ノート:エピステーメー

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パラダイムとの関係[編集]

パラダイムとの違いについて「違う」といってるだけで説明がない。賢人の加筆を待つ。--126.133.17.0 2019年12月19日 (木) 12:04 (UTC)----[返信]

質疑応答[編集]

質問[編集]

本項目の記述の大意は、賛成できる。ただし、

>誰もがそれが持つ思考体系には逆らえず、すべての人間の思考はメタ知識構造に支配されるという構造主義的見解を示す。

少なくとも、構造主義はそのような単純なものではない。むしろ人々が、その時代状況や環境状況において適切であると判断して、行動・思考した結果、メタレベルが発生するのであり、その逆ではない。別に逆らえないわけでもなく、支配されているのでもない。たんに、それが時代において適切であったに過ぎない。

>この考え方によれば、ある時代の社会を支配する「エピステーメー」から開放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しない、という批判もあった。

誰の批判なのか明記すべき。ちなみに、このような見解から、映画監督ゴダールは、フーコーを批判した。

>この考え方の背景には、『言葉と物』で展開した、ラングとパロールの絶対的一致というよりは、単一的なラングの存在とともに多元的なパロールの存在を認める、というものである。(以下略)

これは誰の発想なのか。事実、『知の考古学』を見ても、この様な解釈は書いていない。これが個人的な解釈なら、ウィキペディアにはふさわしくない。もしこれを明記するなら、その出典元、フーコー自身か他の解説者かの書籍等を、明記する事。

>(ラングとパロールの相対化した関係を記す事によって、ポスト構造主義における本概念を明確化した。)

上記同様。パロールとラングは、ソシュールの概念であるし、それを用いる事は認められる。しかし、これが正しい例であるのかは不明。また、これがポスト構造主義という「曖昧」な概念を説明しうるのか、甚だ疑問。そして、ポスト構造主義者である事も構造主義者である事も、フーコーは認めていない。

回答[編集]

エピステーメーの破壊、というのは『言葉と物』の結論の一つであるとの理解です。フーコー自身は意図した結論ではない、といっているが、ゴダールの感想のように社会的に与えたインパクトは免れないのではないでしょうか。

また、多元的パロールという概念自体を『知の考古学』で使っていた、というのはたしかに誤りです。しかし、それに該当する概念として、「ディスクール」および「エノンセ」という概念を使っています。(これは彼の著書前半部分に記載されています)

あまりに細部の概念に立ち入るのを避けたための言及でした(言及したかった事に違いはありません)。彼はいわゆる「ポスト構造主義」的な概念を使用して、多元的な観点の存在を主張しているのではないでしょうか?

フーコー自身が、「構造主義」か「ポスト構造主義」かカテゴライズされる事を嫌がった、というのは確かにおっしゃるとおりだと思います。

しかしながら、問題なのは彼がどのカテゴリーに入ることを好んだのか好まなかったのか、について議論することではなく、現代社会および現代思想の議論の中で、彼をどのように位置づける事が重要なのか、ということではないかと考えます。

彼の「エノンセ」なり「ディスクール」なりの概念がどのような社会事象を説明し、また現代社会に生きる市民達を勇気づけるのか、を考える事が重要であると考えています。