ムスチスラヴリ公国

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ムスチスラヴリ公国ロシア語: Мстиславское княжество)はスモレンスク公国分領公国として成立し、後にリトアニア大公国領となった公国である。首都はムスチスラヴリ(現ベラルーシムスツィスラウ)にあった。

歴史[編集]

初代のムスチスラヴリ公1180年に公位に就いたムスチスラフ(後のキエフ大公ムスチスラフ3世)とされる。なお都市・公国名は別のムスチスラフ(キエフ大公ムスチスラフ1世)に由来する。公国領は現ムスツィスラウ地区チェルィカウ地区ロシア語版チャヴスィ地区ロシア語版にあたり、ラドムリリャスノという都市が領域内に存在していた。はじめスモレンスク公国から分離したが、1197年に分領公国としての地位を有しつつ、再びスモレンスク公国に併合された。

13世紀末には既に、西方から拡張してきたリトアニア大公国と、ルーシ諸公国との国境に位置する公国となっていた。1359年にリトアニアのアルギルダスに占領され、リトアニア大公国領となった。公国の統治者はアルギルダスの子のカリガイラレングヴェニスへと変遷した。1386年にはスモレンスク公国が奪還を目指し、首都のムスチスラヴリの街を包囲したが、首都近郊のヴィフラ川の戦いでリトアニア軍に破れ、奪還は果たせなかった。このように、公国は国境の戦略的に重要な地であったため、リトアニアならびにポーランドの君主は、モスクワ大公国等に内応・従属することのないよう、ムスチスラヴリの公に対して寛容な政策をとっていた。

1500年 - 1503年モスクワ・リトアニア戦争 (1500-1503年)ロシア語版では、公国領は戦場となり、大きな被害を受けた。ムスチスラヴリの戦い (1501年)ロシア語版ではリトアニア大公国軍は敗北を喫したが、モスクワ大公国軍はムスチスラヴリを落とすことはできなかった。1514年8月にモスクワ軍が攻め寄せると、ムスチスラヴリ公ミハイルロシア語版ヴァシーリー3世に服従を誓った。しかし、オルシャの戦いロシア語版でモスクワ軍が敗北すると、再びリトアニア側へとついた。

1526年、公国領域はリトアニア大公・ポーランド王ジグムント1世の直轄領となり、行政区画としてはスタロストヴォロシア語版となった。1566年にはヴォエヴォドストヴォ / 県(ムシチスワフ県)となった。

出典[編集]

  • Бычкова М. Е. Русское государство и Великое княжество Литовское с конца ХV в. до 1569 г. — М.: Изд. центр ИРИ, 1996.
  • Варонін В. А. Князь Юрай Лынгвеневіч Мсціслаўскі: Гістарычны партрэт / Васіль Варонін. - Мн.: Тэхналогія, 2010.
  • Кром М. М. Меж Русью и Литвой. Пограничные земли в системе русско-литовских отношений конца XV — первой трети XVI в. Москва: Квадрига, 2010.
  • Мяцельскi А. А. Мсціслаўскае княства і ваяводства ў XII-XVIII стст. — Мн.: Беларуская навука, 2010. — 664 с.

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関連項目[編集]