タンジル

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タンジル(生没年不詳)は、大元ウルスに仕えたタタル部将軍の一人。『元史』での漢字表記は旦只児(dànzhǐér)。

概要[編集]

タンジルの前半生については全く記録がないが、1270年(至元7年)に南宋領四川遠征軍の指揮官として初めて現れる。同年には馬湖江で南宋軍を破り、1272年(至元9年)には建都の蛮を討伐した。1274年(至元11年)には嘉定を攻略し、続いて瀘州叙州を下して重慶では南宋の将軍の張万を破った。その後再び背いた瀘州が叛乱を起こすと引き返してこれを破り、安楽山の戦いでは首級500を挙げ南宋の軍船4を奪取する功績を挙げた。1277年(至元14年)春には瀘州を再び陥落させ、兵を集結させた張万と合州で戦い、タンジルは精鋭1000名とともに再び張万軍を破った。これらの功績により、タンジルは管軍千戸の地位を授けられた。

南宋領の平定が進む一方で北方では「シリギの乱」の勃発によって状勢が急変し、西方では「シリギの乱」に呼応して東進したカイドゥの攻撃に晒された。そこでタンジルも劉整らとともに西方のホータンに派遣され、1282年(至元19年)には諸王カバン・元帥マングタイとともに叛王兀盧をホータンで破った。1283年(至元20年)には諸王ババがホータンに攻めてきたが、タンジルは配下の500名のみでこれを破り、この功績により副万戸に昇格となった。1289年(至元26年)には「信武将軍・平陽等路万戸府ダルガチ」とされたが、これは四川行省に設置された29の屯田の一つの平陽軍屯[1]を管轄する職であった[2]。タンジルが亡くなると、息子の建都不花が後を継いだ[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻100兵志3,「四川行省所轄軍民屯田二十九処……平陽軍屯:置立於灌州青城・崇慶州大柵頭、為戸三百九十八名、為田六十九頃六十五畝」
  2. ^ 牛根2010,80頁
  3. ^ 『元史』巻133列伝20旦只児伝,「旦只児、蒙古答答児帯人。至元七年、従征蜀、敗宋兵於馬湖江、斬首百餘級。九年、従征建都蛮。十一年、従攻嘉定、敗宋兵於夾江、又従攻下瀘・叙諸州、進囲重慶、敗宋将張万。瀘州叛、諸軍将攻瀘、旦只児先将其衆拠紅米湾、与宋兵戦、敗之。進至安楽山、復敗宋軍、斬首五百餘級、獲戦艦四。宋兵邀漕舟於安楽山、撃走之、遂破其石磐寨。十四年春、抵瀘州、奪其戦艦五艘、還至安楽山、復与宋兵戦、殺数十人、従諸軍抜瀘州。張万挙兵欲向合州、旦只児以鋭卒千人邀撃於龍坎、斬首百餘級、万引却。賜銀符、授管軍千戸。従征斡端、至甘州。賜金符、陞総管。十九年、従諸王合班・元帥忙古帯軍至斡端、与叛王兀盧等戦、勝之。二十年、諸王八巴叛、以兵来攻、旦只児独破其五百餘衆、抜亡卒二千餘人以出、進副万戸、還戍長寧軍。宋好止寨以兵来襲、旦只児撃走之、斬首百餘級、生獲三十餘人。二十六年、賜金虎符、授信武将軍・平陽等路万戸府達魯花赤、卒。子建都不花襲」

参考文献[編集]

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻133列伝20