ノート:富野由悠季/過去ログ1

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氏がかつて使っていたペンネーム(?)にも、読みをふっていただけるとありがたいです。a perfect fool 18:04 2003年11月15日 (UTC)

作品に発表年などがあると参照しやすいです。いかがでしょう?Stanislaus 15:48 2004年3月6日 (UTC)

とりあえずアニメの方に発表年を追加してみました。著作の方にもあったほうがいいのだろうか?Tekune 09:12 2004年3月20日 (UTC)

中立的な観点について[編集]

僕が言い出しっぺでは無いのですが・・・。とにかく文全体的にどうも悲観的すぎると思います、氏の作った作品についての大幅加筆が加えられた点は良とは思いますが、「陰惨」だとか「破綻」だとか、ちょっと貶しているようにも見えます。[[移入遠藤 2004年9月20日 (月) 16:48 (UTC)]][返信]

{{観点}}を貼ったのは私です。移入遠藤さんの受け取った感じとほぼ同じ理由で、文章がやや自虐的というか、中盤以降がマイナスな文章なんです。ただし、私はこれを修正できるだけの資料をもっていないため、他の人に向けての注意喚起という意味で{{観点}}を貼らせて頂きました。もし直せるならばお願いしたいところです。
(追伸ですが、「~(チルダ)」を4つ打ってプレビューしてみてください。署名が自動で出ますよ)Tekune 2004年9月20日 (月) 17:26 (UTC)[返信]

理性的な問いの姿勢には、敬意を表します。しかし富野という作家への正確な記述を心掛けるのであれば、ガンダム以後の長期の低迷。山本優との絶縁に象徴されるベテラン文芸人との確執、監督という職分にあるまじき配下スタッフへの心ない中傷と責任転嫁、そしてまた視聴者をも裏切る結末を待たずの当時恒例の失敗作宣言。この事実の記述を隠蔽する事は出来ないのではないでしょうか、そう中立的な観点に基きそう確信します。

ガンダムに感動し、富野良幸のファンだった者は幾多も失望し。作品の破綻、スッタフワークを時系列かつ体系的に捉え、またそれに伴う富野自身の言動の変容をリアルタイムに、つぶさに観察して行った結果、次第に富野という作家の本質に気が付きます。ガンダム以後しつこく富野を懸命に追いかけた心有るファンなら皮膚感覚で理解出来るはずです。

そうそしてまた誰かが呟きます。「富野喜幸は喜幸であって、決して由悠季ではないのだ…」と。

また「陰惨」だとか「破綻」だとか、と「だとか」と遠藤氏は申しておられますが、「だとか」には不当な中傷と言わんばかりのニュアンスを感じます。はたして、そうでしょうか?違いますね。ザンボットのようなガンダムに到る志も心もある必然的な「皆殺し」であれば「陰惨」など口が裂けても申しません。ですが、富野自ら失敗作と投げ出した作品での形だけのやっつけ仕事における「皆殺し」が「陰惨」でなくなんでしょうか?それであっても信者という者は「皆殺し」「全殺し」と明るく陽気に無邪気に無批判に、また思考する事なく祭り上げる者なのでしょうか?

ZZのような破綻極まりない、おふざけ番組のなか無残な死をとげたハヤト小林。ガンダムのファンは完全に舐められました、この時点でハッキリと。

「破綻」にしましても、ダンバイン、エルガイムにおける渡辺由自のシリーズ構成。Z、ZZの遠藤明吾のシナリオとそれを統括した富野の作劇ミス、ドラマツルギーの「破綻」は標準的な審美においても明らかです。 各自の力量は以後の作品でも明白です。ぴえろ製作、渡辺由自の飛影でのシリーズ構成。北爪のアトリエ戯画制作、レガシアムの遠藤明吾のシナリオ。富野ブランドを纏えない彼らの各作品の評価は批評の対象にさえ成らない無残さです。

「悲観的」「自虐的」また「貶しているようにも見えます」というのがいかに見当違いかが、お分かりでしょう。 真に悲観すべくは、客観的記述を理解しえない、提灯記事に毒された、その態度、認識ではないでしょうか。

「マイナスな文章」という語意も著しく不明です。では対語として「プラスな文章」というモノがあると仮定しましょう。これに語意を与えるとすれば、まさに提灯記事ですね。事実認識をマイナスと捉えるのがすでに違ってる上に、さらにプラスならいいのか?と言えば、繰り返します、それはただの提灯記事です。 利用者:キミドリ 2005年1月30日 (日) 04:00(利用者:61.122.32.130さんの投稿)

ご意見はさておき、アカウントが作成されていないユーザー名のリンクは外させていただきました。もし必要であればユーザーIDを取得なさることをお勧めします。Tekune 2005年1月31日 (月) 12:55 (UTC)[返信]

提灯記事であることは問題だと思いますが、アンチ記事になってしまっては同レベルではないですかね。例えば長いので1文全部を持ってくるのは遠慮しますが、「『伝説巨神イデオン』また『聖戦士ダンバイン』以降の富野のロボットアニメがはまっていった落とし穴(「運命に翻弄される人々」というお話)の焼き直しの感は否めず、大きく賛否を二分する。」というくだりなど、「焼き直し」と言ってしまっては「大きく賛否を二分」に見えなくなりますよね。この箇所は肯定的イメージが「スマッシュヒット」だけで、その後に膨大な否定的イメージがつづいてるためもあると思います。

F91、Vガンダムなど、作品としてはファンも多く存在するようなものについても、否定的な見方ばかりが目立ちますね。

「続く1991年『機動戦士ガンダムF91』は興行的にも芳しくなく、その後予定されていたTVシリーズも頓挫。」という1文も「興行的には」と直すだけでずいぶん印象が変わります。「興行的にも」では作品まで失敗してると暗に示してるように見えてしまいますね。

Vガンダムに対して「半ば投げやり」であったというのも確証があるならソースも示したほうがよいでしょう(どこそこのインタビューでこう語っていた等)。これだけでは書いた人間が投げやりに見えただけじゃないのかと思われてしまいかねません。その後に続く作画と演出の関連も不明確な上、文自体が長すぎて誤読を招きかねません(読み返すまで0083が小粒だと言ってるのかと思いました)。

Zガンダムを最後に「毒の原因」と言っていますが、そこまでの文章でZが毒の原因であるようには読めません。「毒」という言葉が唐突すぎて、決めつけてるように見えてしまいます。

これでは「貶めてる」との批判も免れないのではないでしょうかね。

狐志庵 2005年2月8日 (火) 02:29 (UTC)[返信]

狐志庵氏の申し立て、お読みさせて頂きましたが、アンチ的な記述としか受け取れない様子を見受けますと基本的な理解力の欠落を感じざるを得ませんね。

逆シャアが「大きく賛否を二分」した訳は、正に、「『伝説巨神イデオン』また『聖戦士ダンバイン』以降の富野のロボットアニメがはまっていった落とし穴(「運命に翻弄される人々」というお話)の焼き直しの感が否めないからでしょう。

またF91、Vガンダムに否定的とありますが、では根拠がなくただ肯定的だというものではなく、仮にF91が作品的には成功を収めたのだとすれば、あなたの言う確証たるソースを示した上で、フェアーと考え得る作文を示して頂きたいものです。 F91に関しては、元々TVシリーズを前提に企画されたシノプスをダイジェストに構成した結果、作品としても成立してません。現場の制作体制の混乱ぶりも端的にエンドクレジットに表れています、作画水準も低調です。

氏の『Vガンダムに対して「半ば投げやり」であった』云々という指摘に対しましては、(私の記述ではありませんが)一考の必要があるかもしれません。

しかし『ファンも多く存在するようなものについても、否定的な見方』と仰る部分に関しては、ファーストガンダムに比べ、まさかF91、Vガンダムに、どれ程の多くのファンが居るのか?また、ありえませんが多くのファンが居たとして、ファンの数と作品の評価が須らく比例するとは限らない事は言うに及ばずです。 ただVガンダムについては富野自信がDVDBOXのブックレットにおいて、こんなもの観るなとまで明言して自ら否定的見解を表してます。

『作画と演出の関連も不明確』との感想からは、0083での南PDのの企画意図、作画陣の編成過程。Vガンダムにおいて富野の逢坂浩司を抜擢しながらの作画指示の矛盾。 『文自体が長すぎて』ではなく、あなたが、このような事例と結果に基本的関心をはらってなった事が最大の要因と思われます。誤読を防ぐため、もっと詳細な記述が必要なのかも知れません。 ただ作画と演出の関連に理解や関心がない方には、伝わるべくもなく徒労に終わる事でしょう。

Zガンダムを「毒の原因」との記述は私ではありませんが、唐突に感じるのは作法上の問題であり、言葉自体は実に簡素で巧い表現だと感心させられました。

利用者:キミドリ 2005年2月13日 (日) 03:00

事実認識と中立性に関する議論、興味深く読ませていただきました。しかしながら客観的にWikipedia内の他の項目と比較すると、略歴の部分で、ひとつひとつの作品に対する論評が文全体を読みづらくさせていることは否定できません。作品論に関しては作品の項目で扱い、この項目では文芸陣との対立、富野氏本人の精神的な鬱屈など、個人史的な流れを追えれば充分なのではないかと考えます。例えば美術史関連の項目を見れば、作家の略歴中には転機となった作品のみ取り扱われるのが一般的であり、何世紀にもわたり方法論の吟味された学術分野として客観性のあるやり方だと感じます。

例えば「毒の原因」という表現については、氏自身、「ガンダムの続編」という企画自体がそれ以前の作品でファーストガンダムを超えられなかったことの烙印と感じられたと回顧しているので、氏の認識とほぼ一致していると思います。ただ、略歴を読み返すに(そして事実としても)、Zに至る前から氏の鬱屈傾向は進行しており、Zという作品はその端的な象徴に過ぎないと言えます。では真に「原因」と言えるのは何か、それを語るためにさらなる研究が必要になることは論を待たないでしょう。「中立的な観点」というこの議論が提示された真意は、事実認定の途上にあるものへの姿勢のあり方、距離のとり方であろうと思います。

作家論や作品論、または進行中の政治問題、社会的事件など、複数の観点が対立して存在するような問題を扱うのにWikipediaというメディアはあまり適しません。本来的に多くの参加者によって情報を補完しうることがこのシステムの強みです。であれば、作家論に関してはWEB上に複数の作者が携わりうる別の場を設けて議論し、Wikipediaには確定情報(と合意されるもの)を記述し補足していくのがよろしいかと考えるのですが、いかがでしょうか。

利用者:Besucher 2005年5月29日 (日) 07:45

【2005.06.04現在『機動戦士Zガンダム』劇場版第一部が上映中です。2005.10 2006.02に第二部、第三部の公開が決まっており、以下の文章はそれらのネタバレを含んでいる可能性があります。お読みになる場合はそのことをあらかじめお含みおきください。】

 率直に申し上げさせていただきますと、現在の略歴は、大変な労作ではありますが、主観に走りすぎているように感じます。もっと年表的なあっさりした記述で良いのではないでしょうか。

 例えば、誰かのことが嫌いだったとか誰かと対立したといったことは、本人同士でなければ実際のところは分からないことですし、単純に制作上の目指す方向性の違いからタッグを解消しただけということも十分あり得ると思います。もし、「絶対確かにそうだ」と言うのであれば、本人の発言等根拠が示されていなければ『中立的な観点』に値しないのではないでしょうか?

 また、作品の評価ですが、これも大変難しいものだと思います。興行的に成功だった失敗だった、ファンの間では評判が芳しくなかったという程度であれば十分『中立的』であり得ると思いますが、視聴者が下した評価が絶対的に正しいと言えるかどうかは別問題ではないでしょうか?

 少しジャンルを外れますが、例えばピカソの抽象画とその価値を正しく理解できる人間がどれほどの数いるでしょうか? たとえ私にその価値が理解できないとしても、彼の作品が美術史上の金字塔であることは見る目のある人たちの間では紛れもない事実です。自分に理解できなかったから失敗作だと言うのはかなり乱暴な意見だと思います。

 こう申し上げると、「富野由悠季は自分で『失敗作』と言っているぞ」とおっしゃる方が出て来るだろうことは予想できますが、私は過去にアニメ誌などで、『失敗作』と聞いた途端に「ファンを馬鹿にした」と逆上してしまい、富野由悠季がその作品をなぜ失敗作と考えているのかという部分は読み飛ばしてしまったとしか思えないような怒りの投稿文をよく見かけました。その短気さで他人を公正に評価することなどできるものでしょうか? 多数意見なら正しいという保証がどこにあるのでしょうか?

 現在、Yahoo!の『映画』で富野由悠季のインタビューが動画で見られます。その中で富野由悠季は「時代が変わり始めているなと感じて主人公のカミーユを自閉・内向して行く少年として描いた。20年経ってみて、自分の予見も含めて間違いではなかったなと思っている。しかしそれは作り手から見ればひどい話で、今度は20年後はこうなっていてほしいという願いを込めて(『機動戦士Zガンダム』劇場版を)作っている」と語っています。 しかし、これを「富野はこの20年を自分が『Zガンダム』で予言した通りだ。今度は(劇場版で)20年後を予言すると言っている。何様のつもりだ」という形で2ちゃんねるに書き込む人もいるのです。おそらく「富野は傲慢なイヤな男だ」という意識がこびりついてしまっていて無意識に曲解してしまうのでしょう。双方にとって不幸なことだと思います。

 富野由悠季は独特な物言いをする人物です。それゆえ誤解されている部分がかなりあるように思います。特に作品やアニメには強い思い入れがあって、後進に出来る限りのデータを残してやりたいと思っている節があります。今度の『機動戦士Zガンダム』劇場版も、20年の間に、アニメはここまで進歩したんだということを一つの作品の中で見られるようにしたというようなことを言っています。そのために旧作と新作画を融合させなければならなかったんだと。でも、観客は言うわけです。「何で全編新作画にしなかったんだ。旧作部分が汚くて観賞にたえない」と。

 要するに、富野由悠季という人は「おせっかい」な人なのだと思います。優しいのだけれど人の望まぬことをする。それに対して視聴者はガサツすぎる。ああしろこうしろと自分の欲求しか言わない。できればそういう誤解を解くウィキペディアであってほしいと希望しますが、高望みでしょうか? 富野信者と言われてしまうでしょうか?

 『機動戦士Zガンダム』にはそこここに仕掛けがあります。例えばアムロがシャアに三機あるモビルスーツのうちの一機を地上に残して行ってほしいと要望します。その場は断られて終わるのですが、後に宇宙へ地上降下部隊を戻すため、打ち上げ予定の基地へ伝書鳩が連絡用に放たれます。伝書鳩の通信文を受け取ったクルーは「宇宙に上がるモビルスーツは二機か」とつぶやきます。この一言で観客は「シャアは一度はアムロの申し入れを断ったが、その後のアムロのやる気を見て一機残してやれるように手配をしたのだな」と感じ取れなければなりません。かなり想像力を要求される作品です。それを知らずに「わけがわからん。わからせようという気がないのか!」と言う観客もいますが、それは富野由悠季の責任ではないと思います。私はこの「仕掛け」ゆえに『機動戦士Zガンダム』はかなり面白い作品に仕上がっていると思います。

 また、「皆殺し」だの「全殺し」だのと言われておりますが、富野由悠季ほど「なぜこの人が死ななければならないのか?」「なぜこんな死に方をしなければならないのか?」と考え込ませる人の死を描くアニメ監督を私は他に知りません。富野由悠季の描く人の死はつらいものだけれど、「もっと殺せーっ」などと発言するファンが出て来たことで、なるべくさらりと死を匂わす程度で終わらせるようになってしまったことを私は少々惜しんでおります。Niki 2005年6月3日 (金) 18:15 (UTC)[返信]

ファーストガンダムについて[編集]

[ファーストガンダムにはやはり素晴らしい]の項の Wikipediaとは特に関係の無い部分を削除させて頂きました。--Cheatass 2005年12月23日 (金) 03:51 (UTC)[返信]

<玩具販促の側面について> ガンダムなどロボット物ですが、玩具の販促という側面もあり その言及が少ないのではないでしょうか?この点を少し入れれば中立的にスッキリするかもしれません。 まず作品がある映画、演劇などと比べ異なる動きがある。 (初代ガンダムは玩具が売れなかったら打ち切りとなったという話もあります。幼児向けガンダム絵本とか 超合金があったらしい)

ロボットアニメに深く関わった富野氏の仕事は ロボットアニメが玩具販促のオマケから作品単体で関連グッズを引っ張る 形に変わる変遷が見えるようです。~~

--Aphaea* 2005年2月8日 (火) 02:42 (UTC)[返信]

経歴の削除について[編集]

自分の書いた文章が思いもかけぬ形に書き換えられていたこと、並びに『中立的な観点』を理解できない人がいるようなので、元より推測の多い文章だったこともあり、この際、削除が妥当と判断いたしました。監督作品が十分来歴代わりになると思います。それに伴い、『観点』も削除いたしました。
221.241.198.198さん、「当時のアニメ誌の稚拙な論調も影響していたかもしれない」という文章は、あなたが当時のアニメ誌を読んだ上で感じた感想でしょうか? もしそうならそれはあなたの主観ですから問題はありません。しかし、もし私が書いた文章から受けた印象を書き換えただけならそれは捏造です。「ただし一人の編集者だけはかなり強引な擁護をしていたという」これは「かなり強引な好意的解釈」のことでしょうか? 「擁護」は人に対して行うもの、「解釈」は作品に対して行うものという違いが分かりませんでしたか? このような書き換えはソース不明の無責任な『伝説』を増やすだけです。ご自分に確信がないのであれば、勝手に語句を置き換えない配慮が必要です。具体的な事象を尋ねられた時、答えられないことには手を出されないほうがよろしいかと思います。
219.96.154.123さん、記事に書き込む前に『中立的な観点』及び『ウィキペディアは何でないか』を熟読なさってください。ご自分の意見とは異なる見解を有する人に対する配慮が出来ないのであれば、本文への書き込みはご無用です。まずノートにおいて問題提議するのが筋だと思います。Niki 2005年10月22日 (土) 19:40 (UTC)[返信]

221.241.198.198ですが、なるほどその通りですね。元が少し日本語としておかしい文章だったので、それを直すつもりで可能な限り原文を尊重して書き直したのですが、事実を少し歪曲する結果になったかもしれません。これからは事前にノートで文法の間違いを指摘するなど、気をつけたいと思います。
221.241.198.198さん、冷静なご返答ありがとうございます。一方的に責めるような生意気な文章になっていてすみません。趣旨を的確にご理解くださったことを嬉しく思っています。本文につきましても、正直私も自分が文章のうまいほうだとは思っておりませんので、修正しようとしてくださったことには深く感謝いたしております。ご指摘の通り、元の文章は(思いのほか長くなってしまったため)少しでも短くしようとして分かりづらい文章になっておりました。お気遣いありがとうございました。ただ、こういうことがあった以上は、やはりもう少し厳密なガイドラインを作って推測文や出展を明示できない文章は削るべきかとも考えるに至りました。下のほうにそのための議論の場を設けましたので、221.241.198.198さんのお考えなどお聞かせいただければ幸いです。ぜひ議論にご参加ください。Niki 2005年10月28日 (金) 16:35 (UTC)[返信]

作詞リストについて[編集]

編集中止中のようなのですが、作詞リストに『ハッシャ バイ(『機動戦士Ζガンダム』挿入歌)』とあり、たぶんこれは誤りだと思われるので編集してもよろしいのでしょうか?
ハッシャ・バイは『機動戦士Ζガンダム』挿入歌としては収録されてはいないとおもいます。鈴置洋孝氏(歌手としての)のアルバムに収録されていたものだと思います。

ここのものが引用されて「ハッシャ・バイ」が、存在したかのようになっております。

Seeds 2005年10月26日 (水) 13:44 (UTC)[返信]

編集中止になっているのは私のせいです。ご迷惑をおかけしてすみません。なるべく早く解除していただけるようにいたします。またお知らせいただいた『ハッシャ バイ(『機動戦士Ζガンダム』挿入歌)』を書き込んだのも私ですが、これは現在劇場公開中の『機動戦士Ζガンダム〜星を継ぐ者〜』のパンフレットに挿入歌「ハッシャバイ」作詞井荻麟 作曲井上大輔 編曲宮川泰 歌間嶋里美と記載がありましたので追加書き込みしたものです。鈴置洋孝氏のアルバムのほうはちょっと分かりませんもので、お手数ですが作詞や作曲がどなたになっているかご確認いただけませんでしょうか? ことによれば同タイトルながら別の曲ということもあるかと思います。アムロが小型機で帰って来た時に聞いている「見かけによらずナイーブで」って歌詞の歌のことかと思うのですが。Niki 2005年10月26日 (水) 16:55 (UTC)[返信]

『〜星を継ぐもの〜』を見ていないので、知りませんでしたが、使われていたのですね。失礼しました(汗)。
鈴置氏のアルバム自体が手元にないので確かなソースとは云えないのですが、確かにそのクレジットで合っていると思います。同氏のアルバム用に作られた歌を持って来たのですね、たぶん。20年以上前の歌です。さびのアタリに「♪お前の胸で/ハッシャ・バイ」という部分があったと思います。
(この情報自体ここに書くのが正しい事か解りませんが)このアルバムは『無敵超人ダイターン3』の破嵐万丈サイドをA面、鈴置氏サイドをB面とした構成(構成も富野氏)です。
『ハッシャ・バイ』は、そのA面に納められた楽曲です。万丈の新しいパートナーとして「アッシャー・ナイスリー」という(声:間嶋里美氏)キャラクターを創作、そのキャラクターの歌として収録されていました。A面には各々の曲に対するミニドラマ風な導入が付帯しておりました。
……ですので、作詞リストにはその鈴置氏のアルバムに収録した曲も足したいと思いますが。Seeds 2005年10月27日 (木) 07:08 (UTC)[返信]

すみません。取りあえず議論して合意を得ないと保護解除の申請ができないものですから。しばらくお待ちください。もしよろしければSeedsさんも下の議論にご参加くださいませんか?Niki 2005年10月27日 (木) 20:15 (UTC)[返信]