ノート:泡雪崩

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1938年志合谷の事故について[編集]

記事中、「鉄筋コンクリート製宿舎」とありますが、下記の論文では「記録によれば,宿舎は1,2階が鉄筋コンクリート,3,4階が木造合掌造りであった。」としています。元の論文まで遡って調べたわけではないので記事の内容には手をつけませんが、少なくとも吉村昭の小説に出てくる「鉄筋五階建て」という記述は誇張があるのではないかと思います。

  • 清水,秋田谷,中川,岡部「黒部峡谷志合谷のなだれ研究 I:志合谷のなだれ予備調査」(低温科學 物理編 30: 103-114) http://hdl.handle.net/2115/18203

--Kanou-h 2009年3月18日 (水) 10:57 (UTC)[返信]

こんにちは。泡雪崩はなかなか信頼できる情報がなく困っておりました。そうしたら、運良く上記の論文に引用されていた以下の論文を発見することができました(清水らの論文の書誌情報が多少間違っておりましたが)。
  • 小笠原和夫,1968,「黒部峡谷のホウ雪崩」『地理』13-3:62-69.
なかなか興味深い内容です。調べてみると、著者の小笠原和夫さん(1899-1979)は、山形県出身の台北帝国大学助教授を経て富山大学教授となった気象学者参照:大日本帝国の南方前線の気象学 : 台北帝国大学の小笠原和夫(PDF・本文は英文)で、黒部が泡雪崩研究の適地であることを示唆し、1964年に退官しています。この文献を書いた1968年の肩書きは「芝浦工業大学水資源調査室」となっています。その後、1970年代に富山大学の中川正之さんが北海道大学と共同研究を行っています参照:「黒部峡谷のホウ雪崩研究の始まり」(PDF)。Kanou-hさんが示してくださった論文は、その共同研究の一部のようです。
この文献は、黒部第三発電所建設に携わった佐藤組(佐藤工業)の責任者や、その後の管理をしている関電の社員を集めて泡雪崩の実情の記録を残そうとしたもののようです。純粋な学術雑誌というよりも、より広い読者の専門誌という色合いの雑誌での連載記事ですが、以上のような経緯をみると、『高熱隧道』などに比べてはるかに信頼性の高い過去の記録の文献であろうと考えられます。具体的には、
  1. 問題の「宿舎」の構造についてより詳しい記述がなされている(半地下で下部が鉄筋、上部が木造合掌造りだったようです。つまりKanou-hさんの指摘のように「鉄筋五階建てという記述は誇張」ということは言えそうです)
  2. このほかにも黒部峡谷の主な泡雪崩被害をそれぞれ検討している
  3. 「ホウ」と「アワ」は違うものではないかと指摘している
  4. 「爆風」という表現が使われている(『高熱隧道』(1967年)でも同様の表現があり、現在の本文中では「この誤解は『高熱隧道』の記述によって広まった」とありますが、より学術的なこの文献でもこの表現が使われていることから、これは当時の科学水準(少なくともこの文献が書かれた1968年)からして妥当な記述だったことが推測されます。つまり、これは単純な『高熱隧道』の「誤解」というよりも当時の認識の反映と考えることもできるでしょう。)
など、現在の記述に加筆・修正できる情報が散見されています。近いうちに、それらの記述・出典は反映させたいと思います--Tdk 2009年3月23日 (月) 17:06 (UTC)[返信]