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中国本土({{lang-zh|'''中國本部'''、'''中國本土'''}}、{{lang-en|'''China Proper'''}})は、[[漢民族]]が多数派[[民族]]である歴史的な[[中国]]の領土を、中国の他の地域と対比して指す表現。通常、中国本土とは見なされない「外中国」地域には、[[新疆ウイグル自治区|新疆]]([[東トルキスタン]])、[[チベット]]、[[満州|「満州」]]([[中国東北部]])、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]が含まれる。中国本土の面積は、およそ390万km&sup2;とされている<ref>[http://www.mainlesson.com/display.php?author=bergen&book=china&story=general http://www.mainlesson.com/display.php?author=bergen&book=china&story=general]</ref> <ref>[http://mars.wnec.edu/~grempel/courses/wc2/lectures/chinawest.html http://mars.wnec.edu/~grempel/courses/wc2/lectures/chinawest.html]</ref>。中国本土は、北方の外中国の広大な領域とは、おおむね[[万里の長城]]によって区画されている<ref>http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/china/cn_glos.html</ref><ref>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/112797/The-Chinese-Wall</ref>。
#REDIRECT[[中国大陸]]

== 概念の起源 ==
「中国本土」という概念に相当する英語「チャイナ・プロパー (China proper)」などの表現が、いつ頃から[[西洋]]で用いられ始めたのかははっきりしていない。米国の中国専門家[[:en:Harry Harding (political scientist)|ハリー・ハーディング]]によれば、その用例は[[1827年]]まで遡ることができるという(Harding 1993)。しかし、それ以前にも、[[1795年]]に[[:en:William Winterbotham|ウィリアム・ウィンターボサム]]が、著書の中でこの概念に触れている(Winterbotham, 1795, pp.35-37)。[[清|清朝]]の中国帝国について述べる際に、ウィンターボサムは、これを中国本土(China proper)、中国領[[タタール]]地域(Chinese Tartary)、[[朝貢|朝貢国]]に三分している。ウィンターボサムは、[[:fr:Jean-Baptiste Du Halde|デュ・アルド]]<ref>ジャン=バプティスト・デュ・アルド([[1674年]] - [[1743年]])。フランス人のイエズス会修道士で、自身はアジアへ赴かなかったが、イエズス会修道士たちの報告書簡を編纂し、それに基づいて[[1735年]]に浩瀚な『シナ帝国全誌』を公刊した。</ref>や[[:fr:Jean-Baptiste Grosier|グロシエ]]<ref>ジャン=バプティスト・グロシエ([[1743年]] - [[1823年]])。フランス人のイエズス会修道士で、自身はアジアへ赴かなかったが、[[:fr:Michel-Ange-André Le Roux Deshauterayes|Le Roux Deshauterayes]]([[1724年]] - [[1795年]])とともに『中国全史 (''l'Histoire générale de la Chine'')』を編纂した。</ref>の説に従い、「China」の呼称は清に由来すると考えていた。その上でウィンターボサムは、「シナ(China)と、本来(properly)呼ばれるのは、... 緯度で南北18度、経度で東西はもう少し狭い範囲」と述べている。

しかし、中国本土(チャイナ・プロパー)という用語を導入しながら、ウィンターボサムは[[1662年]]に廃された[[明]]の15省体制に基づいた記述をしている。また、明の15省の地方区分と比べると、ウィンターボサムは江南(Kiang-nan)を省名としているが、この地域は明代には南直隶と呼ばれており、江南に改称されたのは[[満州民族|満州族]]が明を倒した翌年[[1645年]]のことであった。この15省体制は、[[1662年]]から[[1667年]]にかけて18省体制に再編された。ウィンターボサムが中国本土(チャイナ・プロパー)の説明に、15省体制を前提としつつ江南省の名称を用いたということは、この概念が、[[1645年]]から[[1662年]]にかけての時期に登場してきたことを示している。

[[1795年]]のウィンターボサムの著書以前にも、中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が用いられている例はあり、[[1790年]]の雑誌『''[[:en:The Gentleman's Magazine|The Gentleman's Magazine]]''』や、[[1749年]]の雑誌『''[[:en:Monthly Review (London)|The Monthly Review]]''』にも用例がある<ref>いずれも著作権は消滅しており、[[Google ブック検索]]で全文を見ることができる。</ref>。

19世紀には、「チャイナ・プロパー」という用語は、中国当局者がヨーロッパの言語でコミュニケーションを図る場合にも使われるようになる。例えば、清が英国に派遣した大使[[曽紀沢]]は、[[1887年]]に英文で公表した記事でこの用語を使っている<ref>Marquis Tseng, "China: The Sleep and the Awakening," The Asiatic Quarterly Review, Vol. III 3 (1887), p. 4.
</ref>。

==論争==
今日では、中国本土(チャイナ・プロパー)は、中国においても議論を呼ぶ概念となっている。現在の公式のパラダイムが、中国の核心地域と周縁地域の対比を認めていないからである。標準的な中国語である[[普通話]]で「China Proper」に相当する表現として広く用いられている言葉はない。

[[中華人民共和国]]においては、[[台湾]]、[[新疆ウイグル自治区|新疆]]、[[チベット]]といった領域は、中国の不可分の一部である、というのが公式の政策であり、政府が発行する公文書ではさらに進んで、これらの地域は、過去においても常にそうであったと主張されている。中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が排除されるのは、[[分離主義]]に正当化の根拠を与えるからである。一方、[[台湾]]、[[チベット]]、[[ウイグル]]、[[内モンゴル]]の分離主義を支援する人々は、文化に基盤を置いたネイションとしての「中国本土(チャイナ・プロパー)」と、政治的実体としての「中国」との区別を明確にすべきであると主張している。この観点からすると、中国本土(チャイナ・プロパー)が本来の中国であり、他の地域は中国の一部ではなく、中国によって獲得された植民地であると見なされる。

「中国本土(チャイナ・プロパー)」という用語は、[[中華民族]]の歴史的、文化人類学的な中核地域という意味で解釈される場合は、さほど論争的になる訳ではない。一般的に、この概念は柔軟なところがあり、定義も文脈によってしばしば変わっていく。繰り入れられたり、除外されたりする地域によっても、中国本土(チャイナ・プロパー)の現代における解釈は影響を受ける。[[台湾]]の[[中華民国]]政府は、独立国[[モンゴル国]]となっている、かつての[[外モンゴル]]について、それが正当に中国の一部であるとする主張を、未だ正式には取り下げていない。既に[[中華人民共和国]]が領有の主張を放棄した地域について、[[中華民国]]が領有の主張を取り下げていない例はほかにもある。

== 範囲 ==
[[Image:Ming foreign relations 1580.jpg|thumb|250px|明代末の中国本土のおおよその範囲]]
[[Image:China Proper.jpg|thumb|right|250px|1875年当時の十八省(台湾省の分離以前)]]

中国本土(チャイナ・プロパー)の範囲については、確定した境界があるわけではない。この用語は、歴史的、行政的、文化的、言語的など、多様な観点からみた、中核地域とフィロンティアの対比を表現するものである。

=== 歴史的観点 ===
中国本土の広がりを捉える方法のひとつは、[[漢民族]]が建ててきた古代[[王朝]]の領域を検討することである。中国文明は、中核地域である[[中原]]に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、また逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。歴代王朝の一部、特に[[漢]]と[[唐]]は、拡張主義的であり、中央アジアへと勢力を伸ばしたが、[[晋 (王朝)|晋]]や[[宋 (王朝)|宋]]のように[[華北平原]]を北東アジアや中央アジアの対抗勢力に明け渡してしまうこともあった。

[[漢民族]]が建ててきた最後の王朝である[[明]]は、中国を支配した最後から2番目の王朝でもある。明は布政使司(ふせいしし)13、皇帝直属の直隷2と、合わせて15の行政単位を設けて統治を行った。[[満州族]]の建てた[[清]]が明を征服した後も、明の支配下にあった地域ではこの制度が維持されたが、それ以外の清の支配地域、つまり[[満州]]、[[モンゴル高原|蒙古]]、[[新疆ウイグル自治区|新疆]]、[[チベット]]には、この制度を広げなかった。その後、若干の制度再編があり、[[清]]は中国本土を十八省(一十八行省)の体制で統治していった。西洋諸国の初期の文献が「中国本土(チャイナ・プロパー)」として言及していたのは、この十八省の範囲であった。

明代の体制と、清の十八省では、細部では異なる部分もある。例えば、「[[満州]]」の一部は明の領土に組み込まれて[[山東省]]の一部となっていたが、明を征服する前にまずこの地域を征服した満州族は、この地を中国本土に編入されたままにはしなかった。一方、清が新たに獲得した領土であった[[台湾]]は、中国本土の一部である[[福建省]]に編入された。チベット東部<ref>いわゆる[[大チベット#.E5.9C.B0.E7.90.86.E5.8C.BA.E5.88.86.E7.94.A8.E8.AA.9E.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.A6.E3.81.AE.E3.80.8C.E5.A4.A7.E3.83.81.E3.83.99.E3.83.83.E3.83.88.E3.80.8D|地理区分用語としての「大チベット」]]であるが、ここでは誤解を避けるため「チベット東部」と表現する。</ref>の一部となる[[カム (チベット)|カム]]東部は[[四川省]]に編入され、現在の[[ミャンマー]]北部の一部は[[雲南省]]に編入された。

清代末になると、省の制度を中国本土の外にも広げようとする取り組みが起きた。台湾は[[1885年]]に台湾省として独立したが、後に[[日清戦争]]の結果、[[1895年]]の[[下関条約]]によって日本に割譲された。[[1884年]]には[[新疆省]]が設けられ、[[1907年]]には満州に奉天省(後の[[遼寧省]])、[[吉林省]]、[[黒竜江省]]の3省が置かれた。チベットや内モンゴル、外モンゴルにも同様の体制を敷く提案はあったが実施はされず、これらの地域は[[1912年]]の清の滅亡まで、中国の省制度の外に置かれていた。


清代の十八省:
{|
! colspan = 2 | 十八省
|-
|
* 直隷 - 後の[[河北省]]
* [[河南省]]
* [[山東省]]
* [[山西省]]
* [[陕西省]]
* [[甘粛省]]
* [[湖北省]]
* [[湖南省]]
* [[広東省]]
|
* [[広西省]]
* [[四川省]]
* [[雲南省]]
* [[貴州省]]
* [[江蘇省]]
* [[江西省]]
* [[浙江省]]
* [[福建省]] - 1885年まで台湾を含む
* [[安徽省]]
|-
! colspan = 2 | 清末に追加された省
|-
|
* [[新疆省]]
* 奉天省 - 後の[[遼寧省]]
* [[吉林省]]
* [[黒竜江省]]
* [[台湾省]] - 1895年に日本へ割譲
|}

清代末の革命家たちの中には、[[満州族]]の支配から脱し、十八省の領域において帝国から独立した国家の建国と目指し、18個の星をあしらった旗を用いた者もいたが、帝国をまるごと新しい共和国に置き換えようと、5条の旗を用いる者もいた。清が滅亡した際、皇帝は退位の宣言において新たに誕生した[[中華民国]]に全てを譲るとし、後者の考え方がこの新しい共和国の理念「[[五族共和]]」となった。ここに言う「五族」とは、[[漢民族|漢族]]、[[満州族]]、[[蒙古族]]、回族(現在の[[回族]]ではなく[[ウイグル族]]など[[新疆]]のイスラム系諸民族を指す)、[[チベット族]]のことである。5条の旗は国旗となり([[1912年]] - [[1928年]])、中華民国は清から引き渡された5つの地方すべてを収める単一の国家であるとされた。[[1949年]]に成立した[[中華人民共和国]]も、本質的には同様の領土の主張を行っているが、唯一の例外は、[[モンゴル国]]の独立を承認しているという点である。結果的に、中国本土という概念は、中国にとって好ましくない考え方となった。

清代の十八省は現在も存在しているが、境界線はかなり変更されている。[[北京市]]と[[天津市]]は[[河北省]]([[直隷]]から[[1928年]]に改称)から離脱し、[[上海市]]は[[江蘇省]]から、[[重慶市]]は[[四川省]]から、[[寧夏回族自治区]]は[[甘粛省]]から、[[海南省]]は[[広東省]]からそれぞれ離脱した。[[広西省]]は、現在の[[広西チワン族自治区]]に改められた。清末に設けられた各省も概ね維持されているが、[[新疆省]]は中華人民共和国の下で[[新疆ウイグル自治区]]となり、東北部の3省は境界が変更され、奉天省は遼寧省と改称している。

清が滅んだ時点で、チベットと内モンゴル、外モンゴルは、中国本土の行政機構の外に置かれており、チベットや外モンゴルは事実上、中国の領域から離脱したのだとする議論も可能である(詳細は、[[モンゴル国]]、[[チベット]]を参照)。清を継承した中華民国、そして中華人民共和国の政府は、領土を守るためにこの分離をなかったことにしようと努めた。中華民国は、内モンゴルを中国本土に準じて扱い、後に中華人民共和国は内モンゴル全体を[[内モンゴル自治区]]とした。チベット東部の[[アムド]]と[[カム (チベット)|カム]]北部は中華民国によて[[青海省]]に再編され、中華人民共和国もこれを継承している。最終的には、中華民国時代を通してダライ・ラマの統治下にあった[[ウー・ツァン]]と[[カム (チベット)|カム]]西部も、[[1959年]]の[[チベット動乱]]の事態を受けて[[ダライ・ラマ14世]]がインドに脱出すると、中華人民共和国によってチベット地方政府([[ガンデンポタン]])は廃止され、「西蔵自治区籌備委員会」による統治を経て、[[1965年]]に[[チベット自治区]]が成立した。一方、外モンゴルは、ソ連の援助を受けて[[1920年]]に独立した。中華人民共和国は[[1949年]]の建国に際し、同じ東側ブロックの友邦として当時の[[モンゴル人民共和国]]の独立を承認した。

=== 民族的観点 ===
<!--[[Image:China ling 90.jpg|thumb|200px|The approximate extent of [[Chinese language|Chinese]]-speaking regions, denoted in light yellow and light green. Although Chinese is spoken elsewhere, only the mainland of China and Taiwan are shown.]] -->
[[Image:China ethnolinguistic 83.jpg|thumb|200px|中国の民族分布図。漢民族が卓越する地域は茶色で、少数の分布がある場所は点で示されている。漢民族は国外にも存在するが、省略されている。]]

中国本土は、しばしば[[漢民族]]と関連づけられる概念である。漢民族は中国最大の民族集団であり、その民族性の中核には重要な要素として[[中国語]]がある。

しかし、現代における漢民族の分布は、清代の十八省の領域とはあまり一致しない。中国南西部において、例えば[[雲南省]]、[[広西チワン族自治区]]、[[貴州省]]は、明を含め代々の[[漢民族]][[王朝]]
の領域であり、清代の十八省に含まれていた。ところがこうした地域では、[[チワン族]]、[[ミャオ族]]、[[プイ族]]といった[[漢民族]]以外の民族集団が、人口を伸ばしつつある。これに対し、清代以来奨励され続けてきた漢民族の入植拡大の結果として、「満州」(中国東北部)のほとんどの全域や、内モンゴルの大部分、新疆の多くの地域、チベットに散在する一部地域で、漢民族は多数派となっている。

民族としての[[漢民族]]は、[[中国語]]話者と同義ではない。漢民族ではない中国の民族集団でも、[[回族]]や[[満州族]]は基本的には中国語しか話さないが、自らを漢民族と見なすことはない。中国語自体も複雑なものであり、相互意思疎通性を基準にして分類を試みるなら、単一の言語であるというよりは関連のある言語の一族とみなすべきものである。

なお、[[台湾の人口]]の98%は公式に漢民族と分類されているが<ref>[http://www.gio.gov.tw/taiwan-website/5-gp/yearbook/ch2.html Republic of China Yearbook 2008 -- Chapter 2: People and Language]</ref>、その大部分は先住民の血統を引いている。いずれにせよ、台湾を、中国本土の一部、あるいは中国の一部とみなしてよいかどうかは、それ自体が議論のある主題である。詳細は、[[台湾の歴史]]を参照されたい。

==関連項目==
* [[交州]]
* [[漢字文化圏]]
<!--* [[Greater China]]-->
* [[中国大陸]]
<!--* [[Metropole]]-->
* [[華北平原]]
* [[外モンゴル]]
* [[外満州]]
* [[中華思想]]
* [[中華民族]]
<!--* [[Chinese macro-regions]] - Socio-economic divisions of China proper-->
<!--* [[Willow Palisade]]-->
* [[万里の長城]]

==出典・脚注==
{{reflist}}

==References==
* [[Jean-Baptiste Du Halde|Du Halde, Jean-Baptiste]] (1736). ''The General History of China. Containing a geographical, historical, chronological, political and physical description of the empire of China, Chinese-Tartary, Corea and Thibet...'', London: J. Watts.
* Grosier (1788). ''A General Description of China. Containing the topography of the fifteen provinces which compose this vast empire, that of Tartary, the isles, and other tributary countries...'', London: G.G.J. and J. Robinson.
* [[William Winterbotham|Winterbotham, William]] (1795). ''An Historical, Geographical, and Philosophical View of the Chinese Empire...'', London: Printed for, and sold by the editor; J. Ridgway; and W. Button. (pp.35-37: General Description of the Chinese Empire → '''China Proper'''→ 1. Origin of its Name, 2. Extent, Boundaries, &c.)
* Darby, William (1827). ''Darby's Universal Gazetteer, or, A New Geographical Dictionary. ... Illustrated by a ... Map of the United States'' (p.154),. Philadelphia: Bennett and Walton.
* [[Harry Harding (political scientist)|Harding, Harry]] (1993). "The Concept of 'Greater China': Themes, Variations, and Reservations", in ''The China Quarterly'', 1993, pp.660-686.

==External links==
*[http://www.newadvent.org/cathen/03663b.htm China] The Catholic Encyclopedia
*[http://depts.washington.edu/chinaciv/geo/outer.htm Photographic survey of Outer China]

[[Category:Geography of the People's Republic of China]]

[[cs:Vlastní Čína]]
[[en:China proper]]
[[fr:Chine historique]]
[[it:Cina delle 18 province]]
[[nl:Historisch China]]
[[ru:Внутренний Китай]]
[[sv:Egentliga Kina]]
[[zh:中國本土]]

2010年2月11日 (木) 15:25時点における版

中国本土(中国語: 中國本部中國本土英語: China Proper)は、漢民族が多数派民族である歴史的な中国の領土を、中国の他の地域と対比して指す表現。通常、中国本土とは見なされない「外中国」地域には、新疆(東トルキスタン)、チベット「満州」(中国東北部)、内モンゴルが含まれる。中国本土の面積は、およそ390万km²とされている[1] [2]。中国本土は、北方の外中国の広大な領域とは、おおむね万里の長城によって区画されている[3][4]

概念の起源

「中国本土」という概念に相当する英語「チャイナ・プロパー (China proper)」などの表現が、いつ頃から西洋で用いられ始めたのかははっきりしていない。米国の中国専門家ハリー・ハーディングによれば、その用例は1827年まで遡ることができるという(Harding 1993)。しかし、それ以前にも、1795年ウィリアム・ウィンターボサムが、著書の中でこの概念に触れている(Winterbotham, 1795, pp.35-37)。清朝の中国帝国について述べる際に、ウィンターボサムは、これを中国本土(China proper)、中国領タタール地域(Chinese Tartary)、朝貢国に三分している。ウィンターボサムは、デュ・アルド[5]グロシエ[6]の説に従い、「China」の呼称は清に由来すると考えていた。その上でウィンターボサムは、「シナ(China)と、本来(properly)呼ばれるのは、... 緯度で南北18度、経度で東西はもう少し狭い範囲」と述べている。

しかし、中国本土(チャイナ・プロパー)という用語を導入しながら、ウィンターボサムは1662年に廃されたの15省体制に基づいた記述をしている。また、明の15省の地方区分と比べると、ウィンターボサムは江南(Kiang-nan)を省名としているが、この地域は明代には南直隶と呼ばれており、江南に改称されたのは満州族が明を倒した翌年1645年のことであった。この15省体制は、1662年から1667年にかけて18省体制に再編された。ウィンターボサムが中国本土(チャイナ・プロパー)の説明に、15省体制を前提としつつ江南省の名称を用いたということは、この概念が、1645年から1662年にかけての時期に登場してきたことを示している。

1795年のウィンターボサムの著書以前にも、中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が用いられている例はあり、1790年の雑誌『The Gentleman's Magazine』や、1749年の雑誌『The Monthly Review』にも用例がある[7]

19世紀には、「チャイナ・プロパー」という用語は、中国当局者がヨーロッパの言語でコミュニケーションを図る場合にも使われるようになる。例えば、清が英国に派遣した大使曽紀沢は、1887年に英文で公表した記事でこの用語を使っている[8]

論争

今日では、中国本土(チャイナ・プロパー)は、中国においても議論を呼ぶ概念となっている。現在の公式のパラダイムが、中国の核心地域と周縁地域の対比を認めていないからである。標準的な中国語である普通話で「China Proper」に相当する表現として広く用いられている言葉はない。

中華人民共和国においては、台湾新疆チベットといった領域は、中国の不可分の一部である、というのが公式の政策であり、政府が発行する公文書ではさらに進んで、これらの地域は、過去においても常にそうであったと主張されている。中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が排除されるのは、分離主義に正当化の根拠を与えるからである。一方、台湾チベットウイグル内モンゴルの分離主義を支援する人々は、文化に基盤を置いたネイションとしての「中国本土(チャイナ・プロパー)」と、政治的実体としての「中国」との区別を明確にすべきであると主張している。この観点からすると、中国本土(チャイナ・プロパー)が本来の中国であり、他の地域は中国の一部ではなく、中国によって獲得された植民地であると見なされる。

「中国本土(チャイナ・プロパー)」という用語は、中華民族の歴史的、文化人類学的な中核地域という意味で解釈される場合は、さほど論争的になる訳ではない。一般的に、この概念は柔軟なところがあり、定義も文脈によってしばしば変わっていく。繰り入れられたり、除外されたりする地域によっても、中国本土(チャイナ・プロパー)の現代における解釈は影響を受ける。台湾中華民国政府は、独立国モンゴル国となっている、かつての外モンゴルについて、それが正当に中国の一部であるとする主張を、未だ正式には取り下げていない。既に中華人民共和国が領有の主張を放棄した地域について、中華民国が領有の主張を取り下げていない例はほかにもある。

範囲

明代末の中国本土のおおよその範囲
1875年当時の十八省(台湾省の分離以前)

中国本土(チャイナ・プロパー)の範囲については、確定した境界があるわけではない。この用語は、歴史的、行政的、文化的、言語的など、多様な観点からみた、中核地域とフィロンティアの対比を表現するものである。

歴史的観点

中国本土の広がりを捉える方法のひとつは、漢民族が建ててきた古代王朝の領域を検討することである。中国文明は、中核地域である中原に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、また逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。歴代王朝の一部、特には、拡張主義的であり、中央アジアへと勢力を伸ばしたが、のように華北平原を北東アジアや中央アジアの対抗勢力に明け渡してしまうこともあった。

漢民族が建ててきた最後の王朝であるは、中国を支配した最後から2番目の王朝でもある。明は布政使司(ふせいしし)13、皇帝直属の直隷2と、合わせて15の行政単位を設けて統治を行った。満州族の建てたが明を征服した後も、明の支配下にあった地域ではこの制度が維持されたが、それ以外の清の支配地域、つまり満州蒙古新疆チベットには、この制度を広げなかった。その後、若干の制度再編があり、は中国本土を十八省(一十八行省)の体制で統治していった。西洋諸国の初期の文献が「中国本土(チャイナ・プロパー)」として言及していたのは、この十八省の範囲であった。

明代の体制と、清の十八省では、細部では異なる部分もある。例えば、「満州」の一部は明の領土に組み込まれて山東省の一部となっていたが、明を征服する前にまずこの地域を征服した満州族は、この地を中国本土に編入されたままにはしなかった。一方、清が新たに獲得した領土であった台湾は、中国本土の一部である福建省に編入された。チベット東部[9]の一部となるカム東部は四川省に編入され、現在のミャンマー北部の一部は雲南省に編入された。

清代末になると、省の制度を中国本土の外にも広げようとする取り組みが起きた。台湾は1885年に台湾省として独立したが、後に日清戦争の結果、1895年下関条約によって日本に割譲された。1884年には新疆省が設けられ、1907年には満州に奉天省(後の遼寧省)、吉林省黒竜江省の3省が置かれた。チベットや内モンゴル、外モンゴルにも同様の体制を敷く提案はあったが実施はされず、これらの地域は1912年の清の滅亡まで、中国の省制度の外に置かれていた。


清代の十八省:

十八省
清末に追加された省

清代末の革命家たちの中には、満州族の支配から脱し、十八省の領域において帝国から独立した国家の建国と目指し、18個の星をあしらった旗を用いた者もいたが、帝国をまるごと新しい共和国に置き換えようと、5条の旗を用いる者もいた。清が滅亡した際、皇帝は退位の宣言において新たに誕生した中華民国に全てを譲るとし、後者の考え方がこの新しい共和国の理念「五族共和」となった。ここに言う「五族」とは、漢族満州族蒙古族、回族(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)、チベット族のことである。5条の旗は国旗となり(1912年 - 1928年)、中華民国は清から引き渡された5つの地方すべてを収める単一の国家であるとされた。1949年に成立した中華人民共和国も、本質的には同様の領土の主張を行っているが、唯一の例外は、モンゴル国の独立を承認しているという点である。結果的に、中国本土という概念は、中国にとって好ましくない考え方となった。

清代の十八省は現在も存在しているが、境界線はかなり変更されている。北京市天津市河北省(直隷から1928年に改称)から離脱し、上海市江蘇省から、重慶市四川省から、寧夏回族自治区甘粛省から、海南省広東省からそれぞれ離脱した。広西省は、現在の広西チワン族自治区に改められた。清末に設けられた各省も概ね維持されているが、新疆省は中華人民共和国の下で新疆ウイグル自治区となり、東北部の3省は境界が変更され、奉天省は遼寧省と改称している。

清が滅んだ時点で、チベットと内モンゴル、外モンゴルは、中国本土の行政機構の外に置かれており、チベットや外モンゴルは事実上、中国の領域から離脱したのだとする議論も可能である(詳細は、モンゴル国チベットを参照)。清を継承した中華民国、そして中華人民共和国の政府は、領土を守るためにこの分離をなかったことにしようと努めた。中華民国は、内モンゴルを中国本土に準じて扱い、後に中華人民共和国は内モンゴル全体を内モンゴル自治区とした。チベット東部のアムドカム北部は中華民国によて青海省に再編され、中華人民共和国もこれを継承している。最終的には、中華民国時代を通してダライ・ラマの統治下にあったウー・ツァンカム西部も、1959年チベット動乱の事態を受けてダライ・ラマ14世がインドに脱出すると、中華人民共和国によってチベット地方政府(ガンデンポタン)は廃止され、「西蔵自治区籌備委員会」による統治を経て、1965年チベット自治区が成立した。一方、外モンゴルは、ソ連の援助を受けて1920年に独立した。中華人民共和国は1949年の建国に際し、同じ東側ブロックの友邦として当時のモンゴル人民共和国の独立を承認した。

民族的観点

中国の民族分布図。漢民族が卓越する地域は茶色で、少数の分布がある場所は点で示されている。漢民族は国外にも存在するが、省略されている。

中国本土は、しばしば漢民族と関連づけられる概念である。漢民族は中国最大の民族集団であり、その民族性の中核には重要な要素として中国語がある。

しかし、現代における漢民族の分布は、清代の十八省の領域とはあまり一致しない。中国南西部において、例えば雲南省広西チワン族自治区貴州省は、明を含め代々の漢民族王朝 の領域であり、清代の十八省に含まれていた。ところがこうした地域では、チワン族ミャオ族プイ族といった漢民族以外の民族集団が、人口を伸ばしつつある。これに対し、清代以来奨励され続けてきた漢民族の入植拡大の結果として、「満州」(中国東北部)のほとんどの全域や、内モンゴルの大部分、新疆の多くの地域、チベットに散在する一部地域で、漢民族は多数派となっている。

民族としての漢民族は、中国語話者と同義ではない。漢民族ではない中国の民族集団でも、回族満州族は基本的には中国語しか話さないが、自らを漢民族と見なすことはない。中国語自体も複雑なものであり、相互意思疎通性を基準にして分類を試みるなら、単一の言語であるというよりは関連のある言語の一族とみなすべきものである。

なお、台湾の人口の98%は公式に漢民族と分類されているが[10]、その大部分は先住民の血統を引いている。いずれにせよ、台湾を、中国本土の一部、あるいは中国の一部とみなしてよいかどうかは、それ自体が議論のある主題である。詳細は、台湾の歴史を参照されたい。

関連項目

出典・脚注

  1. ^ http://www.mainlesson.com/display.php?author=bergen&book=china&story=general
  2. ^ http://mars.wnec.edu/~grempel/courses/wc2/lectures/chinawest.html
  3. ^ http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/china/cn_glos.html
  4. ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/112797/The-Chinese-Wall
  5. ^ ジャン=バプティスト・デュ・アルド(1674年 - 1743年)。フランス人のイエズス会修道士で、自身はアジアへ赴かなかったが、イエズス会修道士たちの報告書簡を編纂し、それに基づいて1735年に浩瀚な『シナ帝国全誌』を公刊した。
  6. ^ ジャン=バプティスト・グロシエ(1743年 - 1823年)。フランス人のイエズス会修道士で、自身はアジアへ赴かなかったが、Le Roux Deshauterayes(1724年 - 1795年)とともに『中国全史 (l'Histoire générale de la Chine)』を編纂した。
  7. ^ いずれも著作権は消滅しており、Google ブック検索で全文を見ることができる。
  8. ^ Marquis Tseng, "China: The Sleep and the Awakening," The Asiatic Quarterly Review, Vol. III 3 (1887), p. 4.
  9. ^ いわゆる地理区分用語としての「大チベット」であるが、ここでは誤解を避けるため「チベット東部」と表現する。
  10. ^ Republic of China Yearbook 2008 -- Chapter 2: People and Language

References

  • Du Halde, Jean-Baptiste (1736). The General History of China. Containing a geographical, historical, chronological, political and physical description of the empire of China, Chinese-Tartary, Corea and Thibet..., London: J. Watts.
  • Grosier (1788). A General Description of China. Containing the topography of the fifteen provinces which compose this vast empire, that of Tartary, the isles, and other tributary countries..., London: G.G.J. and J. Robinson.
  • Winterbotham, William (1795). An Historical, Geographical, and Philosophical View of the Chinese Empire..., London: Printed for, and sold by the editor; J. Ridgway; and W. Button. (pp.35-37: General Description of the Chinese Empire → China Proper→ 1. Origin of its Name, 2. Extent, Boundaries, &c.)
  • Darby, William (1827). Darby's Universal Gazetteer, or, A New Geographical Dictionary. ... Illustrated by a ... Map of the United States (p.154),. Philadelphia: Bennett and Walton.
  • Harding, Harry (1993). "The Concept of 'Greater China': Themes, Variations, and Reservations", in The China Quarterly, 1993, pp.660-686.

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