ノート:ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー

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本文中の要検証部分について[編集]

本文中において検証を要すると思われる箇所がありましたので、ひとまず下線とタグを付加しました。

タブリーズの人々がモンゴルの到来以前はパフラヴィー語を話していたが、イルハン朝の間に古アゼルバイジャン語(Adhari Turkish)を話すようになったと述べている。また、マラーゲアルダビールの人々がそれぞれ別のペルシャ語の方言を話しているとも述べている

となっている所で、英語版の

In his works regarding the history of Tabriz, Mustawfi mentions that before the arrival of the Mongols the people of Tabriz spoke Pahalavi Persian and later began to speak Adhari Turkish during Illkhanate rule. He also mentions that the people of Maragha, Zanjan and Ardabil had their own Persian dialects.

となっているところをそのまま訳されたのだと思いますが、Le Strangeによる『心魂の歓喜(Nuzhat al-Qulūb)』地理篇の校訂・英訳本を確認した限りでは、マラーゲの項目でそれと思われる箇所しか見付けられませんでした。なお、『心魂の歓喜』校訂・英訳本のマラーゲザンジャーンの項目では以下のように書かれてありました。

زبانشان پهلوى معرّب است --Le Strange/Nuzhat, p.87.

"They speak a Pahlavī (Persian dialect) mixed with Arabic." --Le Strange/Nuzhat, p.87 (p.88).

زبانشان پهلوى راست است --Le Strange/Nuzhat, p.72.

"Their speach is a pure Pahlavī (dialect)." --Le Strange/Nuzhat, p.72 (p.67).

校訂本にもある معرّب mu‘arrab とは、普通は「アラビア語化した」という意味のアラビア語の形容詞・名詞ですので、マラーゲの項目のこの1文は、

「彼ら(マラーゲの人々)の言葉はアラビア語化したパフラヴィー語(پهلوى معرّب Pahlavī-yi mu‘arrab)である」

となります。しかしながら、英語版で上げられているザンジャーンの項目では پهلوى راست Pahlavī-yi rāst と書かれており、راست rāst とはペルシア語で「正しい」という意味の普通名詞や形容詞ですので、Le Strange が "a pure Pahlavī" と訳した通り、このザンジャーンの項目でのこの1文は、

「彼ら(ザンジャーンの人々)の言葉は純正なる(正しい)パフラヴィー語( پهلوى راست Pahlavī-yi rāst)である」

という程の意味になります。同書のアルダビールの項目では残念ながら住人達の言語状況については特に何も書かれていないようですので、少なくとも英語版やこれに基づいた今の版の当該箇所の一文は『心魂の歓喜』に依拠したものではないのではと思われました。

タブリーズの言語状況についても、英語版では"In his works regarding the history of Tabriz"と書かれていますが、"... before the arrival of the Mongols the people of Tabriz spoke Pahalavi Persian and later began to speak Adhari Turkish during Illkhanate rule" 云々の部分に相当する部分は、やはり『心魂の歓喜』のタブリーズの項目(本文 p.75-80。特にタブリーズの歴史に触れた部分)では見付けられませんでした。"In his works regarding the history"と書かれているので、『選史』や『勝利の書』にあるのかとも思われますが、残念ながら『勝利の書』については現行刊本を収蔵している大学図書館等は国内では限られるため、今現在の自分には調べられるか怪しい感じで、検証には時間が掛かりそうです。『選史』については追って報告出来るかと思いますので、『心魂の歓喜』での再度の調査もありそうですが、ひとまず調べた限りの事について附記致しました。----Haydar会話2016年5月12日 (木) 23:31 (UTC)[返信]

(花) 色々調べて下さり、ありがとうございます。本項の初版を書いた者です。要検証の箇所は、ご推測の通り、英語版をそのまま訳しています。「コンテンツ翻訳」ツールを試してみたくて、短めの記事で翻訳してみました。それはさておき。要検証の箇所は、なるほど怪しい感じですね。英語版ウィキペディアでは、en:IP:182.182.125.36会話 / 投稿記録この編集で追加した内容です。このIPはWHOISではパキスタンカラチのIPのようです。履歴を見てもそれほど怪しくはないのですが。このIPユーザの勘違いか思い込みで書いてしまったのかもしれません。日本語版でも、裏付けがとれるまで、要検証の箇所は削除してしまってもいいと思います。--QuirkyQuidnuncY会話2016年5月13日 (金) 15:23 (UTC)[返信]
QuirkyQuidnuncYさん
お疲れ様です。こちらこそお手盛りで簡単な調査でざっとした事しか述べられず恐縮です。 ムスタウフィー・カズヴィーニーの項目で当時のイラン北西部の「ペルシア語の状況」が云々されるのはやや唐突な感じがしましたので、手持ちの資料で確認を取った感じでした。『心魂の歓喜』では14世紀当時のイラン各地域の「ペルシア語」の状況についてどこまで言及しているのか ぱっと見ではあまり良く分かりませんが、『心魂の歓喜』英訳版の索引で見た限りでは「パフラヴィー語」については三カ所触れられているようでして、上述のマラーゲザンジャーンの項目に加え、第5章「シルヴァーン及びグシュタースフィー州」において、現在のアゼルバイジャン共和国のカスピ海沿岸部北部のグシュタースフィー(Gushtāsfīi)という都市について、「彼らの言語はギーラーン人(の言葉)に似たパフラヴィー語である」("...speaking a Pahlavī dialect that is near akin to the language of Gīlān." 英訳 p.94)と述べられています。(ちなみにこの部分やタブリーズ等の部分は先年京都大学に移られたルーム・セルジューク朝等がご専門の井谷鋼造先生が日本語訳をされています。井谷鋼造「Nuzhat al-Qulub に見えるアルメニアとジャズィーラの諸都市」『東洋文化学科年報』3号 1988年 [1]
まだ調べ切れている訳ではありませんが、17世紀に Muḥammad Mufīd Mustawfī Yazdī という人物がおりまして、やはり Mukhtaṣar Mufīd という地理書を残しています。まだ詳しくは確認していませんが、こちらも17世紀当時のそれぞれの地域の言語状況をいくつか報告しているようですので、もしかしたら英語版のIP編集者氏はこちらの記述と勘違いした可能性もあるかも知れません。いずれにしても、本項目のムスタウフィー・カズヴィーニーについてはリンクに上げられているイラン百科事典でセルジューク朝〜モンゴル帝国時代前後のイラン史の専門家である Charles Melville 教授が記事の執筆をされているので、本記事の編集もそちらの記述に準拠した方が確実だろうと思われます。(先程『選史』(`Abd al-Ḥusain Navā'ī校訂)を見たところ、第6部カズヴィーンの地誌のムスタウフィー家の項目で、ムスタウフィー本人や彼の兄弟等がラシードゥッディーンに良く評価された云々という、『勝利の書』と同じ事を述べているらしい箇所を見付けましたので、一応ご報告までに) --Haydar会話2016年5月15日 (日) 15:39 (UTC)[返信]
コメント 問題の疑わしい記載の除去なりコメントアウトなりをするつもりだったこと、すっかり忘れておりまして、つい今しがたやりました。追記されたいことがありましたら、ぜひぜひ、お願いします。「『イラン百科事典』の記述に準拠して記事を作ればいいのでは」というサジェスチョンは、たしかに私もそう思います。なので、2015年6月29日-7月6日あたりの編集で、そのように「生涯」節を書いてみたのですが、そもそもモストウフィーに興味がある人は英語が読めるだろうし、既に適切に要約されている百科事典の項目をさらに、わざわざ要約しても意味があるのだろうかという気分に取り付かれてしまい、中途半端なところで中断しております。ところで、英語版ウィキペディアは、想像以上に各種勢力のバトルフィールドになっているようで、中東/西アジアの歴史関連の項目については、イラン対アラブ、ムスリム対それ以外の情報戦のような記載が見つかることがあります。ただ漫然と翻訳するのはダメだなあと思いもします。--QuirkyQuidnuncY会話2016年6月16日 (木) 00:14 (UTC)[返信]
お疲れ様です。 QuirkyQuidnuncYさんの直された部分の出所をもうちょっと調べてから編集しようかなあと考えてはいたんですが、サファヴィー朝以前のイランの言語状況についての論文なりをまだ調べていない事もあって自分も放置状態にしてしまってました。久々に記事を覗いたら冒頭部分がいまひとつピンと来ない感じがしましたので、とりあえず入れるだけ手を入れようと加筆したのですが、いささかお手盛りな感じだったかと恐縮する限りです。日本史関連の記事も重要なところでは編集合戦も大概なものがありますが、昨今研究が盛んな海域史や対外関係史の項目も研究動向の把握よりも記事編集者の私的な断定が大量投稿されて却って通読が困難な物もまま見られますね… ムスタウフィーはまだそこまで影響は出ていないかも知れませんが、モンゴル帝国関係は何かしら「文明社会に対する残虐非道なる侵略者・モンゴル」のビジョンが強い傾向にあり、残念ながら英語版等からの翻訳記事は基本的にこのビジョンに占められている感じです。
 これはイルハン朝史関係がご専門の渡部良子先生が十年以上前に「しにか」という雑誌のモンゴル帝国の特集号等で述べられていた事ですが、モンゴル帝国・イルハン朝以降に西アジアや中央アジアに移住したテュルク・モンゴル系の人々がムスリム化した後、「アッラーは一つの民族には一人の預言者を遣わされる」的なイスラームにおける宗教的歴史観を反映して、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンもテュルク・モンゴル系の人々における「預言者的な君主」と位置づけられたようで、この「テュルク・モンゴル系の預言者的君主」というチンギス・カン像は続くティムール朝サファヴィー朝ムガル朝等にまで受け継がれていたのだそうです。この「預言者的な君主」とか「異教徒の共同体における公正なる君主」の代表例として、イスラーム世界におけるアレクサンドロス3世像であるイスカンダル・ズルカルナインであるとか、サーサーン朝ホスロー1世とかがいるのですが、チンギス・カンもイルハン朝以降はこれらと同じ位置付けであり、かつテュルク・モンゴル系の人々にとって「仰ぐべき模範である祖先的君主」として位置づけられていたようです。これはカージャール朝の半ばまで続いていたようですが、19世紀半ばに西欧のナショナリズム興隆の影響で、イランにもイラン(ペルシア)・ナショナリズムが勃興し、イランにおけるチンギス・カン像もそれまでの「テュルク・モンゴル系の預言者的君主」「仰ぐべき模範である祖先的君主」から「イラン世界を破壊した侵略者」のイメージにまで転落してしまったのだそうです。(「文明世界の破壊者・侵略者としてのチンギス・カン像」は今でも欧米や日本ではしっかりと『現役』ではありますが…)
 歴史関係の記事を編集する場合も、QuirkyQuidnuncYさんも仰る通り、現在のナショナリズムや何かしらのイデオロギー的な予断やらを背景にした対立をなるべく相対化して、歴史研究での成果を可能な限り斟酌した上で記事編集に勤めるべきだなと改めて痛感する所です。(自分の関わっているところではバグダードの戦いをどうにかしないといけませんが、こちらも資料上の難点にぶち当たってしまってかれこれ半年調べ作業が滞っています(汗)
 本項目のムスタウフィーは記事本文でも触れられていますが、あのラシードゥッディーンに縁故のある人物で、かつその息子のギヤースッディーンに仕えた財務官僚であった上に『選史』『勝利の書』等『集史』の系譜に属す歴史書を書いた人物であり、『心魂の歓喜』のようなイルハン朝の国政研究でも欠かせない地誌を著している事は十分に触れるべき人物でもあります。特に『選史』と『勝利の書』はオルジェイトゥからアブー・サイード時代の同時代資料としての重要ですので、イラン史、モンゴル帝国史、イルハン朝史を語る上でも欠かせない一人である事は念頭に置きつつ編集に当たるべきかなと思います。出来れば『イラン百科事典』のムスタウフィーの項目を書かれたメルヴィル教授のあげられたソースも加味しつつ自分も編集出来れば、百科事典の記事としては体裁を保てるかなものとも。--Haydar会話2016年6月16日 (木) 17:45 (UTC)[返信]