1947年北西辺境州住民投票

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1947年北西辺境州住民投票
北西辺境州の帰属
開催地イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国北西辺境州(人口およそ4百万人)
開催日1947年7月6日 – 17日 (1947-07-06 – 1947-07-17)
結果
得票数 得票率
インドへの帰属 2,874 0.98%
パキスタンへの帰属 289,244 99.02%
有効投票数 292,118 100.00%
無効票・白票数 0 0.00%
投票総数/投票率 292,118 51%
登録有権者 572,798 100.0%

1947年北西辺境州住民投票(1947ねんほくせいへんきょうしゅうじゅうみんとうひょう、英語: North-West Frontier Province referendumパシュトー語: د شمال لویدیځ سرحدي ایالت ټولپوښتنه‎)は、インド・パキスタン分離独立に先立ち、当時のイギリス領インド帝国北西辺境州英語版が、自治領(ドミニオン)となるインドパキスタンのいずれに帰属するかを決定するため、1947年7月に実施された住民投票。投票は、7月6日から始まり、結果は7月20日に公表された。4百万人ほどの人口があった北西辺境州において、有権者とされたのは 572,798人で、そのうち 51.00% が投票した。投票の結果、289,244票 (99.02%) がパキスタンへの帰属に投票し、インドへの帰属への投票は、わずかに 2,874票 (0.98%) であった[1][2]

北西辺境州の首席大臣英語版であったカーン・アブドゥル・ジャバー・カーン英語版、通称カーン・サヒーブ博士 (Dr. Khan Sahib) や、その弟バチャ・カーン英語版、そして神の奉仕党英語版は、住民投票において、北西辺境州が単独で独立する、あるいは、アフガニスタンに帰属するという選択肢が用意されていないとして、投票のボイコットを呼びかけた[3][4]。このボイコットの呼びかけは一定の影響を与え、1946年の選挙の推定投票率よりも、住民投票の方が15ポイント低かった[5]

背景[編集]

1947年2月20日イギリスの首相クレメント・アトリーは、1948年6月30日までにイギリス領インド帝国の実権をインド人に移譲する過程を監督するインド副王・総督としてマウントバッテン伯爵を選んだ。マウントバッテンは、政権の移譲により統一されたインドが保たれるよう、分割への動きの排除を政府から指示されていた。しかし彼は、イギリスの威信の毀損を最小限にとどめ、速やかにイギリスが撤退できるようにするためであれば、状況の変化に臨機応変に対応する権限を与えられていた[6][7]。マウントバッテンは、到着してすぐに、インドの状況が爆発寸前の危険な状態にあり、独立の承認を1年も待たせられないと判断した。彼の顧問たちは、段階的に権限を移譲していきながら独立させる方針を支持していたが、マウントバッテンは1947年のうちに秩序ある形で迅速に移譲を進めることが唯一の道であると決意した。それ以上の時間をかければ、内戦が避けられない、と彼は考えた[8]。1947年4月28日から29日に北西辺境州を訪れたマウントバッテンは、住民投票を実施して、州の将来を決めると宣言した。6月2日、マウントバッテンは、インドの分割に向けて、有名な「6月3日計画英語版」を発表し、住民投票を実施して帰属を決定する地域のひとつに北西辺境州を挙げた。全インド・ムスリム連盟インド国民会議はこの計画を受け入れたが、アブドゥル・ガファー・カーン率いる神の奉仕党運動、全インド・アーザード・ムスリム会議英語版は、この計画、ないしは分離そのものに反対した。

6月21日、「イピ (Ipi) のファキル英語版」と称されたミルザリ・カーン英語版、アブドゥル・ガファー・カーン、その他の神の奉仕党員たちは、バンヌー宣言を発表し、インドかパキスタンか、いずれの自治領(ドミニオン)に帰属するかだけではなく、帝国領内でパシュトゥーン人が多数を占めている地域をまとめた独立国としてパシュトゥーニスタンを設けるという選択肢を盛り込むよう求めた[9]。しかし、イギリス側はバンヌー宣言の要求に応じることを拒み、投票では、パキスタンに帰属する、インドに帰属する、というふたつの選択肢しか与えられなかった[10][11]。これに対して、アブドゥル・ガファー・カーンと、その兄で州首席大臣であったカーン・サヒーブ博士は、州が独立するという選択肢も、アフガニスタンの一部になるという選択肢も与えられていないと指摘し、投票のボイコットを訴えた。

実施体制[編集]

1947年6月18日付でインド軍総司令部が発した書簡によると、8名の士官 (Lt. Col. O.H. Mitchell, Lt. Col. V.W. Tregear, Lt. Col. R.W. Niva, Lt. Col. M.W.H. White, Lt. Col. G.M. Strover, Lt. Col. W.I. Moberley, Lt. Col. R.O.L.D. Byrene, Maj. E. de G.H. Bromhead) が政府によって選出され、住民投票を実施する弁務官を支援すべく派遣されることとなった。その他、文官も派遣され、住民投票を実施する下部組織において、軍の人員の監督の下で働いた[1]

マウントバッテンは、北西辺境州の総督代理ロブ・ロックハート英語版に「石油供給については、両者に等しく担保されるように」と指示を出した。重罪の者を除き、政治犯には恩赦が与えられた。マウントバッテンは、全インド・ムスリム連盟インド国民会議の指導者たちと会見し、以下のような選挙憲章が宣言された[1]

  1. この住民投票においては以下のようにすることが望ましい。

   a) 投票に関する演説は、流血の事態に至る可能性を孕むことに鑑み、可能な限り排除する。

   b) 問題は、有権者の前に明確に提示する。

  1. これらの目的を達するために以下のようにする。

   a) 投票に関する演説は、政党間の同意に基づき、これを禁じる。

   b) 投票に関するポスターは、両案のものを並べて掲出し、簡潔かつ節度ある言葉で、将来のふたつの自治領が北西辺境州に何を提供できるのか、それぞれの有利な点を記されなければならない。ふたつの自治領の範域を示した地図が印刷されなければならない。

結果[編集]

投票率は低目の 51.00%であったが、投票者の 99.02% はパキスタンへの帰属を支持し、これは有権者全体の 50.50% に相当した。非ムスリムの間では投票率は低く、わずか 1.16%であった。農村部の選挙区のムスリムたちの間では、投票率は低めとなり、投票の選択肢にパシュトゥーニスタンとしての独立や、アフガニスタンへの編入を入れるよう要求し、投票のボイコットを呼びかけていた神の奉仕党の地盤では、マルダン管区英語版が 41.56%、ペシャワール管区英語版が 41.68% となった。投票率が最も高かったのは、パキスタンへの帰属を主張して運動していた全インド・ムスリム連盟の地盤であったハザラ管区英語版の 76.22%であった[1]

選挙区 有権者 投票率 得票 得票率 有権者に占める比率
インドへの帰属 パキスタンへの帰属 インドへの帰属 パキスタンへの帰属 インドへの帰属 パキスタンへの帰属
  ムスリム 農村部 バンヌ管区英語版 51,080 65.16% 145 33,137 0.44% 99.56% 0.28% 64.87%
  デラ・イスマイル・カーン管区英語版 45,642 64.55% 158 29,303 0.54% 99.46% 0.35% 64.20%
  ハザラ管区 109,762 76.22% 387 83,269 0.46% 99.54% 0.35% 75.86%
  コハト管区英語版 52,020 62.14% 116 32,207 0.36% 99.64% 0.22% 61.91%
  マルダン管区 86,777 41.56% 1,210 34,852 3.36% 96.64% 1.39% 40.16%
  ペシャワール管区 97,088 41.68% 568 39,902 1.40% 98.60% 0.59% 41.10%
  都市部 50,627 70.99% 262 35,680 0.73% 99.27% 0.52% 70.48%
  非ムスリム 79,802 1.16% 28 894 3.04% 96.96% 0.04% 1.12%
  パシュトゥーン人 301,527 49.99% 2,082 148,649 1.38% 98.62% 0.69% 49.30%
  合計 572,798 51.00% 2,874 289,244 0.98% 99.02% 0.50% 50.50%

その後の展開[編集]

1947年8月15日パキスタン自治領が新設された際、北西辺境州もその一部に編入された。選挙で選出された州知事であったカーン・アブドゥル・ジャバー・カーン(カーン・サヒーブ博士)は1947年8月22日までで、パキスタン総督ムハンマド・アリー・ジンナーによって解任された。代わって8月23日には、ムスリム連盟英語版の指導者であったアブドゥル・カイユム・カーン・カシミリ英語版が、新たに北西辺境州の首席大臣に任命された[1]。新体制となった州政府は、神の奉仕党運動の指導者であるアブドゥル・ガファー・カーンや、解任されたばかりの州首席大臣カーン・サヒーブ博士、その他この地域の有力者たちを投獄した。1948年7月、イギリスの北西辺境州の総督アンブローズ・フラックス・ダンダス英語版は、州政府に対して、いかなる者に対しても理由を告げることなく拘束し、またその財産を没収する権限を与えた[12][13]1948年8月12日に起こったバブラの虐殺英語版では、600人以上の神の奉仕党支持者たちが殺された[14]。1948年9月中旬には、パキスタン政府が神の奉仕党運動を禁じ、1947年の北西辺境州住民投票をボイコットしたこの運動の支持者の多くが逮捕された。州政府は、チャルサダ管区英語版サルダルヤブ英語版にあった神の奉仕党運動の本部を破壊した[15]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Electoral History of NWFP. オリジナルの2013-08-10時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130810052331/http://prr.hec.gov.pk/Chapters/1159S-3.pdf 
  2. ^ Michael Brecher (2017-07-25). A Century of Crisis and Conflict in the International System: Theory and Evidence: Intellectual Odyssey III. Springer. ISBN 9783319571560. https://books.google.com/?id=NRsuDwAAQBAJ&pg=PA180&dq=referendum+nwfp+1947#v=onepage&q=referendum%20nwfp%201947&f=false 2017年7月25日閲覧。 
  3. ^ The Dust of Empire: The Race For Mastery In The Asian Heartland – Karl E. Meyer – Google Boeken. Books.google.com. https://books.google.com/books?id=M9iwFmvKTwcC&printsec=frontcover#PPA107,M1 2013年7月10日閲覧。 
  4. ^ Was Jinnah democratic? — II”. Daily Times (2011年12月25日). 2019年2月24日閲覧。
  5. ^ Archived copy”. 2013年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月28日閲覧。
  6. ^ Ziegler, Philip (1985). Mountbatten: The Official Biography. London: HarperCollins. ISBN 978-0002165433 
  7. ^ Ayesha Jalal (1994-04-28). The Sole Spokesman: Jinnah, the Muslim League and the Demand for Pakistan. Cambridge University Press. p. 250. ISBN 978-0-521-45850-4. https://books.google.com/books?id=D63KMRN1SJ8C&pg=PA251. "These instructions were to avoid partition and obtain an unitary government for British India and the Indian States and at the same time observe the pledges to the princes and the Muslims; to secure agreement to the Cabinet Mission plan without coercing any of the parties; somehow to keep the Indian army undivided, and to retain India within the Commonwealth. (Attlee to Mountbatten, 18 March 1947, ibid, 972–974)" 
  8. ^ White, Matthew (2012). The Great Big Book of Horrible Things. New York: W. W. Norton. ISBN 978-0393081923 
  9. ^ Past in Perspective”. The Nation (2019年8月25日). 2019年8月25日閲覧。
  10. ^ Ali Shah, Sayyid Vaqar (1993). Marwat, Fazal-ur-Rahim Khan. ed. Afghanistan and the Frontier. University of Michigan: Emjay Books International. p. 256. https://books.google.com/books?id=c05uAAAAMAAJ 
  11. ^ H Johnson, Thomas; Zellen, Barry (2014). Culture, Conflict, and Counterinsurgency. Stanford University Press. p. 154. ISBN 9780804789219. https://books.google.com/books?id=B9ZZAgAAQBAJ 
  12. ^ نن بابړه کې د وژل شوؤ سوؤنو پښتنو ورځ نمانځل کیږي - VoA
  13. ^ زه بابړه یم - Noor ul Bashar Naveed
  14. ^ 70 years after Babrra massacre, victims' families demand justice, as deaths of 600 Khudai Khidmatgars remain buried in history - Firstpost”. www.firstpost.com. 2019年8月6日閲覧。
  15. ^ M. Rafique Afzal (1 April 2002). Pakistan: History and Politics, 1947–1971. p. 38 OUP Pakistan. ISBN 0-19-579634-9.

関連項目[編集]