クラチュ

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クラチュ(Qulaču、? - 1286年)は、モンゴル帝国に仕えた軍人の一人。『元史』などの漢文史料では忽剌出(hūlàchū)と記される。

概要[編集]

クラチュの曾祖父アチャル、祖父ジェデル、父カランジュは代々モンゴル帝国に仕えて武功を挙げてきた家系で、クラチュも父の地位を継承して昭勇大将軍となった。至元11年(1274年)からは南宋遠征に従軍し、水軍を率いて南宋軍を破った。同年9月には董文炳とともに賈似道・夏貴・孫虎臣ら率いる南宋軍を丁家洲の戦いで破り、将校37・軍5千・船40を獲得した。翌年7月には将軍アジュの下で焦山江攻めに加わり、クラチュと董文炳は敵軍の放つ矢石に身をさらしながら突撃し、多くの傷を負いながらも敵軍を撃ち破り勝利に貢献した。

その後も南宋との戦いで軍功を重ね、至元13年(1276年)の首都臨安の降伏によって南宋の滅亡が定まると、それまでの功績により昭毅大将軍とされ、その後湖州路ダルガチとされた。その後鎮国上将軍・淮東宣慰使、嘉議大夫・行御史台中丞、資善大夫・福建行省左丞、江淮行省左丞・右丞、栄禄大夫・江浙行省平章政事などの職を歴任し、至元23年(1286年)に亡くなった。 [1] [2]

なお、『元史』巻123の直脱児伝と『元史』巻133列伝の忽剌出伝は内容がほとんど重複しているとの批判がある[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻123列伝10直脱児伝,「従子忽剌出襲職、授昭勇大将軍。至元十一年、攻宋六安軍、有功。行中書省命領諸軍戦艦沖宋軍、宋軍敗、有旨褒賞。九月、師次安慶。忽剌出及参政董文炳領山東諸軍順流東下、至丁家洲、遇宋臣夏貴・孫虎臣等、戦江中、宋軍大敗、擒其将校三十七人・軍五千餘・船四十艘。十二年三月、与宋軍戦朱金沙、復有功。七月、復与宋軍戦焦山江中。時丞相阿朮等督戦、忽剌出与董文炳身冒矢石、沿流鏖戦八十餘里。忽剌出身被数傷、裹創力戦、遂勝之。九月、宋臣張殿帥攻奪呂城倉・丹陽県。忽剌出与万戸懐都往救、生擒之。十月、下常州、従丞相伯顔略蘇・湖・秀州、至長橋、遇宋軍、又敗之。十三年正月、師至杭州、丞相伯顔命忽剌出守浙江亭及宋北門。五月、揚州軍劫揚子橋堡、僅敗之。六月、敗真州軍。七月、追李庭芝至通海口、降揚州及高郵・宝応・真州・滁州等城、江南平。加昭毅大将軍、職如故。尋遷湖州路達魯花赤。十四年、進鎮国上将軍・淮東宣慰使。已而屯守上都。十五年、授嘉議大夫・行御史台中丞。十九年、進資善大夫・福建行省左丞。黄華叛、平之。二十年、授江淮行省左丞。二十三年、遷右丞。三月、進栄禄大夫・江浙行省平章政事。六月、卒」
  2. ^ 『元史』巻133列伝20忽剌出伝,「忽剌出襲哈蘭朮職、初授昭勇大将軍。至元十二年、攻宋六安軍、行省命領諸軍戦艦、遇宋軍、敗之、有旨褒賞。軍次安慶、忽剌出及政参董文炳領山東諸軍与宋孫虎臣等戦于丁家洲、大敗之、俘其将校三十七・軍五千・船四十。戦于朱金沙、又敗之。七月、及宋人戦于焦山江中、時丞相阿朮督戦、忽剌出与董文炳冒矢石沿流鏖戦八十里、身被数傷、裹創殊死戦。宋張殿帥攻呂城、忽剌出与万戸懐都生擒之。従下常州、略地蘇・湖・秀州、至長橋、大敗宋軍。大軍至臨安、伯顔命忽剌出守浙江亭及北門、敗揚州軍于揚子橋、又敗真州軍、追李庭芝至通州海口、尽降淮東諸州。江南平、加昭毅大将軍、尋遷湖州路達魯花赤。十四年、進鎮国上将軍・淮東宣慰使。奉旨屯守上都、改嘉議大夫・行台御史中丞。陞資善大夫・福建行省左丞。遷江淮行省、除右丞。拜栄禄大夫・江浙行省平章政事、以疾卒」
  3. ^ 小林1972,13頁

参考文献[編集]

  • 元史』巻123列伝10直脱児伝
  • 『元史』巻133列伝20忽剌出伝
  • 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年