ノート:インパール作戦/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

中立性について

「インパール作戦を評価する考え」が広く存在することは事実であり、それを記述しないことは中立性を欠く。また、最後に追加された文

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しかし作戦の戦略目的は援蒋ルートの遮断であって、上記とは関連がなく、さらにその代償としてビルマ方面軍は終戦までに19万人の戦死者という犠牲を払うことになった。
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は「あの愛国者に報いるのも日本の使命だろう」という東條本人の発言を否定するという矛盾を抱えているうえ、「インパール作戦を評価する考え」ではなく、当該項目に追記するのは適当ではない。

上記「『インパール作戦を評価する考え』が広く存在することは事実」「『あの愛国者に報いるのも日本の使命だろう』という東條本人の発言」につきましては根拠を信頼できる情報源をノートに提示してください。 ネット上の個人サイトやブログ、放映されただけのテレビ番組の情報などは 百科事典の「出典」とするには足りません。 --1052 2006年11月3日 (金) 12:14 (UTC)

> ネット上の個人サイトやブログ
そういう考えが広く存在するということの根拠はそれで充分です。
また、『あの愛国者に報いるのも日本の使命だろう』という東條本人の発言の根拠を求めるのなら、まずは備考の執筆者に対して行うべきです。そのうえ当該項目に再び何度も繰り返して無謀な作戦だったという趣旨の発言を加えることは、編集者の主観において「評価する考え」を否定する意図がうかがえます。否定論は冒頭より繰り返され、同作戦が無謀だった旨が充分記されている以上、これは異常といえるでしょう。

fritemayonnaise 2006年11月4日 (土) 20:10 (UTC)


編集中です。

インパール作戦
戦争太平洋戦争ビルマ戦役
年月日:1944年3月8日~1944年7月3日
場所イギリス領インドマニプル州ビルマ
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
日本、インド国民軍 英印軍
指導者・指揮官
牟田口廉也中将、佐藤幸徳中将、柳田元三中将、山内正文中将 ダグラス・マッカーサー大将、クルーガー中将
戦力
第15軍隷下第31師団第15師団第33師団 86,000名 第14軍第4軍団 約150,000名
損害
戦死79,261名 戦死3,504名 戦傷11,991名

--史跡めぐり 2007年5月13日 (日) 10:11 (UTC)

本節に見出しを付加(岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月23日 (木) 13:01 (UTC)による付記)

参加・戦死数

戦死者数の内訳を編集しようとして、私の手持ちの資料が、あまりにも本文や一般に言われている事実とかけ離れているので、記事には加筆せず、ノートに置いておきます。どなたか、より正確な資料をお持ちでしたら、ぜひ加筆をお願い致します。

日本軍・各師団の戦死者
師団 参加 戦死
第15師団「祭」 2万548名 1万2300名
第31師団「烈」 2万3138名 1万1500名
第33師団「弓」 2万2376名 1万2500名
合計 6万6062名 3万6300名

124.24.192.10 2008年2月4日 (月) 19:38 (UTC)

鳥飼行博氏の自作サイトへの外部リンク及び親族の掲載

鳥飼行博氏はIPユーザーとして編集を行っている可能性があり、本稿へのご自身の親族の掲載や自作サイトへの外部リンクは「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」「Wikipedia:外部リンクの選び方」のガイドラインに反している恐れがあります。この点につき、皆様のご意見を賜りたくノートに提起します。--1052 2009年11月9日 (月) 19:36 (UTC)

当該リンクは中央大学のipから書き込まれており、鳥飼氏本人が授業を持っている等の理由で出身校へ出入りすることもありえると考えられますが、このipからの書き込みは一人であるとも言い切れず、自分は断定はまではできませんでした。 ただ、鳥飼氏および鳥飼氏の親族について書き込みしている別のアカウントChiba007も鳥飼氏のホームページへの外部リンクを同時期に大量に貼り付けており、この二つが同一ユーザーによる書き込みの可能性は濃厚ですので、まずChiba007氏に①Chiba007氏は鳥飼氏ではないのか。②該当するipでの編集はChiba007氏によるものではないのか。③前項がそうであるならば、ガイドラインに抵触しないような方法での編集をしていただけないか。以上三点を確認していけばよいのではないでしょうか? 鳥飼氏は大学準教授であり、ある程度公に名前が知られたかたですから、ソックパペットを使って同様の編集を続けるなど、無責任な行動は取れないと考えます。 --マグネシウム 2009年11月10日 (火) 08:04 (UTC)

とりあえず客観的な検証可能性の観点から問題のある部分につき、要出典としました。明記されない場合は適時該当箇所を除去いたします。 --1052 2009年12月12日 (土) 14:30 (UTC)

宣伝リンクは即時削除の対象となりますが、ipユーザーが削除・差し戻しを行っているようです。本件はChiba007氏にも確認中です。しばらく即時削除とはせず、コメントアウトして対応を待ちたいと思います。--流木の上 2009年12月14日 (月) 20:54 (UTC)

作戦は正しかったとする意見

書いても別に良いのですが、今の文章は31Dと33Dを間違えています。さすがに基礎部分なので、ここ間違えますと文章全体の信頼性に関わってきます。なので、この節を一度戻します。出典の内容を再確認してから再記願います。あと、個人的には、コヒマの完全占領はしていない件と、ディマプールの英2Dについても触れてくれると良いかなと。--Los688 2010年5月24日 (月) 16:19 (UTC)

この編集者さんは可変IPで、昨日は218.217.130.51で投稿ブロックされていますが、他にも219.167.249.176など沢山のIPでブロックされている方のようですね。編集を注視していくことにします。--Ring5ring5 2010年6月25日 (金) 03:57 (UTC)
レッテル貼りの前に内容ある議論をしてください。強行編集をしているならば、あなたも同じことです。--218.217.154.202 2010年6月26日 (土) 16:25 (UTC)

靖国街道について

要検証のタグが貼られていましたので少し調べてみました。『歩兵第二百十四聯隊戦記』p.843の三村秀氏の回想において、「ミッタ河の川岸に沿って走るこの一本の自動車道はわが師団主力(引用者注:第33師団)がインパールへ進撃し、そして今や退却して言った道路である。この道路の完勝山付近からカレワ付近までの十里(四十キロ)ほどの間をわれわれ兵隊の間で白骨街道とか靖国街道とか呼ぶようになった」とあります。自己弁護と自画自賛をするきらいがある連隊史においてこのようなものが収録されているので、ウソとは思いがたいです。また、高松伝『最悪の戦場に奇跡はなかった』p.215において、「ここからインパール街道に向かって行く、私たちの戦場までの五十キロの道は、すでにえんえんと白骨化した死体だらけの道だった。のちにだれいうとなく、この道を、”インパール白骨街道”と呼ぶようになった」と書かれてあります。高松伝氏は(第31師団)歩兵第百二十四連隊所属です。他にも探そうと思えばまだまだあると思います。どうでしょうか。

しかしなんというか、この記事牟田口将軍の武勇伝になってますね~。--Hikasuke 2010年5月29日 (土) 05:09 (UTC)

作戦終了決定の日附

日本語版、英語版ほかウィキペディアではインパール作戦終了決定の日附が7月3日と書かれていますが、手元の資料(以下)では全て7月4日と書かれています。

  • 『新訂版 昭和・平成史年表』(平凡社編、平凡社、2009年)
  • 『決定版20世紀年表』(神田文人・小林英夫編、小学館、2001年)
  • 『366日の話題事典』(加藤迪男編、東京堂出版、1998年)
  • 『雑学366年 今日は何の日事典』(井澤忠夫編、大泉書店、1994年)
  • 『20世紀全記録』(講談社編、講談社、1987年)

この違いは何でしょうか? あるとすれば日本と現地の時差でしょうか。nnh 2010年6月28日 (月) 17:06 (UTC)

参謀らは誰もインパール攻略に反対していない

多くの参謀がインパール作戦に反対していたように思われているが、実際には、反対されたのはアッサムへの更なる侵攻に対してだけであり、インパールの攻略自体は誰も反対してないし、誰も無謀などとは考えていなかった。最も強硬に反対した南方軍の稲田参謀副長も、反対したのはアッサムへの更なる侵攻と、険しい北の鵯越作戦が無理だという点だけで、インパールの攻略に関しては全然反対していない。そして実際には予定通りコヒマをほぼ占領し鵯越作戦は成功している。

インパール作戦は遅くとも1ヶ月で攻略する予定の奇襲作戦であり、それを3ヶ月以上も継続したから後半は物資が尽きたが、2ヶ月までは物資は持ちこたえている。したがって補給を軽視した作戦だったから失敗したのではなく、奇襲作戦が失敗した後、なお戦闘をダラダラ継続したから物資が尽き大被害が出たというのが正しい。

作戦としては、当時の状況ではこれ以上内はないと言うほど見事で完璧な作戦計画であり、批判されるべきは作戦計画ではなく敗因は他の点に多数ある。 現在の編集内容は、まるきりいい加減な内容です。--118.8.145.129 2010年8月10日 (火) 13:47 (UTC)

『太平洋に消えた勝機』について

『太平洋に消えた勝機』という資料が脚注にあるが、ご存知の方は著者、出版社名、発行日を書いていただけないだろか。タイトルだけでは、これが本なのかどうかも不明で一般的な出典の示し方ではない。また、資料の内容が本文にあるとおりなら、私の勝手な印象ではあるが、これはかなりユニークなものだ。失礼ながらトンデモの類でないことをはっきりさせるためにも、素性をはっきり示す必要があると思う。--Bo-ci-an 2010年8月14日 (土) 08:00 (UTC)

インパール作戦の責任を海軍に押し付けるのはひどい無理筋ですので、削除もしくは一文程度の記述に圧縮するのが相当だと思います--Littlefox 2010年8月14日 (土) 09:27 (UTC)
同意します。--Botellón 2010年8月14日 (土) 11:37 (UTC)
同意。実は話をそこに持っていこうと思って、念のため資料の出所(光文社から出ている本だろうと思っていたが)を質問したというわけ。私はその本を正しく評価できるほどこのテーマに通じているわけではないが、その本は帝国陸軍OBが自己弁護か、センセーションを巻き起こそうと、ことさら毛色の違うことを書いている種類の本とはちがうのだろうか?--Bo-ci-an 2010年8月14日 (土) 12:40 (UTC)

海軍が「対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案」に示されているインド・ビルマ方面の本来の作戦を軽視し、それには無いミッドウェーやソロモン方面で作戦を開始したために、インド・ビルマ方面の作戦が大幅に狂わされたという指摘は他の専門家もしている。--118.8.1.107 2010年8月14日 (土) 13:19 (UTC)

理解できかねますね。確かに、海軍がソロモンキャンペーンに注力するため「インド洋通商破壊」を縮小したのは事実ですが、セイロン島攻略その他のインド作戦そのものは、兵力不足を理由とした「陸軍の反対で」潰されています。ついでに言うと、この時中止された中に、インパール攻略もあったような気がしますけどね。それが二年後に、その時より更に不利になった戦力差の下で強行された結果があれだと記憶してるんですけど……私の勘違いですか?--124.18.111.97 2010年8月14日 (土) 15:18 (UTC)
何にせよ、インパール作戦の責任を海軍に負わせるのは理不尽ですね。--124.18.111.97 2010年8月14日 (土) 15:36 (UTC)
この記事の最近の編集傾向と非常に類似した見解が牟田口廉也の記事、ノートにて示されているので、ご参照ください。--Botellón 2010年8月15日 (日) 17:04 (UTC)

海軍責任論は異説系の書籍でしか見られない少数意見ですので、出典ともども削除で処理します。--Littlefox 2010年8月17日 (火) 19:42 (UTC)

「異説系の書籍」とはどういう意味でしょうか?また誰の判断でしょうか?そういったことは閲覧者が判断することです。--Ppkeiasy 2010年8月18日 (水) 04:41 (UTC)
ところで貴方は何人目ですか?いい加減CHICKUSERをするべき時期にきているのではないですかね。もちろん私も応じますけど?どうですChickUserを受けられますか?--Miwa.SS 2010年8月18日 (水) 07:38 (UTC)
ノートでの合意形成を放棄して、あえて争うのならば、コメント依頼とIPチェックの出番になりますね。--Littlefox 2010年8月18日 (水) 16:13 (UTC)
異説系どころか、「全部海軍が悪いというイデオロギーに合わせて曲解された事実の断片と根拠のない戯言とによるトンデモ本」だと、誰の目にも明らかだと思いますけどね。まあ、同書の評価は置いといて、本項目を検討しましょう。
一、「海軍の嘘の報告に陸軍も国民も騙され」など、明らかに悪意があり、中立性に欠けます。
二、「補給が殆ど無い太平洋の地域に、ビルマ方面の陸軍も次から次へと兵力を投じさせられた。ビルマの航空兵力に至ってはその殆どが南洋方面に移動させられ壊滅する結果となった」とは客観性・検証可能性に欠けます。どの部隊が、ビルマからどこに転属させられ、どう戦ってどうなったのか挙げて下さい。
三、「それによりインパール作戦では航空支援が全く出来なかった。敵の輸送機に対する戦闘機による攻撃が出来ず、敵が自由に空輸することを無力に傍観せざるを得なかった。 このためインド独立支援という本来の大儀ある作戦は失敗に終わった」と言いますが、原因はどうあれ、航空支援ができないのは作戦開始時点で既に分かっていたことですから、当然、陸軍としてはそれを織り込んで作戦を立てた筈です。その結果に関する責任は、陸軍側に全てあります。
四、「開戦前に政府と大本営で取り決めた『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』では、インド・ビルマ方面での英軍撃滅を第一優先とし、それによって米国の戦意を喪失させるという方針となっていた」とありますが、米国の戦意を喪失させるのが目標になっていたことを除き、史実に反します。まず、「開戦前に政府と大本営で取り決めた」とありますが、実際は八月頃から陸軍が研究していたものを、開戦まで一カ月を切った十一月十三日の大本営政府連絡会議に突き付け、僅か二日で承認させています。だから、海軍や政府の意見も多少は容れられたにしても、大枠は「陸軍に押し付けられた」と言うべきでしょう。次に、『腹案』で定められていた方針は、長期自給体制の確立がまずあり、次に中国の屈服、そしてイギリスの屈服を目指すと記述されています。実施要領でも、第一には長期自給体制の確立と、「凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」(注、原文は旧漢字カナ混じり。以下同じ)ことを挙げています。第二がイギリスの屈服ですが、そのために日本が執るとされた手段は、「豪州印度に対し政略及通商破壊等の手段に依り英本国との連絡を遮断し其の離反を策す」「『ビルマ』の独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺激す」の二つだけで、後はドイツ頼みとされていました。具体的には、「独伊をして左の諸方策(長文になるので抜粋しますが、「近東、北阿、『スエズ』作戦」、「印度に対」する「施策」、「対英封鎖を強化」、「情勢之を許せば英本土上陸作戦」)を執らしむるに勉む」です。また、日独伊三国共同で執るべき施策としては、インド洋経由での連絡提携と、対英封鎖関連が二項目(内容は繰り返しなので省略します)です。インド・ビルマ方面での英軍撃滅なんて、第一優先どころか一言も書いてません。 だからこそ、陸軍は南方作戦に投じたものより遥かに多い兵力を対中戦に使い続けた(インド侵攻や欧州との連絡のために計り知れない価値を持つセイロン攻略を海軍が要望した……言うまでもなく、この時点でミッドウェー海戦は起きてません……のを拒絶してまで重慶作戦を画策したりとか)のです。海軍はミッドウェーで米海軍主力の撃滅を模索し、米豪遮断を目指して(注、米国の戦意を喪失させる手段の一つとして「米豪関係の離隔を図る」という項目があります)ソロモン方面に進出したのです。
以上の理由により、本項は存続させるに値しないと考えます。長文失礼しました。--124.18.111.97 2010年8月18日 (水) 18:00 (UTC)

上記124.18.111.97氏による4点の内一~三は当該書のインパール関係の節に記述された内容であり、それを擁護派氏が反映したと思われる、四は当該書1942年頃のくだりに書かれていたもの。(岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月23日 (木) 13:01 (UTC)による閲覧者向けの付記)

不正な使用をしなければ、新しいアカウントを取得することは禁止ではないはずですが?ですが誤解を招かないよう、このアカウントでログインします。こちらはストーカー行為にあっており、掲示板で基地外だの右翼だのレッテルを貼られ、こちらの編集は全て差し戻すと宣言されてます。そのような環境では固定したアカウントで長くは、とてもやってられません。ウィキペディアでは異なる意見を排除する言論弾圧は、戦前の日本より酷いのではないでしょうか。 「海軍の責任」の項目は一旦削除します。おおむね出典の内容にそってますが、若干表現が違う部分があるからです。 正確でなけれ著者にも迷惑ですので。--Dosok-3 2010年8月19日 (木) 12:40 (UTC)

私と致しましては、誰と話しているのかよくわからない状況では非常に困ります。海軍悪玉・陸軍善玉論を執拗にウィキペディアで主張している人物は、はたして貴殿一人なのでしょうか。それとも見た目のまま(IP編集も含め)十数人存在しているのでしょうか。そんな基本的な事も判然としないまま対応を続けるのも、少々辛い物がございます。何とお呼びすればよいのかさえもわかりません。
せめて特定の記事、もしくはジャンルの中でだけは、署名は統一して頂きたく存じます。そういう意味で、厳密には議論の撹乱と言う不正行為に該当する可能性があります(もっともこの程度で投稿ブロックなどに至る事は、まず無いと考えますが)。
インパール作戦、東條英機、牟田口廉也に見られます一連の書き込みは、ほぼ全て貴殿お一人のものである、との認識でお話を続けさせて頂いてもよろしいのでしょうか?是非とも明確なお答えを頂戴致したく存じます。--Hman 2010年8月19日 (木) 13:37 (UTC)
私は基本的には無記名での編集を希望しています。そういう利用法が許されている以上、匿名性は尊重されるべきではないでしょうか?誰が誰だかわからないのは、こちらも全く同じです。どれとどれが同じ人物かわかりません。こちらも本当は固定したアカウントで堂々とやりたいのですが、一人でいくらでもアカウントを使える現在の仕組みでは、新参者には圧倒的に不利です。現在の仕組みでは、こちらもアカウントを信用できないのです。だから匿名性も尊重されているんではないでしょうか。議論を撹乱させるつもりは毛頭ありません。--Dosok-3 2010年8月19日 (木) 14:40 (UTC)
ならば話は簡単。ChickUserを受けてください。私も受けます。あと、いい加減敬称を略すことぐらい憶えてください。--Miwa.SS 2010年8月20日 (金) 04:05 (UTC)
「おおむね出典の内容にそって」いるものがツッコミどころ満載ということは、その出典がトンデモ本だということなのですが……気付いてらっしゃいますかね(冷笑)。
公平に見て、匿名がどうとかじゃなく、事実に基づいて編集を行えば消されないんじゃないかと思います。ウィキペディアは、トンデモな妄想を垂れ流す場ではありません。その内容が、海軍の責任がどうの現場の師団長が無能だっただのといった誹謗中傷とあっては何をかいわんやです。
ともあれ、Dosok-3氏にはもっと勉強なさることをお勧めします。例えば、「第十八師団長当時、牟田口はインパール攻略に反対した。しかし、第十五軍司令官就任後は、強硬に推し進めた。つまり、自分が行かねばならない立場である時と、安全な場所から行けと命令するだけの立場になった時とで、意見が百八十度変わっている」だとか。「『インパールの』攻略は可能だとされていたが、牟田口は実現不能なアッサム侵攻を言い出し、反対を押し切って兵力を分散させた。そのせいで、インパールの攻略さえ失敗に終わった」だとか。「二十五日間の作戦予定なのに支給された糧秣は十日分だった。そのため多くの部隊は、目的地に到着する前から鹵獲物資……いわゆるチャーチル給養……に頼っている。一例として、コヒマに向かわされた烈師団宮崎支隊は、途中のサンジャックで鹵獲した食糧物資のおかげで何とか到達(≠攻略)できたのだが、このサンジャックは祭師団が落とすべきとされていた場所であり、本当なら宮崎が手出ししてはいけなかった。つまり、コヒマに辿り着けたのは牟田口の命令が正しかったからではなく、牟田口の命令を無視したからである」とか、「弓師団の進撃が遅れたなどと言うが、与えられていた命令は、インパールの攻略ではなく英軍の牽制だった。つまり、事実上、早期突入は禁じられていた」とか、「一部部隊は日露戦争当時の超旧式兵器(三一式山砲)で戦わされた」だとか。--124.18.111.97 2010年8月20日 (金) 17:16 (UTC)

狭い視野で物を見るか、広い視野で物を見るかの違いではないでしょうか。 『太平洋に消えた勝機』がトンデモ本かどうかは、読者が決めることです。書評を見ると多くの読者が評価しています。繰り返しますが、大東亜戦争の基本方針は『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』で定められており、インパール作戦はその方針に忠実に従ったものです。牟田口の発案のみで強行されたわけではないということです。だれが司令官だろうと、この作戦は実施されていました。

海軍がこの国の基本方針を逸脱して南洋で暴走したために、ビルマ方面の計画が無茶苦茶にされたという見解は非常に説得力があります。海軍はマスコミで宣伝して戦力をもっと出せと要求ばかりし、それを湯水のごとく消費するばかりでしたが、牟田口ら15軍は、与えられた戦力だけで文句も言わず、それでいかに戦うかを非常に苦心しました。

それからコヒマを占領しただけでは意味が無いです。一刻も早くディマプールを占領しなくては。そうするとやはり、牟田口の当初の主張どおりにやっていれば良かったという話になる。結局、上層部参謀らは邪魔をして作戦時期を遅らせただけで、ディマプールを攻めてはならないという事になってしまった。参謀らが余計な口出しをせず、牟田口に全て任せていれば、もっと早い時期に作戦は成功していたということです。結果を知った上で改めて有効な作戦を立てて見ようと考えると、牟田口の主張どおりの作戦と同じになると思います。--Dosok-3 2010年8月21日 (土) 12:17 (UTC)

その本の内容は一般論でも歴史学の立場でも、受け入れられる理屈ではありません。少なくともインパール作戦において補給を無視して立案・決行した挙句、飢餓地獄に陥ったという本質について、海軍には何のかかわりも無いことであって、件の本の主張どおり航空優勢を得れたとしても補給線がつながるわけではありません(日本陸海軍は空中補給を行える資源を持ち得なかったのですから)。本記事で海軍に責任転嫁することが許されるという前例を作るならば、太平洋戦争の記事全てで「そもそも真珠湾攻撃を始めた海軍が悪い」とか「満州事変を起こした陸軍が悪い」みたいな押し付け合いを認めるも同然であり看過することはできません--Littlefox 2010年8月21日 (土) 13:20 (UTC)
インパール作戦は「腹案」に沿ったものであり、それを無視した海軍の暴走によって作戦は遅延し、航空兵力が壊滅したために作戦失敗の一因となった。このことは出典がある以上、書かなくてはならない。他にも書かなくてはならないことが多々ある。だれが悪いと判断するかは閲覧者が判断すべきことです。--Dosok-3 2010年8月21日 (土) 16:33 (UTC)
太平洋戦争はよく研究されていて日本語の文献も入手しやすい分野ですが、インパール作戦の失敗の責任が海軍にあるなどという主張は極めて奇異です。他の参考文献に見られない独自の意見であり、他の研究者に認められている形跡もありません(もし他の研究に引用されているとかあったら教えてください)。それゆえに最大限に譲歩しても「○○という主張があるが認められていない」という書き方になります。そして、特筆に価しないと皆に判断されればwikipedia削除されます。私はこの主張は論理的に無理があり削除が相当だと思います。次に内容について。太平洋戦争当時、日本の国力の限界から各地で攻勢限界点に達していたのは事実ですが、では太平洋戦線を縮小してでもインドを制圧するべきだったのか?それは可能だったのか?という論争に発展するものであり、おいそれと海軍が悪いと断ずることができる性質のものではありません。少なくとも一作戦にすぎないインパール作戦の記事で論じるには場違いも甚だしいものです--Littlefox 2010年8月21日 (土) 18:09 (UTC)
「ディマプールの占領など当時の烈師団の実情を考えると不可能であり、である以上、コヒマに兵力を分散したのは牟田口のミスで、インパールに集中するべきだった。牟田口のミスがなければインパールは落とせた」……何でこんな簡単なことが分からないのか奇怪ですが……まあ、言っても無駄ですかな。
さて。Littlefoxさんも仰っておられる通り、海軍がこの国の基本方針を逸脱して南洋で暴走したために、ビルマ方面の計画が無茶苦茶にされたというのは当を得ません。そもそも、海軍以上に陸軍中央が、インドやビルマのことなんざ二の次以下にしていたではないですか。例えばビルマ作戦は、元々予定になかったものを、マレー作戦というか南方作戦を背後から邪魔させないためだけに追加されました(真珠湾攻撃がそうであったように)。また、連合艦隊が提示したセイロン島攻略作戦を対中戦のために潰したのは参謀本部です。当然ですね、『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』は、対英より対中、それ以上に長期自給体制を重視していますから。
太平洋戦争全体に関して海軍の暴走と言うなら話は別ですが、それにしても陸軍に責任がないとは言えません。根拠は以下の通り。
一、米豪遮断は『腹案』に書いてあります。よって、ソロモン方面への進出は暴走とは言えません。二、良くも悪くも、陸軍は海軍に引っ張られるだけの無力な組織ではありません。あくまでも陸軍なりの都合と計算があってそれに乗ったのです。例えば、ニューギニアに出て行ったのは、蘭印などの南方資源地帯の外郭陣地にするため(ついでに言うと、ビルマもそういう位置付けです。英軍が西から資源地帯を脅かすのをビルマで止めるのも、米軍が東から(中略)ニューギニアで止めるのも、理屈は同一なのです。だから、英軍よりも米軍が強大であれば、他のどこでもなくビルマからニューギニアへ兵力が回されるのは当然でした。それを海軍のせいだとでっち上げたいなら、「どの部隊が、ビルマからどこに転属させられ、どう戦ってどうなったのか」の例示と「陸軍の意志や失策でそうなったのではない」証明を願います)&海軍が落とせなかった(注、MO作戦というか珊瑚海海戦)ポートモレスビーを陸軍の手で落とすため(注、スタンレー作戦)です。また、不勉強なので具体的なことは言えませんが、南方作戦終了後に東條英機がオーストラリア攻略も可能だと言い出した(史実です)影響も皆無ではないと思われます。
そして、こういったことに、あの本は触れてませんよね。他にも、自説に都合の悪い事実は故意に無視している例は、あの本(と言うか、あの作者の本)では枚挙に暇がありません。作者と支持者がどれほど妄信しようとも、そういうのはトンデモ本と定義されます。
最後に。「海軍はマスコミで宣伝して戦力をもっと出せと要求ばかりし、それを湯水のごとく消費するばかりで」と言うなら、陸軍も同じですよ。それが史実です。つまるところ、陸軍だけを悪者にする主張に無理があるように、海軍だけを悪者にするのも論理的とは言えません。--124.18.111.97 2010年8月21日 (土) 19:45 (UTC)

「腹案」の方針ですが、それはアジアで英国を屈服させアジア独立を誘発し、蒋援ルートを遮断し、それにより政治的に米国の戦意を喪失させ、出来れば対米和平に持ち込む狙いです。 日本は中国と戦争はしていません(汪兆銘政権を中国代表と認識)し、アメリカと戦争して勝てるとは誰も考えていません。だからこういう方針だったのです。東条内閣や陸軍は、海軍(というか連合艦隊)がまさか真珠湾を奇襲するとはこの時知りません。--Dosok-3 2010年8月22日 (日) 02:25 (UTC)

あー……何を言っていいものやら。『腹案』は、対米和平を目指すとはしていますが、そのためにアジアで英国を屈服させ云々なんて一言も書いてない(土台、アジア植民地の失陥だけで大英帝国が傾くわけもない)ですよ。あくまでも長期自給体制確立がトップです。そして、対中(『腹案』では「重慶政権」または「蒋政権」と表現)戦です。その次が対英戦。
とにかく、『腹案』がどうだこうだとおっしゃるのは、『腹案』をちゃんと読んでからにして下さい。私が言うのはそれだけです。--124.18.111.97 2010年8月22日 (日) 07:08 (UTC)
牟田口廉也において、コメント依頼に付すという動議が提案されています。論議の発端となった筆者は同一で、問題の内容も同質ですので、本項も併せてコメント依頼に付すことを提案します。--Ring5ring5 2010年8月26日 (木) 07:09 (UTC)
動議提出者(?)のHmanです。一応ノート:牟田口廉也の方で、宣伝の同意を取り付けてから・・・と考えて居たのですが、この際でございますので、改めてこちらで告知させて頂きます。現在牟田口廉也は一ヶ月の全保護中でございまして、この期間内に大筋の合意を形成致したく考えてございます(詳しくは当該ノートをご覧下さいませ)。一体不可分である両記事における混乱の収束の為、皆様のご協力をお願い致したく存じます。--Hman 2010年8月26日 (木) 07:21 (UTC)
結局どの立場への記述であれ、ソース無しで加筆すること、Dosok-3氏など一部の方については精読していないことに一番の問題があるように思いますが・・・岩見浩造 2010年9月12日 (日) 06:46 (UTC)
議論の発端となった『太平洋に消えた勝機 下巻』を読みました。一つ断っておきたいのは著者と擁護派氏は別人格であろうと言うことです。上記124.18.111.97氏により4点言及があり、情報源の要求も含まれていたのですがDosok-3氏は無反応なのでとりあえず捕捉します。
  1. 一の海軍への不信感ですが、平櫛孝『大本営報道部 言論統制と戦意高揚の実際』などで当の陸軍側の報道部員が描写しているので、全責任はどうかと思うが全く根拠が無いとまでは言えません。誇大性、世論操作の程度において陸軍より酷かったと言う考えは当事者にもあります(第三者たる研究者などから見て正当と評価しているかは別ですが、私はそこまで突っ込んだ研究は読んでないので)。
  2. また、二の航空兵力の引き抜きですが、これは児島襄「悲劇のインパール作戦」『太平洋戦争 下巻』P133に記述があります。1944年1月にニューギニア方面への抽出があり、第5飛行師団の爆撃戦力が重軽77機から24機に減少したそうです(他機種の抽出状況は同書では未記載)。もっとも、だからこそ124.18.111.97氏の言う三の問題が発生するわけですが。ちなみに、抽出前の第5飛行師団戦力は合計221機で、インパール作戦開始時(1944年3月10日)の連合軍航空戦力735機(内100機は中国への空輸任務に使用)の3割程度になります。ベンガル湾に最盛期の第一機動艦隊位の増援でも送り込まないとパリティにならない数で、トラックの防衛すらおぼつかない日本海軍にそんな増援を送る余裕が無かったのは御存知の通りです。
  3. 当該書のインパール戦の前提として、ビルマでの戦い自体が無駄だったと言う認識がありますが、擁護派氏はオミットしています。また、この著者はそれでもビルマ防衛に固執するなら「ウ号作戦」のような攻勢防御以外代案が無い旨主張し、それが牟田口に対する感情的な非難への批判に繋がっていますが、牟田口が前線でとった行動までは触れていません(恐らく都合が悪過ぎるからでしょう)。こうしたことも擁護派氏はオミットしていますね。勿論、実際には作戦を中止する、突進を止め持久戦に移行するといった様な進言があり、これが代案に相当するわけですが。
一つ確実に言えるのはインパールを含むビルマ戦に価値を見出していないことを言及していない擁護派のDosok-3氏の姿勢にはやはり問題があるということです。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月23日 (木) 13:01 (UTC)

インパール作戦及び牟田口廉也についての議論の告知

ノート:牟田口廉也#インパール作戦及び牟田口廉也の記事の基本的な方向性についての議論において、インパール作戦、牟田口廉也、両記事の基本的な方向性を確認する議論を開始致しました。まずは大枠での合意形成という形ですが、最終的には困難ながらも、両記事間の混乱を終息に導くことを目指します。活発な議論を期待し、謹んでご報告致します。--Hman 2010年8月26日 (木) 20:12 (UTC)

大変不本意ながら、上記議論において、現状のままではご納得頂いた上での合意形成は非常に困難と判断し、Wikipedia:コメント依頼/Dosok-3_他IPを提出致しました。私は以前の事件(有れば、の話ですが)についてはあまり存じ上げませんので、もし必要であれば関係各所へのご通達の程をよろしくお願い申し上げます。--Hman 2010年9月6日 (月) 02:31 (UTC)

上記コメント依頼でございますが、残念ながらWikipedia:投稿ブロック依頼/Dosok-3 他IPに場を移す事と相成りました。お忙しい中度々お騒がせして恐縮ですが、皆様の広く客観的なご意見が必要と考え、改めて告知とさせて頂きます。よろしくお願い致します。--Hman 2010年9月19日 (日) 18:05 (UTC)

戸田とは誰でしょうか?

脚注にある「戸田(1991)」って誰ですか?失敗の本質の1991年版のことでしょうか?いずれにせよDosok-3氏との議論にリソースが割かれたのか、こうした基本的な情報提示にも問題があると思います。それに、『失敗の本質』の初版は1984年の単行本ですし改稿はしていない筈なので年の表記も改める必要があります。岩見浩造 2010年9月12日 (日) 06:46 (UTC)

該当箇所の執筆者です。ご指摘の通り、戸田は戸部の誤りです。お詫びして訂正します。出版年の件については、ダイヤモンド社版はご指摘の通り1984年初版なのですが、直接に利用したのは中公文庫版(1991年初版)なのです。内容が全く同じであれば、初出のダイヤモンド社版を参考文献とするのが望ましいとは思うのですが、あいにくと所持していません。現物を見ないでダイヤモンド社版を出典として挙げるのは、ページ番号のずれを招く恐れなどあり不適当と存じます。1984年版をお持ちであれば差し替え、加筆を願います。--Snlf1 2010年9月12日 (日) 15:28 (UTC)

了解しました。私も実はコンパクトな文庫版を入手し単行本は図書館でしか見てないのでページのずれ修正まではちょっと出来なかったりします。ただ、脚注ではなく参考文献欄にて読者の方に初版は1984年だよと書いておくほうがいいかなとは思いましたので。私も協力はしたいのですが、ちょっと溜まっている案件があるので編集に関してはSnlf1さんその他の方々の御随意になさってください。岩見浩造 2010年9月12日 (日) 16:07 (UTC)

英語版からの翻訳について

上述の議論について静観していてこのことに気づきました。日本側関係者の評価等とは別の話ですが、日本側文献に頼っているためかどうしても記述が日本側からのものになっています。せめて英語版のAir Operations at Imphalの節位は訳出して本文に組み込みたいところですね(場合によってはやります)。岩見浩造 2010年9月12日 (日) 06:46 (UTC)

同意します。できる限りお手伝いさせていただきます。--Botellón 2010年9月15日 (水) 00:41 (UTC)
英語が堪能であるとは到底申し上げられない身の上でございますので、お手伝い致しますとは申し上げられませんが、英軍側からのそれが記述されれば、記事により深みが出る事は請け合いでございます。また、本記事には出典が非常に少なく(これは中立性が怪しいとも取れます)、根本的な大改造が必要かもしれません。なお、ノート:牟田口廉也にて、利用者:Snlf1さんが「高木の一連の著作は創作部分が多く半ば小説、よって出典としては不適切では?」と指摘なされている事を、念のためこちらでも報告させて頂きます。私も同感でございますし、また、高木の著書に頼らずとも、それなりの記事が執筆可能である事にも疑いを持ちません。読み物としては実におもしろいのですけどね。--Hman 2010年9月20日 (月) 15:51 (UTC)

手持ち資料等

翻訳に先立って手持ち資料とネット上で最低限の使用に耐えそうなものをリストアップしておきます。今後各種インパール関連書もチェックしていくつもりですが、まずはこれでご勘弁を。とりあえず連合軍サイド且つ穴埋め的な内容が多いです。英語版は脚注もしっかりしており訳するには良い土台になりますが、背景は若干薄いと思われ、そのまま持ってくるだけでも芸がないでしょう。

  • 児島襄「悲劇のインパール作戦」『太平洋戦争 下巻』P119-172 中公文庫、1974年。ISBN 4-1220-0117-X
  • 福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』叢書、国際環境、中央公論社、1979年
    • 第四章より「二 太平洋の二ルート進攻と中国、ビルマ戦場」「三 オーバーロード開始とレイテ作戦決定」
  • 新見政一「22 極東戦略に関する英国首相(戦争内閣と英国幕僚長会議の間の意見の対立)」『第二次世界大戦戦争指導史』P469-489 原書房、1984年
  • アルバート・ウェデマイヤー「第十九章 ビルマ奪還計画」『第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー回想録』講談社学術文庫 初出1958年
  • フィリップ・ナイトリー「奇行家ウィンゲートの活躍」『戦争報道の内幕』P328-331 中公文庫
    • ※事実上広報上の観点のみ
  • 泉谷達郎『ビルマ独立秘史』P221-222
    • ※後日談でビルマ軍の動揺に簡単に触れる

ここからは誰もが使用可能な資料になります。

  • 平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書防衛研究所
    • サキ·ドクリル「対日戦に関する英国の大戦略(PDF形式)」
    • 戸部良一「戦争指導者としての東條英機(PDF形式)」
    • ブライアン·ボンド「軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—(PDF形式)」
    • 赤木完爾「日本の戦争計画におけるイギリス要因—「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで—(PDF形式)」
    • グラハム·ダンロップ「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ—1941~45年—(PDF形式)」
    • 荒川憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に—(PDF形式)」
    • マイケル·ドクリル「英国の航空作戦指導—マレー及びビルマ—(PDF形式)」
  • 相良俊輔インパール作戦の敗将 牟田口中将の晩年
    • ※牟田口が「たとえパーカー中佐の証言によって、インパール作戦が間違っていなかったことを確認し得たとしても、数万の部下を死なせたという事実は、けっして消えはしない。やはり、私の心は生きている限り、晴れやしないのです・・」などとあり、通説的な牟田口像とも異なり、自己否定している点でDosok-3氏の考える牟田口像とも反するが、当該サイトには出典がない。『偕行』か初期の『軍事研究』?御存知の方おられましたら御教示下さい。
  • (5)白骨街道」『京都新聞』2006年8月22日
    • マラリアとその対策についての記事。
  • 関口榮『「翔んだ青春」-父が体験したインパール作戦-
  • 小田敦己『一兵士の戦争体験 ビルマ最前線
    • 現状本文では携帯サイトのほうになっているのでこちらが良いでしょう。
  • 田中善輝「白骨街道」『平和祈念展示資料館

アジア歴史資料センター収蔵資料はGoogleのクローラーで拾い切れていない為不明です。ネット上の資料については、まず『平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書』の熟読が必要でしょうが、回顧録も一部の編集者のような無理押しがある状況下では一定の価値があるとは思います。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月21日 (火) 15:23 (UTC)

追記:英語資料については英語版のリスト・外部リンクを参照してください。多分それで裾野としては一通り足りる筈。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月21日 (火) 15:24 (UTC)

連合軍側の状況ですが、戦史叢書や陸戦史集以外の邦文でしたら磯部卓男氏(元歩兵第215連隊将校)の『インパール作戦』、『イラワジ会戦』、『日米両軍の決戦』が参考になると思います。この3部作は、日米英印の公刊戦史および部隊史などを参照しつつ軍事的観点から著された本です。Hikasuke 2010年9月23日 (木) 02:18 (UTC)

ありがとうございます。今度探して見ます。とりあえず昨日NF文庫の『祭兵団インパール戦記』『菊兵団ビルマ死闘記』を入手しました。一応全般の動きにも触れている感じの本です。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月23日 (木) 13:01 (UTC)

英語版で挙がってるAllen, Louis (1984). Burma: The longest War. は邦訳されてますね。ルイ・アレン『ビルマ 遠い戦場―ビルマで戦った日本と英国1941-45年』(原書房、1995年)。どこに埋もれたのか見つからないのですが、たしか中巻がインパール関連。ちょっと日本側文献の扱いが雑な本だった気もしますが、英側の資料に基づく個所を使う分には問題ないでしょう。
それから、現状で手薄な航空戦に関しては、梅本弘『ビルマ航空戦』(大日本絵画、2002年)の下巻がインパール関連を含みます。日本陸軍航空隊の活動を連合軍側史料で裏付けた内容だったと思います。--Snlf1 2010年9月23日 (木) 15:21 (UTC)

本日図書館等で『インパール作戦』(磯部版)、『ビルマ 遠い戦場』に目を通しました。どちらも大変優れた内容で御紹介いただいたことについては、改めてお二人にお礼申し上げます。

さて、磯部氏は本の後半で防研で発表しても遜色ないと思われるレベルの研究を行っています。ここで、牟田口氏への評価や作戦の責任論への「定番の」評価例は数多く出ています。

  • A・スウィンスン『四人のサムライ』
  • 藤井重夫(陸軍報道班員)『非風ビルマ戦線』(日本軍にとりこの作戦にとって第一の敵)
  • 佐藤師団長、山内第15師団長、林義秀第53師団長(鬼畜、功名心、名誉欲)
  • 第15軍司令部参謀中尉中井氏、第31師団参謀野中氏(共に人格異常者として描写)
  • 英第14軍司令官スリム中将(名指ししてないが、他の将官とまとめて低評価)
  • 第15軍甲谷主計少尉(英軍20数万を屠ったと「作戦成功」を主張する牟田口の弁を聞く)
  • デリック・タラク少将(ウィンゲート師団参謀長)『ウィンゲート空挺団』(牟田口は英軍では全く評価されていないと明言

なお、私が保有している児島本、NF文庫、『平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書』、磯部氏、アレン氏いずれも牟田口に対する評価は尊大、神がかり、空挺部隊(ウィンゲート)に無理解等々、上記の方々と大同小異です。擁護派は定説と言う言葉自体が気に食わないそうですが、読売新聞で連載していた大戦特集記事やNHKのインパールものでも愚将扱ですし、吉田俊男氏だか半藤一利氏の指揮官モノの本でも愚将扱いですよ。そういうのは定説と言います。チャーチルは名指しこそしてないけど回顧録の河出版(抄録)を見るだけでも日本側の作戦指揮の問題をかなり挙げてますね。評価的な記述をしているのは持久戦での抵抗位のものです。それも現地の守備兵に対して向けられている。

牟田口氏の自己弁護については

  • 国会図書館での録音
  • 英第四軍参謀バーカー中佐は『デリーへの進軍』
  • 『丸』昭和39年12月1日号での山岡荘八氏との対談

などが上がってますね。河辺氏も『週刊サンケイ』昭和37年11月16日で本作戦に触れてますが、「言い訳はしない」と言明しており、態度に差が見られることが指摘されてます。国会図書館での録音の裏事情(予定外のところを無理強いして実現したとされる件)は今のところ出所を見つけてません。

これらの記述は牟田口氏本人の項目編集に当たっても大変有用かと思われます。私はWikipediaにおいて脚注、本文での出典掲示ばかりしてきましたので、これらも各記事に合った形で反映していきたいと思います。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月25日 (土) 13:30 (UTC)

追記 なお、磯部氏の本の5章の表題は「インパール作戦は必要でなかった」です。擁護派の聖典『太平洋に消えた勝機』は代替案が無い等と書いてありますが、まあこれが代替案と言えるでしょう。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年9月25日 (土) 13:44 (UTC)

牟田口廉也からインパール作戦への一部転記のご相談

毎度お騒がせして申し訳ございません。利用者:Hmanです。さて、牟田口廉也の記事なのですが、

の節は専ら牟田口と言うよりもインパール作戦について述べられておりますので、こちらに転記した上で体裁を整えるのがよろしいのではないかと考え、転記についてのご意見の募集、及び最終的な確認を取りたいと思っております。ご意見がございましたらノート:牟田口廉也#基本的な方向性についての議論2の方まで、よろしくお願い申し上げます。--Hman 2010年10月4日 (月) 11:24 (UTC)

報告 昨日一部転記を実行致しました。私の手による文章改変は行ってございません。転記が適切に行われたかのご確認、および編集やご意見の程をよろしくお願い申し上げます。--Hman 2010年10月12日 (火) 02:12 (UTC)
確認しました。おつかれさまです--Littlefox 2010年10月12日 (火) 11:48 (UTC)
転記作業、大変おつかれさまでした。今後はこちらでの編集作業ということになりますが、その前提として、これまでの「Dosok-3」との一連の対話で記述内容に相当の問題があることが判明していますので、「一般的な認識とは異なる見解」の項目全体についての出典の信頼度、及び「Dosok-3」による記述全体、また同人物による「引用」そのものが果たして正確なものであるか、今一度確認する必要があると思います。--Botellón 2010年10月13日 (水) 15:10 (UTC)
そうですね。加筆用に当方でストックしている情報もございますが、そちら関係は手つかずでございます。出典元をお持ちの方がいらっしゃれば、第一に記述内容を歪曲せずに記述なされているかの確認、第二にそもそも情報として有用であるかの確認、でございますね。二点が満たされるのであれば、現状はちょっと記述が重苦しいのでうまく整理した上ででございますが、無理に情報量自体を落とす事は無いと思います。文献をお持ちの方、最寄りの図書館などで容易に借りられる方のお力に期待します。何分私は沖縄住まいの身、他の記事も抱えてございまして、相互貸し出しもすぐと言う訳には参りません。やはり都会が一番です。--Hman 2010年10月13日 (水) 18:28 (UTC)
「一般的な認識とは異なる見解」の項ですが、「Dosok-3」の記述内容の信憑性が確認ができるまでこの項を一旦非表示としてはいかがでしょうか。もちろんそれは異なった見解の排除を意図するものではありませんが、これまでの編集内容に問題が多いため、まずは資料をお持ちの方にこのノートにて今後の記述の重み付けの前提として正確な記述の検証を行っていただければと思います。--Botellón 2010年10月24日 (日) 09:42 (UTC)

確かに一応出典は明記されておりますが、怪しいか?と問われれば、私も怪しいですと申し上げるよりございません。私はいち編集者として、一端コメントアウト(編集の利便性を考えれば当面の期間はこれがよろしいでしょう)に全く反対はしない、との見解を表明させて頂きます。--Hman 2010年10月24日 (日) 09:51 (UTC)

皆様、お世話になります。転記などお疲れ様でした。とりあえず以前から話していた連合軍の戦略レベルの動きは英語版でも薄いので文献から作成しました。たたき台程度のつもりです。これから出かけますのでとりあえず報告だけ。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年10月29日 (金) 02:22 (UTC)

論争点について節を設けてはどうか

皆様、お世話になります。さて、上記のようにDosok-3関係は一旦コメントアウトされた訳ですが、永久にそのまま放置するわけにもいかないわけです。牟田口の全般的な責任については大田、佐藤晃両氏以外は程度の差こそあれ、ほぼ一致していると言えますが、下記の点についてはそうでもありません。

ディマプール進撃論争

31師団のディマプール進撃の是非については若干論争化の傾向があります。牟田口と佐藤幸徳も論者ですが、そういう人を省いても、下記に例示しますと、

  • アーサー・スウィンスン氏:『コヒマ』にて河辺と牟田口の命令を比較した上で「牟田口の方が実際正しかった」と書く。
  • 荒川憲一氏:上記に対して「しかし、これは日本軍を過大評価しすぎている。」と反論
  • 不破博氏:戦史叢書『インパール作戦』にて、「ディマプールに突進を命じたとしても実現困難なことはその後のコヒマ争奪戦の経過が証明している」 と記載。
  • 牧野弘道氏:『あの戦争』にて上記に対して「ただの敗北主義的分析ではないだろうか。(中略)一気にディマプールを突く手はあった筈 」
  • 大田嘉弘氏:未読(元になった軍研記事の表題と他の人の話だと進撃論者、と言うことで良いですね?)
  • 磯部卓男氏:『インパール作戦』P282で「ディマプール突進問題」として議論。否定派。バーカー中佐の書簡もこの点で位置づけし、突進論として取り扱う(抗命に載ってる手紙を読めば明らかですな)
軍律・命令論争

児島氏と第33軍参謀野口省己氏は軍律の点から佐藤幸徳氏を批判しています。野口氏の著書は『回想ビルマ作戦』(光人社NF文庫版)ですね。なお児島氏は柳田師団長の統制前進にも批判的です。佐藤、柳田氏を支持する見解を拾ってくるのは楽なのでノートでは省きます。高木俊朗、磯部卓男、戸部良一、荒川憲一氏がそうですから。

このように、牟田口以外の点ではスタンスに違いがある以上、上記二題は論者と出典を明示した上で各論を併記する必要性はあると思います。他にも野口氏の早期撤退で断作戦成功論とか高木氏の『昭和史の天皇』批判とかありますけど、とりあえずはこれだけ。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月8日 (月) 15:03 (UTC)

なお、上述だと牧野氏は一見牟田口擁護論者に見えますが、東条、河辺には甘くても牟田口には終始批判的です。また、『コヒマ』の記述はアーサー氏によるある種の皮肉、という「解釈」もネットでは流通しているようですが、検証可能性を満たす出典を見つけていない為、今回は落としてあります。著名な方による皮肉との解釈を御存知でしたら御教示願います。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月8日 (月) 15:16 (UTC)

賛成です。上記2点以外の異論は、あっても通説に沿った本筋に補足的に織り込む程度で足りようと思います。--Snlf1 2012年1月21日 (土) 06:27 (UTC)
賛成。通説を本筋として、論争もあると簡単に箇条書きで付け加えるだけでいいと思います。結局のところ、史実と違うIFの意見は”たら、れば”の話でしかありませんので、誰の意見か明記して紹介程度でいいと思います。--Kamkamkam 2012年1月21日 (土) 08:49 (UTC)

牟田口の指揮を評価した連合軍側の見解 出典について。

出典とされてる資料名と、実際に出典と記述されてる書籍名が食い違っており、いわゆる孫引き状態となっていますので原典に記述が確認されるまで、未検証タグを貼らせて頂きました。--Kamkamkam 2011年12月31日 (土) 16:27 (UTC)

合意事項の告知案

ノート:牟田口廉也での合意事項をこちらにも反映する形でノートに掲示したいと思います。Template:合意内容を用い、文案としては下記のものとなります。

  • 作戦全体に関わらない牟田口廉也個人についての事項は、本記事ではなく牟田口廉也に記載すべきことが合意されています。(合意の経緯は議論1および議論2参照)

議論参加者・原因が2つの記事に共通しているので問題はないと思いますが、念のためこちらの記事でも確認させて頂きます。異論のある方は、議論の分断を避けるためノート:牟田口廉也#基本的方向性についての合意事項の告知テンプレ、過去ログ化にてお願いします。--Snlf1 2012年1月23日 (月) 14:45 (UTC)

報告 異論が無いようなので実施しました。--Snlf1 2012年1月30日 (月) 12:33 (UTC)

不正な多重アカウントばかりが編集した歪曲した当該記事は削除しましょう

ウィキペディアの恥さらしです。--はまやらわ 2012年2月5日 (日) 14:24 (UTC)

Wikipedia:削除の方針#削除対象になるもののどのケースに該当するのでしょうか。--むじんくん 2012年2月5日 (日) 14:29 (UTC)