毛鋭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛 鋭(もう えい、生年不詳 - 1523年)は、明代軍人

生涯[編集]

毛忠の孫にあたる。1469年成化5年)4月、伏羌伯の爵位を嗣いだ。成化年間、協守南京をつとめた。1488年弘治元年)1月、平蛮将軍・総兵となり、湖広に出向して駐屯した。1489年(弘治2年)10月、征蛮将軍・総兵官となり、両広に移駐した[1]1492年(弘治5年)、古田瑶族の反乱を討った[2]1496年(弘治9年)、広西での反乱撃破の功績により、歳禄200石を加増された。毛鋭は広壮な邸舎を建て、巨大な船舶を私的に建造して海外の商人と通商していると、御史給事中たちに弾劾されたが、弘治帝に不問に付された。1500年(弘治13年)12月、太子太保に進んだ[3]1504年(弘治17年)6月、太子太傅となった[4]思恩府土司の岑濬が反乱を起こすと、1505年(弘治18年)に毛鋭は総督の潘蕃や太監の韋経らとともにこれを鎮圧した[5]1507年正徳2年)、賀県僮族の乱を鎮圧した。1508年(正徳3年)、宦官劉瑾が前兵部尚書の劉大夏を害すべく、田州でのことを失敗として罪に問うと、毛鋭も連座して逮捕され、獄に下された。ほどなく毛鋭は劉瑾に賄賂を渡して釈放された。1509年(正徳4年)10月、提督漕運に起用された[6]1510年(正徳5年)、劉瑾が処刑されると、毛鋭は弾劾されて罷免された。1511年(正徳6年)、劉宸らの反乱が北京周辺を騒がせると、毛鋭は宦官の谷大用とともに命を受けてこれを討った。このとき毛鋭が率いた京軍は戦闘に慣れていなかった。1512年(正徳7年)1月、長垣で反乱軍と遭遇したが、戦って大敗し、毛鋭は負傷して将軍の印を紛失した。許泰の援軍がやってきたため、毛鋭はどうにか逃れることができた。御史や給事中たちに弾劾され、北京に召還された。谷大用と共同の任務だったことから、罪を免れることができた。1521年(正徳16年)、嘉靖帝が即位すると、毛鋭は再び起用されて湖広に駐屯した。1523年嘉靖2年)、死去した。太傅の位を追贈された。は威襄といった。

子女[編集]

  • 毛江(1524年9月に伏羌伯の爵位を嗣いだ。1533年に湖広に駐屯し、翌年死去した)
  • 毛漢(1534年5月に伏羌伯の爵位を嗣いだ。南京左府を管掌した。提督操江をつとめ、総督漕運に転じた)

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻41
  2. ^ 『国榷』巻42
  3. ^ 『国榷』巻44
  4. ^ 『国榷』巻45
  5. ^ 明史』土司伝九
  6. ^ 『明史』功臣世表三

参考文献[編集]

  • 『明史』巻156 列伝第44