小笠原則普

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小笠原 則普(おがさわら のりひろ、寛保3年(1743年) - 没年不詳)は、江戸時代後期の旗本。通称は鍋蔵、宗四郎、仁右衛門。父は旗本・小笠原照羽。妻は安田元親の娘。子に小笠原真温らがいる。家禄は70俵。

宝暦12年(1762年)9月28日に勘定役に列する。安永5年(1776年)7月2日から、東海道美濃国に赴き、河川普請を務め、黄金2枚を賜る。また新田開発の検地や河川普請のために信濃国尾張国、美濃国に赴いた。天明6年(1786年)12月27日に家督相続した後は、翌7年(1787年)から同8年(1788年)まで陸奥国代官所、寛政元年(1789年)まで出羽国寒河江代官所、同5年(1793年)まで駿府代官所、文化元年(1804年)まで甲府代官所の代官を歴任した。同年3月22日に代官職を致仕した。

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