王英 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 英(おう えい、洪武9年(1376年)- 景泰元年5月17日1450年6月26日))は、明代官僚は時彦、は泉坡。本貫撫州金渓県

生涯[編集]

王脩本と曽氏のあいだの子として生まれた。永楽2年(1404年)、進士に及第した。翰林院庶吉士に選ばれ、文淵閣で読書した。永楽帝にその慎重で注意深い性格を買われて、王直とともに機密文書の書記を任された。『太祖実録』の編纂に参加した。永楽5年(1407年)11月、翰林院修撰に任じられた[1]。永楽14年(1416年)8月、翰林院侍講に進んだ[2]

永楽20年(1422年)、王英は永楽帝の漠北遠征に扈従した。永楽帝が軍を返し、李陵城を通り過ぎた。永楽帝は城中に石碑があると聞いて、王英を召し出して見に行かせた。城に到着したが、石碑の場所は分からなくなっていた。城の北門から石が土から出ていたため、これを発掘すると、のときの李陵台駅令の謝某の徳政碑であり、碑陰にはダルガチらの氏名が刻まれていた。王英がこのことを詳しく上奏すると、永楽帝は後日の争いの種になることを懸念した。王英は帝の命を受けて再び李陵城に赴き、この石を粉砕して川に沈めた。永楽22年(1424年)、洪熙帝が即位すると、王英は右春坊大学士に累進し、帰省を願い出た。

洪熙元年(1425年)、宣徳帝が即位すると、王英は朝廷に復帰した。『太宗実録』と『仁宗実録』の編纂に参加した。宣徳5年(1430年[3]5月、少詹事に転じ、麒麟帯を賜った。宣徳7年(1432年[4]、母が死去すると、王英は特別に葬祭を賜り、宦官の護衛つきで帰郷した。ほどなく官に復帰した。正統元年(1436年)、経書を講義する席に近侍するよう英宗に命じられた。『宣宗実録』の編纂を総裁し、礼部侍郎に進んだ。正統8年(1443年)、礼部の事務を管理するよう命じられた。浙江の民衆のあいだで疫病が起こると、王英は南鎮に派遣されて祭祀をおこなった。久しく日照り続きだったが、王英が到着すると大雨が降ったため、民衆は「侍郎雨」と呼んだ。正統10年(1445年)、王英は再び帰休を願い出たが、許されなかった。正統12年(1447年)、王英の子の按察副使王裕が事件に連座して獄に下された。王英は上疏して処罰を待ったが、不問に付された。正統13年(1448年)、南京礼部尚書に進んだ。

景泰元年5月17日(1450年6月26日)、死去した。享年は75。は文安といった。著書に『泉坡文集』6巻・『泉坡詩集』5巻[5]があった。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻14
  2. ^ 『国榷』巻16
  3. ^ 『国榷』巻21
  4. ^ 『国榷』巻22
  5. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献[編集]

  • 明史』巻152 列伝第40
  • 尚書王文安公伝(程敏政『明文衡』巻61所収)