名古屋シネマテーク

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名古屋シネマテーク
Nagoya Cinémathèque
地図
情報
開館 1982年6月27日
開館公演 『早池峰の賦』(羽田澄子監督)
閉館 2023年7月28日
収容人員 80人
客席数 40席
用途 映画上映
運営 一般社団法人名古屋シネマテーク
所在地 464-0850
愛知県名古屋市千種区今池1-6-13 今池スタービル2階
位置 北緯35度10分7.7秒 東経136度56分6.1秒 / 北緯35.168806度 東経136.935028度 / 35.168806; 136.935028座標: 北緯35度10分7.7秒 東経136度56分6.1秒 / 北緯35.168806度 東経136.935028度 / 35.168806; 136.935028
アクセス 名古屋市営地下鉄東山線・名古屋市営地下鉄桜通線 今池駅から南西に約100m。
外部リンク 公式サイト
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名古屋シネマテーク(なごやシネマテーク、Nagoya Cinémathèque)[注 1]は、かつて愛知県名古屋市千種区今池にあった映画館

1982年(昭和57年)に開館し、2023年(令和5年)に閉館した[1]。40席の1スクリーンを有していた。名古屋市のミニシアターでは最古参であった[2]。映画の自主上映会から発展した映画館の先駆けとされる[3]。2024年3月16日、元スタッフらによって新たな映画館「ナゴヤキネマ・ノイ」が跡地に開館した[4][5]

データ[編集]

歴史[編集]

系列 運営 館名
東宝系 東宝直営館 名鉄東宝、スカラ座、名宝シネマ
ヘラルド興業直営館 毎日ホール、中日シネラマ、シネチカ
松竹系 中日本興業直営館 グランド、シネラマ名古屋、セントラル、駅前シネマ
その他のロードショー館 ゴールド劇場・シルバー劇場、毎日地下劇場、駅前プラザ、
東映パラス、東映ホール、今池地区の各映画館
その他 名古屋シネマテーク、シネマスコーレ

名古屋の映画館[編集]

中区にある繁華街の大須は「名古屋の映画発祥の地」と呼ばれる。1897年(明治30年)2月28日、若宮八幡社付近にあった末広座(昭和初期に名古屋松竹座に改称)で「写真幻灯畜動機」の試写会が行われたのが名古屋初の映画上映とされる[13]。1962年(昭和37年)には名宝文化映画劇場が日本アート・シアター・ギルド(ATG)の専門館である名宝文化に生まれ変わり、アート系映画を上映していたが、名宝文化は1972年(昭和47年)に閉館した[14]

かつてのミリオン座は東宝系の洋画封切館だったが、独立館となってからは良質なアート系作品の上映館としてのイメージを定着させ、『天井桟敷の人々』、『ツィゴイネルワイゼン』などがヒットを記録した[15]。ミリオン座の閉館後にはゴールド劇場・シルバー劇場が開館し、次第にミリオン座のようなアート系作品の上映館という立ち位置を確立させ、東京のミニシアターで公開されたアート系作品を名古屋では一手に引き受けた[15]。1985年(昭和60年)の名古屋においては、東宝直営館として3館、ヘラルド興業(東宝系)の直営館として3館、中日本興業(松竹系)の直営館として4館があり、その他にゴールド劇場・シルバー劇場などのロードショー館があり、それ以外として名古屋シネマテークやシネマスコーレがあった[15]

ナゴヤシネアスト[編集]

1970年代初頭の名古屋にはシネクラブ連絡会議の構成団体である名古屋シネクラブがあり、『中国女』(ジャン=リュック・ゴダール監督)、『地下水道』(アンジェイ・ワイダ監督)などの自主上映会を毎月1本の頻度で2年ほど行っていた[16]。その他にも様々な自主上映会があり、また大学の映画研究会による上映会も盛んにおこなわれた[16]。『中国女』の上映会には2日間で700人から1000人もの観客が集まったという[16]

1971年(昭和46年)1月23日、現名古屋シネマテーク代表の倉本徹が所属する名古屋大学映画研究会は、名古屋市中区で初の自主上映活動を行った[7]。この頃は高校生・大学生の会員が7割を占めていた[17]。1972年(昭和47年)には映画研究会が空中分解したが、1973年(昭和48年)には活動を再開し、倉本を代表とする自主上映サークル「ナゴヤシネアスト」(シネアストとは映画人の意味)となった[7]。ナゴヤシネアストは大島渚監督特集、ジャン=リュック・ゴダール監督特集、ポーランド映画特集、ソ連映画特集、アラン・レネ監督特集などを上映したが、名古屋市内の貸しホールを使った上映活動は赤字続きだった[7]

倉本は地元予備校の河合塾講師として活動資金を稼ぎながら、ナゴヤシネアストは9年間に渡って自主上映活動を続けた[7]。1976年(昭和51年)には大須に実験映画専門の大須実験ギャラリーが開設され、自主上映団体が定期的な上映を行った[16]。やがて自主上映団体の多くが消えてゆき、1980年代まで残ったのはシネマルームT&Gとナゴヤシネアストくらいとなった[16]。1980年(昭和55年)のナゴヤシネアストは年間約80日間の上映活動を行い、100本以上の映画を上映した[7]

名古屋シネマテーク[編集]

2階に名古屋シネマテークがある今池スタービル
2003年に来館したアッバス・キアロスタミ

1982年(昭和57年)6月27日、かつて今池スター座が入居していた今池スタービル(雑居ビル)に名古屋シネマテークが入居し、常設映画館としての活動を開始した[18]。ビルのオーナーは当時、名古屋近郊に複数の映画館を経営する映画人でもあった。埋もれた映画を上映したいという倉本徹の考えに理解は示したが、すでに映画は斜陽の時代で、家賃の支払いが滞ることも危惧された。話は頓挫しかけたが、六文錢のマスターの後ろ盾もあって了解がとれたという[19]。開館にかかった工事費・設備費の総額は974万円。35mm・16mm映写機を常設して興行場としての認可を受けた。固定席は40席(最大収容数80人)であり、これは現在も変わっていない。初回上映作品は羽田澄子監督の『早池峰の賦』であった。その他はハンガリーアニメーション特集、ハンガリー映画祭、イタリア映画傑作選、シュレンドルフ回顧展というラインナップだった。

開館後の半年間は金・土・日の週3日上映であり、フロアの賃貸料は月額約20万円の安さだった[注 4]

名古屋シネマテークは名古屋市で初のミニシアターであり、開館翌年の1983年(昭和58年)には名古屋駅の西側にシネマスコーレが開館している[2][7][8]。1984年(昭和59年)からは週7日上映に移行し、同年末の勅使河原宏監督・『アントニー・ガウディー』は2週間で5,000人近くの動員を記録。1987年(昭和62年)には、1982年の開館時からスタッフを務めていた平野勇治が支配人に就任した。2000年代半ばまで長らく、名古屋シネマテークは企業ではなく同好会だった[2][7][8]

1990年代の名古屋シネマテークは「安定期」であり、ミニシアターとしては異例の年間50,000人もの観客を集めた[要検証][3]。1998年(平成10年)に全国的に大ヒットを記録した『ムトゥ 踊るマハラジャ』は名古屋シネマテークでも好評だったが、倉本はこの頃を境に「下降期」が続いていると語っている。2003年(平成15年)12月にアッバス・キアロスタミ監督の『10話』を公開した際には、別件で訪日中のキアロスタミ監督が突如名古屋シネマテークに現れ、舞台挨拶を行なって観客と支配人を驚かせた[20]

1982年(昭和57年)の開館当初から名古屋シネマテークは同好会という立場だったが、2006年(平成18年)頃に一般社団法人名古屋シネマテークとなった。2006年(平成18年)頃には今池スタービルからの移転も計画されたが、移転計画先ビルの耐震偽装問題によって頓挫。2014年(平成26年)にはシネマ・シンジケートに加盟しているミニシアターや独立系映画館で相互割引制度が開始され、名古屋シネマテークは制度導入の発起者となった[21][7][11]

会計報告のある1988年以降ほぼ赤字で経営されており、2020年(令和2年)に始まるコロナ禍でさらに打撃を受けた。このときは有志の支援活動「名古屋シネマテーク・エイド」などで1000万円近くを集めた[22]

「追悼 ジャン=リュック・ゴダール映画祭」[23]が上映中の2023年(令和5年)5月11日、赤字が続き今後の見通しが立たないことから、同年7月28日に閉館することが公表された。長引くコロナ禍の影響や動画配信サービスの普及なども経営悪化の理由とされる[12][22][24]

ナゴヤキネマ・ノイ[編集]

閉館した名古屋シネマテークの元スタッフの有志らが新法人を立ち上げ、2024年3月16日に跡地に開館した[5]

年表[編集]

  • 1982年(昭和57年)6月27日 - 名古屋シネマテークとして開館[18]
  • 2006年(平成18年) - 一般社団法人名古屋シネマテークとなる。
  • 2023年(令和5年)7月28日 - 閉館[1]
  • 2024年(令和6年)3月16日 - 元スタッフらの有志で別法人を設立し「ナゴヤキネマ・ノイ」として再開館[5]

特徴[編集]

上映作品は洋画・邦画を問わず、ロードショー公開作品から監督特集などの企画物などバラエティに富んでいる。ポーランド映画特集、ダニエル・シュミット監督特集、土本典昭監督特集、小川紳介監督特集など個性的な特集に力を入れ、毎年12月中旬に自主製作映画フェスティバルを開催している。自主製作映画フェスティバルでは審査を経て上映する「招待作品」プログラムと、無審査で上映する「何でも持って来い!」プログラムの2部構成である。園子温(『愛のむきだし』など)、黒沢清(『トウキョウソナタ』など)、冨永昌敬(『パビリオン山椒魚』など)、沖田修一(『南極料理人』など)、古澤健(『今日、恋をはじめます』など)、松尾スズキ(演出家・脚本家)などは無名時代に自主製作映画フェスティバルで作品を上映されたことがある[25]

座席数は40席と、日本のミニシアターの中でも小規模な部類であり、パイプ椅子・座布団・立ち見などで座席数の2倍以上の観客を入れることもある。代表の倉本徹は開館した1982年から無給で活動している。所蔵12,000冊の映画図書館を併設しており、会員であれば無料で、非会員も有料で貸出可能。シネマテーク閉館後、蔵書は群馬県シネマテークたかさきに寄贈され、一般公開を目指している[26]

映画館としての事業以外にも、「名古屋シネマテーク叢書」として小川紳介監督や古厩智之監督についての書籍を出版している。コミュニティシネマの会員相互割引サービスに加盟しており、名古屋シネマテークの会員証を持っていれば全国20以上のミニシアターで会員割引を受けられる。

園子温、山村浩二(『頭山』など)、山下敦弘(『リンダ リンダ リンダ』など)、七里圭などの映画監督は、若い頃に名古屋シネマテークに通っていたことを明らかにしている[27]。園は昼間に名古屋シネマテークで映画を見ては、夜は今池界隈で飲んだくれ、その後はシネマテークのスタッフの部屋に泊まり込むという日々を送っていたことがある[28]。愛知県のみならず、三重県・岐阜県の一部を商圏としている[2][7]

今池の映画館[編集]

キノシタホール

名古屋シネマテークが所在する今池は「映画の街」として知られ、最盛期の1960年代から1970年代前半には8館の映画館が同時に存在した[29]。今池交差点北西角の新今池ビルには、今池劇場、今池名画劇場、今池地下劇場などが存在した[29]。今池劇場は洋画ロードショウ館であり、今池でもっとも人気のある映画館だったが、1997年(平成9年)に今池名画劇場とともに閉館した[29]

今池駅8番出口前には東宝の封切館の今池国際劇場ミニシアター今池国際シネマが存在したが、運営会社のエフワンが2006年(平成18年)に民事再生法の適用を受けたため、いずれも同年8月19日に営業停止となった[注 5]。そのほかにも、ロッポニカ今池、今池アカデミー劇場、今池フジ劇場、今池スター劇場などが存在した[29]。今池スター劇場は洋画2本立ての三番館であり、跡地には後に名古屋シネマテークが入居した。今池アカデミー劇場は閉館後に芝居小屋となったが、2000年代に芝居小屋も閉館となった[29]。2023年7月に閉館するまで今池で営業した映画館は、名古屋シネマテークが最後だった[29]

現存しない今池の映画館[編集]

かつて存在した今池の映画館を列挙する。[要検証]

今池劇場
千種区内山三丁目33番8号、洋画ロードショウ館、新今池ビル2階に所在、1960年代前半開館・1997年(平成9年)閉館
今池ホール→今池映画劇場→今池名画劇場→今池名画座→今池名画劇場
千種区内山三丁目33番8号、松竹系、新今池ビル2階に所在、1950年(昭和25年)開館・1997年(平成9年)閉館
キノシタホール名画座
千種区内山一丁目18番10号(内山町交差点北西角)、1986年(昭和61年)開館・2019年(令和元年)閉館
今池国際劇場
千種区今池五丁目11-18、東宝の封切り館、1946年(昭和21年)開館・2006年(平成18年)閉館
今池国際シネマ
千種区今池五丁目11番18号、ミニシアター、1980年代前半開館・2006年(平成18年)閉館
今池地下劇場(成人映画館、新今池ビル
平和会館→今池平和会館→日活平和会館→今池にっかつ平和会館→ロッポニカ今池
千種区今池一丁目9番17号、大映系→日活系、今池マート(スーパーマーケット)2階に所在、1950年代後半開館・1990年代初頭閉館
今池アカデミー劇場
千種区今池五丁目22番5号、東映系、1950年代後半開館・1996年(平成8年)映画館閉館・後継の芝居小屋も2000年(平成12年)閉館
今池フジ劇場
千種区千種通2丁目28番地、日活系→成人映画館、1950年代後半開館・1980年代前半閉館
今池スター劇場
千種区今池町1丁目12番地、日活系、1950年代後半開館・1972年(昭和47年)閉館
仲田ロマン→仲田松竹→仲田東映
千種区覚王山通6丁目5番地、東宝・大映系→松竹系→松竹・東映系、1952年(昭和27年)開館・1960年代後半閉館
覚王山スバル座→スバル座
千種区覚王山通9丁目9番地、1952年(昭和27年)開館・1960年代前半閉館

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『映画館名簿』では「名古屋シネマテーク」ではなく単に「シネマテーク」と記載されている年度版もある。
  2. ^ ただし『映画館名簿』では開館以来常に47席と記載されている
  3. ^ 『映画館名簿』1983年版や1985年版には名古屋シネマテークの記載がない
  4. ^ 余談ではあるが、現在の賃貸料は当時より6万円ほど高くなっているという。
  5. ^ 跡地はパチンコ店のキング観光サウザンド今池店となった。

出典[編集]

  1. ^ a b シネマテーク 41年で幕 超満員で別れ惜しむ」『中日新聞』中日新聞社、2023年7月29日、朝刊、1面。2023年12月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 仁藤由美 「愛知県名古屋市 名古屋シネマテーク」映画芸術編集部『映画館のつくり方』 AC Books 2010年 pp.56-69
  3. ^ a b 保科龍朗「孤高の狭小シネマ・パラダイス」『朝日新聞』朝日新聞社、2012年2月4日、朝刊、4面。
  4. ^ 名古屋・今池にミニシアター「ナゴヤキネマ・ノイ」オープン シネマテークの地で歴史つなぐ”. 中日新聞web. 中日新聞社 (2024年3月17日). 2024年3月18日閲覧。
  5. ^ a b c 井上知大「「名古屋シネマテーク」跡地に新映画館 地元熱望受け再出発 24年2月開業へ CFで改装費募る」『毎日新聞』毎日新聞社、2023年12月6日、愛知版、17面。2023年12月14日閲覧。
  6. ^ 『映画年鑑 2014 別冊 映画館名簿』時事映画通信社、2014年
  7. ^ a b c d e f g h i j k 代島治彦『「名古屋市シネアスト(映画人)の拠点 名古屋シネマテーク」『ミニシアター巡礼』』大月書店、2011年、75-104頁。 
  8. ^ a b c 名古屋シネマテーク”. 港町キネマ通り. 2023年12月14日閲覧。
  9. ^ 佐藤雄二「(惜別)平野勇治さん 名古屋シネマテーク支配人」『朝日新聞』、2019年3月23日、夕刊、2面。2023年12月14日閲覧。「1月27日死去(膵がん)57歳」
  10. ^ 山田泰生「平野勇治さん死去 シネマテーク支配人葬儀 若すぎる死を悼む」『毎日新聞』毎日新聞社、2019年1月30日、愛知版。2023年12月14日閲覧。
  11. ^ a b 平野勇治 (2012年10月2日). “ミニシアターの映写室から ご来場、ありがとうございます!”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年12月14日閲覧。
  12. ^ a b 動画配信サービスの普及等で経営悪化…ミニシアターの名古屋シネマテークが7月閉館へ「ここまで来たらダメ」”. 東海テレビ放送 (2023年5月11日). 2023年5月20日閲覧。
  13. ^ 伊藤紫英 『名古屋映画史・8mmから70mmまで』 私刊 1980年
  14. ^ 古田一晴 『名古屋とちくさ正文館』 論創社 2013年
  15. ^ a b c 『名古屋シネマテーク』1985年、pp.6-7
  16. ^ a b c d e 『名古屋シネマテーク』1985年、pp.7-8
  17. ^ 『名古屋シネマテーク』1985年、p.10
  18. ^ a b 平野勇治 (2017年5月25日). “ミニシアターの映写室から 名古屋シネマテーク 35年前の旅立ち①”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年5月20日閲覧。
  19. ^ 平野勇治 (2017年6月24日). “ミニシアターの映写室から 名古屋シネマテーク 35年前の旅立ち②”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年5月20日閲覧。
  20. ^ 平野勇治 (2013年4月22日). “ミニシアターの映写室から 映写室から見た人たち ~アッバス・キアロスタミ~”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年12月14日閲覧。
  21. ^ シネマ・シンジゲート加盟館の会員相互割引制度が始まりました!!』(プレスリリース)コミュニティシネマセンター、2014年5月30日。 オリジナルの2014年9月12日時点におけるアーカイブhttps://archive.is/Km2gt 
  22. ^ a b 花井康子「シネマテーク 7月閉館 名古屋のミニシアター また一つ」『中日新聞』中日新聞社、2023年5月12日、朝刊、28面。
  23. ^ 『追悼 ジャン=リュック・ゴダール映画祭』公式サイト
  24. ^ 良永うめか「小さなシアター、市民に愛され幕 名古屋シネマテーク、7月閉館」『朝日新聞』朝日新聞社、2023年5月12日、朝刊 愛知版、19面。2023年5月20日閲覧。
  25. ^ 平野勇治 (2013年11月28日). “ミニシアターの映写室から 「自主製作映画フェスティバル」開催!”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年12月14日閲覧。
  26. ^ 石井宏昌「名古屋シネマテークの蔵書1万冊、群馬のミニシアターへ 「映画図書館」の魂は次世代に」『中日新聞』、2023年11月24日。
  27. ^ まちのメディアピープル‐ 名古屋シネマテーク」『』LIVERARY、2014年7月11日。
  28. ^ 平野勇治 (2013年10月18日). “ミニシアターの映写室から 映写室から見た人たち②~園子温監督~”. 中日新聞プラス. 中日新聞社. 2023年12月14日閲覧。
  29. ^ a b c d e f 桑原成順 『名古屋シネマノスタルジー』 文芸社、2012年、pp.20-26

参考文献[編集]

  • 『映画年鑑 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、各年版
  • 『シネマテーク通信 増刊号No.3 名古屋シネマテーク 3周年記念』名古屋シネマテーク、1985年
  • 映画芸術編集部『映画館のつくり方』AC Books、2010年
  • 代島治彦『ミニシアター巡礼』大月書店、2011年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]