ドブリチ

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座標: 北緯43度34分 東経27度50分 / 北緯43.567度 東経27.833度 / 43.567; 27.833

ドブリチ
Добрич
ドブリチの市章
ドブリチの市章
ドブリチの位置(ブルガリア内)
ドブリチ
ドブリチ
ブルガリア内のドブリチの位置
 ブルガリア
州(オブラスト)ドブリチ州
基礎自治体ドブリチ
自治体全域の人口103309 人
(2005年7月5日現在)
ナンバープレートTX
標高225 m
標準時EETUTC+2
夏時間EESTUTC+3

ドブリチブルガリア語:До̀брич / Dobrich)はブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ドブリッチとも。ドブリチ州に属し、その州都である。ドブリチはブルガリアで8番目に人口の多い街であり、南ドブルジャ地方の中心都市である。黒海岸まで30キロメートルのところにあり、バルチクアルベナАлбена / Albena)、ゴールデン・サンズ(Златни пясъци / Zlatni pyasatsiGolden Sands)といった観光地にも近い。トルコ語での呼称もドブリチ (Dobriç)であるが、オスマン帝国時代の呼称はハジュオウル・パザルジュクHacıoğlu Pazarcık)、ルーマニア語ではバザルジクBazargic)、共産主義時代にはトルブヒンТолбухин / Tolbukhin)と呼ばれた。

歴史[編集]

ドブリチで確認されている最古の人の居住は紀元前4世紀から紀元前3世紀ごろである。また紀元後2世紀から4世紀7世紀から11世紀の遺構も見つかっている。そのなかには、非キリスト教式のブルガール人ネクロポリスもある。

11世紀には、ペチェネグ人Pecheneg)の侵略によってドブルジャは荒廃し、それによって第二次ブルガリア帝国の時代には地域にあった多くの集落は無人となった。

16世紀になると再びこの地に集落が築かれた。町を築いたのはトルコ人商人のハジュオウル・パザルジュクHacıoğlu Pazarcık)であり、1882年まで町の名前となっていた。1640年から1650年のトルコの資料によると、町には1000の家屋があり、100の店舗、3つの宿、3つのトルコ式浴場、20のモスク、20の学校があった。

17世紀から19世紀にかけて、町は手工芸と交易、農業の中心として発達し、繊維、手織りの織物、銅細工製品、皮革製品、農産物(オオムギ、亜麻種子、ウール、チーズなど)が売買された。 19世紀のはじめ、町の人口は12000人に達した。露土戦争によってロシア領となった地域からの難民が流入した。町の文化も発展し、初の正教会の聖堂が1843年に建造された。

町は1878年1月27日オスマン帝国から解放され、1882年2月19日に中世の支配者ドブロティツァДобротица / Dobrotitsa)にちなんでドブリチと改称された。これはアレクサンダル公の発した命令に従って行われた。

1913年ブカレスト条約によって(そして1918年ヌイイ条約で再確認された通り)、ドブリチを含む南ドブロジャはルーマニアに割譲され、1940年までルーマニアによる支配が続いた。この間、町の名前はバザルジクBazargic)と改称され、カリアクラ県Judeţul Caliacra)の県都とされた。1940年9月7日クラヨヴァ協定に従って、1940年9月25日にブルガリア領に復し、ブルガリア軍がドブリチに入城した。この日は街の祝日となっている。

第二次世界大戦後の共産主義時代、街はソビエト連邦の軍人フョードル・トルブーヒンの名前をとってトルブヒンТолбухин / Tolbukhin)と改名された。1990年9月19日、大統領命令によって街の名前は再びドブリチにもどされた。

人口[編集]

2001年国勢調査では、ドブリチ住民の86%がブルガリア人であり、8%はトルコ人、3.5%はロマであった。85%は正教会の信者であり、10%はムスリムであった。

町村[編集]

ドブリチ基礎自治体(Община Добрич)に属する街は、ドブリチのみである。ドブリチを取り巻く周辺部は、ドブリチからは独立したドブリチカ基礎自治体となっている。

街の風景[編集]

姉妹都市[編集]

ドブリチは以下の都市と姉妹都市提携している[1][2]

脚注[編集]

  1. ^ Международно сътрудничество
  2. ^ http://www.namrb.org/filesystem.php?id=12.xls[リンク切れ]

外部リンク[編集]