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'''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]])は[[スイス]]で生まれ、[[フランス]]で主に活躍した[[建築家]]。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。[[フランク・ロイド・ライト]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]と共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる([[ヴァルター・グロピウス]]を加えて四大巨匠とすることもある。)。
'''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]])は[[スイス]]で生まれ、[[フランス]]で主に活躍した[[建築家]]。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。[[フランク・ロイド・ライト]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]と共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる([[ヴァルター・グロピウス]]を加えて四大巨匠とすることもある。)。
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1997年4月から発行されている10[[スイス・フラン]]札には彼の肖像と作品が描かれている。
1997年4月から発行されている10[[スイス・フラン]]札には彼の肖像と作品が描かれている。


[[Image:Eglise Saint-Pierre le Corbusier.jpg|250px|thumb|right|フィルミニのサン-ピエール教会]]

== サン-ピエール教会の完成とフィルミニ-ヴェールの建築都市遺産への登録 ==

ル・コルビュジエの没後、彼が遺した概略的な計画から出発して、実質的には1973年に開始された[[フィルミニ]]のサン-ピエール教会の建設が、財政的事情により1978年にいったん中止されたことはよく知られている。

2006年十一月末から十二月はじめにかけての[[ル・モンド]]、[[AFP]]等の報道を要約すると、2001年に選出された市長ディノ・シニエリ(民衆運動連合=中道右派)が、ル・コルビュジエによって設計された文化会館、競技場、ユニテ・ダビタシオンなどの既存建築群とフィルミニ-ヴェールの都市計画全体が観光資源になる可能性を持ち、かつ教会の完成は話題づくりに役立つとともにその目玉になりうると判断したことが端緒となり、2003年に地元の広域自治体サンテティエンヌ・メトロポールは、ル・コルビュジエ財団の同意を得たうえで、ル・コルビュジエの生前からこの教会の計画にたずさわっていた[[ジョゼ・ウブルリー]]の実施設計に従って、その建設を再開させた。このような経緯で2006年十一月に、サン-ピエール教会は計画の開始の四十六年後(ル・コルビュジエの没後四十一年後)に竣工するにいたった。工費は最終的には一千万ユーロにのぼるとみられる。低層部分には「ル・コルビュジエ解釈センター」が設けられ、上階に位置する教会の身廊部分も来訪者に開放される。

この機会にフィルミニ-ヴェール全体がフランスの「建築都市風景遺産保護地区」に指定され、[[アンドレ・ヴォジャンスキ]]のプールの修復とユニテ・ダビタシオンの改修がすでに終了した。広域自治体側は最大で年間二十万人の来訪者を見込んでおり、他の既存建築の改修が行われるだけでなく、応接施設、券売所、売店などが新たに併設される。


==ル・コルビュジェと第一次世界大戦==
==ル・コルビュジェと第一次世界大戦==
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* [http://www.taisei.co.jp/galerie/archive.html 大成建設 ル・コルビュジェ アーカイブ]
* [http://www.taisei.co.jp/galerie/archive.html 大成建設 ル・コルビュジェ アーカイブ]
* [http://www.nou-sera.com/architect/corbusier.html ル・コルビュジエ(Le Corbusier)]
* [http://www.nou-sera.com/architect/corbusier.html ル・コルビュジエ(Le Corbusier)]
* [http://lecorbusier.ville-firminy.fr/ フィルミニにおけるル・コルビュジエ遺産]


[[Category:ル・コルビュジエ|*]]
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2007年3月24日 (土) 09:01時点における版

ル・コルビュジエLe Corbusier1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。

ファイル:Le corbusier bueste.JPG
ロクブリュヌ・キャップ・マルタンにあるル・コルビュジエの胸像

経歴

スイスラ・ショー・ド・フォンに時計職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。本来は時計職人を養成する地元の装飾美術学校で学んだ彼は、大学における正規の建築家教育を受けていない。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート造の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、建築を学んだ。1911年から半年をかけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー・ド・フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法であるドミノシステムを発表。1917年にパリへ戻り、1920年ダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共に雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」(L'esprit Nouveau)を創刊、この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた。

1922年に従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに事務所を構えた。1925年パリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のないモダニズム建築のエスプリ・ヌーヴォー館を担当、アール・デコ様式の展示館が並ぶ中で異彩を放った。また同年、パリ市街を超高層ビルで建て替えようという都市改造案を発表した。低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、もちろんパリでは採用されなかったが、これ以降の各国の都市計画に大きな影響を与えた(「輝く都市」)。 1927年ドイツ工作連盟主催の住宅展に参加。

ファイル:Villa savoye cote.jpg
サヴォア邸

1928年以降に開催されたCIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)[1]では、ヴァルター・グロピウスミース・ファン・デル・ローエらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1931年竣工のサヴォア邸はル・コルビュジエの主張する近代建築の5原則を典型的に示し、代表作として知られる。またル・コルビュジエの、「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉はよく引用される。

第二次世界大戦後、ドミノシステムに基づく集合住宅マルセイユのユニテ・ダビタシオン(L'unité d'habitation de Marseille)を建設(1947年-1952年)。ユニテは住居単位を意味し、かつて主張した「輝く都市」の実践であった。また1951年からはインドのチャンディーガルの建築顧問として都市計画に関わった。

ファイル:Ronchamp.jpg
ロンシャン教会

後期の代表作ロンシャンの教会堂(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた機能性・合理性とは異なった表現に達した。

1965年南フランスのカプ・マルタンで水泳中に死去。

評価

画家から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた。

歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性をモットーとしたモダニズム建築の提唱者ということになる。彼の思想は世界中に浸透したが、特に1920年代の近代主義建築の成立において、造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は一つの規範となり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めた。(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張されている)

西洋では石積みなどが伝統的だったが、コルビュジエはスラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案した。その後の代表作サヴォア邸は、コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」(近代建築の五原則)を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。

都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、CIAM 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後にはチャンディーガルなどで実践している。 終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない能力があったといえる。その点は大いに誤解されたままであるが、ある意味で本人が意図した通りなのである。晩年のロンシャン教会(ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築からかけ離れた作品として注目される。

単純な構成で快適さを求めたコルビュジエの家具は、GRAND CONFORT(大いなる快適)と呼ばれLC3、LC4(椅子)は有名である。

1997年4月から発行されている10スイス・フラン札には彼の肖像と作品が描かれている。

ル・コルビュジェと第一次世界大戦

 ル・コルビュジェ自身が公言して設計していたかは不明だが、彼の代表作「現代都市」(日本でいわゆる「輝く都市」)と「輝く都市」(なお、日本で「輝く都市」とされている著作は原著は「都市計画の方法」という、コルビュジェのまったく別の著作である。「輝く都市」の原著は邦訳されていない)は第一次世界大戦で初めて登場した「爆撃」に対抗する「防空」を非常に意識した設計となっている。

 「現代都市」のスケッチに見るような超高層建築物はそれ自体、物見やぐらの機能を果たし、屋上にサーチライトや機関砲などの「対空迎撃火器」を設置して防衛するには非常に好適な設計である。また緑地帯は緊急時の避難に役立つ。そして幅員の広い道路は、迎撃戦闘機の滑走路としても使用可能である。

 邦訳されていない「輝く都市」は地上2階地下3階の地下鉄の駅を主体にした設計であるとのこと。空襲時に兵員や民間人を安全に大量輸送可能な地下鉄は空襲に対する都市の抗堪性(こうたんせい:攻撃されても機能を温存可能な性質)を著しく向上させる。

 「現代都市」と「輝く都市」(邦訳されていないほうの原著)を組み合わせると「防空都市」としかいえないような都市が現出することとなる。

 あるいは「輝く都市」とは「敵機探照用のサーチライトに照らされて輝く都市」のことかもしれない。

 そもそも都市計画や建築設計は「軍事」(防衛)と表裏一体のものである。近代建築学、特にル・コルビュジェの「現代都市」の設計思想を理解するには「防空建築」、「防空都市計画」の知識が非常に助けとなる。

 原著「輝く都市」の一日も早い邦訳・公刊が待たれる。

建築作品

フランスからの松方コレクション返還に際して建設された。コルビュジエは設計のため一度来日し、基本設計をまとめた。実施設計は弟子の前川國男坂倉準三吉阪隆正が担当した。

著作等

  • 建築へ(建築をめざして)1923
  • 今日の装飾芸術 1925
  • 住宅と宮殿 1928
  • 輝く都市(邦訳:鹿島出版会SD選書)1935
  • 新しき芸術
  • 伽藍が白かつたとき(邦訳:岩波書店)1937
  • モデュロール1 1948
  • モデュロール2 1955

参考文献

  • 帝都東京・隠された地下網の秘密 秋庭 俊 著 新潮文庫 2006
  • 帝都東京・隠された地下網の秘密(2)秋庭 俊 著 新潮文庫 2006

関連項目

外部リンク