郭昂

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郭 昂(かく こう、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。

概要[編集]

郭昂は武具の扱いに優れ、経史にも通じ、詩歌を巧みにするなど、文武両道な人物として知られていたという。至元2年(1265年)、クビライの側近であった廉希憲が郭昂を山東統軍司知事に抜擢し、そこから襄陽総軍司、沅州安撫司同知などを歴任した。播州の張華が人々を集めて叛乱を起こした時には郭昂がこれを討伐し、また山徭・木猫・土獠等の諸族を降らせる功績を挙げた。至元16年(1279年)、郭昂の尽力により諸族の酋長が入朝した功績により、綺衣・鞍轡を下賜され、安遠大将軍の地位を授けられた。劇賊の張虎を捕らえた時には、張虎が自発的に来降することを期待してあえて釈放し、果たして張虎は3千の配下とともに投降したことで、皆民籍に復帰することができたという。郭昂が赴任地から帰還する時、郭昂を慕う人々が白金を集めて献上しようとした。郭昂は受け取ろうとしなかったものの、人々は諦めず江陵に至った所で白金を置いて去った。そこで郭昂は白金を全て行省に収めたため、行省はこれを庫に収めて諸将に示したという[1]

至元26年(1289年)、江西地方で叛乱が起こったため、郭昂に討伐が命じられた。 郭昂は明揚・上龍・巖湖・綠村・石門・雁湖・赤水・黒風峒の諸蛮を平定し、太平寨を建設して帰還した。またこの頃飢饉が起こっており、討伐した賊の酋長から押収した資材を飢民に分け与えたという。この功績により万戸の地位を授かり、撫州に出鎖した。それから間もなく、広東に赴いて戦船を建造することを命じられたが、広東に赴く途上で盗賊に遭遇した。しかし盗賊は郭昂の威信に服して投降し、これによって郭昂は広東宣慰使の地位を授けられたという[2]

その後、61歳にして亡くなると息子の郭震が跡を継ぎ、杭州路鎮守万戸に任じられた。また他の息子に、僉江西廉訪司事となった郭恵、知寧都州となった郭豫らがいた[3]。なお、郭恵の息子郭嘉は元末に反乱軍との戦いで忠節を全うして戦死したことから、『元史』の忠義伝に立伝されている[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻165列伝52郭昂伝,「郭昂字彦高、彰徳林州人。習刀槊、能挽強、稍通経史、尤工於詩。至元二年、上書言事、平章廉希憲材之、授山東統軍司知事、尋改経歴、遷襄陽総軍司、転沅州安撫司同知、佩金符、招降溪洞八十餘柵。播州張華聚衆容山、昂率兵屠之、山徭・木猫・土獠諸洞尽降。十六年、以諸洞酋入朝、帝賜金綺衣・鞍轡、進安遠大将軍。徇沅州西南界、復新化・安仁二県、擒劇賊張虎、縦之曰『汝非吾敵、願降即来、不然、吾復擒汝不難也』。明日、虎降、并其衆三千餘人、悉使帰民籍。軍還、衆斂白金以献、一無所受、行至江陵、衆復従致金而去、昂悉上之行省、宰臣令藏於庫、以示諸将」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52郭昂伝,「二十六年、江西盜起、昂討之、進逼南安明揚・上龍・巖湖・綠村・石門・雁湖・赤水・黒風峒諸蛮、立太平寨而還。会大饑、以賊酋家資分賑之。授万戸、賜金虎符、鎮撫州。未幾、省檄昂赴広東監造戦船、行至広東界、遇盜、移檄諭以禍福。広東素服其威信、及見其檄、即俱降。授広東宣慰使、卒、年六十一」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52郭昂伝,「子震、杭州路鎮守万戸。恵、僉江西廉訪司事。豫、知寧都州」
  4. ^ 『元史』巻194列伝81忠義伝2郭嘉伝,「郭嘉字元礼、濮陽人。祖昂、父恵、俱以戦功顕。……」

参考文献[編集]