ノート:惑星ソラリス

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本文記事について[編集]

コメント・アウトは、記事にあとで組み込むことを考えているような内容を、一旦伏せるために使用します。使う必要がないものや、書き換えてしまった部分は消えてしまいます。従って、コメント・アウト部分の復活には、別に異論はありません。ただ、復活させると、見えるので、別の人が記事を纏めようとすることが起こるので、コメント・アウトで隠すというのもあります(例えば、バッハのコラールが使われているというのが二重に記述されているので、これを一つにまとめようとか考える方が出てくる可能性があるのです)。なお、『惑星ソラリス』と『2001年宇宙の旅』での音楽の使用は、比較して論じる内容ではないというのが私見です。タルコフスキーの映画や、『2001年』について、SF映画だというアプローチで捉える人は、こういう比較をしたがるかも知れませんが、タルコフスキーの場合のバッハの使用は、独特の意味があり、『2001年』の場合は、少し意味が違うと思えます。後者は、映像と音楽の融合で、新しいスタイルの映像芸術を造ろうとした試みだと言えます(クラシックから原題音楽まで使っています)。たいへん「未来志向」です。しかし、タルコフスキーの場合、「未来志向」というより、「過去志向」という面が強いです。クラークは、地球の外へ、外部の宇宙へと超越しようという思想ですが、タルコフスキーは、内部の意味の充実、内在価値の思想だと思えます。レムの『ソラリス』は、それでも超越志向ですが、タルコフスキーの『ソラリス』は、地球への郷愁が主題になります。レムの『無敵』に出てくるホルパフのような宇宙を故郷とするというような孤独な意志の人物は、タルコフスキーでは出てこないのです。(レムの『ソラリス』とタルコフスキーのそれは、全然別のものだということも重要です)。Maris stella 2005年7月23日 (土) 13:44 (UTC)[返信]

Maris stellaさん、お返事ありがとうございます。論点および意図はお察しいたします。私自身、実は『2001年』と『惑星ソラリス』の比較は、個人的には嫌いです。しかし、外向けの文としては、この比較には意味があるのでは、と思います。実際に、今回私への返答として両者およびレムのソラリスとタルコフスキーのソラリスの比較をされていますが、これを本文の中に組み込むというのはどうでしょう?POVギリギリかもしれませんが。
『2001年』も『ソラリス』も、「実は」SF映画ではないというのは賛成です。しかし、SF映画の枠組みとして捕らえる人々が多いのも事実ではないでしょうか。レムのソラリスと、タルコフスキーのソラリスが異なるのも、どう異なるのかの記載を、記事に組み込むのも有意義かと思います。Chloe 2005年7月24日 (日) 20:19 (UTC)[返信]

「東欧的妖気」について[編集]

(この節は本文記事の「作品をめぐる評価」の節に書き加えた61.208.183.235さんの「東欧的妖気」という記述に対して、おーたが要出典タグをつけたことに端を発する議論です。--おーた 2007年11月16日 (金) 15:30 (UTC)追記)[返信]

おーた さんへ、

ちゃんとした論文じゃないのが、恥ずかしいんですが、(そういった本は「図書館」で借りるものなので、手元に無い。)ある本から探してみましたが、「出典」と言われたので、「苦しい例」を拾ってみると・・・、
「タルコフスキーはSFを原作にするけれども、決して空想科学的でもなく、とくに前衛的に現代的という作風ではない。むしろ”古いロシアの風物”を撮り、・・・云々」(『タルコフスキー、好きッ!』p.113 日野啓三ダゲレオ出版月刊イメージフォーラムNo.80)
「ソラリスはそれ故映画のメタファーであり、映画は、又、”妖怪性”を宿して、”神話的感情”に導き入れる。しかし、すべての源泉は、人々の心の底にひろがる”宇宙的感情”である。『ノスタルジア』の終り近くに描かれる温泉のような古代の泉の廃墟にもそれが反映していると思いませんか?」(『タルコフスキー、好きッ!』p.109 山口昌男
「タルコフスキーはボルガ河の沿岸に生まれたという。”西洋と東洋のその霊的な感受性”が彼の社会制度の中で苦しみながら、映画として実現されていると言うのだろう。」(『タルコフスキー、好きッ!』p.165 鈴木志郎康、詩人・映像作家)
「獏として、深く崇高な色彩がひろがるロスコの画布は、彼が亡命してきた”ロシアの大気、その圧倒的なメランコリア”を伝え、タルコフスキーの映像とこちらは同時代的につらなる。」(『タルコフスキー、好きッ!』p.148 滝本誠「タルコフスキー、または苦悩のヴィジョン」)
「・・・、キリスト教の教理では説明しえない、”より根源的な宇宙との照応を志向する世界観”である。とはいえ、”自然と精神の感応、土地の固有性”に対し、タルコフスキーを凌ぐほど意識的にとりくんだ監督は少ないのではないか。冷戦下ソビエトにあって、タルコフスキーは作品に”伝統的なイコン”を映しこむことで信仰と自己とのつながりを問いつづける。とはいえ、”ロシアというカオティックな大地”で制作されたフィルム群が単純な神秘主義へと回収されずにいるのは、”宗教を越えたよりアニミズム的なまなざし”がタルコフスキーを方向づけるからだ。」(『シネマの宗教美学』p.125-126 「神秘主義派」松本晴子、フィルムアート社
「主人公が宇宙に行く前には、”ロシアのもの哀しい美しさを湛えた田園風景”が延々と映し出され、それが”ノスタルジックなライトモチーフ”として、舞台が宇宙に写ってからも様々な視覚的変奏を加えて画面に立ち現われる、・・・「2001年」との比較・・・・、鈍い鉛色で統一され、鉄や金属、機械油や錆の匂いが漂ってくるようだ。殺風景であるがそれなりに人間的な生活感のあるこの風景が、主人公に故郷の記憶を呼び戻す。・・・・(中略)・・・・、『ソラリス』の人間たちは宇宙にあってますます地上へのノスタルジアに縛られていく。・・・「2001年」との比較・・・、タルコフスキーにとっては神も宇宙も絶対に到達できるものではなく、それが感じられるとしたら、”身近に感じられる身近な自然と、親から子へと引き継がれる人間のささやかな生の営みのなかにそこはかとなく漂う”聖霊”としてでしかない。・・・・(中略)・・・・、”錆の匂いは土の香りを連想させる”が、その記憶はステーションのなかに不似合いに存在して歴史を象徴しているシャンデリアのある十九世紀風の居間、その壁に架けられた狩の絵のなかに封じ込められたものでしかない。・・・・・、」『映画のデザインスケープ』p.20-21水原文人、フィルムアート社)

眼が覚めて眠れないんで、色々書き込んでみました。論者の説明には一部疑問点もありますが、関係ありそうな表現を抜書きしました。--61.208.183.235 2007年11月14日 (水) 20:22 (UTC)[返信]

おーたです。抜書ありがとうございます。こうした議論で、きちんと出典を示すということはとても重要なことなので、たいへんに喜ばしいです。ただ、煩いことを言うように思えるかもしれませんが、上記の抜書のどこに「東欧的」という言葉がありすでしょうか。「ロシア」は「東欧」からややはみ出たところがある概念ですので、ロシア=東欧という読み替えはやらない方がよろしいかと思います。--おーた 2007年11月15日 (木) 13:25 (UTC)[返信]

たとえば、”西洋と東洋のその霊的な感受性”という記述とか、ヨーロッパとアジアの緩衝・移行地帯・民族としての、「東欧」「スラブ民族」というのは「アリ」だと思いますよ・・・。--61.208.183.235 2007年11月15日 (木) 14:18 (UTC)[返信]

そういう「解釈」は「独自研究」として突っ込まれる可能性大だと思います。申し訳ないんですが、百科事典の記述というのはある意味、無味乾燥な作業なんです。--おーた 2007年11月15日 (木) 22:16 (UTC)[返信]

「百科事典的記述」なんてものは、映画への冒涜でしょう・・・。「出典」とかいったって、結局どこかの権威者が言ってる勝手な「感想文・エッセー・独自研究」にすぎんですよ・・・。百科事典の限界をわきまえつつ、映画の実質をなるべく載せていこうとした方がいいんじゃないですか? とくにタルコフスキー映画のような、無意識過剰なのは、そうしないと「質」が伝わりませんよ・・・。「タルコフスキー」の項目を打ち出している意味が無い。やってるだけ無駄ですよ。そんなウィキペディアなんておえらいモンじゃありません。下駄履きで近所の魚屋に晩飯のおかずをチョコッと買いに行くようなもんですよ。百科事典なんて詰まらんです、ブリタニカ百科事典の記述が詰まらんように。(すみません、加瀬さん・・・。なかには学者さんが頑張っている記事がたくさんあって、「限界」を踏まえつつ、面白い記事が、色々ありますが・・・。)あんまし、リジッドにこだわりすぎると、ネット・メディアの持つ「良さ・いのち」を殺してしまいますよ・・・。--61.208.183.235 2007年11月16日 (金) 03:08 (UTC)[返信]

内容には同意するんだが、現象的には猛反対させてもらうです。
へたに「感想文・エッセー・独自研究」を認めたらどうなるかは考えるまでもないことで。タルコフスキーに限らず、「質を伝えるにたりる言辞」を書けるやつなんかたかが知れているのでありまして、そういう実力がないやつが真似をするような方向を封じておいたのがいいでしょう。
「実は、思いをこめることはできる」というのは、テキストに思いをこめることができるだけの実力があるライターのひそかな楽しみにしといてください。なお、ネット上にあろうが紙に印刷されていようが、百科事典は百科事典です。思いを述べることをメインにするなら、評論集積サイトとかいくらでもありますから、そちらでやっていただくほうが。--Nekosuki600 2007年11月16日 (金) 13:54 (UTC)[返信]
ついでなので、こんな差分を貼っときます。あと、どれとは言わないけど、「エッセイも悪くないな」と思わせるくらいの力作が初版として投じられた項目があったことも書いておきたい。今でも骨格は残っているな(表現はだいぶ直されてしまい、おれPOVではつまんなくなったけどさ)。でも、残念なことに、圧倒的に「つまらないエッセイ」とかのが多いというのが実情なんだと思う。--Nekosuki600 2007年11月16日 (金) 16:31 (UTC)[返信]

おれは「ロシア」より、「東欧」の方がいいと思いますよ。東西の歴史的交渉、とくに「タタール」の干渉の歴史を影に秘める、東欧スラブ民族東方正教会という含意を込めたつもりです。それから、オスマントルコの巨大な影に脅かされていたトランシルバニアルーマニア)の、ドラキュラ伯爵ヴラド・ツェペシュ)の、いかにも「東欧的」な、「昏い」伝説とかも・・・、(突込みどころ満載ですね、おーたさん(笑)。) ポーランドなどはカトリックで、「タルコフスキーは、ロシア的なものよりむしろ、西欧西洋のカトリックにより強い影響を受けている」とする立場の「おーた」さんにとっては、異論があるのでしょう。--61.208.183.235 2007年11月16日 (金) 03:52 (UTC)[返信]

「タルコフスキーはロシア的というより西欧的・カトリック的だ」というのは、私の立場じゃありません。タルコフスキーの同志だったコンチャロフスキーがそう言ったんです。タルコフスキーが「ロシア的」というのは61.208.183.235さんが文献で示されたように結構良く言われていることですから当然記述されるべきでしょうが、タルコフスキーと一緒に映画を作っていたこともあるコンチャロフスキーの証言も結構考えさせられるものがあります。そのことについて思うことは色々あって、私もタルコフスキー中毒患者の端くれですから書くことはいくらでもあります。けれどNekosuki600さんも仰るように、Wikipediaはそういう「思いを込めて」書く場所ではありません。従って「こういう意見があります。それとは別にこういう意見もあります」と出典の範囲で書いておくというWikipediaのルールに従うしかないです。
61.208.183.235さんも仰るように「しょせんは百科事典」なんです。61.208.183.235さんが「思いを込める」器(うつわ)じゃないんですよ。--おーた 2007年11月16日 (金) 14:43 (UTC)[返信]
(これを読まれる方々への追記)
タルコフスキーがロシア的かカトリック的かという話はアンドレイ・タルコフスキー#作品の評価を参照ください。また、この編集において、おーたが61.208.183.235さんの編集を「独自研究」として削除したことも、上記の議論には反映されています。ノート:アンドレイ・タルコフスキー#独自研究についても参照ください。--おーた 2007年11月16日 (金) 15:40 (UTC)[返信]