ノート:宗派

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大学付与の理由について[編集]

さて、仏教系宗派については、各宗派が設立した大学が、各宗派の項目の背後に表記されているのですが、これはどういった理由からなのでしょう?教育も布教の1つであるというのは理解出来るのですが、キリスト教やその他の宗教の項目もありますので、仏教だけを充実させるわけには参らず、そちらも充実させなければなりません。ですが、キリスト教については、既にミッション系大学の項目の方で、宗派毎の詳細な分類が為されていますので、同じ物を作成する意味は薄いです。かといって、ほったらかしにしておくわけにも参りません。何かいい打開策はございませんでしょうか?--Kstigarbha 2005年7月18日 (月) 18:24 (UTC)[返信]

その辺りは、Youtetsuさんにお聞きするしかないのではないですか。カレッジの方に移動させるというのも一案かとは思われますが、如何でしょう。Adonis 2005年7月19日 (火) 03:28 (UTC)[返信]
(追記)宗派は全世界に存在するのに、大学は日本に存在する物だけでよいのか、という疑念が新たに発生。--Kstigarbha 2005年7月20日 (水) 09:10 (UTC)[返信]
Youtetsu氏にはノートで呼びかけてみたものの、3月以降活動されていないご様子。カレッジはカレッジで、また問題が少々あり。そこで、ミッション系大学に倣って仏教系大学の項目を立ち上げて、取り敢えず、そちらへ転記する事にしてみました。--Kstigarbha 2005年7月24日 (日) 10:53 (UTC)[返信]
連絡が大変遅くなり失礼いたしました。大学付与の理由につきましては日本の仏教宗派がどのような形で教育に関与しているのかを示す事で重要だと思っておりますが、皆様はいかがでしょうか?確かになくても良い項目であると思いますが・・・。大変遅くなり失礼いたしました。--Nick_hihi 2005年8月27日 (土) 15:53 (UTC)[返信]

宗教一覧との統合について[編集]

内容が宗教一覧と重複していますので、履歴が古く、より詳しい宗教一覧の方へ統合しては如何でしょうか?--Kstigarbha 2005年8月2日 (火) 10:39 (UTC)[返信]


(追加)仏教キリスト教については、それぞれ一覧を分置した方がいいかもしれません。(新宗教についても)--Kstigarbha 2005年8月3日 (水) 04:59 (UTC)[返信]
(コメント!) REDIRCTで、いいんでないの? (どっちでも、エエことやけど。 要するに、「宗教一覧」でも「宗派」でも、利用者が検索できれば、それで、エエんちゃうちゃう?) 。(個人攻撃の文章のため除去 Kstigarbha 2005年8月4日 (木) 13:01 (UTC))。 202.209.48.66 2005年8月4日 (木) 02:59 (UTC)[返信]
確かに、結果的には宗派がRedirectになるのですが、部分的に宗派の方が記述が詳しい箇所があるので、取り敢えず統合依頼で、広くご意見を伺おうかという次第です。--Kstigarbha 2005年8月4日 (木) 13:01 (UTC)[返信]
(統合) 内容的には、一致するものなので、統合しても問題ないでしょう。 Wei Yuan 2005年8月5日 (金) 04:35 (UTC)[返信]
10日経過し、賛成も得られたので統合作業を開始致します。--Kstigarbha 2005年8月11日 (木) 15:47 (UTC)[返信]

修正について[編集]

既存の記事を大いに参考にしつつ、大幅に修正しました。尾山令仁氏の見解については、百科事典に載せることではないので削除しました。宗教集団論について記載したい場合は、より的確な出典を見つけるべきです。--Ara-Ara 2010年4月11日 (日) 14:07 (UTC)[返信]

以下、利用者‐会話:Ara-Araより引用。

初めまして、Resto1578と申します。
Ara-Araさんは「ノート:宗派#宗教一覧との統合について」にて「既存の記事を大いに参考にしつつ、大幅に修正しました。尾山令仁氏の見解については、百科事典に載せることではないので削除しました。宗教集団論について記載したい場合は、より的確な出典を見つけるべきです。」と仰られましたが、Ara-Araさんが「宗派の実態」とセクションに分けて記述された出典が明示されていません。何を参考にして執筆されたか出典の明示をお願いします。WP:ESを参照してください。)
私が「宗派」の記事に加筆した、「広義」・「教義」に関して削除された理由も、要約欄・ノートにありません(Wikipedia:案内文の文例#記事内の記述の削除についてを参考にしてください)。また架空の例として「所属教団と宗派の関係の例」の表を作成されましたが、転派や単立化のことを仰りたいと思いますが、理解しにくいです。
浄土真宗の場合は、宗旨=浄土真宗・宗派=浄土真宗本願寺派・浄土真宗東本願寺派など、明確に「宗旨の名称」と「(狭義としての)宗派の名称」を使い分けている教団があります。
ノート:宗派にセクションをたてて、ご回答頂けたらと存じます。--Resto1578 2010年4月11日 (日) 16:44 (UTC)[返信]
メッセージありがとうございます。ノートにてご返答させていただきます。--Ara-Ara 2010年4月11日 (日) 16:55 (UTC)[返信]

引用終り。--Ara-Ara 2010年4月11日 (日) 19:19 (UTC)[返信]

  • 1出典の明記ですが、事実の積み重ねなので、これが出典とは言いにくいです。お望みなら個々の出典や例示をしめします。煩雑になるのを避けるために簡潔に記述したのですが、具体的に詳しく書けとおっしゃるなら、もっと詳しく書きたいと思います。疑問点をおっしゃってください。
  • 2表の理解しにくさについては、反省しております。説明が足りなかったものと思います。おって追加したいと思います。
  • 3削除について。
   広義では、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」を意味する「宗旨」と同義語として用いる。狭義では、「宗旨の分派」を意味する。
   「宗旨」と「宗派」が異なる場合の例。
       (宗旨)真言宗 - (宗派)高野山真言宗・真言宗智山派など
       (宗旨)浄土真宗 - (宗派)浄土真宗本願寺派・真宗大谷派など
   宗旨名と宗派名が一致する場合。
       「宗」として成立してから分裂しなかった場合。
       華厳宗・融通念仏宗・曹洞宗・時宗・黄檗宗など
       分派があっても、1つの宗派が名称を継承した場合。
       法相宗・律宗・天台宗・浄土宗・日蓮宗など 

を私が削除しました。

単刀直入に申し上げると、意図と意味が分かりにくいです(私も文章がヘタで、人の事を言えた義理ではありませんが)。よって執筆するなかで参考にしつつ削除しました。「広義では、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」を意味する「宗旨」と同義語として用いる。」という部分については、典拠をお教え願います。国語辞典にもこのような用例はないし、『岩波仏教辞典』にも金岡秀友『仏教宗派辞典』にもこのような説明はありません。

もちろん、「真言宗」という言葉には「真言宗の教え」という意味があるでしょう。しかし、「宗旨」という単語と「宗派」という単語は置き換え可能だというような説明は不適切かと思います。同じ宗派でも厳密には宗旨が違うこともあると思います。 浄土真宗が「宗旨=浄土真宗・宗派=浄土真宗本願寺派・浄土真宗東本願寺派」としているのは、浄土真宗東本願寺派(東京本願寺)が浄土真宗本願寺派(京都・西本願寺)から教団内部の政治的理由で分派したからで教義上の理由ではないということです。東西本願寺の場合も同じです。真言宗でも大覚寺派と御室派あたりは同じ宗旨といえるでしょう。このような場合は宗旨は同じといえますが、例えば、浄土真宗の例でいうならば、真宗高田派は廟堂留守職の権威を認めていませんから、教義が違うといえます。大まかには宗旨は同じですが、厳密には異なるということになります。あなたが例に出しておられる真言宗智山派も新義派なので、古義の高野山真言宗とは教義が厳密には異なります。

だから「大まかな宗旨・宗派を漠然と意味している場合」と私は書いたのです。多少の差異があるから「大まかな」とし、総称として、あるいは一般名称として使う場合、どこまでが一つの宗派なのか(親鸞会は浄土真宗なのか、とか)が非常にあいまいなので、「漠然と」と書いたのです。 「「宗旨」と「宗派」が異なる場合の例。」とありますが、この場合の「宗派」が何を意味しているのかよくわかりません。これは書き換えれば「「伝統的な宗派名」と「現在の教団名」が異なる場合の例。」ということですね。

「「宗」として成立してから分裂しなかった場合。」とありますが、曹洞宗も内部の流派はありますし、時宗もたくさんあります。時宗はすでに教団が分裂してます。黄檗宗など元来は臨済宗の一派に過ぎないわけですが、明治維新のどさくさに紛れて、宗を称したわけですね。分裂してから宗となったわけですから、確かに「「宗」として成立してから分裂しなかった」わけですが、伝統的な見解にのっとって説明するという方針(この方針がいけないというのなら考えないといけないですが。)に従うと、この説明には疑問符をつけざるをえません。融通念仏宗は江戸時代に一宗派として公認されていたのでしょうか。よく知りません。華厳宗にしても江戸時代に宗派が存在したのかどうか・・。江戸時代の東大寺は真言宗でした。--Ara-Ara 2010年4月11日 (日) 19:24 (UTC)[返信]

Ara-Araさん、こんにちは。
コメント1
「広義では、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」を意味する「宗旨」と同義語として用いる。」についての典拠。
『広辞苑』第五版では、
宗派
1.同一宗教の分派。転じて、広く宗教上の分派。流派。
2.教義の宣布および儀式の執行を目的とし、寺院・教会所その他の所属団体・信徒・僧侶を包括する仏教団体。
3.(技芸などの)流派。
宗旨
1.宗門の教義の趣旨。「-を説く」
2.宗門。宗派。浮世物語「珍しき-かな」
3.自分の主義・職業・趣味・嗜好など。
「宗旨」2.に同義語として出ています。「宗派」1.も広義としての「宗派」を意味しています。
「宗派」2.は、包括宗教法人の意で狭義としての「宗派」を意味しています。
『岩波仏教辞典』第二版では、
「宗旨」(P480)
「(略)なお,俗語としては宗派のことをもさす.(略)」とあります。
コメント2
狭義の「宗旨」・「宗派」についての私の記述は、伝統仏教の基準とされる「十三宗五十六派」に基づいています。(現在は、十三宗五十六派以上に分かれているのは理解しております。)
Ara-Araさんは「曹洞宗や天台宗のように、下位の流派が独立教団にならずに大同団結している」と記述されてますが、「天台宗」を宗旨とする教団は、宗教団体法施行以前から「天台宗」(山門派)・「天台寺門宗」・「天台真盛宗」と独立しています。
コメント3
『広辞苑』2.では、包括宗教法人のことを「宗派」の意とする記述があります。「法隆寺の聖徳宗、浅草寺の聖観音宗などがある。これらは、実際には新たな教義を打ち立てた宗派と呼べるようなものではない。」について、教義を打ち立てなければ「宗派」とよべないとする出典を明示してください。
「宗旨」・「宗派」は、『広辞苑』においても同義的に使われています。Wikipediaでは、同義的(広義)としての「宗派」と、狭義としての「宗派」を明確に記述するべきと考えます。(Wikipedia:言葉を濁さないを参照してください。)
参考までに『広辞苑』第五版「十三宗」2.では、「日本仏教の13宗派、すなわち華厳・天台・(略)・融通念仏・時の総称。」と「13宗派」と広義の意で用いています。
コメント4
ノートページの「黄檗宗など元来は臨済宗の一派に過ぎないわけですが、明治維新のどさくさに紛れて、宗を称したわけですね。」についても、「宗旨(臨済宗 臨済禅師・黄檗宗 隠元禅師)仏心宗・達磨宗:禅の公式サイト」では、公式に「当ホームページを運営するわが宗門は、その中で、臨済宗と黄檗宗の流れです。」と明記してあり、明治維新のどさくさに紛れてとは考えにくいと思います。また「黄檗宗#歴史」では、「1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられた」の記述があります。
コメント5
華厳宗・融通念仏宗については、『岩波仏教辞典』「華厳宗」(P270〜271)、「『八宗綱要』」(P.828)、「融通念仏宗」(P1023)を参照してください。
コメント6
「宗派」を定義するのには、「宗」・「宗旨」・「宗名」・「宗門」などについても加筆する必要があるかもしれません。この辺は、『仏教学辞典』法藏館、P.227「宗」に記述されています。
「宗派」を「宗」(もしくは、曖昧さ回避ページを作成して、分野別の「宗 (仏教)」)に改名して、「宗旨」・「宗派」のセクションを設けて記述した方が、語意の重複についての混乱を避けることが出来るのかもしれません。(私自身としては、狭義としての意で使い分けていますが…。)
現在、「宗旨」は「宗派」へリダイレクトされていますが、現状の「宗派」の記述は、「宗旨」のリダイレクト先として記述が曖昧な状態にあると考えます。
なるべく私の意図が伝わりやすいように書いたつもりですが、疑問点がありましたらコメントしてください。--Resto1578 2010年4月14日 (水) 09:10 (UTC)、(修正)--Resto1578 2010年4月14日 (水) 09:15 (UTC)[返信]


私が思うのには宗派の意味としては、 A人間の集団を指す場合。 B思想や信仰などの内容を指す場合。 この二つの場合があると思います。Resto1578さんは、この二つを一緒くたにして語られているように思えます。 AとBのうち、「宗旨」はBにあたると思います。「宗旨」という言葉には、集団という意味はないと断言できます。しかし、宗派と宗旨は文字も内容も似たような言葉だから混同されて使われるようになる。●●宗に檀家として所属しているという意味で、「私の宗旨は●●宗です」という人も出てくることとなったということではないでしょうか。そのような背景を推し量ることもなく、「宗派」と「宗旨」は同じ言葉だとは断言することは危ういです。「狭義の「宗旨」・「宗派」についての私の記述は、伝統仏教の基準とされる「十三宗五十六派」に基づいています。」とありますが、十三宗五十六派はAにあたる。しかし、あなたは、Bのつもりで「宗派=宗旨」とおっしゃる。だから「???」となる。次元の異なるものを混ぜて話されているように感じます。それはまるでパソコン初心者がパソコンとインターネットの区別がついていないような感じに思えます。

「宗」と「派」の違いにしても、これは、絶対的な基準は存在しないという大前提があるのではないかと思います。どこまでが同じ「宗」なのか、どこからが別の「宗」なのか。総合的に相対的に判断するしかありません。 現在、いくら「宗」を名乗るのは「自由」だといっても、数千年の歴史を背負っている「宗」と、思いつきで一人で設立したぽっと出の「宗」を同一に扱えというのは総合的に判断して不適切だ、というのは直感的に分かっていただけるのではないかと思います。本人が「新しい宗を立てたんだ」と言っているというだけで、それは「宗」なんだ、というのは、乱暴に感じます。客観的ではない。それがアリなら私だって明日から新しい「宗」を立てることができます。和宗とか聖観音宗とかありますが、寺院としての歴史はあっても、宗としての歴史は皆無に等しい。社会的な認知度もなく、実態もあるのかどうか分からないものを、宗派と呼べるのか。

集団というものは、いろいろな形態がある。役所のようなガッチリとした「組織」の場合もあれば、ベンチャー企業のような「同志の集団」のような場合もある。あるいは教えを受け継ぐのは、一人二人だけれども、数十年以上連綿を受け継がれているような系譜。直接の交流はないけど、教えの起源をたどれば、繋がる人たち。あるいは、集団ではないが同一の考えをもっている人たち(甘い物を好む人たちのことを「甘党」といっても、組織化されているわけでもなければ、互いに知人でもないです)というのもある。いったいどれを独立した宗派と呼ぶのか。

江戸時代の融通念仏宗に関しては、1688年(元禄元年)に成立した[1]とありますが、末寺帳は現存していないようで[2]、独立した組織だったのか、判断ができません。宗門人別帳に「私の家は融通念仏宗です」と書いて良かったのかどうか。調べていないので分かりません。ほかの寺の命令によって経営されている教団だったとしたら、それは独立しているとは言えません。 華厳宗に関しては、挙げていただいた項目をみましたが、江戸時代に関しては何も載っていません。寺院法度もでていないし、末寺帳もないし、もちろん檀家も存在しない。本山も真言宗やら浄土宗やらになっている。書物はあるが、信じる人、実践する人が誰もいない・・・こういう状態は宗派が存在したと呼べるのかどうか。

黄檗宗については、『岩波仏教辞典 第二版』に「教義・修行・儀礼・布教など日本臨済宗と異ならず,<黄檗宗>の名も明治政府の宗教政策で臨済宗より独立させられたもの.」とあります。黄檗宗というのは、起源をたどると、中国福建省の黄檗山(臨済宗の祖黄檗希運の黄檗山とは別)で、明末清初の国粋主義の風潮のなかで登場した運動に遡ります。もともとは「臨済正宗」と名乗っていましたが、これも「自分たちこそが本当の臨済宗を受け継いでいる」という自覚を表すものであって、「臨済宗」と別の宗派を立てたということではありません。

何を持って一つの独立した宗派と呼ぶのか。客観的・総合的な条件のようなものはあるのか。問題はそこかなぁと。これがこの項目に記述することができたら良いのではないかと思いますが。--Ara-Ara 2010年4月16日 (金) 15:56 (UTC)[返信]

コメント
「Resto1578さんは、この二つを一緒くたにして語られているように思えます。」について
私は、典拠を求められたので、出典として『広辞苑』と『岩波仏教辞典』を用いてコメントしました。
ノートページなので、私見を仰ることは問題ありませんが、建設的な議論を進めるために出典を用いてコメントしてください。
また、中立的な観点からも2つの語義がある事柄については、併記するのがWikipediaです。
よって、「広義では、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」を意味する「宗旨」と同義語として用いる。狭義では、「宗旨の分派」を意味する。」と2つの語義を併記しました。
「いったいどれを独立した宗派と呼ぶのか。」について
検証可能な情報源による出典によって定義できる事柄が「宗派」と呼べると考えます。編集者が、何が「宗」で何が「派」と判断することは、独自研究です。
公式サイトの記述について
「融通念仏宗」については、融通念仏宗総本山 大念仏寺の公式サイト大念仏寺ガイドに、「天台宗、真言宗に次いで平安時代後期に成立した古い歴史を持つ宗派です。」とあります。
「黄檗宗」については、臨済宗黄檗宗連合各派合議所の公式サイト臨済宗 黄檗宗 公式サイトに、「本山は宇治にある黄檗山万福寺で、徳川家康の帰依を受け、寛文2年(1662)に建立されました。」とあります。
公式サイトの情報は、検証可能な情報源として認められています。(「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト」を参照してください。)
検証可能な情報源による出典を元に、その公式サイトの記述に対して反論を編集することは可能だと考えますが、「宗派」の記事とは無関係です。--Resto1578 2010年4月17日 (土) 17:17 (UTC)[返信]

「広義では、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」を意味する「宗旨」と同義語として用いる。狭義では、「宗旨の分派」を意味する。」とありますが、この文章の意味が全く理解できません。

  • 1「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」の部分について

「根本教義の中心」とはどういう意味ですか。「根本教義」と「根本教義の中心」はどう違うのですか。たくさんの教義のなかに、根本教義があり、根本教義の中にも中心であるものと中心でないものがあり、中心のもののみが「宗派」と呼ばれる。それ以外の教義は含まれないとおっしゃっている。これは中心の教義に連なる枝の部分は、「宗派」ではないということでしょうか。例えば、浄土真宗の場合、阿弥陀如来が衆生を救う、という「根本教義の中心」のみが「宗派」である。だから、阿弥陀如来像を作るとか、本願寺に参拝するとか、葬式をするとか、仏壇を祀るとかは、「宗派」ではない、ということでしょうか。 「趣旨」というのもよく意味が分からない。広辞苑に「文章や話で言おうとしていること」とあるように、「趣旨」というのは、例えば、「演説の趣旨」とか、「文章の趣旨」とか、「思想の趣旨」とか、「団体の趣旨」とかいうふうに使います。形のある具体的な事象に対して、形のない中身を意味する。「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」とは、何の趣旨なのか、分かりません。「真言宗の趣旨」という言葉は「真言宗の目的」という意味であり、成り立つ。「真言宗という宗派は趣旨である」というのは、果たして日本語として成り立つのか。

Resto1578さんは、『広辞苑』第五版を挙げておられますが、全く典拠になっていません。

   「宗派」
   1.同一宗教の分派。転じて、広く宗教上の分派。流派。
   2.教義の宣布および儀式の執行を目的とし、寺院・教会所その他の所属団体・信徒・僧侶を包括する仏教団体。
   3.(技芸などの)流派。

これのどこに、「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」なんて書いてありますか。「宗派は教義の意味である」なんて、1にも2にも3にも書いてありません。3は除外して、2は、明確に「団体」のこと、と書いてある。教義ではない。1には「宗教の分派」とある。では宗教とは?それは、即座に教義のことを意味することはありません。「宗教=教義」などということはない。宗教学の古典的テキストである脇本平也『宗教学入門』において、宗教の構成要素として四つ挙げてある。それは教義・儀礼・教団・体験です。宗教という言葉に教義の意味しかないとお考えであれば、再考していただきたいと思います。結論として『広辞苑』には宗派は「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」など寸分とも書いてありません。

  • 2宗旨
   「宗旨」
   1.宗門の教義の趣旨。「-を説く」
   2.宗門。宗派。浮世物語「珍しき-かな」
   3.自分の主義・職業・趣味・嗜好など。

これに従うと、「宗旨」という言葉は、「宗派」という言葉の意味を表すこともある、と解釈できます。また『広辞苑』には宗派には「宗旨」という言い換えがあるという説明はない。よって、これは、「宗派」の別称として、「宗旨」が用いられるときがある、ということだと解釈できます。これは逆ではありません。「宗派」という単語が「宗旨」という単語の意味を表すことを示しているわけではありません。 「宗派=教義」ではないことも、ここには書かれてあります。宗旨の意味として、1「宗門の教義の趣旨」と2「宗派」と並んで書いてある。これは1と2が別の言葉、意味だということです。同じ意味であれば、1つの項目にまとめればいいわけですから。

  • 3広義と狭義
Aが狭義。Bが広義

「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」が広義で、「宗旨の分派」が狭義というのは通常の文章の理解方法では分かりません。一般的には広義というのは、狭義を完全に包摂するものです。図を載せましたのでよく御覧下さい。例えば、博物館という言葉には、「文化財を保存し、公開し、研究する施設」という(一般的な)意味と、「文化財を保存し、公開し、研究する施設のうち都道府県の教育委員会に届け出て承認されたもの」という(法令上の)意味がある。この場合、前者を広義の博物館、後者を狭義の博物館ということができる。狭義の博物館は、必ず広義の博物館でもあるということです。「根本教義(=「宗」)の中心となる趣旨」と「宗旨の分派」とはどういう関係にあるものなのか、皆目見当がつきません。

  • 判断

「編集者が、何が「宗」で何が「派」と判断する」なんて言っていません。客観的な基準はないかということを述べているのです。ここで研究しようということではなく、そのような記述がある文献を探してみませんかとご提案しているのです。

  • 5公式サイト

Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトには

自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源でも、それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。例えば、ストームフロントのウェブサイトは、その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合は、その第三者の情報と矛盾していない限り、ストームフロントについての記事においてストームフロント自身に関する情報源として使用できます。

とあります。「その情報が重要であり」かつ「その第三者の情報と矛盾していない限り」使用できると書いています。この場合は、当てはまらなかったということです。ここに書いてあることは、公式サイトの記述と、信頼できる第三者の情報と比較した場合、信頼できる第三者の情報を優先するということです。公式サイトの記述というのは、いうまでもないことですが、当事者の利益に基づいて書かれてあります。時と場合によりますが、研究論文や辞書の記述に比べれば、公式サイトの記述など格段に信頼性が劣ります。当事者の利益に基づく記述を典拠とすることは、中立的な視点に欠けます。あまりにその宗教団体の立場におもねった記述をすると、ウィキペディアを布教の道具にしていることになりかねません。編集者にその意図がなくとも、実質的にその役割を果たしてしまう可能性があります。「本山は宇治にある黄檗山万福寺で、徳川家康の帰依を受け、寛文2年(1662)に建立されました。」と引用しておられますが、寺院の建立年代をここに提示した意図が分かりません。--Ara-Ara 2010年4月18日 (日) 17:50 (UTC)--Ara-Ara 2010年4月18日 (日) 17:53 (UTC)修正[返信]

コメント
本当にAra-Araさんは、私の言わんとする「広義」・「狭義」について分からないのでしょうか?。
『広辞苑』「十三宗」にあるように「宗派」の定義づけをWikipediaとして厳密にしたいだけです。それは、1つの語意にまとめられません。
まずは、議論は一休みして「宗派#宗派の実態」を整理され、草案を出して頂きたく存じます。
このまま議論を進めても、水掛け論になるだけと考えます。建設的な議論を望みます。--Resto1578 2010年4月19日 (月) 13:32 (UTC)[返信]
コメント2
“狭義では、「宗旨の分派」を意味する。”は、Ara-Araさんのご指摘の通り問題のある記述と受け取れますね。「宗の分派」とした方が、語意として正確でしょうか?前述した「コメント6」は、その問題に対してのコメントです。--Resto1578 2010年4月19日 (月) 13:48 (UTC)[返信]

キリスト教の教派について[編集]

Ara-Araさんが、出典にならないと主張する記述は、日本の福音派の指導者として著名な神学者のものであって、キリスト教界における用語の使用方法として、十分に出典になるものであり、教派での出典の無い加筆と合わせて、大いに疑問があります。キリスト教は歴史的に異教や異端と自らを明確に区別、分離してきた宗教であり、その点が明記されないと百科辞典としてあいまいになります。キリスト教に関わる記事について、ノンクリスチャン、異教の視点からだけ書かれても、ウィキペディアにおける中立性が確保されません。Ara-Araさんがここであげた出典は異教のものだけです。Wikipedia:中立的な観点「中立的な観点 (NPOV, Neutral Point Of View) はウィキペディアの根本的な方針のひとつです。これは、すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない、というものです。この方針は記事以外のテンプレート、ポータルなどにも適用されます。」--イザヤ 2011年1月3日 (月) 11:31 (UTC)[返信]

ただAra-Araさんの、それが出典にならないという主張に対しては反対しますが、その編集の結果には反対ではありません。結果的に、宗派がキリスト教とは異なる宗教においておもに使われる語であることが、かえって明瞭になっているからです。--イザヤ 2011年1月28日 (金) 14:49 (UTC)[返信]