ノート:アテレコ論争

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記事名について[編集]

昔は若い劇団員が声優をやっていたというのは知っていましたが、そこから声優という仕事が独立していく過程の一端が伺える興味深い記事でした。ところでこの記事のタイトル「アテレコ論争」なのですが、これらの論争を全てひっくるめて「アテレコ論争」と呼んでいるような出典はあるのでしょうか。もしあるのであれば、冒頭の記事名にも出典(脚注)を加えた方がよいかと思います。--totti会話2018年1月10日 (水) 02:58 (UTC)[返信]

ありがとうございます。森川氏と辻谷氏の論文(130ページ)で東野、安部、夏川、永井四氏の論争が「アテレコ論争」と呼ばれていますので、出典を加えました。出典のページ数を細かく指定して書くようにするか検討中です。--El2l2会話2018年1月11日 (木) 18:41 (UTC)[返信]
ご対応ありがとうございました。ページ数は噛み砕いて言うと「やったら丁寧でベストだけど別にやらなくてもいい」という方針だと思いますので、El2l2さんのお好みでいいと思います。良質な記事などを目指すのであればあった方がいいかな、というくらいです。--totti会話2018年1月14日 (日) 11:50 (UTC)[返信]

記事名と記事内容の乖離について[編集]

当記事ですが、「アテレコ論争は、俳優東野英治郎が『東京新聞』に発表したコラムを発端として起こった、アテレコ演技に関する論争である」と導入部で述べているにもかかわらず、当論争とは無関係な記述が内容の9割以上を占める異常な状態となっています。特に、各年の世相や声優関連のトピックを紹介する部分は、当事者の去就を除けば完全に不要であり、Wikipedia:IINFOに抵触すると考えます。 --S.A.J.会話2022年9月14日 (水) 09:02 (UTC)[返信]

これ前史も後史もいらんでしょう。2年分ぐらい巻き戻しても差し支えないと思いますよ。--Colonan会話2022年9月14日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
「アテレコ『と』演技に関する論争」であって
「アテレコ『の』演技に関する論争」ではありません--Fgi8543hbwe会話2022年9月15日 (木) 12:51 (UTC)[返信]
追記
『と』は並列助詞である以上、当論争におけるアテレコ論が演技論に立脚されている事は明らかです
それは導入部にて引用された論文で舞台、ラジオドラマ、アニメに言及している事からも裏付けられます
そして当論文における『伝統的舞台俳優としての視点』という断定は前史と後史の期間を抜きにしては出て来ません
言わば行間、補完に当たるものを無関係な記述と認識されているのではないのでしょうか--Fgi8543hbwe会話2022年9月15日 (木) 14:00 (UTC)[返信]
追記2
「『伝統的』舞台俳優としての視点』」であって
「舞台俳優としての視点」ではありません
『伝統的』の対義語は革新的です
舞台俳優の誰しもが革新的でない事が自明であれば、『伝統的』と書くまでもありません
つまり『伝統的』なものを形成する信念との関係性こそがアテレコ論の本質であり
その思想的性格、時代精神を論じずしてアテレコ論争の記事は成立しません
記事名、導入部がそれを内包したものである以上
その不備を概略等の形で明記すれば、記事内容との整合性は保たれると考えます--Fgi8543hbwe会話2022年9月16日 (金) 12:13 (UTC)[返信]
返信 2003年の論文において演劇ラジオドラマアニメーションなどの歴史に触れているのだから、これらに関係するトピックは網羅的に記載すべき、という理解でよろしいでしょうか? そうであれば、WP:IINFOのみならず、WP:NORにも抵触します。
新しく追加された概要節では「ここでは各年の前後も含めて多面的に考察する」とありますが、ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません。たとえあなたがアテレコ論争に関係するトピックだと考えていたとしても、アテレコ論争との関係を示す信頼できる情報源がない以上は記載しないのが妥当です。 --S.A.J.会話2022年9月21日 (水) 08:59 (UTC)[返信]
@S.A.J.さんへ
この記事を主に加筆したうちの1人は本文にTemplateが貼られているため議論提起に気付いているはずですが、この議論に参加することなく1か月半以上、黙々と編集を続けており、記事増量の一途を辿っております。これはそろそろ大鉈を振るう時期にきていると思います。相手の考えが変わらないのであればその利用者も責を負う必要があります。
この記事に必要なのは東野英治郎の意見、それに対する安部徹、夏川大二郎、福田定良の反応、永井一郎、近石真介の言及、森川友義と辻谷耕史の論文、東野は発端の意見で外道という言葉は使っていないことあたりでしょう。それ以外の論争に言及のない出典による記述はアテレコ、声優、各人物など関係記事への転記も考えられる文章もありますが、この記事には不必要です。
概要には「ここでは各年の前後も含めて多面的に考察する」とありますがウィキペディアは考察自体の場ではないのでこれは他所でやってもらいたいです。論争と直接関係のない上に無出典の記述も多数あります。
主要加筆者のもう一人は記事について助詞や対義語などのワードを使っておられますが、記事名は「アテレコ論争」であってそういったものはありません。論争とは違う演技論の話はこの記事ではしないでください。--図書助会話2022年11月13日 (日) 05:54 (UTC)[返信]
利用者:S.A.J.会話 / 投稿記録さん、利用者:Colonan会話 / 投稿記録さん、利用者:図書助会話 / 投稿記録さんのご意見に賛成します。2018年11月19日 (月) 12:36 (UTC) の版番70683041あたりの内容が妥当で、それ以降の加筆は蛇足だと考えます。--侵入者ウィリアム会話2022年11月13日 (日) 07:31 (UTC)[返信]
返信 (図書助さん、侵入者ウィリアムさん宛) とりあえず、WP:IINFOおよびWP:NORに抵触する部分を全面的に削除しました。各論争の時代背景の節は残しましたが、不要であればこちらも削除します。 --S.A.J.会話2022年11月13日 (日) 08:32 (UTC)[返信]
編集の恣意的な見解を云々するのであれば、単一論文の見解を唯一の拠り所として、記事が作成されている点をまず問題にして然るべきでしょう。ましてや、論文の執筆者はアテレコの従事者であり、利害関係者に他なりません。それならば自己宣伝の疑いの残る記事の必要そのものを認めません。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 05:15 (UTC)[返信]
東野英治郎以外の論争に言及している新聞や雑誌の出典によって記述されているため論文を唯一とはしていません。アテレコの従事者というのも、そもそもその分野の人物によって言及されているものこそ使用できます。--図書助会話2022年11月14日 (月) 05:44 (UTC)[返信]
論争の有無を問題にしているのではなく、論争の位置付け、評価を単一論文に委ねている点が問題なのではないのでしょうか。然らばアテレコ論争の記事は、単一論文に焦点を絞った記載にすべきです。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 05:52 (UTC)[返信]
追記
言わば単一論文のバイアス、恣意性こそが、記事の補筆を招いているのであって、極論すれば0か100かのどちらかを選択するしかないと思われます。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 06:06 (UTC)[返信]
追記2
私も単一論文を取り寄せて読んでみましたが、1962年から19年も後の永井一郎の一方的な主張、おそらくは東野英治郎も夏川大二郎も反論の事実すら知らなかったでしょう。それを論文の執筆者がアテレコ論争に抱き合わせている所からして、その妥当性があるものか疑問です。そういうバイアスのかかった論文を元に記事が作成されている以上、記事増量の一途を辿るのも無理からぬ事と思えます。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 06:41 (UTC)[返信]

この記事は声優というサブカルチャーに関する記事なので論争を包括的に扱ったものが限られるのは仕方ないと思います。

論争において東野英治郎や夏川大二郎は1962年の発言でそれっきりのようで同じ年にあった安部徹や福田定良の発言には表立って反応していないとみられるためずっと後の永井一郎の反論を東野や夏川が知っていたかどうかは関係ないでしょう。知らなかったと断定するのもどうかと思います。

この節の議論の始まりは、論争に言及のない記述が段々と増えていったことです。それだけでなく出典が付けられていないものも散見されました。これに対してそちらはどう思われていますか。論争への言及の有無以前に出典の記述は消されてしまうのがウィキペディアです。主に加筆していったAtereko1953利用者がどういう考えなのかはわかりませんが、論文に疑問を感じたとしても無出典加筆をしていい理由にはなりません。--図書助会話2022年11月14日 (月) 07:41 (UTC)[返信]

論争を包括的に扱ったものが限られる、つまり独自研究の域を出ないような単一論文をもって、記事を作成する事自体が誤りなのではありませんか。
過去において存在したのは、「アテレコ論」であって、「アテレコ論争」ではありませんよ。それを後世の単一論文が、何人かの意見を拾い上げて「論争」だと見なしている所にこそ、既にバイアスがあるというのです。それを知っていたかどうかは関係ないというのであれば、当該記事においても論争への言及に制約されない理屈になるでしょう。前言を撤回して、記事増量の一途を辿る事に同意されるのですか?--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 08:06 (UTC)[返信]
追記
アテレコ論争があるからアテレコ論(演技論)が生じるのではなく、アテレコ論(演技論)があるからアテレコ論争が生じたに過ぎません。アテレコ論争とは言わば氷山の一角に過ぎないのです。氷山の一角であるからこそ、ずっと後に永井一郎が反論する事にもなるのです。しかし、単一論文はそれを知ってか知らずか、特定個人から発したものだと捉えるあまりに、ミスリードを招く結果となっているのです。これは指摘の通りに「論争」として最初に手を付けた限界もあるでしょう。然ればこそ論争に言及のない記述、つまり氷山の全体像を描く事も、節度ある限りにおいては許容されると思います。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 10:41 (UTC)[返信]
返信 「論争に言及のない記述、つまり氷山の全体像を描く事も、節度ある限りにおいては許容される」とのことですが、1925年治安維持法が制定されたこと、1931年満洲事変が発生したこと、1941年太平洋戦争が勃発したことなどが、一体どういう理屈でアテレコ論に関係するのか信頼できる情報源を提示して説明できますか? はっきり申し上げて、あなたが必要だと訴えている記述のほとんどはアテレコ論に関係がなく、「節度ある限りにおいては許容される」範囲を完全に逸脱しています。今後もこのような編集を続けるのであれば然るべき処置を取らざるを得ません。 --S.A.J.会話2022年11月14日 (月) 11:09 (UTC)[返信]
演劇(えんげき、英語: theater)とは、観客に対し、俳優舞台上で身振り台詞などによって、物語や人物などを形象化し、演じて見せる芸術のこと。俳優が観客を前にして、舞台上で思想や感情などを表現し伝達しようとする一連の行為であり、それらを鑑賞する目的もある。
これがWikipediaの言い分です。そして、単一論文は「伝統的舞台俳優としての視点」であると断言しております。つまりアテレコ論(演技論)を論じる為には、その主張が出て来るに至るまでの思潮こそが問題になるのは言うまでもありません。それこそ、件の東野英治郎は戦前、思想犯として治安維持法違反で検挙されていますよね。
そういう時代をも含めて「伝統的」だと単一論文は言っている訳ですよ。「舞台俳優としての視点」であれば、「伝統的」と書くまでもないとは、以前ここでも指摘していますよね。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 12:16 (UTC)[返信]
追記
「『伝統的』舞台俳優としての視点』」であって
「舞台俳優としての視点」ではありません
『伝統的』の対義語は革新的です
舞台俳優の誰しもが革新的でない事が自明であれば、『伝統的』と書くまでもありません
つまり『伝統的』なものを形成する信念との関係性こそがアテレコ論の本質であり
その思想的性格、時代精神を論じずしてアテレコ論争の記事は成立しません
記事名、導入部がそれを内包したものである以上
その不備を概略等の形で明記すれば、記事内容との整合性は保たれると考えます
もう一度書いておきましょうか。
はっきり申し上げて、あなたが不必要だと訴えている記述のほとんどはアテレコ論に関係があるのです。
単一論文がいやらしいのは、チェリーピッキングを行っている所であり、この記事の読者にとっては「節度ある限りにおいては許容される」記載の方が、遥かに誠実だという事です。それを逸脱しているかのように言われるのは、不誠実な真似としか思われません。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 12:32 (UTC)[返信]
返信 これで三度目になりますが、「あなたが不必要だと訴えている記述のほとんどはアテレコ論に関係がある」と主張するのであれば、信頼できる情報源を示してください。個人的にこれらの記述はアテレコ論に関係があると考える、というだけではウィキペディアに書くことはできないのです。仮にこれらの記述がアテレコ論に関係があるというのが事実であれば、それを示した信頼できる情報源が存在するはずです。 --S.A.J.会話2022年11月14日 (月) 12:58 (UTC)[返信]
信頼できる情報源は、この記事名の出典にもなっている単一論文だと言っていますよね。その論文がアテレコ論は「伝統的舞台俳優としての視点」に関係したものだと断言している訳です。声優の歴史というものが舞台俳優の歴史に先行していないからこそ、アテレコ論争というものが起きた訳ですよ。
例えば「」という現象を説明する際、「」について言及しない記事があるものでしょうか。月食を論じるには、まずはよりも地球とは何かを、地球よりも太陽とは何かを論じなければ始まりませんよね。アテレコ論もこれと同じ事です。アテレコ論以前に演劇論があり、文学論があるのです。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 13:13 (UTC)[返信]
追記
単一論文は「伝統的舞台俳優としての視点」と断言する以上、その現象の始まりが一体いつであるのか、これを明らかにすべきなのです。しかし、残念ながらそこまでの言及には至っていません。
そこで、このノートにおいても妥当とされた「2018年11月19日 (月) 12:36 (UTC) の版番70683041」の内容を踏まえてみる事にしました。
するとどうでしょうか、「俳優座の団員は当初、セリフが崩れるという千田是也の意見にもとづきアテレコを差し控えていた」という一文が確認できる訳です。そして、千田のキャリアのスタートを見てみると、「関東大震災後の1924年、土方与志と、土方が師事する小山内薫による築地小劇場の第一期研究生となり、第1回公演の『海戦』で初舞台を踏んだ。」とあります。
すなわち、1924年までは遡って考える事にお墨付きを与えている事になるではありませんか。これ以上の信頼できる情報源はありませんよね。--Fgi8543hbwe会話2022年11月14日 (月) 14:54 (UTC)[返信]
東野や夏川が反論を知っていたかどうかの以前に出典のない記述が主要な問題の1つです。それについてどう思われているのか答えてください。
ウィキペディアの演劇、千田是也の項目を引かれておられますがこれにも出典はありません。信頼できる情報源はウィキペディア外部の媒体を指しており、ウィキペディア自体を出典には使えません。正しいか間違っているかではなくそういった項目の文を用いていることは無出典記述が正当だと考えているのでしょうか。
ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではないことは既出の指摘です。東野が発言する以前の千田是也の経歴は千田の記事には必要ですが、この記事にはいりません。アテレコや演技よりも広い演劇界の動向まで書くのはまさに情報の無差別収集です。--図書助会話) 2022年11月14日 (月) 17:01 (UTC)追記修正--図書助会話2022年11月14日 (月) 18:16 (UTC)[返信]
>出典のない記述が主要な問題の1つです。
これは異な事をおっしゃいますな。「俳優座の団員は当初、セリフが崩れるという千田是也の意見にもとづきアテレコを差し控えていた」という一文は、" 個人的にこれらの記述はアテレコ論に関係があると考えた " 結果によるものでしょう。
東京新聞の紙面をマイクロフィルムなりで確認すれば分かる事ですが、東野英治郎のコラムには、千田是也のせの字も出て来ませんよ。つまり妥当とされた「2018年11月19日 (月) 12:36 (UTC) の版番70683041」においてすら、出典のない記述が見られる事になります。
より正確に言えば、この一文はアテレコ論争という記事が作成された初版から存在しております。
にもかかわらず、あなた方はこの編集姿勢は妥当だと認める一方で、私やAtereko1953利用者の編集姿勢は情報の無差別収集だと否定されるようです。これでは二重基準に他なりません。前者が恣意的ではないとするならば、後者もまた恣意的ではありませんよね。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 03:03 (UTC)[返信]
追記
>アテレコや演技よりも広い演劇界の動向まで書くのはまさに情報の無差別収集です。
上でも指摘しましたが、記事名の出典である共著論文を執筆した辻谷耕史は、アテレコの従事者であり、利害関係者に他なりませんよ。それも演劇からキャリアをスタートさせているような御身分です。
その彼が「伝統的舞台俳優としての視点」との一方的な見解を示しているにもかかわらず、あまつさえそれを一方的に採用して記事を書いたばかりに、アテレコや演技よりも広い演劇界の動向まで書く事態を招く事になったのです。
一方のバイアスは許容し、一方のバイアスは否定するようでは、これ以上の偏向的な真似はありませんよね。0か100かというのはこういう事です。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 03:35 (UTC)[返信]
追記2
結論を申し上げますと、記事の出発点の段階で既に編集姿勢の矛盾が見られる以上、今後も第二、第三の情報の無差別収集とやらが起きる結果になるでしょう。
それならば記事そのものを削除して情報を0とするか、もしくは読む側の判断に委ねてしまえるまでに情報を100に近付けるか、そのどちらかしかあり得ないのです。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 04:15 (UTC)[返信]
返信 「あっち」の記述を認めるなら「こっち」の記述も認めろという主張は、WP:SPEEDに該当するものであり、ウィキペディアでは認められません。この場合にすべきなのは、「あっち」の記述が記事に必要か吟味し要すれば削除することだけです。このような主張に基づいた編集を今後も続けると、Wikipedia:妨害的編集を行ったと判断される可能性がありますのでご承知おきください。 --S.A.J.会話2022年11月15日 (火) 04:46 (UTC)[返信]
>この場合にすべきなのは、「あっち」の記述が記事に必要か吟味し要すれば削除することだけです。
では、アテレコ論争の記事は、初版の段階で不必要な記述が織り込まれている事が明らかである以上、適切に対処して頂きたいものです。
新聞紙面に掲載された内容以上の記述が編集者によって書き加えられています。これは削除対象でしょう。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 06:47 (UTC)[返信]
追記
そもそも「こっち」の記述も認めろというのは、「あっち」の記述を不当だと認識し得ない御人に対する皮肉に過ぎませんよ。無理が通れば道理が引っ込むとは端から思っていないのです。
私やAtereko1953利用者が妥当ではないと考えられるだけの御見識があるのに、どうして「2018年11月19日 (月) 12:36 (UTC) の版番70683041」は妥当だと考えているのでしょうか。これが私にはまるで理解の出来ない事なのです。
是非とも説明して頂きたいものです。それが出来ないようでは、あなた方の真似こそ荒らし行為と変わらないではありませんか。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 07:05 (UTC)[返信]
追記2
1.アテレコ論争の記事は、初版からして偏向記事である。
2.加筆修正された記述は、偏向を是正したものに過ぎない。
3.それに対して記事名・記事内容が乖離しているとの主張がなされた。
4.これにより一連の記述は削除された。
5.一件落着(実際は1.に戻っただけ)
これの一体どこに正義があるというのでしょうね。
偏向記事であるとの認識を持たない限り、同じ事が繰り返されるのがオチですよ。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 07:21 (UTC)[返信]
追記3
善意の編集者の責任を問う以前に、悪意の偏向記事の責任を問うのが、筋というものです。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 07:35 (UTC)[返信]
追記4
・アテレコ論争は、単一論文が提唱、命名した一学説に過ぎない。
・アテレコ論争の記事は、初版の段階でそれを独自に解釈して編集されている。
この点についてどうお考えなのでしょうか。
「個人的にこれらの記述はアテレコ論に関係があると考える、というだけではウィキペディアに書くことはできないのです。」に抵触していますよね。どうして、それをまず問題にしないのでしょう。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 07:50 (UTC)[返信]

私は「これはそろそろ大鉈を振るう時期にきていると思います」と先にコメントした。千田是也について現在、書かれている記述について初めて表明しますが、出典自体はあるもののそれを残すかは別です。どの版に戻すかは指定しておらず、一旦リバートして後で他を整備すればいいと思いました。千田についてはいずれ消されても仕方ないかもしれませんが、あくまでも出典はあります。出典がないというそれ以前の問題の記述が認められる理由を答えてください。

辻谷耕史については既に書いたようにその分野の人物だからこそ出典に使えます。論文を疑問に感じたのなら、それに言及している文献を出せばいいんです。それについて、どうですか?

「アテレコ論争」という呼び名が特定の論文による独自のものと捉えられているようですが、以下のように他にも使用例はあります。

  • 『朗読のススメ』永井一郎、新潮社、2009年。
  • 『矢島正明 声の仕事』矢島正明、洋泉社、2015年
  • 『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』石田美紀、2020年

--図書助会話2022年11月15日 (火) 08:04 (UTC)[返信]

>どの版に戻すかは指定しておらず、一旦リバートして後で他を整備すればいいと思いました。
・千田についての記述は初版から存在しております。これより前に戻るという事は、アテレコ論争の記事そのものを削除するという事に同意されるのですか。
>出典がないというそれ以前の問題の記述が認められる理由を答えてください。
・認められるとは言ってませんよ。「節度ある限りにおいては許容される」と言ったまでです。
>辻谷耕史については既に書いたようにその分野の人物だからこそ出典に使えます。
・この理屈が良く分かりませんね。自分自身の記事を書く事と変わらないと思いますよ。
>論文を疑問に感じたのなら、それに言及している文献を出せばいいんです。
・単一論文の見解を元に記事が書かれている事が誤りではないかと言っているのです。ある種の辻谷史観でしょう。
>以下のように他にも使用例はあります。
・他にも使用例がある事が独自のものでない事を否定するものではありませんよ。1981年の永井→2003年の辻谷、2009年の永井→2015年の矢島、2003年の辻谷→2020年の石田と参照されていれば、全ての情報源は1981年の永井という事になるのですから。実際、その疑いが極めて強いのですよ。1962年から19年も後の永井一郎の一方的な主張、おそらくは東野英治郎も夏川大二郎も反論の事実すら知らなかったであろう過去の遺物が、なぜ更に22年も後の2003年にまた日の目を見ているのか。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 08:28 (UTC)[返信]
追記2
>「アテレコ論争」という呼び名が特定の論文による独自のものと捉えられているようですが、以下のように他にも使用例はあります。
他にも使用例が存在する。歴史的事実として認められるというのであれば、辻谷論文のみをアテレコ論争の記事の叩き台にする必要も無いのではありませんか。「アテレコ論争(アテレコろんそう)は、日本近代史における、文学演劇を巡る思潮を発端として起こった、アテレコ演技に関する論争である。」と書いたら却下されましたけどね。
なぜ「伝統的舞台俳優としての視点」、「声優の視点」という構図で捉えようとする単一論文に沿わないといけないのでしょう。事実と解釈を綯交ぜにする姿勢には、明らかにこれに似たものを感じますよ。
ホイッグ史観(ホイッグしかん、: Whig historiography, Whig history, whig history、ウィッグ史観とも)とは、歴史を「進歩を担った殊勲者」対「進歩に抵抗した頑迷な人びと」に分け、両陣営の戦いと前者の勝利として歴史を物語的に記述する歴史観である。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 08:43 (UTC)[返信]
追記3
・アテレコ論争の記事の初版は、2018年1月9日です。
・共著論文の執筆者である辻谷耕史の没年月日は、2018年10月17日です。
・論争の当事者の一人とされた永井一郎の没年月日は、2014年1月27日です。
アテレコの従事者、利害関係者である辻谷が、自己宣伝の為にアテレコ論争という記事を作成したとは言いませんが、記事の存在を知り得る可能性はあった事になりますね。
4者がアテレコ論を発表したという歴史的事実は、辻谷とは無関係に存在しているのだから、「伝統的舞台俳優としての視点」、「声優の視点」という辻谷の作文に左右される必要も無いと思います。
過去において存在したのは、「アテレコ論」であって、「アテレコ論争」では無いのですから。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 09:10 (UTC)[返信]
返信 あなたが問題だとしている千田氏の名前が登場する部分ですが、東野氏が設立した劇団で当時アテレコへの嫌忌が起こっていたという内容であり、東野氏が問題提起に至った背景として、少なくとも無差別収集された情報よりは当記事に関係のある記述でしょう。これはあくまで私見なので、出典の精査の上で当記事に無関係と判断されたのであれば削除に反対しませんが、その場合もこの部分のみを削除すればよく、「アテレコ論争の記事そのものを削除する」べきというのは論理の飛躍です。
アテレコ論争という枠組み自体に偏向が含まれているというのであれば、それを指摘している論文なりが少なからず存在するはずですが、あなたは自分は偏向だと思うと演説するに終始し、再三出典を求められているにもかかわらず一つも出典を挙げていません。あなたの「初版の段階で不必要な記述が織り込まれている」「初版からして偏向記事である」という主張は根拠がないばかりか、典型的なWP:DISRUPTPOINTの悪い例に該当しており、自らの編集に問題があることを指摘されたあてつけに言い掛かりをつけているようにしか思えません。 --S.A.J.会話2022年11月15日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
>東野氏が問題提起に至った背景として、少なくとも無差別収集された情報よりは当記事に関係のある記述でしょう。
千田の記述が問題にされるのは、「伝統的舞台俳優としての視点」、「声優の視点」という辻谷の私見に合致するように補強する目的で採用されているのではないかという疑いが生じるからですよ。
それを許容するのであれば、新劇に批判的であった文学者がアテレコに好意的見解を示していた事実もまた記載されても良いではありませんか。そもそも東野の発言が「声優」を念頭に置いてなされたという事を証明出来るのですか。また、辻谷がそれを証明している事実がどこにありますか。
アテレコ論争を紹介する記事というよりは、アテレコ論争に対する辻谷の見解を紹介する記事になるようでは、「アテレコ論争の記事そのものを削除する」事を要求するのは当然でしょう。
>それを指摘している論文なりが少なからず存在するはず
辻谷論文が2003年に発表されてから、2018年にアテレコ論争という記事が書かれるまで15年もかかっています。今はそこから4年も経っておりません。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 10:17 (UTC)[返信]
追記
永井一郎の最終所属である青二プロダクション(1969年創業)のページを見てみると、創業者の言葉が載っております。そこにはこうあります。
「舞台役者の副業的な地位でしかなく、満足な収入も得られず、萎縮していた声優(当時は声優という言葉もまだ無い)16人に発破を掛け、青山二丁目に設立したのが青二プロです。」
「声優の視点」という辻谷の作文は、1962年当時の状況をまるで反映してはいないのではないかという疑いがある訳です。言わば後付けの解釈、後講釈でしかない訳ですから、「初版の段階で不必要な記述が織り込まれている」「初版からして偏向記事である」という批判になるのは当然です。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 10:39 (UTC)[返信]
追記2
アテレコ論争の記事にとって必要不可欠なのは、この4つの意見とそれが存在したという歴史的事実です。
・『東京新聞』1962年2月19日朝刊、東野英治郎「“声”優に危険手当てを-他人の演技に合わす苦しみ」
・『東京新聞』1962年2月26日朝刊、安部徹「アテレコと俳優ー片輪になるとは思わない」
・『東京新聞』1962年3月5日朝刊、夏川大二郎「ビジネスと割り切れ―アテレコは特殊な技術」
・『ガンダムセンチュリー』1981年9月発行、永井一郎「細胞でとらえた演技」
にもかからず、それを恣意的に紹介したに過ぎない辻谷論文を最優先に考えたがるというのは、一体どういう思惑があるのでしょうか。真実が記載される事よりも、辻谷論文という偏向フィルターを欲しているようにしか思えません。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 11:58 (UTC)[返信]
追記3
Atereko1953利用者さんへ
ここを御覧になっている事を期待して書きます。残念ながらこの有様ですから、声優の "歴史" の項目に編集場所を移してみるのは如何でしょう。アテレコ論争の記事よりも遥かに閲覧数は多いでしょうし、あなたの目的も早期に達せられるかもしれません。
何なら私も微力ながらお手伝いしても構いませんよ。取り分けて、「1978年当時、日俳連の外画・動画部会530名、15年以上のキャリアを持つ200名が中心」という情報は、辻谷論文の破綻をも決定的にする史料価値があると考えております。--Fgi8543hbwe会話2022年11月15日 (火) 13:11 (UTC)[返信]
千田是也の記述については消されても仕方ないとはいいましたがこの記事自体を消せとまではしていません。
「許容」の言葉の意味は「許して容認すること」「そこまではよいとして認めること」、であって認めることを指しています。出典以前に芸能界から離れた事件や戦争のことまで書くのは節度の範囲を超えています。そちらの考える節度とは何なのか。無出典記述がいくつまで認められると考えているのでしょうか。
その分野の人物による文献が認められないなら新聞紙上で行われた論争自体を書くことができなきなってしまいます。例として映画において評論と制作の両方に携わる方もいますが(井筒和幸、町山智浩など)、自分が制作したわけではない作品についてその方たちの言及は出典に使えないことになってしまいます。かといって、無関係な分野の人物の出典は使えません。例えばこの記事でいうと、芸能界の話なのに天文学者による文献は使えるのかと。それと、辻谷耕史の共著論文が出典に使えるのは論争の当事者ではないからです。辻谷耕史自体の記事を本人が編集するようなことがあったならそれは避けるべきことだったのですが、特に当事者といえるのは東京新聞紙上で発言した東野英治郎、安部徹、夏川大二郎です。
他にこの論争に言及した論文がどれだけあるかはわかりませんが森川友義、辻谷耕史の共著論文発表とウィキペディアに記事ができた時期は関係ありません。ただ単に記事にする人がいなかっただけでしょう。「何なら私も微力ながらお手伝いしても構いませんよ」としていますが論文などの存在を調べもしない内に否定的な見方をしているため、自分で微力ながらとおっしゃられていることのレベルがわかるかもしれません。
そちらは「真実」という言葉を使っておられますが、ウィキペディアでは「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(Wikipedia:検証可能性)なので、サイトへの関わり方を転換していただきたいです。--図書助会話2022年11月15日 (火) 22:06 (UTC)[返信]