三浦こう

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みうら こう

三浦 こう
生誕 村岡こう
1872年6月22日
死没 1943年6月(71歳)
国籍 日本の旗 日本
出身校 済生学舎
職業 産婦人科医
配偶者 三浦万太郎(眼科医・実業家)
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三浦 こう(みうら こう、1872年〈明治5年〉6月22日 - 1943年〈昭和18年〉6月)は、日本の産婦人科医。夫は三浦万太郎[1]、旧姓は村岡東三河地方初の女医である[2]。浜松の内田みつ、東京の吉岡彌生とともに、「三女医三女傑」と称された[2]

経歴[編集]

青年期[編集]

村岡こうは筑摩県諏訪郡富士見村(現・長野県諏訪郡富士見町)に生まれた[2]。生家は代々御典医を務めた村岡家であり、こうは幼少時から頭脳明晰だった[2]。当初は産婆(助産婦)を志していたが、弟の千仁の医者の修行を見て女医を志すようになり、上京して日本初の私立医学校である済生学舎に入学した[2]

蒲郡での活動[編集]

蒲郡海浜病院の広告

1893年(明治26年)、21歳の時に医術開業試験に合格した[2]。医籍番号は6960号であり、専科は産婦人科である[2]。済生学舎の3年先輩に三浦万太郎がおり、万太郎とともに万太郎の故郷の愛知県宝飯郡形原村(現・蒲郡市)に戻ると、結婚して二人で愛明堂医院を開業した[1][2]。万太郎が眼科、こうが婦人科を受け持つ医院であり、こうは東三河地方で初の女医となった[2]

1910年(明治43年)には豊橋市から内科医を迎え、こうと万太郎は蒲郡海浜病院(現・蒲郡厚生館病院)を設立した[2]。蒲郡海浜病院は東三河地方初の総合病院であり[2]三河湾を一望できる場所に約30室の病室を有する病院だった[3]。こうは午前に蒲郡海浜病院で、午後に愛明堂医院で診察を行い、着物と袴姿で自転車に乗って蒲郡町、三谷町(現・蒲郡市)、幡豆町(現・西尾市)などに往診に出かけることもあった[2]。こうは堕胎に関係して逮捕されたこともある[2]

夫の三浦万太郎

1919年(大正8年)頃には万太郎の弟の三浦政夫が大阪医科大学(現・大阪大学医学部)を卒業し、蒲郡海浜病院の院長に就任したことから、万太郎は実業家としての事業に専念するようになった[2]。万太郎は奥飛騨温泉郷平湯温泉の開発を志したが失敗[1]。また万太郎は独力で形原漁港の埋立工事を行い、1929年(昭和4年)に工事が完了したが[4]、こちらも借金だけが残った[2]

晩年[編集]

1934年(昭和9年)、姪の小川りんが東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業し、形原町に来て蒲郡海浜病院を手伝うようになった[2]。万太郎とこうの養子の一人も医師となり、やはり蒲郡海浜病院に勤務している[2]。この頃には万太郎は家に戻らなくなり、こうが一人で家や病院を切り盛りしていたが、万太郎は半身不随となった後の1935年(昭和10年)に死去した[2]

小川りんも結婚して形原町を離れ、養子もこうの厳しさに耐えかねて形原町を離れた[2]。6人から7人いた看護婦がだんだん少なくなると、1940年(昭和15年)頃にはこう自身も病気となり、蒲郡海浜病院は閉鎖された[2]。1943年(昭和18年)6月、こうは71歳で死去した[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『蒲郡の人』蒲郡市教育会、1964年、pp.30-32
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 東三河の女医編集委員会『東三河の女医』東三河女医懇話会、1996年、pp.104-106
  3. ^ 坂田東峯『蒲郡』東海社、1916年、p.65
  4. ^ 『宝飯地方史資料 4』愛知県宝飯地方史編纂委員会、1958年、p.112

参考文献[編集]

  • 東三河の女医編集委員会『東三河の女医』東三河女医懇話会、1996年