コンテンツにスキップ

「フェニックス (軽巡洋艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Internal link written as an external link
(5人の利用者による、間の9版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| 名称 = フェニックス
|colspan="2"|[[Image:USS Phoenix (CL-46) at anchor, circa in 1939 (NH 68326).jpg|300px|USS Phoenix]]
| 画像 = USS Phoenix (CL-46) at anchor, circa in 1939 (NH 68326).jpg
|-
| 画像幅 = 300px
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 画像説明 =
|-
| 建造所 = [[ニュージャージー州]][[カムデン (ニュージャージー州)|カムデン]]、[[ニューヨーク造船所]]
|起工:
| 運用者 = {{USNAVY}}
| [[1935年]][[4月15日]]
| 計画 =
|-
| 発注 = 1929年2月13日
|進水:
| [[1938]][[313]]
| 起工 = 1935415
| 進水 = 1938年3月13日
|-
| 竣工 =
|就役:
| [[1938年]][[10月3日]]
| 就役 = 1938年10月3日
| 退役 = 1946年7月3日
|-
| 最後 =
|退役:
| [[1946]][[73]]
| 除籍 = 1951127
| 除籍後 = [[1951年]]4月9日、[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|アルゼンチンに売却]]。
|-
| 母港 =
|その後:
| 愛称 =
| [[1951年]]4月9日、アルゼンチンに売却、<br />[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]と改名<br />1982年、喪失
| モットー =
|-
| 建造費 = 11,975,000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](契約時)
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
| 改名 =
|-
| 要目注記 =
| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]:
| 級名 = [[ブルックリン級軽巡洋艦]]
| 10,000トン
| 排水量 = 10,000 [[トン数|トン]]
|-
| 基準排水量 =
|全長:
| 常備排水量 =
| 185m
| 公試排水量 =
|-
| 満載排水量 =
|全幅:
| 総トン数 =
| 18.9m
| 全長 = {{convert|606|ft|m|lk=on|abbr=on}}
|-
|:
| 線長 =
| 垂線間長 =
| 5.9m
| 全幅 = {{convert|62.0|ft|m|abbr=on}}
|-
| 水線幅 =
|機関:
| 深さ =
| 水管罐8基 100,000馬力<br/> 蒸気タービン4基, 4軸推進
| 吃水 = {{convert|19.3|ft|m|abbr=on}}
|-
| 高さ =
|最大速:
| 機関 =
| 33.6[[ノット]]
| 主缶 = 水管罐×8基
|-
| 主機 = [[蒸気タービン]]×4基
|乗員:
| 推進器 = [[スクリュープロペラ]]×4軸推進
| 士官、兵員868名
| 出力 = {{convert|100,000|hp|kW|lk=on|abbr=on}}
|-
| 最大速力 = {{convert|33.6|kn|km/h|lk=on}}
|兵装:
| 巡航速力 =
| 152 mm砲 15門, <br />127 mm砲 8門, <br />50口径機銃 8門
| 航続距離 = <!-- [[カイリ]]/ ノット -->
|-
| 燃料 = <!-- トン -->
|艦載機:
| 乗員 = 士官、兵員868名
| 水上機 4機
| 搭載能力 =
|}
| 兵装 = {{ubl|{{仮リンク|Mk 16 6インチ砲|en|6"/47 caliber gun|label=Mk-16 6インチ三連装速射砲}}×5基|[[Mk 10 5インチ砲|Mk-10 5インチ単装高角砲]]×8基|[[ブローニングM2重機関銃|ブローニング 12.7mm単装機銃]]×8門}}
'''フェニックス''' ('''USS Phoenix, CL-46''') は、[[アメリカ海軍]]の[[ブルックリン級軽巡洋艦]]5番艦。1938年竣工。後に[[アルゼンチン海軍]]に売却され、[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]と改名、[[フォークランド戦争]]で撃沈される。
| 装甲 =
| 搭載艇 =
| 搭載機 = [[SOC (航空機)|SOC シーガル]]×4機
| C4I =
| レーダー =
| ソナー =
| 探索装置 =
| 電子戦 =
| その他 = [[船尾]][[カタパルト]]×2基
| 備考 =
}}
'''フェニックス''' ('''{{lang|en|USS Phoenix, CL-46}}''') は、[[アメリカ海軍]]の[[ブルックリン級軽巡洋艦]]5番艦{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=437}}。艦名は[[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]に因む。

== 概要 ==
'''フェニックス''' (''{{lang|en|USS Phoenix, CL-46}}'') は1938年10月に竣工した。[[太平洋戦争]]開戦時は[[真珠湾]]にいたが、[[真珠湾攻撃]]での被害はなかった{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=003a|ps=空襲時真珠湾艦船碇泊位置(真珠湾攻撃記録)}}{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=374-375|ps=開戦時の海上兵力配備}}。
1942年(昭和17年)初頭より東南アジア方面やインド洋に進出し、船団護衛任務に従事した。

1943年(昭和18年)になると[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]に編入され、上陸部隊護衛や対地砲撃に従事する{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=437}}。1944年(昭和19年)6月中旬、[[ビアク島の戦い|ビアク島攻防戦]]にともなう[[渾作戦]]で日本軍駆逐艦5隻{{Efn|* [[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]](第十六戦隊司令官[[左近允尚正]]少将)
* [[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]
* [[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]
* [[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]
* [[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]
「[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]」は昼間の空襲で沈没していた{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=409-411|ps=第二次渾作戦の中止}}。}}と[[夜戦]]を繰り広げた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=504-507|ps=第二次渾作戦/作戦経過}}。
10月下旬以降の[[フィリピンの戦い_(1944-1945年)|フィリピン攻防戦]]では、第77任務部隊として[[レイテ沖海戦]][[レイテ沖海戦#スリガオ海峡海戦|スリガオ海峡夜戦]]に参加し{{Sfn|Leyte|1971|p=202a|ps=○第七十七任務部隊第三群(近接援護隊)}}、西村艦隊を迎撃した{{Sfn|Leyte|1971|p=100|ps=スリガオ海峡の戦闘/1944年10月24日夜~25日}}{{Efn|遊撃部隊第三部隊(''1YB3H'')のこと。
* 戦艦2隻([[山城 (戦艦)|山城]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]])
* 重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]
* 駆逐艦4隻([[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]){{Sfn|Leyte|1971|p=204|ps=兵力区分/●第一遊撃部隊}}。}}。その後、幾度か[[神風特別攻撃隊]]と交戦した。

[[太平洋戦争]]終結後の1951年(昭和26年)4月に[[アルゼンチン]]に売却され、最終的に'''[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]''' (''{{lang|es|ARA General Belgrano, C-4''}}) と改名された{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=438}}。長らく[[アルゼンチン海軍]]で運用されていたが、[[1982年]](昭和57年)5月2日、[[フォークランド紛争]]で原子力潜水艦[[コンカラー_(原子力潜水艦)|コンカラー]] (''{{lang|en|HMS Conqueror, S48}}'') の魚雷攻撃を受けて沈没した{{Sfn|撃沈戦記|1988|pp=442-444|ps=二本のMk8魚雷}}。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 第二次世界大戦以前 ===
フェニックスは[[ニュージャージー州]][[カムデン (ニュージャージー州)|カムデン]]の[[ニューヨーク造船所]]で1935年4月15日に起工する。1938年3月13日にドロテア・キース・ムーナン夫人の手によって進水。同年10月3日に[[フィラデルフィア海軍造船所]]で{{仮リンク|ジョン・W・ランキン|en|John W. Rankin}}[[大佐]]の指揮下就役した。就役後、フェニックスは慣熟航海で[[トリニダード・トバゴ]]の[[ポートオブスペイン]]まで航海。その後、[[サントス]]、[[ブエノスアイレス]]、[[モンテビデオ]]および[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]を親善訪問。[[フィラデルフィア]]には1939年1月に戻った。その後、フェニックスは[[太平洋]]方面に移動した。
フェニックスは[[ニュージャージー州]][[カムデン (ニュージャージー州)|カムデン]]の[[ニューヨーク造船所]]で1935年[[4月15日]]に起工する<ref>[[#フィニクス起工]] p.2</ref>。1938年(昭和13年)[[3月13日]]にドロテア・キース・ムーナン夫人の手によって進水した。同年10月3日に[[フィラデルフィア海軍造船所]]で{{仮リンク|ジョン・W・ランキン|en|John W. Rankin}}[[大佐]]の指揮下で就役した。就役後、フェニックスは慣熟航海で[[トリニダード・トバゴ]]の[[ポートオブスペイン]]まで航海。その後、[[サントス]]、[[ブエノスアイレス]]、[[モンテビデオ]]および[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]を親善訪問。[[フィラデルフィア]]には1939年(昭和14年)1月に戻った。その後、フェニックスは[[太平洋]]方面に移動した。


===第二次世界大戦===
=== 第二次世界大戦 ===
====真珠湾攻撃 - 1942年前半====
==== 真珠湾攻撃 - 1942年前半 ====
[[File:USS Phoenix (CL-46) steams down the channel at Pearl Harbor on 7 December 1941 (NH 50766).jpg|thumb|left|真珠湾攻撃で破壊された[[戦艦]][[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]および[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]の横を通過するフェニックス]]
[[File:USS Phoenix (CL-46) steams down the channel at Pearl Harbor on 7 December 1941 (NH 50766).jpg|thumb|left|真珠湾攻撃で破壊された[[戦艦]][[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]および[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]の横を通過するフェニックス]]
1941年12月7日の運命の朝、フェニックスは[[真珠湾]]内[[フォード島]]の東側に、[[病院船]][[:en:USS Solace (AH-5)|ソレース]] (''USS Solace, AH-5'') の近くに停泊していた。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見。間もなく[[真珠湾攻撃|日本機の攻撃]]が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。幸い、フェニックスには攻撃による被害もなく、そのの午後に、同じく真珠湾内にいた[[セントルイス (軽巡洋艦)|セントルイス]] (''USS St. Louis, CL-49'') 、[[デトロイト (軽巡洋艦)|デトロイト]] (''USS Detroit, CL-8'') および数隻の[[駆逐艦]]らとともに臨時の任務部隊編成し、[[南雲忠一]][[将]]率いる[[機動部隊]]の索敵に出撃したが、振りに終わった。
1941年[[12月7日]](日本時間[[12月8日]])、フェニックスは[[真珠湾]]内[[フォード島]]の東側に、[[病院船]]{{仮リンク|ソレース (病院船)|en|USS Solace (AH-5)|label=ソレース}} (''{{lang|en|USS Solace, AH-5}}'') の近くに停泊していた{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=003a|ps=空襲時真珠湾艦船碇泊位置(真珠湾攻撃記録)}}。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見する。間もなく[[真珠湾攻撃|日本機の攻撃]]が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。日本側は[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将)空母[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]の[[九九式上爆撃機]]がフェニックス(目標「リ」)攻撃{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=357}}250kg爆弾2発が命して中破したと判定している{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=004a|ps=付図第四 機動部隊戦果判定図(第一航艦隊戦闘詳報 図面第一号)}}。だがフェニックスは健在であった{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=359}}


その日の午後には、同じく真珠湾内にいた軽巡洋艦[[セントルイス (軽巡洋艦)|セントルイス]] (''{{lang|en|USS St. Louis, CL-49}}'') と[[デトロイト (軽巡洋艦)|デトロイト]] (''{{lang|en|USS Detroit, CL-8}}'') {{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=374-375|ps=開戦時の海上兵力配備}}および数隻の[[駆逐艦]]、たまたまハワイ近海で訓練中だった重巡洋艦[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] (''{{lang|en|USS Minneapolis, CA-36}}'') と共に臨時の[[タスクフォース|任務部隊]]を編成し、[[第一航空艦隊]]司令長官[[南雲忠一]][[中将]]が率いる[[機動部隊|南雲機動部隊]]の索敵に出撃した{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=392}}。すると[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督の空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]偵察機([[SBD (航空機)|SBDドーントレス]])が[[オアフ島]]南西で「敵艦隊」を発見し、ただちに攻撃隊が発進した{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=393}}。フェニックス以下の[[タスク編成|任務部隊]]を日本艦隊と誤認したのである{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=392}}。フォード島にむかったエンタープライズの[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]] 6機のうち、4機は味方の対空砲火で撃墜された{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=393}}。
真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスは[[サンフランシスコ]]から[[メルボルン]]行きの輸送船団を護衛。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定された[[ジャワ島]]方面に変更となった。1942年2月、フェニックスはジャワ島に[[P-40 (航空機)|カーチス P-40 戦闘機]]を緊急輸送する[[水上機母艦]][[ラングレー (CV-1)|ラングレー]] (''USS Langley, AV-3'') とイギリス輸送船シーウィッチ (''HMS Seawitch'') を含むMS-5船団の護衛を行った。船団自体は[[セイロン島]]行きであり、フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦[[:en:HMS Enterprise (D52)|エンタープライズ]] (''HMS Enterprise, D52'') と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた<ref>永井、木俣, 118ページ</ref>。ところが、日本軍のジャワ島上陸が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した。しかし、ラングレーは2月27日に日本機の爆撃を受けて損傷し自沈処分となり、シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されたが、攻撃を免れた。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えて[[インド洋]]で哨戒し、[[ムンバイ]]行きの輸送船団の護衛に従事した。


真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスは[[サンフランシスコ]]から[[メルボルン]]行きの輸送船団を護衛する。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定された[[ジャワ島]]方面に変更となった。
====1942年後半 - 1944年====
艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を第44任務部隊の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦[[:en:USS Helm (DD-388)|ヘルム]] (''USS Helm, DD-388'') 、[[:en:USS Mugford (DD-389)|マグフォード]] (''USS Mugford, DD-389'') および[[:en:USS Patterson (DD-392)|パターソン]] (''USS Patterson, DD-392'') とともに{{仮リンク|リリプット作戦|en|Operation Lilliput}} に参加し、[[オーストラリア海軍|オーストラリア]]軽巡洋艦[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]] (''HMAS Hobart'') と付属の駆逐艦と交替で[[ニューギニア]]南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスは[[ブリスベン]]を経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、[[オーバーホール]]に入った。オーバーホール後、フェニックスは[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を[[カサブランカ]]まで乗せた後、[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]([[トーマス・C・キンケイド]]中将)に配備された。


1942年(昭和19年)2月中旬、フェニックスはジャワ島に[[P-40 (航空機)|カーチス P-40 戦闘機]]を緊急輸送する[[水上機母艦]][[ラングレー (CV-1)|ラングレー]] (''{{lang|en|USS Langley, AV-3}}'') とイギリス輸送船{{仮リンク|シーウィッチ (輸送船)|en|MS Sea Witch (1940)|label=シーウィッチ}} (''{{lang|en|HMS Seawitch}}'') を含むMS-5船団の護衛を行った{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=20}}。船団自体は[[オーストラリア]]の[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリーマントル]]を[[2月22日]]に出港し、[[セイロン島]]に向かっていた{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=21}}。フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦{{仮リンク|エンタープライズ (D52)|en|HMS Enterprise (D52)|label=エンタープライズ}} (''{{lang|en|HMS Enterprise, D52}}'') と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた<ref>永井、木俣, 118ページ</ref>。ところが、日本軍の[[蘭印作戦|ジャワ島上陸]]が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=21}}。[[2月27日]]、ラングレーは駆逐艦{{仮リンク|ホイップル (DD-217)|en|USS Whipple (DD-217)|label=ホイップル}}(''{{lang|en|USS Whipple,DD- 217/AG-117}}'')および[[エドサル (駆逐艦)|エドサル]](''{{lang|en|USS Edsall, DD-219}}'')と共にジャワ島にむけ航行中、{{仮リンク|チラチャップ|en|Cilacap Regency|id|Kabupaten Cilacap|label=}}沖合で日本海軍の[[一式陸上攻撃機]]の爆撃を受けて損傷し、ホイップルに雷撃処分された{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=25}}。シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されており、攻撃を免れた{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=26}}。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えて[[インド洋]]で哨戒し、[[ムンバイ]]行きの輸送船団の護衛に従事した([[セイロン沖海戦]])。
12月26日、フェニックスは[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]] (''USS Nashville, CL-43'') とともに[[ニューブリテン島]][[グロスター岬]]にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した後、上陸部隊を上陸させた([[グロスター岬の戦い]])。1944年1月25日から26日の夜には[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]とアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からの[[アドミラルティ諸島の戦い]]に参加し、[[ロスネグロス島]]に上陸して威力偵察を行う[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、南西太平洋方面総司令官[[ダグラス・マッカーサー]][[大将]]はフェニックス艦内から戦いを観戦していた。


==== 1942年後半 - 1944年 ====
3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよびオーストラリア[[重巡洋艦]][[シュロップシャー (重巡洋艦)|シュロップシャー]] (''HMAS Shropshire'') とともに[[アドミラルティ諸島]]内のハウエイ島に対して[[艦砲射撃]]を行った。この島にある日本軍の大砲は、[[マヌス島]]に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。
艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を{{仮リンク|第44任務部隊|en|Task_Force_44}}の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦{{仮リンク|ヘルム (駆逐艦)|en|USS Helm (DD-388)|label=ヘルム}} (''{{lang|en|USS Helm, DD-388}}'') 、{{仮リンク|マグフォード (DD-389)|en|USS Mugford (DD-389)|label=マグフォード}} (''{{lang|en|USS Mugford, DD-389}}'') および{{仮リンク|パターソン (DD-392)|en|USS Patterson (DD-392)|label=パターソン}} (''{{lang|en|USS Patterson, DD-392}}'') とともに{{仮リンク|リリプット作戦|en|Operation Lilliput}} に参加し、[[オーストラリア海軍|豪州海軍]]の軽巡洋艦[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]] (''{{lang|en|HMAS Hobart}}'') および付属の駆逐艦と交替で[[ニューギニア島]]南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスは[[ブリスベン]]を経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、[[オーバーホール]]に入った。オーバーホール後、フェニックスは[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を[[カサブランカ]]まで乗せた。つづいて[[ダグラス・マッカーサー]][[大将]]の指揮下で行動する[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]([[トーマス・C・キンケイド]]中将){{Sfn|マッカーサー|2003|p=144}}に配備された。連合軍は、とりあえず[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]を攻略するか孤立させる方向で進撃した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=153|ps=(1943年連合軍の攻勢)}}。


12月26日、フェニックスは姉妹艦[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]] (''{{lang|en|USS Nashville, CL-43}}'') とともに[[ニューブリテン島]]西端の[[グロスター岬]]にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した。このあと連合軍がグロスター岬上陸に上陸した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=165}}([[グロスター岬の戦い]]){{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=247-248|ps=ラバウルの孤立と連合軍の新攻勢}}。[[ダンピア海峡]]を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍は[[パプアニューギニア]]経由で[[フィリピン]]を目指した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=179|ps=(1944年の連合軍攻勢計画)}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=628a-629|ps=三 マッカーサーのニューギニア北岸西進計画}}。
4月22日からの[[ホーランジアの戦い]]でアメリカ軍は、約200隻の艦艇を以って上陸を敢行した。フェニックスは{{仮リンク|フルボント湾|en|Yos Sudarso Bay}}に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。4月29日から30日の夜にかけては[[ワクデ島]]とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。
[[ファイル:Vice_Admiral_Kinkaid_and_General_MacArthur_on_board_USS_Phoenix_(CL-46),_28_February_1944_(SC_188839).jpg|サムネイル|艦上のマッカーサー大将とキンケイド中将1944年2月28日]]
1944年1月25日から26日の夜にはパプアニューギニアの[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]とアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からの[[アドミラルティ諸島の戦い]]に参加し{{Sfn|マッカーサー|2003|p=185|ps=(1944年2月、連合軍のアドミラルティー諸島上陸作戦)}}、[[ロスネグロス島]]に上陸して威力偵察を行う[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、フェニックスはキンケイド提督の旗艦であった{{Sfn|マッカーサー|2003|p=186}}。南西太平洋方面総司令官マッカーサー大将は「作戦がきわどい性質のもので、情勢により即座に決断を下す必要」を感じたので、フェニックスに乗艦して戦いを観戦していた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=186}}。


ラバウルを孤立させた連合軍は、パプアニューギニアの北海岸を西進した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=187}}。3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよび豪州海軍の重巡洋艦[[シュロップシャー (重巡洋艦)|シュロップシャー]] (''{{lang|en|HMAS Shropshire}}'') とともに[[アドミラルティ諸島]]内のハウエイ島に対して[[艦砲射撃]]を行った。この島にある日本軍の大砲は、[[マヌス島]]に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。
====ビアク島====
引き続き、[[ビアク島]]と[[チェンデラワシ湾]]への攻勢が始まった。マッカーサー大将はこの方面に[[爆撃機|重爆撃機]]の基地を建設することを計画していた。5月25日、フェニックスはナッシュビルおよび[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]] (''USS Boise, CL-47'') と共にフルボント湾を出撃し、2日後に行われた[[ビアク島の戦い|ビアク島上陸]]を支援した。日本軍の抵抗は熾烈で、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。


連合軍はニューギニア島北岸での作戦を続行した{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=374|ps=連合軍の跳躍}}。4月22日からの[[ホーランジアの戦い]]で{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=385|ps=連合軍ホランジア、アイタペに上陸}}、アメリカ軍は大部隊で上陸作戦を敢行した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=190}}。フェニックスは{{仮リンク|フルボント湾|en|Yos Sudarso Bay}}に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。ホランジアにいた[[第九艦隊 (日本海軍)|第九艦隊]]は壊滅した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=386-387|ps=海軍部隊の転進}}。4月29日から30日の夜にかけては[[パプア州]][[ワクデ島]]とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。5月17日、連合軍はワクデ地区に上陸し{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=310}}、2日後にワクデ守備隊は玉砕した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=308-313|ps=ニューギニア方面の概況}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=403-404|ps=七 連合軍、ワクデ方面に上陸}}。
6月4日、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本の戦闘爆撃機8機の攻撃を受けた。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。翌5日の夜にもビアク島近海で再び航空攻撃を受けたが、対空砲火を打ち上げて[[雷撃機]]を追い払った。


==== ビアク島 ====
6月8日から9日の夜にかけて、フェニックスは{{仮リンク|ヴィクター・クラッチレー|en|Victor Crutchley}}[[少将]]([[オーストラリア海軍]])率いる第74任務部隊の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、[[渾作戦#第二次渾作戦|第二次渾作戦]]でビアク島に向けて進撃中の、[[左近允尚正]]少将率いる駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]が任務部隊に迫りつつあった。しかし、任務部隊を発見した左近允少将は魚雷を発射しつつ高速で退却。任務部隊は3時間追撃を行ったものの追いつけず、海戦を断念した。
引き続き、[[ビアク島]]と[[チェンデラワシ湾]]への攻勢が始まった{{Sfn|マッカーサー|2003|p=197|ps=1944年4月以降の連合軍の西方進撃作戦}}。マッカーサー大将はこの方面に[[爆撃機|重爆撃機]]の基地を建設することを計画していた{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=312}}。日本軍もビアク島に飛行場を建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=311}}。[[5月25日]]、フェニックスはナッシュビルおよび軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]] (''{{lang|en|USS Boise, CL-47}}'') と共にフルボント湾を出撃、[[5月27日|27日]]から始まった[[ビアク島の戦い|ビアク島上陸]]を支援した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=478-481|ps=経過概要と聯合艦隊等の作戦指導}}。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊(司令官[[千田貞敏]]少将)と、日本陸軍の歩兵第222連隊(連隊長[[葛目直幸]]少将)が配備されていた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=475-476|ps=ビアク島所在部隊の状況}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=387-389|ps=パラオ、サルミ、ビアク地区の防備強化}}。日本軍の抵抗は熾烈で{{Sfn|マッカーサー|2003|p=198}}、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。


{{main|渾作戦}}
フェニックスはボイシおよび10隻の駆逐艦と共に[[ゼーアドラー湾]]に帰投。整備の後、7月2日の{{仮リンク|ヌムフォア島|en|Noemfoor Island}}を艦砲射撃し、上陸を支援した。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からの[[モロタイ島の戦い]]では、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]] (''HMAS Australia, D84'') と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のため[[ハルマヘラ島]]を砲撃した。


この方面の日本海軍水上部隊を指揮していたのは、[[南西方面艦隊]]隷下の南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官[[左近允尚正]]少将であった{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=481-484|ps=渾作戦発令の経緯}}。南西方面艦隊や[[南遣艦隊#第四南遣艦隊|第四南遣艦隊]]{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=483}}、さらに連合艦隊の意見具申により{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=313}}、[[大本営]]は[[南方軍_(日本軍)|南方軍]]の[[海上機動旅団#海上機動第2旅団|海上機動第二旅団]]を海軍艦艇で輸送することに決定した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=405-406|ps=海上機動第二旅団のビアク派遣決定}}。これが'''渾作戦'''である{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=406-407|ps=渾作戦の発令}}{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=321-329|ps=「渾作戦」― 敵機動部隊の誘出はかる}}。本作戦に[[第2方面軍 (日本軍)|第二方面軍]]司令官[[阿南惟幾]]陸軍大将も大きな期待を寄せていた。
====フィリピン====
10月20日の[[レイテ島の戦い|レイテ島上陸]]から、アメリカ軍の[[フィリピン]]奪還戦が始まった。フェニックスは戦いの初日、上陸前の砲撃を大いに行って日本軍の防御拠点を破壊し、上陸した{{仮リンク|第19連隊|en|19th Infantry Regiment (United States)}}の進撃を容易にした。


日本軍が増援部隊の派遣を検討する中、ビアク島では激戦が続いていた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=484-485|ps=ビアク方面戦況概要}}。日本陸海軍航空部隊は、[[ニューギニア島]]の[[西パプア州]][[ソロン (インドネシア)|ソロン]]や[[:en:Babo Airport|バボ]]を拠点に、ビアク島方面の連合軍に空襲を敢行した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=485-490|ps=航空部隊の作戦}}。
フェニックスは、[[レイテ沖海戦]]の戦いの一つであるスリガオ海峡夜戦を戦った。フェニックスはボイシ、シュロップシャーと共に{{仮リンク|ラッセル・S・バーキー|en|Russell S. Berkey}}少将の第77.3任務群に属し、[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]少将の第77.2任務群と[[スリガオ海峡]]の警戒にあたった。やがて、[[西村祥治]]中将の第一遊撃部隊第三部隊がやってきた。フェニックスは6インチ砲を発射し、そのうちの4発が命中したと判断された。相手は[[戦艦]][[山城 (戦艦)|山城]]だと推定された。この夜戦で日本側は山城、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]および3隻の駆逐艦を海戦で失い、重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]は翌日に空母艦載機の攻撃で沈没。こうして、西村中将の部隊は退却した時雨1隻を残して全滅した。
[[6月4日]]、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本軍攻撃隊([[零式艦上戦闘機|零戦]]19、[[一式戦闘機]] 12、[[彗星 (航空機)|彗星]] 6)に攻撃された{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=488}}。日本側は[[ブルックリン級軽巡洋艦|ホノルル型軽巡]]2隻、[[オマハ級軽巡洋艦|オマハ型軽巡]]2隻、駆逐艦8隻(実際は乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、[[F6F (航空機)|グラマン]]2撃墜、零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還を報じた{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=488}}。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビルが至近弾で損傷した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=488}}。
翌[[6月5日]]の夜にもビアク島近海で[[一式陸上攻撃機]]3機(爆装1、雷装3)の航空攻撃を受けたが{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=488}}、対空砲火を打ち上げて追い払った。陸攻隊は戦果を過大報告したが、1機が被弾小破したのみで全機帰投した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=488}}。


フェニックスが僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍の艦艇多数{{Efn|間接護衛隊([[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]])、第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、第十六戦隊([[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]])など{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=493a-495|ps=渾部隊の作戦計画とダバオ集結}}。}}を投入した第一次渾作戦が実施されていた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=490-493|ps=経過概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導}}。第一次渾作戦部隊は[[6月2日]]夕刻に[[ミンダナオ島]][[ダバオ]]を出発し、ビアク島にむかった{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=408a-409|ps=第一次渾作戦の中止}}。
フェニックスは引き続き[[レイテ湾]]の哨戒を行った。11月1日朝、10機の雷撃機が侵入してフェニックスとその周辺の艦船を攻撃した。9時45分、フェニックスは対空砲火を打ち上げたが、その5分後に駆逐艦[[:en:USS Claxton (DD-571)|クラクストン]] (''USS Claxton, DD-571'') は[[神風特別攻撃隊|神風]]の突入を受けた。フェニックスの5インチ砲は別の神風に向けられたが、[[:en:USS Ammen (DD-527)|アムメン]] (''USS Ammen, DD-527'') への突入を許してしまった。9時57分には、雷撃機がフェニックスに向けて魚雷を落下させんとしたが、フェニックスはこれを回避で雷撃機を撃墜した。しかし、雷撃機に気を取られている間に、[[:en:USS Killen (DD-593)|キレン]] (''USS Killen, DD-593'') に神風が突入して損害を与えた。2時間半後、午前中以上の神風の大群が押し寄せ、13時40分に[[アブナー・リード (DD-526)|アブナー・リード]] (''USS Abner Read, DD-526'') に1機が突入してアブナー・リードは炎上し沈没。他の神風は別の駆逐艦に向かっていったが、フェニックスの対空砲火はこれを撃墜した。
だが翌[[6月3日|3日]]、[[B-24 (航空機)|B-24]] 2機に触接された上に「敵有力部隊ニューギニヤ北西部行動中」という理由で中止された{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=326}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=496-498|ps=第一次渾作戦経過}}。扶桑と第五戦隊はダバオに引返し{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=281}}、輸送部隊は[[ラジャ・アンパット諸島]]の[[ワイゲオ島]]を経由して[[6月4日]]夜、ソロンに入泊した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=493b}}{{Sfn|駆逐艦戦隊|1994|pp=230-233|ps=囮をかねたビアク島支援}}。日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦約10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=408b-409}}、実際はフェニックスを含む巡洋艦部隊であった{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=497-498}}。


[[6月8日]]から[[6月9日]]の夜にかけて、フェニックスは{{仮リンク|ヴィクター・クラッチレー|en|Victor Crutchley}}[[少将]]([[オーストラリア海軍]])率いる第74任務部隊の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、[[渾作戦#第二次渾作戦|第二次渾作戦]]でビアク島に向けて進撃中の、左近允尚正少将(旗艦「敷波」)率いる駆逐艦5隻(輸送隊〈[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]〉、警戒隊〈[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]〉)が任務部隊に迫りつつあった{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=504-507|ps=第二次渾作戦/作戦経過}}。左近允少将は重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]や軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]を[[ハルマヘラ島]]バチャン泊地に退避させ{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=505}}、駆逐艦6隻のみで[[6月8日|8日]]早朝にソロンを出撃、ビアク島を目指していた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=501-504|ps=第二次渾作戦/作戦経過の概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導}}。だが、昼間に[[P-38 (航空機)|P-38]]と[[B-25 (航空機)|B-25]]の[[反跳爆撃]]で駆逐艦白露が小破、駆逐艦[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]が沈没し{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=375-376}}{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=283}}、第27駆逐隊司令[[白浜政七]]大佐が戦死した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=409-411|ps=第二次渾作戦の中止}}。それでもビアク島揚陸の決意を変えず、進撃を続けていたのである{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=327}}。
フェニックスは12月5日と10日にも神風攻撃を受けたが、5日の攻撃は2機を撃墜して事なきを得、10日の攻撃は40ミリ機関砲で撃墜し、フェニックスから100メートル離れた海中に墜落していった。12月13日、[[ミンドロ島の戦い]]のため上陸部隊を護衛して[[ミンダナオ海]]を航行中だったナッシュビルは神風攻撃で大損害を受けた。2日後の12月15日、フェニックスは[[ミンドロ島]]上陸部隊への火力支援の傍ら、5インチ砲で日本機を追い払っていた。ミンドロ島の確保は、[[南シナ海]]の日本船の航路を脅かし、[[ルソン島の戦い]]を支援する下地を与えた。


第74任務部隊(重巡[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]]、軽巡フェニックス、軽巡ボイシ、駆逐艦14隻)は[[夜戦]]で日本軍輸送部隊(駆逐艦5隻)を迎え撃った{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=506}}。しかしアメリカ艦隊(日本側は戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦8と認識){{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=327}}を発見した輸送部隊(駆逐艦5隻)は、魚雷を発射しつつ高速で退却する{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=506}}。圧倒的優勢の第74任務部隊は[[レーダー]]で砲撃をおこないつつ追撃したが{{Sfn|駆逐艦戦隊|1994|pp=249-251|ps=敵のレーダー射撃に苦戦}}、逃げ切られた{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=284-285}}。西野(時雨駆逐艦長)は、輸送部隊の最後尾にいた時雨に敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=237-239|ps=レーダー射撃からの逃走}}。時雨は後部砲塔で反撃し{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|p=239}}、敵巡洋艦に命中弾5斉射を認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=507}}。
1945年に入り、[[リンガエン湾]]に向かう上陸部隊の護衛を行っていたフェニックスは、[[シキホル島]]近海で潜航中の潜水艦([[特殊潜航艇]])の司令塔を発見した。潜水艦は魚雷を2本発射してきたがフェニックスは魚雷を回避し、逆に潜水艦に体当たりしてこれを始末した。2月13日から28日にかけては、マッカーサー[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]の「故地」[[コレヒドール島]]と[[バターン半島]]の奪還を支援。一息入れた後、6月29日から7月7日までは[[ボルネオの戦い]]の一つである{{仮リンク|バリクパパンの戦い|en|Battle of Balikpapan (1945)}}に先駆けて[[機雷]]除去作戦を支援した。この方面の日本軍の抵抗は大きく、機雷と防御砲火により11隻の[[掃海艇]]を撃沈または損傷させた。フェニックスは火力支援で防御砲火を沈黙させ、部隊を上陸させた。

時雨などを取り逃がしたフェニックスと僚艦は、[[ゼーアドラー湾]]に帰投した。日本海軍は[[大和型戦艦]]の投入を決断し、第三次渾作戦を開始した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=508}}。[[ハルマヘラ島]]バチャン泊地に重量艦([[大和 (戦艦)|大和]]、[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]])を含む渾作戦部隊が集結した{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=328-329}}。だが[[サイパン島]]の[[サイパンの戦い|情勢が急変]]し{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=337-339}}、6月13日をもって第三次渾作戦は中止された{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=524-527|ps=米軍マリアナ来攻直前におけるわが軍の状況/経過概要}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=411-413|ps=第三次渾作戦もついに中止}}。さらに[[マリアナ沖海戦]]が連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=630a|ps=ワクデ及びサルミ並びにビアク上陸作戦}}。

一息ついたフェニックス達は整備をおこなった後、7月2日に{{仮リンク|ヌムフォア島|en|Noemfoor Island}}を艦砲射撃し、上陸を支援した{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=433-434|ps=ヌンホル、サンサポールの失陥}}。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からの[[モロタイ島の戦い]]では{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=438-439|ps=連合軍のモロタイ上陸}}{{Sfn|マッカーサー|2003|p=222}}、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (''{{lang|en|HMAS Australia, D84}}'') と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のため[[ハルマヘラ島]]を砲撃した。

==== フィリピン ====
[[10月17日]]のレイテ湾[[スルアン島]]上陸、つづいて[[10月20日|20日]]の[[レイテ島]][[レイテ島の戦い|上陸]]から、アメリカ軍の[[フィリピンの戦い_(1944-1945年)|フィリピン奪還戦]]が始まった{{Sfn|マッカーサー|2003|p=260|ps=(1944年10月、連合軍のレイテ上陸作戦)}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=377|ps=連合軍レイテに上陸}}。フェニックスは、第77任務部隊(指揮官、第七艦隊司令長官[[トーマス・C・キンケイド|キンケイド]]中将)に所属し{{Sfn|Leyte|1971|p=202b|ps=兵力区分●第七十七任務部隊(支援部隊)}}{{Sfn|Leyte|1971|pp=37-40|ps=第七艦隊のキンケード中将}}、巡洋艦4隻(フェニックス、ボイシ、シュロップシャー、オーストラリア)と駆逐艦部隊で第77任務部隊第3群を編成しており、{{仮リンク|ラッセル・S・バーキー|en|Russell S. Berkey}}少将の旗艦であった{{Sfn|Leyte|1971|p=202a|ps=○第七十七任務部隊第三群(近接援護隊)}}。第77任務部隊にはこのほかに、[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]少将の戦艦部隊(第77任務部隊第3群){{Sfn|Leyte|1971|p=202c|ps=○第七十七任務部隊第二群(火力支援、砲撃群)}}、[[トーマス・スプレイグ|トーマス・L・スプレイグ]]少将の護衛空母部隊(第77任務部隊第4群){{Sfn|Leyte|1971|pp=202d-203|ps=○第七十七任務部隊第四群}}がいた。マッカーサー大将はナッシュビルを旗艦としていた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=261}}。フェニックスは戦いの初日、上陸前の砲撃を大いに行って日本軍の防御拠点を破壊し、上陸した{{仮リンク|第19連隊|en|19th Infantry Regiment (United States)}}の進撃を容易にした。第77.3任務部隊では作戦中にオーストラリアが空襲で損傷し、前線を離脱した{{Sfn|Leyte|1971|p=47}}。

[[10月24日]]昼間、ハルゼー提督が指揮する[[タスク編成|任務部隊]]のうち、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]と空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]](''{{lang|en|USS Franklin, CV-13}}'')の攻撃隊は[[スールー海]]を東進中の第一遊撃部隊第三部隊(通称'''西村艦隊'''もしくは'''西村部隊''')を攻撃し、戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]と駆逐艦時雨に若干の損害を与えた{{Sfn|Leyte|1971|p=65}}{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|p=243}}。キンケイド提督は、西村艦隊と後続の第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)がスリガオ海峡に向かいつつあると判断した{{Sfn|Leyte|1971|p=65}}。第38任務部隊の空母群は[[第二艦隊 (日本海軍)|第一遊撃部隊]](通称「[[栗田健男|栗田艦隊]]」)に集中攻撃を加えており、第77任務部隊は独力で西村艦隊と志摩艦隊の進撃を阻止せねばならなかった{{Sfn|Leyte|1971|p=65}}。

[[10月24日]]深夜から[[10月25日|25日]]夜明けにかけて、第77任務部隊は[[レイテ沖海戦]]の戦いの一つである[[レイテ沖海戦#スリガオ海峡海戦|スリガオ海峡夜戦]]を戦った{{Sfn|Leyte|1971|p=100|ps=スリガオ海峡の戦闘/1944年10月24日夜~25日}}。第77任務部隊の戦艦部隊と巡洋艦部隊は[[スリガオ海峡]]の警戒に従事し{{Sfn|マッカーサー|2003|p=278}}、[[丁字戦法]]で西村艦隊を迎撃する{{Sfn|Leyte|1971|pp=101-102|ps=手ぐすねひく米国艦隊}}。連合軍駆逐艦部隊の雷撃で4隻(扶桑、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]])が沈むか戦闘不能になったので{{Sfn|Leyte|1971|pp=105-112|ps=米水雷戦隊の活躍}}、スリガオ海峡を北上してきたのは戦艦[[山城 (戦艦)|山城]](第二戦隊司令官[[西村祥治]]中将旗艦)、重巡[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、駆逐艦時雨にすぎなかった。第77任務部隊は丁字戦法で日本艦隊の残存部隊に集中砲火を浴びせた{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=246-247}}。フェニックスは6インチ砲を発射し、そのうちの4発が命中したと判断された。相手は山城だと推定された。この砲雷戦で山城が沈没し、西村提督は戦死した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=278}}。連合軍の駆逐艦[[アルバート・W・グラント (駆逐艦)|アルバート・W・グラント]] (''{{lang|en|USS Albert W. Grant, DD-649}}'') が味方巡洋艦の15㎝砲弾多数を被弾して大破([[同士討ち]]){{Sfn|Leyte|1971|p=124}}、最上と時雨は損傷しつつも反転して退却した{{Efn|最上は第77任務部隊の砲撃で大破したあと、[[第五艦隊 (日本海軍)|第二遊撃部隊]]([[志摩清英]]中将)の重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]]と衝突したが、スリガオ海峡からの退避に成功した{{Sfn|Leyte|1971|pp=116-117|ps=奮戦つづける最上}}。だが日中になり空母艦載機の雷撃で航行不能となり、志摩艦隊の駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]が雷撃処分した{{Sfn|Leyte|1971|pp=116-117|ps=奮戦つづける最上}}。}}。
第77任務部隊の巡洋艦や駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた{{Sfn|Leyte|1971|p=117a|ps=最後まで砲撃した「朝雲」}}。

時雨に逃げられたフェニックスは、引き続き[[レイテ湾]]の哨戒を行った。11月1日朝、10機の雷撃機が侵入してフェニックスとその周辺の艦船を攻撃した。9時45分、フェニックスは対空砲火を打ち上げたが、その5分後に駆逐艦{{仮リンク|クラクストン (DD-571)|en|USS Claxton (DD-571)|label=クラクストン}} (''{{lang|en|USS Claxton, DD-571}}'') は[[神風特別攻撃隊|神風]]の突入を受けた。フェニックスの5インチ砲は別の神風に向けられたが、駆逐艦{{仮リンク|アムメン (DD-527)|en|USS Ammen (DD-527)|label=アムメン}} (''{{lang|en|USS Ammen, DD-527}}'') への突入を許してしまった。9時57分には、雷撃機がフェニックスに向けて魚雷を落下させんとしたが、フェニックスはこれを回避で雷撃機を撃墜した。しかし、雷撃機に気を取られている間に、駆逐艦{{仮リンク|キレン (駆逐艦)|en|USS Killen (DD-593)|label=キレン}} (''{{lang|en|USS Killen, DD-593}}'') に神風が突入して損害を与えた。2時間半後、午前中以上の神風の大群が押し寄せ、13時40分に駆逐艦[[アブナー・リード (DD-526)|アブナー・リード]] (''{{lang|en|USS Abner Read, DD-526}}'') に1機が突入してアブナー・リードは炎上し沈没。他の神風は別の駆逐艦に向かっていったが、フェニックスの対空砲火はこれを撃墜した。
[[ファイル:The_gun_crews_of_a_Navy_cruiser_covering_American_landing_on_the_island_of_Mindoro,_December_15,_1944,_scan_the_skies..._-_NARA_-_520615.tif|サムネイル|ミンドロ島の戦いでの、対空要員たち(1944年12月15日)]]
フェニックスは12月5日と10日にも神風攻撃を受けたが、5日の攻撃は2機を撃墜して事なきを得、10日の攻撃は40ミリ機関砲で撃墜し、フェニックスから100メートル離れた海中に墜落していった。12月13日、[[ミンドロ島の戦い]]のため上陸部隊を護衛して[[ミンダナオ海]]を航行中だったナッシュビルは神風攻撃で大損害を受けた。2日後の12月15日、フェニックスは[[ミンドロ島]]上陸部隊への火力支援の傍ら、5インチ砲で日本機を追い払っていた(ミンドロ島の戦い、[[礼号作戦]]){{Sfn|戦史叢書54|1972|p=445|ps=米軍レイテ、ミンドロに上陸}}。ミンドロ島の確保と飛行場建設は、[[南シナ海]]の日本船の航路を脅かし、[[ルソン島の戦い]]を支援する下地を与えた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=308}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=456-459|ps=ミンドロ島上陸と禮号作戦}}。

1945年(昭和20年)初頭、[[ルソン島]][[リンガエン湾]]に向かう上陸部隊{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=459-460|ps=連合軍、リンガエン湾に進出}}の護衛を行っていたフェニックスは、[[シキホル島]]近海で潜航中の潜水艦([[特殊潜航艇]])の司令塔を発見した。マッカーサー元帥は姉妹艦ボイシに乗艦していた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=313}}。マッカーサーによれば、雷撃を回避したあと護衛の駆逐艦が爆雷を投下し、浮上してきた日本軍の豆潜水艦数隻を駆逐艦が体当たりして沈めたという{{Sfn|マッカーサー|2003|p=314}}。フェニックスは魚雷2本を回避し、逆に潜水艦に体当たりしてこれを始末したと主張している。日本側の記録によれば、特殊潜航艇[[甲標的]]を運用していたのは[[セブ島]]の第三十三特別根拠地隊(司令官[[原田覚]]少将)であった{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=283-284|ps=セブ基地特殊潜航艇の作戦}}。甲標的部隊側は、1月3日の出撃で駆逐艦1隻撃沈と衝突事故で輸送船2隻沈没、1月5日の出撃で駆逐艦と艦種不明各1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈と記録している{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=283-284|ps=セブ基地特殊潜航艇の作戦}}。

2月13日から28日にかけては{{Sfn|マッカーサー|2003|p=335}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=528-532|ps=六 マニラ湾口の戦闘}}、マッカーサー元帥の「故地」[[コレヒドール島]]と[[バターン半島]]の奪還を支援する。ルソン島を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はフィリピンからインドネシア方面の掃討作戦をおこなう{{Sfn|マッカーサー|2003|p=346|ps=(1945年前半、フィリピン掃討作戦)}}。一息入れた後、6月29日から7月7日までは[[ボルネオの戦い]]の一つである{{仮リンク|バリクパパンの戦い|en|Battle of Balikpapan (1945)}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=551|ps=ボルネオ、佛印方面の戦闘}}に先駆けて[[機雷]]除去作戦を支援した。この方面の日本軍の抵抗は大きく{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=578-580|ps=バリクパパンの戦闘}}、機雷と防御砲火により11隻の[[掃海艇]]を撃沈または損傷させた。フェニックスは火力支援で防御砲火を沈黙させ、部隊を上陸させた。


フェニックスは[[オーバーホール]]のため真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。9月6日に[[パナマ運河]]を通過し、[[大西洋艦隊 (アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]に配属された。
フェニックスは[[オーバーホール]]のため真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。9月6日に[[パナマ運河]]を通過し、[[大西洋艦隊 (アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]に配属された。


===退役とアルゼンチンへの売却===
=== 退役とアルゼンチンへの売却 ===
[[ファイル:ARA_Belgrano_sinking.jpg|サムネイル|コンカラーの魚雷攻撃を受けて沈みゆく、ヘネラル・ベルグラノ]]
フェニックスは凱旋して間もなくの1946年2月28日にフィラデルフィアで退役して保管艦状態にあったが、1951年4月9日、ニューギニアおよびフィリピンで共に戦ったボイシと共に[[アルゼンチン]]に売却され、[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]として[[アルゼンチン海軍]]で就役した<ref>永井、木俣, 437ページ</ref>。1982年の[[フォークランド紛争]]で[[イギリス海軍]]の攻撃を受けて沈没した。
1946年(昭和21年)2月28日、フェニックスはフィラデルフィアで退役し、保管艦状態となった。1951年4月9日、ニューギニアおよびフィリピンで共に戦った姉妹艦ボイシ (''{{lang|en|USS Boise, CL-47}}'') と共に、[[アルゼンチン]]に売却される。当初、フェニックスは[[フアン・ペロン]]大統領により「ディエシシエテ・デ・オクトゥブレ」 (''{{lang|es|ARA Diecisiete de Octubre}}'') と命名された{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=437}}。つづいてペロンの失脚後に「[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]] 」(''{{lang|es|ARA General Belgrano, C-4''}}) と改名され、[[アルゼンチン海軍]]で運用された{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=437}}。[[フォークランド紛争]]({{es|Guerra_de_las_Malvinas}})に参戦中の1982年(昭和57年)5月2日、[[イギリス海軍]]の[[チャーチル級原子力潜水艦]] (''{{lang|en|Churchill class submarines}}'') [[コンカラー_(原子力潜水艦)|コンカラー]] (''{{lang|en|HMS Conqueror, S48}}'') の魚雷攻撃を受け、左舷艦首と艦尾部分に魚雷が命中する{{Sfn|撃沈戦記|1988|pp=442-444|ps=二本のMk8魚雷}}。魚雷命中から間もなく左舷に傾斜し、沈没した{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=444}}。

{{Main|ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|コンカラー_(原子力潜水艦)}}


== 脚注 ==
{{Main|ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|3}}


===脚注===
== 参考文献 ==
<!-- 著者五十音順 -->
{{reflist}}
*<!-- ウォーナー1982 -->デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『<span style="font-size:90%;">ドキュメント</span>神風 <span style="font-size:90%;">特攻作戦の全貌 上・下</span>』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
*<!--エンドウ1994-->{{Cite book|和書|author1=遠藤昭|author2=原進|date=1994-07|title=駆逐艦戦隊|publisher=朝日ソノラマ|series=新戦史シリーズ|isbn=4-257-17283-5|ref={{SfnRef|駆逐艦戦隊|1994}}}}
*<!-- キマタ1986 -->木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
*<!-- キマタ2013 -->{{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|date=2013-08|chapter=第1節 アメリカ航空機運搬艦「ラングレー」|title=連合軍艦艇撃沈す {{small|日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡}}|isbn=978-4-7698-2794-8|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|ref={{SfnRef|連合軍艦艇撃沈す|2013}}}}
*<!-- サトウカズマサ1993 -->{{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1993|month=05|origyear=1983|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref={{SfnRef|佐藤、艦長たち|1993}}}}
:*(232-239頁)「空爆と盲点」<駆逐艦「時雨」艦長・西野繁中佐の証言>(渾作戦およびレイテ沖海戦時の時雨駆逐艦長)
:*(368-377頁)「判断の良否」<駆逐艦「朝風」艦長・池田徳太郎少佐の証言>(渾作戦時の五月雨駆逐艦長)
*<!-- スドウ2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|date=2010-01|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}}}}
*<!-- セカイ1993 -->「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
*<!-- セカイ2001 -->「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
*<!-- ナガイヨシユキ、キマタジロウ -->{{Cite book|和書|author1=永井喜之|author2=木俣滋郎|date=1988-10|chapter=第4部 第二次大戦以降/3.アルゼンチン軽巡洋艦「ベルグラーノ」|title=撃沈戦記|publisher=朝日ソノラマ|series=文庫版新戦史シリーズ|isbn=4-257-17208-8|ref={{SfnRef|撃沈戦記|1988}}}}
*<!-- フェーイ1994 -->ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
*<!-- フチダ1992 -->{{Cite book|和書|author1=[[淵田美津雄]]|author2=[[奥宮正武]]|date=1992-12|title=機動部隊|chapter=第7章 戦機動く|publisher=朝日ソノラマ|series=新装版戦記文庫|isbn=4-257-17269-X|ref={{SfnRef|淵田、奥宮|1992}}}}
*<!--ホウエイチョウ10 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ハワイ作戦|volume=第10巻|date=1967-12|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書10|1967}}}}
*<!--ホウエイチョウ12 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 マリアナ沖海戦|volume=第12巻|date=1968-02|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書12|1968}}}}
*<!--ボウエイチョウ54 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|volume=第54巻|date=1972-03|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書54|1972}}}}
*<!-- ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
*<!-- マッカーサー2003 -->{{Cite book|和書|author1=[[ダグラス・マッカーサー]]著|coauthors=津島一夫訳|date=2003-07|origyear=1964|chapter=|title=マッカーサー大戦回顧録|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205977-1|ref={{SfnRef|マッカーサー|2003}} }}
*<!-- マッキンタイヤー1971 -->{{Cite book|和書|author1=ドナルド・マッキンタイヤー(著)|author2=大前敏一(訳)|date=1971-03|chapter=(5)西村艦隊なぐりこむ|title=レイテ {{small|連合艦隊の最期・カミカゼ出撃}}|publisher=産経新聞社出版局|series=第二次世界大戦ブックス5|ref={{SfnRef|Leyte|1971}} }}
*<!-- マチヤ1992 -->町屋俊夫「原潜初の戦果 <span style="font-size:90%;">フォークランド紛争の「コンカラー」</span>」『世界の艦船 第454号 <span style="font-size:90%;">特集 イギリスの潜水艦</span>』海人社、1992年


<!-- レファレンスコード順 -->
==参考文献==
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
*デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『<span style="font-size:90%;">ドキュメント</span>神風 <span style="font-size:90%;">特攻作戦の全貌 上・下</span>』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05034593500|title=4 列国海軍造艦術進歩の現状|ref=列国海軍造艦術現状}}
*木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05110671000|title=公文備考 昭和12年 D 外事 巻2(防衛省防衛研究所)第148号10.5.7米国巡洋艦フィーニクス起工に関し細目事項通知の件|ref=フィニクス起工}}
*永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』[[朝日ソノラマ]]、1988年、ISBN 4-257-17208-8
*町屋俊夫「原潜初の戦果 <span style="font-size:90%;">フォークランド紛争の「コンカラー」</span>」『世界の艦船 第454号 <span style="font-size:90%;">特集 イギリスの潜水艦</span>』海人社、1992年
*「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
*ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
*「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年


==関連項目==
==関連項目==
113行目: 191行目:


==外部リンク==
==外部リンク==
{{Commonscat|USS Phoenix (CL-46)}}
*[http://www.history.navy.mil/danfs/p6/phoenix-iii.htm history.navy.mil: USS ''Phoenix'']
*[http://www.history.navy.mil/photos/sh-usn/usnsh-p/cl46.htm Navy photographs of ''Phoenix'']
*[https://www.history.navy.mil/research/histories/ship-histories/danfs/p/phoenix-iii.html history.navy.mil: USS ''Phoenix'']
*[http://www.history.navy.mil/photos/sh-usn/usnsh-p/cl46.htm Navy photographs of ''Phoenix'']{{リンク切れ|date=2020年8月18日}}
*[http://www.navsource.org/archives/04/04046.htm navsource.org: USS ''Phoenix'' (CL-46)]
*[http://www.navsource.org/archives/04/04046.htm navsource.org: USS ''Phoenix'' (CL-46)]
*[http://www.hazegray.org/danfs/cruisers/cl46.txt hazegray.org: USS ''Phoenix'']
*[http://www.hazegray.org/danfs/cruisers/cl46.txt hazegray.org: USS ''Phoenix'']

2021年2月24日 (水) 09:29時点における版

フェニックス
基本情報
建造所 ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
級名 ブルックリン級軽巡洋艦
建造費 11,975,000ドル(契約時)
艦歴
発注 1929年2月13日
起工 1935年4月15日
進水 1938年3月13日
就役 1938年10月3日
退役 1946年7月3日
除籍 1951年1月27日
除籍後 1951年4月9日、アルゼンチンに売却
要目
排水量 10,000 トン
全長 606 ft (185 m)
最大幅 62.0 ft (18.9 m)
吃水 19.3 ft (5.9 m)
主缶 水管罐×8基
主機 蒸気タービン×4基
出力 100,000 hp (75,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸推進
最大速力 33.6ノット (62.2 km/h)
乗員 士官、兵員868名
兵装
搭載機 SOC シーガル×4機
その他 船尾カタパルト×2基
テンプレートを表示

フェニックス (USS Phoenix, CL-46) は、アメリカ海軍ブルックリン級軽巡洋艦5番艦[1]。艦名はアリゾナ州フェニックスに因む。

概要

フェニックス (USS Phoenix, CL-46) は1938年10月に竣工した。太平洋戦争開戦時は真珠湾にいたが、真珠湾攻撃での被害はなかった[2][3]。 1942年(昭和17年)初頭より東南アジア方面やインド洋に進出し、船団護衛任務に従事した。

1943年(昭和18年)になると第7艦隊に編入され、上陸部隊護衛や対地砲撃に従事する[1]。1944年(昭和19年)6月中旬、ビアク島攻防戦にともなう渾作戦で日本軍駆逐艦5隻[注釈 1]夜戦を繰り広げた[5]。 10月下旬以降のフィリピン攻防戦では、第77任務部隊としてレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦に参加し[6]、西村艦隊を迎撃した[7][注釈 2]。その後、幾度か神風特別攻撃隊と交戦した。

太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)4月にアルゼンチンに売却され、最終的にヘネラル・ベルグラノ (ARA General Belgrano, C-4) と改名された[9]。長らくアルゼンチン海軍で運用されていたが、1982年(昭和57年)5月2日、フォークランド紛争で原子力潜水艦コンカラー (HMS Conqueror, S48) の魚雷攻撃を受けて沈没した[10]

艦歴

第二次世界大戦以前

フェニックスはニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で1935年4月15日に起工する[11]。1938年(昭和13年)3月13日にドロテア・キース・ムーナン夫人の手によって進水した。同年10月3日にフィラデルフィア海軍造船所ジョン・W・ランキン英語版大佐の指揮下で就役した。就役後、フェニックスは慣熟航海でトリニダード・トバゴポートオブスペインまで航海。その後、サントスブエノスアイレスモンテビデオおよびサンフアンを親善訪問。フィラデルフィアには1939年(昭和14年)1月に戻った。その後、フェニックスは太平洋方面に移動した。

第二次世界大戦

真珠湾攻撃 - 1942年前半

真珠湾攻撃で破壊された戦艦アリゾナおよびウェストバージニアの横を通過するフェニックス

1941年12月7日(日本時間12月8日)、フェニックスは真珠湾フォード島の北東側に、病院船ソレース英語版 (USS Solace, AH-5) の近くに停泊していた[2]。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見する。間もなく日本機の攻撃が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。日本側は第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母蒼龍九九式艦上爆撃機がフェニックス(目標「リ」)を攻撃し[12]、250kg爆弾2発が命中して中破したと判定している[13]。だがフェニックスは健在であった[14]

その日の午後には、同じく真珠湾内にいた軽巡洋艦セントルイス (USS St. Louis, CL-49) とデトロイト (USS Detroit, CL-8) [3]および数隻の駆逐艦、たまたまハワイ近海で訓練中だった重巡洋艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) と共に臨時の任務部隊を編成し、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が率いる南雲機動部隊の索敵に出撃した[15]。するとハルゼー提督の空母エンタープライズ偵察機(SBDドーントレス)がオアフ島南西で「敵艦隊」を発見し、ただちに攻撃隊が発進した[16]。フェニックス以下の任務部隊を日本艦隊と誤認したのである[15]。フォード島にむかったエンタープライズのF4Fワイルドキャット 6機のうち、4機は味方の対空砲火で撃墜された[16]

真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスはサンフランシスコからメルボルン行きの輸送船団を護衛する。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定されたジャワ島方面に変更となった。

1942年(昭和19年)2月中旬、フェニックスはジャワ島にカーチス P-40 戦闘機を緊急輸送する水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) とイギリス輸送船シーウィッチ英語版 (HMS Seawitch) を含むMS-5船団の護衛を行った[17]。船団自体はオーストラリアフリーマントル2月22日に出港し、セイロン島に向かっていた[18]。フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦エンタープライズ英語版 (HMS Enterprise, D52) と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた[19]。ところが、日本軍のジャワ島上陸が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した[18]2月27日、ラングレーは駆逐艦ホイップル英語版USS Whipple,DD- 217/AG-117)およびエドサルUSS Edsall, DD-219)と共にジャワ島にむけ航行中、チラチャップ英語版インドネシア語版沖合で日本海軍の一式陸上攻撃機の爆撃を受けて損傷し、ホイップルに雷撃処分された[20]。シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されており、攻撃を免れた[21]。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えてインド洋で哨戒し、ムンバイ行きの輸送船団の護衛に従事した(セイロン沖海戦)。

1942年後半 - 1944年

艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を第44任務部隊英語版の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦ヘルム英語版 (USS Helm, DD-388) 、マグフォード英語版 (USS Mugford, DD-389) およびパターソン英語版 (USS Patterson, DD-392) とともにリリプット作戦英語版 に参加し、豪州海軍の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart) および付属の駆逐艦と交替でニューギニア島南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスはブリスベンを経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。オーバーホール後、フェニックスはコーデル・ハル国務長官カサブランカまで乗せた。つづいてダグラス・マッカーサー大将の指揮下で行動する第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)[22]に配備された。連合軍は、とりあえずニューブリテン島ラバウルを攻略するか孤立させる方向で進撃した[23]

12月26日、フェニックスは姉妹艦ナッシュビル (USS Nashville, CL-43) とともにニューブリテン島西端のグロスター岬にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した。このあと連合軍がグロスター岬上陸に上陸した[24]グロスター岬の戦い[25]ダンピア海峡を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はパプアニューギニア経由でフィリピンを目指した[26][27]

艦上のマッカーサー大将とキンケイド中将1944年2月28日

1944年1月25日から26日の夜にはパプアニューギニアのマダンとアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からのアドミラルティ諸島の戦いに参加し[28]ロスネグロス島に上陸して威力偵察を行う第1騎兵師団を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、フェニックスはキンケイド提督の旗艦であった[29]。南西太平洋方面総司令官マッカーサー大将は「作戦がきわどい性質のもので、情勢により即座に決断を下す必要」を感じたので、フェニックスに乗艦して戦いを観戦していた[29]

ラバウルを孤立させた連合軍は、パプアニューギニアの北海岸を西進した[30]。3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよび豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) とともにアドミラルティ諸島内のハウエイ島に対して艦砲射撃を行った。この島にある日本軍の大砲は、マヌス島に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。

連合軍はニューギニア島北岸での作戦を続行した[31]。4月22日からのホーランジアの戦い[32]、アメリカ軍は大部隊で上陸作戦を敢行した[33]。フェニックスはフルボント湾英語版に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。ホランジアにいた第九艦隊は壊滅した[34]。4月29日から30日の夜にかけてはパプア州ワクデ島とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。5月17日、連合軍はワクデ地区に上陸し[35]、2日後にワクデ守備隊は玉砕した[36][37]

ビアク島

引き続き、ビアク島チェンデラワシ湾への攻勢が始まった[38]。マッカーサー大将はこの方面に重爆撃機の基地を建設することを計画していた[39]。日本軍もビアク島に飛行場を建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった[40]5月25日、フェニックスはナッシュビルおよび軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共にフルボント湾を出撃、27日から始まったビアク島上陸を支援した[41]。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)と、日本陸軍の歩兵第222連隊(連隊長葛目直幸少将)が配備されていた[42][43]。日本軍の抵抗は熾烈で[44]、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。

この方面の日本海軍水上部隊を指揮していたのは、南西方面艦隊隷下の南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官左近允尚正少将であった[45]。南西方面艦隊や第四南遣艦隊[46]、さらに連合艦隊の意見具申により[47]大本営南方軍海上機動第二旅団を海軍艦艇で輸送することに決定した[48]。これが渾作戦である[49][50]。本作戦に第二方面軍司令官阿南惟幾陸軍大将も大きな期待を寄せていた。

日本軍が増援部隊の派遣を検討する中、ビアク島では激戦が続いていた[51]。日本陸海軍航空部隊は、ニューギニア島西パプア州ソロンバボを拠点に、ビアク島方面の連合軍に空襲を敢行した[52]6月4日、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本軍攻撃隊(零戦19、一式戦闘機 12、彗星 6)に攻撃された[53]。日本側はホノルル型軽巡2隻、オマハ型軽巡2隻、駆逐艦8隻(実際は乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、グラマン2撃墜、零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還を報じた[53]。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビルが至近弾で損傷した[53]。 翌6月5日の夜にもビアク島近海で一式陸上攻撃機3機(爆装1、雷装3)の航空攻撃を受けたが[53]、対空砲火を打ち上げて追い払った。陸攻隊は戦果を過大報告したが、1機が被弾小破したのみで全機帰投した[53]

フェニックスが僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍の艦艇多数[注釈 3]を投入した第一次渾作戦が実施されていた[55]。第一次渾作戦部隊は6月2日夕刻にミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島にむかった[56]。 だが翌3日B-24 2機に触接された上に「敵有力部隊ニューギニヤ北西部行動中」という理由で中止された[57][58]。扶桑と第五戦隊はダバオに引返し[59]、輸送部隊はラジャ・アンパット諸島ワイゲオ島を経由して6月4日夜、ソロンに入泊した[60][61]。日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦約10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが[62]、実際はフェニックスを含む巡洋艦部隊であった[63]

6月8日から6月9日の夜にかけて、フェニックスはヴィクター・クラッチレー英語版少将オーストラリア海軍)率いる第74任務部隊の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、第二次渾作戦でビアク島に向けて進撃中の、左近允尚正少将(旗艦「敷波」)率いる駆逐艦5隻(輸送隊〈敷波浦波時雨〉、警戒隊〈白露五月雨〉)が任務部隊に迫りつつあった[5]。左近允少将は重巡青葉や軽巡鬼怒ハルマヘラ島バチャン泊地に退避させ[64]、駆逐艦6隻のみで8日早朝にソロンを出撃、ビアク島を目指していた[65]。だが、昼間にP-38B-25反跳爆撃で駆逐艦白露が小破、駆逐艦春雨が沈没し[66][67]、第27駆逐隊司令白浜政七大佐が戦死した[4]。それでもビアク島揚陸の決意を変えず、進撃を続けていたのである[68]

第74任務部隊(重巡オーストラリア、軽巡フェニックス、軽巡ボイシ、駆逐艦14隻)は夜戦で日本軍輸送部隊(駆逐艦5隻)を迎え撃った[69]。しかしアメリカ艦隊(日本側は戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦8と認識)[68]を発見した輸送部隊(駆逐艦5隻)は、魚雷を発射しつつ高速で退却する[69]。圧倒的優勢の第74任務部隊はレーダーで砲撃をおこないつつ追撃したが[70]、逃げ切られた[71]。西野(時雨駆逐艦長)は、輸送部隊の最後尾にいた時雨に敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している[72]。時雨は後部砲塔で反撃し[73]、敵巡洋艦に命中弾5斉射を認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している[74]

時雨などを取り逃がしたフェニックスと僚艦は、ゼーアドラー湾に帰投した。日本海軍は大和型戦艦の投入を決断し、第三次渾作戦を開始した[75]ハルマヘラ島バチャン泊地に重量艦(大和武蔵妙高羽黒青葉)を含む渾作戦部隊が集結した[76]。だがサイパン島情勢が急変[77]、6月13日をもって第三次渾作戦は中止された[78][79]。さらにマリアナ沖海戦が連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した[80]

一息ついたフェニックス達は整備をおこなった後、7月2日にヌムフォア島英語版を艦砲射撃し、上陸を支援した[81]。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からのモロタイ島の戦いでは[82][83]、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のためハルマヘラ島を砲撃した。

フィリピン

10月17日のレイテ湾スルアン島上陸、つづいて20日レイテ島上陸から、アメリカ軍のフィリピン奪還戦が始まった[84][85]。フェニックスは、第77任務部隊(指揮官、第七艦隊司令長官キンケイド中将)に所属し[86][87]、巡洋艦4隻(フェニックス、ボイシ、シュロップシャー、オーストラリア)と駆逐艦部隊で第77任務部隊第3群を編成しており、ラッセル・S・バーキー英語版少将の旗艦であった[6]。第77任務部隊にはこのほかに、ジェシー・B・オルデンドルフ少将の戦艦部隊(第77任務部隊第3群)[88]トーマス・L・スプレイグ少将の護衛空母部隊(第77任務部隊第4群)[89]がいた。マッカーサー大将はナッシュビルを旗艦としていた[90]。フェニックスは戦いの初日、上陸前の砲撃を大いに行って日本軍の防御拠点を破壊し、上陸した第19連隊英語版の進撃を容易にした。第77.3任務部隊では作戦中にオーストラリアが空襲で損傷し、前線を離脱した[91]

10月24日昼間、ハルゼー提督が指揮する任務部隊のうち、空母エンタープライズと空母フランクリンUSS Franklin, CV-13)の攻撃隊はスールー海を東進中の第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊もしくは西村部隊)を攻撃し、戦艦扶桑と駆逐艦時雨に若干の損害を与えた[92][93]。キンケイド提督は、西村艦隊と後続の第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)がスリガオ海峡に向かいつつあると判断した[92]。第38任務部隊の空母群は第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に集中攻撃を加えており、第77任務部隊は独力で西村艦隊と志摩艦隊の進撃を阻止せねばならなかった[92]

10月24日深夜から25日夜明けにかけて、第77任務部隊はレイテ沖海戦の戦いの一つであるスリガオ海峡夜戦を戦った[7]。第77任務部隊の戦艦部隊と巡洋艦部隊はスリガオ海峡の警戒に従事し[94]丁字戦法で西村艦隊を迎撃する[95]。連合軍駆逐艦部隊の雷撃で4隻(扶桑、満潮山雲朝雲)が沈むか戦闘不能になったので[96]、スリガオ海峡を北上してきたのは戦艦山城(第二戦隊司令官西村祥治中将旗艦)、重巡最上、駆逐艦時雨にすぎなかった。第77任務部隊は丁字戦法で日本艦隊の残存部隊に集中砲火を浴びせた[97]。フェニックスは6インチ砲を発射し、そのうちの4発が命中したと判断された。相手は山城だと推定された。この砲雷戦で山城が沈没し、西村提督は戦死した[94]。連合軍の駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が味方巡洋艦の15㎝砲弾多数を被弾して大破(同士討ち[98]、最上と時雨は損傷しつつも反転して退却した[注釈 4]。 第77任務部隊の巡洋艦や駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた[100]

時雨に逃げられたフェニックスは、引き続きレイテ湾の哨戒を行った。11月1日朝、10機の雷撃機が侵入してフェニックスとその周辺の艦船を攻撃した。9時45分、フェニックスは対空砲火を打ち上げたが、その5分後に駆逐艦クラクストン英語版 (USS Claxton, DD-571) は神風の突入を受けた。フェニックスの5インチ砲は別の神風に向けられたが、駆逐艦アムメン英語版 (USS Ammen, DD-527) への突入を許してしまった。9時57分には、雷撃機がフェニックスに向けて魚雷を落下させんとしたが、フェニックスはこれを回避で雷撃機を撃墜した。しかし、雷撃機に気を取られている間に、駆逐艦キレン英語版 (USS Killen, DD-593) に神風が突入して損害を与えた。2時間半後、午前中以上の神風の大群が押し寄せ、13時40分に駆逐艦アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526) に1機が突入してアブナー・リードは炎上し沈没。他の神風は別の駆逐艦に向かっていったが、フェニックスの対空砲火はこれを撃墜した。

ミンドロ島の戦いでの、対空要員たち(1944年12月15日)

フェニックスは12月5日と10日にも神風攻撃を受けたが、5日の攻撃は2機を撃墜して事なきを得、10日の攻撃は40ミリ機関砲で撃墜し、フェニックスから100メートル離れた海中に墜落していった。12月13日、ミンドロ島の戦いのため上陸部隊を護衛してミンダナオ海を航行中だったナッシュビルは神風攻撃で大損害を受けた。2日後の12月15日、フェニックスはミンドロ島上陸部隊への火力支援の傍ら、5インチ砲で日本機を追い払っていた(ミンドロ島の戦い、礼号作戦[101]。ミンドロ島の確保と飛行場建設は、南シナ海の日本船の航路を脅かし、ルソン島の戦いを支援する下地を与えた[102][103]

1945年(昭和20年)初頭、ルソン島リンガエン湾に向かう上陸部隊[104]の護衛を行っていたフェニックスは、シキホル島近海で潜航中の潜水艦(特殊潜航艇)の司令塔を発見した。マッカーサー元帥は姉妹艦ボイシに乗艦していた[105]。マッカーサーによれば、雷撃を回避したあと護衛の駆逐艦が爆雷を投下し、浮上してきた日本軍の豆潜水艦数隻を駆逐艦が体当たりして沈めたという[106]。フェニックスは魚雷2本を回避し、逆に潜水艦に体当たりしてこれを始末したと主張している。日本側の記録によれば、特殊潜航艇甲標的を運用していたのはセブ島の第三十三特別根拠地隊(司令官原田覚少将)であった[107]。甲標的部隊側は、1月3日の出撃で駆逐艦1隻撃沈と衝突事故で輸送船2隻沈没、1月5日の出撃で駆逐艦と艦種不明各1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈と記録している[107]

2月13日から28日にかけては[108][109]、マッカーサー元帥の「故地」コレヒドール島バターン半島の奪還を支援する。ルソン島を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はフィリピンからインドネシア方面の掃討作戦をおこなう[110]。一息入れた後、6月29日から7月7日まではボルネオの戦いの一つであるバリクパパンの戦い英語版[111]に先駆けて機雷除去作戦を支援した。この方面の日本軍の抵抗は大きく[112]、機雷と防御砲火により11隻の掃海艇を撃沈または損傷させた。フェニックスは火力支援で防御砲火を沈黙させ、部隊を上陸させた。

フェニックスはオーバーホールのため真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。9月6日にパナマ運河を通過し、大西洋艦隊に配属された。

退役とアルゼンチンへの売却

ファイル:ARA Belgrano sinking.jpg
コンカラーの魚雷攻撃を受けて沈みゆく、ヘネラル・ベルグラノ

1946年(昭和21年)2月28日、フェニックスはフィラデルフィアで退役し、保管艦状態となった。1951年4月9日、ニューギニアおよびフィリピンで共に戦った姉妹艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共に、アルゼンチンに売却される。当初、フェニックスはフアン・ペロン大統領により「ディエシシエテ・デ・オクトゥブレ」 (ARA Diecisiete de Octubre) と命名された[1]。つづいてペロンの失脚後に「ヘネラル・ベルグラノ 」(ARA General Belgrano, C-4) と改名され、アルゼンチン海軍で運用された[1]フォークランド紛争Guerra_de_las_Malvinas)に参戦中の1982年(昭和57年)5月2日、イギリス海軍チャーチル級原子力潜水艦 (Churchill class submarines) コンカラー (HMS Conqueror, S48) の魚雷攻撃を受け、左舷艦首と艦尾部分に魚雷が命中する[10]。魚雷命中から間もなく左舷に傾斜し、沈没した[113]

脚注

注釈

  1. ^ * 敷波(第十六戦隊司令官左近允尚正少将) 春雨」は昼間の空襲で沈没していた[4]
  2. ^ 遊撃部隊第三部隊(1YB3H)のこと。
  3. ^ 間接護衛隊(扶桑風雲朝雲)、第五戦隊(妙高羽黒)、第十六戦隊(青葉鬼怒)など[54]
  4. ^ 最上は第77任務部隊の砲撃で大破したあと、第二遊撃部隊志摩清英中将)の重巡那智と衝突したが、スリガオ海峡からの退避に成功した[99]。だが日中になり空母艦載機の雷撃で航行不能となり、志摩艦隊の駆逐艦が雷撃処分した[99]

出典

  1. ^ a b c d 撃沈戦記 1988, p. 437.
  2. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 003a空襲時真珠湾艦船碇泊位置(真珠湾攻撃記録)
  3. ^ a b 戦史叢書10 1967, pp. 374–375開戦時の海上兵力配備
  4. ^ a b 戦史叢書54 1972, pp. 409–411第二次渾作戦の中止
  5. ^ a b 戦史叢書12 1968, pp. 504–507第二次渾作戦/作戦経過
  6. ^ a b Leyte 1971, p. 202a○第七十七任務部隊第三群(近接援護隊)
  7. ^ a b Leyte 1971, p. 100スリガオ海峡の戦闘/1944年10月24日夜~25日
  8. ^ Leyte 1971, p. 204兵力区分/●第一遊撃部隊
  9. ^ 撃沈戦記 1988, p. 438.
  10. ^ a b 撃沈戦記 1988, pp. 442–444二本のMk8魚雷
  11. ^ #フィニクス起工 p.2
  12. ^ 戦史叢書10 1967, p. 357.
  13. ^ 戦史叢書10 1967, p. 004a付図第四 機動部隊戦果判定図(第一航空艦隊戦闘詳報 図面第一号)
  14. ^ 戦史叢書10 1967, p. 359.
  15. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 392.
  16. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 393.
  17. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 20.
  18. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 21.
  19. ^ 永井、木俣, 118ページ
  20. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 25.
  21. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 26.
  22. ^ マッカーサー 2003, p. 144.
  23. ^ マッカーサー 2003, p. 153(1943年連合軍の攻勢)
  24. ^ マッカーサー 2003, p. 165.
  25. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 247–248ラバウルの孤立と連合軍の新攻勢
  26. ^ マッカーサー 2003, p. 179(1944年の連合軍攻勢計画)
  27. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 628a-629三 マッカーサーのニューギニア北岸西進計画
  28. ^ マッカーサー 2003, p. 185(1944年2月、連合軍のアドミラルティー諸島上陸作戦)
  29. ^ a b マッカーサー 2003, p. 186.
  30. ^ マッカーサー 2003, p. 187.
  31. ^ 戦史叢書54 1972, p. 374連合軍の跳躍
  32. ^ 戦史叢書54 1972, p. 385連合軍ホランジア、アイタペに上陸
  33. ^ マッカーサー 2003, p. 190.
  34. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 386–387海軍部隊の転進
  35. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 310.
  36. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 308–313ニューギニア方面の概況
  37. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 403–404七 連合軍、ワクデ方面に上陸
  38. ^ マッカーサー 2003, p. 1971944年4月以降の連合軍の西方進撃作戦
  39. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 312.
  40. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 311.
  41. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 478–481経過概要と聯合艦隊等の作戦指導
  42. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 475–476ビアク島所在部隊の状況
  43. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 387–389パラオ、サルミ、ビアク地区の防備強化
  44. ^ マッカーサー 2003, p. 198.
  45. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 481–484渾作戦発令の経緯
  46. ^ 戦史叢書12 1968, p. 483.
  47. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 313.
  48. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 405–406海上機動第二旅団のビアク派遣決定
  49. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 406–407渾作戦の発令
  50. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 321–329「渾作戦」― 敵機動部隊の誘出はかる
  51. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 484–485ビアク方面戦況概要
  52. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 485–490航空部隊の作戦
  53. ^ a b c d e 戦史叢書12 1968, p. 488.
  54. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 493a-495渾部隊の作戦計画とダバオ集結
  55. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 490–493経過概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導
  56. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 408a-409第一次渾作戦の中止
  57. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 326.
  58. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 496–498第一次渾作戦経過
  59. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 281.
  60. ^ 戦史叢書12 1968, p. 493b.
  61. ^ 駆逐艦戦隊 1994, pp. 230–233囮をかねたビアク島支援
  62. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 408b-409.
  63. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 497–498.
  64. ^ 戦史叢書12 1968, p. 505.
  65. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 501–504第二次渾作戦/作戦経過の概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導
  66. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 375–376.
  67. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 283.
  68. ^ a b 淵田、奥宮 1992, p. 327.
  69. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 506.
  70. ^ 駆逐艦戦隊 1994, pp. 249–251敵のレーダー射撃に苦戦
  71. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 284–285.
  72. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 237–239レーダー射撃からの逃走
  73. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 239.
  74. ^ 戦史叢書12 1968, p. 507.
  75. ^ 戦史叢書12 1968, p. 508.
  76. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 328–329.
  77. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 337–339.
  78. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 524–527米軍マリアナ来攻直前におけるわが軍の状況/経過概要
  79. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 411–413第三次渾作戦もついに中止
  80. ^ 戦史叢書12 1968, p. 630aワクデ及びサルミ並びにビアク上陸作戦
  81. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 433–434ヌンホル、サンサポールの失陥
  82. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 438–439連合軍のモロタイ上陸
  83. ^ マッカーサー 2003, p. 222.
  84. ^ マッカーサー 2003, p. 260(1944年10月、連合軍のレイテ上陸作戦)
  85. ^ 戦史叢書54 1972, p. 377連合軍レイテに上陸
  86. ^ Leyte 1971, p. 202b兵力区分●第七十七任務部隊(支援部隊)
  87. ^ Leyte 1971, pp. 37–40第七艦隊のキンケード中将
  88. ^ Leyte 1971, p. 202c○第七十七任務部隊第二群(火力支援、砲撃群)
  89. ^ Leyte 1971, pp. 202d-203○第七十七任務部隊第四群
  90. ^ マッカーサー 2003, p. 261.
  91. ^ Leyte 1971, p. 47.
  92. ^ a b c Leyte 1971, p. 65.
  93. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 243.
  94. ^ a b マッカーサー 2003, p. 278.
  95. ^ Leyte 1971, pp. 101–102手ぐすねひく米国艦隊
  96. ^ Leyte 1971, pp. 105–112米水雷戦隊の活躍
  97. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 246–247.
  98. ^ Leyte 1971, p. 124.
  99. ^ a b Leyte 1971, pp. 116–117奮戦つづける最上
  100. ^ Leyte 1971, p. 117a最後まで砲撃した「朝雲」
  101. ^ 戦史叢書54 1972, p. 445米軍レイテ、ミンドロに上陸
  102. ^ マッカーサー 2003, p. 308.
  103. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 456–459ミンドロ島上陸と禮号作戦
  104. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 459–460連合軍、リンガエン湾に進出
  105. ^ マッカーサー 2003, p. 313.
  106. ^ マッカーサー 2003, p. 314.
  107. ^ a b 戦史叢書98 1979, pp. 283–284セブ基地特殊潜航艇の作戦
  108. ^ マッカーサー 2003, p. 335.
  109. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 528–532六 マニラ湾口の戦闘
  110. ^ マッカーサー 2003, p. 346(1945年前半、フィリピン掃討作戦)
  111. ^ 戦史叢書54 1972, p. 551ボルネオ、佛印方面の戦闘
  112. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 578–580バリクパパンの戦闘
  113. ^ 撃沈戦記 1988, p. 444.

参考文献

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 遠藤昭、原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ〉、1994年7月。ISBN 4-257-17283-5 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎「第1節 アメリカ航空機運搬艦「ラングレー」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月(原著1983年)。ISBN 47698-2009-7 
  • (232-239頁)「空爆と盲点」<駆逐艦「時雨」艦長・西野繁中佐の証言>(渾作戦およびレイテ沖海戦時の時雨駆逐艦長)
  • (368-377頁)「判断の良否」<駆逐艦「朝風」艦長・池田徳太郎少佐の証言>(渾作戦時の五月雨駆逐艦長)
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月。ISBN 978-4-7698-2630-9 
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • 永井喜之、木俣滋郎「第4部 第二次大戦以降/3.アルゼンチン軽巡洋艦「ベルグラーノ」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 淵田美津雄奥宮正武「第7章 戦機動く」『機動部隊』朝日ソノラマ〈新装版戦記文庫〉、1992年12月。ISBN 4-257-17269-X 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • ダグラス・マッカーサー著、津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2003年7月(原著1964年)。ISBN 978-4-12-205977-1 
  • ドナルド・マッキンタイヤー(著)、大前敏一(訳)「(5)西村艦隊なぐりこむ」『レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』産経新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス5〉、1971年3月。 
  • 町屋俊夫「原潜初の戦果 フォークランド紛争の「コンカラー」」『世界の艦船 第454号 特集 イギリスの潜水艦』海人社、1992年
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『4 列国海軍造艦術進歩の現状』。Ref.C05034593500。 
    • 『公文備考 昭和12年 D 外事 巻2(防衛省防衛研究所)第148号10.5.7米国巡洋艦フィーニクス起工に関し細目事項通知の件』。Ref.C05110671000。 

関連項目

外部リンク