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'''戸村 一作'''(とむら いっさく、[[1909年]][[5月29日]] - [[1979年]][[11月2日]])は、[[市民運動]]・[[小作争議|農民運動]]([[三里塚闘争|三里塚(成田)空港反対運動]])活動家。[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]委員長。[[画家]]・[[彫刻家]]。
'''戸村 一作'''(とむら いっさく、[[1909年]]([[明治]]42年)[[5月29日]] - [[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月2日]])は、[[市民運動]]・[[小作争議|農民運動]]([[三里塚闘争|三里塚(成田)空港反対運動]])活動家。[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]委員長。[[画家]]・[[彫刻家]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[千葉県]][[成田市]]生まれ。千葉県[[成田高等学校・付属中学校|成田中学校]]卒業。成田市三里塚で[[農業機械|農機]][[販売]]を営む。
[[千葉県]][[成田市]]生まれ。千葉県[[成田高等学校・付属中学校|成田中学校]]卒業。成田市[[三里塚 (成田市)|三里塚]]で[[]]・[[鋤]]・[[鎌]]などの[[販売]]「戸村農機」を営む<ref name="moyu1722">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、17-22頁</ref>


[[第二次世界大戦]]中は非戦活動を行っており、[[1943年]](昭和18年)に[[大日本帝国陸軍]]から[[召集]]されるも、[[反戦]]歴のために[[即日帰郷]]となる。戦後は1952年(昭和27年)の[[破壊活動防止法|破防法]]闘争や[[60年安保闘争]]に参加した<ref name="nakayama">{{Cite web |date=1984-04-13|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/101/0290/10104130290004a.html |title=第101回国会 運輸委員会 第4号 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2017-09-28}}</ref>。
富里村(現・[[富里市]])で国際空港建設問題が起こると[[クリスチャン]]である戸村はその[[信仰]]に基づいて[[反対運動]]に参加し、県内の[[キリスト教会]]を中心に反対運動の支援を求めて回る。戸村の店には「富里空港反対キリスト者連盟」の看板が掲げられる<ref> 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、43-44頁</ref>。


富里村(現・[[富里市]])で国際空港建設問題が起こると[[クリスチャン]]である戸村はその[[信仰]]に基づいて[[反対運動]]に参加し、県内の[[キリスト教会]]を中心に反対運動の支援を求めて回る。戸村の店には「富里空港反対キリスト者連盟」の看板が掲げられる<ref> 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、43-44頁</ref>。
[[1966年]]6月になると、今度は三里塚が[[成田国際空港|新東京国際空港]]建設予定地とされ、これに反発した住民らが結集して反対運動が開始される。戸村は富里での反対運動の経験や人柄を買われ、同年[[6月28日]]に「三里塚空港反対同盟」の代表となり、「芝山空港反対同盟」と合併後の「三里塚芝山連合空港反対同盟」(略称「反対同盟」)においても代表に選出される。


[[1966年]](昭和41年)6月になると、今度は三里塚が[[成田国際空港|新東京国際空港]]建設予定地とされ、これに反発した住民らが結集して反対運動が開始される。戸村は富里での反対運動の経験や人柄を買われ、反対同盟副委員長となる小川明治の強い要請もあって<ref name="moyu1722"/>、同年[[6月28日]]に「三里塚空港反対同盟」の代表となった。「芝山空港反対同盟」と合併後の「三里塚芝山連合空港反対同盟」(略称「反対同盟」)においても代表に選出される。なお、戸村が代表に選出されたのは、反対運動開始時に三里塚・芝山住民らに闘争の手ほどきをした富里の反対運動幹部らが戸村と顔なじみであったことや富里の青年行動隊長が戸村と同じクリスチャンのため懇意であったことも関係しているとも、候補者に打診を断られ続けた農民らが話を持ち掛けたところ「つなぎなら」と戸村が承諾したからとも言われる<ref> 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、8・9頁。</ref><ref name=":0">[[鷲田小彌太]]『あの有名人101人にみる 理想の逝き方』PHP文庫、2012年。</ref>。
政府と「反対同盟」との衝突がエスカレートしていく中、戸村は代表として[[革新政党]]との決別や[[新左翼]]諸派の受け入れなどの難しい舵取りを迫られる。


政府と「反対同盟」との衝突がエスカレートしていく中、戸村は代表として[[革新政党]]との決別や[[日本の新左翼|新左翼]]諸派の受け入れなどの難しい舵取りを迫られる。一方で、[[1967年]][[4月28日]]の成田市議会議員選挙に立候補して30名中3位で当選し、1974年6月にも2期目の当選を果たしている。
[[1968年]]頃から、[[機動隊]]との衝突で「反対同盟」からの逮捕者やけが人が続出するようになった。戸村自身も1968年[[2月26日]]に新左翼学生らと機動隊が初めて大規模に衝突した現場で機動隊員に頭部を[[警棒]]で殴られ、大怪我を負って入院した<ref>[http://www.econfn.com/iwadare/page176.html もの書きを目指す人びとへ - 流血の成田空港反対闘争]</ref><ref> 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、77-78頁</ref>。


[[1968年]]頃から、[[機動隊]]との衝突で「反対同盟」からの逮捕者やけが人が続出するようになった。戸村自身も1968年[[2月26日]]に新左翼学生らと機動隊が初めて大規模に衝突した現場で機動隊員に頭部を[[警棒]]で殴られ、大怪我を負って[[成田赤十字病院]]に入院した<ref>[http://www.econfn.com/iwadare/page176.html もの書きを目指す人びとへ - 流血の成田空港反対闘争]</ref><ref> 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、77-78頁</ref>。後に戸村はこの時のことを「(警察は)私を殺してもいいと思ったに違いない」と振り返り、「立ちはだかる機動隊を倒さなくては闘争に勝てない。一人でも二人でも倒すのが闘争なのだ」などと過激な主張をするようになる<ref name="iida107108"> 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、107-108頁。</ref>。[[3月3日]]、病室に見舞いに訪れた[[友納武人]][[千葉県知事]]に対し、傷口を見せると「友納さん、よく見てくれ。これが政府のやり方だ。これからは私も変わる」と宣言した。以前から戸村と面識があった友納は愕然とする<ref> 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、81頁</ref>。
[[1971年]]に行われた[[成田空港予定地の代執行]]では多くの同盟員と支援者が負傷者したが、その中で反対派の襲撃を受けて機動隊員が死亡する事件([[東峰十字路事件]])が発生し、これまで同情的であった世論やマスコミが一転し、「反対同盟」は批判を受けるようになった。その後反対同盟は同盟員の[[自殺]]や同盟員の大量逮捕などの逆風に晒されるが、戸村は常に反対運動をリードし続けた。


[[1969年]][[11月12日]]には、空港建設工事に従事する[[ブルドーザー]]の作業を妨害したとして[[逮捕]]されている。
[[1974年]][[7月7日]]投票の[[第10回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]で、戸村は全国区に「成田空港反対」を掲げて出馬し、33万票を獲得しつつも落選する。なお、戸村の選挙を支援する革新系無所属地方議員を中心に、「[[全国革新議員会議]]」が設立されている。


[[1971年]]に行われた[[成田空港予定地の代執行]]では多くの同盟員と支援者が負傷者したが、その中で反対派の襲撃を受けて機動隊員が死亡する事件([[東峰十字路事件]])が発生し、これまで同情的であった世論やマスコミが一転し、「反対同盟」は各方面から批判を受けるようになった。その後反対同盟は同盟員の[[自殺]]や同盟員の大量逮捕などの逆風に晒されるが、戸村は常に反対運動をリードし続けた。
代執行後、反対同盟は岩山鉄塔を建てて開港を阻んでいたが、その撤去に関連して支援者が死亡する事件([[東山事件]])が[[1977年]]に発生し、戸村は代表として強く抗議する。


1972年から1973年にかけて、共産圏の各国を訪問して三里塚闘争を訴え、勲章を授与されている<ref name="nakayama"/>。
新東京国際空港[[1978年]][[3月30日]]が開港予定日されるが4日前[[326]][[成田空港管制塔占拠事件]]が、当局は開港延期を余儀なくされる。これを受けて同年4月に日本経済団体連合会代表の[[桜田武]]・参議院議員の[[秦野章]]・「反対同盟」代表の戸村が会談し、同年[[5月20日]]に設定されていた開港予定日を一年先送りすることを条件にその間を「休戦」とすることを政府に申し入れることで一致する。同年[[5月10日]]に、戸村[[福永健司]]運輸大臣会談がなされたが、話し合いは平行線に終わる<ref name="one">[http://tsuge44.at.webry.info/200509/article_1.html 3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末]</ref>。

病で倒れた労組委員長の代役を探していた三菱重工長崎造船労働組合からの要請を受けて<ref name="moyu207209">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、207-209頁</ref>、戸村は[[1974年]][[7月7日]]投票の[[第10回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]で「成田空港反対」「世直し一揆」を掲げて[[全国区]]から出馬し、戸村を支援する革新系無所属地方議員らが「[[全国革新議員会議]]」を設立した。また、[[小田実]]などが「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」を結成し、労働運動や反公害運動、婦人運動等と連携して地域毎の「連帯する会」を組織して戸村を支援した<ref name="moyu207209"/>。戸村は同選挙で23万票を獲得しつつも、112人中75位で落選する<ref name="moyu207209"/>。

代執行後、反対同盟は[[岩山鉄塔]]を建てて開港を阻んでいたが、その鉄塔が[[1977年]]に抜き打ち的に撤去されたため、戸村は「手段を選ばず闘おう」と檄を飛ばした。撤去に抗議する反対派と機動隊が激しく衝突した結果、支援者が死亡する事件([[東山事件]])が発生し、戸村は代表として強く抗議する。一方、その直後に報復とみられる攻撃で警察官が死亡する事件も発生している([[芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件]])<ref name="moyu74">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、74頁</ref>。

新東京国際空港は[[1978年]][[3月30日]]が開港予定日とされるが、その4日前の[[3月26日]]に[[成田空港管制塔占拠事件]]が発生し、当局は開港延期を余儀なくされる。政府が[[成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法|成田新法]]の制定等の過激派への対処に取り組む一方で、行政その他各本面から反対同盟との話し合いの機会を求める動きが現れた<ref name="moyu223235">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、223-235頁</ref>。

このころに闘争の主導権を新左翼に取られていた反対同盟、①反対運動における逮捕者全員の釈放、②開港の延期二期工事の凍結③国会審議中成田新法撤回と機動隊撤退を前提条件として同年417日に発。これを受けて日本経済団体連合会代表の[[桜田武]]・参議院議員の[[秦野章]]・「反対同盟」代表の戸村が会談し、同年[[5月20日]]に設定されていた開港予定日を一年先送りすることを条件にその間を「休戦」とすることを財界側が政府に申し入れることで一致したしかし、財界が政府に申し入れる前の同年[[5月10日]]に、戸村[[福永健司]]運輸大臣会談、話し合いは平行線に終った。政府側が開港日を譲らなかったことに加えて反対同盟が態度を硬化させたことから、話し合いの試みは絶たれた<ref name="one">[http://tsuge44.at.webry.info/200509/article_1.html 3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末]</ref><ref name="moyu223235"/>。


結局、新東京国際空港開港は再設定されていた予定日である[[5月20日]]に実現する。戸村は開港粉砕集会で、「水や電気、交通機関などを止め、あらゆるゲリラ活動を展開し、成田空港を廃港に追い込む」などと宣言した。以降、ジェット燃料輸送列車妨害事件、空港周辺電話ケーブル切断事件、東京航空交通管制ケーブル切断事件、日航ホテル成田・転業農民の関連会社社員寮・大韓航空社員寮・空港付属下水道施設などへの一連の火炎ビン投入事件、東京航空局山田レーダー基地・筑波レーダー基地襲撃事件、東京電力送電塔倒壊事件、浄水場廃油毒物投入事件などゲリラ事件が相次いだ<ref> {{Cite web |date= |url=http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/jouhou/accident14.html |title=水道関連事故事例について(平成14年度以前) |publisher=厚生労働省 |accessdate=2017-06-02}}</ref>。
結局、新東京国際空港開港は再設定されていた予定日である[[5月20日]]に実現する。戸村は開港粉砕集会で、「水や電気、交通機関などを止め、あらゆるゲリラ活動を展開し、成田空港を廃港に追い込む」などと宣言した。以降、ジェット燃料輸送列車妨害事件、空港周辺電話ケーブル切断事件、東京航空交通管制ケーブル切断事件、日航ホテル成田・転業農民の関連会社社員寮・大韓航空社員寮・空港付属下水道施設などへの一連の火炎ビン投入事件、東京航空局山田レーダー基地・筑波レーダー基地襲撃事件、東京電力送電塔倒壊事件、浄水場廃油毒物投入事件などゲリラ事件が相次いだ<ref> {{Cite web |date= |url=http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/jouhou/accident14.html |title=水道関連事故事例について(平成14年度以前) |publisher=厚生労働省 |accessdate=2017-06-02}}</ref>。


開港翌年である[[1979年]]の春ごろから戸村は[[糖尿病]]で通院するようになり、5月には起き上がれなくなり、6月から入院を余儀なくされた。8月に娘から自身が[[悪性リンパ腫]]であることを告げられる。9月に意識不明となり入院先の[[国立がん研究センター]]に搬送され、一時小康状態を取り戻すが、[[11月2日]]に「三里塚芝山連合空港反対同盟委員長」の肩書のまま死去。死の前日には「三里塚闘争は小さな闘争だった」と述懐し、最期に述べた言葉は「デモは出発したか」であったといわれる。享年70歳<ref name=":0" /><ref name="moyu86">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、86頁</ref><ref>{{Cite web |date=2013-06-25 |url=http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20130625/1372107840 |title=じじぃの「人の死にざま_1179_戸村・一作」 |publisher=老兵は黙って去りゆくのみ |accessdate=2017-09-19}}</ref><ref name="365d">原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、226-227頁。</ref>。
戸村は「反対同盟」代表として現役のまま、開港翌年である[[1979年]][[11月2日]]に死去する。70歳であった。

明確な継承もないまま求心力を持つ戸村を失った反対同盟は、その後幹部の脱落や分裂を繰り返すことになる<ref name=":0" /><ref name="365d" />。


== 人物 ==
== 人物 ==
=== キリスト教との関わり ===
敬虔なクリスチャンであり、名前の一作は[[旧約聖書]]に登場する[[イサク]]に由来する。
敬虔なクリスチャンであり、名前の一作は[[旧約聖書]]に登場する[[イサク]]に由来する。


自宅敷地を[[1891年]]から当地で[[キリスト教]]の布教活動を続けていた「三里塚教会」に提供し、教会の信者らが[[普請]]のために募った寄付により、[[吉村順三]]設計による木造の[[教会堂]]が[[1954年]][[11月25日]]に[[竣工]]した。
自宅敷地を[[1891年]]から当地で[[キリスト教]]の布教活動を続けていた「三里塚教会」に提供し、教会の信者らが[[普請]]のために募った寄付により、[[吉村順三]]設計による木造の[[教会堂]]が[[1954年]][[11月25日]]に[[竣工]]した。


また、近所の子供を集めて[[日曜学校]]を開き、[[説教]]の他にも絵や歌を教えたり、近隣の学校から集めた作品や自身の作品を展示するなど、「三里塚教会」を拠点に文化活動をしていた<ref name="iida107108"/>。
なお、[[成田空港問題]]を巡って戸村と教会の[[牧師]]は対立するようになり、戸村が教会に対し土地代の支払いと退去を求めたため、1968年に牧師と教会役員らは戸村らの除名を宣言して信者らと共に教会堂を引き払った。牧師らは[[新東京国際空港公団]]からの騒音対策事業費補助金(移転補償)を受け取り、新たに別の教会堂を建てることで布教活動を継続した。[[日本基督教団]]はこの教会を認めるスタンスを取っている。

なお、[[成田空港問題]]を巡って戸村と教会の[[牧師]]は対立するようになり<ref>北原鉱治の回想によれば、空港問題が起きる前からも教会に牧師が派遣されてくるたびに衝突を繰り返していたという。(北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、27頁)</ref>、戸村が教会に対し土地代の支払いと退去を求めたため、1968年に牧師と教会役員らは戸村らの除名を宣言して信者らと共に教会堂を引き払った。牧師らは[[新東京国際空港公団]]からの騒音対策事業費補助金(移転補償)を受け取り、新たに別の教会堂を建てることで布教活動を継続した。[[日本基督教団]]はこの教会を認めるスタンスを取っている。


一方、戸村らも別の牧師を招いて教会の活動を再開しており、「三里塚教会」の分裂状態は現在に至るまで継続している。
一方、戸村らも別の牧師を招いて教会の活動を再開しており、「三里塚教会」の分裂状態は現在に至るまで継続している。

青年行動隊員らが[[日本幻野祭]]の開催を報告しに行ったときは「若者はなぜ[[快楽主義]]に走るのか」と憮然としていた<ref name="moyu1722"/>。

=== 平和主義者からの転換 ===
反対運動開始当初の戸村が[[平和主義者]]であったことは、反対派だけでなく当時[[成田警察署]]長であった飯高春吉も認めるところであった<ref name="iida107108"/>。

しかし、1968年2月26日の新左翼学生と警察の衝突に巻き込まれて負傷したことを契機に、これまで「[[非暴力|暴力主義と一線を画すのだ]]」などと学生らを諫めていた戸村は一転して過激な主張をするようになり、再び新左翼学生らと警察との間で大規模な衝突が起こり多数の負傷者を出した[[3月10日]](→[[TBS成田事件]])にはそれまでの[[ベレー帽]]と[[襷]]のみのスタイルを[[ヘルメット]]を被った後年よく知られる出で立ちに改め、青年行動隊に「武器をとれ」と檄を飛ばしたとされる<ref name="moyu1722"/>。

一方、飯高は、3月10日の集会においても[[和服]]にベレー帽姿の戸村が「今日はその[[角材]]を控えてください、得物をそのシンボルとして決して振り回してもらいたくない」と学生らに呼び掛けており<ref name="iida107108"/>、戸村が公に実力闘争を主張をするようになったのは3月31日の集会からだとしている<ref>飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、117頁。</ref>。また、戸村は入院中に飯高が見舞いに来た際に啖呵を切ったと回想しているが<ref>戸村一作『野に立つ』 三一新書 1974年、70-71頁。</ref>、飯高は実際にはそのようなやり取りがなかったと主張している<ref>飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、83-84頁。</ref>。

反対同盟事務局長であった[[北原鉱治]]は、3月10日に頭に包帯を巻いた状態で病院を抜け出してきた戸村が武装した学生らに対し「君たちが手にした[[ゲバルト棒|ゲバ棒]]を象徴として使え」と微妙な表現を使って演説したとしている。北原は、戸村がキリスト者として若い学生がケガをするのは忍びないと苦悩していたのだろうと回想している。そして、3月10日当日は北原と[[北富士忍草母の会]]事務局長が[[全学連]]の部隊に「(空港)公団に向けて前進しよう」「手にした武器を真っ向から振り下ろせ」と"激励"したのだとしている<ref name="daichi47">北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、47頁</ref>。

また、地域ぐるみの生活闘争の指導者であったはずの戸村は、1970年代後半には「三里塚闘争は階級闘争である」と新左翼党派と同様のスピーチをするようになり反対同盟幹部らともあまり話をしなくなったが、元反対同盟員は様々な集会に出かけて演説を行っていた戸村がその場の聴衆に合わせて言葉を選んだのではないかとしている<ref name="moyu1722"/>。

=== 反対運動のシンボル ===
反対同盟結成当初は戸村が演壇に立つと「なんだヤツか」と言う者もおり<ref name="moyu1722"/>、一部の農民からは「戸村さんの話は難しい」という声があった<ref name="daichi29">北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、29頁</ref>。

しかし、戸村の演説は当初から聴衆の心を揺さぶるものがあった<ref name="daichi29"/>。戸村自身も事前に原稿を用意して演説に臨み、帰路は自分の演説を録音した[[テープレコーダー]]を聞いて原稿と照らし合わせるなど、修練を重ねた<ref name="moyu1722"/>。そのような真摯な人柄もあり、地元反対派住民だけでなく新左翼党派や支援者らにとっても戸村は三里塚闘争の象徴的存在となった<ref name="moyu1722"/>。


== その他 ==
== その他 ==
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== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
'''著書'''
'''著書'''
* 『野に立つ』 三一新書 1974年
*『わが三里塚 風と炎の記録』 田畑書房 1980年
* 『わが三里塚 風と炎の記録』 田畑書房 1980年
'''登場書籍'''
'''登場書籍'''
*『回想の戸村一作』 鎌田慧 柘植書房 1981年12月 ISBN 978-480680174-0(4-8068-0174-7)
* 『回想の戸村一作』 鎌田慧 柘植書房 1981年12月 ISBN 978-480680174-0(4-8068-0174-7)
*『実存の戸村一作―私の中に生きる 』 日本キリスト教団三里塚教会 れんが書房新社 1999年11月 ISBN-13: 978-4846202279
* 『実存の戸村一作―私の中に生きる 』 日本キリスト教団三里塚教会 れんが書房新社 1999年11月 ISBN-13: 978-4846202279


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{成田空港問題}}
{{成田空港問題}}


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[[Category:日本の社会運動家]]
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[[Category:成田空港問題]]
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[[Category:1907年生]]

2018年1月30日 (火) 12:16時点における版

とむら いっさく

戸村 一作
生誕 (1909-05-29) 1909年5月29日
千葉県成田市
死没 (1979-11-02) 1979年11月2日(70歳没)
死因 悪性リンパ腫
国籍 日本の旗 日本
出身校 成田中学校
職業 市民運動農民運動活動家・成田市議会議員
著名な実績 三里塚芝山連合空港反対同盟代表として、三里塚闘争をリードした
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戸村 一作(とむら いっさく、1909年明治42年)5月29日 - 1979年昭和54年)11月2日)とは、市民運動農民運動三里塚(成田)空港反対運動)活動家。三里塚芝山連合空港反対同盟委員長。画家彫刻家

生涯

千葉県成田市生まれ。千葉県成田中学校卒業。成田市三里塚などの販売店「戸村農機」を営む[1]

第二次世界大戦中は非戦活動を行っており、1943年(昭和18年)に大日本帝国陸軍から召集されるも、反戦歴のために即日帰郷となる。戦後は1952年(昭和27年)の破防法闘争や60年安保闘争に参加した[2]

富里村(現・富里市)で国際空港建設問題が起こるとクリスチャンである戸村は、その信仰に基づいて反対運動に参加し、県内のキリスト教会を中心に反対運動の支援を求めて回る。戸村の店には「富里空港反対キリスト者連盟」の看板が掲げられる[3]

1966年(昭和41年)6月になると、今度は三里塚が新東京国際空港建設予定地とされ、これに反発した住民らが結集して反対運動が開始される。戸村は富里での反対運動の経験や人柄を買われ、反対同盟副委員長となる小川明治の強い要請もあって[1]、同年6月28日に「三里塚空港反対同盟」の代表となった。「芝山空港反対同盟」と合併後の「三里塚芝山連合空港反対同盟」(略称「反対同盟」)においても代表に選出される。なお、戸村が代表に選出されたのは、反対運動開始時に三里塚・芝山住民らに闘争の手ほどきをした富里の反対運動幹部らが戸村と顔なじみであったことや富里の青年行動隊長が戸村と同じクリスチャンのため懇意であったことも関係しているとも、候補者に打診を断られ続けた農民らが話を持ち掛けたところ「つなぎなら」と戸村が承諾したからとも言われる[4][5]

政府と「反対同盟」との衝突がエスカレートしていく中、戸村は代表として革新政党との決別や新左翼諸派の受け入れなどの難しい舵取りを迫られる。一方で、1967年4月28日の成田市議会議員選挙に立候補して30名中3位で当選し、1974年6月にも2期目の当選を果たしている。

1968年頃から、機動隊との衝突で「反対同盟」からの逮捕者やけが人が続出するようになった。戸村自身も1968年2月26日に新左翼学生らと機動隊が初めて大規模に衝突した現場で機動隊員に頭部を警棒で殴られ、大怪我を負って成田赤十字病院に入院した[6][7]。後に戸村はこの時のことを「(警察は)私を殺してもいいと思ったに違いない」と振り返り、「立ちはだかる機動隊を倒さなくては闘争に勝てない。一人でも二人でも倒すのが闘争なのだ」などと過激な主張をするようになる[8]3月3日、病室に見舞いに訪れた友納武人千葉県知事に対し、傷口を見せると「友納さん、よく見てくれ。これが政府のやり方だ。これからは私も変わる」と宣言した。以前から戸村と面識があった友納は愕然とする[9]

1969年11月12日には、空港建設工事に従事するブルドーザーの作業を妨害したとして逮捕されている。

1971年に行われた成田空港予定地の代執行では多くの同盟員と支援者が負傷者したが、その中で反対派の襲撃を受けて機動隊員が死亡する事件(東峰十字路事件)が発生し、これまで同情的であった世論やマスコミが一転し、「反対同盟」は各方面から批判を受けるようになった。その後反対同盟は同盟員の自殺や同盟員の大量逮捕などの逆風に晒されるが、戸村は常に反対運動をリードし続けた。

1972年から1973年にかけて、共産圏の各国を訪問して三里塚闘争を訴え、勲章を授与されている[2]

病で倒れた労組委員長の代役を探していた三菱重工長崎造船労働組合からの要請を受けて[10]、戸村は1974年7月7日投票の参議院議員選挙で「成田空港反対」「世直し一揆」を掲げて全国区から出馬し、戸村を支援する革新系無所属地方議員らが「全国革新議員会議」を設立した。また、小田実などが「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」を結成し、労働運動や反公害運動、婦人運動等と連携して地域毎の「連帯する会」を組織して戸村を支援した[10]。戸村は同選挙で23万票を獲得しつつも、112人中75位で落選する[10]

代執行後、反対同盟は岩山鉄塔を建てて開港を阻んでいたが、その鉄塔が1977年に抜き打ち的に撤去されたため、戸村は「手段を選ばず闘おう」と檄を飛ばした。撤去に抗議する反対派と機動隊が激しく衝突した結果、支援者が死亡する事件(東山事件)が発生し、戸村は代表として強く抗議する。一方、その直後に報復とみられる攻撃で警察官が死亡する事件も発生している(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件[11]

新東京国際空港は1978年3月30日が開港予定日とされるが、その4日前の3月26日成田空港管制塔占拠事件が発生し、当局は開港延期を余儀なくされる。政府が成田新法の制定等の過激派への対処に取り組む一方で、行政その他各本面から反対同盟との話し合いの機会を求める動きが現れた[12]

このころには闘争の主導権を新左翼に取られていた反対同盟が、①反対運動における逮捕者全員の釈放、②開港の延期と二期工事の凍結、③国会審議中の成田新法撤回と機動隊の撤退を前提条件として同年4月17日に発表した。これを受けて日本経済団体連合会代表の桜田武・参議院議員の秦野章・「反対同盟」代表の戸村が会談し、同年5月20日に設定されていた開港予定日を一年先送りすることを条件にその間を「休戦」とすることを財界側が政府に申し入れることで一致した。しかし、財界が政府に申し入れる前の同年5月10日に、戸村が福永健司運輸大臣と会談し、話し合いは平行線に終った。政府側が開港日を譲らなかったことに加えて反対同盟が態度を硬化させたことから、話し合いの試みは絶たれた[13][12]

結局、新東京国際空港開港は再設定されていた予定日である5月20日に実現する。戸村は開港粉砕集会で、「水や電気、交通機関などを止め、あらゆるゲリラ活動を展開し、成田空港を廃港に追い込む」などと宣言した。以降、ジェット燃料輸送列車妨害事件、空港周辺電話ケーブル切断事件、東京航空交通管制ケーブル切断事件、日航ホテル成田・転業農民の関連会社社員寮・大韓航空社員寮・空港付属下水道施設などへの一連の火炎ビン投入事件、東京航空局山田レーダー基地・筑波レーダー基地襲撃事件、東京電力送電塔倒壊事件、浄水場廃油毒物投入事件などゲリラ事件が相次いだ[14]

開港翌年である1979年の春ごろから戸村は糖尿病で通院するようになり、5月には起き上がれなくなり、6月から入院を余儀なくされた。8月に娘から自身が悪性リンパ腫であることを告げられる。9月に意識不明となり入院先の国立がん研究センターに搬送され、一時小康状態を取り戻すが、11月2日に「三里塚芝山連合空港反対同盟委員長」の肩書のまま死去。死の前日には「三里塚闘争は小さな闘争だった」と述懐し、最期に述べた言葉は「デモは出発したか」であったといわれる。享年70歳[5][15][16][17]

明確な継承もないまま求心力を持つ戸村を失った反対同盟は、その後幹部の脱落や分裂を繰り返すことになる[5][17]

人物

キリスト教との関わり

敬虔なクリスチャンであり、名前の一作は旧約聖書に登場するイサクに由来する。

自宅敷地を1891年から当地でキリスト教の布教活動を続けていた「三里塚教会」に提供し、教会の信者らが普請のために募った寄付により、吉村順三設計による木造の教会堂1954年11月25日竣工した。

また、近所の子供を集めて日曜学校を開き、説教の他にも絵や歌を教えたり、近隣の学校から集めた作品や自身の作品を展示するなど、「三里塚教会」を拠点に文化活動をしていた[8]

なお、成田空港問題を巡って戸村と教会の牧師は対立するようになり[18]、戸村が教会に対し土地代の支払いと退去を求めたため、1968年に牧師と教会役員らは戸村らの除名を宣言して信者らと共に教会堂を引き払った。牧師らは新東京国際空港公団からの騒音対策事業費補助金(移転補償)を受け取り、新たに別の教会堂を建てることで布教活動を継続した。日本基督教団はこの教会を認めるスタンスを取っている。

一方、戸村らも別の牧師を招いて教会の活動を再開しており、「三里塚教会」の分裂状態は現在に至るまで継続している。

青年行動隊員らが日本幻野祭の開催を報告しに行ったときは「若者はなぜ快楽主義に走るのか」と憮然としていた[1]

平和主義者からの転換

反対運動開始当初の戸村が平和主義者であったことは、反対派だけでなく当時成田警察署長であった飯高春吉も認めるところであった[8]

しかし、1968年2月26日の新左翼学生と警察の衝突に巻き込まれて負傷したことを契機に、これまで「暴力主義と一線を画すのだ」などと学生らを諫めていた戸村は一転して過激な主張をするようになり、再び新左翼学生らと警察との間で大規模な衝突が起こり多数の負傷者を出した3月10日(→TBS成田事件)にはそれまでのベレー帽のみのスタイルをヘルメットを被った後年よく知られる出で立ちに改め、青年行動隊に「武器をとれ」と檄を飛ばしたとされる[1]

一方、飯高は、3月10日の集会においても和服にベレー帽姿の戸村が「今日はその角材を控えてください、得物をそのシンボルとして決して振り回してもらいたくない」と学生らに呼び掛けており[8]、戸村が公に実力闘争を主張をするようになったのは3月31日の集会からだとしている[19]。また、戸村は入院中に飯高が見舞いに来た際に啖呵を切ったと回想しているが[20]、飯高は実際にはそのようなやり取りがなかったと主張している[21]

反対同盟事務局長であった北原鉱治は、3月10日に頭に包帯を巻いた状態で病院を抜け出してきた戸村が武装した学生らに対し「君たちが手にしたゲバ棒を象徴として使え」と微妙な表現を使って演説したとしている。北原は、戸村がキリスト者として若い学生がケガをするのは忍びないと苦悩していたのだろうと回想している。そして、3月10日当日は北原と北富士忍草母の会事務局長が全学連の部隊に「(空港)公団に向けて前進しよう」「手にした武器を真っ向から振り下ろせ」と"激励"したのだとしている[22]

また、地域ぐるみの生活闘争の指導者であったはずの戸村は、1970年代後半には「三里塚闘争は階級闘争である」と新左翼党派と同様のスピーチをするようになり反対同盟幹部らともあまり話をしなくなったが、元反対同盟員は様々な集会に出かけて演説を行っていた戸村がその場の聴衆に合わせて言葉を選んだのではないかとしている[1]

反対運動のシンボル

反対同盟結成当初は戸村が演壇に立つと「なんだヤツか」と言う者もおり[1]、一部の農民からは「戸村さんの話は難しい」という声があった[23]

しかし、戸村の演説は当初から聴衆の心を揺さぶるものがあった[23]。戸村自身も事前に原稿を用意して演説に臨み、帰路は自分の演説を録音したテープレコーダーを聞いて原稿と照らし合わせるなど、修練を重ねた[1]。そのような真摯な人柄もあり、地元反対派住民だけでなく新左翼党派や支援者らにとっても戸村は三里塚闘争の象徴的存在となった[1]

その他

関連書籍

著書

  • 『野に立つ』 三一新書 1974年
  • 『わが三里塚 風と炎の記録』 田畑書房 1980年

登場書籍

  • 『回想の戸村一作』 鎌田慧 柘植書房 1981年12月 ISBN 978-480680174-0(4-8068-0174-7)
  • 『実存の戸村一作―私の中に生きる 』 日本キリスト教団三里塚教会 れんが書房新社 1999年11月 ISBN-13: 978-4846202279

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、17-22頁
  2. ^ a b 第101回国会 運輸委員会 第4号”. 国会会議録検索システム (1984年4月13日). 2017年9月28日閲覧。
  3. ^ 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、43-44頁
  4. ^ 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、8・9頁。
  5. ^ a b c 鷲田小彌太『あの有名人101人にみる 理想の逝き方』PHP文庫、2012年。
  6. ^ もの書きを目指す人びとへ - 流血の成田空港反対闘争
  7. ^ 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、77-78頁
  8. ^ a b c d 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、107-108頁。
  9. ^ 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、81頁
  10. ^ a b c 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、207-209頁
  11. ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、74頁
  12. ^ a b 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、223-235頁
  13. ^ 3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末
  14. ^ 水道関連事故事例について(平成14年度以前)”. 厚生労働省. 2017年6月2日閲覧。
  15. ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、86頁
  16. ^ じじぃの「人の死にざま_1179_戸村・一作」”. 老兵は黙って去りゆくのみ (2013年6月25日). 2017年9月19日閲覧。
  17. ^ a b 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、226-227頁。
  18. ^ 北原鉱治の回想によれば、空港問題が起きる前からも教会に牧師が派遣されてくるたびに衝突を繰り返していたという。(北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、27頁)
  19. ^ 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、117頁。
  20. ^ 戸村一作『野に立つ』 三一新書 1974年、70-71頁。
  21. ^ 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、83-84頁。
  22. ^ 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、47頁
  23. ^ a b 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、29頁
  24. ^ 尾瀬あきらぼくの村の話 1巻』講談社東京都、1992年、61頁。ISBN 978-4-06-328305-1。"第3話 ベトナム戦争"。