アンドレイ・イヴァノヴィチ (トゥーロフ公)

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アンドレイ・イヴァノヴィチ
Леонтій ВОЙТОВИЧ
トゥーロフ公
在位 ? - 1223年

出生 12世紀
配偶者 キエフ大公ムスチスラフ3世の娘
子女 ユーリー
家名 リューリク家
父親 トゥーロフ公イヴァン・ユーリエヴィチ?
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アンドレイ・イヴァノヴィチ[1]ロシア語: Андрей Ивановичベラルーシ語: Андрэй Іванавіч1195年 - 1223年)はトゥーロフ=ピンスク・イジャスラフ家出身のトゥーロフ公である。トゥーロフ公イヴァン・ユーリエヴィチの子と考えられている。キエフ大公ムスチスラフの娘を妻とした。

1223年のカルカ河畔の戦いでは、右岸に布陣してモンゴル帝国軍を迎え撃ったが敗北し、義父ムスチスラフ、ドゥブロヴィツァ公アレクサンドルらと共に捕虜となった。モンゴル軍は捕虜となった彼らを寝かせた上に板を敷き、その上で宴会を行うという方法でアンドレイらを圧死させた。アンドレイ死後のトゥーロフ公の地位はウラジーミルが継いだ。

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  • ユーリー(be) - トゥーロフ公(1228年 - ?)

出典[編集]

  1. ^ Леонтій ВОЙТОВИЧ КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ

参考文献[編集]

先代
イヴァン
トゥーロフ公
? - 1223年
次代
ウラジーミル