ノート:韓信

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韓信の股くぐり[編集]

「韓信の股くぐり」のエピソードは面白そうなので誰か書いてもらえないでしょうか?インターネットで検索したら簡単な内容は分かりましたが、それだけの知識で書くわけにいかないので、他の人にお願いします。morita 2004年11月27日 (土) 13:19 (UTC)[返信]

狡兎死して走狗烹らる、の格言も韓信の言ですね。原典をよく知らないのでとりあえずここにメモ。--Charon 2005年7月25日 (月) 06:12 (UTC)[返信]

疑問点をいくつか[編集]

>その兵を率いることを韓信に任せる。この侵攻の際も韓信は用意周到さと砂嚢の計などの奇策を駆使し、かつて項羽が苦戦していた章邯をも素早く討ち滅ぼし、あっという間に平定したため、項羽はもとより三秦の他の王すら援軍を送る暇が無かった。 こうして劉邦は関中に入り、そこを本拠地とする。
韓信が三秦攻略のときに全体の指揮を執ったといった記述は『史記』・『漢書』には見当たらないようですが、何を元にしているのでしょうか?また砂嚢の計を使ったのは竜且との戦いのときですし、章邯は何度か敗走した後で滅ぼされているので、明らかに矛盾しています。
また彭城の戦いのときでも韓信が全体の指揮を執ったという記述はありません。あくまで劉邦率いると書いてありますが。なおこの場合の大将軍は将軍の上のことであり、兵権を統括する地位ではありません。らりた 2007年5月15日 (火) 08:25 (UTC)[返信]

侯の兵権に付いて[編集]

列侯に付いては首都周辺に在住していたということであり、またその属官にも尉の字が見えないことからして兵権が無かったと考えて良いのではないかと思われます。劉邦時代には仕組みが違った可能性もありますが、韓信もまた侯であった時期は首都にいたことが伺われます(陳豨が鉅鹿に赴くに当たり韓信をたずねていることから。まさかわざわざ淮陰まで言った訳じゃないでしょう。)。ただし兵権を奪うことを劉邦が企図していたということはそれとは別に出典が必要と思われますが。らりた 2007年10月2日 (火) 11:56 (UTC)[返信]

統合提案[編集]

韓信の股くぐり」は韓信のエピソードの1つに過ぎず、また韓信の記事内の項目とも重複しており、両項目の統合を提案します。--Metaurus 2008年6月14日 (土) 17:20 (UTC)[返信]

反対します。韓信の股くぐりの記事は初版からどこかの書籍からの丸写し感が強すぎるんで、統合したために後日特定版削除、のようなことにもなりかねません。このまま分離した上で、股くぐりについて書きたければ新規に書き下ろしてください。--Kangoshiyouichi 2008年6月18日 (水) 17:03 (UTC)[返信]
であれば統合せずに単にリダイレクトにしてしまえば?--らりた 2008年6月19日 (木) 10:07 (UTC)[返信]
リダイレクト賛成。--てぃーえす 2008年6月20日 (金) 16:47 (UTC)[返信]
そうですね。その案なら賛成です。Metaurusさんはどうでしょうか?--Kangoshiyouichi 2008年6月21日 (土) 08:20 (UTC)[返信]
(コメント)らりたさんのご提案のリダイレクトで賛成します。ただ、仮にリダイレクトで決定した場合、私が統合作業をすると不都合が生じる可能性もありますので、お手数なのですがどなたか代理で作業を行って頂きたく思います。--Metaurus 2008年6月21日 (土) 15:47 (UTC) 統合・リダイレクト化しました。--Metaurus 2008年6月30日 (月) 06:10 (UTC)[返信]
(コメント)どうも理解されていなかったようですが、統合せずに単にリダイレクトにするということを提案していたわけで、文章を写す必要は無いのです。--らりた 2008年6月30日 (月) 11:52 (UTC)[返信]