Wikipedia‐ノート:ウィキペディアは何ではないか/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

一分一秒を争って書き込む場所ではない[編集]

「演説場所ではない」のひとつとして--

一分一秒を争って書き込む場所ではありません。思いついたことを十分に吟味することなく先を争って投稿・編集するような場所ではありません。まして、ウィキペディアに初版の記事を投稿した人にオンラインショッピングサイトのギフト券が抽選で当たるなどということはありません。特に記事を新規投稿するときには、なるべく十分な時間をかけて必要性を検討し、事実を調べ、文章を推敲するように心がけてください。

ニュースの件以前の問題として、まるで一分一秒を争うかのように「来た!見た!書いた!」と言わんばかりの勢いで書き込む人を見ると、通販サイトで3000円のギフト券欲しさに見てもいない商品のレビューを書き込む人と対して変わらないように思えます。Takobou 2005年4月28日 (木) 14:04 (UTC)

他のウィキペディアの何とかではありませんの何とかが殆ど名詞であることを考えると、速報掲示板ではありませんとしてもいいかなと思います。Elthy 2005年6月10日 (金) 00:19 (UTC)

それではそのまま「ニュースの場所ではない」とかぶってしまいませんか? 速報掲示板のたぐいの件は「ニュースの場所ではない」に含まれると考えています。わたしの念頭にあったのは、内容を検討もしないまま脊髄反射みたいに書き込む行為についてです。Takobou 2005年6月12日 (日) 15:00 (UTC)

もっといい言い方がないかと思っていたのですが、「備忘録ではない」として修正してみます。Takobou 2006年1月3日 (火) 10:47 (UTC)

秋篠宮家の第一親王誕生から悠仁親王と命名されるまでのゴタゴタを見ていると、速報的に立てられた項目に対して場合によっては削除などの措置が取れないか一度検討した方がいいかもしれません(出来る出来ないはともかく)。--水野白楓 2006年9月12日 (火) 18:57 (UTC)

1章を立てるほどではない議論[編集]

このノートに1章を立てるほどの大きな話題ではないものを、(以降)箇条書きに。

  • 本文中「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません」との表現ですが、ウィキがナレッジベースの有効な一手段であること、英語版では"Wikipedia is not a general knowledge base"とされていること、"a general knowledge base" = 「単なる知識ベース、データベース」であろうこと、以上から、「ウィキペディアは単なる知識ベース、データベースではありません」との表現の方がより良いと思いますがどうでしょう--Willpo 2005年5月20日 (金) 14:16 (UTC)
    • あと、ウィキプロジェクトの存在も明記すべきだと思います。ウィキプロジェクトに基づいた、またはウィキプロジェクトに属するべき、見かけ上はスタブ・サブスタブの記事の存在は、この「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません」との主張とは相矛盾すると思います(そのため、削除依頼も後を絶たない)--Willpo 2005年5月24日 (火) 01:33 (UTC)
  • 「ウィキペディアは民主主義の実験ではありません」について、「ウィキペディアは民主主義ではありません。同意は議論によって決まります。投票で決まるわけではありません。ただし同意を得る助けとして投票を行う場合はあります。」(斜体部を追加)としてはどうでしょう。現に投票というシステムが存在すること反映です。Takobou 2005年5月20日 (金) 15:09 (UTC)
  • 「レシピ集ではありません。」について、実際に事例とされているチャーハンの記事ですが、これはこのままで良いんでしょうか。料理本に製法(基本的な作り方の部分)を分割移動するとした場合には、他プロジェクトへの記事の一部の分割移動の仕方はガイドラインとして規定されてないように思えますが、どうでしょうか(わざわざ製法の部分だけを、ウィキペディア内で記事分割して、製法の部分だけの記事を作り、その記事を他プロジェクト移動のための削除依頼に出して、削除する? としたならば、随分面倒な作業だと思われますが。)--Willpo 2005年6月27日 (月) 09:14 (UTC)
    • その部分は英語版からの訳で、「レシピしか載っていないチャーハンの記事はいらない」という意味であって、作り方の部分をあえて排除するという意味ではありません。作り方しか書かないのだったらそれはWikibooksに行ってくれという意味です。Modeha 2005年6月27日 (月) 10:44 (UTC)
      • 実は問題は「他プロジェクトへの記事の一部の分割移動の仕方はガイドラインとして規定されてないように思えますが」と言う点だったりしますが、いかがでしょうか。実際の所、本項目ノートでするべき議論では無いようでもありますが--Willpo 2005年7月1日 (金) 06:16 (UTC)

他者を糾弾する行為についての注意は必要か?[編集]

ウィキペディアは正義の鉄槌ではありません。あなたにとって許し難い、あるいは不快な相手を糾弾するための道具としてウィキペディアを利用してはなりません。また他者を煽り立て、自分の怒りに巻き込み同調させるための手段としてもなりません。それらはおよそ中立的な観点を失っていますし、そもそも百科事典の目的から著しくかけ離れた行為です。

このような注意は必要でしょうか、またどこに加えたらよいでしょうか?Takobou 2005年9月11日 (日) 14:38 (UTC)

他の事柄も併せてもう少し煮詰める必要があると思ったので、しばらく保留します。 Takobou 2005年9月23日 (金) 04:30 (UTC)

特定掲示板や団体の名指し[編集]

Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありませんで特定掲示板を名指ししている表現がありますが、不要かつ中立的でなく、また不必要に相手コミュニティーを挑発し有害かと思いますので一般語として電子掲示板と表現を差し替えるべきかと思いますが如何でしょうか。--Extrahitz 2005年12月7日 (水) 08:03 (UTC)

追加ですが特定宗教団体の「妄想」と表現していますが、こっちもまずいかと。固有名詞例示箇所の削除が望ましいと考えます。--Extrahitz 2005年12月7日 (水) 08:23 (UTC)

2ちゃんねるの方は電子掲示板に一般化しても良いかもしれませんが、オウム真理教の方はそのままで良いのでは。en版のガイドラインでも英語世界の著名な事物を例示する事は良くあるようですし、それはen版から翻訳された日本語版ガイドラインにも時々見られます。--Willpo 2005年12月9日 (金) 07:23 (UTC)

匿名掲示板ではない、として必要では[編集]

名指しはさすがにまずいかも知れませんが、「匿名掲示板ではない」としてそのへんの延長線上のように扱わないよう指摘する必要はあると思います。「ログインした上での書き込みを強く勧める」「ノートページでは必ず署名を」「匿名掲示板独特のルールやスラングを持ち込まない」といったあたりを「コミュニティと違うもの」の中で明示した方がよいでしょう。Takobou 2006年5月11日 (木) 09:48 (UTC)

Wikipediaはゴシップ集ではありません。[編集]

Wikipediaはゴシップ集ではありません。いたずらに事実を列挙するのではなく、百科事典として価値のあるものを記述していくように心がけましょう。

時々、「○○は事実だ」と言い張って特定の項目を載せるよう強固に主張する人を見かけるので、追加項目としてあげてみました。掲載価値があったら、載せてください。 ゆきち 2005年12月15日 (木) 00:31 (UTC)

そういう人は目的と手段が入れ替わっていると言ってもいいかもしれませんね。百科事典にとって事実を書くのは百科事典を作るための手段であって、事実を列挙すること自体が百科事典の目的ではありませんから。あるいは、森羅万象を網羅することが百科事典の目的ではない、と言ってもいいかもしれない。
ただこういった人の本当の目的はしばしば単なるプロパガンダに過ぎないというのも注意しておく事柄ではないかな。これ自体は『ウィキペディアは演説場所ではありません』で触れられていますが、なんか抽象的に書かれているように思えるので、「例えば他者を糾弾するための場所ではない」とか言った形で具体例を挙げた方がよいと思います。
Takobou 2005年12月15日 (木) 10:29 (UTC)

家系図や人名録ではありません[編集]

「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません>家系図や人名録ではありません」 のところで、具体例としてRuby開発者のまつもとゆきひろ氏の名前が上げられていますが、不適切ではないでしょうか? 記事になっている他の人物と比較して、まつもとゆきひろ氏の業績が劣っているようには思えません。Rybyは今現在広く使われているコンピュータ言語で、Rubyに関する書籍は氏がかかわったもの以外にも沢山出版されています。また、6つの他言語版Wikipediaにまつもとゆきひろ氏の記事が存在しています。(たとえばEnglish版では、「Yukihiro Matsumoto」で記事がありあます。)Hotmocha 2005年12月23日 (金) 03:13 (UTC)

特定の人のためのものではない[編集]

特定の人のためのものではない、というセクションは必要でしょうか。

  • 特定の国や地域のためのものではない。例えば日本語版は日本版ではない。日本や日本語を知ろうとする人のことも考える。「我が国」「国内」「海外」といった表現は不適切。世界中のどこから読んでも文意が変わらないよう、どの国でのことなのかを明確にすること。
  • 特定の主義・思想のためのものではない。主義・主張・思想・嗜好に関する項目は特に中立性を欠きやすいことに注意。
  • 社会正義のためのものではない。誰かや何かを正義や悪と決めつけてはならない。
  • 専門家やマニアのためのものではない。それ以外の一般の人にも十分理解できるよう、その項目自体あるいは関連する項目の内容や記述に留意する。適切な説明もないまま専門用語・業界用語・隠語ばかりを並べない。

Takobou 2006年1月9日 (月) 11:26 (UTC)

項目が追加されているようですが……[編集]

今週に入ってから、いくつかの項目が追加されているようです(差分)。合意があったようには思われないのですが、差し戻すべきでしょうか? --Tamago915 2006年3月30日 (木) 00:18 (UTC)

上の書き込み中に差し戻しされていますね。ありがとうございます。--Tamago915 2006年3月30日 (木) 00:19 (UTC)
項目を追加したMASAです。事の発端はノート:サンデー競馬中継 みんなの競馬のページで、一部の利用者が番組の感想文めいた書き込みをされており、なおかつ、その書き込みをされた方(と思われる)の個人情報(住所、氏名)が書き込まれておりました。(この版です
以前も同様なケース(個人情報の書き込みや、放送番組・芸能人などに対するファンレターめいた書き込みなど)が見受けられていたので、それをするのは絶対控えるように促そうとして、書き込んだつもりでした。MASA 2006年3月31日 (金) 17:08 (UTC)
それならば記事のノートや利用者の会話で呼びかけるべきであり、いきなり方針を書き換える必要はないでしょう。まずノートで提案し(必要であればWikipedia:井戸端 (告知)Wikipedia:コメント依頼も)、合意を得た上で書き換えるべきです。--端くれの錬金術師 2006年3月31日 (金) 17:31 (UTC)

テレビアニメはブラックジャック(テレビアニメ)を参照[編集]

何で消されるんですか何も悪いことはしていない

重複消しました。このページでの質問としては不適切なので、利用者‐会話:219.167.48.111でお返事しました。--すぐり 2006年4月9日 (日) 02:10 (UTC)

ちょっとした日本語の言いまわし[編集]

「ウィキペディアはいかなる団体の公式サイトではありません」という見出し。 「いかなる~」ときたら後は公式サイト「でも」となる方が日本語として適切な表現と感じます。

で、「んじゃさっさと編集すれば?」とあるいは言われるかもしれませんが、 私はここのアカウントを持ってるわけじゃないんで、このような重要性の高いページを編集するのは 少々気が引けるわけです……。

では、皆さんご意見よろしく~

追記。………よく見たら上のほうに「1章を立てるほどではない議論」というのが有った。ううう。 でも敢えてそのまま追記してます。移動させるべきかも。

いくら公式方針でも、誤った日本語を訂正するくらいで誰も文句は言わないでしょう。--CRX 2006年4月15日 (土) 06:45 (UTC)
ここの元書き込み者です。了解しましたー。 --210.147.72.221 2006年4月25日 (火) 17:14 (UTC)

リスク回避行為が記事の中立性と正確性を損なわせてしまう傾向[編集]

法的なリスク、例えば名誉毀損やプライバシー権侵害などを避けるため、氏名を伏せようとする動きが顕著です。全般的に保守化しているようです。特に1.3.9と1.3.10が極端で、これは記事よりもリスク回避を優先する、と明言してるも同然です。どちらも大切な要素なの是非はここでは問いませんが、もしリスク回避を優先するなら、その際、記事の正確さが損なわれる事を明示するべきだと思いますが。220.148.95.56 2006年5月19日 (金) 15:15 (UTC)

Wikipediaはデータベースそのものでしょうが・・・[編集]

ナレッジベースではありませんの項目にある「データベースではありません」が、なんかやたらとあちこちで誤読を引き起こしているように思います。削除するか表現を変更することを提案します。

データベースというのは何か。もともとの意味はおそらく「エクセルのデータシート」あたりを念頭に置いたものではないかと思います(「統計資料や周辺の施設のみで構成される記事はウィキペディアには要りません」という表現からも、それはうかがえます)。しかしデータベースにはアクセスもあります。それに、そもそも百科事典や辞書は、データベースそのものです。「Wikipediaは、データベースではありません」という表現は、誤解を引き起こしやすいというだけではなく、自家撞着でもあります。

そもそもの「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません」という項目の説明である「すなわち、単なる情報やデータの収集をする場所ではありません」というのが、おかしいのかもしれません。「単なる情報やデータ」って何なんだろう。大半の項目に記されているテキストや使われている画像は、それぞれは「単なる情報やデータ」にすぎませんし、それで十分です。「情報」「データ」という、いかようにも解釈可能な言葉をこういうところで説明に使ったというのが間違いの始まりなのかもしれません。うーん、確かにまぁ、言い換えを考え始めたらけっこうむずかしいもののようには思うわけですが。

--Nekosuki600 2006年5月25日 (木) 22:40 (UTC)

私はこの一文を「百科事典とは文章で事物を解説するものだ」と読みました。文章だけでまず記事を成立させよう。ただ、表や図、写真は理解の助けになるので、積極的に使っていこうという主張に思えます。---Redattore 2006年5月26日 (金) 04:48 (UTC)
ウィキペディアは「単なる情報やデータの収集をする場」でなく「情報やデータを用い百科事典的説明をする場」または「それらを用い百科事典を作る場」であるといいたいのだと思います。要するに「単に情報やデータを並べただけじゃ百科事典じゃねーよ」と。
個人的には「単なる」は「情報やデータ」でなく「収集をする」にかかっているのだろうと思います。そう解釈すれば「統計資料や周辺の施設『のみ』で構成される記事はウィキペディアには要りません」と整合性もつきます。「情報やデータ」の位置付けや説明もなくただ並べられたものを見て、これは百科事典だとは思われないでしょう? tanuki_Z(sysopは偉くない) 2006年5月26日 (金) 05:40 (UTC)
意味するところとしては、そんな感じだろうと思います。「データベース」という言葉を使わなくてもそういう内容を表現することはできるだろうと思う。また、データベースという言葉の定義をしないままに「データベース」という言葉を投げ出すように使うことには、すごくひっかかるものを感じるのですなあ。
もういっこ。基本的には、「Wikipediaは百科事典なんだから、なんか項目を立てるのならば、文章での説明をしろ」と思います。数値・表・箇条書きあたりだけでごまかした項目には好意を抱きません。また、そういう項目を立てるライターには力量がないし、力量のなさを表明しちゃうのは恥だとも思ってます。んがしかしだ。そういうのは「スタブ」なわけで、スタブはスタブで加筆を待ってほっときゃいいだろうと思う。「データベースではない」という条項があるものだから「削除すべし」に走るひとがいることが気になってますね。
--Nekosuki600 2006年5月26日 (金) 06:45 (UTC)
英語版を見てみたら、「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません」に該当するであろう節の名称は "Wikipedia is not an indiscriminate collection of information" 、「情報を無差別に収集したものではありません」といったところでしょうか。ほとんどは日本語版と同じようですが、「データベースではありません」に相当するエントリがない。この部分は2005年1月(過去ログ参照)にノートに提起されたもののようです。
Takobou 2006年5月26日 (金) 14:09 (UTC)
そのログを見れば分かりますが、その時点では英語版にあったものです。2004年12月に追加されており、日本語版はそれを反映したわけですね(英語版履歴)。なお、それに関するノートはこれです。その後、2005年6月にセクション名がまた変更されています(履歴)。理由はこちら。なんか、真面目に議論して導入したものが適当な議論で消されてるような……(苦笑)。まあ、分かり難いと思う人が多かったのかもしれません。 -- NiKe 2006年5月27日 (土) 01:29 (UTC)

その「誤読」というのは何をどう言っていることを指すのか、それをはっきりさせていただけないでしょうか。 -- NiKe 2006年5月26日 (金) 06:11 (UTC)

「テキスト型データベースは、データベースの範疇に含まれない」という強烈な誤解があるように感じるのですよ。んなことはない。テキスト型データベースも立派なデータベースであり、Wikipediaはデータベースそのものです。さらに広い意味で言えば、人間の認識なんかだって基本的にデータベースですからね。「データベース」という概念を矮小化するような誤読を引き起こしているということは否めないと思うんですわ。「エクセルのファイルみたいなやつのことをデータベースという」という概念は、立派な誤読ではないでしょーか。--Nekosuki600 2006年5月26日 (金) 06:45 (UTC)
具体的に、リンクなどで『誤読しているのではないか』と思われる事例を提示していただけないでしょうか。 -- NiKe 2006年5月27日 (土) 01:29 (UTC)
削除依頼なんかに引き合いに出されるときには、かなりの頻度でこの誤読があるように思いますが。いちいちメモを取っていたりはしませんので、具体的な例を出せと言われると困りますが、いますぐ思い浮かぶものとしては、しょーもない例ですけどたとえばこれです(苦笑)。--Nekosuki600 2006年5月27日 (土) 05:24 (UTC)
百科事典であれば、その目的に適った必要最低限の統計やデータが掲載されるのは当然の事。Wikipedia:削除依頼/青森・石川県知事一覧みたいな騒ぎにならないようにもう「ウィキペディアが問題視するデータベースとは何か」を少し明確化しても良いのでは?--水野白楓 2006年6月6日 (火) 01:45 (UTC)
だーかーらー、そういった表現が「データベース」と「単なるナレッジベース」の誤読を生むのですよ。水野さんが勘違いしていると言う意味で書いているわけではありませんからお間違いなきよう。--Goki 2006年6月6日 (火) 01:52 (UTC)

百科事典とはどういうモノなのか、どのような体裁が百科事典にふさわしいのかわかってない人が多いようにも思えます。百科と名の付くモノで読んだことがあるのがドラえもん大百科とかガンダム大百科とか怪獣怪人大百科とかだけちゃうんかと。わかってないからとりあえず関心のある記事を見て(秀逸な記事などには目もくれず、と言ったら言い過ぎか?)、それが単語や数字の羅列であったりオタク的な情報やうんちくを並べ立てていたりするのを見て、よくわからないけどとりあえず周りに合わせてそうすればいいのだと誤解してそれを真似する。結果、思いついた単語や話題を羅列して後は誰か何とかしてくれ(下手したら、それで完成だと思っている)というのが多すぎることが問題だと思うんです。最初のうちはそれでいいのかも知れませんが、そこからさっぱり進化しないままではいくらなんでも困る。Takobou 2006年6月7日 (水) 16:39 (UTC)

深く同意します。さらに良くないのは「思いついた単語や話題を羅列して後は誰か何とかしてくれ(下手したら、それで完成だと思っている)というのが多すぎ、そこからさっぱり進化しないまま」以前に、羅列段階にあるものを成敗削除するのをこの上ない喜びとしている奴も多いのが良くない。削除されたらそれっきり、下手をすれば、削除する奴、される奴で、もめるだけ。そんなくらいなら「単語並べてないで内容書けやボケ!」と尻たたきする奴がいても良いのではないか?稀には、少しずつ内容を書き加えようと思いつつ、取っ掛かりの記事を書いてみた者がいました。初出はとるに足らないものでしたが、追い立てていたら段々充実しました。初出で削除していたらその発展は見ることは出来なかったわけです。そうでないものは「こんな取るに足らない事項には内容が書けない」と、周囲も含めて気づかせるしかやめさせる方法ないでしょう。
部分的に同意します。が、百科事典観をめぐる対立とかまで話を広げてしまうと、ちょっとつらいなあとも思ったり。まあなんだね、可能な範囲でがんばるしかないんですが、百科事典的ではない記事については果敢に全文再構成とかまで含めて手直しをしていくしかないんでしょうね。データ原稿の扱いとかについては、考えていることがあるので、まとまったらそのうち井戸端あたりで提案してみたいと思うのでありました。--Nekosuki600 2006年6月8日 (木) 09:35 (UTC)
他の何でないか?という項目もそうなのですが、確かに、誤読、拡大解釈するひとは多いと観察します。この注意項目のそのそもの想定は、たとば、10年間にわたる全銘柄の株価をWikipediaにアップロードする、このような使い道はやめてくれ、せいぜいそんな意味でしょう。このような膨大なデータは確かにWikipediaのインフラを圧迫します。また百科事典というのは体系的な情報処理後のあと閲覧する文章であるので、ただメモ帳クリップ的にフォーマットを整えてない文章のあつまりではないと当たり前のことを書いているのでしょう。 このルール文を乱用して、削除以来のお札として悪用する人はかなり多いです。基本的にはWikipediaの詳細な情報は、増えて然るべきです。データであろうと、リストであろうと、記事のフォーマットに収まっている資料として参照できるのならば、全株価データのように「限度を超えない限りは」許容されるべきだと思います。--FXST 2006年9月3日 (日) 02:24 (UTC)

改定案[編集]

んで、こういうのはたたき台を誰かが出さないと話が動かないのがまあフツーなんで、たたき台を出してみることにします。

<現行ヴァージョン>

データベースではありません。統計資料や周辺の施設のみで構成される記事はウィキペディアには要りません。たとえばある駅の記事において定義文とその周辺の施設のリスト、利用客数などの統計のみが書かれているような記事などは歓迎されません。しかし、ある項目にその統計・周辺の施設を書くことでその記事をより深いものに出来る、あるいは説明に不可欠であるのであればそれは歓迎されるでしょう。

<改定提案>

生データの集積所ではありません。生データとは、「統計資料」「関係するものごとの一覧」などのことを意味します。たとえば「駅の記事で、定義文とその周辺の施設のリスト、利用客数などの統計のみが書かれているようなもの」「映像作品の記事で、スタッフやキャストの一覧のみが書かれているようなもの」は、歓迎されません。しかし、文章による説明を補強する目的で統計や一覧を用いたり、説明に不可欠な生データを添付するのであれば、それは歓迎されるでしょう。

こんなところでどうでしょうか。データベースという言葉を使わなくても十分に説明をすることは可能ですし、直訳よりは内容もわかりやすくできていると思います。--Nekosuki600 2006年6月8日 (木) 09:35 (UTC)

例がちょっと「あてつけ」なのが私は気に入りませんが、内容はそんなモンだろうとは思います。--Goki 2006年6月8日 (木) 13:35 (UTC)
単に公表されている情報を並べるのではなく、その意味を自分の言葉で説明するものであって欲しいが、そうすると今度は主観だらけになるか、「・・・という意見もある」と書き添えるだけの客観もどきになるのが痛し痒しなんだな・・・。そもそもが、別に買わなくても図書館に行けば百科事典なんか読めるのだから、いっぺん見て来いというのに尽きるのだが。「紙の百科事典とは違う」ことを、「紙の」制約から解き放たれたと言う意味でなく、「百科事典とは違う」方向に逝っているのが、もうなんというか・・・。--2006年6月9日 (金) 00:42 203.180.59.5(履歴より署名添付--Nekosuki600 2006年6月9日 (金) 04:01 (UTC)

わたしも一つ書いてみます。

単なるデータの一覧表ではありません。百科事典は文章や図表を用いて簡潔に分かりやすく事柄を解説するものです。例えばある施設について、その中の設備の一覧や周辺の他の施設の一覧、利用者の数を並べただけでは解説になりません。ある作品の解説について、サブタイトルや登場人物その他の関係者の一覧だけで終わりにしてはなりません。それが制作された経緯や他の同種のものと比較しての特徴、それが周囲や社会に与えた影響など、幅広い視点・視野から解説してください。もちろん、その解説を補うための必要不可欠な情報として統計情報や関連する事柄の一覧が掲載されるのであれば、それは歓迎されるでしょう。

「あてつけ」にならないよう気はつけましたが、どうも内容をぼやかしてしまったような感じがしてなりません。Takobou 2006年6月12日 (月) 11:03 (UTC)

ひとつ上の段落にも書かせていただきましたが、この記述はなるだけ「排除臭」が少ないものにしたほうがよいと考えます。 「全銘柄株価データなどをアップロードしないでください」「生データでも本文の資料として体系的に利用できるものならば歓迎されます」とNekosuki600さんあたりのラインでよいと思いました。 一方で、takekobouさんの「百科事典は文章や図表を用いて簡潔に分かりやすく事柄を解説するものです。」このような記述はまずいと思います。この簡潔にという言葉がデータの追加を拒否、削除する安易な判断を助長するからです。また百科事典は、、とう記述も同じ効果を生み出すと思います。--FXST 2006年9月3日 (日) 02:33 (UTC)

「拒否」「削除」にどんな問題があるのでしょうか。Wikipediaは「バベルの図書館」を作る作業ではありません。個人的には、もう少し数を減らす方向で動いてほしい位なんですけどね。--ゆきち 2006年9月3日 (日) 03:34 (UTC)

問題は多いにあると思いますよ。客観性、中立性のためにはそのような検閲の力学は有用ですが、危ないのは、今回のゆきちさんのコメントで明確に現れているように、「個人的にはもっと情報量を減らしたい」というような、おおよそ百科事典の情報集積という存在理由と逆のよくわからない、個人的な欲求を満たす道具として乱用されるケースがあるからです。「Wikipediaは「バベルの図書館」を作る作業ではありません。」この文章によってなにをおっしゃりたいのか、具体的に説明していただけますか?バベルの塔がカオスであるという意味合いから、体系的でないということを言いたいのかもしれませんが、私は体系的であるならば、という条件付で、できるだけ情報を集めたほうがいいと申し上げているので、反論にはあたりません。さらに個人的にはもう少し数を減らす方向へ動いてほしいということですが、この個人的欲求の源をきちんと説明していただかないと議論のしようがありません。情報量が増えることとその情報が体系的であるかどうかということは別問題なのですよ。できればこのあたりをどのように理解されておられるのか見解をお伺いしたいです。--FXST 2006年9月3日 (日) 03:42 (UTC)

カタログ化を憂慮します[編集]

グリーンマックス - ノート:グリーンマックス参照。(IP:203.180.59.5(会話|履歴|whois)の編集はURLの貼り付けだったので編集しました。)--Goki 2006年6月8日 (木) 05:59 (UTC)

でさ、そういう馬鹿でも機械的にできるような編集はいいからさ、内容についてはどう思うの?Gokiさん

もっと、他の人にも趣旨がよく伝わるように説明しなさい。--Goki 2006年6月13日 (火) 04:36 (UTC)

項目名について[編集]

「ウィキペディアは何でないか」という項目名に違和感を感じています。英語版のWhat Wikipedia is notの直訳としては確かに正しいのでしょうけど、日本語らしい表現としては「ウィキペディアとは何か」の方が良いと思います。寒波星人 2006年6月9日 (金) 16:25 (UTC)

いや、意識的に「何でないか」にしているんだと思いますよ。書かれる内容に踏みこまず、否定形で表現した方が、今後の方向性を豊かにすると思います。--ゆきち 2006年6月9日 (金) 21:33 (UTC)

もっと激しい超ド直訳としては、「ウィキペディアがそれでないもの」(?)みたいになると思います(名詞節?)。意味としては「ウィキペディアが属さないジャンル」でしょうか。Mulukhiyya 2006年6月11日 (日) 17:07 (UTC)

「ウィキペディアが当てはまらないもの」という感じですか? --ゆきち 2006年6月11日 (日) 17:12 (UTC)

ああ、それはよりよいですね(直訳調)。とにかく私も、「である」にこだわる必要はない(あるい避けた方が自然)だろうとちょっと思う動きがあったのは事実です(なんちゃって)。Mulukhiyya 2006年6月11日 (日) 17:23 (UTC)

「ウィキペディアとは何か」、って「百科事典であり、それを作ることを目的としたコミュニティである」。以上。……極論すればこれで終わってしまいますが。しかし、現在の本文に例えば序文のような形で書き加えておくことは有意義だと思いますね。上の節でも話題になっていた部分を加えると、

「まずウィキペディアは何であるか」 - ウィキペディア百科事典であり、それを多くの参加者の手で作り上げるためのコミュニティでもあります。ウィキペディアが何を目指しているのか、例えば「秀逸な記事」に選ばれるような記事を一つでも多く作り上げてゆくことだと言えます。まずはそれらの記事をご覧になってみてください。もし他の百科事典をご覧になったことがないのであれば、ぜひ図書館などへ行ってそれに触れてみてください。
しかし残念ながら、ウィキペディアが何を目指しているのかを十分理解しようとしないまま参加している人、意図的にそれを無視したりねじ曲げたりして百科事典のふりをした何か別のものに仕立て上げようとしている人、単にそれらを真似しているだけの人が少なくありません。このページでは、実際に見られることがある誤った記事やスタイルの例を挙げていくことで、よりよい記事の書き方や参加者のあり方を示していきます。

ってな感じでどうでしょうか。Takobou 2006年6月12日 (月) 10:26 (UTC)

「何であるか」を書いてしまうと、記事の方向性に制限がでるし、追加していくと切りが無いのでは無いでしょうか。僕は「何でないか」のみにして、このまま強化していく方がよいと思います。--ゆきち 2006年6月13日 (火) 07:06 (UTC)

私も「ウィキペディアは何でないか」という項目名には違和感を感じています。「こういうものだ」「こうしなければいけない」といえないから否定的に「少なくともこういうのとは違う」といいたいのでしょうが、そういう事情は本文にかけばいいのであって、項目名まで日本語として違和感を感じるもののままでいいとは思いません。すなおに「ウィキペディアとは」という項目名でもいいような気がします。内容については特に文句はないです。突然にでしゃばってすいませんでした。222.158.97.201 2006年6月19日 (月) 01:43 (UTC)

「ウィキペディアは何でないか」というタイトルが文法的におかしな感じがする、あるいはあまり使われない表現であるということでしょうか? 

>しかし残念ながら、ウィキペディアが何を目指しているのかを十分理解しようとしないまま参加している人、意図的にそれを無視したりねじ曲げたりして百科事典のふりをした何か別のものに仕立て上げようとしている人、単にそれらを真似しているだけの人が少なくありません。

そういう人もいるでしょうが、そもそもそういう方針が掲載されていることに気付いていない人もたくさんいるのでは? リンクによって好きな順番で好きなページに飛ぶことができるというのはブラウジングや検索サイトの利点でもあり欠点でもあります。せっかく注意書きのページを作っても、本とは違い読む順番が決まっていないので気付かない人も多いでしょう。本題とは少しずれますが、悪意のない場合もあるということを強調したほうがいいかと思いコメントさせていただきました。 211.1.193.111 2006年7月20日 (木) 07:46 (UTC)

項目名は「ウィキペディアは何でないか」や「ウィキペディアは何か」より「ウィキペディアとは?」では如何でしょう。表現を曖昧にしておいた方が、日本の文化に合っているし、校則ではないですが「何でないか」は項目名を見た人がなにやら禁止項目ばかりありそうだと敬遠しそうな気がします。「ウィキペディアとは?」の方が、却ってゆきちさんがおっしゃるような「書く内容に踏み込まない」ものが作れそうです。
「ウィキペディアが目指しているもの」を十分理解しないまま参加している人がいるのは事実でしょう。かといってトップページで「ウィキペディアは何でないか」を表示して同意を求めるわけにも行かないでしょう。--寒波星人 2006年7月21日 (金) 15:53 (UTC)

ウィキペディアは何でないか[編集]

この変な日本語をどうにかしてくれ。書いてある内容なあーでもない、こーでもないばかりで、編集に文句を言う際の口実にしかなっていない。

ウィキペディアは自由に使える百科事典を目指しているだけだ!と強調すれば済む話ではないか。 新しい物を作ろうとしているわけではありません。これまでに出版されてきた百科事典等に記載されてきた事柄を自由に使える状態でネット上に保存しようとしているだけです。と説明すれば大方の参加者は去るだろう。 一目につかないところで、コッソリ修正して、好ましい方向へ既成事実化を図る為に朝鮮人諸君が跋扈するだけだろう。211.125.13.249 2006年7月24日 (月) 04:42 (UTC)

初心者が、恐る恐る何か記述すると、当然不備がでますので、「ウィキペディアは何でないか」を理由に、消されてしまうようです。 「じゃあ、何を書けばいいんだ?」で、常連の思い通りの記事など書けるわけがありませんので、とても、やりづらいですね。もっと、前向きにやる気を起こさせる記述にはなりませんか?--spamlikespam 2006年8月11日 (金) 13:58 (UTC)

Wikipediaとは何か、ということを調べてから書けばそんなことにはならないはずですが? 上のIPユーザさんのような方もおられますので、自分の思い込みを先行させるような方々には少しくらい「やりづらい」と思ってもらった方がいいですし。 -- NiKe 2006年8月11日 (金) 14:03 (UTC)
もう、何を書いたら何をされるのか、怖くて記事を書くのが億劫です。最初から、「Wikipediaとは何か」を詳細にわたり理解して記事を書くのは私には無理そうですし、常連さんの記述される記事が出来上がるのをひたすら待って何もしないことが、あとから来た者にとっては最適な解のようです。--spamlikespam 2006年8月11日 (金) 14:11 (UTC)

削除されたり注意されたりしながら、覚えていけばいいのではないでしょうか? 百科事典を書くために、皆が一生懸命なだけなんだということを念頭においておけば、適切な編集ではないからと除去されてしまっても、ただそれだけのことだと思いますよ。(参加し始めたころは結構いろんなことをやってしまった記憶があります)慣れるまではなぜ消されてしまったのかを考えてみてくださいませ。どうしてもわからないときには、丁寧に聞けば誰かが教えてくれるでしょう--すぐり 2006年8月11日 (金) 14:44 (UTC)

おっしゃられていることは、よくわかるのですが、「だめだから消す」ではなくて、「もっとこうすればよくなりますよ」の一言で、次から参加される方々の人数が異なると思うのですが、多くの場合、その一言がでてこないのが、非常に残念な気がします。うがった見方をすれば「自分はルール違反を削除して正しいことをした」で満足されていらっしゃる方々が多いのではないでしょうか。--spamlikespam 2006年8月11日 (金) 14:57 (UTC)
Spamlikespamさんの投稿記録を見ると、Spamlikespamで投稿したのは、あいりん地区韓国軍のようですが、それぞれの項目で他者の「書き換え」または「修正」はあっても「削除」はないように見受けられますが。
それと「署名追加」のように御自身で要約欄に記入する場合は、「*/」の右側に記載してくださるようにお願いします。--寒波星人 2006年8月11日 (金) 15:28 (UTC)
確かに確かに、Spamlikespamさんのおっしゃることはよくわかります。「もっとこうすればよくなりますよ」の一言で印象はずいぶんかわると思いますし、逆上することによる荒らしも減るのではないかと思います。一方で、削除の依頼がかなりの数が毎日途切れずやってきます。たいていは必要な依頼ですし、依頼された以上、なんらかの対処が行わなわれなければなりません。これはこれで、結構大変な作業です。アドバイスはとても良いことですが、必須とはされていませんし、これはこれで、また結構大変な作業です。一回や二回ならたいしたことではありませんが、継続するのは本当にとても大変になるのです。問題もあるでしょうし「うがった見方」ももちろんできるのですが、なかなか大変な作業を続けているんだという点についてはご理解いただけたらと思います。理想的にはみんなが少しずつ協力的な気持ちを出し合うのが良いのですが、なかなかそうは行っていません。個人的には相手に求めるよりも、まずは自分から少しずつでも与えることが、個人でできることだと思います。必ずしも実行できる余裕はないかもしれませんが、私はSpamlikespamさんの提言を心に留めておきます。電気山羊 2006年8月11日 (金) 15:32 (UTC)
些か説教めいた話になりますが、自由には責任と義務が伴います。同時に自分の自由と同程度に他人の自由を尊重する責任と義務があります。その点を理解しないで参加している人も少なからずいるように見受けられます。
Wikipediaは誰でも編集に参加できるために色々な人が書き込んできます。削除されたことに異議がある場合、その項目の「ノート」で議論する方法もあります。--寒波星人 2006年8月11日 (金) 15:49 (UTC)]
要約欄はこれでよろしいでしょうか?
私の書いた記事は、既に削除済みで、削除後は履歴に残っていないようです。ノートにて、書いた私、本人が削除に同意しているものです。
また、記事を新しく作成後に、ミスって頭の1行目だけを書いてしまったので、記事内容を追加して、さぁ、これでいいかなとボタンを押したら、編集中に即時削除のテンプレートが既に記載されていたのでびっくりしました。ここは一切のミスも許されないところなんだと教えられました。
削除依頼って、記事を新しく書いた1分後には既に出されているものなのでしょうか。
自由には責任と義務が伴うのは、おっしゃられるとおりです。ただ、試行錯誤しながら、初めて書いた記事が、ミスを修正しようと奮闘している真っ最中に、いきなり全否定されるような書かれ方がなされれば、一気にやる気を失うというのは、明文化されてはいないでしょうが、これは私だけではないと思います。そこらへんは、考慮の対象になされるかなされないかは、管理者の皆様のご意向に拠るものと思います。--spamlikespam 2006年8月11日 (金) 16:52 (UTC)
即時削除のテンプレートが張られるまでの時間は、私も良く分かりません。
削除の件についてはやっと事情が飲み込めました。「初心者に優しい体制」の構築は、Wikipediaのこれからの課題の一つだと思います。--寒波星人 2006年8月12日 (土) 14:47 (UTC)

専門書ではない、ファンブックではない[編集]

現状、「データベースでない」という規則を誤解したり、逆手にとったりして、あまりに過剰で詳細すぎる編集をする人が目立ちます。

ウィキペディアは「専門書」のように専門的な内容を、すべて書き込む場所ではありません。また、「ファンブック」のように、作品の詳細すべてを書きこむ場所ではありません。

専門としていない者や、初めて見る人に対して、分かりやすく概要を説明する事が、まず大前提にあります。これを無視して、専門書化・ファンブック化する事は、望ましくありません。まずは、「前提」を満たすべきです。

項目トップの「概要ページ」では、できる限り見やすく、分かりやすく解説すべきです。そこで説明しきれない情報や、より詳細に詳しく説明したい場合などには、別ページの編集を検討するか、外部リンクを張るのも有効かと思います。--idea 2006年8月15日 (火) 14:09 (UTC)

反論・追加意見などありませんか? ようするに、ウィキペディアでは、「データベース」「専門書」「ファンブック」…的な内容を「一部では」含みながら、決してそれをメインに編集すべきではない…と思うのですが…。--idea 2006年8月27日 (日) 13:58 (UTC)
「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか」はWikipediaの公式な方針なので慎重な取り扱いが必要では。何ではないかを書き換えると、特定の編集を排除することに直結しますし。私としては「専門書ではない」にひっかかりを感じます。専門書に関してideaさんの主張がよく分かりません。概要をきちんと書きましょう、という主張なのでしょうか。それともその分野の教科書や概説書に項が立っていなものは排除するということなのでしょうか。例えばシグマトロピー転位ヒストンは専門書ではないに該当しますか。---Redattore 2006年8月27日 (日) 16:24 (UTC)
「専門書の件」について。個人的な判断基準になりますが、一つの基準は「分量」だと思います。どのような内容であれ、何千字もダラダラと書かれては、理解する以前に「読む気」も失せてしまいます。
もう一つの基準は「高校生・高齢者」どちらにも理解できるような、分かりやすい説明がされているか…だと思います。専門者にしか分からない、一般人には理解できない記事では、まったく意味がありません。
シグマトロピー転位ヒストンは、もう少し「改行・項分け」したほうが良いと思いますが、文章量・内容とも分かりやすいと思います。専門的な内容だけの長文記事の場合、概要があった方が望ましいでしょう。「概要・概説」が無くても、即削除するという事ではなく、随時に編集をしていけば良いのではないでしょうか?--idea 2006年8月27日 (日) 17:07 (UTC)
どちらの用語も教科書(専門課程の初年度で用いるようなもの)では10ページ以上(約40Kバイト)を割いて解説しています(ヒストンはクロマチンと併せて10ページでした)。どちらも重要な概念ですし、私は百科事典には必要な項目だと考えております。しかしながらもともと40Kバイトのものを短い紙幅(7Kバイトと3Kバイト)で説明しているため、該当する項目を読むだけで理解することは困難です。すでに教科書を卒業した方であればすらすら読めるでしょうが、高校生・高齢者が理解できるとは思えません。以上が私の感想です。
Ideaさんのご意見は、概要があれば専門的な内容であっても構わない、ただし長文は認められないということですね。概要に関しては編集対応ですから、「何でないか」よりスタイルマニュアルが相応しいでしょう。長文に関しても長過ぎるものは再構成によって対応できるのでは。定義をはっきりさせ、エッセイを取り除き、文章の流れを整えるだけでかなりの部分が救えます。専門書ではないとう文言を「何でないか」に加える場合、もう少し議論が必要だと感じました。---Redattore 2006年8月27日 (日) 18:24 (UTC)

以前、数学関係の記事で「一般人にわからないから」という理由で、数式を削除しまくった人がいて、さすがに差し戻された経緯があります。「一般人にもわかるように」というのは、どちらかとというとWikibooksの仕事でしょう。そうした規定は、誤解や混乱を招くため、Wikipediaには、いらない気がします。--ゆきち 2006年8月27日 (日) 18:57 (UTC)

学問上の専門知識についてですが、一般人に対しては、すべてを理解してもらう必要性はないのでは? 記事トップにある「1~5行」程度の説明文で、大雑把な感じがつかめる事は、絶対に必要だと思います。 そこから一歩だけ踏み込んで、「概要」でもう少し詳細な説明を、分かりやすくしてもらえると、一般人も「よく分からないけど、感じはつかめた」と思うのでは?
専門知識を書いたから「専門書」なのではなく、「専門知識の全て」をダラダラと書くことが問題だと言いたいのです。--idea 2006年8月28日 (月) 08:33 (UTC)
どのような記事であれ、まとまりもなく、その記事に関係すること全てをダラダラと書くことは、あまりよくないことだと思います。あえて、問題であるとまでは言いませんが。また、どのような記事であれ、読む人が元々その記事についてある程度知っていないと理解が難しいような書き方はよくないでしょう。さらに、長い記事には、最初に適切な概要があった方がいいでしょう。そうすると、言われていることは学問上の専門知識に限ったことではないのではないでしょうか?もう少し、まとめられた上で考えをお聞かせ下さい。Dada 2006年8月28日 (月) 14:37 (UTC)

基本的に反対します。Wikipediaという百科事典が専門書の性格を備えることによって我々読者が失う価値はなんですか? 長文ならば読む気は失せるという指摘はいったいどういうことなのか?ダラダラとはどういうことか?適度な分量であるなんてことは誰が判断するのか? とにかくすっきりまとめればそれが善であるという原理主義なようなものを感じます。 私の基本的な観点は、井戸端の企業のネガティブな情報の提案にもまとめて書いておりますが、Wikipediaはすでに既存の百科事典とイコールではないと考えています。既存の百科事典という体系的メディアの枠組みを継承するための基本方針はありますが、頭のなかにある百科事典と「感じ」が違うからといって、すべてその新しい性格は切り捨てるというのは、頑なな思い込みであり、新しいメディアとして備えうる有意義な可能性を失いかねません。 百科事典としてあるべき枠組みは体系的に書かれていることであり、専門的なことならば、まず概要として簡潔にまとめた項を用意することにより、その役目は足りています。さて、ここでそれ以外は長いのでいらないと切り捨てるのは誰の役に立つのでしょうか?概要以下の踏み込んだ詳細な内容が冗長であるのならば、それは別の項目として独立させリンクさせればよいことです。

百科事典として体系的なフォーマットでまとまっていること=全体の情報量を少なくし、細部は切り捨てる

という等式で行動するのはは大局を見失っていませんか? 百科事典として体系的なフォーマットでまとまっていること=概要は簡潔にまとまっており短いが、専門書レベルまでの詳細の記述まで構造的に掘り下げることも可能

私はそのようにあるべきだと思います。全体の情報量が増えてなにが問題なのでしょうか?--FXST 2006年9月3日 (日) 02:05 (UTC)

基本的に誤解なさっているようですが、ウィキペディアは「専門書的な性格」「ファンブック的な性格」「データベース的な性格」を、内包しています。この点を誤解なさっている方に中には、部分的にデータベース的内容があるだけで、批判される方もいます。(例えば、ドラマの放送内容のサブタイトル一覧など)
しかし、私が言っているのは、『過剰なほど、すべてを書くべきではない』という事です。現状、システムやサーバーの関係から、自由にページ分割して記述できない以上、一つのページで表現できる記事分量は、ある程度限られています。
紙媒体の専門書やファンブックのように、すべての情報を書いていては、多くの人にとって有用とは言えない物になってしまいます。専門的な内容は外部サイトに任せ、その要点のみを記述して、外部リンクしておくのが、理想ではないでしょうか?--idea 2006年9月3日 (日) 02:50 (UTC)

:まず、誤解しているのは、私ではなく、そのような部分的データベース的内容を批判している、むしろ私が上で批判している方々ですね。私は、「専門書的な性格」「ファンブック的な性格」「データベース的な性格」を、内包すべきだと、書いております。どこが誤解なのでしょうか?しかし、とりあえずこの観点においてはIdeaさんと合意できたのは良いことだと思います。 次に、『過剰なほど、すべてを書くべきではない』これですが、これ、どの程度の尺度をもって誰が判断するのですか?さきほどゆきちさんとも議論しましたが、個人的には情報は少ないほどいいとかいう人もいっぱいいるのですよ。次にシステム、サーバの問題ですが、これをここでいうのはフェアな議論ではありませんね。そのような技術的な課題などWikipediaの内容を語る上であまり関係ないですね。テキストデータなどは容量などはたかが知れており、簡単な増強で解決される問題です。現実に日本語版は英語版に比較して圧倒的にデータはまだ少ないですね。ページ分割についてはすでにWikipediaガイドランが存在しますが、これにのっとって積極的に行うほうがよいでしょう。構造が多岐にわたり、内容が充実することで失う価値はなんですか?これ以上の詳細はいらないと読者が判断すればそれ以上深い構造のリンクへたどらなければよいだけの話です。これが最も多くのひとにとって有用な形態であり、つまり豊富な情報の構造があり、どの程度まで探るか選択できることなのだと思いますが、いかがでしょうか?とにかく、ページ分割がシステムの問題で自由にできないので制限されるなどと瑣末な理由で、とにかく情報量は削るべきだという風潮には反対いたします。--FXST 2006年9月3日 (日) 04:00 (UTC)

私は、どちらかと言えば「ページ分割 推進派」ですが、残念ながら現状では「ページ分割は控えるべき」という風潮が、ウィキペディアにはあります。そもそもWEBの利点は、検索機能と並んで「リンク機能の強力さ」にあるのですが、別ページにする事で「一覧性・即時性」がなくなり、サーバー動作が遅くなる…という意見が多いです。
個人的に、概要ページと別ページにしてしまえば、多少は「専門的・ファンブック的」な内容になっても、気にならなくなるのですが、現状ですと難しいようです。--idea 2006年9月3日 (日) 13:02 (UTC)

そもそもWikipediaは何でないか?という語法が誤解されやすいので改善したい[編集]

この項目については、英語版がオリジナルで、おそらく英語版のコミュニティで議論の末たたき上げられた方針、ガイドライン、注意書きなのだと想像しますが、非常に論理的誤解を生む表記であり、それがほぼすべての詳細な箇条書きに影響を及ぼしています。 私は、この項目全体の存在を否定するものではありません。しかし特に初見の訪問者に何かを教えるという観点では非常に悪いデザインのページだと観察します。

基本的に議論の末の「あてつけ」臭が強く、排除すべき行動を明示するためにエネルギーを費やされている文章だと思います。 何かをわかりやすく訪問者に説明する「手引書」としては非常におそまつな印象を持ちます。さらに悪いことには、この大元のガイドラインが、そもそもの議論の末のあてつけ臭を払拭し、綺麗な形での「手引書」にまで昇華されていないことが元凶で、個々のノート議論にまで、この「まだ完全に議論から卒業しきれていない」悪影響が蔓延しているのではないかと最近気がつきました。これは皆さん、個々のノート議論におけるこのガイドラインつまり「WikipediaはXXでない」というルールを引用して議論をしている箇所を注意深く観察されればおそらく気がつかれるのではないかと思います。

以下、それらのことを例示させていただきますが、できれば日本版の表記はそれを踏まえて積極的に改善すべきではないか?とここに提案させていただきます。

まず、もっとも基本的で簡単な例を挙げたいと思います。

ウィキペディアは辞書ではありません

ウィキペディアは辞書ではありません。語法や専門語・俗語の手引きではありません。もし、ウィキによる辞書を作りたいなら、ウィキペディアの姉妹プロジェクト「ウィクショナリー」への参加をご検討下さい。

ウィキペディアの項目は

1. 辞書的な定義ではありません。ウィキペディアは辞書ではありませんので、定義だけの項目を作らないようにしてください。 もちろん、項目は、そのトピックについての良い定義と明瞭な文章で始めるべきです。もし、定義から始めるのが難しいならば、それに代わる説明をページの最初に記載してください。

これは確かにそのとおりで、百科事典とは辞書ではありません。以上の説明を注意深く読んでみると、

「定義だけの項目を作らないようにしてください。もちろん、項目は、そのトピックについての良い定義と明瞭な文章で始めるべきです。」

これがほぼその百科事典≠辞書というこのWikipediaガイドラインにおける説明、定義のようなものであり、何をしてはいけないか、何をすべきか、ということが書いてあります。

これは一見、一読すると、辞書ではない、というのだから辞書的記述を排除しているのかな?とまず太字の目次だけを見れば、当然皆思うことでしょう。しかし実は、定義にも明らかですが、辞書的要素というのは百科事典のなかに「含まれており」辞書的要素は肯定されています。

つまり 百科事典=辞書+その他体系的な、百科事典的肉付け

百科事典⊃辞書

ということを明示すべき文章が、単純に

百科事典≠辞書

というように、そもそもの最初から目立つ部分において表記されているのです。

論理記号にすればピンとこない方も多いかもしれませんが、実際に文章を読み解いていく上では、私たちはこの程度の処理は無意識に行っており、間違った論理はきっちり脳にインプットされます。

「もちろん、項目は、そのトピックについての良い定義と明瞭な文章で始めるべきです。」 このような記述の仕方は賢いやり方ではありません。XXしてはいけないよ、でもXXは当たり前ですよね、と否定肯定が同じ文に混合しており、肯定される当たり前の部分が従属のような体裁になっています。この肯定される要素とはとりもなおさず、辞書的記述なのです。しかし目次では辞書ではないと書いてある。

第一印象として、辞書は否定されている、しかし第二印象で辞書的要素が肯定されるのは当たり前です、と書いてある。このような文章の構造は手引きとしてはおそまつです。読んだ人、参照する人、引用したい人は、辞書的記述が許されるのか許されないのか、わからなくなる危険性が非常に大きいです。

この場合は、「辞書ではありません」ではなく、「辞書+α」のα(体系的な百科事典的説明)を加えてくださいね、とそのαを加えるべきである、という能動的な説明をフォーカスすべきです。特に人間は心理的にXXをしてはいけないという否定で指針を示されると、行動するときに、では実際何をすればよいのか?と能動的指令がないばかりに混乱に陥りやすくなります。

「定義だけの項目を作らないようにしてください。」ということですが、「もちろん、項目は、そのトピックについての良い定義と明瞭な文章で始めるべき」なのであり、必ず、項目を構築する過程において、まず最初のステップは定義だけから開始するわけです。要するにそこで終わらせないでください、ということであり、仮にその個人がそこで作業を中断したとしても、Wikipediaなので、別の個人が百科事典的肉付けをすることも十分ありうるわけです。ですから+αをしてくださいという指針がもっとも重要なのであって、辞書ではありませんというもっとも目につく指令は賢くないといえます。

以上、このもっとも基本的な項目においてもあまり親切ではない無用の混乱をまきおこす可能性のある手引きであることを例示しましたが、この辞書ではない、以下「すべての」項目についても同様のことが言えます。すべてがすべてこの調子で書かれており、まずXXはNG!でもXXはOKで当たり前ですというような構造になっている。なぜこういう体裁なのか?繰り返しになりますが、答えは、議論の末のたたき上げからきっちり清書されていない未熟な段階のままであり、その議論の過程のあてつけ排除バイアスがそのまま残ってしまっているからです。XXはNG!という部分は簡単に刷り込まれ、たしかにその部分での効力は絶大でしょう。だからこそ意図的にこのフォーマットが残されているのかもしれない。しかし、上で述べたように、実は+αを書いてくださいというほうがより直接的で重要な肉の部分であるのに、この部分がまったくおろそかにされ、読者の注意が払われないことを意識しようともしない文章の体裁になっています。それは、もちろんXXは当たり前でここで書くまでもありませんね、というような調子で従属口調になっていることからも明らかに読み取れます。というより、このフォーマット自体がそのような口調を強制するフォーマットの文章構造であるのです。

この「何でないか議論ページ」を冷静に俯瞰してもわかりますが、ごく少数の人間の発案により、WikipediaはXXでない、NGだ!という項目は際限なく拡張することが原理的に可能です。このようなNG、NGの項目を増やしていくとがんじがらめになります。投稿する意欲は地雷を踏むのを避けるがごとく萎縮します。本質は+αを体系的に書き加えて情報を増やし、整理するという百科事典の存在意義があるにもかかわらず、NGルールばかりあるので書き加える方向性が抑制されてその本質を達成する妨げになるでしょう。また各ページにおいてのノート議論において、このNGルールが恣意的に拡張運用されて、せっかく意義ある内容を整理するチャンスがあるにもかかわらず、それはNGルールに抵触すると言う人が現れるだろうし、それが不毛な編集合戦の片割れの自己正当化に利用されている場合があります。おそらくNGルールを拡張したい人のなかにはNGルールを立てることにより、自分の気に入らない方向性の投稿をもう完全にコントロールしたいという欲求があるのかもしれません。私はこのあたりに大きな危惧を感じますし、体系的に情報量を増やすのが使命である百科事典プロジェクトにおいて障害だと思います。

もちろん、この項目の中には、単純に≠で片付けられて論理的にそれが正しいものがあります。 しかし、本論の+αの記述を採用すべき項目が非常に多いのでこれらは切り分けて書き直すほうが望ましいのではないかと思います。

私は、このような改善しようと思えば簡単に改善できることは日本語版において積極的に改善すべきだと考えるのですが、皆様のご見解をまずお伺いしたいと考えております。--FXST 2006年9月3日 (日) 12:46 (UTC)

ウィキペディアは何でないかの翻訳をブラッシュアップ策案および「百科事典的」という言い回しについて[編集]

まず、誰かがここで手を動かさないと、すでに何度も触れられている「何でないか?」に違和感を感じるという議論に具体性と結果の現実性がありませんので、叩き台をつくりたいと思います。とりあえず、現在の日本語(訳)よりも英語(原文)のほうが情報量が多く、示唆する内容が豊かです。日本語の文章はXXでないというNOTにとらわれるあまり排除臭が結果的に強くなってしまっており、原文ではありえないような、誤読を引き起こす文章になっています。


Wikipedia is not a paper encyclopedia. This means that there is no practical limit to the number of topics we can cover other than verifiability and the other points presented on this page.

There is a kind of feasible limit for individual article sizes that depends on page download size for our dial-up readers and readability considerations for everybody (see Wikipedia:Article size). After a point, splitting an article into separate articles and leaving adequate summaries is a natural part of growth for a topic (see Wikipedia:Summary style). Some topics are covered by print encyclopedias only in short, static articles, and since Wikipedia requires no paper we can give more thorough treatments, include many more relevant links, be more timely, etc.

This also means you don't have to redirect one topic to a partially equivalent topic that is of more common usage. A "See also" section stating that further information on the topic is available on the page of a closely related topic may be preferable.


When you wonder what to do

When you wonder what should or should not be in an article, ask yourself what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia. Wikipedia:Articles for deletion/Precedents is not official policy, but can be referred to as a record of what has and hasn't been considered encyclopedic in the past.

When you wonder whether the rules given above are being violated, consider:

  • Changing the content of an article (normal editing)
  • Changing the page into a redirect, preserving the page history
  • Nominating the page for deletion if it meets grounds for such action under the Deletion policy page. To develop an understanding of what kinds of contributions are in danger of being deleted you have to regularly follow discussions there.
  • Changing the rules on this page after a consensus has been reached following appropriate discussion with other Wikipedians via the Talk page. When adding new options, please be as clear as possible and provide counter-examples of similar, but permitted, subjects.


まず以上2つの紙の百科事典とWikipediaのスタンスの違い、それから「迷ったときはどうすればよいか?」の訳文が現在の「百科事典的でないものを見かけたら?」および、「百科事典だという本質に立ち返ってください」

と最初の紙の百科事典との違いを強調している文章を骨抜きにするようなニュアンスでリバート、削除を推奨するような日本語になっています。これはしばしば、管理者をはじめとする、記事投稿にたいする安易な抑圧を招いていると観察しますので、修正したほうが良いのではないかと考えます。

また=そもそも「Wikipediaは何でないか?という語法が誤解されやすいので改善したい」、にも見解を述べましたが、悪い倒置の記述をより+αを具体的に推奨するニュアンスを重視しながら、翻訳文を策定していければと思います。

以下、段階的に改定文を既存の英語、既存の日本語両方照らし合わせながら、文案を提示したいと思います。--FXST 2006年9月5日 (火) 12:18 (UTC)


項目名:ウィキペディアとは?

+αを具体的に推奨するニュアンスを重視する、英語の原文においてもその姿勢は一貫していますが、日本語ではそのニュアンスが尊重されていません。上のほうで寒波星人氏が提案する

項目名は「ウィキペディアは何でないか」や「ウィキペディアは何か」より「ウィキペディアとは?」では如何でしょう。表現を曖昧にしておいた方が、日本の文化に合っているし、校則ではないですが「何でないか」は項目名を見た人がなにやら禁止項目ばかりありそうだと敬遠しそうな気がします。「ウィキペディアとは?」の方が、却ってゆきちさんがおっしゃるような「書く内容に踏み込まない」ものが作れそうです。
「ウィキペディアが目指しているもの」を十分理解しないまま参加している人がいるのは事実でしょう。かといってトップページで「ウィキペディアは何でないか」を表示して同意を求めるわけにも行かないでしょう。--寒波星人 2006年7月21日 (金) 15:53 (UTC)

に私は同意します。その根拠となる根本的な姿勢は「Wikipediaは何でないか?という語法が誤解されやすいので改善したい」に示しております。--FXST 2006年9月5日 (火) 12:37 (UTC)

基本的に初心者(この言葉自体排除臭がするが)はじめてみるひとにわかりやすい手引書、排除臭が限りなく少ない文面に仕上げる方向で策案したいと思います。--FXST 2006年9月5日 (火) 13:34 (UTC)

What Wikipedia is not 訳案[編集]

  • 現在の日本語

ウィキペディアは紙製の百科事典ではありません

ウィキペディアは紙製ではありません。ゆえに、ウィキペディアは、サイズの制限がなく、リンクを含むことができ、よりタイムリーであります。つまり、紙面用の文章の長さやスタイルがウィキペディアでは必ずしも適切というわけではありません。ただし一つの記事があまりに多くの事柄を含みすぎるような場合や、一つの記事の中で解説した方が望ましい事柄が複数の記事でばらばらに説明されている場合には、Wikipedia:記事の分割と統合を参考に適切に整理する事も検討してください。もちろん、「紙製の百科事典ではない」ということは、百科事典の定義から逸脱して好き勝手に編集してよいという意味ではありません。

  • 現在の英語

Wikipedia is not a paper encyclopedia

Wikipedia is not a paper encyclopedia. This means that there is no practical limit to the number of topics we can cover other than verifiability and the other points presented on this page.

There is a kind of feasible limit for individual article sizes that depends on page download size for our dial-up readers and readability considerations for everybody (see Wikipedia:Article size). After a point, splitting an article into separate articles and leaving adequate summaries is a natural part of growth for a topic (see Wikipedia:Summary style). Some topics are covered by print encyclopedias only in short, static articles, and since Wikipedia requires no paper we can give more thorough treatments, include many more relevant links, be more timely, etc.

This also means you don't have to redirect one topic to a partially equivalent topic that is of more common usage. A "See also" section stating that further information on the topic is available on the page of a closely related topic may be preferable.

  • 日本語改定案(FXST訳)

ウィキペディアは紙でできた百科事典ではありません

ウィキペディアは紙でできた百科事典ではありません。これはとりもなおさず、私たちがここに記述し、取り扱うことのできる項目や話題の分量には、事実上、制限というものがないということです。ただし検証可能性やその他このページにおいて取り上げる事柄については注意が必要となります。

紙面用の文章の長さにはとらわれませんが、現実的には、個々の記事の分量には限界があります。すべての利用者にとって読みやすい長さかどうか、またたとえばダイアルアップ接続の利用者にとってダウンロードサイズが膨大になりすぎないかどうか、配慮してください。(ここに記事の長さについてのwiki リンク を参照してください)

ある記事の内容が豊富になり分量も増えるにつれて、適切な分量の概要をそのページに残し、さらなる詳細な内容はそれぞれ別の記事へ独立、分割することも、ある時点において必要になってくることでしょう。(ここにWikipedia:記事の分割と統合 を参照してください)

紙の上に印刷された百科事典では、短い、固定化した記事しか載せることはできませんが、ウィキペディアでは、そのような紙という物質の制約から解き放たれているので、私たちは、いくらでも記事について作業を加えることもできますし、たくさんの適切で参考になるリンクを含めることもでき、もちろんよりタイムリーな編集が可能です。また、ある調べたい項目が、より一般的に使用されている項目の一部分であるときは自動的にその記事へ誘導されます。

--FXST 2006年9月7日 (木) 05:39 (UTC)

  • いくつか別案(Aotake訳)

ウィキペディアは紙の百科事典ではありません。ですから、ウィキペディアで取り上げることのできる項目の数には、具体的な制限はありません。……

ですが、それぞれの記事のサイズには「おおまかな制限」があります。……

またある項目があった時に、同じ話題を部分的に扱っていて、もっとよく知られている大項目に転送(リダイレクト)する必要もないのです。それよりも「関連項目」の節に、より詳しい情報が得られる関連項目へのリンクをおく方がよい場合もあるでしょう。

FXSTさん訳の最後の文は私には意味が通じないので(「自動的に」「誘導」ってなに?)、採用する場合、少なくともここだけは変えないとまずいと思います。Aotake 2006年9月8日 (金) 04:55 (UTC)

ウィキペディアは紙の百科事典ではありません

ウィキペディアは紙の百科事典ではありません。これはつまり、私たちがウィキペディアで取り上げることのできる項目の分量には、事実上の制限がないということです。ただし検証可能性やその他このページにおいて取り上げる事柄については注意が必要となります。

紙面用の文章の長さにはとらわれませんが、個々の記事の分量には「おおまかな制限」があります。すべての利用者にとって読みやすい長さかどうか、またたとえばダイアルアップ接続の利用者にとってダウンロードサイズが膨大になりすぎないかどうか、配慮してください。(ここに記事の長さについてのwiki リンク を参照してください)

ある記事の内容が豊富になり分量も増えるにつれて、適切な分量の概要をそのページに残し、さらなる詳細な内容はそれぞれ別の記事へ独立、分割することも、ある時点において必要になってくることでしょう。(ここにWikipedia:記事の分割と統合 を参照してください)

紙の上に印刷された百科事典では、短い、固定化した記事しか載せることはできませんが、ウィキペディアでは、そのような紙という物質の制約から解き放たれているので、私たちは、いくらでも記事について作業を加えることもできますし、たくさんの適切で参考になるリンクを含めることもでき、もちろんよりタイムリーな編集が可能です。またある項目があった時に、同じ話題を部分的に扱っていて、もっとよく知られている大項目に転送(リダイレクト)する必要もないのです。それよりも「関連項目」の節に、より詳しい情報が得られる関連項目へのリンクをおく方がよい場合もあるでしょう。

Aotakeさんありがとうございます。最初の私たちが取り上げることのできるというのは、やはり原文同様、能動態で残しておきたいです。その他、とりいれて、Aotake改バージョンをまとめました。--FXST 2006年9月8日 (金) 08:18 (UTC)

訳を巡る議論[編集]

題名を「ウィキペディアに対する誤解」に変えたらどうでしょうか?--hyolee2 2006年9月7日 (木) 03:42 (UTC)

扱っている内容は「誤解」ではない気もしますね。財団からの説明とも読めますし。まあ、日本語的でないという指摘は理解しますが、大幅な変更を必要とする内容でもないと思います。--ゆきち 2006年9月7日 (木) 04:00 (UTC)

私は一番シンプルに「ウィキペディアとは?」で必要十分だと思います。 まずこの項目は、何かを知らない人に何かを教える「手引書」なのであり、わからないひとにわかるように説明するための文章です。校則違反を罰するように、校則NG項目なようなものを羅列する場所では本来あるべきではないという根本原理を尊重したいと思います。そして実際に、悪いことに、「このウィキペディアは何でないか?」というのを校則のように利用し、校則違反者を罰して排除する道具として悪用しているメンバーが多いと私は観察しており、危惧しています。その大元のこのウィキペディアは何でないか?が全体に影を落としており、ここから改めるほうがよいでしょう。

[[ちなみに英語のNOTというのは後にBUTがくるという、NOT...BUT..という慣用句があるのはみなさん学校で習ったかもしれませんし、よくご存知の方も多いでしょう。つまりこのような説明文において、Wikipedia is NOTという英語は、読者に無意識にBUTなになに、WikipediaはXXではないが、XXである。という必ず肯定文が次に来ることを示唆しています。]]

日本語には当然こういう慣用句はありません。XXでない。といえばそれでおしまいなんですね。この部分がとりもなおさず私が日本語においては、意識的に、+αの要素を強調しなければならないと主張する理由の一つです。さらに、「ウィキペディアは何でないか?」という英語の直訳が多くの人間に違和感を与えるのはこのことが原因でもあり、そもそもその部分から改善すべきであると考えます。これはゆきちさんが思っているよりも大事な部分なんですよ。この項目の全体の方向性を示唆するタイトルであり、英語においては「手引書」のタイトルとして慣用句があるので正しいですが、日本語としては以上の理由によりふさわしくありません。--FXST 2006年9月7日 (木) 04:16 (UTC)

改定案アルファバージョンを上に提示しました。 この文章は、今までの紙製と紙の上に書かれていないウィキペディアの違いを示すもっとも大事な文章だと思います。 この文章に限って、「ウィキペディアは紙でできた百科事典ではありません」とXXではないという言葉の言い回しを使いました。 違うということ主題の文章だからです。なるだけその方向性を原文(英語版の方針)から汲み取りながら、日本語に展開していますが、現在の日本語文の内容をすべて包括しながら、より建設的な文章になっていると思います。

あと英語版にはないもちろん、「紙製の百科事典ではない」ということは、百科事典の定義から逸脱して好き勝手に編集してよいという意味ではありません。 これはいったいなんでしょうか?「百科事典の定義」などという言葉はこの文章に、おおよそふさわしくない異質な文が紛れ込んでいますが、これ、誰か日本語訳者か、この既存の文章を策定した日本語Wikiのメンバーが排除臭を強めるために挿入したんでしょうか?

いままでの百科事典とは違いますよ、という拡張を示す文章なのに、急に「百科事典の定義」みたいな、どこにその定義が書いてあるの?というような単語が突然現れています。これは拡張自体を否定する解釈にねじまげる言及として利用される怖れがあるわけですが、どなたか、この「百科事典の定義」なんてものがここにある経緯を知っておられれば教えていただけませんか?

改案があれば、その下にその文章まるごとコピーした上でその中で編集、またはゼロから書き直しして、それぞれ署名、各案の違いが別のページに飛ぶことなくこのページ上で各案をそのまま比較できるようにすることが望ましいと思います。--FXST 2006年9月7日 (木) 05:39 (UTC)

なぜふさわしくないのでしょうか。これこそがWikipedia編集において、暴走を防ぐ一番の要だと思います。あと「何で無いか」を「何か」に改めるのは、いきすぎでしょう。他のプロジェクトページとして立てるのが賢明でしょう。「編集において削除等を行使すること」と「人を排除する」といった行動は別のことです。FXSTさんの半ば暴走ともいえるこの記事の行く先を懸念します。全体にかかわることなので、他のユーザーの意見やsysopなどとよく相談してから進めることを願っています。--ゆきち 2006年9月7日 (木) 06:27 (UTC)

ゆきちさん、明らかにこのパラグラフにおいて異質ですね。まったく気がつかれませんか?英語の原文のどこにこれがありますか?あなたは暴走ともいえるこの記事を懸念するという。私はむしろ、今までこんな訳文が横行していたことに懸念を表明します。今の日本語訳は見るものが見れば明らかに原文と違うニュアンスをかもし出している。これは日本語ローカルニュアンスなのですか?少なくともこの骨子の部分で英語wikipediaと日本語ウィキペディアの違いなどないはずです。当然全体にかかわる大問題の文章です。それが、なぜ今までこんな訳文でよし、となっていたのですか?誰もちゃんとチェックして声をあげなかったからでしょう?

あなたがもちろん、「紙製の百科事典ではない」ということは、百科事典の定義から逸脱して好き勝手に編集してよいという意味ではありません。この原文にない文章を加えたのですか?それとも挿入の経緯に加担されておられ事情を知っておられるのですか?「暴走を防ぐ一番の要」という武器として恣意的に原文にないものを加えたのですか?そうだとすれば、これは、かなりの暴走ですよ。この文章はそもそも、手引きであり、新しい形態の百科事典の出現を歓迎する文章であり、ようこそ、編集してくださいという文章です。拡張を善とし、分量を増やすのを善と定義している文章でもあります。それを最後になんか付け足すようにでもおまえら編集するなと書いているようなものです。そしてその根拠に「百科事典の定義」なるものをもちだしている。これだから、いったいなんですか?とお伺いしているのです。経緯を知っているのならぜひご教授ください。--FXST 2006年9月7日 (木) 06:40 (UTC)

経緯は知りませんが、重要ではあると認識しています。履歴から確認してください。あと、僕だけではなくて、もう少し、他の人の意見も積極的に聞いてみてもいいとは思います。いろいろ告知されているのは知っていますが、Wikipedia上だけでなく、MLなどの他の手段を行使してもいいはずです。あと、Wikipedia以外にさまざまな姉妹プロジェクトがあることも理解してください。--ゆきち 2006年9月7日 (木) 06:47 (UTC)

わたしも非常に重要な「変更」であると思います。これは原文のニュアンスから大きく逸脱させる日本語ローカルの風土を形作る元凶のひとつですね。特に百科事典の定義、そして百科事典的でないものこの二つは非常に悪用されていると思っています。このあきらかにこの二つは原文にはなく、あとから誰かが付け足したものなのですが、非常にその当人にはうまいことにウィキペディア全体に蔓延させることに成功しています。ソースはこのページです。 別に、私はゆきちさん、あなただけに申し上げているわけではないのですが、よく考えてみてください。

この、「紙製の百科事典ではない」と今までの百科事典とは違うよ!と書いているパラグラフにおいて、百科事典の定義なんて出すのは自己言及だっていう論理はまず理解されますか?この百科事典の定義は暗に「紙製の百科事典のこと」だと印象操作されていることに気がつきませんか?あたらしい紙製でないウィキペディアのことならば、まさに自己言及です。 それに、今までと違うと解放している文章なのに、最後にきわめて厳しい、あなたが言うところの要でしばっている。非常に不自然で意図的な構成になっています。注意点においては、この後だらだらとあるわけです。それがありますよ、と軽く触れている、従属構造になっているのが原文であるのに、この日本語は最後の結論みたいな体裁になっている。これ誰がやったんでしょうか? こんなハチャメチャな文章がまかりとおっていること、そして、最初に安易にこの文章を固定して流布させたものの罪は結構大きいですよ。--FXST 2006年9月7日 (木) 07:04 (UTC)


これがその場所ですね。見つけました。2006年1月27日 (金) 11:40の版 Takobou (ノート | 投稿記録) 氏です。 まだ半年ちょっとで思ったよりも新しいですね。直接、彼のノートで、この議論をみせて、そのときのノートにおける合意の状況その他の経緯を伺いたいと思います。--FXST 2006年9月7日 (木) 07:49 (UTC)

こんにちは。井戸端のほうからきました。少し論点を整理しませんか。ここでは以下の2点が同時に取り扱われている気がします。
  1. ガイドライン、特に「ウィキペディアは何でないか」の日本語としての可読性についての異議
  2. Wikipediaの記事そのものの編集方針についての議論
それぞれについて私の思うところを書き記します。
まず、1. についてですが、「何でないか」を含めてWikipediaのガイドラインがユーザーフレンドリーでないとの悪評は常々あり、私も新参者ですがそのすべてを把握してはいません。Category:公式な基本方針に含まれている文章はあまりにも膨大で、翻訳の問題も相まって日本語として難があるものも多いでしょう。誤訳とおもわれるもの、日本語として不自然なものに関しては、イミを損なわない範囲で修正する方向で議論するのが良いでしょう。日本語版のガイドラインは英語版にどの程度準拠していなければならないのかわかりませんが、英語版を正確に、自然な日本語で記述するという立場はあり得るでしょう。ちなみに、英語版にも ask yourself what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia とありますから、英語版でもウィキペディアの記事は百科事典的であれと要請しています。
しかし、この点はFXST氏の異議の本丸ではないと思われます。私自身は、日常の記事執筆編集行為でガイドラインを参照しなければならない場面にほとんど遭遇していません。「ガイドライン」というのは何か問題が起きたときに参照すべきルールブックのようなものでしょうか。FXST氏が、現行の「何でないか」が禁止事項を強調しすぎて生産的でないとの趣旨の発言をされていると思いますが、ルールブックは本来禁止項目がまず第1に来るものだと思います。サッカーでハンドをしてはならないとか、オフサイドは有効と見なされないとかいうのと同じことです。ですが、これらのルールがあるからといってサッカーの創造的な試合が必ずしも封殺されるとは限りません。禁止されるべきことは禁止と誰がどう見てもわかるように書いてこそルールとしての意味があるのであって、そこから先は運用の問題だと思います。
更にFXST氏が問題にしているのは、つまるところ、記事内容の削除等を行う利用者がその根拠を「何でないか」に求めることなのでしょう。記事の内容をどのようなものにすべきか、その情報が掲載すべきものであるかどうかをいかに判断するのか、ということは編集方針についての議論であって、ルールの文言を書き換えてどうこうできることではありません。それはあたかも、日本国憲法第9条の第2項を削除すれば、その帰結として日本に集団的自衛権が認められると主張するようなもので、物事の本来の順序とあべこべになっています。ガイドラインの文言を問題にする前に、ストレートに「拡大主義」と「削除主義」の互いの主張を明確にし、誤解があるならばそれを明らかにすべきです。
FXST氏は情報量の増大は必ずしも体系化の妨げにならないとどこか(たぶん井戸端)で主張しておられましたが、果たしてそうでしょうか。情報の構成要素が増えれば、それらの間の連関は局所的には1次関数よりもずっと速く増大しますから、情報量の増大に対してそれを体系的に処理する手間は非常に速く増大します。更に、急激に増大した連関がいかに体系的に処理されていたとしても、読者がその全体像を把握するのに必要な労力はそれほど削減されないことも明白です。既存の百科事典が情報の取捨選択を行っているのは紙面の制約からだけでなく、体系化をいたずらに困難にしない、読者の理解に必要な労力をいたずらに増大させないとの意図があるからだと思われます。専門書は、全宇宙の星の数ほどの情報から著者の考えかた、ヴィジョン、ストーリーにしたがって情報を組織するので、非常に微細な事柄に対して言及しても結局は著者のストーリーから逸脱する事柄への言及が排除される結果、可読性が保たれるのです。項目名があり、それにたいして解説があるという「百科事典的」形態の性質上、ウィキペディアにおいても知識は自然と網羅的にならざるを得ないので、いくらWeb2.0云々とは言ってもおのずからそれが内包しうる情報の局所的な密度には限りがあるのではないでしょうか。--Pugnari 2006年9月7日 (木) 16:05 (UTC)


ありがとうございます。まず論点1の英語の可読性ですが、この点については、そもそもこの今現在扱っているパラグラフにおいてでも、「百科事典の定義」と私がもっとも問題視している部分を含むフレーズ全体は誰かにより半年ほど前に付け加えられたものであり、そのままになっている。これらも含めて翻訳をブラッシュアップすることについての意義を唱える人はおられないと思います。さらに日本語ローカルの決定と英語原文の翻訳の関係、どの程度準拠するかなどの疑問、特にこういう原文にない文章の修正には過去の議論の推移を考慮にいれながらやることが大事でしょう。しかし、どの程度その日本語文が適切な議論とともにそこに書き加えられているのか、当然今からその妥当性を吟味し、議論はたいしてなかった、もしくはあったが妥当ではないと判断されるのならば、単純に英語原文に準拠し翻訳しなおすほうが良いと思います。それは今回私が最初にアルファバージョンとして提示した翻訳例をみてもわかることであり、現在の日本語文は、それなりに英語の文章をなぞってはいますが、必要以上にはしょりすぎであり原文よりも結果的に建設的なニュアンスが損なわれています。さらに問題なのはこの原文にない「百科事典の定義」という結びの部分であり、今これについて吟味したいと考えているわけですね。さらに、Pugnari氏が指摘するところの、「百科事典的であれ」の「百科事典的」ですが、私はこれも問題視しております。日本語において「百科事典の定義」と同じような感じで運用されており、「百科事典的」と単語にまとめてしまっていることから、なにか確固たる定義あるのだろうと印象操作されてしまっています。原文は、ask yourself what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia ですが、「利用者は百科事典を開くときにはどんなことを期待するだろうか良く考えて見ましょう」というように、百科事典という定義自体は固めずに、皆さんその可能性も含めて有意義な方向性を探りましょう、という開かれたニュアンス、そして共同作業へのいざない、というニュアンスが強くでていますね。さらに続いてWikipedia:Articles for deletion/Precedents is not official policy, but can be referred to as a record of what has and hasn't been considered encyclopedic in the past.というように、encyclopedic=これが百科事典的という単語ですが、それが過去にどのように議論されたか経緯を辿るためにはWikipedia:Articles for deletion/Precedentsを参照してください、でもこれは公式方針ではありませんよ、と書いてありますね。そしてリンク先を参照すると、There have been many AfD debates over the years.というように、数年に渡りたくさんの議論が行われている、と書いてあります。

ここは大事な部分です。実際にどのようなねじまげが行われているのかもう一度注意深く観察します。

  • 原文:

1.Wikipedia:Articles for deletion/Precedentsというのがあります。公式方針ではありません。しかし、過去に何が「百科事典的」であるのかないのか?という考えられてきた経緯は参考になるでしょう。(唯一「百科事典的」ということばが出た部分、しかもそれは定義が定まっていないからあいまいですね、という文脈であえて使用されている)

2.そのリンクに飛ぶと、ここのことについては数年に渡りたくさんの議論が行われています、と非常に論争の多いポイントであるのがまず最初に明示してあり、それはあくまで過去の議論を示すものであり公式なガイドラインでもなんでもないとかいてある。

  • 今のページの日本語:

何か変だと思ったら

ウィキペディアは百科事典であるという根本に戻って判断してください。 もしも百科事典的ではないものを見つけたら... (百科事典的でない、というものがまるで定義が定まっているような印象操作、「何か変だと思ったら?」、百科事典的でない=異質だと思う(論争中にもかかわらず勝手にそう思う)ものを排除するバイアスの推奨とともに、ただちに対処せよ、という感じで項目が書いてある。論争があることは当然スルー。さらにこのページが日本語ウィキぺディアの公式な文書であるとページトップにお墨つきを与えてしまっていることにより、より権威が強化されてしまっている。)


「ウィキペディアの記事は百科事典的であれと要請しています。」Pugnari氏が簡単にこのように誤解してしまっていることからも、このページの恣意的な「百科事典的であれと要請されている」とあたかも上からの通達のようなねじまげが行われていることは明らかです。そしてこの現行のページをみせて「百科事典的であれ」と実はたいした強制力もないものを通達としてお披露目することは、どれだけ実際にその言葉を提示された場の受ける印象が異なるかよく考えるべきでしょう。なんでこのおそまつな翻訳作業、まったく原文を尊重しないはしょりまくりの日本語文に「公式の方針である」とお墨付きが与えられてしまい権威のある文書として扱われているのか、過去の議論にさかのぼって精査する必要があるでしょう。

私は、この初期の翻訳したひと、もしくはグループは、このあたりの原文のニュアンスを汲み取ることを怠ったか、それとも「百科事典的」という「百科事典の定義」にも習ったような、無意識の保守的バイアスが強く働いた結果このような言い回しが常習化している状況を引き起こしているのだと想像します。確固とした根元の議論は探し当てられませんが、おそらくこのページ全体、しかも冒頭のパラグラフを軽く比較するだけでも、以上のようなことは推測が可能です。

さて論点2ですが、>私自身は、日常の記事執筆編集行為でガイドラインを参照しなければならない場面にほとんど遭遇していません。「ガイドライン」というのは何か問題が起きたときに参照すべきルールブックのようなものでしょうか。FXST氏が、現行の「何でないか」が禁止事項を強調しすぎて生産的でないとの趣旨の発言をされていると思いますが、ルールブックは本来禁止項目がまず第1に来るものだと思います。

ルールブックならば、本来禁止項目が第一なのはそのとおりです。私も校則という例をあげています。しかし、ガイドラインというのは直訳すればわかりますがガイドするライン「手引きする書」なのですよ。手引書です。特に初心者も含め「受け入れる」ための手引書です。手引書だと思って読んでみたら、NG集である。このあたり、ガイドラインに名を借りたWikipedia上級者のお山の大将的な「おまえらくるな」わかっていないものは編集するなという事であると思います。特にノート議論において、きわめて頻繁にこのWikipediaは何でないか?が引用されて、強引な排除理論を正当化するための免罪符として利用されているのならば改善すべきだと思います。議論が拡散するかもしれませんが、人間、特にこのようなWikipedia編集などというある種特殊な嗜好のグループは「縄張り意識」が強く、先行者利益を固めたいと考えます。Wikipediaとは、編集者の数が増えてなんぼ、という根本原理があり、初心者もふくめ(誰でも最初は初心者です)参加者が増えることは善です。編集をしてもらうことはウィキペディアの存在理由そのものなんですよ。この何でないか?というページは先行者利益、なわばり意識を満足させるために現在悪用されていることが度を越えて多いと感じます。本人は保守的に「百科事典的」な価値を守ろうとしているのかもしれませんが、同時に私のウィキペディアである、というような先行者として自意識により傲慢がないか、今一度自らに問い直す必要があるでしょう。しかし問い直せない人がほとんどでしょうから、このもっとも悪用されるガイドラインの過度の排除臭そのものをなるだけ消して、悪用されないものに変えようというのが、今回の私の提案の本願であるといえます。禁止することは禁止してあとは運用というのはそのとおりですが、私が上で書いた+アルファについての議論を今一度読んでいただきたいと思います。さらにNOT,BUTのこともそうですね。今の何でないかページは、本来BUTなになに、+アルファというのを示す内容でありながら、何でないか?というフォーマットを採用しているがためにPugnari氏もおそらくそのような先入観になってしまっていると思いますが、NG集としてしか受け入れられていません。Wikipediaは辞書ではありませんやデータベースではありませんなどもそうですが、やるべきことは+アルファということであり、単にその要素を排除することではありません。ですからこの倒置用法は、厳密にみるとNGと+アルファの情報が並列されておいてながらも誤用されるというのは、繰り返しになりますがすでに一つ上のセクションで私の論理を展開して説明していますのでそちらを参照していただければありがたいです。文面は変えるべきであるという主張です。以上は憲法9条のくだりの反論です。

さて>「拡大主義」と「削除主義」の互いの主張を明確にし、誤解があるならばそれを明らかにすべきです。

ですが、まったくそのとおりですね。私はWikipediaとは拡大する百科事典であり、拡大することはよいことである、という立場にたっています。そしてそのことは今回私が翻訳しなおした「ウィキペディアは紙でできていない」という英語の文面にも明確に打ち出されています。

「情報量の増大≠体系的でない」です。この両辺を=で結び付けているのがとりもなおさず、削除主義者であるといってよいでしょう。

>情報の構成要素が増えれば、それらの間の連関は局所的には1次関数よりもずっと速く増大しますから、情報量の増大に対してそれを体系的に処理する手間は非常に速く増大します。

この兼ね合いという意味についてのみは同意します。おそらくゆきちさんが以前発言していたsysopなどの作業範囲を超えていると発言されていたのは、このことを暗に認識していたからでしょう。しかし、この体系的に整理する手間がかかる、などということは、情報を増やすことを制限する「言い訳」に用いられるべきではないと私は考えています。これも今一度、私が今回翻訳しなおした日本語文を読んでいただきたいのですが、自然と記事が成長するにしたがって、体系的に整理しろ、記事は分割しろ、とこの情報量増大にともなう体系化整理のメソッドも含めてウィキペディアなのですよ、と明確にあるのです。特に私が強調したいのはこの部分ですね。とにかく情報の増大は善であるという立場です。そしてその体系化も含めて理想的には同じユーザによって作業を進めるようになって欲しい。あたかもユーザは情報をどんどんWikipediaというゴミ箱に捨て去るいたずらする子供であり、それを掃除するのはsysopの使命である、こんな風潮、認識がまかりとおっている。そして削除が善だというようになっている。これが問題です。我々がすべきなのは削除するという後ろ向きの方法ではなくて、あくまで体系化なのですよ。なぜ単純にリバートリバート削除なんでしょうか?百科事典的でないということばがそこに悪用されています。そうではなくて、「百科事典なので体系的な整理をしてください」というのが正しいものいいでしょう。情報の増大が体系化の妨げになるといいながら、体系的作業をまず促すことをせずに、リバートする削除だけする、本末転倒ですね。編集投稿した利用者は、すでにその時点でウィキペディアに積極的です。記事が掲載されるのならば、積極的に体系化作業を自らするでしょう。その機会を奪って排除する、これがいまの日本語版ウィキペディアの現状です。そしてその体系化作業の「目安」であり「手引書」であるべきなのがこの「ウィキペディアとは?」と今回建設的な方向性に改めたいページであるのが本来の姿なのではないでしょうか?ですから、私は手引書としてのそもそもの文面が重要であると主張しているのですよ。+アルファの肯定文章をしっかり前面に出すべきで、この体系化作業の要点が何なのか、しっかり迷っている人に教えるような文面に改善すべきだということです。今はたんなるNG集であり、その「情報量が増えると体系化が困難だなあ」という本末転倒の言い訳の排除の道具としてしか利用されておりません。いかがでしょうか?--FXST 2006年9月7日 (木) 19:01 (UTC)

どうもこんにちは。私自身も文章が長くなりすぎる傾向がありますが、それだと議論が噛み合いにくくなるのでいろいろ思うところはありますが、そのなかからいくつかの感想をかかせてください。
まずはNot-Butのくだりですが、Notにはその次にButがくるというニュアンスが含まれているというのは常にそうとは限らないのでは。Do not disturb me. But you can come in if you want. とかおかしいでしょう?
次に、ガイドラインという言葉は確かにルールとは違うニュアンスでしょう。しかし、英語版のWhat Wikipedia is notにもそれが official policy であると明記されています。policy(政策、方針、原則)は使われ方によりますが、CODによるとa course or principle of action adopted or proposed by an organization or individualと定義されているので、私たちのコンテクストで自然なのは守られるべき原則という意味ではないでしょうか。これは、what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia という部分にも適用できる言明であって、公式ポリシーでないとされているのは Articles for delete で行われた過去の議論の要約の部分だけですよ。
そして、百科事典的云々ですが、ここで私は日本語版で付け加えられた「百科事典の定義」云々の記述がなかったとしても、英語版ですでに「百科事典的であれ」と要請しているということは誤解ではないと考えています。そもそも百科事典の定義をすることが不毛であるからこそ what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia となっいるのでしょう。これは、「百科事典(と呼ばれるもの)の同じ項目に書かれていると読者が予測するであろうもの」という意味であり(a/an は任意性をあらわすので「と呼ばれるもの」と書きました)、その意味範囲は明確です。そこに開かれたニュアンスがあるというのを論の根拠にするのは(日本語版に「百科事典の定義云々」を書き加えた方たち同様)拡大解釈的だとおもいますよ。そして、ガイドラインを「開かれたもの」としてとらえるのは、現状にかんがみてもあまりに性善説過ぎるとおもいます。
ルールや法律、ガイドラインの言葉尻をとらえて自分の都合の良いように解釈しようとすることは政治にせよなににせよ、議論を行うときの常套手段ですから、対立が起きたときにそれが双方でエスカレートすることはわかります。ですが、それだけでは議論は無限の循環に陥ります。いずれにせよこの点は各種異論が多いポイントなのですから、公式方針のこの部分の記述のをいまFXST氏の思うように変更したとしても、将来また「削除主義者」がやってきてその部分を逆方向に変更しようとするでしょう。そのサイクルはWikipediaがあるかぎり無限に繰り返されるでしょう。FXSTさんが「百科事典(と呼ばれるもの)の同じ項目に書かれていると読者が予測するであろうもの」でないものを日本語Wikipediaに要請したいということであれば、それは極めて重大なことで、それは文言の変更を超えた非常に大きな方針転換を意味します。そうでなければ「百科事典的であれ」という文言にはそれほど害はないはずで、修正するとしても、単に表現を穏当にする、またそれでも議論が起きてしまうようであれば、とりあえず英語版に忠実な表現に戻しておくということでも良いのではないですか。
それよりもなによりも、真に問題なのは個々の記事のクオリティの問題ではないかと思います。もし記事が長くても長い文章を読む労力を払っても読み通した後にその労力に見合った有意義な情報が得られたと感じることができるような記事(たとえばWikipedia:秀逸な記事のいくつか)であれば「削除主義者」も手を出さないはずです。文章が十分推敲されていなかったり、思いつきで情報が付加されているような場合はそれを削除して、スタートラインに戻すというのも一つの考え方だと思いますが、それは全くもって個別的な問題だと思います。
また長くなってしまいました。すみません。--Pugnari 2006年9月8日 (金) 00:34 (UTC)

そうですね、私も長くなりすぎないように配慮します。必要なことはすでに述べておりますし。

>「百科事典(と呼ばれるもの)の同じ項目に書かれていると読者が予測するであろうもの」という意味であり(a/an は任意性をあらわすので「と呼ばれるもの」と書きました)、その意味範囲は明確です。そこに開かれたニュアンスがあるというのを論の根拠にするのは(日本語版に「百科事典の定義云々」を書き加えた方たち同様)拡大解釈的だとおもいますよ。そして、ガイドラインを「開かれたもの」としてとらえるのは、現状にかんがみてもあまりに性善説過ぎるとおもいます。

(再考します)たしかに、意味範囲は明確です。そしてその部分に論争がある。expectを予測と解されていますが、私はすでに書いているようにむしろ期待と解釈します。利用者が期待するものをよく考えて見ましょうということです。百科事典が今までと違うということを踏まえた上での含みを残したある意味吟味された抑制力の少ないニュアンスになっていることは気がつかれませんか?他者と自分の関係を示して、論争もある部分であり、よく考えましょうという自制を促している部分です。

これを運営側が「百科事典的」であれと要請している、と解釈するのは、どう考えてもねじまげであるし、少なくともこのくだりをノートで運用する人はそのバイアスで利用しています。きわめて抑制の効いた最低レベルの注意であるのに、公式方針といあまってなぜか強力な武器になっている。英語がおできになるので、このあたりのニュアンスの影響力はわからないはずはないと思いますがいかがでしょうか?

運用方法の問題である、というのは、私は注意して聞くことにしています。このフレーズはとてもウィキペディアの議論においてとてもよく見かけます。その当人の主張の免罪符としてその根本のルールやガイドラインを利用するくせに、そこに疑問がつくと、運用方法の問題であり、免罪符自体はそのままでいい、というロジックでよく悪用されるからです。しっかり悪い文面は悪い文面として認識し対処しなければいけない。それを運用方法なんとかといわれれば当然腰砕けになりますね。その発言をするひとにとってはまさにそこが狙いなんでしょうが。

将来にわたる削除主義者による再編集そして>「百科事典(と呼ばれるもの)の同じ項目に書かれていると読者が予測するであろうもの」でないものを日本語Wikipediaに要請、というくだりは非常に有益な示唆であると思いました。これは当然日本語版においても英語版その他と同様にやっておく仕事であると思います。それと同時に現在の「百科事典的」という記述の部分とからめて原文と同じスタイルでリンクしておくのが良いと思います。とにかく論争がある部分を既成事実、定義(それは暗にふるい紙百科事典のことを意味します)のように振りかざすのは偽善でしかないし、容認されるべき行動ではないと考えます。

私は、何もクオリティなどどうでもよい、とにかく情報量をあげろ、と申し上げているのではもちろんありません。そもそも参加者が増大し、安易に削除されず、体系化への呼びかけというのが適切に行われれば、おのずと文章は優秀な編集者により磨かれ、どんどん自律的に「百科事典的」に体系化されていくことでしょう。それこそクオリティがあがる、質、量ともに秀逸な百科事典になっていくということです。Wikipediaの根本原理というのはここにあります。

問題なのはその逆で、情報量を削ればクオリティがあがるなどと頑なに信奉している削除主義者が問題だと申し上げているのです。彼らは往々にして紙百科事典原理主義者であり、この「百科事典的」という言葉が特にこういう日本語ガイドラインで無造作におかれているがためにそれを免罪符として利用、または単に勘違いしています。

各国のウィキペディアの項目数を比較します。もちろん項目数の多さが品質に直結するという理屈は上のように批判もあるわけですが、ウィキペディア日本語版は25万項目を達成しましたというように、項目の多さは善として扱われています。各国のウィキペディアでランキングのようにならんでいるわけですが、日本語版はかなり低い。高速回線の世帯普及率、言語人口などを考えるといびつな位置にいます。別にランキングをあげろなんていっておりませんが、明らかに活性化されていません。ここ数年の伸びはすさまじいですが、私はだからこそ、削除主義者の横暴を今のうちに食い止めておく必要があると考えています。--FXST 2006年9月8日 (金) 02:38 (UTC)

ルール(別にガイドラインでも構いませんが)の文言をどうするかということほど不毛なことはないと思います。なぜなら、国家権力が暴力装置を発動させて、ルール(=法律)を強制することができるのに対して、Wikipediaの社会では、ブロック等の措置があるとはいえ、それらはルールを強制させる最終的な効果を持っていないからです。ルールに強制力のない社会では、強制力の伴う法律とは違ってルールの細かな文言を問題にしても結局さしたる意味も効果もなく、人々は自分がやりたいように行動するでしょう。
ですが、FXST氏の「期待するという意味にとります」およびそれに続く主張は見過ごしがたいものがありますので一言コメントします。まず、expectの定義を例によってCODでみてみましょう。
  1. regard as likely to happen, do, or be the case
  2. believe that (someone) will arrive soon
  3. require as appropriate or rightfully due
日本語で言えば、第1義は「予想する、予期する」ということです。2番目はだれかの到着を予期するという意味であり、第3義はある事が当然起こるべき事として期待するという意味です。rightfully dueとあることから、それまでのコンテクストや常識から類推される客観的な期待であって、自分の希望や欲望を述べる言葉として使う事は稀だと思います。もしFXST氏が主張しているような百科事典の新たなあり方への利用者の積極的な期待、という意味であれば hope とか want を使うのが普通のはずで、僕の目にはFXST氏の解釈はかなり独創的なものに映ります。ですが、COThesaurus によれば hope for とか looking forward などより日本語の「期待」に近い語も類語としてあげられているので、この文章をどう解釈しなければならないかを断定的に決定する事はできません。
それよりも、元の英語版は非常に良くできた文章だという事に注目すべきです。継続的に編集が加えられているにもかかわらず、包摂主義にも削除主義にもくみする事がないよう可能な限り中立的でミニマルな表現を採用しているように見えます。もし、「新しい百科事典の創出」のプライオリティーが高いとコミュニティーが理解していれば、英語版のWhat Wikipedia is notにはニュアンスではなく明示的にそのように書かれているはずです。だから、英語版のWhat Wikipedia is notFXST氏の主張の根拠にはなりえないでしょう。ニュアンスがどうだから、という理由で決まりごとの意味を変容させてしまうのは本道ではないし、事態を収拾不能にします。そもそも、What Wikipedia is notにはencyclopedic(=百科事典的)という単語が何回も登場し、具体例を用いて何が encyclopedic=百科事典的であり何が not encyclopeci=百科事典的でないかを記述しています。したがって、あえて外道な言い方をくりかえせば、このことから文章全体に「ウィキペディアは百科事典的であれ」という要請のニュアンスを私は感じます。ニュアンスとはまったくもって主観的なものなのです。
わたしはFXST氏の主張や感情に理解できる部分はあると思っています。ですが、ニュアンス云々を含めた、ルールに対するマニピュレーションによって削除主義者を一掃しようとする姿勢には賛成できません。ファシスト的発想の萌芽が見られるやや乱暴な発想に映りますし、現実的でもありません。気にくわない記事の記述を見つけたらとりあえず削除、リバート、というのと立場こそ違え、発想は同じぐらい排他的にみえます。人間と人間のかかわり合いというのはそんなに割り切れるものでないのだから、まずは忍耐が必要だというのが僕の立場です。そういう生の人間関係こそ「新しい百科事典」を作る上で大事にすべき事ではないでしょうか。
さて。もしそうする事で議論が収束するならば、英語WikipediaのWhat Wikipedia is notのある版を固定して、それをなるべく原文の内容と過不足のない自然な日本語に訳し、訳が一通り完成したら、日本語Wikipediaに相当数存在していると思われる英語堪能な利用者に内容の正確性という観点から校訂を依頼して、暫定的にそれでもって日本語版における現行「ウィキペディアが何でないか」を置き換えるという対応策を提案したいと思いますが、いかがですか。--Pugnari 2006年9月8日 (金) 13:45 (UTC)


Pugnari氏の論理展開とフェアな視点にはまず敬意を払うし、この一連の取り組みにぜひ継続的な観察とできれば協力、議論に参加していただけると心強いと感じています。まず、私の姿勢ですが、確かに、前回の結びで、削除主義者をなんとかしなければいけない、という旨を書きましたが、それは、そもそも、何かがおかしい、と感じたことに端を発します。私がこのウィキペディアは何でないか、「百科事典的」というのを問題視する過程には、ファシストとしての計算により狙いを定めたのではなくて、ノート議論を見ていて、このほぼ2つの種類の言葉が何度もそこで使用されているのを見、また個人的にも特にsysopに「これだけ読んどけ」的にリンクを丸投げされたことが1度や2度ではなかったからです。何かがおかしい。そういう違和感とともに、周りのユーザが不満を漏らしながらも羊のようにただそのお札にしぶしぶしたがっているように見える。この強制力ってどっからくるの?という単純な疑問からはじまったことです。

このように頻繁にアクセスされる参照される文句である一方で、けしてその表現はこなれたものでない、特にPugnari氏は、意図的な無意識か私が+αの要素をしっかり倒置否定表現の従属に隠れることなく、加えるべきことは加えるように能動的に表現しろという部分をスルーしています。つまり、ウィキペディアは辞書ではありません、ウィキペディア=辞書+αのような整合性を尊重すべきで、辞書という要素が排除なのでなないというような論定展開は、文言のマニピュレイトでもなんでもなく、上のセクションに書いているように、論理的な帰結です。あなたはあの集合理論のロジックについてどう思われますか?そのあたりを一切スルーして、私が一方的にどちらかへ転がそうとしていると断じるのはフェアではないと思います。私はあくまで、紙の百科事典ではないからはじまり、+αの理屈がちゃんとあるのが原文で、隠されているのが日本語文だという見解は変わりません。

実際、全体のファシスト的であるべきでないの理屈は尊重いたしますが、私もある程度+αの部分のように客観的で合理的な理屈をつみあげているつもりであり、反論しやすい部分だけ反論し、逆印象操作であると断じるというPugnari氏の主張には同意できません。文言をどうするか議論するほど不毛なことはないということですが、あなたも含めてもうすでにはじめているわけです。「もっとも不毛」であるのは、文言に問題があるという私のような主張者がいるのに、改善してもどうってことないだろうと、握りつぶす行為ですね。実際に改善しようとしている人がいるのに、何を失うことがあるのでしょうか?やめろというのならばやめてほしいとゆきち氏のように正直にウィキペディアをコントロールしておきたいと本音を暴露すべきで、やっても無駄ですよということがもっとも不毛であるのです。

とはいえ、すでに建設的な案を積極的に出されているので、そのもっとも不毛な道を辿らないということには合意ができていると思います。とりあえず、上の翻訳作業はすでに始まっているし、あと「何が百科事典的であるかないか」のプロジェクトも近いうちにはじめたいと思いますし、それは、原文同様、今翻訳策定中の文章から同様にリンクされて然るべきでしょう。 翻訳作業のプロセス全体はおっしゃるステップでもちろんよろしいかと思います。

あああと、もう「百科事典的」という言葉については、たしかに編集バックで改悪される恐れもありますので、いずれにせよ「百科事典的とは何か系列」のページも先ほど申し上げたように論争がある定義ではないと示すことが大事であるので、もうそれがどうであるとかは重要ではないでしょう。あとexpectとですが、これはまあ私は6年ほどアメリカにいましたし、そのような個人的経験をもって何かいうのはフェアネスに掛けるという批判を覚悟の上でもうしあげますと、そのような辞書的定義など引かなくても、単純に期待です。「自分の希望や欲望を述べる言葉として使う事は稀だと思います。」これは正しくありません。稀ではなく日常においてまさに常用します。sexをexpectするsexual expectation とかもろに頭にまずうかびますね。expectはそんな予想するとかクールな言葉(だけ)でなく、私が当初から主張しているように熱いニュアンスを含みますしそれは常用されています。逆にそのあたりあなたの熱い部分を恣意的に押さえ込みたいという欲望を感じざるを得ないですね。第一義がクールな予想とかネイティブはまず言わないでしょう。やろうと思えば簡単に立証できますよ。そもそもです、これは確信をもって申し上げているのですが、百科事典を開くひとは「なにかを、情報を求めて、欲して」開くわけです。その結果を予想して利用するのではなくて、その結果を欲して、期待して百科事典を開くのですよ。日常的な用法、文脈、ロジックのつながり、すべにおいて、私はすでに書いているようにむしろ期待と解釈します。利用者が期待するものをよく考えて見ましょうということです。この点について万が一同意されなくても、いずれ優秀な英語話者が参加するにつれて、この程度のことはすぐどちらが正しいか明らかになることだと思いますよ。その点はフェアネスを重視するPugnariもわからないわけは無いと思うし、ぜひ善意に従ってご判断ください。


--FXST 2006年9月8日 (金) 16:28 (UTC)

私には私の主義主張がありますので、結局は完全にはフェアーではあり得ません。その観点から言えば前述の包括主義には私は賛成しかねると考えています。その一方で、行われたクオリティーが低かったり妥当性の低い編集にもそれを書き加える編集者なりの理由があるはずだし、「クオリティー」という基準には多少なりとも主観が紛れ込んでくるので、対話なり何なりを通してそれをふまえた上でその意図をくみ取ってより幅広い人々に意味があると映るような編集にする事ができるならそのように、また結論として削除すべきなら削除する、というように対応すべきだと思います。
ただ、このような姿勢を取るとすれば(sysopに限らず)ウィキペディアのコミュニティーには圧倒的な負担がかかる事になります。おかしな記述や信頼性の低い記述、その項目との関連性がどれほどあるかという事について疑問を持つ人が少なからずいると思われる記述を放置すれば、ウィキペディアの内情がわからない人がgoogleかなにかを経由してやってきて、「なんだウィキペディアっていうのはまともな記事がないじゃないか」という感想を持つ可能性が考えられ、それがためにウィキペディアの一般からの評価が下がってしまう恐れがあります。あるいは、すでにウィキペディアにはそれなりの名声があるので、通りすがりの利用者は、実際には疑わしい内容を含んだウィキペディアの記事をそのまま鵜呑みにし信じ込んでしまう事があり得ます。そして実際、木に竹を接ぐような編集やあまりに貧弱すぎる記事がまま見られる事は、たとえば最近更新したページおまかせ表示をクルーズすれば理解していただけるかと思います。その意味でウィキペディアにはある種のコントロールは必要です。しかし、このようなおかしな記述を訂正するためにいちいち心を込めて対話をするとしたらそれには莫大な労力と忍耐力が必要だと思います。削除主義者はこの点に関して「省エネ」指向であり、なぜその編集に問題があるかをいちいち自分の言葉を尽くして、理を尽くして説明などしていられないので、編集を削除した上でウィキペディアのガイドラインを参照して、あとは自分自身で理解してくれ、という立場をとることがあります。これはウィキペディアのこの種のスパルタ主義の慣習に不慣れな編集者には少なからぬ衝撃を与え憤慨と紛争の原因となる行為ですし、私の観点からは究極的には受容しがたい態度だと思います。しかし、それはそのようなスパルタ主義をとる人たちの個人的な態度や思想信条の問題です。
私は限定的な性善説の持ち主です。すなわち、人間は(自分も含めて)しばしば理にかなっていない行動をするものであるが、論理やコンテクストに則してそれが理にかなっていないということや、むしろどのように行動すればよいかの提案を時間と誠実さをもって行えば、ある種の合意に達しうる、ということです。私は、FXSTさんの「+α」の積極的な提起には残念ながら否定的です。それは、ウィキペディアの様子を眺めていると、その「+α」の記述によって、グローバルなビジョン、すなわち体系化の意図を持たない善意の編集者たちの編集を必要以上に促進してしまう可能性があります。
すでに述べましたが、英語版はこの観点についてパワーバランスをうまくとるよう、巧妙に中立的な記述になっています。しかし、ここでもしWhat Wikipedia is notがなかったらどうなるか考えてみましょう。かならずや、ウィキペディアは新世代、ネット世代の新しい百科事典だ、だからいろんな新しい試みがあるべきだという人が大量に現れ、free encyclopediaを標榜するウィキペディアのencyclopediaとしての存立基盤が脅かされることになるでしょう。私はウィキペディア黎明期の事は存じ上げませんが、実際そのような状態になりかかったので、それを抑制する目的でWhat Wikipedia is notが登場したのです。このことは同文書の初版を参照すれば了解される事ともいます。そして、この初版と比較すれば、抑制の行き過ぎによってウィキペディアの新しい可能性を圧殺しないための工夫が現行版にみられるというのは確かです。ですが、この文書がウィキペディアの評価を落とすような編集への抑止が第一の目的である事に変わりはありません。
現行日本語版Wikipedia:ウィキペディアは何でないかは確かに抑止効果の強すぎる表現が見られるかもしれません。ですが、その揺り戻しとして不用意に開かれた印象の表現に直す事にも反対です。これは実に微妙な問題です。新たに日本語版独自の的確な表現を作ろうとすれば、かなりの労力と人望ある中心人物、この話題に少なからぬ関心を抱いているウィキペディアンたちの莫大な忍耐力を必要とするでしょう。ですから、英語版の「忠実な」翻訳を提案しているのです。そして、その過程で「+α」の明示化が意図的にせよ無意識的にせよ混入する事を抑制する必要すら感じます
あとはマイナーなコメント。私は英語圏に住んだ事もありませんし、もっぱらアカデミックな目的で英語を使っているので「生の英語」みたいなものはよく存じ上げませんが、sex expectation というのは、持って回った言い方をすれば、たとえば異性または同性とデートしたときに、そのデートのプロシージャーから、社会的風俗的なコンテクストに照らしてある種の妥当性をもって性関係を結ぶ事が期待、予期できるという意味なのではないでしょうか。そのいみでは上に引用したCODの定義を幾許も逸脱するものではなく、expectの正しい用法です。言葉のもっている意味内容を便宜上縮約させて特定の日本語の単語に置き換える操作は必然的ですが、それを遡及的に適用して別の言語の単語の意味を推測するのは危険だというのが私の見解で、だからこそCODを引用したわけです。「自分の経験から明らかにこうだ、それに疑問の余地なんて無い」という論理は、ウィキペディア本文の編集の根拠としても、ノートページの議論の根拠としても薄弱だというのが僕の立場であり、ウィキペディアの公式見解Wikipedia:検証可能性の精神でもあります。したがって、「削除主義者」の削除の恰好のターゲットになる言説でもあります。FXSTさんは前もって「フェアネスに欠ける」と行っておられますが、この種の論理は信念の類であって厳密な意味で議論を積極的に成立させるための論拠たり得ません。信念を他者に説得するにはそれ相応の証明が必要です。--Pugnari 2006年9月9日 (土) 02:02 (UTC)

よろしいでしょう。expectについてそのような論拠の屁理屈を出されることにはたいへん失望いたしました。これはいずれ、より生の英語とニュアンスを解する優秀な翻訳者の投票によりあっさりと解決するレベルの話であるので、予測であると言い張るのもご自由ですし、あなたが納得できないと辞書とにらめっこすることに執着するのであれば、私は別にそれを止めるものではありませんよ。それにまたその辞書に執着するあまり『これは確信をもって申し上げているのですが、百科事典を開くひとは「なにかを、情報を求めて、欲して」開くわけです。その結果を予想して利用するのではなくて、その結果を欲して、期待して百科事典を開くのですよ。日常的な用法、文脈、ロジックのつながり、すべにおいて、私はすでに書いているようにむしろ期待と解釈します。利用者が期待するものをよく考えて見ましょうということです。』という部分をスルーしておられますね。私は何もこの程度のニュアンスぐらい常識だとだけ言っているのではありませんよ。どこが自分の経験だけに基づいている分析なんでしょうか?やはり反論の仕方がフェアではないですね。

さて、翻訳の件ですが、現在、ここよりももっと強制力が強いと思われるコンテンツ編集三大方針のひとつである、Wikipedia‐ノート:独自の調査の翻訳作業も同時進行で参加しています。あちらに、「ウィキペディアで扱える一次情報二次情報とは印刷された出版物のみではない」という項目を立てました。このウィキペディアはなんでないか?も結構問題を包括しているとおもいますが、あちらもかなりの問題がありますね。とりあえず日本語ローカルルールでは、ソースはすべて出典であり印刷物ということらしいです。その事が翻訳ということでは明らかな誤りであるということを向こうで調査しているので、そちらもご参照ください。明らかな誤りだと思いますが、またPugnari氏は独自の懸念にそのような修正作業はがんとして受付得られない主義主張のようですから、参加は望めないでしょうが。個人的にはそのような個人的な主義主張により、翻訳文が、ここでもそうですが、恣意的に運用されるべきではいと思いますがね。向こうもこっちでも言いたいことは大体同じです。もともとこの何でないかが曲がっている仕事なので直そうとしているだけですね。向こうもそうです。--FXST 2006年9月9日 (土) 06:48 (UTC)

包摂主義者と削除主義者バイアスを俯瞰 [編集]

かなり長くなり、節編集、可読性のため勝手ながらここで一区切りと判断し分割いたしました。--FXST 2006年9月9日 (土) 08:12 (UTC)

議論をずっと拝見させていただいていました。議論をまとめた上で私なりの見解を述べたいと思います。私自身包摂主義者なので、そちらの方に意見が傾いてしまうこともあるかと思いますが、ご容赦ください。

Wikipedia:編集方針#情報を保存するよう努力する事によれば、内容はできるだけ保存するように努めねばなりません。これはWikipediaの基本方針です(その意味で、下のほうに書いてあるゆきちさんの「編集において、加算と減算は同等の行為です」という主張は全く成立せず、明らかに記載と削除は非対称であると考えます)。これに則って削除主義者に削除されやすい記述に関して考察してみましょう。

  1. 著作権侵害
  2. 内容の重複
  3. 無意味な記述
  4. 著しく非中立的な記述
  5. 出典のない記述
  6. 「百科事典的」でない記述

以上が削除主義者によって削除されやすい記述ではないでしょうか。

このうち1は明らかに救いようがないわけで、いくら包摂主義者といえど版ごと削除されるのは容認するはずです。2に関しても、全く同一であれば削除して構わないでしょう。ただし、完全に同一でなければ、編集によって統合することが可能なはずです。また、関連記事に同一の記述がある場合は、両記事の可読性に配慮して削除するか否かを決めるべきでしょう。3については、当該リンクに既定されている内容に関しては削除されても構わないと考えます。ただし、当該リンクにもあるように、救いようのある記述に関しては削除すべきではないと考えます。ここまでに関しては明らかに包摂主義者も削除に反対しないでしょう。

4, 5に関しては、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査の三大方針に関連する削除です。5については、ソースを探すよう努力して、それでも見つからない場合は削除されても仕方がないかもしれません。4についてはWikipedia:編集方針#情報を保存するよう努力する事の「あなたが大事だと考えていることについての記述を追加することで、記事のバランスをとる」という手法で対処すべきで、削除すべきではないと考えますが、著しく非中立的である場合は、個人的には一旦当該記述をノートに移す等の行為はやむを得ないと思います。従って、Pugnariさんが懸念される「おかしな記述や信頼性の低い記述」に関してはこの段階で淘汰されても私は構わないと考えています。

問題は6です。Wikipedia:編集方針#情報を保存するよう努力する事では非百科事典的な記事の削除は認められていません(近いのが「関係のない内容」ではありますが)。現時点で体系的でない記述に関しては編集でいくらでも対応できるのではないでしょうか(例外的に、定義未満のサブスタブであればその情報が削除されてもWikipediaにとってマイナスにはならないと思うので削除されても構わないとは思います、私は積極的には賛成しませんが)。単なるリストの羅列に終始し、どう頑張っても現時点では体系化が不可能な記事に関しても、一旦それをノートに移し、その記事に関する百科事典的に記述が十分整った上で、しかる後に記事の一部としてリストを記述するのには全く問題がないと考えています(あるいは可読性を損なうのであれば別項目に分割するなど)。おそらくこの点に関してはそれほど削除主義者も反対するものではないと思っています。

6の中でも包摂主義者と削除主義者の論争の的となっているのが、例えば単なるゴシップを記述するか否か。ここに関しては体系的に記述した上であれば問題ないとする包摂主義者と、それでも問題だとする削除主義者間で意見が割れるところです。個人的(包摂主義者的)見解としては、そもそも閲覧者毎に求める知識レベルは異なるわけです。秀逸な記事の一つであるにしても、これを全て読んで全て理解するだけのリテラシーがある読者はそれほど多くないはず。それでも百科事典として、細部の記述を載せてあります。ゴシップに関しても個人的にはこれと同等に扱われて良いのではないかと。楽天証券のゴシップに関して興味はないがの細かい歴史に関して興味のある読者がいるのと同様、の細かい歴史に関しては興味はないが楽天証券のゴシップに興味のある読者はいるはずですから。そもそも「百科事典は森羅万象を扱うものではない」とどこかでゆきちさんが仰っていましたが、手元のデジタル大辞泉(小学館)によると「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物。」とありますので、結局「人類の知識の及ぶあらゆる分野」=「森羅万象」ではないのかとも思ったりしています。

さて、「+α」の件ですが、FXSTさんは「+α」がない現状では削除主義者に濫用されると懸念し、Pugnariさんは「+α」を明記すると包摂主義者に濫用されると懸念されておりますので、結局その中間点を見つけるしかないのでしょう。『「忠実な」翻訳』とありますが、ある言語を他の言語に100%忠実に翻訳することなど不可能です。直訳であれば必ず単語や文法の暗示的意味、つまりニュアンスの訳漏れがあります。即ち、日本語と英語は1対1対応しないということです。expectationは「予想」でも「期待」でもなくexpectationでしかないのですから(ちなみに"Expectation is better than realization."という諺もありますので、FXSTさんの見解もあながち間違ってはないと思いますが)。そこで、我々がすべきことは意訳などを駆使し、近似的に原文に近づけていくことです。そこには必ず主観であるニュアンスの問題が絡んできます。そういう意味では、この作業も「かなりの労力と人望ある中心人物、この話題に少なからぬ関心を抱いているウィキペディアンたちの莫大な忍耐力を必要とする」点においてはさほど日本語独自の表現の作成と変わりないかもしれません。とりあえず「+α」の是非について抽象的議論を行うよりは、FXSTさんの訳案を見て、「この部分がこのように濫用される恐れがある」という具体的議論をした方が賢明かもしれません。

私も長くなってしまいました。申し訳ないです。※編集競合が起きたので、FXSTさんの最新の意見はまだ読んでおりません --spirituelle 2006年9月9日 (土) 07:25 (UTC)

自分の主張に自信をお持ちなのは大変結構な事です。私は私で、少なからぬ英文読解の経験から、この場合のexpectは予測であると申し上げているのです。この手の「公式文書」ではなるべく冷静な表現を用いていると考えるのが妥当だという判断もあります。「日常的な用法、文脈、ロジックのつながり、すべにおいて、私はすでに書いているようにむしろ期待と解釈します。」とおっしゃるなら、私は、日常的な用法、文脈、ロジックのつながり、更には世界で最も使われている英語辞典の一つである Concise Oxford Dictionary の記述すべにおいて、私はすでに書いているようにむしろ予測と解釈します、と言っているのです。What Wikipedia is not禁止事項を述べた文書としての性質が強いとも指摘しているので、当然、what a reader would expect to find under the same heading in an encyclopedia の意味内容が「期待」という訳語の選択に現れるような積極的な意味とは考えにくいとimplicit に主張しています。もしこれを明示的に記述しなかった事を批判されているのであれば、それに関しては甘んじて受けます。英文解釈の問題に関しては、結局のところ私はあなたのように絶対の自信があるわけではないし、ささいな問題なのでこれ以上追求しない事にします。しかしながら、屁理屈などという言葉で揶揄するのはいかがなものでしょうか。私はなるべく論理的に可能な限り飛躍のない論考で議論を組み立てようとしているのに対して、「屁理屈」とか「反論の仕方がフェアでない」などの少々中傷まがいの発言でFXSTさんが反論された事に対してはここで抗議しておきます。
更に、expectをもし期待と訳したところでニュアンスの違いはあるにせよ、実際の意味内容がどれほど違うのでしょうか?ずっと気になっていたのですが、あなたは「+α」の部分をどのようなものとして想定しているのですか?紙の百科事典にはないものとして、すでに指摘されている、より詳しい取り扱い、ハイパーリンクによる参照、up-to-dateな記事という事以上の何かを求めてらっしゃるのですか?これらはすべて「百科事典的」の範囲内に収まる事柄であり、個々の記事の性質を根本的に一変させるようなものではないので紛争の原因にはなりえない要素だと思います。もしそれ以上のもが「+α」あるなら具体的に指摘していただけると分かりやすくなります。もしないのであれば、実用上の観点から見てあなたと私の間にそれほど大きな立場上の違いがあるようには思いません。
同じ質問を違う言い方ですればこうなります。私自身は昨今の最新の事情に詳しいわけではないですし、すでにどこかの紙の百科事典に載っていておかしくないような事柄以外についてそれを項目として立てようとは思っていません。ですから、私個人はウィキペディアが百科事典的であって、すなわち、紙媒体よりもはるかに便利な百科事典、ということでなんら問題がないわけです。あなたが、ウィキペディアが「百科事典的」では不自由だというのであれば、典型的な具体例を解説していただければと思います。
もう一つ質問させてください。わたしの主義主張の事を云々されているようですが、あなたは私の主義主張をどのようなものとして理解されているのでしょうか?最後の「修正作業はがんとして受付得られない」の部分など理解不能の点が多いですが、そう思われたのは何故ですか?わたしはすでに、英語版に忠実な翻訳作業をして、コミュニティーによる校訂を経て正式版として採用するというプロシージャーをとってはいかがですかと申し上げていますが、それでは不足なのでしょうか?不足があるとしたら何ですか?具体的に提示していただければとおもいます。
最後に、あなたには主義主張は何もないのですか?恣意的に運用云々をいいだすのであれば、それはFXSTさんにもいえることです。私は私でそれなりの「恣意」を持っているかもしれませんが、あなたがそれと同等かそれ以上の恣意を持っていると感じる人も多いはずです。spirituelleさんの書き込みを拝読する前に書きました--Pugnari 2006年9月9日 (土) 07:58 (UTC)

まあそうですね、安易に屁理屈などと発言したのは謝りましょう。それにSpirituelle氏、それともPugnari氏でしょうか、出していただいた言葉とリンク、包摂主義に重複する議論が多いですね。私はこのような言葉は知らなかったし、まさに私の言いたいことをかなり代弁しているリンクであるので、面白かったです。訳の問題ですが、厳密にはSpirituelle氏の指摘されるように、expectはexpectでしかなく、日本語と1:1で対応していません。故に辞書を引いてどちらが1番の日本語かなどという作業はあまり意味はないのですよ。文脈によって一番「はまる」ものを選び出すしかないんですね。とにかく、もうこれ以上Pugnariとディテールの議論をしても個人攻撃に応酬になりはじめているので、お互い控えるべきでしょう。それに包摂主義と削除主義の大局的な姿勢の違いについて、Spirituelle氏より、非常に内容のあるコメントがなされました。翻訳なら翻訳のテクニカル、その包摂主義と削除主義のすりあわせをなるべく大局を認識しながらはじめるというのは、今回ある意味実り多い結果になったと思いますよ。Spirituelle氏にお礼申し上げます。--FXST 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC)

まずはspirituelleさんの論点整理に感謝いたします。おそらくFXST氏も私も過剰に抽象論に走る傾向の持ち主と思われますが、それでは議論は暗礁に乗り上げてしまいますよね。
spirituelle氏の整理に従って私の見解を申し上げればもう少し相互理解が深まるのかもしれません。spirituelle氏の項目1〜3については削除の対象となってしかるべきであると思います。
4および5については、私は早期の削除には反対です。私は現在そのような記事を見かけた場合はまずノートページでこの記述を加えた著者やウィキペディアの利用者に中立性に対する疑義を提出する、あるいは出典の提示を求めることにしています。その結果、加筆補筆によって記事の妥当性が確保されれば問題ないですし、いよいよ中立性や出典の存在が危ういと思われる場合は、「Unreferencedタグ」や「正確性タグ」を貼り付ける事によって、記事の内容に異論がある事を利用者に周知させることにしています。このようなものを1〜2ヶ月も待たずに削除するのは早計だと考えています。
6の「百科事典的でない」は、もしそれだけの理由であれば4,5より強い理由で削除すべきではありません。ゴシップを掲載することも必ずしも悪いとは言えないでしょう。しかし、百科事典としての優先度の高い話題ではないと思われますので、記事の先頭に来ているようではおかしいので、より末尾に近いほうに書かれるべきであるし、それがゴシップや噂であるということが明記されている必要があると思います。このように体裁上妥当な処置が施されてる限り、1〜3、およびその他の法律上の問題(権利関係、訴訟リスクなど)を伴った緊急の場合を除いては記事の削除は早計であると思います。
ただし、削除された記事は、管理者による完全な削除でない限り、過去ログにすべて記録が残っている事には注意すべきです。通常の編集で削除された記事はリバート操作などによって簡単に復活可能です。この削除の可逆性に関する限りゆきち氏の「加算と減算は同等」というのは正しい主張だと思います。:--Pugnari 2006年9月9日 (土) 08:40 (UTC)

>両氏、さて、本件のとりあえずやってみた訳案をごらんになるとわかると思いますが、原文に忠実にやっています。 私が気をつけたのは、現行の日本語のように、損なう要素がないようにしたということです。当然包摂主義者であり、+αのニュアンスを最大限保存しようとするバイアスが訳案には入るという懸念はまさにそのとおりですが、具体的に今回の仕事をみていかがでしょうか?私はむしろ元の訳は削除主義者による仕事であると思いますよ。このうえなくミニマリズムです。訳案さえ、+α、包摂的な匂いを最大限消している努力のあとさえ見受けられる。実は、上で告知させていただいた、Wikipedia‐ノート:独自の調査の最終章における私が建てた章のなかで懸念する「ソースは出版物のみ」となってしまっているという仕事も、正直これ削除主義者のひどい仕事だと思っています。今の「ルールブック」は包摂主義者の私のバイアスを加えるとかそんなレベルではなく、度を越えたバイアスがあり、実際悪用されています。

たとえば、現に、#出典のない記述というのを、spirituelle氏が提示されましたが、この出典という言葉も色濃く書物だと刷り込みが行われてしまいます。が、これもとは単なるSourceでソースなんですよね。なぜ、ソースもしくは情報源と普通にしておかなくて出典なのか?いたるところでこんな横暴がまかりとおっております。これつまりソースが文献でないと「百科事典的」でないという保守的バイアスを働かせるとソース=文献、出典となります。実際は、権威付けがあるソース、というだけにもかかわらずこういう捻じ曲げが行われています。

私は包摂主義者として以前に、このような削除主義バイアスなんて言う以上の、度を越えていて許されない横暴を見過ごせません。このような場でも微力ながら、誰かがおかしいよね、って告知していかなければ、どんどんどんどん既成事実として悪用されていくのだろうと危機感さえ持っています。--FXST 2006年9月9日 (土) 08:55 (UTC)

ちょうどよいので、Pugnari氏の伺いたいのですが、大事な質問です。

『私は現在そのような記事を見かけた場合はまずノートページでこの記述を加えた著者やウィキペディアの利用者に中立性に対する疑義を提出する、あるいは出典の提示を求めることにしています。』ということです。

この「出典の提示を求める」ときに、あなたは頭の中で書物、印刷された出版物のみをイメージされていますか?

また、そのような対処を求めれられたユーザは、書物の出典を調べないといけないと思い込み、または思い込む必要さえなくて、

日本語Wikipedia:検証可能性情報源を明記というリンクを踏むとWikipedia:出典を明記に強制的に飛ぶ、強制的に書物の出典を求められているのではないですか?いかがでしょうか?--FXST 2006年9月9日 (土) 09:15 (UTC)


質問にお答えします。出典とは出版物に限るとは思っていません。実際、私は自分が編集した記事のいくつかで Oxford University Press 社の Grove Onlineや、楽器制作家のホームページなどを参照しています。前者に関しては紙媒体の百科事典のオンライン版なので問題はないのです。後者に関しては、ホームページが典拠になっていることをできるだけ明示的に記述するという方針でWikipedia:信頼できる情報源趣旨上、認められるはずだと思っています。出典=出版物といった刷り込みが存在しているとも思いません。実際、理系の学問の世界では出版前のプレプリントとよばれる論文がインターネットを通じて配布されており、それらは基本的に将来査読のある雑誌に投稿、掲載を行う事を前提に、参照者の自己責任で使用する習慣があります。ただし、ウィキペディアにおいては「自己責任」は存在しないわけですからネット上のマテリアルについては十分すぎるほどに慎重になるべきです。関連する意見をWikipedia‐ノート:独自の調査にも書き込んできました。
あとせっかくですので控えていましたが、FXSTさんの翻訳α版に関して、3点ほど指摘させてください。もちろん私はFXST氏ほど英語に堪能でない事はあらかじめ断っておきます。
  1. 2段落目の「紙面用の文章の長さにはとらわれませんが」というのは原文に見当たらない気がしますが?前段落の言い換えだとしても過剰だと思います。
  2. 「紙の上に印刷された百科事典では、短い、固定化した記事しか載せることはできませんが」ですが、「載せることはできません」と否定文に訳出するのは強すぎると感じます。「紙の百科事典では、限られた項目について、短い、固定化した記事のみを取り扱っていますが」ぐらいが妥当に見えます。
  3. more thorough treatments は「いくらでも記事について作業を加えることもできますし」となるのですか? treatments は記事項目につていの取り扱いを指しているように見えるので「より完全な/包括的な記述を行う事ができる」と読める気がしますが…?--Pugnari 2006年9月9日 (土) 09:46 (UTC)

訳のご意見ありがとうございます。テクニカルな訳議論も含めて、これはのちほどまとめて議論したいと思います。

回答についてですが、Pugnari氏は少なくとも誤解の影響はない、頭の中ではないということは理解しました。しかし、その指摘、対処しろといわれたほうはどうなんでしょうか?繰り返しますが、実際に日本語版において、あのリンクを踏めば自動的に「100%出版物」のページへ強制的にリダイレクトするわけです。あなたの頭のなかでは刷り込みはないと思っていても、その行動の結果、その出版物のフォーマットのページへ誘導することになっているので、現実的には、結果として、出版物出典フォーマットにしたがって書けと強制していることになるとは思いませんか?

日本語Wikipedia:検証可能性情報源を明記というリンクを踏むとWikipedia:出典を明記に飛ぶ

この仕組みです。 --FXST 2006年9月9日 (土) 10:30 (UTC)

Wikipedia‐ノート:独自の調査にコメントしました。--Pugnari 2006年9月9日 (土) 11:01 (UTC)

ウィキペディア拡大主義と削除主義およびそれにまつわるsysopの事情[編集]

ひとつ突っ込みを入れるとすれば、「削除主義者」ってなんですか? どういう編集なら認められて、どういう編集なら認められないのでしょうか。一歩間違うと、「削除すること自体が問題」と言いかねないのですが。ちなみに、数を善として扱ってはいないし(何を根拠に?)、日本語版は100以上ある各言語版の中で第5位になります(何が低い?)。海外版は、botなどを通じて記事を自動作成した経過がありますが、日本語版は、手動でここまで来ました。これでも活性化されていないのでしょうか。また、英語版は25万項目あるころには既にsysopは100人を超えていたのですが、日本語版は現在でも50人程度しかいません。それに常連を合わせるだけの人数で、どうやって記事のクオリティをあげていくことが出来るのでしょうか。たとえば、どういう道筋を考えているのでしょうか。あなたのいう削除主義者は、何を「勘違い」しているのでしょうか。

あと、書き直しの多いFXSTさんにひとついうと、ドイツ語版は日本語より項目数が多いのですが、ログデータベースはドイツ語版より日本語版の方が多いそうです。いかに日本人が編集下手かわかりますね。ノートの記載であれば、ちょっとしたtypoは問題ないので、あまりシステムに負荷をかけることはよしてくださいな。

--ゆきち 2006年9月8日 (金) 03:43 (UTC)

そろそろというか、やっとPugnari氏が上で出した「削除主義者」について突っ込みがはいったようです。 誰しもレッテルは貼られるのは嫌でしょうからね。しかし、上の議論において、彼と私以外だれもいない、あなたは読んでいるはずなのに参加せずに、別のところで捨て台詞だけ吐いている。ここにはふたりしかいないので、私は彼のあげた削除主義者と拡大主義者の対立という構図が理解できているので、あえて正す必要などなかったのですよ。

さて、なんですか?ということですが、対立の構図において自明だと思いますし、上でとうとうと説明しているので、削除バイアスを善と思っている人への批判については繰り返しません。上で展開されている詳細な説明を読んでもまだ削除主義者がなにか?と理解できなければ、それは理解したくないだけでしょう。

100以上あるとかおっしゃっていますが、そのレベルまで下げて説明する必要は感じませんでした。タガログ語と比較して上位の5位にあるとかいう議論はする必要はないので、スルーします。

sysopの問題ですか?また運営の話と混同していますね。そのようなテクニカルな話と、このようなWikipediaの百科事典としての方向性と一緒にして論じないことと注意もうしあげましたね。その質問もこたえずに、あなたはどっかにいってしまいましたが。sysopの数が少ないのであれば、目立つところで募集してはどうですか?私は数が足りていないなんて知りませんでしたよ。そのような裏事情があるのならば、sysop内輪同士でなんかやっておらずに、告知すればいいのですよ。どうすればいいのですか?ということですが、まず

1.テクニカルなバックオフィスの都合を恥ずかしげもなく根本的な方針の運用へ適応するな。 2.数が足りないとわかっているのならば、増やす努力をせよ。すくなくとも私はそんなこと知らなかった。知っているのはどの程度いるのか?

おおよそ以上のような勘違いはまずあるでしょうね。

あと書き直しの問題ですが、記事の長さと編集の頻度は、書き直しというよりも書き足しの場合もあるし、一般に比例するという当たり前のことを理解すること。マナーの問題であると理解して善処するつもりですが、ワンパターンのシステム負荷みたいなエクスキューズをもってルール適用みたいな体を出す卑劣なまねはしないこと。そのような締めくくり方はフェアではないと理解すること。

以上です。--FXST 2006年9月8日 (金) 06:26 (UTC)

少なくとも、実運用不可能な理念へは賛成しかねます。sysopの募集も幾度となく行っています。裏事情も何もありません。自分がsysopだったら、自分で制御できないシステムの運用はごめんです(実際、既に破綻しているとも言えるが)。sysopの人数はWikipedia:管理者で確認できます。本当にWikipediaを良くしたいとお考えなら、FXSTさんは、その点、考慮不足でしょう。あなただったら、この巨大プロジェクトをどのように運用しますか? --ゆきち 2006年9月8日 (金) 06:37 (UTC)


>自分で制御できないシステムの運用はごめんです

>あなただったら、この巨大プロジェクトをどのように運用しますか?

あなた自分を何だと思っておられるのでしょうか?自らボランティアで立候補し、自らの作業可能範囲内でボランティアなさっているのでしょう。無理があるのならおやめなさい。

少なくとも、自分で制御できないシステムの運用はごめんだ、などというのは、おおよそあなたの傲慢を暴露していますね。 Wikipediaはあなたをはじめとするsysopの私物ではないのですよ。その点の認識が甘すぎる。無知すぎる。傲慢すぎる。

繰り返しますが、無理だというのならいつでもおやめになって結構ですよ。誰もユーザはあなたにお願いしておりません。私もお願いしておりません。普段からボランティアで自主的に作業なされているのならばご苦労様と申し上げますが、ボランティアがキツイのであなたならどうしますか?なんて、そんな議論は付き合う必要がありますか?

まずこの点明確にしてください。

人数が少ないのならばもっと目立つところにおけるでしょう。少なくとも私はまったくそんなの気がつかない。 告知の方法に問題があると考えるのがもっとも自然な思考パターンであるのですが、誰もそんなこと言い出さないのですか? --FXST 2006年9月8日 (金) 06:47 (UTC)


じゃあ、もうひとつ。理念と運用を切り離したとしても、あなたのような膨張拡大主義は受け入れられません。編集において、加算と減算は同等の行為です。加算だけが認められて、減算が認められないなんて、とてもじゃないけど、理解できません。これ以上は、Pugnariさんが僕の言い損ねていることを大体言い表せているので、それに変えます。

あと、某sysopが日常的に活動しているユーザーを個別に勧誘もしていますね。

--ゆきち 2006年9月8日 (金) 06:49 (UTC)

Wikpediaの表紙ページからどうやったら、そのsysop募集ページにたどり着けるのですか?いっそのことボトムの寄付のお願いのしたに挿入すればどうですか?上級者も初級者も幅広く応募するでしょう。

個別に勧誘しているということですが、それでも数が足りないんでしょう?今のやり方で十分出ないという証拠ですよ。結果の出ていない努力を私に伝えてどうしたいのですか?本気で困っており、大問題であり、それを改善したいのであれば、上で書いたように目立つ場所で告知するのが当たり前でしょう。それしないってことは本気で改善なんてしたくない、つまりsysopは今の人数でいいと本心で思っているか、ただの無策集団であるということになります。

じゃあもうひとつでなくて、個人的に苦しいのであれば、いつでもおやめになって結構ですよ、ということです。ウィキペディアの私物化の考えについて明快な回答があるまで、あなたとはそれ以上の議論をするステップにはありませんよ。その大元でとんでもない信仰があるわけですからね。土台のないところに上もの議論はできません。--FXST 2006年9月8日 (金) 06:58 (UTC)

さらに、今回のゆきち氏の対話で気がついたことがあります。おそらく日本語版ウィキペディアのsysop集団というより、アクティブな常連の間には極めて閉鎖的なコミュニティが形成されている。そしておそらく今回の対話によって暴露されたように、非常に傲慢な、自分たちが運営してあげているシステムである、みたいな思い上がりがある。地位に誇りを持っており、外部かの人間を「仲間」に加えることに消極的である。これが、実はsysopの人数が足りない理由なんじゃないですか?本当に足りないのならば。。。というのは上で書きましたね。いずれにせよ、本気で募集する気なんてないんでしょう。それが自分たちの首を絞めている。もしくはその今の人数でウィキペディア運営して「あげ」たいんでしょうね。だからやたらめったら、sysopの都合なんてものを持ち出す。数が足りないというのは単純なテクニカルの問題で上で述べたように、極めて簡単に解決できることです。寄付を募る下に、sysop募集しなさいよ。お金よりも人手のほうが欲しいんでしょ?--FXST 2006年9月8日 (金) 07:09 (UTC)


以下の過去から現在進行中の対話を井戸端からこちらへ収束させました。この手の会話が拡散する合理性はないと判断させていただきました。--FXST 2006年9月8日 (金) 06:47 (UTC)

"ignore all rules" --ゆきち 2006年9月7日 (木) 02:27 (UTC)

いいたいことがあれば、向こうで書いてください。抽象的な捨て台詞を吐くようなみっともない真似はしないこと--FXST 2006年9月7日 (木) 08:36 (UTC)

だまされたと思って、"ignore all rules"を検索してみてくださいよ。あなたの望んだ答えが見付かるかもしれませんよ。--ゆきち 2006年9月7日 (木) 11:56 (UTC)

ゆきちさん、私はあなたに何か質問しているわけではないですね。そのような他者の言葉を借りて何か主張しようとするポーズについては、「虎の威をかる狐」という言葉をだまされたと思って検索してみてください。あなたがやるべきことは、そのような卑劣な手段を繰り返すことではなくて、堂々と自分の言葉で語り議論に参加することです。楽なんでしょうがこんなところで数行の捨て台詞を繰り返す暇があるのならば、ちょっとでも本論に参加して、自分の言葉で自分の考えを述べてみてはどうですか?--FXST 2006年9月7日 (木) 19:41 (UTC)

「虎の威をかる狐」はWikipediaとは関係ありませんが、「ignore all rules」は、Wikipediaと関係があります。これは、Wikipedia英語版の公式方針だからです。要するに、いくら理想を掲げても、この一言でひっくりかえってしまう、ということがありうるのです。別に、これは、荒しを推奨するのではなく、要するに、「いたずらにルールを厳しくするのではなくて、その場その場現実的に対処する方が有効だ」ということです。なので、ここで僕がFXSTさんに言えるのは、「がんばりすぎないでね」ということです。--ゆきち 2006年9月7日 (木) 22:56 (UTC)

虎の威をかる狐はあなたに関係あるのですよ。

運用方法の問題である、というのは、私は注意して聞くことにしています。このフレーズはとてもウィキペディアの議論においてとてもよく見かけます。その当人の主張の免罪符としてその根本のルールやガイドラインを利用するくせに、そこに疑問がつくと、運用方法の問題であり、免罪符自体はそのままでいい、というロジックでよく悪用されるからです。しっかり悪い文面は悪い文面として認識し対処しなければいけない。それを運用方法なんとかといわれれば当然腰砕けになりますね。その発言をするひとにとってはまさにそこが狙いなんでしょうが。

このラインでまた新しく出てきたのが、「ignore all rules」です。ルールについてなんか議論していると、ルールは無視してもよいというルールもあるのですよ、とか言い出す。まったく始末に終えません。

「がんばりすぎないでね」ではなくて、単に上で述べたように腰砕けにしたいからそんなにあなたは一生懸命なんでしょう。違いますか? --FXST 2006年9月8日 (金) 06:47 (UTC)

あとひとつ。このカット&ペーストは、Wikipedia:著作権#ウィキペディアにおけるカット・アンド・ペーストを果たしていますか? GFDLを理解したうえでカット&ペーストしていますか? --ゆきち 2006年9月8日 (金) 06:59 (UTC)

対話の移動なので問題ありません。あなたは自分の著作が侵害されたと思っているのですか? 同一人物と話す場所を拡散する馬鹿なことをやめたまでです。--FXST 2006年9月8日 (金) 07:09 (UTC)

「対話の移動」?? この文書もGFDLなのですが... --ゆきち 2006年9月8日 (金) 07:13 (UTC)

いい加減にGFDL、GFDLと言葉遊びはやめなさい。 このような大局を見失ったナンセンスな議論のために、つまりあなたのような人のために、ignore all rulesなんですよ。 ほんとうに馬鹿とはさみは使いようなんですよ。「その場その場現実的に対処する方が有効だ」ということです。あなたは自分の会話をここにまとめられたことに何か権利の侵害を感じますか?以降この瑣末でナンセンスなルールごっこよりも上の本質の議論に注力していただきたい。 --FXST 2006年9月8日 (金) 07:19 (UTC)

暫定的な修正[編集]

とりあえず、問題点として指摘されている部分の中で修正しやすいものだけ作業しました。また、この文書と削除の方針が直接関係ないことを明示しました。本格的な修正は議論が再開されるのを待つ必要がありますよね。以下箇条書きで簡単に

  • 現在の訳文が変なのは、訳する作業をした私の言語能力のなさにあります。ごめんなさい。
  • そもそも、この文書は「公的な方針」となっていますが、Wikipedia:削除の方針Wikipedia:投稿ブロックの方針とは違い日本語版で本格的な議論がされていません。ですから改善の余地はたくさんあります。私の個人的な意見としては、日本語版として十分に議論されていないもの(かつ異論がありそうなもの)を「公的な方針」としてしまうのは問題だと思ってます。議論を経てから「公的な方針」にすべきでしょう。
  • 議論の途中ででてきた「Wikipedia:ウィキペディアとは何か」という文書も昔あったはずなのですが、見あたりませんね(記憶違い?)。英語版もWikipedia:What Wikipedia isはen:Wikipedia:Wikipedia is an encyclopediaへのリダイレクトになってしまって日本語版へのリンクがたどれません。
  • 一度、サブページや利用者ページで試案を作ってみてはどうでしょうか。編集しながら議論するのがWiki的です。

私がウィキペディアに参加することは約束違反なので、これにて撤退しますが、議論の活性化の一助になれば幸いです。この文書に限らずプロジェクト関連文書は放置されがちであるので、他のものも皆様の手で改善していただけたら嬉しいことはありません。最後にFXSTさんの早期の復帰を期待しています。GFDLは「ウィキペディアは百科事典である」「ウィキペディアの問題は合意形成で解決する」と並ぶウィキペディアの核となるルールです。その点を理解していただけたら幸いです。 --Michey 2006年9月12日 (火) 10:03 (UTC)