オセルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オセルク、あるいはセレルク、セルク[注 1]ロシア語: Оселук、生没年不明)は12世紀のポロヴェツ族の長である。

1127年、チェルニゴフ公国フセヴォロドは、自身の叔父のチェルニゴフ公ヤロスラフチェルニゴフから追放した。そして、やがて来る討伐軍に対抗するため、ポロヴェツ族に援軍を要請した。オセルクは、オスタシュ(ru)[注 2]と共に、7千のポロヴェツ軍を率いて、ヴィリ付近に滞陣した。そしてフセヴォロドと連絡を取ろうと使者を送ったが、使者はペレヤスラヴリ公ヤロポルクの部下に阻まれた。オセルクらは、フセヴォロドと連絡の取れないまま撤退した[1]

オセルクの没年等は不明であるが、少なくとも、テュンラク(ru)とカモス(ru)という二人の息子が、年代記に名を記されている[2]。また、後のチェルニゴフ公オレグ(1053年頃 - 1115年)の妻をオセルクの娘とする説がある[3]

脚注[編集]

注釈

  1. ^ 「オセルク」はラジヴィウ年代記、「セレルク」はイパーチー年代記、「セルク」はラヴレンチー年代記中の表記による[1]
  2. ^ あるいは「タシュ」。ラジヴィウ年代記ラヴレンチー年代記には名がみられるが、イパーチー年代記には記載されておらず、諸本作成の過程で混入した非在の人物の可能性もあるという指摘がある[1]

出典

  1. ^ a b c 中澤敦夫, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(2) : 『キエフ年代記集成』(1118~1146年)」『富山大学人文学部紀要』第62巻、富山大学人文学部、2015年2月、298頁、CRID 1390290699783145728doi:10.15099/00000305hdl:10110/13459ISSN 03865975 
  2. ^ 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(3) : 『キエフ年代記集成』(1146~1149年)」『富山大学人文学部紀要』第63巻、富山大学人文学部、2015年8月、332頁、CRID 1390009224806470528doi:10.15099/00000319hdl:10110/14439ISSN 03865975 
  3. ^ В. Н. Татищев История Российская. Часть 2