ハイデラバード (パキスタン)

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ハイデラバード
Hyderabad
حیدرآباد
位置
ハイデラバードの位置(パキスタン内)
ハイデラバード
ハイデラバード
ハイデラバード (パキスタン)
ハイデラバードの位置(西南アジア内)
ハイデラバード
ハイデラバード
ハイデラバード (西南アジア)
地図
座標 : 北緯25度22分45秒 東経68度22分6秒 / 北緯25.37917度 東経68.36833度 / 25.37917; 68.36833
行政
パキスタンの旗 パキスタン
  シンド州
 県 ハイデラバード県
 市 ハイデラバード
City Nazim Kanwar Naveed Jamil
人口
人口 (2015年現在)
  市域 3,429,471人
その他
等時帯 PST (UTC+5)
市外局番 022
公式ウェブサイト : 公式サイト(アーカイブ)

ハイデラバード (Hyderabad、ウルドゥー語シンド語حيدر آباد) は、パキスタンシンド州の都市である。かつてはシンド州の州都であったが、現在はハイデラバード県の県庁所在地である。香水の都として知られ、「街の街路が香水で毎日洗い清められた」という伝承にちなみパキスタン建国以前には「インドのパリ」とも称された。ハイデラバードの気候は気温・湿度ともに高い。同地域のシンド語文学運動の舞台となり、多くの詩人の生誕地でもある。文化と伝統に恵まれ、世界最大の腕輪 (バングル) 生産地でもあり、シンド州の都市部と地方を結ぶ交通の要所である。2015年の人口は約343万人。

歴史[編集]

イスラム化以前[編集]

紀元前2600年紀元前1800年インダス文明時代、ムルタン地区は農業地域と森林だった。

紀元前1500年紀元前500年ヴェーダ時代中央アジアからインド・アーリア人インダス川地域に侵入し定住した。この小さな漁村は不毛の丘によって洪水から守られていた。この村はネルーン・コトゥ(نيرون ڪوٽ)(ネルーンが来た場所)として知られるようになった。丘の上の小さな石灰岩は誓いの場所とされ、僧侶が村が交易で繁栄していることに感謝した。豊かだが武器をほとんど持たないこの村は外敵に狙われやすかった。

636年チャチュ・ナーマによるとブラフマナバードアフガム・ロハナが支配していた。

イスラムによる征服[編集]

兵を率いるムハンマド・ビン・カシム(711~712年)

711年ムハンマド・ビン・カシムが町を征服した。

712年中頃までに、イスラム軍はシンド州の大部分を征服した。アラブ人の短い支配の後、イスラム教に改宗した地元のソムルー族が支配を引き継いだ。

997年アフガニスタンガズナ朝サブク・ティギーン王が、息子のマフムード王に王位を譲った。

1005年、マフムード王はカブールシャヒ王国を征服した。続いてシンド州を征服した。

1206年デリー・スルターン朝が征服した。スーフィズム伝道師がイスラム教を広め、ダルガー(イスラム神社)がシンド中に造られた。

1351年サンマ朝が征服した。ソムルー族の法律は引き継がれた。

1524年アフガニスタンアルグン朝が征服した。

1554年北インドムガル帝国が征服した。この新しい支配者はネルーンの住民と結婚し、土地に定着していった。

17世紀後半、ムガル帝国によるシンド州の支配が弱まった。

1701年、ヤー・ムハンマド・ハーン・カルホラは実質的にシンド州の支配者になった。彼は地域で最有力のカルホラ族(کلہوڑ)の出身だった。

カルホラ朝・タルプル王国[編集]

パッコ・チッロ砦

1757年頃、インダス川はモンスーンによる大洪水で流路が変わった。ミアン・グラム・シャー・カルホラがシンド王になった時、首都クダバードダドゥの近く)は何度も洪水に見舞われていた。ミアン王はより良い場所に首都を移すことを決めた。ミアン王時代はシンドの黄金時代といわれている[1]

1768年、ミアン王は古都ネルーン・コトゥの上にパッコ・チッロ砦を中心に新首都ハイデラバードを建設した。ムハンマドの義理の息子のハイダルが名前の由来である。

1789年タルプル王国のミー・ファテー・アリ・ハーン・タルプルがカルホラ王国からハイデラバードを奪った[1]

1792年、ミー王は正式にハイデラバードに入城し首都とした。彼はパッコ・チッロ砦を住居兼王宮とした。クダバードから多くの住民が新首都に移住した。

1843年2月17日、タルプル王国とイギリスの間でミアニの戦いが始まった。3月24日、タルプル王国はイギリスに降伏した。その後イギリスはシンド州全体を征服した。州都はイギリス東インド会社のあるカラチに移された。王族はカルカッタ近郊で幽閉された。王族の遺体はイギリスの許しを得て、ハイデラバードが始まった場所であるガンジョ丘に埋葬された[1][2]

イギリス植民地時代[編集]

1853年、ハイデラバード市が設置された[2]

1857年インド大反乱が起きた。

1861年、イギリスはパッコ・チッロ砦を武器庫として利用した[2]

1872年、人口は4万3088人だった。

1881年、人口は4万8153人に増加した。

1886年北西鉄道が開通し、ラホールカブールと結ばれた。

1891年、人口は5万8048人に増加した。

1901年、人口は6万9378人に増加した。市民の64%がヒンドゥー教徒で、35%がイスラム教徒、1%がキリスト教徒だった。キリスト教徒はイギリス兵のほかに改宗した住民も居た。ボンベイ管轄区で7番目に人口が多かった[2]。人口増加に対応するために、イギリスは水道を広い範囲に設置した[2]

パキスタン独立[編集]

1947年、パキスタンは独立を果たした。ムスリムのほとんどが全インド・ムスリム連盟パキスタン運動を支援した。少数派のヒンドゥー教徒シク教徒インドに移住し、逆にインドからムスリムがハイデラバード地区に移住した。パキスタン運動以前、ハイデラバードには多くのシンド・ヒンドゥーが暮らし、交易や商業を行っていた。彼らは独立後もシンド州で暮らせると考えていたが、インドへの移住を強制された。インドからの移住者(ムハジル)によって多くの暴力事件が起きた。シンド・ヒンドゥーの財産はムハジルに奪われた。ムハジルは主にヒラバード地区の土地を受け取った。人口増加に伴いパキスタン政府は2つの郊外地区をハイデラバードに新設した。ムハジルによって、シンド州で2番目に人口が多くなったことで、再び州都になった。

1953年、自治体になった。

1955年カラチに州都が移った。

1980年代、多数派のシンド人と新住民のムハジルの間で抗争が続き、社会は分断された[3]

1988年、ヒラバード地区からラティファバード地区までの道には遺体が散乱していたと報告された。1日で60人が、暴動全体で250人が殺害された。その反動で、カラチでは60人以上のシンド語を話す人々が銃殺された[3][4]。2000人の警官暴動を鎮圧しようとしたが失敗した。また、民族で棲み分けが進んだ[3][5][6][7][8][9][10][11][12]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Mir Atta Muhammad Talpur. “The Vanishing Glory of Hyderabad (Sindh, Pakistan)”. UNIOR Web Journals. 2008年4月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e Hyderābād City – Imperial Gazetteer of India v. 13, p. 321”. Imperial Gazetteer of India. 2008年4月3日閲覧。
  3. ^ a b c Pakistan Backgrounder”. South Asia Terrorism Portal. 2008年4月14日閲覧。
  4. ^ http://www.pildat.org/publications/publication/Conflict_management/EthnicConflictinSindhOctober2011.pdf
  5. ^ http://www.nytimes.com/1988/10/02/world/ethnic-rioting-in-karachi-kills-46-and-injures-50.html
  6. ^ Col. Ved Prakash. Encyclopaedia of Terrorism in the World, Volume 1. Kalpaz publication. ISBN 978-81-7835-869-7. https://books.google.com.pk/books?id=-9iF9n2a80EC&pg=PA367&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CCEQ6AEwAWoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  7. ^ Oskar Verkaaik, by. Migrants and Militants: Fun and Urban Violence in Pakistan. Princeton university press. https://books.google.com.pk/books?id=Mw6rMHMTe5QC&pg=PA189&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CCYQ6AEwAmoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  8. ^ Alyssa Ayres, By. Speaking Like a State: Language and Nationalism in Pakistan. Cambridge University press. https://books.google.com.pk/books?id=FddJQi1dQ30C&pg=PA54&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEMQ6AEwB2oVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  9. ^ Papiya Ghosh, By. Partition and the South Asian Diaspora: Extending the Subcontinent. Routledge. ISBN 0-415-42409-7. https://books.google.com.pk/books?id=xP4jAwAAQBAJ&pg=PA120&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEkQ6AEwCGoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  10. ^ Nichola Khan. Mohajir Militancy in Pakistan: Violence and Transformation in the Karachi. Routledge. https://books.google.com.pk/books?id=m2yMAgAAQBAJ&pg=PA33&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CDoQ6AEwBjgKahUKEwiej_Hh5vDHAhWKtBoKHSEzDvE#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  11. ^ Michel Boivin (2008). Sindh Through History and Representations: French Contributions to Sindhi Studies. Oxford University Press. pp. 146. https://books.google.com.pk/books?id=bXYMAQAAMAAJ&q=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CB4Q6AEwATgUahUKEwjmj5uc5_DHAhWLSRoKHXUdBeE 2015年9月12日閲覧。 
  12. ^ Hari Sharan Chhabra (1994). World Focus, Volume 15. H.S. Chhabra. https://books.google.com.pk/books?id=-ydnAAAAMAAJ&q=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEYQ6AEwCTgUahUKEwjmj5uc5_DHAhWLSRoKHXUdBeE 2015年9月12日閲覧。 

外部リンク[編集]

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