ノート:鹿鳴館

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東京倶楽部に関する内容は別項を立てるのが望ましいかも。 --忠太 2004年9月5日 (日) 14:30 (UTC)[返信]

その後の記述について[編集]

とりあえず引用元不明な文章を削除しました。その他にも冗長な文章や、情緒的な記述が目立ちます。 --忠太 2007年7月20日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

「日本は極度に右傾化を強め、戦争に突っ込んでいった。」という最後の一文、私としては関係ないと思うのだがどうだろう。 --宵月 2007年9月22日 (土) 04:32 (UTC)[返信]

東京日日新聞に「その一部を東大工学部、日本建築学会に寄贈する予定である」という記事が載ったとありますが、当時から東京帝国大学が「東大」と言われていたのでしょうか?どなたかご教授下さい。

また、次の段落で「早大教授で商工省参与官の喜多壮一郎が取壊しは惜しいとして幣原商相に保存を提議し~」とありましたが、幣原喜重郎商工大臣になっていません。疑わしいので段落ごとコメントアウトしました--鳴海 2007年10月28日 (日) 22:54 (UTC)[返信]

当時の商工大臣だとすると米内内閣(1940)の藤原銀次郎でしょうか(2文字は合ってますが)。 --忠太 2008年1月10日 (木) 12:38 (UTC)[返信]
当時から東京帝国大学のことを「東大」とも呼んでいましたよ。例を挙げればきりがありませんが、神戸又新日報・大正10年11月23日「東大と慶大が脚氣病の病源争ひ」、大阪毎日新聞・昭和11年3月27日「“國家の機密”たる航空科學殿堂 最も冷静に、しかも緊張裏の東大航空研究所」、同じく大阪毎日新聞・昭和12年5月26日「東大の超長距離機見事な處女飛行 羽田で關係者ら感激の涙」などなど。--210.159.148.136 2009年12月18日 (金) 18:24 (UTC)[返信]

取壊し前の状況についての記述が詳しすぎてバランスを失しているので、大幅に削除したいと思いますがどうでしょうか。 --忠太 2008年1月10日 (木) 12:38 (UTC)[返信]

「記述が詳しすぎる」というのは削除の理由としては不適当だと思いますが…「関係の薄いことまで書かれすぎて不必要に長くなっている」とかなら分かりますが、そういうわけでもないと思いますし。--鳴海 2008年1月14日 (月) 14:46 (UTC)[返信]
全体に引用が多いが、必要不可欠な引用ではない。「その男こそ…」のように妙に小説的な文体は百科事典の項目として異例。とにかく前段に比べ長すぎます。 --忠太 2008年1月15日 (火) 11:41 (UTC)  [返信]
文体については自分も以前から気になっていたので、書き換えてみました。私は特に削れと思うわけでも、全部そのまま残せと思うわけでもありません。ただ、谷口吉郎が鹿鳴館の滅失から述べた文章なんかは、意義があると思うのでそのままにして欲しいと思いますが。--鳴海 2008年1月15日 (火) 17:38 (UTC)[返信]
冗長な箇所をコメントアウトしてみました。特に菊池重郎氏の文は個人的な感想に留まっており、必要不可欠な引用とも思われません。 --忠太 2008年2月20日 (水) 13:07 (UTC)[返信]

「嬌奢」について[編集]

「嬌奢」ではなく、「驕奢」なのではないでしょうか。 -- Mkpoli会話2019年2月23日 (土) 14:41 (UTC)[返信]