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ノート:東郷実満

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「東郷実満ははじめ重治であったが、将軍徳川家重の就任により改名した」とありますが、家重の将軍就任は実満の死後です。家重の元服か将軍世子決定のときではないですか?いずれにしろ、史料の明示をお願いします。--盛風力 2008年1月21日 (月) 11:32 (UTC)

  • 「薩藩政要録」に「右 当公方様御名乗之字、於家中名乗之字、当御代ニハ於家中名乗之字ニ一切用申間敷候」とあり、また「吉 宗 重 治 右当公方様 大納言様 竹千代様名乗之字二而候故、右文字唱迄も遠慮被仰付候」とある。--210.237.32.170 2008年1月27日 (日) 03:03 (UTC)中村次郎[返信]
個人の推測はWikipediaの記述としてふさわしくないので、なんとなくですが書き方を変えました。「聖将東郷全傅」は傍証にしかならないので(個人的には当たってると思いますが)、とりあえずコメントアウトしました。ちなみに、「立山源次郎」さんと「中村次郎」さんは同じ方ですよね?書いている内容、分野、切り口が非常に似通っているので・・・--盛風力 2008年1月27日 (日) 14:12 (UTC)[返信]

*そおですか?別人なんですが・・・。--210.237.32.170 2008年1月31日 (木) 10:23 (UTC)中村次郎[返信]

  • 島津家拝領の屋敷を手放し伊集院郷直木村(現在の鹿児島市松元町直木)に逼塞する。」とありますが、これって、「逼塞」というより「中宿」じゃないんですかね?大久保利通の先祖が市来郷川上でやってた・・・。また、島津家拝領の屋敷が現在の東郵便局の辺りにあったと、聞いてますが?--220.111.240.207 2008年2月9日 (土) 08:29 (UTC)中村次郎[返信]
私も中宿だとは思うんですが、明確な史料がないのでそう書きませんでした。ところでIPで同一人物だとばれてますよ。--盛風力 2008年2月19日 (火) 14:30 (UTC)[返信]
  • ぶちゃっけ、ネットカフェで投稿している上に、立山源次郎氏と交互に投稿してるもんで・・・。大学生の立山君の代役ですが、「紛らわしいし、忙しいので今後は自分でしろ」と今朝、言ったばかりなんですが、まあ、私事なんでこの話はこの辺で。彼の口調に似せんの性にあわねえーし・・・--220.111.240.207 2008年2月20日 (水) 09:15 (UTC)中村次郎[返信]
  • 「文盲」の意味の訂正、ありがとうございました。正直のところ、漢文能力が十分でないことのような気がしていましたが、わたしとしては、あまり自信がなかったので、あえて普通の「文盲」で書いていました(著作を見たところ、素人としては漢字能力が不足していたようには見えなかったため)。ただ、「実満は文盲」だと最初に書いていただいた段階で、「文盲」について説明しないと素人にはわからないですよ(このサイトみているのは盛風力さんのような玄人ばかりではないですし)--210.237.32.170 2008年3月26日 (水) 03:37 (UTC)立山源次郎[返信]
大変申し訳ありませんでした。言葉が言葉ですし誤解を招いたことは私の責任だと反省しています。引用部分は原文に戻しました。「文盲」は、この当時はけっして非識字のことではなく、フォーマルな読み書き、つまり御家流で漢文を読み書きする能力が十分でないことを指すものでした。ですので「文盲」だからといって必ずしも読み書きが出来ないわけではありません。かな交じりであれば読み書きできる可能性があります。現に実満も実勝も位照も書が残っています。ただ、久保之英は漢文で「示現流聞書喫緊録」を著す教養の持ち主であるためか、「文盲」に対する優越感が行間に感じられる気がします。--盛風力 2008年3月28日 (金) 12:53 (UTC)[返信]
  • こちらも大変勉強になりました。ありがとうございます。--60.38.255.134 2008年3月28日 (金) 22:54 (UTC)立山源次郎[返信]
  • 島津家拝領の屋敷を手放し伊集院郷直木村(現在の鹿児島市松元町直木)に逼塞する。さらに伊集院の家も火事に合い、先祖伝来の文物を多く失ったという。」と書いていますが、焼けたのは鹿児島城下の家の方だったのでは?。村山輝志の「示現流兵法」では鹿児島の家が焼けたと解釈してますし、東郷重政の「示現流年代記」では延宝8年に類火延焼したとある上に、「示現流聞書喫緊禄附録系図」では伊集院郷の家が焼けたとは言ってない上に、「久保之昌」の項目で久保家の家蔵資料が延宝8年の火事で焼けたとあり、さらに鹿児島城下では火事が比較的多かったこともあり、「鹿児島城下の家が焼けたので伊集院郷に引っ込んだ」とする方が妥当と思いますが、伊集院郷の家が焼けたという根拠がありましたら、御掲載ねがいます。

 ちなみに、東郷実満の田舎への閑居は中宿(薩摩藩の城下士で貧窮した武士が、士分のまま田舎に入り生計を立てること)のはずですが「中宿」と言ってないのは、家格小番以上では中宿は恥だったらしく、元禄12年に、辞職していた前家老平田宗正も島津綱貴に中宿を願い出て断られていますが、「平田靱負関係資料」の『平田家系図』では「中宿」とは直接いっていません。あるいは中宿と当時言わなかったかもしれませんが、暇なときに「列朝制度」で調べとくことにします。--220.111.240.206 2008年4月14日 (月) 23:11 (UTC)立山源次郎[返信]

火事の件は「示現流聞書喫緊禄附録系図」ですが。引用「重治為家督初也既因窮所帯、去重位翁拝領家久公之宅地、引入伊集院脳木居住于爰有年也、案、重位以来三代者門人之誓詞血判也不失一枚、是蔵于数櫃宜格護之処、后置所狭置于馬屋之梁上、為出火謂令焼失於此所【与+欠】、」鹿児島県資料集(34)所収のものからです。同じものを参照されてますでしょうか。伊集院に移ったのは「窮所帯」の為としています。伊集院に「居住于爰有年也」と述べた後に、代々の誓詞血判が焼けたとあるので、引越し先の伊集院で火事にあったと解釈したのですが。他にどう読めるのでしょうか。が、村山輝志氏の著書がそう書いているということは他に情報源があるのかもしれません。「中宿」については、実満もそうなのかもしれませんが、実満が中宿したと史料に明記なり研究者が論考しているわけでもないのに本文に書いては、Wikipediaの方針である「独自研究を書かない」に反しませんか?ここだけではないですが、220.111.240.206さんとそのお仲間の投稿は個人的な推測の記述が多いと思います。--盛風力 2008年4月16日 (水) 15:41 (UTC)[返信]
  • 「独自研究を書かない」に反した事は詫びましょう(消されてもしょうもない事はわかってました。)。当初私は、「島津家拝領の屋敷を手放し伊集院郷直木村(現在の鹿児島市松元町直木)に逼塞する。さらに伊集院の家も火事に合い、先祖伝来の文物を多く失ったという」という文に文句を付けてない様に、同じ事を考えてましたが、「示現流聞書喫緊禄附録系図」の文についての、村山輝志の著作では鹿児島の宅地が焼けて閑居したとあったので質問をしたまでです。ちなみにそっくりそのまま同じ原文ですよ。鹿児島県立図書館の村山輝志氏の著作「示現流兵法」及び「示現流聞書喫緊禄附録系図」の訳文の方は見てないのでしょうね?

 正直、「案じるに」とあるのが曲者のような気がしますし、東郷実満の生きた時代(島津光久ー綱貴時代)はやたら鹿児島城下は火事が多く(「鹿児島市史Ⅲ」の「古記」等参照)、時代背景を考えれば鹿児島城下でで火事が起こったというのが自然でしょう。この文で「案じるに」とある文以降は久保之英の想像のような気がします。というのも、他の原文見りゃ分かる通り、この記事が直接聞いた文なら、「兼慶曰く」とか「位照曰く」がついてそうなものですがそれがない。そもそも、伊集院郷で起こったことなら、「案じるに」なんて書く必要があるのでしょうか  いずれにしても、自分で訳さず、ここでは村山輝志氏の訳文を採用して掲載することをお勧めします。でないと、私のやっていることとあまり変わりませんよ?もっとも、私自身のこれまでの記載を見ればわかりますが、そんままでもいいとも思いますが(こっちもその方がやりやすいですし)--60.38.255.134 2008年4月18日 (金) 12:14 (UTC)立山源次郎  [返信]

村山輝志著「示現流兵法」はずっと前に読んだきりで、「示現流聞書喫緊禄附録系図」の現代語訳は読んだことはありません。伊集院移住と火事の件ですが、鹿児島県資料集(34)の解題に「家計は極度に逼迫し重位拝領の宅地を去って、一時伊集院脳木に移住した。ここで火災にあって重位以来の貴重な文書を消失したという。」とありました。村山輝志氏が鹿児島で消失との説を取っているのであれば両論併記はどうでしょうか。先行研究を重視しましょう。あと、「伊集院郷で起こったことなら、「案じるに」なんて書く必要があるのでしょうか」ですが、「案」はおっしゃるとおり久保の考えということであって、別に伊集院での出来事と解釈することの障害にはならないと思います。鹿児島の出来事と読み取れなくもないですが、島津家久拝領の屋敷で「馬屋之梁上」に置くなんて?というのが私としては気になりました。--盛風力 2008年4月19日 (土) 08:54 (UTC)[返信]
原文を訳することに反対されていますが、それはおかしいと思います。Wikipediaの出典は現代語訳、日本語訳しか使ってはならないと主張されているのでしょうか。「鹿児島県史料集」という公刊されている専門家向けの史料集は使えず、一般書しか参考としてはいけないということになりますが。また、「私のやっていることとあまり変わりませんよ?」とありますが、私が非難しているのは史料を斜め読みして独自解釈を書くことです。一次史料を元にして記事を書くことが同列にされるのは納得がいきません。私は先行研究を引用することはあっても個人的に意図した解釈は入れません。60.38.255.134さんが現代語訳を元に記事を書かれることは非難しませんが、出来れば訳を参考に漢和辞典を片手に原文に挑まれることをお勧めします。私の記事がおかしいと思われれば修正するなりノートでコメントくださるなりしていただければ結構です。そもそもですが村山氏の当該部分の訳では鹿児島で火事になったとしているのでしょうか?--盛風力 2008年4月19日 (土) 13:07 (UTC)[返信]

:村山氏の著書では、この火事は鹿児島でおこったものと見ています。また、鹿児島城下で類火延焼していることは子孫の著作「示現流年代記」であります。また、伊集院郷で火災にあったとは考えずらい理由として、「鹿児島市史Ⅲ」の『古記』では鹿児島城下以外の火事についても掲載されており、伊集院郷での火事については記載がなく、「示現流聞書喫緊録付録系図」でも具体的な年代は出ておりません。「伊集院郷で火事にあった」というには文字情報としても不完全なものに感じます。-こっぺぱん-122.215.65.92 2008年8月28日 (木) 08:56 (UTC)[返信]

  • 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集」では島津綱貴の側室の妹が、東郷藤兵衛重治の妻になっていました。「平姓東郷氏支族系図」では、実満の妻については、比志島氏、二階堂氏の祖父を父にしてしまっているようです。また、二階堂行格と同じく田布施郷士だった、常陸流の和田源大兵衛の父は同じく綱貴側室の江田氏と血縁だった好みで城下士となっているので、二階堂家も関係あるかもしれません。-こっぺぱん-122.215.65.93 2008年9月21日 (日) 08:45 (UTC)[返信]