ノート:自給自足

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問題の指摘と改善のお願い[編集]

この記事は、かつてはコンパクトながらも妥当な内容だったのですが、特定の利用者による追記が繰り返された結果、多数の問題を抱えるようになっています。修正しようにも、どこから手を着けたら良いのかわからない状況でして、私では問題点の氷山の一角を指摘するのが精一杯です。この記事の改善のために諸兄のご協力をお願いします。

 正確性の欠如[編集]

まずWikipedia:正確性に疑問がある記事#記事の正確性が問題とされるケース

  1. 考えられないような内容の情報が多数あり、出典も示されていない場合。
  2. そのテーマについて不正確な記述をすると判明している利用者が執筆(または編集)している場合。

が該当します。深刻な間違いが次から次に出て来るのですが、まずは冒頭から。

冒頭から誤り[編集]

自給自足(じきゅうじそく、ドイツ語: Autarkie、英: self-sufficiency)とは、自らの需要を自らの生産で満たすこと[1]。

とあり、の脚注の節に

1. 新村出, ed (2008). 広辞苑 (第六版 ed.). 岩波書店. ISBN 9784000801218.

とありますが、この短い内容で多くの間違い・問題が凝縮されているのに驚きます。

まず、ドイツ語が間違っている。Autarkie は、国として、必需物資を自給自足している経済状態の事で、これでしたら閉鎖経済のという別記事が該当します。例えば、幕末までの日本は鎖国をしていたので経済的に自給自足していた、という意味であれば Autarkie を使う事ができますが、この自給自足の記事は、閉鎖経済の事は何ら記されておらず、個人レベルで自分が食べる食料を栽培する、といった内容ですから、結果的に冒頭から大間違いです。また、記事の「他言語版」から「Deutsch」をクリックすれば容易にドイツ語は de:Selbstversorgung の記事にリンクされている事が判るのに、それもできずに冒頭に「ドイツ語: Autarkie」と書くというのは、これを執筆した利用者は不正確な記述をする人と判断せざるを得ない。

広辞苑を読んで理解できない[編集]

自給自足(じきゅうじそく、ドイツ語: Autarkie、英: self-sufficiency)とは、自らの需要を自らの生産で満たすこと[1]。

という記述の脚注に広辞苑 第六版と記されているので、この記述は広辞苑に書かれているので正確であるかのような印象を受けます。ところが実際には前述した通りの間違いです。広辞苑が間違っているのでしょうか? もちろんそうではありません。広辞苑にはこう書かれています。

【自給自足】自らの需要を自らの生産で満たすこと。→アウタルキー。

広辞苑の冒頭に凡例の解説がありますが、p.14 に参照記号として、「→ その項目を参照せよ」と載せられています。「参照せよ」というのは、イコールである事を意味しません。例えば【自給自足】が見出し語にあるのと同じページに【自供】があり、説明の終わりに「→自白」とありますが、自供と自白は、関連がありますが、イコールではありません。広辞苑の参照せよとの指示通りにアウタルキーを調べると

【アウタルキー】自給自足経済。国民経済の自立を目指して、原料の自給化、外国依存の廃止をはかる政策。

とあり、広辞苑は何ら間違っていません。間違っていない広辞苑から大間違いを書いてのけるということは、書き手が広辞苑を読んで理解するだけの資質に欠けているのか、出典を良く調べて事実をWikipediaに書こうという姿勢ではなく出典で裏づけができない自説をWikipediaに書いて広めたいかのどちらかでしょうが、後述するように「考えられないような内容の情報が多数あり、出典も示されていない」内容ばかりですから、虎の威を借る狐ということわざのように、冒頭で広辞苑の威を借りて出典があるかのように見せたものです。

不正確な記述をする利用者[編集]

「自給自足」の変更履歴を見れば判りますが、時系列的に見ると

  1. Atirow さんによる 2014年4月20日の版までは、コンパクトながらも妥当な内容でした。ちなみに現在の英語版も、そう長くはありません。
  2. ところが 2014年9月1日に、僅か3時間の間に11回という、プレビュー機能の使い方を知らないと思われる利用者: 222.146.170.75 により編集がなされ、222.146.170.75 による 2014年9月1日 06:21版となりました。これは現在の版に近い、独自研究が山盛りの内容です。
  3. その後、利用者: 221.188.46.220 により、内部リンク追加などの少しの手直しが施されました。
  4. しかしそれでどうにか救える内容ではなく、2014年9月20日 に Ix680 さんにより (Atirow による編集に差し戻し) とされています。その判断は極めて妥当だと思います。
  5. 2014年9月24日には、2時間弱の間に9回の編集という、またもやプレビュー機能の使い方を知らないと思われる編集が Naokan Tanita さんによりなされ、ほぼ差し戻される前の問題のある内容に戻されています。
  6. 2014年10月29日に、利用者: 61.114.204.174 により、脚注や関連書の記述が Cite を用いて整えられ、しかし同時に {{参照方法|date=2014年10月}} も貼られました。これは記事にプラスに作用する編集ではありますが、何かおかしいなとは感じたものの性善説に立ち、書いた以上は出典はあるだろうとお考えになったものと思われます。
  7. 2014年12月17日に、40分ほどの間に7回という、またもやプレビュー機能の使い方を知らないと思われる編集が、利用者: 222.146.198.183 によりなされ、さらに独自研究丸出しな記述が追記されています。

利用者: 222.146.170.75 が書き、9月20日 に差し戻された内容とほぼ同じ事を Naokan Tanita さんが9月24日に書いている事と、プレビュー機能の使い方を知らないような短時間での連続編集との特徴が一致するので、利用者: 222.146.170.75 と Naokan Tanita さんは同一人物と思われます。その後、12月17日に編集をした利用者: 222.146.198.183 についても、独自研究に終始しプレビュー機能使えずの特徴が一致し、アドレスも 222.146.128.0/17 とレンジが一緒である事からやはり同一人物と思われます。 Naokan Tanita さんに関しては、「家庭科」における2014年4月24日 11:42における編集と、「生活」における2014年4月24日 13:06を見ると思考パターンがだいたい分かり、これも三者が同一であろうとの傍証になります。

独自研究と明らかな間違いの多さ[編集]

以降では、現在の版から問題と思われる内容を引用して論じます。

遊牧民や狩猟民は基本的に自給自足の生活を送っている。イヌイット(エスキモー)はアザラシやカリブーを狩り、その肉を食べ、血や内臓を食べることでビタミンを摂り、皮をはいで衣服にしたりテントや住居の材料にし、骨を削り道具や釣り針などにする。日本では縄文時代の人々は皆、自給自足生活を送っていた。その後もアイヌの人々はそうした生活をしていた。現代でもアマゾンの奥地やパプアニューギニアの奥地などでは、完全な自給自足生活を送っている人々が大勢いる。文明と接触せずに悠々と暮らしている人々がいるのである。

これの間違いに関して、分割しながら検討しましょう。

遊牧民や狩猟民は基本的に自給自足の生活を送っている。
まるで「日本人は基本的にサムライとゲイシャがフジヤマでハラキリをしている」的なステレオタイプの記述で現実にそぐわない事は一般常識的にも判るでしょうが、そもそも記事自体の完全自給自足と半自給自足にも書かれている「かつてはイヌイット(エスキモー)などがこうした生活をしていた。ただし、近年では、カナダや米国の文化の流入で、スノーモービルや銃等々は購入したものを使うようになっていて、家屋は北米の(カナダや米国の)スタイルのものに住むようになっていて、半自給自足へシフトしてしまった。」とあるので、これは「遊牧民や狩猟民は基本的に自給自足の生活を送っている。」という表現と両立せず矛盾です。矛盾するこの2つの記述はどちらもNaokan Tanita による 2014年9月24日 03:50の版で、Ix680 さんにより差し戻された後の、一度の編集で追加されていますが、書いていて矛盾に感じないというのが驚きです。後述する『ヤノマミ』の書籍も、間違いであるという出典になります。
付け加えるに、自然回帰と完全自給自足こそ理想の生活スタイルだとの思い込みが強いのか少数民族への差別・蔑視が強いようで、まるで、近年では劣った半自給自足の生活に入ったがイヌイットは理想である完全自給自足の暮らしを続けるべきで文明の恩恵を享受する事には断固反対、と言わんばかりの極端な思想が見え隠れする文面です。自分は文化の流入の結果であるコンピューターを使っておきながらイヌイットが文明の恩恵に預かることは気に入らないというのが不思議です。
イヌイット(エスキモー)はアザラシやカリブーを狩り、その肉を食べ、血や内臓を食べることでビタミンを摂り、皮をはいで衣服にしたりテントや住居の材料にし、骨を削り道具や釣り針などにする。
Canada CBCの動画を見れば間違いは明らかで、いまやInuit TV networkのように、独立ビデオジャーナリストとして活動するイヌイットもいますが (IsumaTVen:Inuit Broadcasting Corporationも参照) こちらの動画(Linking school and suicide)が判りやすいですね。自殺が多いとの暗いテーマですが現代のイヌイットの暮らしが把握しやすい映像が見られ、「アザラシやカリブーを狩り、その肉を食べ、血や内臓を食べることでビタミンを摂り、皮をはいで衣服にしたりテントや住居の材料に」という表現が、もはや現代のイヌイットに対する事実無根の侮辱・差別に他ならず、土人扱いする記事がjawpに存在するのはふさわしくありません。
日本では縄文時代の人々は皆、自給自足生活を送っていた。
『縄文時代の商人たち-日本列島と北東アジアを交易した人びと-』小山修三・岡田康博著 洋泉社、の序章だけでも読めば、アクセサリーに加工された糸魚川にしか産出しない翡翠が、新潟・関東・青森・北海道南部で発掘されている事、縄文時代にアスファルトや海産物が物流として動いていた事が書かれていますが、p.24 から

縄文時代を説明するのに、自給自足社会という見方は、やがて使われなくなると思います。

が間違いであるという出典として分かりやすいので引用します。
その後もアイヌの人々はそうした生活をしていた。
続縄文時代の記事を見ただけでも「鉄器の普及」や「佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる」と書かれている位で、間違いです。
コトバンクのアイヌにも、アイヌ社会は「活発な交易活動を展開し、これに対応し得る大量の商品生産を組織的に行っていた」とありますし、上富良野町のアイヌ民族とその生活の「アイヌ民族と交易」の節を見ると、中世(17世紀)には交易をしていた事が書かれていますので、不適切です。また、後に、五島列島は自給自足の島がいくつもあると主張しているのですから、アイヌが縄文時代の後も自給自足の生活をしていたと主張するのは全くの無意味です。これも、結局はアイヌに対する侮辱・差別にしかなりません。
現代でもアマゾンの奥地やパプアニューギニアの奥地などでは、完全な自給自足生活を送っている人々が大勢いる。
『縄文時代の商人たち』p.25に「現在のニューギニアの村でも、土器だけを作る村、塩だけを作る村があったりします」とあり、間違いです。
日本放送出版協会の『ヤノマミ』のp.41には、先住民保護区に住み、一日を狩で過ごすヤマノミ族の男達も、「鍋、ナイフ、釣り糸、釣り針、マッチ、石鹸」を物々交換で手に入れる事を知っている事が書かれています。p.20には「もはや石器を使うヤマノミはいないと考えられている」とありますので、”アマゾンの奥地…完全な自給自足生活を送っている人々が大勢いる”という主張も間違いです。金属の鍋やナイフを自給自足できるかどうかを考えてください。
文明と接触せずに悠々と暮らしている人々がいるのである。
文明と接触しなければ悠々と暮らせるという主張は根拠がありません。例えば、AFPの村ぐるみで男の赤ちゃん殺害、部族戦争止めようと10年間 パプアニューギニアパプアニューギニアでまた「魔女狩り」、女性2人が首はねられるなどを見ると、少し文明と接触したほうが良いのではないかと思います。一方、引きこもり#生活習慣にあるのように本を読んだりインターネットを通じ文明と接触しながら学校や仕事に行かず家で悠々と暮らしている人々、つまり広義のひきこもりは69.6万人と推計されています。
小さな島などでは自給自足体制にしているところが多数ある。例えば長崎の五島列島には数百の島があるが、その中には、水や野菜などのほとんどを自給して生活を成立させている島がいくつもある。
五島列島の記事を見て数えた限りでは有人島は僅か27です。「島がいくつもある」というのが事実なら、島の名前と人数が明記できる筈です。そもそも、人数が少ないから自給自足というわけではありません。五島列島、押し寄せる中国からの密航者…「自衛隊基地を作って」によれば、五島市の「黒島は今、昨年3月時点より1人減って、94歳の女性とその娘の2人が住むだけだ。」とありますが、社会通念上、94歳では自給自足は無理ではないでしょうか。記事によれば船は週一便とありますので、孤立しているわけでもありません。もし自給自足しているなら週に一度の船は不要です。また、人口1人の野崎島ですが、奇蹟の島 野崎島によれば、「管理人以外無人の島」とありますので、その1人は簡易宿泊施設の管理人で、宿泊客から施設使用料を集めています。よって野崎島も、自給自足ではありません。残りは25島ですが、離島はいま 島の風景 二次離島編=五島市黄島・2/甲板埋め尽くす積み荷を見ても、二次離島でも自給自足はしていません。島として自給自足しているのであれば民宿も食料品店も成り立たちませんが、この調子でひとつづつ調べれば、自給自足の島などひとつも無かったという結論が出るのがおちでしょう。なにか、五島列島は小さい島も集まっているからよゐこの無人島0円生活のような暮らしをしている島もきっと多いに違いないと、何ら根拠のない思い込みをしているようですが、五島列島には自給自足体制の島がいくつもあると書きたければ証拠を示してください。

脚注も不適切[編集]

完全自給自足生活では、食料は野・山・川・海・家の周囲の畑などで入手する[注 1]。


1. 世界的に見て、遊牧民は、当然、自由にそれを行ってよい。認められている。但し、日本では、川・海などの水産資源を捕獲するには漁業権が必要だ、ということにされてしまった。また、野・山などで鳥獣を捕獲するには狩猟権が必要だ、ということにされてしまった。

上記の誤りに関して検証します。

干ばつがひどくなるにつれ、ますます稀少になる水と牧草地をめぐって部族間や一族間で争いが起こったり

清朝時代には、領地内に遊牧民が幕営した、放牧地、冬営地、井戸を勝手に使ったと封建領主や寺院が相手の領主らを訴えた裁判文書が残っている。現在でも、モンゴル北西部国境のオブス県の遊牧民と国境向こうのトゥバ共和国の遊牧民の間で家畜が国境を越えた、超えないということから銃撃戦がおこる。たしかに「資源をめぐる紛争」は存在する。

のように、少し調べただけで「遊牧民は、当然、自由にそれを行ってよい。認められている。」といった注釈が事実である筈がなく、創作話であると確認できます。漁業権については、これはもう fishing rights で検索してみてくださいとしか言いようがありません。そうすれば直ちに

と漁業権に関する海外の記事や団体が見つかり、「但し、日本では、川・海などの水産資源を捕獲するには漁業権が必要だ、ということにされてしまった。」のような記事の脚注の表現は、事実に反する誤った記述である事が確認できます。

言葉を濁した記述[編集]

Wikipedia:言葉を濁さない#曖昧な言い方の典型例そのものです。たとえば

その他にも、世界各国の田舎では自給自足の割合がかなり高い生活を送っている人々が非常に大勢いる。現代日本でも各地に自給自足をして暮らしている人々は多数いる小さな島などでは自給自足体制にしているところが多数ある長崎の五島列島には数百の島があるが、その中には、水や野菜などほとんどを自給して生活を成立させている島がいくつもある

などは見ていて頭がクラクラしてきますが、Wikipedia:言葉を濁さない#曖昧な言い方の典型例にある「検証可能性に基づき信頼できる情報源によって出典を明らかに」して、明確に言い切った表現にできないのは、出典なき自分の思い込みすなわち独自研究であるのが理由であり、これでは記事として体をなしていないと判断せざるを得ません。

「完全自給自足と半自給自足」の節[編集]

出典が皆無ですが、とりわけ「半自給生活」の節が、意味を成していません。「完全自給自足と半自給自足」という節でありながら、では半自給自足とは何なのか、という定義・説明がありません。

現代の自給自足では、この半自給自足を行っている人の割合が高い

「割合が高い」が曖昧で言葉を濁している点、根拠が何ら示されていない点も問題ですが、「現代の自給自足では、この半自給自足を行っている人の割合が高い」と記した所で、これは「では自給生活とは何なのか」に対する何の説明にもなっていません。続く節も同様で

あらかじめ「山」(田舎で言う「山」。山間地の地域で、小さなひと山、山あいの土地など)を所有していてそこで自生している植物を利用できる場合、自給自足にかなり有利である。もともと「山」を持っていない人でも、実は、山間地の土地は(都会の人が知ると驚くほどに)安く売られているので、最初に土地を手に入れる費用だけは若干かかるが、あとは比較的簡単に半自給生活に持ち込むこともできる。また、「山」を数十年単位でタダ同然(あるいは本当にタダ)で借地して自給自足生活を始める人もいる(「山」の持ち主から見ると、「山」は放置すると荒れ放題になってしまい面倒なことになるので、荒れるよりは、タダ同然でもいいから誰かに借りてもらって手入れをしてもらったほうがまし、と考える持ち主も多いため)。

と、自給自足と無関係かつ眉唾な薀蓄話が延々と続いています。これは、「半自給自足とは何か」について、執筆者自身が定義も理解もできていない事を示します。例えば、首都圏近郊に住む農家で、収入は少ないが自分で米や野菜を作って出費を抑えたり水は井戸水を利用していれば「半自給自足」なのか、それなら兼業農家は半自給自足ではないのか、それともベランダで香味野菜を育てる釣り好きのサラリーマンも半自給自足に含めるのか、と疑問が際限なく生じます。ですから、半自給自足について言及・加筆するなら、「半自給自足とは何か」を定めなければ記事が迷走してしまいます。Wikipedia が百科事典である以上、半自給自足については、あやふやな考えや思い込みを書くのではなく「信頼の置ける出典は何と記しているか」を書く以外にないでしょう。

関連書を示しているが内容を理解しているか疑問[編集]

「関連書」の節は、Naokan Tanita さんと同一人物と思われる利用者: 222.146.170.75 により2014年9月1日 06:18版で追加され、9月20日に版を戻された後、Naokan Tanita さんの9月24日の編集で再び書き戻されていますが、経験上、これほど多くの書籍を丹念に調べれば遥かに良記事になる筈であるのでおかしいと思い、

  • 囲炉裏と薪火暮らしの本
  • 完全版自給自足の本
  • 農家が教える自給農業のはじめ方-自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工-
  • 農家に教わる暮らし術-買わない捨てない自分でつくる あるものを活かす、自給する
  • ぼくはお金を使わずに生きることにした
  • 山で暮らす愉しみと基本の技術

に目を通してみた結果、脚注などを用いてどの記述の情報源であるか明示されていないので見落としがあるかもしれませんが、自給自足の記事は、列挙された関連書籍を読まない、あるいは、理解せずに追記されたものばかりであると判断しました。「本にはそんな事は書かれていない」という内容ばかりだからです。例を幾つか挙げてみましょう。

鶏(ニワトリ)を飼い、卵を産んでもらう。鶏を飼うことは現代でも世界中の農家や「田舎暮らし」で行われている、ごく普通のことである。新鮮で美味しい卵料理が食べられる。
『農家が教える自給農業のはじめ方』を読んだが、鶏を飼うことは現代でも世界中の農家や「田舎暮らし」で行われている、ごく普通のことである。新鮮で美味しい卵料理が食べられる。という記事の表現の出典になったと思える箇所は見当たらない。自然卵養鶏のメリットを提唱してはいるが (p.11-12) それ以外の卵より美味しいと主張している箇所は見当たらない。また一般常識的に考えて、自給自足しなくても鶏卵の直売所に行けば新しい卵が購入できる。卵料理が美味しいかは調理の腕にもよるので、自給自足すれば必ず美味しい卵料理が食べられるとは限らない。
調理場 - 手作りで「かまど」あるいは「いろり」を作るとよい。
『農家に教わる暮らし術』p.p2-73, 『囲炉裏と薪火暮らしの本』を読んだが、手作りでいろりを作るとよい、という記事に書かれている趣旨の記述は見当たらない。『囲炉裏と薪火暮らしの本』の筆者は林業関係の本も著していて、確かに家のフローリングを剥がして根太を切断し土台を作ったり (p.43) 5年乾燥させたクヌギをチェーンソーで半割りにして炉縁を作ったり (p.45) する作業を写真つきで解説しているが、素人が家にいろりを作る工事をする事を薦めている記述は見当たらない。むしろp.37で「住宅地での薪火・囲炉裏の設置と法規について」として、準不燃材料でした内装の仕上げに準ずる仕上げを定める告示に関しても紹介しており、火事を起こさない囲炉裏を手作りするのは並大抵の事ではなく、到底素人にでも手作りができるかのような内容を記して奨励できるようなものではない。火事になれば、jawpの記事が原因で死者を出す結果にもなりかねない。
「いろり」は調理場であり、また、いろり回りは食事をとる場にもなり、寒い季節は暖をとる場所…と一日の大半を過ごす「いこいの場」になる。
一般常識的に考えても、一日の大半をいろりの回りで過ごせば仕事も勉強もできず引きこもりと一緒なので事実である筈がない。『囲炉裏と薪火暮らしの本』p.15には、いろりがコミュニケーションをもたらす旨は書かれているが、憩いとは体や心を休めるという意味でコミュニケーションとは異なるため、いろりが憩いの場になるという趣旨の記述を裏付ける内容は同書には見当たらないし、いろり回りが一日の大半を過ごすいこいの場になるという趣旨の記述も見当たらない。
「関連人物」の節にあるマーク・ボイル
マーク・ボイル著の『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のp.100に、筆者の典型的な過ごし方が書かれているが、そこに

昼食をとる。朝のうちに採取した食料のほか、前の晩にゴミ箱から集めた賞味期限切れの品もあれば、スキルと引き換えに入手した地元の純植物性オーガニック食品もある

と書かれている。他にマーク・ボイル氏は不用品交換サイトを利用しコンピューターを手に入れて使うなど、あくまでお金の支配からの自由を目指しているのであって、自給自足の生活をしているというのは全くの誤りなので、関連人物に載せたり氏の著書が関連書に載っているのはおかしい。英語の en:Self-sufficiency#Influential_people にはen:Mark_Boyle_(Moneyless_Man)が載っていないのは、本を読んで理解しているためと思われる。

結局、関連書の節に本のタイトルが列記されているものの、内容を読んでいるのか、また理解しているのかは疑問が拭えず、これでは単に関連書を列記して自説を展開し、それが関連書に基づいているような印象を与えているに過ぎないと解釈する以外にない。例えば、『農家が教える自給農業のはじめ方』を読んで”鶏(ニワトリ)を飼い、卵を産んでもらう。”のような一般常識のような事しか書けず、それに続く”鶏を飼うことは現代でも世界中の農家や「田舎暮らし」で行われている、ごく普通のことである。新鮮で美味しい卵料理が食べられる。”の部分が本に基づかない独自研究・自説に過ぎないのであれば、到底『農家が教える自給農業のはじめ方』を読んで理解して記事に用いたので関連書に載せたとは見なせない。とはいえ私も全ての書籍を一字一句、入念に読んだわけではないし、『自給養鶏Q&A』の方は入手していないので、Naokan Tanita さんは、自分が追記した内容は関連書の何という本の何ページが裏づけになっているか明記すべきである。そうすれば、その書籍からそのような記述をするのが良いかどうかの議論に進むことが可能となる。

まとめ[編集]

以上ですが、部分的な手直しではこの記事は救えないと思います。ここで指摘した内容を修正すれば事足れり、とはなりません。検証したのは容易におかしいと分かる箇所だけですし、不正確な記述をすると判明している利用者が存在する以上、Atirow さんによる 2014年4月20日の版まで戻しても、すぐに問題満載の内容が書かれるでしょう。出典を調べて理解し、出典に基づいて書くならともかく、飾りのように出典を並べはするが、内容に至っては完全に、Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかの「自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成」に近いです。違いは、発表さえされておらず実在しない情報を解釈・合成している事でしょう。現実を無視した個人的な「自給自足の思想・哲学・信念」のようなものを、何が何でもWikipediaの場で宣伝したいようですが。

実は Naokan Tanita さんにはノート:Kamado Jiko#アフリカに設置されたものの写真があるとよいのように記事に目をつけられ、さらにノート:Kamado Jiko#「他ストーブとの比較」の節を改良せよにある通り、「他ストーブとの比較」の節を削除してやると息巻いているようで困ったなと思ったのですが、自給自足で Naokan Tanita さんがしている事の方が深刻なので、まずこちらを解決すべきと思いました。察するに、Naokan Tanita さんは、”調理場 - 手作りで「かまど」あるいは「いろり」を作るとよい。”と加筆しているので、手作りのかまどという事で Kamado Jiko に目をつけ、Kamado Jiko の記事も、Naokan Tanita さんの「自給自足の理念・理想」に沿った記事に変えたがっていると思われますが、それについては Kamado Jiko のノートで行います。

この記事はどうしたらいいでしょうかね。自給自足は広くてアバウトな概念なので、この記事中では自給自足の何に関して書く、とはっきりさせないと方向も定まりません。国としての経済的な自給自足は別記事があるので、「食料の自給自足」を中心に書くのも可能でしょう。また、自給自足を提唱する本もあり、そこから加筆する事も可能な反面、食料・燃料・小屋作りを中心とした自給自足のノウハウを際限なく追加しても仕方がありません。英語版は割合にコンパクトにまとまっていますね。冒頭で似た概念を列挙しています。ですが、それを私が訳したところで Atirow さんによる 2014年4月20日の版と大差は無いですし、たちどころに独自研究だらけにされて無駄に終わる恐れが高いです。

10月29日に{{参照方法}}が貼られてから2ヶ月以上も無視されていますが、期限を区切って Naokan Tanita さんに、追記された記述はどの本の何ページが情報源であるかを明示するように求め、期限が過ぎたら「出典示せず」とみなして追記された内容を削除、としてはいかがでしょうか。関連書の節ですが、記事の出典には用いられていない事を明記した上で列挙するなら構わないかとも思いましたが、農山漁村文化協会は人間と自然が一体のヤマギシズム農法という本を出版していたので心配になり、農山漁村文化協会の『農家が教える自給農業のはじめ方』を見たところ p.104 には”等身大の生き方 ... 桃源郷が訪れることも疑いない”とあり、p.105には、等身大の生き方を実現するには”「自給自足、独立独歩」の小作百姓となる以外にはあり得ない。”とあるなど、自給自足に関して平衡の取れた、記事を閲覧した人に一読を勧めるに値する書籍なのか吟味した方がいいかもしれません。--114.181.43.133 2015年1月19日 (月) 00:05 (UTC)[返信]

参照方法タグをコメントアウトする行為[編集]

相当の時間を割いてノートに問題点を記述したにも関わらず、2015年1月29日 03:33‎ から 04:11‎ の3回の Naokan Tanita さんの編集を見て、ノートは全く読んでいないのかと思いましたが、2015年1月29日 03:33‎の編集のコメント文に

== 関連書 ==
 
<!--

「関連書」は関連書で参考文献ではないからOKと思われ。

 
{{参照方法|section=1|date=2014年10月}}

-->

と記してあって、その後に自給自足を扱った書籍を列挙して元に戻していますが、これはいかがなものでしょうか。

{{参照方法|section=1|date=2014年10月}}を貼られたという事は、出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示して欲しいという意図でしょう。関連書の節に本が列挙されているのを見れば、出典にした筈だと思うからです。でも私は記事の内容が独自研究満載でおかしいと感じたのでノートで出典があるなら明記すべき旨を依頼したのですが、結局のところ何一つ問題が解消しないまま内容が戻され、また「参考文献ではないからOKと思われ。」とコメント文中に記しているということ、ノートは目を通してくれたようですが、結局

  • 関連書は何も参考にしていない
  • 参考文献ではないので {{参照方法}} に対応する必要などはないのでコメントアウトした
  • しかし関連書を列挙して自給自足に対する個人的な思想・信条に裏づけがあるように装い続ける

という事でしょうか。そうであれば、羊頭狗肉ではありませんか。部屋の本棚に読みもしない本を並べているのは個人の嗜好なので構いませんが、本棚を友人に見せびらかせて自分は博学であるかのように思わせておいて単なる自分の考えで物事を言って内容は間違いだらけ、というような人が信用されますか?

それからこの記述ですが、

現代では、自給自足度を高めてゆくと、「貨幣」というもので計れない形で、実質的な生活が豊かになってゆく。貨幣の数字には現れないかたちで、実質を豊かにできるのである。例えばお金を全然使わずに、毎日のように美味しい水を飲み、美味しい野菜、穀類、卵、乳などを食し、快適に風呂に入り、快適に眠る、という健康的な生活を送ることも可能である。

どうして Naokan Tanita さんの書く内容は重複ばかりなのかというのもありますが、これですと、貨幣が登場する前の時代はみんなが豊かで健康だった、貨幣が登場する前の時代に戻りたい、といわんばかりですが、出典はありますか? この反例として、クメール・ルージュ支配下の民主カンボジアがありますが。

Naokan Tanita さんがどのような思想・信条を持とうと自由ですが、ウィキペディアは Naokan Tanita さんの思想・信条を広める場ではありません。書きたければ、あくまで信頼できる情報源を元とし、独自研究は載せないでください。--114.181.43.133 2015年2月2日 (月) 08:18 (UTC)[返信]


ウィキペディアでは一部の文章を気に入らない場合でも安易に一括リバートするのは禁止されています。これはルールです。問題箇所だけをコメントアウトしなさい、というルールになっていますので気をつけてください。該当箇所だけはこちらでコメントアウトします。--Naokan Tanita会話2015年2月14日 (土) 03:29 (UTC)[返信]
上で指摘されている通りほぼ全部が問題箇所ですので差し戻さざるを得ません。むしろ複数の方から問題を指摘されているのに編集を強行されているNaokan Tanitaさんのほうがルールに反します。(力ずくで解決しない)次差し戻されるようでしたら強行編集として通知いたします。--Aquamarin456会話2015年2月14日 (土) 03:36 (UTC)[返信]
あと「問題箇所だけをコメントアウトしなさい」というルールは存在しません。問題箇所は正当な理由があるのでしたら除去するのがルールです。勝手な自分ルールを押し付けないでください。--Aquamarin456会話2015年2月14日 (土) 03:39 (UTC)[返信]
Naokan Tanita さん自身は自給自足の生活を送っていないのではありませんか? これについては是非ご回答ください。それから、川島博之著の『「作りすぎ」が日本の農業をダメにする』は一読をお勧めします。スーパーで小麦粉1kg百円の特売を見かけましたから、1年間の1人の主食を十分に賄える100kgでも1万円と消費税で買えます。1万円を稼ぐのにかかる時間・労力と、畑を耕し小麦を育て収穫し乾燥させ脱穀し100kgを製粉する時間・労力を比較すれば、自給自足が幾ら素晴らしいと唱えても実践する人は少ないし(例)長続きする人はさらに少ない(例)のが現実です。庭がある場合は家庭菜園には幾らかメリットがある一方、例えば百円ショップで買える手袋を自給自足したらどうなるかをお考えください。羊を飼って毛を刈るのか、綿花を育てて糸を紡ぐのか、という事です。技術の進歩で食料にせよ生活必需品にせよ極めて低コストで生産できるようになったという恩恵を活用し自分の適性に合った仕事で稼いで食料・必需品を買う方がずっと容易で、恩恵を利用しない自給自足は重労働を強いられる上に現金収入も得ねばならず、この道を選ぶ方がデメリットを補うメリットがあり幸福であって苦痛ではないと考える人は限られますので、理念押し付けのような事はご遠慮願えれば幸いです。
薪で発電ならスターリングエンジンを使用した製品(動画)も開発中ですし、自給率向上ならスマートアグリバイオマス発電のような新たな取り組みも始まっていますが、優れたものは広まるし、実用性が無ければ廃れるだけですので、個人レベルでの自給自足も含め、普及・定着するかは社会が決めるので任せておいて大丈夫でしょう。なぜ自給自足に記載した内容が多くの利用者からダメ出しされるのか理解できていないようですし、火力発電にまで電力は自給自足できるのような事を書いて差し戻されている状況では、当面は無理に執筆を強行するより、広く勉強して本をたくさん読み論文の書き方の指導を受けるなどして実力を高められる事に専念なさる方が良いのではと思います。-- 114.180.131.173 2015年2月26日 (木) 03:30 (UTC)[返信]