28日1900にオルモックに突入した<ref name="叢書九三76" /><ref name="叢書四八448a">[[#叢書48|戦史叢書48巻]]448頁「オルモック付近の連合軍の策動と第六次船団の突入成功」</ref>。弾薬250m<sup>3</sup>、糧食1100m<sup>3</sup>を揚陸した{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}。
11月27日マニラを出港、途中空襲を受けたが大きな損傷無く28日1900にオルモックに突入した。弾薬250m<sup>3</sup>、糧食1100m<sup>3</sup>を揚陸した。しかし夜間に敵魚雷艇の攻撃を受け駆潜艇53号、[[第百五号哨戒艇|哨戒艇105号]]が沈没、更に翌朝の空襲で神祥丸が炎上し擱座する。残った神悦丸と駆潜艇45号はマニラを目指したが30日にセブ島東方で遭難沈没し、船団は全滅した。
しかし夜間に敵魚雷艇の攻撃を受け駆潜艇53号<ref>[[#写真十三|写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)]]180頁(「駆潜艇戦歴、第53号駆潜艇」では11月28日空襲で沈没と記載)</ref>、[[第百五号哨戒艇|哨戒艇105号]]が沈没した<ref name="木俣連合193" />{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}。
翌30日朝の空襲で揚陸の遅れていた神悦丸が炎上し<ref>[[#叢書48|戦史叢書48巻]]448-449頁「第六次船団の損害および靖國隊の攻撃等」</ref>、接岸したまま擱座する{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}。残った神祥丸と駆潜艇45号<ref>[[#写真十三|写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)]]180頁(「駆潜艇戦歴、第45号駆潜艇」では11月29日空襲で沈没と記載)</ref>はマニラを目指したが、30日にセブ島東方で遭難沈没。船団は全滅した<ref name="叢書九三76" />{{sfn|岸見|2010|pp=73-74}}。
だが軍需品の一部揚陸に成功したことは、日本軍各部にレイテ作戦遂行への希望を抱かせた<ref name="叢書八一474b" /><ref name="叢書四八448a" />。


=== 第7次作戦 ===
=== 第7次作戦 ===
89行目: 350行目:
* 輸送船:陸軍[[機動艇|SS艇]]3隻
* 輸送船:陸軍[[機動艇|SS艇]]3隻
* 護衛艦艇:駆潜艇第20号
* 護衛艦艇:駆潜艇第20号
11月28日マニラを出港。29日マスバテでSS艇1隻が座礁りの3隻は30日2300にイピルに到着し人員200名、糧食510m<sup>3</sup>、弾薬60m<sup>3</sup>、衛生材料45m<sup>3</sup>を揚陸した。12月1日0140に揚陸完了し2日に無事マニラに帰着した。
11月28日<ref name="叢書八一474c" />、SS艇(5号、11号、12号)を駆潜艇20号が護衛し、兵員200名と糧食弾薬を乗せてマニラを出港する<ref name="木俣連合191" />{{sfn|岸見|2010|pp=76-78}}。29日マスバテでSS艇5号が座礁する{{sfn|岸見|2010|pp=76-78}}。2隻は30日2300にレイテ島イピル(オルモック南方4km)に到着し{{sfn|岸見|2010|pp=76-78}}、人員200名、糧食510m<sup>3</sup>、弾薬60m<sup>3</sup>、衛生材料45m<sup>3</sup>を揚陸した<ref name="叢書八一474c" />。12月1日0140に揚陸完了し2日に無事マニラに帰着した<ref name="木俣連合191" />


==== 第2梯団 ====
==== 第2梯団 ====
* 輸送船:陸軍SS艇2隻
* 輸送船:陸軍SS艇2隻
11月30日<ref name="叢書八一474c" />、SS艇(10号、14号)でマニラを出港する{{sfn|岸見|2010|pp=76-78}}。マステバ島沖合で米軍駆逐艦4隻に発見され、撃沈された{{sfn|岸見|2010|pp=76-78}}。
11月30日マニラを出港。12月1日パロンポン北方のシラド湾に到着した。


==== 第3、第4梯団 ====
==== 第3、第4梯団 ====
* 輸送船:輸送艦第9号、140号、159号
* 輸送船:輸送艦第9号、140号、159号
* 護衛艦艇:竹、'''桑'''
* 護衛艦艇:竹、'''桑'''
12月1日<ref name="叢書八一474c" />、[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]駆逐艦長[[山下正倫]]中佐の指揮下{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=131-133|ps=「レイテ島へ最後の出撃」}}<ref name="木俣水雷564">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]564-568頁「第七次輸送(十二月三日)」</ref>、輸送艦(9号、140号、159号)を松型駆逐艦2隻(桑、竹)が護衛してマニラを出撃する<ref name="木俣連合191" />{{sfn|岸見|2010|p=77}}。
12月1日マニラを出港。2日2330ころ、オルモックに突入した。翌3日0030ころ警戒中の[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]、竹が米駆逐艦3隻、魚雷艇と交戦となった。駆逐艦[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]を撃沈、[[アレン・M・サムナー (駆逐艦)|アレン・M・サムナー]]を撃破、魚雷艇2隻を撃沈し[[モール (駆逐艦)|モール]]を撃退したが、日本側も桑が沈没、竹も損傷した。このとき竹が魚雷により戦果をあげたのが、日本海軍水上艦艇最後の魚雷戦と言われている<ref>『艦長たちの太平洋戦争 続編』p117より。</ref>。ただし、12月26日の[[礼号作戦]]でも魚雷は使用されている。輸送艦3隻と竹は12月4日マニラに帰着した。
2日2330ころ、オルモックに突入した<ref name="木俣連合193" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=135-138|ps=「レイテ島オルモック湾突入成功」}}。
翌3日0030ころ、護衛部隊(松、竹)が米大型駆逐艦3隻([[モール (駆逐艦)|モール]]、[[アレン・M・サムナー (駆逐艦)|アレン・M・サムナー]]、[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]])および魚雷艇と交戦した<ref name="木俣連合193" />{{sfn|岸見|2010|pp=81-85}}。戦闘前、日本軍小数機(夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]、水上爆撃機[[瑞雲 (航空機)|瑞雲]])の夜間爆撃と機銃掃射で[[アレン・M・サムナー (駆逐艦)|アレン・M・サムナー]]が小破する<ref name="木俣水雷564" /><ref name="木俣連合193" />。
つづいて日本側駆逐艦(桑、竹とも魚雷を発射){{Sfn|志柿|2005|pp=164-167|ps=「オルモック沖の海戦絵巻」}}の雷撃により駆逐艦[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]が轟沈する<ref name="木俣連合195" />{{sfn|岸見|2010|pp=81-85}}。残る米駆逐艦2隻(サムナー、モール)は[[特殊潜航艇]](甲標的)の攻撃と判断して撤退した{{sfn|岸見|2010|pp=81-85}}。だが日本側も桑が沈没<ref name="木俣水雷564" />{{sfn|岸見|2010|pp=97-98|ps=「桑の最後」}}、竹も損傷した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=146-148|ps=「オルモック湾脱出」}}{{sfn|岸見|2010|pp=88-91}}。このとき竹が魚雷により戦果をあげたのが、日本海軍水上艦艇最後の魚雷戦と言われている<ref>『艦長たちの太平洋戦争 続編』p117より。</ref>。ただし、12月26日の[[礼号作戦]]でも魚雷は使用されている。輸送艦3隻と竹は12月4日、マニラに帰着した<ref name="木俣連合195" />{{sfn|岸見|2010|pp=88-91}}。竹は応急修理をうけたあと、内地へ帰投した<ref name="木俣水雷564" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=167-171}}。


=== 第8次作戦 ===
=== 第8次作戦 ===
104行目: 368行目:
* 輸送船:'''[[赤城山丸]]'''、'''白馬丸'''、'''第5真盛丸'''、'''日洋丸'''
* 輸送船:'''[[赤城山丸]]'''、'''白馬丸'''、'''第5真盛丸'''、'''日洋丸'''
* 護衛艦艇:[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]]、杉、駆潜艇第18号、38号、'''輸送艦第11号'''
* 護衛艦艇:[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]]、杉、駆潜艇第18号、38号、'''輸送艦第11号'''

[[陸軍公主嶺学校|第68旅団]]の主力約4000名を輸送する。12月5日にマニラを出港。当初は7日1730にオルモック到着の予定だったが当日米軍がオルモック南部に上陸。そのため揚陸地をサンイシドロに変更した、7日1000より擱座、揚陸を始めた。揚陸中に敵艦爆やB-24など30機の攻撃を受けて、人員は上陸したが物資は砲2門他の揚陸に留まった。輸送船4隻と輸送艦第11号は大破したため放棄され、残りの護衛艦艇5隻はマニラに帰着した。
第六次多号作戦と第七次多号作戦は部分的に成功し、方法如何によってはレイテへの輸送が可能であるとみなされた<ref name="叢書八一475" />。また日本陸軍航空隊の空挺作戦も、連合軍の飛行場に損害を与えたと判断した<ref name="叢書八一475" />。大本営はひきつづきレイテ作戦の続行を企図した<ref>[[#叢書81|戦史叢書81巻]]475-476頁(真田第一部長のレイテ決戦指導要綱より)</ref>。持久に転じても、数か月の時間を得ると判断した<ref name="叢書八一475" />。

現地では、第八次多号作戦が実施された<ref name="叢書八一476b" />。第八次では、[[陸軍公主嶺学校|第68旅団]](通称号「星」)の主力約4000名を輸送する{{sfn|岸見|2010|pp=99-100}}<ref name="叢書九三80b">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]80-81頁「第八次多号作戦」</ref>。12月5日1030<ref name="叢書八一476b" />、第43駆逐隊司令[[菅間良吉]]大佐(司令駆逐艦「梅」)の指揮下{{Sfn|秋月型|2015|pp=311-314|ps=「リスクが大きい輸送作戦」}}、輸送船赤城山丸(4,714トン)、白馬丸(2,857トン)、日祥丸(6,482トン)、輸送艦11号は、艦艇5隻(駆逐艦〈梅、桃、杉〉、駆潜艇〈18号、38号〉)の護衛下でマニラを出港した<ref name="木俣水雷568">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]568-570頁「多号第八、九次船団」</ref>{{sfn|岸見|2010|pp=100-102}}。船団の速力は6ノットで、7日1730のオルモック到着を予定していた{{sfn|岸見|2010|pp=100-102}}。
だが、当日アメリカ軍の大部隊がオルモック南部のアルベイラに上陸する<ref name="叢書八一476a" /><ref name="叢書九三80a">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]80頁「米軍、オルモック南方に上陸」</ref>。そのため第八次多号作戦部隊は、揚陸地をレイテ島北西岸のサンイシドロ(漁村){{sfn|岸見|2010|p=206|ps=「第10図 レイテ島西部要図」}}に変更した<ref name="木俣水雷568" /><ref name="叢書九三80b" />。
7日1000以降、擱座・揚陸を始めた<ref name="木俣水雷568" />。揚陸中にB-24多数に空襲され<ref name="叢書八一476b" />、さらに連合軍戦闘爆撃機([[P-40 (航空機)|P-40]]、[[P-47 (航空機)|P-47]])32機、P-38ライトニング50機、海兵隊[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]]16機の波状攻撃をうける<ref name="木俣水雷568" />。人員は上陸したが軍需品の揚陸には失敗<ref name="叢書八一476b" />、物資は砲2門他の揚陸に留まった{{sfn|岸見|2010|pp=229-232}}。梅と杉は損傷<ref name="木俣水雷568" />、輸送船4隻と輸送艦第11号は大破したため放棄され、残りの護衛艦艇5隻はマニラに帰投した<ref name="木俣水雷568" />。
第68旅団長[[栗栖猛夫]]陸軍少将ふくめ幹部将校は、その後の地上戦で戦死した{{sfn|岸見|2010|pp=232-234}}。第68旅団は合計約7000名がレイテ島に上陸したとされるが、その戦闘状況はよくわからない{{sfn|岸見|2010|pp=232-234}}。

12月5日正午すぎ、日本陸軍の[[機動艇|SS艇]]3隻(6号、7号、9号)もマニラを出撃、第八次輸送部隊の後方についた{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。6日0530、SS艇6号は故障のためマンドリーケ島附近で速力低下、落伍した{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。7日朝、第43駆逐隊司令より「隊列を解き各船艇付近に擱座すべし」の命令が出され、SS艇9号はパロンポン(レイテ島北西岸)に向かった{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。SS艇7号(川井輝臣陸軍中尉)はサンイシドロ手前2マイルの陸岸に擱座し、独立歩兵第380大隊の159名、独立混成56師団通信隊37名、迫撃砲2門、機関砲2門、輜重車両4、弾薬食糧の揚陸に成功する{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。午後0時30分、レイテ島を離脱し、12月8日夕刻にマニラへ帰投した{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。6号艇と9号艇は未帰還となった{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。川井艇長は山下陸軍大将より直接感状を授与されたという{{sfn|岸見|2010|pp=112-115}}。


=== 第9次作戦 ===
=== 第9次作戦 ===
112行目: 384行目:
* 輸送艦第140号、'''第159号'''
* 輸送艦第140号、'''第159号'''
* 輸送艦第9号(セブ島に向かうが途中まで同行)
* 輸送艦第9号(セブ島に向かうが途中まで同行)
連合軍がレイテ島西岸に上陸したためオルモック揚陸は困難になったが、日本軍はレイテ増援作戦を続行した{{sfn|岸見|2010|pp=115-117}}<ref name="木俣水雷571">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]571-573頁「第九次多号輸送」</ref>。
輸送船には[[歩兵第5連隊]]を基幹とする高階部隊約4000名と兵器弾薬1200m<sup>3</sup>、糧食800m<sup>3</sup>を搭載、輸送艦第140号、第159号にはオルモック湾への逆上陸を目指す[[海軍陸戦隊|海軍特別陸戦隊]]約400名を搭載した。またセブ島へ輸送する[[甲標的]]2隻を載せた輸送艦第9号も途中まで同行した。12月9日に予定の1日遅れでマニラを出港。<!--出航後に揚陸点をパロンポンに変更、11日朝に揚陸点を再度オルモックに変更する電令が届く。1100にF4U40機の攻撃を受けるが被害なし。-->11日にパロンポン沖で<!--再び-->F4U50機の攻撃を受け、たすまにや丸、美濃丸が沈没した。空知丸はパロンポンでの強行揚陸に作戦変更、[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、駆潜艇第17号、第37号はパロンポンに残り空知丸護衛と沈没船の溺者救助に従事した。卯月はその後オルモックに向かったが敵魚雷艇の攻撃により沈没する<ref>『写真日本の軍艦第10巻』による。</ref>。残りの[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]、桐、輸送艦第140号、第159号は2200にオルモックに突入、強行揚陸を開始する。人員、戦車の全部と機材の半分を揚陸したが第159号は陸上からの砲撃で大破した。<!--その間夕月と桐は湾口で警戒に当たっていたが12日0008より0155まで米駆逐艦と交戦した。-->桐は12日朝、パロンポンに戻り陸兵を揚陸した。パロンポンにいた空知丸と駆潜艇2隻はそれより先に揚陸を終了しマニラに向かっており13日1500に帰着した。オルモックにいた夕月と輸送艦第140号は桐と合流し同じくマニラに向かったが途中でP-38など46機の攻撃を受け12日2027に夕月が沈没、桐も損傷をうけた。桐、輸送艦第140号は13日1900にマニラに帰着した。
第九次作戦の輸送船3隻(美濃丸〈4,667トン〉、空知丸〈4,107トン〉、たすまにや丸〈4,106トン〉)には{{sfn|岸見|2010|pp=117-119}}、第八師団[[歩兵第5連隊]]を基幹とする高階部隊約4000名と{{sfn|岸見|2010|pp=240-242}}、臨時歩兵第5連隊(カモテス支隊)約1200名{{sfn|岸見|2010|pp=248-250}}、兵器弾薬1200m<sup>3</sup>、糧食800m<sup>3</sup>を搭載する{{sfn|岸見|2010|pp=121-122|ps=「最後の多号作戦第九次輸送部隊」}}。
輸送艦2隻(第140号、第159号)にはオルモック湾への逆上陸を目指す[[海軍陸戦隊|海軍特別陸戦隊]]約400名<ref name="写真13巻244" />(伊藤徳夫少佐、[[特二式内火艇]]〈[[水陸両用戦車]]〉10輌、噴進砲21基)を搭載した<ref name="叢書五四448" /><ref name="叢書九三81">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]81頁「第九次多号作戦」</ref>。またセブ島の第三十三根拠地隊<ref name="叢書九八383" />向けの[[甲標的]]2隻を載せた輸送艦第9号も途中まで同行した{{sfn|岸見|2010|pp=117-119}}。護衛の駆逐艦は、第30駆逐隊司令[[澤村成二]]大佐(司令駆逐艦「夕月」)指揮下の3隻([[睦月型駆逐艦]]〈夕月、卯月〉、松型駆逐艦〈桐〉)であった<ref name="木俣水雷571" />。

12月9日1400<ref name="叢書八一477" />、第九次輸送部隊(駆逐艦〈夕月、卯月、桐〉、駆潜艇〈17号、37号〉、輸送船〈美濃丸、空知丸、たすまにあ丸〉、輸送艦〈140号、159号、第9号〉)はマニラを出港した<ref name="木俣水雷571" />{{sfn|岸見|2010|pp=122-125}}。[[12月11日]]午前11頃、第9号輸送艦はセブ島にむけ分離する{{sfn|岸見|2010|pp=122-125}}。一方、第九次輸送部隊は連合軍戦闘爆撃機(P-40、F4U、P-38)多数の本格的な攻撃を受け、卯月が損傷(艦長重傷)、たすまにや丸・美濃丸が擱座・沈没した<ref name="木俣水雷571" />{{sfn|岸見|2010|pp=122-125}}。澤村司令は指揮下艦艇を分割し、護衛3隻(卯月、17号、37号)に沈没者救助と空知丸のパロンポン揚陸護衛を命じた<ref name="木俣水雷571" />{{sfn|岸見|2010|pp=128-130}}。夜間になり、卯月はオルモックに向かったが、米軍魚雷艇2隻(PT490、PT492)<ref name="木俣水雷571" />の雷撃により轟沈した{{sfn|岸見|2010|pp=137-141}}{{Sfn|志柿|2005|pp=173-175|ps=「荒木兵曹長の証言」}}。

澤村司令指揮下のオルモック揚陸組(駆逐艦〈夕月、桐〉、輸送艦〈第140号、第159号〉)は2200にオルモック西方2km地点に突入{{sfn|岸見|2010|pp=128-130}}、輸送艦は揚陸を開始する<ref name="木俣水雷573">[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]573-577頁「湾内の小海戦(十二月十二日)」</ref>。人員・戦車の全部と機材の半分を揚陸したが、第159号は陸上からの砲撃と艦砲射撃で破壊された<ref name="写真13巻244" /><ref name="木俣水雷573" />。
第九次輸送部隊の揚陸実施中、米軍も輸送船団をオルモックに派遣し、揚陸作戦を実施していた<ref name="木俣水雷573" />{{sfn|岸見|2010|pp=131-134}}。米軍船団を護衛していた大型駆逐艦は5隻で、夜戦となったが日米双方とも損害なくオルモック湾を離脱した<ref name="木俣水雷573" />{{sfn|岸見|2010|p=132|ps=「第8図(竹内芳夫作戦)オルモック湾内における駆逐艦「夕月」「桐」合戦図(昭和19年11~12日」}}。夜戦終了後、桐は澤村司令の命令によりパロンポンに戻り、桐便乗中の陸兵(沈没船生存者)を揚陸した<ref name="木俣水雷573" />{{sfn|岸見|2010|pp=136-137}}。パロンポンにいた空知丸と駆潜艇2隻はそれより先に揚陸を終了し、マニラに向かった(13日1500、帰着)<ref name="木俣水雷573" />{{sfn|岸見|2010|pp=136-137}}。

単艦となった夕月は、揚陸を終えた140号輸送艦を護衛してオルモック湾を脱出{{sfn|岸見|2010|pp=142-145}}、もどってきた桐と合流してマニラへ向かった{{sfn|岸見|2010|pp=146-149}}。夕刻、3隻(夕月、桐、140号)はパナイ島東方でF4UコルセアとP-38の爆撃を受けて夕月は大破{{sfn|岸見|2010|pp=150-152}}、桐も至近弾で片舷航行となった{{sfn|岸見|2010|pp=146-149}}。澤村司令は桐に移乗し、夕月を自沈処分にした<ref name="木俣水雷573" />。1213日1900、2隻(桐、140号)はマニラに帰着した{{sfn|岸見|2010|pp=153-154}}。


=== 第10次作戦 ===
=== 第10次作戦 ===
* 輸送船:[[有馬山丸]]、[[和浦丸]]、[[日昌丸]]
* 輸送船:[[有馬山丸]]、[[和浦丸]]、[[日昌丸]]
* 駆逐艦:[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]
第10師団の1個連隊基幹と第23師団の1個大隊を12月14日マニラ発、レイテ島北西部のクラシアン岬に上陸させる計画を立案した。しかし13日に発見された敵上陸部隊が14日には北上を始めルソン島へ向かう公算が大きくなった(実際には[[ミンドロ島]]に上陸)。そこで[[第14方面軍]]は計画を中止、輸送予定部隊をルソン島守備の配置に就かせた。これを受け同日第10次作戦の中止が発令され、ここで多号作戦は終了した。
12月7日にレイテ島西岸のアルベイラに米軍が上陸し、レイテ島の日本軍は揚陸地点(オルモック)と最前線部隊の連絡が遮断される事態になった<ref name="叢書五四455">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]455-456頁「多号作戦の中止/連合軍、レイテ西岸に上陸」</ref>。南西方面部隊指揮官の[[大川内傳七]]南西方面艦隊司令長官は、戦艦と戦闘行動に支障があるものを除く第二遊撃部隊のブルネー進出待機を命じた<ref name="叢書五四455" />。だが該当する艦艇は足柄と大淀のみで、ブルネイも頻繁に空襲をうける状態であった<ref name="叢書五四455" />。最終的に第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官)のカムラン湾回航と待機が命じられる<ref name="叢書五四455" />。
12月12日、第二遊撃部隊はリンガ泊地を出発し、14日にカムラン湾に到着する<ref name="叢書五四455" />。第二水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将は、旗艦を駆逐艦[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]から軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に変更した<ref name="叢書五四455" />。カムラン湾集結時の兵力は、重巡[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]](第五艦隊旗艦)、[[第四航空戦隊]]([[日向 (戦艦)|日向]]〈旗艦〉、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]])、第二水雷戦隊(軽巡〈大淀〉、駆逐艦〈朝霜、霞、初霜〉)、給油艦日栄丸であった<ref name="叢書五四455" />。

一方、[[大本営]]陸軍部・海軍部はタマ35船団(高雄~マニラ行)としてルソン進出中の陸軍歩兵部隊(第10師団の歩兵第39連隊と、第23師団の歩兵第79連隊)を、輸送船4隻(有島丸、日昭丸、和浦丸、鴨緑丸)に乗船のままカリガラ湾に突入させることに決め、これを「決号作戦」と呼称、第十次多号作戦として実施することになった<ref name="叢書八一478" /><ref name="叢書九三82">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]82頁「決号作戦の挫折」</ref>。大川内中将は、第二水雷戦隊の駆逐艦1隻([[清霜 (駆逐艦)|清霜]])<ref name="叢書五四456" /><ref>[[#木俣水雷|日本水雷戦史]]577頁</ref>と輸送艦1隻を護衛部隊に編入した<ref name="叢書九三82" />。
船団は11日にマニラへ入港、出撃準備に入る<ref name="叢書九三82" />。大本営の意向に対し、第14方面軍はタマ35船団の陸軍部隊をルソン島に配備するよう希望した<ref name="叢書八一478" />。協議の結果「鴨緑丸」は作戦から外され、永吉支隊〔歩兵第39連隊(一大隊欠)基幹〕のレイテ島カリガラ湾西部逆上陸、畠中支隊(歩兵第71連隊の一大隊)の小レイテ湾補給基地設定が決まる<ref name="叢書八一478" />。第十次多号作戦部隊は12月14日のマニラ出撃を予定した<ref name="叢書八一478" />。

しかし13日に発見された敵上陸部隊が14日には北上を始め、ルソン島へ向かう公算が大きくなった(実際には[[ミンドロ島]]に上陸)<ref name="叢書九三85">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]85-86頁「米攻略部隊、スルー海に進入/聯合艦隊の敵企図判断」</ref><ref name="叢書九三87">[[#叢書93|戦史叢書93巻]]87-88頁「米軍のミンドロ島上陸と、航空兵力の緊急増勢の要請」</ref>。そこで[[第14方面軍]]は計画を中止、輸送予定部隊をルソン島守備の配置に就かせた<ref name="叢書八一478" />。
これを受け同日第10次作戦の中止が発令され、ここで多号作戦は終了した<ref name="叢書九三82" /><ref name="叢書五四456" />。大川内中将(南西方面艦隊司令長官)も米軍がルソン島に来襲すると報じ、水上部隊の突入作戦を企図して第二遊撃部隊のカムラン湾から新南諸島への進出を下令、第二遊撃部隊決戦用意(NSB電令作第827号)を発令する<ref name="叢書九三87" />。フィリピンの戦いは[[ミンドロ島の戦い|ミンドロ島地上戦]]という局面を迎えた<ref>[[#叢書54|戦史叢書54巻]]456-459頁「ミンドロ島上陸と禮号作戦」</ref>。
12月25日、第14方面軍司令官山下大将(ルソン島マニラ)は、レイテ島の第35軍に対し、持久作戦への転移を命じた(尚武作命第二七二号要旨)<ref name="叢書八一504" />。
12月31日、多号作戦部隊は編成を解かれた<ref name="叢書五四448" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
<references />


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
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**(30-67頁){{small|当時「鬼怒」航海長・海軍大尉}}飯村忠彦『十六戦隊「鬼怒」オルモック輸送に潰ゆ {{small|レイテ海戦の舞台裏で兵器人員輸送に苦闘した航海長の血涙の手記}}』
* 雑誌「丸」編集部『<small>写真</small> 日本の軍艦 第10巻 <small>駆逐艦I</small>』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
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*<!--マル1990-13巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=8|title=写真 日本の軍艦 {{small|小艦艇I}} 特務艦・潜水母艦 特設潜水母艦 駆潜艇・哨戒艇 掃海艇・輸送艦|volume=第13巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0463-6|ref=写真十三}}
* 岸見勇美『地獄の海 <small>レイテ多号作戦の悲劇</small>』([[潮書房|光人社]]、2004年) ISBN 4-7698-1172-1
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*<!-- マル2012-10 -->{{Cite book|和書|editor=「丸」編集部{{small|編}}|year=2012|month=10|title={{small|小艦艇戦記}} 海防艦「占守」電探室異状なし|publisher=株式会社潮書房[[光人社]]|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2756-6|ref=占守電探}}
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*<!--モジ2012-->{{Cite book|和書|last=門司|first=親徳|chapter=|title=空と海の涯で <small>第一航空艦隊副官の回想</small>|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|year=2012|month=5|origyear=1978|ISBN=978-4-7698-2098-7|ref=harv}}
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**(73-83頁){{small|戦史研究家}}落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
**(207-219頁){{small|当時「浜波」乗組・海軍中尉}}中沢五郎『オルモック急行「浜波」砲塔に息絶えて {{small|長波、朝霜、若月らと行を共にした第三次多号作戦の悲惨}}』
**(220-229頁){{small|戦史研究家}}伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
**(230-238頁){{small|当時「島風」機関長・海軍少佐}}上村嵐『追随をゆるさぬ最高速艦「島風」の最後 {{small|乗員四五〇名のうち生存者たった三名という制空権なき輸送作戦の結末}}』
**(264-272頁){{small|元「柳」艦長・海軍少佐}}大熊安之助『松型「柳」艦長三たび痛恨の海に没したけれど {{small|乗艦三隻の最期をみとった駆逐艦長が綴る海の勇者たちへの鎮魂歌}}』
**(297-307頁){{small|当時「桑」一番高角砲射手・海軍上等兵曹}}山本貢『小さな勇者「桑」オルモックに死すとも {{small|瑞鳳直衛の比島沖海戦をへて七次多号作戦に果敢な砲戦を演じた勇者の最後}}』
**(308-319頁){{small|当時「梅」乗組・海軍上等兵曹}}市川國雄『香り浅き「梅」バシー海峡に消えたり {{small|熾烈なる対空戦闘の果て誕生六ヶ月余りで海底に没した愛艦への鎮魂歌}}』
**(332-338頁){{small|戦史研究家}}伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ {{small|松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争}}』

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.C08030751400「昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌」
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030149800|title=昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1906第30駆日誌(3)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2018年1月22日 (月) 16:09時点における版

多号作戦(たごうさくせん)は、太平洋戦争大東亜戦争)終盤のフィリピンの戦い[1]日本陸軍日本海軍が協同で実施したレイテ増援輸送作戦のこと[2][3]。 主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。連合国側の名称はオルモック湾海戦1944年(昭和19年)10月末から12月上旬まで、レイテ島地上戦にともなうレイテ島西岸オルモックへの増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返した[4][5]。第10次作戦も予定していたが、12月15日の連合軍ミンドロ島上陸にともなうミンドロ島地上戦の生起により、多号作戦は中止された[1][5]

概要

1944年(昭和19年)10月17日、連合軍はレイテ湾に終結して上陸作戦を開始[6]ダグラス・マッカーサー将軍によるレイテ島上陸は20日)[7][8]フィリピンの戦いにおけるレイテ島地上戦がはじまる[9][10]。 日本軍は捷一号作戦を発動し[11][12]、日本海軍は連合艦隊の大部分を投入したが大損害を受けた[13]レイテ沖海戦[14][15]。 一方、台湾沖航空戦で日本海軍が発表した大戦果を信じた日本陸軍は[16][17]、従来のルソン島地上決戦の方針を転換し[18][19]、レイテ島地上決戦に切りかえた[20][21]。 日本陸軍(中央、現地軍)は海上決戦に期待しておらず、独力でレイテ地上決戦を進めることにした[22]。10月27日、昭和天皇第四航空軍の奮闘を誉めると共に、「地上戦で連合軍を撃滅しなければ勝ったとはいえない」と強調した[23]

レイテ島への最初の増援輸送は、第35軍(司令官鈴木宗作陸軍中将)が10月19日に発動した鈴二号作戦にともない、第16戦隊司令官左近允尚正海軍中将の指揮で行われた[24]。 だが、作戦開始前の10月23日にマニラ沖合で重巡洋艦青葉(第16戦隊旗艦)が米潜水艦の雷撃で大破する[25][26]。残る2隻(軽巡鬼怒〈第16戦隊旗艦〉、駆逐艦浦波)と輸送艦5隻による第二遊撃部隊警戒部隊は、ミンダナオ島カガヤンからレイテ島西岸オルモックへの増援作戦を行う[27]。輸送部隊は10月26日朝に到着、揚陸に成功した[24]。だが帰路で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、鬼怒と浦波が沈没した[28][29]。また鬼怒救援のため派遣された駆逐艦不知火(第18駆逐隊)も、空襲で撃沈された[29][30]

10月29日、南西方面艦隊によりレイテ島増援輸送作戦多号作戦が発動される[2]。この計画は第2次と第3次作戦からなり、10月下旬から11月上旬までに実施、レイテ島の米軍飛行場が本格始動する前に速やかに輸送作戦を行うことを考えていた[2]。なお多号作戦発動前にレイテ増援第1陣として、第16戦隊司令官が鈴号作戦にともなう増援作戦を既に行っており(上述)[24]、鈴号作戦(10月19日発動)を多号作戦の第一次作戦とする場合もある[5][29]。本作戦では通常の輸送船のほかに、敵制空権下での輸送作戦を前提とした第一号型輸送艦第百一号型輸送艦SB艇)が集中投入された[31][32]

日本海軍は多号作戦の掩護に、第五艦隊司令長官志摩清英中将を指揮官とする第二遊撃部隊を投入した[29]。本作戦のため、第二艦隊第一機動艦隊から駆逐艦を第二遊撃部隊に編入した[29]。第五艦隊麾下の第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦[33]指揮下で行われた第2次作戦(第1師団主力、第26師団一部)では[34]、11月1日から2日かけて、第1師団のレイテ島オルモックへの輸送および揚陸に成功した[35][36]。被害は輸送船1隻沈没だった[33]

多号作戦実施中の11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川軍一中将から大川内傳七中将に交代する[37]。 11月4日に、改めて第3次作戦から第7次作戦までが発令された[37][38]。この計画では第3次作戦で主に兵站部隊を、第4次作戦で第26師団を輸送し、第5次作戦以降は第68旅団を輸送する計画だった[37][39]。 作戦準備中の11月5日、マニラ空襲で重巡洋艦那智(第二遊撃部隊旗艦)が沈没[40][41]、第二次輸送に参加した駆逐艦2隻(沖波)が損傷する[42]。 準備の関係から第4次作戦(指揮官は木村昌福第一水雷戦隊司令官)が先におこなれ、11月9日夕刻にオルモック湾に到着したが大発動艇がそろわず揚陸作業に難航、人員の輸送のみ実施した[38][43]。空襲により、優速輸送船2隻と海防艦1隻が沈没した[44]

第3次作戦は11月11日にオルモック湾で米軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の猛攻を受け、駆逐艦朝霜を除いて全滅する[45](島風[46]、若月[47]、浜波[48]、長波[49]、掃海艇、輸送船沈没)[29][44]第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も旗艦島風沈没時に戦死した[50][45]。 レイテ島への補給は断絶し、上陸した部隊も弾薬・糧食の不足に苦しんだ[51]。 そこで第5次以降は軍需品の輸送に切り替えられた[52][53]

作戦準備中の11月13日と14日[54]、米軍機動部隊(第38任務部隊)によるマニラ空襲でマニラ在泊中の艦船は大打撃を受ける[55][56]。 多号作戦部隊の軽巡木曾[57]と駆逐艦4隻(沖波[58]、秋霜[59]、初春、曙)が沈没・大破着底する[29][60]。この被害により、第二次~四次作戦で護衛部隊の主力を担った第一水雷戦隊と第二水雷戦隊の残余はマニラから撤収した[29][61]。 日本軍は、残存する松型駆逐艦睦月型駆逐艦第一号型輸送艦第百一号型輸送艦駆潜艇を主力として多号作戦を続行した[62]。投入可能輸送船はマニラ空襲ですべて沈没し[52]、駆逐艦・輸送艦・機動艇・大発動艇・海上トラックしか手段がなくなっていたのである[53][63]。この事態に、陸軍潜水艦「まるゆ」もレイテ輸送作戦に投入された[64][65]。海軍側の特殊潜航艇甲標的も、少数艇が偵察や襲撃をつづけた[66][67]

第3次輸送船団の全滅前、大本営は第23師団(満州)、第10師団(台湾)、第19師団(朝鮮半島)を、レイテ地上戦に投入することを企図していた[68][69]。第23師団は11月末頃、第10師団は12月上旬、第19師団は12月下旬以降、現地に進出する計画であった[70][69]。 第23師団はヒ81船団でフィリピンへ移動中[1]、11月15日から17日にかけて米潜水艦に襲撃され、大損害をうける[71][72]。レイテ地上決戦継続は不可能となったが[71]、大本営はレイテ決戦と増援作戦(多号作戦)を続行した[73]

11月23日以降の第5次作戦は、第一梯団(駆潜艇46号、輸送艦3隻)、第二梯団(駆逐艦、輸送艦3隻)とも空襲をうけて失敗した[74][75]。25日には米軍機動部隊艦載機の空襲で、軽巡八十島(輸送戦隊旗艦。輸送艦3隻とともに一式砲戦車を内地からマニラへ輸送任務中)[76]と重巡熊野が沈没した[28][74]。 同時期のアメリカ海軍機動部隊も長期間の行動による疲労と、日本軍特別攻撃隊(陸軍機、海軍機)による損害に悩まされており、補給と休養のために後退する[10]。連合軍は航空攻撃と共に魚雷艇や水雷戦隊を投入し、日本軍を迎撃した[10][77]。 第6次作戦は陸軍輸送船2隻と護衛艦艇3隻をもって実施され、一部揚陸に成功するも船団は帰路で全滅した[74][65]。 第7次作戦は機動艇5隻・輸送艦3隻・駆逐艦2隻をもって行われた[78][79]。連合軍水雷戦隊の迎撃により、日本側は駆逐艦をうしなう[80]。だがが米軍駆逐艦クーパーを撃沈し、輸送作戦は成功した[74][81]。多号作戦の部分的成功により、日本軍はレイテ決戦続行への希望をつないだ[82]

12月7日にアメリカ軍はレイテ島オルモック南部に部隊を上陸させ[83]、オルモック市内を目指した[84][85]。そのため第68旅団主力を輸送する第8次作戦(輸送船4、輸送艦1、駆逐艦〈梅、桃、杉〉、駆潜艇〈18号、38号〉)は揚陸地をオルモック北方のサンイシドロに変更する[86]。陸兵の揚陸には成功したが、軍需品の揚陸は失敗した[87]。輸送船も全滅状態になった[86]。 第9次作戦(輸送船3、輸送艦2、駆逐艦2、駆潜艇2)では、オルモック陸上戦の中を強行揚陸という形となった[88][89]。空襲・魚雷艇襲撃・地上砲火で駆逐艦2隻(夕月、卯月)、輸送船2隻、輸送艦1隻を喪失した[88]

第10次作戦も「決号作戦」として計画されていたが[90][91]、12月13日にルソン島へ向かうアメリカ軍の上陸部隊が発見された[92][93](実際にはミンドロ島に上陸)[94]。情勢の急転により、第14方面軍は輸送予定部隊をルソン島に配備した[91]。14日には、海軍側も第10次作戦の中止を決定し[5]、ここに多号作戦は終了した[90][93]。レイテ島に取り残された日本陸軍は持久作戦に転じた[1][95]。12月31日附で多号作戦部隊は編成を解かれた[5]

レイテ沖海戦と本作戦による大損害により、日本海軍の水上部隊は機能を失った[1]。またフィリピン方面の日本陸軍も精鋭部隊を消耗し、第23師団(ヒ81船団)の被害も相乗して、ルソン島地上戦に重大な支障を与えた[1][96]

背景

1944年(昭和19年)10月16日、及川古志郎軍令部総長は昭和天皇台湾沖航空戦の戦果合計を奏上、航空母艦だけで轟撃沈10隻・火災炎上(撃破)6隻という大戦果であった[97][98]。フィリピン方面の日本陸軍(第14方面軍、第4航空軍)は海軍の戦果発表を疑問視する向きもあったが[99][100]、日本陸海軍の大部分や国民はひさしぶりの大戦果に熱狂した[17]。 同日午前中、日本軍索敵機が台湾東方430浬に空母7隻を基幹とする機動部隊を発見、大本営海軍部に動揺が走った[101][102]。日本海軍が台湾沖航空戦の戦果判断を「空母4隻撃破程度」(実際は空母2隻損傷、巡洋艦3隻損傷程度)と修正するのには相当の時間を要し、この間にアメリカ軍はレイテ島に来襲、レイテ島地上戦がはじまった[101]

10月17日、アメリカ軍を主力とする連合軍の大艦隊がフィリピン中部のレイテ湾周辺に集結[9]、まもなくレイテ島および周辺への上陸作戦を開始した[103][104]連合艦隊は、横浜市日吉司令部から対応を指示する[105]。連合艦隊の作戦指導の骨子は以下のようなものだった[105][106]。また神風特別攻撃隊[107][108]や水上特攻部隊(まるレ〈陸軍〉、震洋〈海軍〉)の編成と準備も始まっていた[109]

一 リンガ泊地の第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、通称「栗田艦隊」)をレイテ湾の連合軍上陸地点に突入させる[110]
二 内海西部の第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将。第三航空戦隊第四航空戦隊)を南下させて米軍機動部隊を北方に誘致、第一遊撃部隊の突入を間接支援する[110]
三 残敵掃蕩のため南西諸島方面で行動中の第二遊撃部隊(司令長官志摩清英第五艦隊司令長官、通称「志摩艦隊」)を中心に、海上機動反撃作戦を実施[110]
四 基地航空部隊をフィリピンに集中し、総攻撃を実施[110]
五 潜水艦を全力出撃させる[110]

10月18日、日本軍(大本営陸軍部・海軍部)は捷一号作戦(大陸命第1153号、大陸指第2234号)[111]を発動する[11][112]。日本軍の地上部隊は、南方軍隷下の第14方面軍(司令官山下奉文陸軍大将、通称号「尚武」、ルソン島)、第14方面軍隷下の第35軍(司令官鈴木宗作陸軍中将、通称号「尚」、中比~南比)と第16師団(司令官牧野四郎陸軍中将、通称号「垣」、レイテ島)[113]を基幹とする[114][115]。 台湾沖航空戦以前[18]、日本陸軍はフィリピン方面の決戦において、地上決戦はルソン島で、中央・南部方面(レイテ島、ミンダナオ島)では航空攻撃を行う方針であった[9][116]。だが台湾沖航空戦で日本海軍が主張する大戦果(誤認)にもとづき[117][118]、大本営陸軍部はレイテ島地上決戦に踏み切る[119][120]。 戦局を楽観視していた南方軍も[121]、大本営の意向によりレイテ増援の方針に転換する[122][123]。 ルソン島決戦方針のもとに準備をすすめてきた山下大将(第14方面軍)は不同意であったが[115][124]、上級司令部からの命令で同意した[122][125]。 大本営の指導により、寺内寿一元帥(南方軍)は山下大将(第14方面軍)と富永恭次中将(第4航空軍)に対し10月22日に「第十四方面軍ハ海空軍ト協力シ成ルヘク多クノ兵力ヲ以テ『レイテ』島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スヘシ」と命令した[9][126]

日本陸軍(大本営、南方軍)が描いていたレイテ地上決戦の骨子は[127]、ルソン島の第26師団(通称号「泉」)、上海からフィリピンへ進出中の第1師団(通称号「玉」)、台湾所在の第68旅団第10方面軍の海上機動反撃部隊。23日の大陸命第1159号で第14方面軍に編入)をレイテ島に急速増援し、レイテ島の第16師団(第35軍隷下)と共に上陸した敵部隊を一挙に撃滅しようというものだった[9][128]。南方軍は、たまたま馬公市に到着した第二遊撃部隊(志摩艦隊)に、第68旅団の増援輸送を期待していた(詳細後述)[129]。日本海軍は「レイテ島に連合軍の航空基地が完成すると、制空権の喪失によりルソン島地上決戦は成立しない」と考えており、レイテ島地上決戦に賛成だった[8]

10月19日、フィリピン中南部の防衛を担当する日本陸軍第35軍(司令官鈴木宗作陸軍中将。第16師団第30師団第100師団第102師団独立混成第54旅団)は、南方軍と第14方面軍の下令により鈴二号作戦を発動した[24][130]。鈴号作戦は、敵主力の上陸地点に応じて兵力を重点地区に海上機動し、当面の敵を撃滅するという作戦である[24][131]。鈴一号作戦はミンダナオ島ダバオに上陸した場合、鈴二号作戦はレイテ湾方面上陸を想定している[24][131]。鈴二号作戦は第16戦隊司令官左近允尚正海軍中将指揮下の艦艇で実施された(詳細は下述)。

10月26日午前中、大本営海軍部(軍令部)で及川古志郎軍令部総長・米内光政海軍大臣・井上成美海軍次官等が出席し、今後の方針について検討をおこなった[132]連合艦隊からの報告では、レイテ沖海戦の戦果は「第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将/第二艦隊司令長官)はレイテ湾突入と敵攻略部隊撃滅を断念、一方で敵機動部隊に痛打を与えたが、連合艦隊の被害も少なくない」というものだった[132]大本営発表(10月27日版)の戦果発表は「連合軍艦艇 撃沈:空母8隻、巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船4以上」・「撃破:空母7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻」・撃墜約500機・「日本軍損害 沈没:空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻」・「損傷:空母1隻中破、未帰還126機」で[23]、31日に追加で「撃沈:巡洋艦1、駆逐艦2」・「撃破:空母2、巡洋艦または駆逐艦3」である[133]。 同日、大本営陸軍部・海軍部の作戦会議がひらかれた[23]。先に行われた台湾沖航空戦の戦果報告もふまえ、アメリカ軍の空母40隻を撃沈破と認識[23]、残存兵力は正規空母3・巡洋艦改造空母3・特設航空母艦10・戦艦10程度という判断をくだす[134]。今後の作戦では「特攻兵器による必死必殺の戦法」を主力とすることになった[134][135]。また連合軍艦隊への攻撃を続行すると共に、日本陸軍地上兵団のレイテ増援輸送を支援することを決めた[133][136]。連合軍の航空兵力が大幅に弱体化(誤認戦果判断)した現戦局しか、勝機はないと判断したのである[23][137]。ただし、大本営陸軍部・海軍部ともレイテ地上戦は容易に勝利できると判断しており、すでにモロタイ島奪還を視野にいれていた(モロタイ島の戦い[137][138]。 梅津参謀総長の上奏に対し、昭和天皇は「地上戦で敵を撃滅しなければ勝ったことにならない。今一息であるから第一線(部隊)を激励せよ」と指導した[23]

10月27日午前11時、第14方面軍は第一師団・第二十六師団・第六十八旅団のレイテ島投入と同島決戦(レイテ地上戦は第35軍が指揮)を発令した(尚武作命甲第125号および126号)[139]。 同日夕刻[16]、連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀副長高田利種少将、首席参謀神重徳大佐)は聯合艦隊機密第271715番電/聯合艦隊電令作第392号でレイテ島決戦に関する連合艦隊の基本命令を出す[8]

一 敵ハ我累次猛攻ニ屈セズ「レイテ」島「サマール」島方面ニ橋頭堡ヲ拡大中ナリ
二 聯合艦隊ハ陸軍ト協同 第一、第二十六師団及第六十八旅団ヲ基幹トスル兵力ヲ速ニ「レイテ」島方面ニ輸送 一挙ニ敵ヲ撃滅セントス
三 南西方面部隊ハ所在基地航空兵力ト協同シ 陸軍上陸部隊ノ直接護衛敵空母及輸送船ノ撃滅ニ任ジ 且戦略要点ノ防備ヲ強化之ヲ確保スベシ
四 第一遊撃部隊ハ菲島又ハ北部「ボルネオ」方面ヲ根拠トシ 陸軍上陸部隊ノ間接護衛ニ任ジ 南西方面部隊ノ作戦ヲ強力ニ支援スベシ
五 先遣部隊ハ全力ヲ菲島方面ニ集中 敵輸送路ノ遮断及敵機動部隊ノ捕捉撃滅ニ任ズベシ
六 機動部隊本隊ノ一部ハ補給終了後内海西部ニ回航 第四航空戦隊隼鷹龍鳳第六三四航空隊欠)、第三十一戦隊ヲシテ 主トシテ特別攻撃隊主力ヲ速ニ菲島方面ニ急送セシムベシ
右兵力菲島到着ノ時機ヲ以テ 第四航空戦隊(隼鷹、龍鳳、第六三四航空隊欠)ヲ第一遊撃部隊ニ 第三十一戦隊ヲ南西方面部隊ニ夫々編入ノ予定

以上の基本命令により、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は南方軍と協同[8]。航空作戦を第一連合基地航空部隊(指揮官は福留繁中将、次席指揮官兼参謀長は大西瀧治郎中将)、レイテ増援陸軍部隊の護衛を第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官、旗艦那智)、一連の作戦支援を潜水艦部隊(指揮官三輪茂義中将)と第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、旗艦大和)が担当する[8]。 また連合艦隊はレイテ増援船団の支援として、第一遊撃部隊所属の第31駆逐隊(岸波沖波長波朝霜)を27日附で、また第一遊撃部隊の第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将)を28日附で、それぞれ第二遊撃部隊に編入した(GF電令作第387号)[2]。この措置により、第二水雷戦隊は旗艦島風、第2駆逐隊(秋霜清霜)、第31駆逐隊(岸波、沖波、長波、朝霜)、第32駆逐隊(浜波)以下すべての艦艇が第二遊撃部隊に所属することになった[29]第三艦隊(機動部隊)からは、秋月型駆逐艦で編制された第41駆逐隊(霜月冬月)と第61駆逐隊(若月涼月)が編入されたが、稼働艦は2隻(霜月、若月)だけだった[29]

10月29日、海軍側の最高責任者たる三川軍一南西方面艦隊司令長官は「レイテ増援輸送実施計画」(NSB電令作第30号)を発令、一連の増援輸送作戦を多号作戦と呼称し、「海陸空軍ノ緊密ナル協力ノ下ニ敵ガ『レイテ』島方面航空基地ヲ全幅活用シ得ザル以前ニ終了スル如ク万難ヲ排シ迅速ニ輸送ヲ強行ス」と述べた[2]。だがレイテ島の戦局は、日本軍の予想以上に悪化しつつあった[140]

作戦経過

太字の艦船名は作戦中の喪失を表す。

多号作戦以前

第1次輸送

重巡洋艦青葉、軽巡洋艦鬼怒、軽巡洋艦北上(内地で修理中、レイテ沖海戦・多号作戦には関係せず)[141]、駆逐艦浦波で編成された第16戦隊(司令官左近允尚正中将)は、複雑な経緯でレイテ沖海戦および鈴号作戦(多号作戦第一次輸送)にのぞんだ[129][142]。 まず第16戦隊は戦時編制において南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将、所在「マニラ」)に所属するが、捷号作戦時の兵力部署は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、旗艦「愛宕」)の第四部隊で、リンガ泊地で栗田艦隊各艦とともに訓練に従事していた[143][144]10月18日朝、連合艦隊司令部は第16戦隊を第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、通称志摩艦隊[145]、旗艦「那智」)に編入し[143]、同時に第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下に入れた[146]。連合艦隊は第二遊撃部隊(志摩艦隊)を海上機動反撃作戦に投入する意図をもち、第二遊撃部隊はマニラへの進出を命じられた[143][147]。 当時、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にリンガ泊地を出動、ブルネイに向けて移動中であった[142][148]。ところが三川中将は南方軍総司令部の海上機動計画が確定していないのを見て、第二遊撃部隊は馬公方面で、第16戦隊はブルネイ湾で待機するよう命じた[149]

10月19日正午、連合艦隊司令部は「三川中将指揮の海上機動反撃作戦の準備がおくれる場合は、第二遊撃部隊を小沢機動部隊の指揮下に復帰させる」予定を通知した[149]。同日、南方軍総司令部のレイテ島陸兵増援計画が具体化する[149]。ビサヤ地区(中部フィリピン諸島)から二個大隊2000名をレイテ島に輸送するという案だった[149]。レイテ島東側(連合軍上陸作戦中)に逆上陸するか、レイテ島西岸に揚陸するか、判断をせまられた三川中将は後者に決定し「陸兵輸送は第16戦隊と輸送艦2隻程度で可能」と報じた[149]。 三川中将の報告に対し、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下で作戦に従事させる旨を伝えた[149]

10月20日朝、第二遊撃部隊は澎湖列島馬公市に到着する[146][129]。同日正午、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にブルネイに入港した[129][150]。 同日夕刻、志摩中将は「第16戦隊を海上機動反撃作戦に従事させ、本隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)は栗田艦隊と共にレイテ湾に突入したい」と意見具申する[146][129]。ちょうどこの時、南方軍総司令部は台湾所在の第68旅団をフィリピンに輸送するよう命じられており、大本営陸軍部を通じて第二遊撃部隊に第68旅団の海上輸送を要請した[129]。南方軍の要請を知った西尾秀彦南西方面艦隊参謀長は大本営海軍部に対し「第二遊撃部隊(第21戦隊と第一水雷戦隊)は掩護決戦兵力として使用するのが妥当」、南方軍の要請は「却ッテ戦機ヲ失スル虞(おそれ)大ニシテ適当ナラズト思考ス」と意見具申した[129]。 大本営海軍部と陸軍部が協議した結果、第二遊撃部隊の第68旅団輸送は中止となった[129]

10月21日草鹿龍之介連合艦隊参謀長は第二遊撃部隊のレイテ湾突入を認めた[129]。同日1600、第二遊撃部隊〔第21戦隊(那智〈志摩長官旗艦〉、足柄)、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将、軽巡阿武隈〈旗艦〉、第7駆逐隊〈〉、第18駆逐隊〈不知火〉)〕は馬公を出撃、ルソン島西岸を南下した[151][152]。 この間、第二航空艦隊の基地物件を台湾からフィリピンに輸送するため、第一水雷戦隊の第21駆逐隊(若葉初霜初霜)を分派[152][147]。このあと、第21駆逐隊はスル海で空襲を受け若葉を喪失した(10月24日)[153][154]。 三川中将が第二遊撃部隊のスリガオ海峡経由レイテ湾突入を正式に命じたのは23日午前10時の南西方面艦隊電令作第687号「第二遊撃部隊本隊ハ指揮官所定ニ依リ行動 X日黎明「スリガオ」海峡突破「レイテ」湾ニ突入 第一遊撃部隊ノ作戦ニ策応 同方面所在敵攻略部隊ヲ撃滅スルト共ニ間接ニ警戒部隊ヲ援助スベシ」「警戒部隊(第十六戦隊)ハ電令作第六八四号ニ依リ行動陸軍部隊ノ輸送揚陸ニ任ズベシ」だったが[155]、志摩中将はレイテ湾突入を確信してすでに行動中であった[129][156]。以後の第二遊撃部隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)のスリガオ海峡における戦闘は省略する。

最終的にレイテ島への増援第1陣は、鈴二号作戦にともなう日本陸軍第35軍の兵力(第30師団、通称号「豹」の一部)[24]、すなわちミンダナオ島カガヤンからの2個大隊・2000名強と決まった[157]。またビサヤ地区の第102師団(通称号「抜」)を[158]、陸軍舟艇部隊と応援の海軍舟艇隊(セブ島に配備の小型機帆船3隻、第33特別根拠地隊の大発動艇4隻)で海上輸送することになった[157][159]。 22日午後、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は第16戦隊司令官左近允尚正中将に、16戦隊3隻(青葉、鬼怒、浦波)と輸送艦5隻(第6号、第9号、第10号、第101号、第102号)[157][32]による陸兵輸送任務を命じた[129]。NSB(南西方面部隊)電令作第684号は以下のとおり[144]

一、 101号、6号輸送艦は22日便宜マニラ発、24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし。先任艦長指揮の下に回航するものとす。
二、 9、10号輸送艦はセブにおける作業終了後先任艦長指揮、24日夕刻までにカガヤンに回航すべし。
三、 16戦隊は24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし(状況によりマニラ寄港差支えなし。)
四、 前項各輸送艦カガヤン着後、NSB警戒部隊指揮官(十六戦隊司令官)の指揮下に入るべし。
五、 警戒部隊指揮官はNSB第211910番電による陸海軍協定に基づき歩兵二大隊基幹兵力をカガヤンより輸送、これをレイテ島に揚陸せしむべし。
六、 右作戦終了せば各艦は警戒部隊指揮官所定によりマニラに回航、第二次陸兵輸送に備うべし。但し16戦隊は決戦の状況により一YB(第一遊撃部隊)の作戦に策応せしむることあるべし。

左近允中将直率の各艦は『第二遊撃部隊警戒部隊』と呼ばれていたが[144][160]、兵力は分散していた[129]。 22日時点で左近允指揮官直率の第16戦隊(青葉、鬼怒、浦波)は前日にブルネイを出発し[161]、23日マニラ着の予定で南シナ海を北上中だった[129]。第6号・第101号・第102号輸送艦は、マニラ湾方面にあった[129]。第9号・第10号輸送艦は甲標的セブ島の第33特別根拠地隊に輸送する任務についていた[129]

10月23日0445のマニラ入港直前[162]、青葉はアメリカ潜水艦ブリームの魚雷攻撃を受けて大破、航行不能になる[163]。第16戦隊司令官は洋上で旗艦を青葉から鬼怒に変更した[144]。鬼怒は青葉をマニラまで曳航、青葉はそのまま同地にとどまった[25][164]

10月24日午前7時、第16戦隊(鬼怒、浦波)はマニラを出撃したが、昼頃まで断続的に空襲を受け若干の被害をこうむった[165][166]。同日夜、日本陸軍第35軍の陸兵約500名が機帆船3隻でセブ島からレイテ島へむかったが、1隻が沈没した[157]

10月25日午前8時30分から正午頃まで、第16戦隊(鬼怒、浦波)はミンダナオ島とネグロス島の間でB-24爆撃機の空襲を受けた[165][167]。鬼怒は至近弾で通信機が故障したが、航海には問題なかった[31][165]。1600、2隻(鬼怒、浦波)はミンダナオ島カガヤンに到着した[166][168]。 これより前、第1輸送隊(輸送艦第6号、9号、10号)と第2輸送隊(輸送艦第101号、102号)にもカガヤンからオルモックへの兵員輸送が命ぜられており(第1輸送隊は各艦350名、第2輸送隊は各艦400名)[144]、こちらは既に陸兵を乗せ25日朝にカガヤンを出港、オルモックに向かっていた[168]。 第16戦隊(鬼怒、浦波)も直ちにカガヤンで陸兵約700名(2隻合計)と物資を搭載し、1730にオルモックへ向けて出港した[165][168]

10月26日黎明、それぞれオルモックに到着し兵員を揚陸する[24][169]。第16戦隊(鬼怒、浦波)は0500にオルモックを出発し[166]、マニラ(鬼怒航海長の回想ではコロン)[165]に向かった[168]。続いて出発した第1輸送隊もマニラに向かい、残る第2輸送隊は次の輸送任務のためビサヤ地区に向かった[168]。 マニラに向け帰投中の第16戦隊パナイ島北東端附近を航行中の同日1015頃から、米軍空母艦載機の攻撃を受ける[170][171]。これはトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務部隊(サマール沖海戦で栗田艦隊に攻撃された護衛空母部隊)で、海戦や神風特攻隊の攻撃で沈没艦や損傷艦を出したものの健在空母約10隻を擁しており、まだ充分な戦力を保持していた[171]。 浦波は1224に沈没[172]。鬼怒も被雷と被弾により昼頃には航行不能となり、1730に沈没した[173][174]。左近允中将は輸送艦10号に救助されたあと[172][175]、27日にマニラで青葉に将旗を掲げた[27]

この頃、第二遊撃部隊は主隊(那智〈艦首大破〉、足柄、不知火、霞、潮〈損傷〉)がコロン湾に、駆逐艦3隻(初春、初霜〈直撃弾1〉、曙)がマニラにあった[29]。浦波沈没・鬼怒航行不能との速報により、不知火(第18駆逐隊司令駆逐艦、司令井上良雄大佐)が救援のため出動する[30][176]。だが鬼怒は既に沈没しており(上述)、不知火は帰投中の27日にセミララ島で空襲を受け[172]、駆逐艦早霜座礁地点のすぐそばで撃沈された[175][177]。不知火と同様に、早霜座礁地点の側で駆逐艦藤波も撃沈された[177]。 なお鬼怒航海長によれば、不知火は26日午後6時30分頃[166]、鬼怒生存者の目の前で空襲を受け轟沈したと回想している[178]。救助された鬼怒航海長は、松型駆逐艦の臨時艦長に任命された[178][179]

第2次輸送

  • 第2輸送隊:輸送艦第101号、同102号

ビサヤ地区に向かっていた第2輸送隊の輸送艦第101号にはボホール島タガビラランから、また102号にはネグロス島バコロドからオルモックへの兵員輸送がそれぞれ新たに命ぜられた。これは鈴二号作戦にともなう、第35軍の第102師団輸送任務である[24]。第102号輸送艦はバコロドへ向かう途中で、敵機の攻撃により沈没した。101号は陸兵を乗せ10月26日深夜にタガビラランを出発した。途中の空襲で艦長、航海長が重傷を負ったがそのままオルモックに向かう。28日早朝に揚陸は成功したが揚陸中に敵機約80機の空襲を受け沈没した。

第2次作戦

多号作戦正式発動

第二遊撃部隊は10月27日に不知火を喪失する一方、輸送作戦にそなえて兵力の増強を受けた[29]。第一遊撃部隊より第二水雷戦隊(島風型駆逐艦〈島風〉、第2駆逐隊〈秋霜、清霜〉、第32駆逐隊〈浜波〉、第31駆逐隊〈岸波、長波、沖波、朝霜〉)、第三艦隊(第一機動艦隊)より第十戦隊の第41駆逐隊(霜月、冬月)と第61駆逐隊(若月、涼月)が加わった[29]。だが10月中にマニラに到着したのは沖波のみ[29](同艦は重巡熊野を護衛してマニラに先行していた)[180]。編入された秋月型駆逐艦も涼月と冬月は修理中のため、稼働艦は2隻(霜月、若月)だけだった[29]。南西方面艦隊はレイテ島増援作戦を多号作戦と命名し、この第二次輸送から本格的な作戦がはじまった[181]

第3船団

  • 輸送艦第131号

独立速射砲大隊1個師団(約340名)と武器弾薬、糧食などを積み10月28日マニラを出港。途中3か所で仮泊し10月30日にオルモック到着、揚陸は成功した。帰途にB-24の爆撃を受けて航行不能となり、第二次輸送部隊から救援にかけつけた第9号輸送艦と駆逐艦2隻(初春、初霜)に救援される[182]。曳航されてマニラに帰港した。

第4船団

  • 輸送艦第10号、同6号、同9号

第一梯団は第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)が第二十六師団の先遣部隊今堀支隊(隊長今堀銕作陸軍大佐、約1400名)を輸送する[183][184]。 10月31日、マニラを出港した(第二次輸送部隊と同日)[35]。味方直掩機の支援を受けつつ進撃する[35]。11月1日1415にオルモックに到着した。1415には揚陸を終了しマニラへ向け出発する。輸送艦第10号、6号は2日午後に帰着した。 輸送任務終了後、9号輸送艦はセブ島に立ち寄り第35軍司令部(鈴木陸軍中将)[185]と陸兵100名を載せ、第2次輸送部隊(指揮官木村昌福少将)揚陸中にオルモックに到着した[186][187]。マニラまでは後述の第2次輸送部隊に組み込まれ帰着した。第35軍司令部のレイテ進出により、第33特別根拠地隊司令官の原田覚海軍少将(原田は、太平洋戦争開戦時の甲標的母艦千代田艦長)[67]がセブ島陸海軍の指揮をとることになった[188]

玉船団(第2次輸送部隊)

日本陸軍のレイテ輸送作戦はなかなか決まらず、第一師団・第二十六師団のレイテ派遣と第三十五軍司令官指揮下編入、第一師団のレイテ突入先頭決定とマニラ到着は、いずれも10月27日であった[189][190]第1師団通称号「玉」)は輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)に分乗し[191]、特設護衛船団司令官松山光治少将指揮下の海防艦4隻(占守、沖縄、11号、13号)に護衛されて到着した[192][193]。 第二次多号作戦は、この輸送船4隻(第1師団、通称号「玉」より玉船団と呼称)をマニラからオルモックに輸送する作戦である[181][194]。日本陸軍航空隊(第四航空軍、司令官富永恭次陸軍中将)は船団直掩を担当、海軍航空隊は泊地掩護・魚雷艇掃蕩・間接護衛を担当する[190][195]。この第二次輸送作戦に、日本軍(大本営陸軍部・海軍部、現地軍)は絶大の期待を寄せていた[195]

10月29日にマニラを出発予定だったが、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて第二遊撃部隊旗艦那智が損傷した[196][197]

10月30日の出発予定も、諸事情により延期された[197][140]。第1師団は海難事故にそなえて軍旗3旗を上海にのこしており、第四航空軍の第七輸送飛行隊で軍旗をマニラへ空輸した(11月2日着)[189]。連合軍はB-24重爆で日本軍拠点を空襲しつつ、レイテ島の飛行場整備を進めていた[194]

10月31日及川古志郎軍令部総長は昭和天皇に第一師団輸送計画について奏上する[198]。連合軍の戦闘機・魚雷艇・水上艦艇出現の徴候に対し、第二遊撃部隊だけでなく甲標的特殊潜航艇)や水上機部隊も投入して作戦を支援すると述べ、「各種ノ手段ヲ尽シテ本作戦ノ成功ヲ期シテ居リマス」と結んでいる[198]。 同日0800、玉船団(第二次輸送部隊)はマニラを出港[199][35]。 陸軍徴用の優速船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)を、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の警戒部隊6隻〔旗艦(霞)、第7駆逐隊(曙、潮)、第21駆逐隊(初春、初霜)、第31駆逐隊(沖波)〕、第七護衛船団司令官松山光治少将[193]指揮下の護衛部隊4隻(沖縄、占守、第11号海防艦、第13号海防艦)が護衛する[35][182]。また第4船団の輸送艦3隻も同時にマニラを出撃した[35]

玉船団は日本陸軍機(一式戦闘機三式戦闘機四式戦闘機)に掩護されて進撃[200]11月1日、空襲にあったが被害無く、1830オルモックに到着、1900より揚陸を開始した[33][182]。同日の日没は1813、月齢は14.9[200]。潮汐の干満差が大きく、揚陸には約24時間掛かる見通しだった[201]。 翌11月2日は快晴で、朝から連合軍機の連続空襲を受ける[202]。味方戦闘機(零式艦上戦闘機[192]四式戦闘機)の護衛もあり被害は無かった[202]。正午頃より来襲機数が増え、直衛戦闘機隊はP-38に妨害されてB-24の爆撃を阻止できなくなった[202]。1305、B-24型重爆24機などの攻撃を受けた[182]。駆逐艦が展開した煙幕からはずれた能登丸は、爆撃を受け沈没した[203][204]。ただし能登丸は馬32頭と若干の弾薬をのぞく90%の揚陸を終わっており[205]、他の船も最終的に金華丸97.5%、香椎丸、高津丸は100%の揚荷率をあげ、輸送作戦はほぼ成功した[186]

帰路、3隻(第9号輸送艦、初春、初霜)は第131号輸送艦救援のため分離した[182]。11月4日、部隊はマニラに帰投した[182][206]。日本陸軍機の総出動機数142、未帰還2、大破1、撃墜8、撃破2、飛行場炎上5ヶ所(レイテ島タクロバン飛行場襲撃を含む)と記録されている[202]

南西方面艦隊長官の交代と輸送計画

玉船団(第二次輸送船団)が作戦中の10月30日、及川軍令部総長は豊田連合艦隊長官に対し「一 聯合艦隊司令長官ハ第一輸送戦隊ヲシテ第六十八旅団ノ比島方面作戦輸送ヲ実施スベシ」「二 基隆ニ於テ陸軍SS艇五隻ヲ第一輸送戦隊司令官ノ指揮下ニ入ル」という指示を与えた(大海指第483号)[207]。 11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川軍一中将から大川内傳七中将に交代[38]、大川内中将は第十三航空艦隊司令長官と第三南遣艦隊司令長官を兼務した[37]。 同日、軍令部次長伊藤整一中将・軍令部第一課長山本親雄少将・航空担当源田実大佐はクラーク基地に到着し、現地部隊と打ち合わせをおこなった[208]。 11月4日、南西方面艦隊は第三次から第七次までの輸送作戦実施計画を発令した(NSB電令作第31号)(部隊、指揮官、兵力の順に表記)[37]。第三次輸送部隊と第四次輸送部隊は11月6日のマニラ出撃を予定していた[42][209]

第三次輸送部隊
第二警戒部隊 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将 駆逐艦4隻
第二護衛部隊 先任指揮官 掃海艇1隻、駆潜艇1隻ほか
第二船団 先任指揮官 低速輸送船4隻・泉兵団(第26師団の一部、兵站部隊)
第四次輸送部隊
第一警戒部隊 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将 駆逐艦6隻
第一護衛部隊 第七護衛船団司令官 海防艦4隻
第六船団 先任指揮官 高速輸送船3隻(玉船団を輸送した3隻)[209]・泉兵団
第五次輸送部隊
第三護衛部隊 第二十一駆逐隊司令 駆逐艦2隻
第七船団 先任輸送艦長 第一輸送戦隊所属輸送艦6隻(11月5日マニラ着予定)[207]、第68旅団
第六次輸送部隊
第四護衛部隊 第一輸送戦隊司令官 駆逐艦3隻
第八船団 第一輸送戦隊司令官所定 陸軍SS艇・輸送艦2隻(11月7日マニラ着予定)[207]、第68旅団
第七次輸送部隊
第九船団 陸軍側所定 陸軍SS艇・輸送艦2隻、第68旅団

11月5日のマニラ空襲

11月5日午前1時半、損損中の重巡2隻(青葉、熊野)はマタ31船団を護衛してマニラを出港した[210][211]。日の出後、米軍第38任務部隊(機動部隊)[212]艦載機のべ600機がルソン島に襲来、マニラとクラーク地区を空襲する[42][213]。 マニラ湾では、第五艦隊旗艦(第二遊撃部隊旗艦)那智が沈没する[41][42]。多号作戦従事中の駆逐艦[214]沖波が損傷した[42]。 志摩清英中将など第五艦隊司令部は、前日よりマニラ陸上の南西方面艦隊司令部を訪問しており(偶然、伊藤整一軍令部次長と遭遇)[208]、無事だった[41]。クラーク地区では海軍戦闘機が邀撃するが、味方機の損害は未帰還機32を含め80機に達した[42]。陸軍航空隊は未帰還3・炎上13・大中破13で、地上待機中の輸送機や爆撃機の損害も多かった[213]

11月6日、米軍機動部隊艦載機は再びルソン島を襲撃したが、マニラ方面の艦船の被害はほとんどなかった[42]。一連の空戦・空襲により航空隊の損害は空中戦・地上待機中被害とも甚大で[215]、フィリピン各地の日本陸軍航空隊にも限界がみえはじめた[216][217]。 第三次輸送部隊・第四時輸送部隊は同日マニラを出撃予定だったが[42]、出撃できなかった[213][44]。一連の空襲により、輸送計画に遅延が生じた[218]

日本側の索敵機は三群にわかれた米軍機動部隊を発見、南西方面部隊(指揮官大川内傳七南西方面艦隊司令長官)は「敵機動部隊は空母約15隻」と報じ(NSB戦闘概報、機密第06314番電)[42]、続いて機密第06743番電で以下の状況判断を報告した[42]

(一)「レイテ」島正面陸戦ノ戦況決シテ楽観ヲ許サズ
(二)航空作戦有利ニ展開セザレバ 爾後ノ我ガ兵力注入作戦ハ成立シ難シ
(三)「レイテ」方面ニ対スル我ガ地上軍ノ圧力緩和セバ 敵ハ陸軍兵力ノ余裕ヲ以テ比較的早期ニ「ルソン」作戦実施ノ算アリ
(四)航空兵力ノ急速増強ニ依リ制空制海権ノ優勢取得ニ努ムルト共ニ 有力ナル地上兵力ヲ「レイテ」島ニ補給シ 天佑ヲ確信 全力ヲ集中シテ差当リ重点ヲ「レイテ」島決戦ニ指向 本作戦ノ完遂ヲ期スルヲ要ス

軍令部出張班(伊藤中将、山本少将、源田大佐)は11月7日にマニラを出発する[208]。天候不良のため台湾と九州を経由し、9日に帰京、翌10日に軍令部作戦室で現地の状況を説明した[208]。 一方、現地では第14方面軍(司令官山下奉文陸軍大将)が南方軍に「第二十六師団のレイテ派遣中止」を進言していた[219][220]。南方軍は進言を却下したが、7日の輸送部隊マニラ出撃は延期された[213][44]。 同7日、連合艦隊司令部(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀副長高田利種少将、首席参謀神重徳大佐)は「11日を期し、航空総攻撃のもと、第一遊撃部隊のレイテ突入とともに第三次、第四次増援を強行するの案」を通知した[44]。現地陸海軍部隊は、第四次輸送部隊を8日に、第三次輸送部隊は第四次輸送部隊のマニラ帰着後に出発させることに決する(NSB機密第08310番電)[44]。計画では軍需品の輸送を担当するはずだった第四次輸送部隊は、第26師団主力の輸送をになうことになった[44]。 同日、及川軍令部総長は昭和天皇への戦況奏上の中で「第一水雷戦隊司令官ノ指揮スル駆逐艦六隻、海防艦四隻及輸送船三隻ヨリ成リマスル多号作戦第四次輸送部隊ハ 第二六師団主力ヲ乗艦セシメ本日『マニラ』出港 明日午後『オルモック』ニ突入致ス予定デ御座イマス」と説明した[44]

第4次作戦

B-25の空襲を受ける海防艦第11号

第3次作戦より先に実行された[221]。そのため本項目も先に記す。

第26師団主力を輸送船3隻(香椎丸、金華丸、高津丸)で輸送、この3隻と海防艦4隻は第二次輸送部隊に参加した艦艇である[221][44]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦「霞」)の指揮下[221]、駆逐艦6隻(朝潮型〈霞〉、吹雪型〈潮〉、夕雲型〈秋霜、朝霜、長波〉、秋月型〈若月〉)と海防艦4隻(沖縄、占守、第11号、第13号)に護衛された第四次輸送部隊は[222]11月8日午前マニラを出港する[223][224]。第一師団の残余を乗せた第四船団は夕刻マニラを出撃した[44]。パラオ方面に発生した熱帯低気圧がフィリピンに接近しており、天候は悪化しつつあった[224]

同日、豊田連合艦隊司令長官は第一遊撃部隊指揮官栗田健男第二艦隊司令長官(旗艦大和)に「第一遊撃部隊ノ大部ヲ率ヰ第三次輸送船団ノ泊地入泊ニ策応『スルー』海又ハ『ミンダナオ』海方面ニ進出 輸送船団ノ間接護衛ニ任ズ」(GF電令作第08号、8日1121発電)と下令した[225]。栗田艦隊は2日前に入港した空母隼鷹から弾薬の補給を受けていた[226]。第一遊撃部隊は8日未明にブルネイを出撃し、翌日にはスルー海に進出した[225]。レイテ沖海戦での損害が大きかった重巡利根は隼鷹隊(隼鷹、木曾、夕月、卯月)に同行し、マニラに向かった[57][226]

11月9日、第四次輸送部隊はオルモック湾口で空襲をうけた[227]。被害は輸送船2隻小破で、1815にオルモック着、揚陸を開始した[225][38]。30分後には第四船団の輸送艦3隻もオルモックに到着した[225]。ところが、オルモックはすでに米軍重砲隊の射程にはいっており[227]、船団は沖合に停泊せざるを得なかった(揚陸地点をイビルに変更)[43]。さらに事前に用意していた50隻以上の大発は台風の高波で多くが砂に埋もれ[38]、揚陸には5隻しか使用できなかった[227][223]。高津丸搭載の大発も空襲による損傷で使えなくなっており、揚陸作業は難航する[222][223]。そこで、吃水の浅い海防艦を大発動艇のかわりに使用した[38][228]。また揚陸作戦にはセブ島の大発動艇部隊が協力していたが、第四次輸送部隊揚陸日には抜兵団(第102師団)海上機動任務のためセブ島に帰って分散しており、一部しか協力できなかった[229]

11月10日午前1030頃、第四次輸送部隊は揚陸作業を打ち切り、マニラに向け出港した[221][38]。人員は全て揚陸したが、兵器弾薬等の揚陸は若干にとどまった[230][231]。第26師団は装備の欠乏と糧食の不足に悩まされ[184]、最終的にレイテ島上陸部隊は壊滅したとみられる[232]

第四次輸送部隊は出港直後、オルモック湾でB-25爆撃機35機の空襲を受け、高津丸と香椎丸が沈没、海防艦11号が航行不能のため味方により処分される[222][233]。また金華丸と駆逐艦秋霜が損傷した[234][225]。 帰路で第三次輸送部隊(早川少将)とすれ違うときに、四次部隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)と三次部隊の駆逐艦2隻(初春、竹)を入れ替えた[221][235][236]。第四次輸送部隊は11日夜にマニラへ戻った[38]

陸軍航空隊はのべ42機が出動し、13機を喪失[227]。第二飛行師団の出動可能機は戦闘機19(四式戦12、三式戦4、複戦1、一式戦2)、襲撃機5、双軽3、司偵6に減少[227]。夕刻、飛行第54戦隊の増援11機が到着した[227]

第4船団

  • 輸送艦第10号、同6号、同9号

第1師団の残員約1000名(第49連隊、第57連隊)[234]を載せて11月8日夕刻にマニラを出港[44]。9日1830にオルモックへ到着した(第四次輸送部隊のオルモック着から約30分後)[225]

第3次作戦

空襲を受ける駆逐艦「島風」。魚雷発射管が横を向いており、投棄された後である事が判る。また既に速力も低下している。
炎上し沈没寸前の駆逐艦「若月」。
  • 第2船団:せれべす丸泰山丸三笠丸西豊丸天照丸
  • 護衛部隊:掃海艇第30号、駆潜艇46号
  • 警戒部隊:島風浜波、初春、

糧食・弾薬等6000トン[237]、兵站部隊および第26師団(泉兵団)の一部を輸送する[227][238]。計画では第4次輸送部隊がマニラ帰港後に出港する予定だったが[44]、フィリピン周辺の天気予報は悪天候が続き「連合軍側は航空機の攻撃が出来ない」と予想された[225]。南西方面艦隊司令部は「八日菲島中部東方海面ニ出現セル低気圧ノ影響及目下敵機動部隊菲島ヨリ離隔セル算アルコト並ニ第一遊撃部隊出動ノ好機ヲ利用スルタメ」と報告している[225]。大本営海軍部も「通信情報ニ依レバ五、六日菲島ニ来襲セシ敵機動部隊ハ『パラオ』東方海面ニテ補給中ナルモノノ如ク」と判断した[225]

以上の判断により南西方面艦隊司令部は、悪天候が続くうちに輸送を終了させようと、第三次輸送部隊の11月9日出撃を決定した[238][225]。低速船5隻の内訳は、せれべす丸(5,863トン)、泰山丸(3,587トン)、三笠丸(3,143トン)、西豊丸(4,639トン)、天照丸(4,982トン)である[237][225]。 午前3時に出港後まもなく、せれべす丸がポンドク半島(ルソン島南部)で座礁し[237]、駆潜艇46号が現場に残った[225]。 しかし予報は外れ、天候は回復しつつあった[238]。 10日、本隊は途中で第四次輸送部隊とすれ違い(上述)、警戒部隊の艦を一部交換する形となった[238][50]。初春と竹は第四次輸送部隊に編入されマニラに引き返し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)が第四次輸送部隊から第三次輸送部隊に編入された[236][50]。その結果、オルモック突入時の船団は以下の通りとなった[45]

  • 第2船団:泰山丸三笠丸西豊丸天昭丸
  • 護衛部隊:掃海艇第30号
  • 警戒部隊:島風浜波長波、朝霜、若月

11月11日日付変更後、米軍魚雷艇や空襲を受けたが被害はなかった[239]。同日朝、予定どおりオルモック湾口までたどり着いた[50][240]。 1200にオルモック到着予定だったが、オルモック湾手前で0830から1140までに艦上機延べ347機の攻撃を受けた[45][241]。これは「日本軍戦艦部隊がレイテに向け進撃中」との情報により、燃料補給を中断してひきかえしてきた第38任務部隊の艦載機であった[50]。米軍機は戦艦部隊(栗田艦隊)を発見できず、オルモックに向け航行中の輸送船団(第三次輸送部隊)を発見し、攻撃したのである[50]。結果として、第一遊撃部隊の牽制出動が、第三次輸送部隊の全滅を招いたことになる[50][184]

駆逐艦は煙幕を張ったが、輸送船は全船沈没した[242]。続いて護衛・警戒部隊も攻撃された[241]。朝霜を除く駆逐艦4隻(島風若月長波浜波[243])と掃海艇第30号[242][244]など、全ての艦が沈没した[29][50]。島風沈没により、座乗していた第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も戦死した[45][50]。 直衛の陸軍航空隊約20機は、飛行第54戦隊長黒川直輔少佐をふくめ8機を喪失した[240]

レイテ決戦方針の動揺

11月10日の時点で、多号作戦第三次輸送部隊と第四次輸送部隊は順調に輸送作戦を続行しているようにみえた[245]。大本営はあくまでレイテ決戦と精鋭戦力の増強(輸送)を基本方針としており、南方軍に対し台湾配備の第十師団のフィリピン投入を通知、くわえて「今ヤ決戦ノ機ヲ目前ニ控ユルノ秋 決戦兵団カ逐次順調裡ニ主決戦場ニ到着シツツアルコトハ同慶ニ堪ヘサルト共ニ 大本営ハ更ニ現地軍ノ有力兵団(部隊)ノ果敢機ニ投スル投入断行ヲ期待シ其ノ必成ヲ記念シアリ」と要望した[245]。 この前後、マニラで南方軍(寺内元帥)と第14方面軍(山下大将)はレイテ決戦について合同研究を実施する[246][245]。 翌11月11日、寺内総司令官はレイテ決戦続行を決断し[246]、山下第14方面軍司令官も了承した[245][247]。 南方軍と南西方面艦隊では、今後のレイテ決戦輸送計画を立案する[70]。歩兵第5連隊1コ大隊は15日(マニラ)発、第26師団軍需品は18日発、歩兵第5連隊主力は20日発、第68旅団主力は20日発、独立混成58旅団主力は20日発、第23師団主力は27日発という内容である[248]。 直後、第三次輸送部隊全滅の急報が入り「望ミヲ嘱シタル第二十六師団ハ三分ノ一強 軍需品ノ突入輸送ハ意外ナル蹉跌ニ依リテ成果予期ノ如クナラザル報ニ接シ」[245]、南方軍は「レイテ地上決戦続行は不利」と大本営に意見具申してレイテ決戦中止の決断を(暗に)求めた[249][250]

11月13日、大本営陸軍部はレイテ決戦方針の堅持を現地陸軍に伝達し[251]、大本営陸軍部・海軍部はさらに増援部隊の派遣を計画していると述べた[250][252]。 14日、参謀総長は昭和天皇に「『レイテ』方面ノ補給ノ状況ニ就テ」上奏し、18日に輸送船4-5隻、24日に輸送船3-4隻で軍需品を輸送するとの計画を述べた[52]。ところが、投入予定の輸送船は13日と14日のマニラ空襲で全滅した(詳細後述)[51][52]

その頃、日本陸軍第23師団乗船の輸送船はヒ81船団に加わり[72]、11月13-4日に北九州を出発、マニラに向け南下中であった[253][254]。第23師団は12月上旬にレイテ島へ進出する予定だった[70]。 11月15日以降、アメリカ海軍潜水艦の襲撃により3隻(空母神鷹〈11月17日〉[255][256]あきつ丸〈11月15日〉[257]摩耶山丸〈11月17日〉[258])が沈没し、6000名以上が戦死する大惨事となった[253]。第23師団司令部は師団長と参謀1名のみ救助され残りは全滅、機能を喪失した[71][253]。残存部隊を乗せた特殊船2隻(神州丸吉備津丸)も台湾に退避した。 大本営陸軍部はレイテ地上決戦が不可能になったことを悟ったが[71]、対外的には断固としてレイテ決戦を遂行すると表明した[73]。昭和天皇も戦況奏上の際に「陸海協力、全力をかけて勝ち抜くよう」と指導した(11月20日)[259]

11月17日[260]、南方軍司令部(寺内元帥ほか)は空路でマニラからサイゴンへ後退した[261][262]

水上艦隊の再編

11月5日、日本海軍は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)を第二遊撃部隊に編入する[29]。四航戦の航空戦艦2隻(日向伊勢)は第三十一戦隊(五十鈴、霜月、桑、槇、杉、桃、梅)各艦と共に内地を出撃、南西方面にむかった[263]

11月10日夜、隼鷹輸送隊[264](空母〈隼鷹〉、巡洋艦2隻〈利根木曾〉、第30駆逐隊〈夕月卯月〉)がマニラに到着、隼鷹は搭載していた陸軍パラシュート部隊や特攻ボート震洋、第31特別根拠地隊(司令官有馬馨少将、17日より岩淵三次少将)向けの物資を陸揚げした[226][265]。 第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)はレイテ沖海戦で旗艦阿武隈を失っていたので、木曾がマニラに残り第一水雷戦隊旗艦として多号作戦に参加することになった[57][226]。隼鷹隊には、スリガオ海峡夜戦から生還したものの損傷の大きい白露型駆逐艦時雨が加わる[266]。11月12日、隼鷹隊(隼鷹、利根、時雨、夕月、卯月)はマニラを出港、内地に向かった[226]

大本営がレイテ決戦方針を示した11月13日[251]、米軍機動部隊(第38任務部隊)はマニラを襲撃した[267][60]。 マニラに到着したばかりの軽巡洋艦木曾は大破着底する[57][268]。駆逐艦4隻(初春沖波秋霜[214][214])は沈没するか大破着底し、給油艦隠戸が大破、駆逐艦が損傷した[60][264]。輸送船の被害は甚大だった。唯一の優速船だった金華丸を含め、輸送船15隻(約7.3万トン)が沈没、ミンドロ島付近の輸送船2隻が沈没した[60]

志摩長官は「このままでは健在の駆逐艦も全滅する」と南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将、参謀長有馬馨少将)に進言し、水雷戦隊のマニラ脱出を意見具申した[269][270][271]。13日午後の時点で、大川内中将は木村第一水雷戦隊司令官に水雷戦隊のボルネオ島西北部ブルネイへの回航を命じた(NSB電令作第749号)[61]。旗艦那智を喪失していた第二遊撃部隊司令部(志摩清英第五艦隊司令長官など)も、各駆逐艦に便乗して撤退することになった[270][61]。 同日夜半、木村少将指揮下の駆逐艦5隻(霞〈木村司令官〉、初霜〈志摩長官〉[271]、朝霜、潮、竹)はマニラを出発し、ブルネイにむかった[29][61]。 11月14日、ふたたび米軍機動部隊艦載機がマニラを襲撃し、曙・駆潜艇116号・輸送船3隻などが沈没した[270]。 米軍機動部隊の一連の空襲と情報分析により、先の台湾沖航空戦レイテ沖海戦で日本海軍が主張した大戦果は誤報であることが確実となった[117]

11月15日、豊田連合艦隊長官は栗田中将に対し第一遊撃部隊所属の戦艦3隻(大和長門金剛)、軽巡矢矧、第17駆逐隊(浦風雪風磯風浜風)の内地回航と修理を[29]、シンガポールで修理中の2隻(高雄妙高 )を除く3隻(戦艦〈榛名〉、巡洋艦〈羽黒大淀〉)を大川内傳七中将(南西方面艦隊司令長官)の指揮下に編入するよう命じた(GF電令作第419号)[61]。 大川内長官は、3隻(榛名、羽黒、大淀)を第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将指揮下の支援部隊に編入したが[61]、榛名はリンガ泊地到着直前に座礁し、高速航行と長期航海に支障をきたすようになった[272]。 同日夜、大川内長官は多号作戦警戒部隊(第二遊撃部隊)に部署されていた第一水雷戦隊と第二水雷戦隊を支援部隊に編入、17日には支援部隊の待機位置をスマトラ島のリンガ泊地に指定した[61]

11月20日、日本海軍は水上艦艇の兵力を再編する[273]島風沈没時に全滅した第二水雷戦隊を再建するため、第一水雷戦隊を解隊して二水戦に転用する(木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に就任)[273][274]。 旧第十戦隊の構成艦(矢矧、雪風、浦風〈21日沈没〉、磯風、濱風、霜月、冬月、涼月)も、二水戦に編入された[273]。また第一水雷戦隊の穴埋めとして、第三十一戦隊〔軽巡五十鈴〈11月19日潜水艦雷撃で損傷、桃護衛下でシンガポール回航〉、第30駆逐隊(卯月、夕月)、第43駆逐隊(竹、梅、桃、槇、桐)、第52駆逐隊(11月15日新編、11月25日編入。桑、杉、樅、檜)、第21海防隊〕を第五艦隊に編入し、対潜作戦と輸送作戦護衛に従事させた[273][275]。 ここに、多号作戦は松型駆逐艦第一号型輸送艦第百一号型輸送艦(陸軍側呼称SB艇)、機動艇(陸軍側呼称「SS」艇)を主力として再開されることになった[64][62]

22日時点での支援部隊(第五艦隊旗艦「足柄」)の兵力は、戦艦3隻(榛名、伊勢、日向)、巡洋艦3隻(足柄、羽黒、大淀)、駆逐艦5隻(霞、潮、朝霜、岸波、霜月)となった[61]。第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦霜月を旗艦としてシンガポールからマニラに進出しようとしたが、25日に潜水艦カヴァラの雷撃で霜月は沈没[276]、司令官江戸兵太郎少将を含め司令部全滅という結果になった[275][277]。第三十一戦隊司令部(新任司令官は鶴岡信道少将)は12月上旬に内地で新編され、12月22日に空路でマニラに進出した[277]

一方、栗田長官の第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)は11月16日夕方にブルネイを出発して内地へ帰投したが[61]、21日未明に台湾沖でアメリカ潜水艦シーライオン二世[256]の襲撃により金剛と浦風を喪失した[29][278]。他の艦は23日に内海西部に到着[29]。第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は長門を横須賀まで護衛したあと、今度は空母信濃(特攻兵器桜花50基登載)を横須賀から呉まで護衛する。29日、信濃はアメリカ潜水艦アーチャーフィッシュ[256]の雷撃で沈没した[278]

第5次作戦

11月13日と14日のマニラ空襲で、軍需品の輸送を担当するはずだった輸送船は全滅した[52]。レイテ島の日本軍は補給を断たれ、重装備も不足し、苦戦を強いられていた[51][259]。そこで第68旅団の輸送をおこなうはずだった第五次~七次作戦は、軍需品の輸送に振り替えられた[74][279]。 同時期、第14方面軍司令官山下奉文大将は、第三船舶司令部にレイテ島輸送作戦の決行を下令する[280]。これにより陸軍潜水艦「まるゆ」3隻も投入された[280][64]。またセブ島~レイテ島間では水雷艇や魚雷艇による輸送と連絡が行われていたが、こちらも制空権の喪失と優秀な米軍魚雷艇の活動により、損害を出しながらの運用だったという[281]。海路での物資補給は期待できず、日本陸軍航空隊は、空中空輸という方式でレイテ島日本軍に補給をつづけた[282]

第1梯団

  • 輸送船:輸送艦第101号同141号同160号
  • 護衛艦艇:駆潜艇第46号

11月23日[75]、第一梯団は兵員1000名と軍需品を搭載してマニラを出港する[283]。24日、マステバ島カタイガン湾に待避していたが、空襲により輸送艦は3隻とも沈没した[283][74]。駆潜艇46号もマニラへの帰途、翌25日に被爆沈没[284]し船団は全滅した[285]。セブ島の第33特別根拠地隊(志柿大佐/先任参謀)は「ビサヤ地区での昼間避泊は絶対不可」「今ごろこんなことをやるというのは、よほどどうかしている」として意見具申したが、採用されなかったという[286]。輸送艦の生存者はマステバ島に上陸した[285][286]

第2梯団

  • 輸送船:輸送艦第6号、同9号、同10号
  • 護衛艦艇:竹

竹駆逐艦長の宇那木勁少佐(新南群島で飯村少佐と艦長交替)[287]の指揮下で、船団4隻(護衛艦〈竹〉、第一号型輸送艦3隻〈六号、九号、十号〉)という編成で[288]、11月24日にマニラを出港した[75][285]。 25日未明よりマリンドーケ島バナラカン湾へ待避していたが[289]、米軍機動部隊艦載機の空襲により輸送艦6号と10号が沈没する[283][290]。9号は損傷により揚陸装置が故障、竹も損傷した[291]。 第2梯団は竹駆逐艦長の決断により、マニラに引き返した[279][292]。『戦史叢書』では大河内長官の命令で帰投したとの記述があるが、竹の宇那木艦長は「輸送戦隊司令官より作戦続行命令が出たが独断でマニラに帰投した」と証言している[279][293]。 26日にマニラに到着すると[294]、第一輸送戦隊司令官曽爾章少将が宇那木を出迎え「南西方面艦隊参謀長有馬馨少将が強硬だった。無事にもどってきてくれてよかった」と語ったという[293]。第五次多号作戦は失敗した[74]

その他

米軍機動部隊のルソン島に対する空襲は25日早朝からはじまり、マニラ入港直前の第一輸送戦隊(通称「八十島船団」。軽巡八十島、二等輸送艦〈113号、142号、163号〉)が沈没[76][295]、サンタクルズで修理中の重巡熊野も沈没した[74][296]。八十島船団はフィリピン地上戦に投入予定の一式砲戦車を輸送中であった[76]

マニラを出撃した陸軍潜水艦まるゆ3隻は、11月26日にカモテス海のバシハン島に到着し、揚陸用の人員と物資を搭載した[280]。11月27日未明、まるゆ2号艇(指揮官艇、潜航不能状態で出撃)は哨戒中のフレッチャー級駆逐艦4隻に補足されて撃沈された[280]。まるゆ1号艇と3号艇はレイテ島オルモック湾に到着し、米・緊急食・通信用バッテリー・大発動艇修理部品を陸揚げした[280][297]。レイテ島に対する17日ぶりの物資補給成功であった[282]

第6次作戦

  • 輸送船:神祥丸神悦丸
  • 護衛艦艇:駆潜艇45号同53号哨戒艇105号

11月27日[65]、戦時標準型貨物船の神祥丸(2,880トン)と神悦丸(2,211トン)を、護衛艦艇3隻(哨戒艇105号、駆潜艇〈45号、53号〉)が護衛し、マニラを出撃した[298]。途中空襲を受けたが大きな損傷無く、日本軍の空挺部隊の陽動作戦(飛行場制圧作戦)の支援をうけ[298]、28日1900にオルモックに突入した[74][299]。弾薬250m3、糧食1100m3を揚陸した[298]。 しかし夜間に敵魚雷艇の攻撃を受け駆潜艇53号[300]哨戒艇105号が沈没した[77][298]。 翌30日朝の空襲で揚陸の遅れていた神悦丸が炎上し[301]、接岸したまま擱座する[298]。残った神祥丸と駆潜艇45号[302]はマニラを目指したが、30日にセブ島東方で遭難沈没。船団は全滅した[74][298]。 だが軍需品の一部揚陸に成功したことは、日本軍各部にレイテ作戦遂行への希望を抱かせた[65][299]

第7次作戦

第1梯団

  • 輸送船:陸軍SS艇3隻
  • 護衛艦艇:駆潜艇第20号

11月28日[79]、SS艇(5号、11号、12号)を駆潜艇20号が護衛し、兵員200名と糧食弾薬を乗せてマニラを出港する[78][303]。29日マスバテ島でSS艇5号が座礁する[303]。残2隻は30日2300にレイテ島イピル(オルモック南方4km)に到着し[303]、人員200名、糧食510m3、弾薬60m3、衛生材料45m3を揚陸した[79]。12月1日0140に揚陸完了し、2日に無事マニラに帰着した[78]

第2梯団

  • 輸送船:陸軍SS艇2隻

11月30日[79]、SS艇(10号、14号)でマニラを出港する[303]。マステバ島沖合で米軍駆逐艦4隻に発見され、撃沈された[303]

第3、第4梯団

  • 輸送船:輸送艦第9号、140号、159号
  • 護衛艦艇:竹、

12月1日[79]駆逐艦長山下正倫中佐の指揮下[304][305]、輸送艦(9号、140号、159号)を松型駆逐艦2隻(桑、竹)が護衛してマニラを出撃する[78][306]。 2日2330ころ、オルモックに突入した[77][307]。 翌3日0030ころ、護衛部隊(松、竹)が米大型駆逐艦3隻(モールアレン・M・サムナークーパー)および魚雷艇と交戦した[77][308]。戦闘前、日本軍小数機(夜間戦闘機月光、水上爆撃機瑞雲)の夜間爆撃と機銃掃射でアレン・M・サムナーが小破する[305][77]。 つづいて日本側駆逐艦(桑、竹とも魚雷を発射)[309]の雷撃により駆逐艦クーパーが轟沈する[80][308]。残る米駆逐艦2隻(サムナー、モール)は特殊潜航艇(甲標的)の攻撃と判断して撤退した[308]。だが日本側も桑が沈没[305][310]、竹も損傷した[311][312]。このとき竹が魚雷により戦果をあげたのが、日本海軍水上艦艇最後の魚雷戦と言われている[313]。ただし、12月26日の礼号作戦でも魚雷は使用されている。輸送艦3隻と竹は12月4日、マニラに帰着した[80][312]。竹は応急修理をうけたあと、内地へ帰投した[305][314]

第8次作戦

擱座した第11号輸送艦。
  • 輸送船:赤城山丸白馬丸第5真盛丸日洋丸
  • 護衛艦艇:、杉、駆潜艇第18号、38号、輸送艦第11号

第六次多号作戦と第七次多号作戦は部分的に成功し、方法如何によってはレイテへの輸送が可能であるとみなされた[82]。また日本陸軍航空隊の空挺作戦も、連合軍の飛行場に損害を与えたと判断した[82]。大本営はひきつづきレイテ作戦の続行を企図した[315]。持久に転じても、数か月の時間を得ると判断した[82]

現地では、第八次多号作戦が実施された[86]。第八次では、第68旅団(通称号「星」)の主力約4000名を輸送する[316][87]。12月5日1030[86]、第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(司令駆逐艦「梅」)の指揮下[317]、輸送船赤城山丸(4,714トン)、白馬丸(2,857トン)、日祥丸(6,482トン)、輸送艦11号は、艦艇5隻(駆逐艦〈梅、桃、杉〉、駆潜艇〈18号、38号〉)の護衛下でマニラを出港した[318][319]。船団の速力は6ノットで、7日1730のオルモック到着を予定していた[319]。 だが、当日アメリカ軍の大部隊がオルモック南部のアルベイラに上陸する[83][320]。そのため第八次多号作戦部隊は、揚陸地をレイテ島北西岸のサンイシドロ(漁村)[321]に変更した[318][87]。 7日1000以降、擱座・揚陸を始めた[318]。揚陸中にB-24多数に空襲され[86]、さらに連合軍戦闘爆撃機(P-40P-47)32機、P-38ライトニング50機、海兵隊F4Uコルセア16機の波状攻撃をうける[318]。人員は上陸したが軍需品の揚陸には失敗[86]、物資は砲2門他の揚陸に留まった[322]。梅と杉は損傷[318]、輸送船4隻と輸送艦第11号は大破したため放棄され、残りの護衛艦艇5隻はマニラに帰投した[318]。 第68旅団長栗栖猛夫陸軍少将ふくめ幹部将校は、その後の地上戦で戦死した[323]。第68旅団は合計約7000名がレイテ島に上陸したとされるが、その戦闘状況はよくわからない[323]

12月5日正午すぎ、日本陸軍のSS艇3隻(6号、7号、9号)もマニラを出撃、第八次輸送部隊の後方についた[324]。6日0530、SS艇6号は故障のためマンドリーケ島附近で速力低下、落伍した[324]。7日朝、第43駆逐隊司令より「隊列を解き各船艇付近に擱座すべし」の命令が出され、SS艇9号はパロンポン(レイテ島北西岸)に向かった[324]。SS艇7号(川井輝臣陸軍中尉)はサンイシドロ手前2マイルの陸岸に擱座し、独立歩兵第380大隊の159名、独立混成56師団通信隊37名、迫撃砲2門、機関砲2門、輜重車両4、弾薬食糧の揚陸に成功する[324]。午後0時30分、レイテ島を離脱し、12月8日夕刻にマニラへ帰投した[324]。6号艇と9号艇は未帰還となった[324]。川井艇長は山下陸軍大将より直接感状を授与されたという[324]

第9次作戦

陸上からの砲撃によりオルモック湾で大破した第159号輸送艦。
  • 輸送船:美濃丸、空知丸、たすまにや丸
  • 護衛艦艇:夕月卯月、駆潜艇第17号、第37号
  • 輸送艦第140号、第159号
  • 輸送艦第9号(セブ島に向かうが途中まで同行)

連合軍がレイテ島西岸に上陸したためオルモック揚陸は困難になったが、日本軍はレイテ増援作戦を続行した[325][326]。 第九次作戦の輸送船3隻(美濃丸〈4,667トン〉、空知丸〈4,107トン〉、たすまにや丸〈4,106トン〉)には[327]、第八師団歩兵第5連隊を基幹とする高階部隊約4000名と[328]、臨時歩兵第5連隊(カモテス支隊)約1200名[329]、兵器弾薬1200m3、糧食800m3を搭載する[330]。 輸送艦2隻(第140号、第159号)にはオルモック湾への逆上陸を目指す海軍特別陸戦隊約400名[32](伊藤徳夫少佐、特二式内火艇水陸両用戦車〉10輌、噴進砲21基)を搭載した[5][88]。またセブ島の第三十三根拠地隊[67]向けの甲標的2隻を載せた輸送艦第9号も途中まで同行した[327]。護衛の駆逐艦は、第30駆逐隊司令澤村成二大佐(司令駆逐艦「夕月」)指揮下の3隻(睦月型駆逐艦〈夕月、卯月〉、松型駆逐艦〈桐〉)であった[326]

12月9日1400[89]、第九次輸送部隊(駆逐艦〈夕月、卯月、桐〉、駆潜艇〈17号、37号〉、輸送船〈美濃丸、空知丸、たすまにあ丸〉、輸送艦〈140号、159号、第9号〉)はマニラを出港した[326][331]12月11日午前11頃、第9号輸送艦はセブ島にむけ分離する[331]。一方、第九次輸送部隊は連合軍戦闘爆撃機(P-40、F4U、P-38)多数の本格的な攻撃を受け、卯月が損傷(艦長重傷)、たすまにや丸・美濃丸が擱座・沈没した[326][331]。澤村司令は指揮下艦艇を分割し、護衛3隻(卯月、17号、37号)に沈没者救助と空知丸のパロンポン揚陸護衛を命じた[326][332]。夜間になり、卯月はオルモックに向かったが、米軍魚雷艇2隻(PT490、PT492)[326]の雷撃により轟沈した[333][334]

澤村司令指揮下のオルモック揚陸組(駆逐艦〈夕月、桐〉、輸送艦〈第140号、第159号〉)は2200にオルモック西方2km地点に突入[332]、輸送艦は揚陸を開始する[335]。人員・戦車の全部と機材の半分を揚陸したが、第159号は陸上からの砲撃と艦砲射撃で破壊された[32][335]。 第九次輸送部隊の揚陸実施中、米軍も輸送船団をオルモックに派遣し、揚陸作戦を実施していた[335][336]。米軍船団を護衛していた大型駆逐艦は5隻で、夜戦となったが日米双方とも損害なくオルモック湾を離脱した[335][337]。夜戦終了後、桐は澤村司令の命令によりパロンポンに戻り、桐便乗中の陸兵(沈没船生存者)を揚陸した[335][338]。パロンポンにいた空知丸と駆潜艇2隻はそれより先に揚陸を終了し、マニラに向かった(13日1500、帰着)[335][338]

単艦となった夕月は、揚陸を終えた140号輸送艦を護衛してオルモック湾を脱出[339]、もどってきた桐と合流してマニラへ向かった[340]。夕刻、3隻(夕月、桐、140号)はパナイ島東方でF4UコルセアとP-38の爆撃を受けて夕月は大破[341]、桐も至近弾で片舷航行となった[340]。澤村司令は桐に移乗し、夕月を自沈処分にした[335]。1213日1900、2隻(桐、140号)はマニラに帰着した[342]

第10次作戦

12月7日にレイテ島西岸のアルベイラに米軍が上陸し、レイテ島の日本軍は揚陸地点(オルモック)と最前線部隊の連絡が遮断される事態になった[343]。南西方面部隊指揮官の大川内傳七南西方面艦隊司令長官は、戦艦と戦闘行動に支障があるものを除く第二遊撃部隊のブルネー進出待機を命じた[343]。だが該当する艦艇は足柄と大淀のみで、ブルネイも頻繁に空襲をうける状態であった[343]。最終的に第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)のカムラン湾回航と待機が命じられる[343]。 12月12日、第二遊撃部隊はリンガ泊地を出発し、14日にカムラン湾に到着する[343]。第二水雷戦隊司令官木村昌福少将は、旗艦を駆逐艦朝霜から軽巡大淀に変更した[343]。カムラン湾集結時の兵力は、重巡足柄(第五艦隊旗艦)、第四航空戦隊日向〈旗艦〉、伊勢)、第二水雷戦隊(軽巡〈大淀〉、駆逐艦〈朝霜、霞、初霜〉)、給油艦日栄丸であった[343]

一方、大本営陸軍部・海軍部はタマ35船団(高雄~マニラ行)としてルソン進出中の陸軍歩兵部隊(第10師団の歩兵第39連隊と、第23師団の歩兵第79連隊)を、輸送船4隻(有島丸、日昭丸、和浦丸、鴨緑丸)に乗船のままカリガラ湾に突入させることに決め、これを「決号作戦」と呼称、第十次多号作戦として実施することになった[91][90]。大川内中将は、第二水雷戦隊の駆逐艦1隻(清霜[93][344]と輸送艦1隻を護衛部隊に編入した[90]。 船団は11日にマニラへ入港、出撃準備に入る[90]。大本営の意向に対し、第14方面軍はタマ35船団の陸軍部隊をルソン島に配備するよう希望した[91]。協議の結果「鴨緑丸」は作戦から外され、永吉支隊〔歩兵第39連隊(一大隊欠)基幹〕のレイテ島カリガラ湾西部逆上陸、畠中支隊(歩兵第71連隊の一大隊)の小レイテ湾補給基地設定が決まる[91]。第十次多号作戦部隊は12月14日のマニラ出撃を予定した[91]

しかし13日に発見された敵上陸部隊が14日には北上を始め、ルソン島へ向かう公算が大きくなった(実際にはミンドロ島に上陸)[92][345]。そこで第14方面軍は計画を中止、輸送予定部隊をルソン島守備の配置に就かせた[91]。 これを受け同日第10次作戦の中止が発令され、ここで多号作戦は終了した[90][93]。大川内中将(南西方面艦隊司令長官)も米軍がルソン島に来襲すると報じ、水上部隊の突入作戦を企図して第二遊撃部隊のカムラン湾から新南諸島への進出を下令、第二遊撃部隊決戦用意(NSB電令作第827号)を発令する[345]。フィリピンの戦いはミンドロ島地上戦という局面を迎えた[346]。 12月25日、第14方面軍司令官山下大将(ルソン島マニラ)は、レイテ島の第35軍に対し、持久作戦への転移を命じた(尚武作命第二七二号要旨)[95]。 12月31日、多号作戦部隊は編成を解かれた[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f 戦史叢書54巻445頁「一 全般経過の概要」「米軍レイテ、ミンドロに上陸」
  2. ^ a b c d e 戦史叢書93巻51頁「レイテ戦局の悪化と第一師団の緊急輸送/レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」
  3. ^ 日本水雷戦史548-549頁「多号第二~四次船団」
  4. ^ 岸見 2010, pp. 26–27「多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要」
  5. ^ a b c d e f g 戦史叢書54巻448-449頁「増援兵力の輸送」
  6. ^ 戦史叢書81巻323-324頁「スルアン島来攻」
  7. ^ 戦史叢書45巻495-496頁「米軍レイテに上陸 ― 十月二十日~二十二日」
  8. ^ a b c d e 戦史叢書93巻24-26頁「レイテ島決戦に対する聯合艦隊の基本命令(十月二十七日)」
  9. ^ a b c d e 戦史叢書93巻14-18頁「レイテ地上決戦の発起」
  10. ^ a b c ニミッツ 1962, pp. 398–400.
  11. ^ a b 戦史叢書45巻471-473頁「発動 ― 十月十八日」
  12. ^ 戦史叢書48巻288頁「捷一号作戦発動大命要旨」
  13. ^ 戦史叢書81巻398-399頁「フィリピン沖開戦の戦果と被害」
  14. ^ ニミッツ 1962, pp. 349–352「レイテ湾海戦/むすび」
  15. ^ 戦史叢書48巻341頁「艦隊作戦の結末」
  16. ^ a b 戦場の将器250-253頁
  17. ^ a b 戦史叢書81巻313-315頁「台湾沖航空戦の状況と戦果発表」
  18. ^ a b 戦史叢書81巻358-359頁
  19. ^ 戦史叢書81巻375-377頁「大本営の比島地上決戦方針転換と杉田大佐以下の派遣」
  20. ^ 戦史叢書48巻310-311頁「レイテ島地上決戦方針の決定と航空作戦の問題」
  21. ^ 戦史叢書54巻447-448頁「レイテ決戦に変更」
  22. ^ 戦史叢書48巻339-340頁「レイテ方面艦隊決戦の成果判断」
  23. ^ a b c d e f 戦史叢書48巻349-351頁「レイテ方面情勢検討」
  24. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書54巻447頁「レイテの戦闘/鈴二号作戦の発動」
  25. ^ a b 日本軽巡戦史577-579頁「鬼怒、旗艦となる(十月二十四日)」
  26. ^ 戦史叢書81巻392-393頁「フィリピン沖海戦/十月二十三日」
  27. ^ a b 戦史叢書45巻532頁
  28. ^ a b 福田幸弘 1981, p. 403.
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 戦史叢書54巻450-453頁「フィリピン沖海戦直後の水上部隊」
  30. ^ a b 日本水雷戦史497-498頁「不知火、沈没(十月二十七日)」
  31. ^ a b 岸見 2010, p. 28.
  32. ^ a b c d 写真日本の軍艦13巻(小艦艇I)244-245頁「小嶋和夫、多号作戦と一等、二等輸送艦」
  33. ^ a b c 戦場の将器245-246頁
  34. ^ 戦史叢書48巻364頁「挿図第二十九、玉船団掩護の境界と船団航路」
  35. ^ a b c d e f g 戦史叢書93巻54-56頁「第二次輸送部隊、オルモック突入に成功す」
  36. ^ 戦史叢書81巻418-419頁「第一師団主力等のオルモック突入」
  37. ^ a b c d e 戦史叢書93巻56-57頁「南西方面艦隊司令長官の交代と輸送作戦実施計画」
  38. ^ a b c d e f g h 戦場の将器246-249頁
  39. ^ 戦史叢書81巻423頁「方面軍のレイテ輸送計画」
  40. ^ 門司 2012, p. 494.
  41. ^ a b c 撃沈戦記163-167頁「マニラ湾燃ゆ」
  42. ^ a b c d e f g h i j 戦史叢書93巻58-59頁「米有力機動部隊の出現」
  43. ^ a b 戦史叢書81巻435頁「レイテ突入輸送被害甚大」
  44. ^ a b c d e f g h i j k l 戦史叢書93巻62-65頁「軍需品搭載船団の全滅」
  45. ^ a b c d e 戦場の将器249-250頁
  46. ^ 秋月型 2015, p. 229「島風(しまかぜ)」
  47. ^ 秋月型 2015, pp. 79–80「若月(わかつき)」
  48. ^ 秋月型 2015, pp. 225–226「浜波(はまなみ)」
  49. ^ 秋月型 2015, pp. 221–222「長波(ながなみ)」
  50. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書93巻64-65頁「参考」
  51. ^ a b c 戦史叢書81巻440-441頁「レイテへの補給途絶」
  52. ^ a b c d e 戦史叢書93巻75-76頁「軍需品の緊急輸送/参謀総長の上奏」
  53. ^ a b 岸見 2010, p. 61.
  54. ^ 門司 2012, p. 500.
  55. ^ 戦史叢書48巻392-393頁「米機動部隊のルソン来襲」
  56. ^ 戦史叢書48巻394-395頁「第四航空軍の戦闘」
  57. ^ a b c d 日本軽巡戦史603-605頁「木曽、マニラに死す(十一月)」
  58. ^ 秋月型 2015, p. 226「沖波(おきなみ)」
  59. ^ 秋月型 2015, p. 228「秋霜(あきしも)」
  60. ^ a b c d 戦史叢書93巻65-66頁「マニラ在泊艦船の被害甚大」
  61. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書93巻67頁「第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航」
  62. ^ a b 戦史叢書93巻73頁「現地陸海軍の作戦方針」
  63. ^ 岸見 2010, pp. 76–77.
  64. ^ a b c 連合軍撃沈、189-191頁「失敗した最後の反撃」
  65. ^ a b c d 戦史叢書81巻474頁「第六次多号作戦」
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  68. ^ 戦史叢書48巻406-407頁「レイテ決戦の地上兵団増強検討」
  69. ^ a b 戦史叢書48巻424-425頁「十一月中旬後半、大本營のレイテ決戦遂行に対する自信動揺」
  70. ^ a b c 戦史叢書48巻414頁「レイテ決戦兵団輸送計画」
  71. ^ a b c d 戦史叢書48巻425-426頁「第二十三師団の輸送失敗とレイテ持久転移の直観」
  72. ^ a b 戦史叢書81巻469頁「第二十三師団の遭難」
  73. ^ a b 戦史叢書48巻426頁「比島方面兵力増強と参謀総長のレイテ決戦完遂意図開陳」
  74. ^ a b c d e f g h i j 戦史叢書93巻76-77頁「第五次~第七次多号作戦」
  75. ^ a b c 戦史叢書81巻474頁「第五次多号作戦」
  76. ^ a b c 日本軽巡戦史599-603頁「八十島、輸送艦を率いる(十一月)」
  77. ^ a b c d e 連合軍撃沈、193-195頁「米駆逐隊の迎撃」
  78. ^ a b c d 連合軍撃沈、191-193頁「第七次輸送作戦」
  79. ^ a b c d e 戦史叢書81巻474-475頁「第七次多号作戦」
  80. ^ a b c 連合軍撃沈、195-196頁「クーパー轟沈す」
  81. ^ 連合軍撃沈、197-198頁
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  112. ^ 戦史叢書81巻327-328頁「陸海軍両総長の上奏」
  113. ^ 戦史叢書81巻387頁「挿図第十二、第十六師団の配備図」
  114. ^ 戦史叢書81巻385-386頁「第十四方面軍兵力配備の概要」
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  117. ^ a b 戦史叢書93巻66頁「米機動部隊兵力判断」
  118. ^ 戦史叢書48巻303-304頁「大本營陸海軍部の作戦連絡」
  119. ^ 岸見 2010, pp. 18–22.
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  121. ^ 戦史叢書48巻306-307頁「第十四方面軍のレイテ地上戦闘指導」
  122. ^ a b 戦史叢書48巻307-308頁「杉田大本營参謀の南方軍連絡」
  123. ^ 戦史叢書81巻378-379頁「陸軍部の南方軍指導」
  124. ^ 戦史叢書81巻380-382頁「第十四方面軍既定方針堅持」
  125. ^ 戦史叢書81巻382-383頁「寺内総司令官の強力な方面軍指導」
  126. ^ 戦史叢書48巻309-310頁「南方軍のレイテ地上決戦命令下達」
  127. ^ 戦史叢書48巻309頁「南方軍の反撃作戦企図の大要」
  128. ^ 戦史叢書48巻325-326頁「大本營海軍部の作戦連絡」
  129. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 戦史叢書45巻500-502頁「第二遊撃部隊 ― 混迷続く」
  130. ^ 戦史叢書81巻372-373頁「第十四方面軍の状況」
  131. ^ a b 戦史叢書81巻151頁「第三十五軍の作戦計画」
  132. ^ a b 戦史叢書93巻18-19頁「大本営海軍部の作戦指導方針/作戦会報を開く」
  133. ^ a b 戦史叢書45巻533-534頁
  134. ^ a b 戦史叢書93巻19-20頁「 「省部懇談」に諮る」
  135. ^ 戦史叢書93巻21-22頁「T攻撃部隊の再建」
  136. ^ 戦史叢書93巻20-21頁「捷一号作戦指導方針」
  137. ^ a b 戦史叢書81巻409-411頁「各方面の情勢判断/大本営」
  138. ^ 戦史叢書48巻351頁「大本營陸軍部のモロタイ情勢重視」
  139. ^ 戦史叢書81巻406-407頁「第十四方面軍レイテ決勝計画」
  140. ^ a b 戦史叢書93巻53頁「聯合艦隊参謀の報告」
  141. ^ 軽巡海戦史265-266頁「北上(きたかみ)」
  142. ^ a b 日本軽巡戦史574-577頁「鬼怒の多号一次輸送」
  143. ^ a b c 戦史叢書45巻462-463頁
  144. ^ a b c d e 軽巡海戦史45-48頁「単独部隊としてマニラ急航」
  145. ^ 福田幸弘 1981, p. 135「第二遊撃部隊」
  146. ^ a b c 日本水雷戦史487-488頁「米潜水艦に追わる(十月十八日~二十日)」
  147. ^ a b 福田幸弘 1981, p. 136.
  148. ^ 戦史叢書45巻465-467頁「海軍部は水上部隊のルソン海峡東進を望む ― 十月十八日」
  149. ^ a b c d e f 戦史叢書45巻472-474頁「聯合艦隊の基本命令 ― 十月二十日」
  150. ^ 福田幸弘 1981, p. 138.
  151. ^ 戦史叢書48巻325頁「海軍側状況の大要」
  152. ^ a b 日本水雷戦史488-489頁「第21駆逐隊、受難(十月二十四日)」
  153. ^ 日本水雷戦史489-491頁「第21駆逐隊、全滅(十月二十四日)」
  154. ^ 戦史叢書45巻513-514頁「第二遊撃部隊の進撃」
  155. ^ 福田幸弘 1981, pp. 136–137.
  156. ^ 戦史叢書48巻335頁「挿図第二十八、艦隊決戦概見図」
  157. ^ a b c d 岸見 2010, p. 24.
  158. ^ 戦史叢書81巻386-388頁「戦況の推移〔十月十七日~十九日〕」
  159. ^ 志柿 2005, pp. 118–119「海軍舟艇隊」
  160. ^ 福田幸弘 1981, pp. 135–136「(5)南西方面部隊(南西方面艦隊)(マニラ)」
  161. ^ 福田幸弘 1981, p. 137.
  162. ^ 戦史叢書45巻505-506頁「十月二十三日」
  163. ^ ニミッツ 1962, pp. 377–378「パラオおよびフィリピン」
  164. ^ 竹村悟 1986, pp. 231–234「雷撃を受ける」
  165. ^ a b c d e 軽巡海戦史48-52頁「第一次オルモック輸送」
  166. ^ a b c d 軽巡海戦史49頁「第十六戦隊行動図(19年10月24-26日)」
  167. ^ 日本軽巡戦史579-581頁「B24重爆の大空襲(十月二十五日)」
  168. ^ a b c d e 日本軽巡戦史580-583頁「3 鬼怒、護送空母機に沈めらる」
  169. ^ 戦史叢書81巻391-392頁〔十月二十六日〕
  170. ^ 軽巡海戦史52-55頁「最後の戦闘」
  171. ^ a b 日本軽巡戦史582-585頁「米護送空母部隊」
  172. ^ a b c 日本軽巡戦史585-587頁「鬼怒、沈没」
  173. ^ 軽巡海戦史56-58頁「総員退去」
  174. ^ 軽巡海戦史58-62頁「漂流者に機銃掃射」
  175. ^ a b 岸見 2010, p. 30.
  176. ^ 岸見 2010, p. 29「不知火」不運
  177. ^ a b 福田幸弘 1981, p. 394.
  178. ^ a b 軽巡海戦史62-67頁「輸送艦に救助されて」
  179. ^ 南海の死闘 1994, pp. 104「田中艦長退艦? 飯村少佐臨時艦長?」
  180. ^ 最上出撃せよ189-190頁
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  182. ^ a b c d e f 日本水雷戦史549-550頁「第二次多号作戦」
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  210. ^ 最上出撃せよ194-196頁
  211. ^ 撃沈戦記176-179頁「マタ三一船団を守って」
  212. ^ 戦史叢書93巻59-61頁「南西方面艦隊の敵兵力判断」
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  • 「丸」編集部 編『小艦艇戦記 海防艦「占守」電探室異状なし』株式会社潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2012年10月。ISBN 978-4-7698-2756-6 
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    • (308-319頁)当時「梅」乗組・海軍上等兵曹市川國雄『香り浅き「梅」バシー海峡に消えたり 熾烈なる対空戦闘の果て誕生六ヶ月余りで海底に没した愛艦への鎮魂歌
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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030751400「昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌」
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030149800。 

関連項目