ノート:あいちトリエンナーレ

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分割提案[編集]

例の問題により連日報道されており、2019年開催分の部分が大きくなってきましたのであいちトリエンナーレ2019への分割を提案します。--切干大根会話) 2019年8月5日 (月) 21:58 (UTC)分割記事名修正--切干大根会話2019年8月8日 (木) 09:46 (UTC)[返信]

表現の不自由展にして2015年からひと続きにした方がいいんじゃないですかね。あいちトリエンナーレ2019の単位で分割すると他の美術展示やパフォーミングアートとかとバランスが取りづらいように思います。赤瀬川原平の方は冒頭でotherusesすればいいかと。--Focaccia会話) 2019年8月6日 (火) 20:17 (UTC)(誤字修正)--Focaccia会話2019年8月6日 (火) 20:22 (UTC)[返信]
私も表現の不自由展の名前にした方がいいと思います。調べる人は「表現の不自由展」の名前で調べるでしょうし・・・--Y.iwamoto-0810会話2019年8月7日 (水) 00:11 (UTC)[返信]
「トリエンナーレ2019」というご提案ですが、この2019年のイベントが「あいち」なしのイタリア語のみで呼ばれている実績があるのでしょうか? 「トリエンナーレ」(三年おきの祭)としては、元祖、かどうかは分かりませんが、ミラノ・トリエンナーレ が有名ですし、「トリエンナーレ」は国内外にいくつもあります。日本国内でも、「瀬戸内トリエンナーレ」[1](Setouchi Triennale 2019)[2]とも呼ばれるイベントも2019年に開催されます。表現の不自由展については、過去の『表現の不自由展』を受けてあいちトリエンナーレ内で『表現の不自由展・その後』が開催された、という流れですので、分割だけではなく過去の展覧会についてそれなりの加筆がなければ、記事として成立しないと思います。(2015年の部分が加筆されればいいのですが。) --2001:240:2415:B6C4:6169:1D2E:D1BB:7010 2019年8月8日 (木) 09:45 (UTC)[返信]
すみません、あいちトリエンナーレ2019です。脱字ミスです。修正しました。--切干大根会話2019年8月8日 (木) 09:46 (UTC)[返信]
報告とりあえず、リダイレクトの要件「通称・俗称」に基づき、「表現の不自由展」をこのページの「あいちトリエンナーレ2019」にリダイレクトさせました。-Y.iwamoto-0810会話2019年8月9日 (金) 10:24 (UTC)[返信]

愛知トリエンナーレ”表現の不自由展”問題の本質がWIKI内で十分説明されていないこと自体が問題。[編集]

「愛知トリエンナーレ騒動の本質とその問題点」


表現の不自由とは自由な表現が阻まれたことを指しており、これには正当な排除と不当な排除がある。

すなわち法及び公共の福祉良俗に反するものに対して不適切な場においては正当な排除が有り得ることと、その逆で法及び公共の福祉良俗に反しないものへの不当な排除、または不適切には当たらない場での法及び公共の福祉良俗に反する表現の不当な排除である。

表現の不自由展と銘打ってあるからにはこれらのすべてが含まれることが明らかであり、その意図はどこにあるかもWIKI内で十分に明示されていない。

当たり前に考えると、表現に不自由が生じた理由にまでさかのぼって物を考えることを提議しているととらえるべきであることは明白だ。

人間の表現には色があり政治色もありうる。表現の不自由展と銘打ってあるからには不適切表現のある作品が展示されていることは明白であり、表現の不自由展と銘打った展示会の開催を認めている時点でその会場内においては法及び公共の福祉良俗に反するものの展示を行ってはいけないとは出来ない。

慰安婦少女像が慰安婦の実像からかけ離れた一部の特殊な例を提示している場合、または全くの虚偽に基づくプロパガンダを意図して製作したものであった場合でも、表現の不自由展と銘打った特殊な展示会の会場内において、その他の公共の場で認められるべき不適切表現の排除の法則は適用の正当性を見出せない。

一例をあげると美術館にヌードの絵の展示があるのはそこにそのようなモノがあるとの前提があるので閉じられた公共の場にあたり、一般的な開かれた公共の場での猥褻物展示を取り締まる法則が適用できないためである。

この様に提示物そのものの色(政治色)を一般的でない展示会の場において、中立性の欠如を理由に排除することはできない。 中立性を求めているのが運営主体による政治色であったとしても、表現の不自由があると認められた作品を展示する場において運営主体による作品排除は正当化できない。


表現の不自由展の最大の問題は、日本の多くの国民が表現の不自由展における展示の前提を完全に無視し、さらに感情のままに憎悪しプロパガンダ作品展示に対する無分別な非難と攻撃を行い、中央行政・文部省が正当性のない一部国民の過激行動と世論を基に安全性の問題を取り上げ、不当に表現の自由を侵害しようとしたことにある。 また立法の側の政治家からも慰安婦像等の政治色及び作品背景の虚偽性や不当性を理由に表現の自由を侵害しようとしたことにある。

表現の不自由展という試み事態は情報の提供により物事を考えてもらうというメディアとしての本質の王道を行くものであり、その試みつまり表現の不自由における正当な表現排除と不当な表現排除の両面性を無視し、一面性のみを取り上げ、感情や世論を基に民主主義の礎足る表現の自由を踏みにじろうとしたことは大きな問題である。

この問題に至った要因は日本人の表現の自由の法的精神への理解の不足・物事の構造を理解しない盲目性、また日本社会の自己都合や世論感情に基づく指向をもって力学的対処を行う世間中心感覚である。

多勢の共通認識である常識が、法の精神などの良識を駆逐してしまう事象が表れている。

愛知トリエンナーレの表現の不自由展という特殊な場においては認められるべき展示物やその実行委員及び愛知県知事に問題があったわけではなく、多くの日本国民と一部メディア・行政・立法の側に民主主義社会の法的理念の理解不足、民主主義社会に必要とされる素養の低さが認められることこそが問題の本質である。 --Evilpandaa会話2022年1月4日 (火) 10:09 (UTC)[返信]