ノート:筑後川の戦い

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当時の筑後川の位置[編集]

冒頭の「筑後川をはさんで南北朝が戦った」という記述と、概要の「(高良山を本拠とする)南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢…」という記述は地理的に矛盾します。もし「筑後川をはさんで」が間違いであれば、南朝が北岸に陣を張ることは、まさしく背水の陣ですから、その様な戦略を用いるような状況だったのか疑問が残ります。

当時の筑後川は現在よりも北(例えば現在の大刀洗町を通って小郡市の宝満川のあたり)を流れていて、「南朝勢は筑後川の岸に陣を張り」ということならば納得できますが、そのような資料をご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。もっと昔の筑紫の国を筑前と筑後に分割した時代には大河を境に決めたと想像できるので、その頃は大刀洗町・小郡市の北を流れていたと思うのですが・・・。--118.4.133.87 2009年11月18日 (水) 02:59 (UTC)[返信]

九州に派遣した8歳の皇子[編集]

筑後川の戦いの時に懐良親王は8歳と書かれています。 別途「懐良親王」の記事を読むと筑後川の戦いでは30歳位であると計算できます。 どちらが正しいのでしょうか? もし8歳の時に九州に派遣されたというのなら、誤解のないように書き改めて頂ければと思います。