ノート:イグノーベル賞

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ドクター中松の受賞理由[編集]

Ig Nobel公式サイトの受賞理由の説明[1]では「34年間に渡って…」となっていましたので、そのように修正しました。受賞直後の各種報道では「35年間」になっていたような気がします。どこで1年ずれたんでしょう? --Daddy t3 2006年3月4日 (土) 11:01 (UTC)[返信]

修正の修正。元の英文は"during a period of 34 years"。「34年間に渡って」ではなく「34年間」に再修正。「34年間」ということは「35年に渡って」かもしれないが、そうではないかもしれないだろう。--Daddy t3 2006年3月4日 (土) 22:37 (UTC)[返信]

日本人受賞者について(1)[編集]

日本人のみ特筆しているのは、偏りがあると思う。受賞者は全て別項に譲るか、全てをこの項へまとめるかすべき。kaz 2005年10月10日 (月) 16:04 (UTC)[返信]

日本語版だから日本人に注目してもいいでしょう。61.210.161.11 2005年10月14日 (金) 01:43 (UTC)[返信]
日本語版は、日本版ではありません。kaz 2005年10月15日 (土) 03:56 (UTC)[返信]
事実上同じでしょう。日本国籍以外で日本語版をみるのは、日本在住の外国人と海外在住の日系人だけです。61.210.161.11 2005年10月15日 (土) 06:30 (UTC)[返信]
Wikipediaの基本的な方針をもう一度参照なさることをおすすめします。kaz 2005年10月15日 (土) 07:20 (UTC)[返信]

なるほど、もう少し分かりやすく言わなければならないようですね。基本方針の中に「読者に役立つ記事を書く(読者のことを考慮して書く)」というのがあります。日本語版を読む人にとって日本人の受賞者一覧が作られるのは便利で役立つことだと思います。少なくとも、消す必要は無いでしょう。 次に「偏った観点となりがちな表現を避ける」ですが、日本人ばかりがもらっている印象を与えるなら問題ですが、2005年の受賞者一覧を示した上ですから、そうでないことは明らかです。 61.210.161.11 2005年10月18日 (火) 12:48 (UTC)[返信]

非常に気になるの対応をされているようなので、確認させていただきます。多くの記事で「日本におけるxx」といった記述や見出し項目が見受けられますが、kazさんは消してしまおうとお考え、もしくは実際に消去をしているのでしょうか?。(必要なら、このような記事の例示をすることは出来ますが、現状では例示は控えます)
IPユーザーさんがご指摘されている通り、日本人の受賞者一覧が入っていても「偏った観点となりがちな表現を避ける」を十分配慮された書きぶりになっていたかに思います。
Wikipediaに各国語版が存在するのは、それぞれの言語話者による多様な視点を許容しているからだと思います。そのような観点から「日本人の受賞者一覧」が入ることは十分アリだと思っています。ご賢察のほどよろしくお願いします。Azu 2005年10月18日 (火) 13:44 (UTC)[返信]
「読者に役立つ記事を書く」については、私も賛成です。おそらく、読者に役立つということの理解に違いがあると思います。まず「読者に役立つ記事を書く」以前に、中立性は守られなければなりません。日本語版の読者のほとんどが日本人だから、日本人の視点中心の記述のほうが読者に役に立つとの考えは、一見すると説得力があるように思えます。しかしこれではWikipediaの大前提の一つである中立性は守られません。その点をよく考える必要があります。
それに私は日本人に関する記述を消してしまえ、と言っているのではありません。既に日本人以外の記述も別記事にあるのですから、それらと一緒に扱うほうが中立性にかなうと言っているだけです。日本語版には日本人以外の読者もいるはずです。彼らが少数だから、彼らを無視していいという訳ではありません。
また、記事には、日本は驚くべきことにイグノーベル賞大国である、といった主旨の文がありましたが、これはずいぶんと日本人が多くもらっている印象を与える文ですが、実際に何人中何人の割合で日本人が受賞しているなど、その根拠となる記述はなく、偏った観点となりがちなものでした。
また、他の記事における「日本におけるxx」という記述があった場合、どう考えるかですが、これはケースバイケースとしかいいようがありません。私は日本POVを日本語版Wikipediaの品質上の最大の問題として、考えていますが、日本POVに関しては折角の記述を消してしまう方向での活動は少なくともしていません。kaz 2005年10月18日 (火) 15:49 (UTC)[返信]
「読者に役立つということの理解に違い」は別に無いでしょう。私や、Azu氏は中立性について「配慮された書きぶりになっている」と言っているのです。しかし、この部分の見解は人によって違うでしょうから、もっと多人数の意見を聞かなければなりません。
それとは別に、kaz氏に質問です。
  1. 日本人以外の読者を無視しているわけではありません。「日本人以外の読者」は何のために日本語版を読むのでしょう。彼らは日本に(好き嫌いに関わらず)興味を持っていて、日本に関する詳細な記述を読みたいから、日本語版を読むのではないでしょうか?従って、日本に関することに、文が多く割かれていることは、彼らにとってむしろ好ましいことだと思いませんか?
  2. Azu氏の質問にお答えになっていませんが、「日本におけるxx」といった記述や見出し項目を実際に既に消去しているのでしょうか?これが初めてなのでしょうか?
  3. 「日本は驚くべきことにイグノーベル賞大国である」という表現等が偏っていて(もちろん、ユーモアで書かれていると思いますが、事典にユーモアは必要ないとおっしゃるでしょうね)、日本人一覧そのものはOK(ではなく我慢できるですか)ということですね? 従って、その表現が変われば日本人一覧が復活しても消さないということですね?
  4. 平凡社『世界大百科事典』でもノーベル賞の日本人一覧があるのですが、この事典も偏っていて問題だとお考えでしょうか?
61.210.161.11 2005年10月19日 (水) 15:54 (UTC)[返信]

Kaz氏の回答が無いようです。ご理解いただいたと判断して、日本人の一覧表は復活します。表現は少し変更しますが、これでも偏っていると判断されるならば、偏った表現のみ変更されるようお願いします。

前回のような質問をしたのは、「中立的観点」と「利便」の違いを理解してもらいたかったからです。ちゃんとした事典は、何版であれ中立的観点で書かれています。Kaz氏は語版という言葉に、特別な意味を与えているようですが、これは多くの使用者がいる言語において英語版と英国版、スペイン語版とスペイン版などを混乱しないように使い分けているだけです。どの語版にしろ中立的観点に立ち、かつ、その語版利用者の利便を考慮すべきです。 61.210.161.11 2005年10月26日 (水) 14:35 (UTC)[返信]

とりあえず、1~4に返答します。
  1. 好ましいかもしれませんが、本件とは本質的に関係ありません。日本に関する記述を読みたいということと、日本に関する豊富な記述とともに日本以外に関する記述を同記事中に公平に扱うということは何ら矛盾しないことですから。
  2. 消去してません。今回は、日本以外の記述との統合準備のために一時的に非表示にしただけです。
  3. 日本人の一覧はあることに問題はありませんが、日本人以外を別記事に追いやっているのは問題です。
  4. 平凡社『世界大百科事典』は、Wikipediaと同じ方針で作られている訳ではないと思うので、Wikipediaの「中立的な観点」から見たら明らかに偏っているんじゃないでしょうか。詳しく見たことはないので推測ですが。kaz 2005年10月29日 (土) 03:41 (UTC)[返信]

自分の発言に責任を負っていないように感じるので、IPでの議論は極力避けて欲しい。--空渡り 2006年2月10日 (金) 17:19 (UTC)[返信]

見出し目次の前に議論文が出てしまっていますので、見出しをつけて整理させていただきます。他の見出しでも同じ議論がありますので、時系列を鑑み、この位置にしました。--Huugo 2006年9月12日 (火) 15:37 (UTC)[返信]

日本人受賞者について(2)[編集]

先にも出ていますが、日本人受賞者だけがピックアップされていることは中立的でないと思います。全受賞者を並べるか、一切の受賞者を並べない、もしくは特に明記すべき功績がある人物だけを国籍等関係無しに並べる必要があると思います。 反論がなければ当該部分を削除します。--毛が生えた程度 2006年3月10日 (金) 15:03 (UTC)[返信]

日本語を解する多くの読者にとっては有用な内容だと思います。削除ではなく、「イグノーベル賞日本人受賞者の一覧」などとして記事を分割することを提案します。--Daddy t3 2006年3月11日 (土) 10:24 (UTC)[返信]
そうですね。その方向に、賛成します。--毛が生えた程度 2006年3月13日 (月) 11:58 (UTC)[返信]
反論がないので移動しました。--毛が生えた程度 2006年3月17日 (金) 06:43 (UTC)[返信]

久しぶりに本記事を見て愕然としました。受賞者のリスト(日本人の受賞者のリスト)が消えていますが、これによって本記事のエッセンスが大きく損なわれているように感じました。この記事の文章だけをみて、一覧記事に飛びたくなるだけの興味を喚起される方はあまり居ないんじゃないでしょうか。このため一覧記事があるから、本記事の一覧を消しても良いとはならないと思います。

重複していることが必ずしも削除理由にはならないと思います。有用性・可読性の観点から判断されるべきべきだ思います。この観点から議論すると、どうなのでしょうか。

反論がないからという理由で消されていますが、上記でなされた議論については一顧だにされなかったのでしょうか。一度議論がなされて結論が出ているならば、その議論に多少なりとも論理的反駁を加えてから、何らかの対応を行うべきではないですか。他の書き手の方から、反論を1週間待ってからアクションを取るようにいわれれ、削除対応をされたのだとは思いますが、「1週間待つ」というのは最低限必要な対応に過ぎないのであって、1週間待って反論がなければ何をしても良いというわけではないと思います。例えばその行動について

  • 過去にどのような受け止め方をされたのか
  • そのような対応がコミュニティに受け入れられているものか
  • そのような対応に(読者にとっての)有用性はあるのか

といった観点を踏まえて、事前の行動をすべきだと思います。今回の削除に関しては、以前の状態に戻すことを「強く」希望します。Azu 2006年3月17日 (金) 09:21 (UTC)[返信]

お答えします。

  • 他の賞でも日本人の一覧が問題視されており、実際に分割や削除が行なわれている。この賞に限って残すというのは不自然。
  • 中立的な立場の人間からは大いに受けいられる。
  • 削除ではなく分割です。情報は一切奪われていません。また、日本人だけをリストアップするより、部門別に何人か例を出しながら解説を進めていったほうが有用であると思う。

過去の議論と言っても最終的にはうやむやになっていて、自信満々に「これが結論だ」と言えるような代物ではないと思います。貴方の都合のいいように相手がフェードアウトしたからと言って、これが総意とは限りません。--毛が生えた程度 2006年3月17日 (金) 10:31 (UTC)[返信]

いやぁ、見事なまでに面白くもなんともない記事に成り下がりましたな。stubにしましょう。向日葵三十郎 2006年3月17日 (金) 17:08 (UTC)[返信]

私の理解力が低いだけなのか、論理展開についていけないところがあるのですが、少しだけコメントします。「最終的にはうやむやになっていて」、「これが総意とは限りません」がなぜ「自分の考えを押し通して構わない」になるのでしょうか。以前の議論でちゃんとした決着がついてないと思われるなら、なおさら、ちゃんとしたコンセンサス形成が必要になる気がします。「この賞に限って残すというのは不自然」、「中立的な立場の人間からは...」というのは見事なまでに原因と結果が逆転した論法のようにみえます。「情報は一切奪われていません」については、論理的にどうコメントしてよいのか困惑していますが、向日葵三十郎 さんの「面白くもなんともない記事」というのは非常に的を得た発言に思われます。Azu 2006年3月17日 (金) 23:07 (UTC)[返信]
前回、議論がうやむやになったということはありません。IP氏は議論を放棄したのですし、Azu氏は一度きりの言いっぱなしでした。議論の放棄や、言いっぱなしの意見は、相手の意見の消極的な受け入れとみなすべきで、一応の結論は出ていたといえます。kaz 2006年3月17日 (金) 23:58 (UTC)[返信]
そもそも本文に分割提案のテンプレートも貼らずにいきなり分割するという行為を繰り返しているのはWikipediaに対するテロも同然の行為だと考えますが?向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 00:35 (UTC)[返信]
テロの意味を理解せずに、なんだか分からないけど悪いものの象徴、のように言葉を利用しないでください。第一、分割するのにテンプレートを貼らなければいけないなんていうことはありません。kaz 2006年3月18日 (土) 01:49 (UTC)[返信]

>第一、分割するのにテンプレートを貼らなければいけないなんていうことはありませんkaz 2006年3月18日 (土) 01:49 (UTC)[返信]
やれやれ、ここでも引用しなくちゃダメか。


Wikipedia:記事の分割と統合より

分割すべきでない場合
  • 分割した結果、いずれか一方または双方がスタブになる場合
分割する前に
  • 分割すべき場合にあてはまる記事を見つけたら、当該記事の一番上に以下のテンプレートを書き込みます。
{{記事分割|分割先のページ名}}
例えば、と言う項目の分割先のページ名がの場合、以下のように記載します。
{{記事分割|夜}}

記事の書き方をもう一度ごらんになられたほうがよろしいのではありませんか?向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 04:04 (UTC)[返信]

3rvで保護に追い込んだ向日葵三十郎さんのほうがよっぽど破壊的であると思いますが。--毛が生えた程度 2006年3月18日 (土) 03:47 (UTC)[返信]
まあ、上のWikipedia:記事の分割と統合でもよんでくださいな向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 04:04 (UTC)[返信]
分割する前からスタブだから、「分割した結果、スタブになる場合」には、該当しませんね。kaz 2006年3月18日 (土) 09:05 (UTC)[返信]
そういうを一般的に『屁理屈』といいます。もともとテンプレートを貼る必要がないという、Wikipediaのルールを無視した話から出発していますし。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 10:09 (UTC)[返信]

最新年度受賞者について[編集]

2006年3月17日 (金) 06:45 の版で最新年度である2005年度の受賞者も消されましたが、これではイグノーベル賞がどういったものかわかりにくくなります。各部門賞の例として、最新年度の受賞例は「イグノーベル賞」の中で提示しておいたほうが良いと思います。2006年3月11日 (土) 15:08の版にあった「2005年の受賞者」のセクション復帰を希望します。--miya 2006年3月17日 (金) 07:01 (UTC)[返信]

日本人の受賞一覧に関しては、POVの観点から分割を提案しましたが、最新年度受賞者紹介についての削除は賛成しかねます。スタブ以下と言いましょうか、大変つまらない記事になりはててしまい、非常に悲しいです。最新年度受賞者紹介の復活を希望します。編集合戦は望みませんのでここ(ノート)で希望を述べました。--Daddy t3 2006年3月17日 (金) 14:11 (UTC)[返信]
最新年度のみ載せるのは、明らかに、Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないとは矛盾しているので、適当ではありません。kaz 2006年3月17日 (金) 15:59 (UTC)[返信]
「最新年度」として載せるのは不適当でしょうが、「2005年度」と表記して載せるのは問題ないと思います。--Mixtures 2006年3月17日 (金) 16:10 (UTC)[返信]
「2005年度」だけ載せるのなら同じことです。kaz 2006年3月17日 (金) 16:22 (UTC)[返信]
同じとは考えにくいのですが。Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないの要旨は,数年後に理解できないような文を作るなということでは。リンク先の「○年現在」となんら変わらないように思います。例として「2005年度」を挙げること自体は不適切なものではないと考えます。--Mixtures 2006年3月17日 (金) 16:34 (UTC)[返信]
例えば、今、「2000年度」の結果だけ載せてあったら、あなたはどう思うか?考えてみてください。kaz 2006年3月17日 (金) 23:47 (UTC)[返信]
2000年に「これこれこういう理由で受け取った人がいたのだな」と思うでしょうね。そして、その賞に対して理解度を深めることになったでしょう。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 00:23 (UTC)[返信]
はぐらかすのは止めていただきたい。質問は2000年の結果が載っていたらどう思うかではなく、2000年の結果のみが載っていたらどう思うか、ということです。それで適切だとあなたは思うのですか?kaz 2006年3月18日 (土) 01:25 (UTC)[返信]
私は適切だと思います。というより不適切となる理由がないように思います。分割そのものに疑問を持ってたりはしますが・・・。--Mixtures 2006年3月18日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
無論のこと、適切です。なにが問題なのか、あなたがそれでなにかを提起したつもりになっているのか、それがなになのかすら理解できません。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 01:36 (UTC)[返信]
理由もなく、ただ適切だと思いますでは分かりません。理由を述べていただけませんか?kaz 2006年3月18日 (土) 01:51 (UTC)[返信]
不適切となる理由が無いと思うからです。5年後には記事の内容が古くなりますが、表現が古くなる訳ではありません。従ってWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに反している訳ではありません。これを分割するなら、極端な話「○○年度の日本の人口は○人だ」という表記すら日本の人口の変遷一覧として別の場所に移すことにもなりかねません。べきだということになります。訂正--Mixtures 2006年3月18日 (土) 02:07 (UTC)[返信]
不適切だと考える理由を教えてもらえませんか?--Mixtures 2006年3月18日 (土) 02:04 (UTC)[返信]
確かにWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないには反していませんでした。これを根拠とするのは誤解でしたので、お詫びします。しかし、やはり、最近のもののみを載せるのは、やはり、数年後には記事が古くなってしまうことから、Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないで言われている「六ヶ月後、五年後、十年後、五十年後に読む人のことを考えてみて下さい。」と同じ趣旨からして、適切ではないと思います。kaz 2006年3月18日 (土) 02:19 (UTC)[返信]
根拠がないものに「思います」言われても、「思いません」としか返しようがありません。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 02:24 (UTC)[返信]
その文章が即例示を避けるべきだということには繋がらないと思います。50年後の読者が、「2005年度の受賞者」という例がある事によって「イグノーベル賞とは何か」という疑問に対する理解が進むなら、(そしてそちらの方が理解が進むと思うので)私は2005年度の例をつけておく事に賛成します。--Mixtures 2006年3月18日 (土) 02:29 (UTC)[返信]
50年後に、2005年の受賞者のみが書かれていたとしたら、「イグノーベル賞とは何か」という疑問に対する適切な理解にはつながらないでしょうね。50年以上の歴史があるものに対して、ある1年だけを取り出すナンセンスさを理解していただきたい。それは2006年の今だとしても同じことです。kaz 2006年3月18日 (土) 03:02 (UTC)[返信]
何年のものであろうとも、ないよりはあるほうが賞の異議や意味を語ることはできますね。それがいつであろうとも同じことです。もう、根拠として持ち出してきたそもそものものが崩壊して論旨が入れ替わってるんだから、白旗上げたら?向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 03:13 (UTC)[返信]
「ないよりはまし」にはなりません。50年、続いていれば、賞の性質にも変化が現れます。ある年の選考が、他の年の選考と趣を変えることや、選考が批判を浴びることだってあるでしょう。ある年だけを取り出すことは、かえってその賞の適切な理解の妨げになる場合の方が多いです。kaz 2006年3月18日 (土) 08:54 (UTC)[返信]
各年度からピックアップするとすると、その記事の選考が難しくなるのでは。○年度と限定しておけばすんなり決まりますが、限定しないとなるとそうもいかないような気がします。増えすぎると収拾がつかなくなりますし(現状では心配ないでしょうが)、必ずしもプラスの意味で与えられる賞という訳でもないので。--Mixtures 2006年3月18日 (土) 09:36 (UTC)[返信]
○年度と限定、したとしても、この賞を説明するのに適切ではなければ、結局、すんなりは決まりません。増えすぎると収拾がつかない、というのはまさに今のように延々とリストが書かれている状態のことですね。kaz 2006年3月18日 (土) 11:03 (UTC)[返信]

賞の性質に変化が現れたらその時々に変更すれば言いだけの話ですが? どちらにせよNPOVを盾にしたWikipedia破壊工作に利はありません。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 10:22 (UTC)[返信]

Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないより。
最近の出来事のような定期的に再構成されるページを記述しているのでなければ、すぐに古くなる言葉は使わないで下さい。「最近」、「現代では」、「今は考えられている」、「もうすぐ~になるだろう」、「60年代には」のような語句は避けて下さい。代わりに「2001年10月現在」、「1960年代には」のような語句を用いて下さい。多くの場合、こちらの表現の方が正確に内容が伝わるでしょう。
あなたの言葉を、六ヶ月後、五年後、十年後、五十年後に読む人のことを考えてみて下さい。その時になっても上記の表現の意味が通るでしょうか?

∴2000年の受賞者を2000年の受賞者と表記してもなんら問題なし。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 02:14 (UTC)[返信]

そもそも、"2005年度"には何か深い理由があるのですか?それが1年後、10年後にも皆が納得できる特別な理由なのですか?それが疑問に思って仕方がありません。--毛が生えた程度 2006年3月18日 (土) 03:47 (UTC)[返信]

誰もが納得できる特別な理由ですか? 『Wikipedia:編集方針』ですかね?

ですから、何が何でも、情報は保存するよう努めて下さい。記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにして下さい。

向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 04:20 (UTC)[返信]

該当してます。理由はイグノーベル賞受賞者の一覧との重複。
ここで述べることではないと思いますが、あなたは少々感情的になりすぎています。もう少し、落ち着いてください。--毛が生えた程度 2006年3月18日 (土) 04:26 (UTC)[返信]
非常に残念なことですが、『Wikipedia:編集方針』でいう重複は同一記事内での重複で、異なる記事間では重複があっても許容されています。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 04:35 (UTC)[返信]
「文章を記事内で移動、あるいは、他の記事(既存、新規を問わない)に移動する 」とあります。kaz 2006年3月18日 (土) 08:58 (UTC)[返信]
ええ、除去する代わりにできることとしてですね。いい加減、『屁理屈』はやめてルールを守りませんか?向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 10:11 (UTC)[返信]

ところで、2006年の受賞者が、アメリカ東部時間で10月5日午後7時半より開始されます。まもなく公式サイトにも2006年の受賞者とその理由が掲載されます。できれば発表されたあとで(時間はかかりますが)翻訳し、現在載っている2005年受賞者と置き換えたいのですがどうでしょうか。上の議論であったように、受賞理由の例として今後ずっと2005年受賞者を掲載したままでも構いませんが、手直しできる人がいる限り新鮮な内容に手直しした方が良いと思います。Nopira 2006年10月6日 (金) 02:31 (UTC)[返信]

保護解除ありがとうございました。2006年にアップデートし2005年は削除します。Nopira 2006年10月9日 (月) 03:06 (UTC)[返信]

日本人受賞者の一覧復活について[編集]

再度記事を見直してみましたが、現在の記事が面白くもなんともないスタブ以下の記事になっていることは同意していただけると思います。読み物以下の存在と成り果ててしまいました。これは一途に具体的な受賞事例がないことに起因しているのは言うまでもないでしょう。

その中でも日本人受賞者の一覧は日本人に理解できる面白さを含んでおり、イグノーベル賞の持つ性質を理解するのに役立っていたものを削除しているからになりません。気象庁のなまずが地震を起こしたかどうかの調査、およびその受賞取り消しなど、非常にこの賞の性質そのものを表しているにもかかわらず、なにも考えていない荒らしも同然といえる画一的な削除で記事のクオリティ自体を下げることに成功しています。

受賞記事一覧の復活を提案します。賛成、反対の趨勢が決まるまで現状復帰として2006年3月9日 (木) 14:23 の版にrevertさせていただきます。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 00:24 (UTC)[返信]

どうしてこんな状況になっているのか理解できません。理解の助けとなるような受賞例を日本人に限定せずピックアップして載せればよいだけではないでしょうか。 -- NiKe 2006年3月18日 (土) 00:31 (UTC)[返信]
百科事典の記事は、必ずしも「面白い」必要はありません。興味を引くように書いてあるのは望ましいですが、中立的な観点よりも優先すべきものではありませんし、ニュース的なその時の興味を引くだけのものであってもいけません。kaz 2006年3月18日 (土) 01:29 (UTC)[返信]
趨勢・方向性が決まるまでリバートします。上記のように反対している人間も多く、議論は尽きていません。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 01:32 (UTC)[返信]
「おもしろい」や「おもしろくない」というのは貴方の個人的な観点でしょう。それで中立性が大きく失われるというのは、ウィキペディアでは好ましくありません。中立的な観点を保ったままおもしろくする努力をしてください。3rvで保護というのは誰も"面白く"思いません。--毛が生えた程度 2006年3月18日 (土) 03:47 (UTC)[返信]

あらー、ノートでの発言を消しちゃいましたねぇ。
再録。

Wikipedia:中立的な観点より

アメリカ中心主義への批判
ウィキペディア英語版はアメリカ中心主義的な観点をとっているように見えます。これは中立的な観点のポリシーと矛盾しませんか?
そうです。確かに矛盾しています。そしてウィキペディアにはその点を擁護する人はいません。英語版においてアメリカ合衆国の観点からのみ書かれた記事があることは、単に多くのアメリカ人がプロジェクトに参加していることの反映です。それはひいては、英語版のプロジェクトが英語を使って進められており、英語を使うアメリカ人のインターネットユーザーが非常に多いことの反映でしかありません。
これは継続的な問題で、多くのアメリカ人以外の人々(多くの人々がいます)の積極的な参加によって修正されうるものです。

がたがた言う前に追記しろってことですな。向日葵三十郎 2006年3月18日 (土) 03:38 (UTC)[返信]

向日葵三十郎氏の屁理屈もいい加減にしたほうがいいとおもいますよ。そんなことだからブロックされるのです。--イエス・キリステ 2006年3月18日 (土) 17:12 (UTC)[返信]
突然しゃしゃり出てきて何を言うんだこのゲロ以下の匂いがプンプンするぜさん。自分も今頃ですが。
つか、複数アカウントを取得する事は一向に構わないのでしょうが、悪行非道を行ったアカウントを使い捨てするように乗り換えるのは、また複数意見に見せかける為に使うのは正直どうかと思いますが。

他の言語版では[編集]

ノート:ノーベル賞にも書かせていただきましたが、他の言語版ではオランダ語版にオランダ人受賞者の一覧があります。ご参考までに。

個人的な意見ですが、日本語版に日本人受賞者の一覧がある事はごく自然な事で、何ら問題ないと思いますよ。ただノーベル賞とは違って、受賞理由の説明があってこそ意味がある(おもしろい)ので、一覧も長くなりがちで、このまま日本人受賞者が増えて行って100人を超えたりしたら、特別おもしろいものだけを掲載する必要があるでしょうね。--Nudité d'Europe 2006年3月25日 (土) 23:41 (UTC)(訂正)2006年3月26日 (日) 19:07 (UTC)[返信]

英語版・イタリア語版・ドイツ語版には、一覧自体がありませんね。また、フランス語版・スペイン語版では母国人の一覧ではなく全部の一覧となっていますね。むしろオランダ語版の方が例外で、母国人の受賞者のみを載せるが一般的とか自然とかいうことはないようです。kaz 2006年3月26日 (日) 02:14 (UTC)[返信]

kaz様、初めまして。普段フランス関係ヌーディズムなどに関わっている者です。「自然」という言い方は主観的で、議論には役に立ちませんよね。訂正致します。

思うに、中立的な観点とは、「論争における様々な立場を公正に説明すること」であって、その言語の主要利用国(日本語なら日本国という事ですが)の受賞者一覧を載せてはいけないというような事ではないと思うんですよ。受賞者は別に「論争における様々な立場」なんかではないですよね。一般的な「中立的」という言葉の意味では、ひょっとしたら特定の国の受賞者だけを扱うのは「中立的」ではないかも知れませんが、ここではあくまでウィキペディアの定義する「中立的」という言葉に従わなければならないでしょう。「これらの用語は一般とはやや異なった意味で使われています。私たちがどのように中立性を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。」とも書かれていますし。ウィキペディアが定義しない「中立的」という言葉が一人歩きするのは混乱を招くばかりでしょう。

もちろん自国民ばかり扱い、他の国民を軽視しているとしたら、それはナショナリズムの現れでしょうが、それは「中立的」とはまた別の問題だと思います。--Nudité d'Europe 2006年3月26日 (日) 19:07 (UTC)(訂正)2006年3月30日 (木) 16:00 (UTC)[返信]

例えば、私は日本語版に参加していますが、日本人じゃありません。だから、自国人の受賞者を載せたいのですが・・・。こう言われたら、Nudité d'Europeさんはどう思うのですか?kaz 2006年3月27日 (月) 07:30 (UTC)[返信]

編集は自由ですから、載せればいいんじゃないでしょうか?(その後どうなるかは別として) でも私はオランダ語ができたとしても、オランダ語版に日本人受賞者一覧を載せようとは思いませんが。--Nudité d'Europe 2006年3月28日 (火) 08:31 (UTC)[返信]

編集させたらいいでしょ。なにか問題でも?向日葵三十郎 2006年3月28日 (火) 22:59 (UTC)[返信]
編集は自由ですからなんていう話ではなく、その後どうなるかという観点を含めたご意見を伺いたいのです。kaz 2006年3月30日 (木) 14:38 (UTC)[返信]
その後はどうとでもなるでしょう。一項目として大きすぎ、読みにくいと判断されたら分割されるかもしれないし、されないかもしれない。で? 向日葵三十郎 2006年3月30日 (木) 14:44 (UTC)[返信]

そうですね、いろんなところでの「中立」に関する議論を見ていると、どうも「中立」と「平等」あるいは「公平」を混同しているのではないかと思えて来ます。あるものだけを特別扱いすると「不平等」「不公平」になるから、全部同じ扱いにしようというように。ウィキペディアの言う「中立」とはそういうものではないと思うんですよ。中立的な観点とは何か?の後半の部分に書いてある事ですが、「複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。」と書いてあります。すべてが平等に、公平に扱われるべきだという事ではないんですよ。日本語使用者にとっては日本人受賞者は統計的には多分一番の関心事でしょうし、他の国の受賞者より特別に扱われる事は決してウィキペディアの「中立」に反する事ではないと思います。

もちろん上に挙げた文の後の方には、「しかし、これは少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。」とも書かれています。他の国の受賞者を無視する事なく別項目に掲載されてあったら、記事中に日本人受賞者のみが掲載されていても問題ないんじゃないでしょうか? --Nudité d'Europe 2006年3月30日 (木) 16:00 (UTC)[返信]

仰っているような、中立的な観点の解釈は、学説など意見の分かれるものの扱いについての、良い説明だと思いますが、この項目での例のように、学説に異論があるという類のものではなく、単なる事実において、特定の観点(日本人の観点)のみにおいて取捨選択をするようなことを認めているものではありません。kaz 2006年3月31日 (金) 14:13 (UTC)[返信]
他の観点からの記述が追加されることで補完されるっていう公式の見解があるのだから、とりあえずの記述としてはなんら問題なし。振り出しに戻る。向日葵三十郎 2006年4月1日 (土) 06:13 (UTC)[返信]

Kaz様、私も振り出しに戻りたいと思いますが、まず何よりWikipedia:中立的な観点にその言語の主要な使用国の受賞者一覧などを特別に掲載しては行けないという決まりがありません。英語版にもそのような記述はないようです(残念ながら、すらすら英語が読める訳ではないので見落としているかも知れませんが)。決まりがない以上、「中立的な観点」についての各人の解釈の違いから、議論が起こるのは当然の事でしょう。

ノート:日本中心にならないようににも書きましたが、英語版がアメリカ中心主義を批判するのは、英語が多くの国の国語、公用語であり、また国際語として世界の多くの人が使用しているという事情があるからであり、私は日本語版は「日本語版であり、日本版でもある」と柔軟に考え、あまり杓子定規にならない方がいいと思っています。意外な事にKazさんはこちらの方にまだお書きになっていないようですが、イグノーベル賞だけに関わる事ではありませんし、議論に参加されてはいかがでしょうか?

私はさらに、ウィキペディアは中立的であるよりもまず百科事典であり、読者の役に立ち、しかも読んでおもしろい(もちろん知的にという事です。冗談がちりばめられているという事ではありません)事が大切だと思います。あまり「中立」が前面に出過ぎると、「中立的な何か」にはなっても百科事典ではなくなってしまうかもしれません。Wikipedia:基本方針とガイドライン#基本方針にある「ウィキペディアは百科事典である。よってそれに相応しい編集を行う。」という言葉を噛みしめてみませんか?--Nudité d'Europe 2006年4月1日 (土) 11:19 (UTC)[返信]

一言申し上げますが、英語版において合衆国中心主義が批判されるのは、「合衆国の読者のみがウィキペディアを見るからではない」という単純な事実に基いており、つまり、たとえある言語版の参加者の大部分が特定の国に限られるとしても、その国を中心的に記述してはならないのは自明です。たとえばこの日本語版において、日本語を使用する凡ての人が日本国にすまい、日本国籍を持つわけではないことに配慮くださいますようお願い申し上げているのが、あの記述であるということをご理解くださいますようお願い申し上げます。この議論に参加しようというのでもないのですが、見逃せない誤解であるように思われましたので一言さしあげました。突然の割込みを御寛恕ください。 Kzhr 2006年4月1日 (土) 11:37 (UTC)[返信]
Nudité d'Europeさんは根本的な点で誤解なさっていると思います。日本語版はあくまで日本語版であって、日本版でもあるということは断じてありません。kaz 2006年4月2日 (日) 02:04 (UTC)[返信]

Nudite d'Europeさんにまったく同感です。私も同じようなことを書こうと思っていましたが、これほどうまくは書けなかっただろうと思います。ただ、「日本語版であり、日本版でもある」や「中立的であるよりもまず百科事典である」は、そこだけ取り出されると誤解されやすい言葉です。

ウィキペディアの唯一の目的は有用な百科事典を作ることであり(「ウィキペディアは百科事典 - これ以外に目的はありません。」)、「中立的であることと同様に百科事典として有用であることが重要」と表現したほうが良いと思います。

そして、百科事典の有用性の上で「読者に役立つ記事を書く(読者のことを考慮して書く)」ことは重要であり、日本に関する情報のが多いことは日本語版の読者にとって役立つことであるとし、中立性には関して「質的な偏り」は、一切許すべきではないが、「量的な偏り」はある程度は許容すべきで、後からの加筆によって修正すべきという方向にもって行きたいと思っています。 Zorac 2006年4月1日 (土) 15:57 (UTC)[返信]

もう、決まりでしょ。禁止されていない以上、日本人受賞者の記述は問題なし。追記ができる人はする。削除は基本として行わない。これがWikipediaの公式方針に則った対応だと考えられます。同意なく削除された場合は、vandalismに対するrevertで対応と。 向日葵三十郎 2006年4月2日 (日) 02:31 (UTC)[返信]

公式方針って、なんのことでしょう。NPOVだとすると、安易でしかも確実でないがために特定の観点に立った記述の削除は「避けるべき」ですが、NPOV以外だとすると、そういう方針を私は知らないのですが、その精神を酌量せよというほどにみておけばよい。NPOVを守るのにも、公式なんてないのだから、あたかもどんな場合でもあてはまるような公式があるような書き方には感心できません。
さて、「日本人の受賞者」として書くことに反感があるとしたら、日本語版ウィキペディアのなかで、おそらくの支配的多数派としての日本国在住者の日本人、或は単に日本人が、特定の属地のないウィキペディアにあって「自分の仲間を顕彰している」ようにみえるからでしょう。そういうのならば、場所を取り違えているうえにみっともないので、私ならばそのような部分は削除するか、せめてみっともないのを改善する編輯を施すことでしょう。
たんにデータが取れなくて、日本或は日本人しか記述することができなかったというのならば、それは加筆でその偏向を補正できるから「仕方がなかった」と弁解しえるのに、そこから、「日本・日本人だけでよい」となる、或は「日本・日本以外が書けないような状態にする」となるから拙いのです。「行過ぎ」になる程度だとかが議論の要でしょうに、どうにも、「日本人だけを書くこと」という広すぎる問題を論じて、ああでもないこうでもないとやっている議論ばかりではないでしょうか。「ウィキペディアは無属地である」ということは、もう少し意識されたほうがよいのではないか、と思います。 Kzhr 2006年4月2日 (日) 08:06 (UTC)[返信]
この項目に限っていえば、日本以外のリストも既にあります。そのような中で日本人だけを本記事に記載し、それ以外を別記事に隔離するのは偏った観点以外の何者でもありません。選択肢は二つだけです。全ての一覧を本記事に記載するか、全ての一覧を別記事とするか、そのどちらかだけです。kaz 2006年4月2日 (日) 10:02 (UTC)[返信]

少し提案[編集]

Nudité d'Europeです。後から来たのでこれまでの経緯がよく分かっておらず、少し的外れなことを言ってしまったかも知れません。履歴を調べて分かりましたが2005年10月8日 (土) 06:02までは、「日本人の受賞一覧」しか本項目にはなかった[2]のですね。これは関連項目として「イグノーベル賞受賞者の一覧」がリンクされているとは言え、確かに日本に偏っているという印象を受けます。2005年10月9日 (日) 04:02に「2005年の受賞者」が掲載されても[3]、十分にバランスが取れているという感じではないですね。

そこで提案ですが、「イグノーベル賞受賞者の一覧」を本項目に組み入れ、「日本人の受賞一覧」をその下(がいいと思いますが)に掲載してはいかがでしょうか? ページは大きくなりますが、目次があるので不便はないでしょうし(ただし現在の「イグノーベル賞受賞者の一覧」[4]のような索引の方法では目次が出なくなるようですが)、2005年10月8日 (土) 06:02までのように日本人の受賞者一覧だけがあるのは問題があると思いますが、全受賞者を掲載し、さらにその上日本語版利用者の便宜を図って、多くの受賞者の中から日本人受賞者を抜き出して記載することはウィキペディアの「中立性」に反していないと思うのですが、いかがでしょうか?--Nudité d'Europe 2006年4月10日 (月) 08:05 (UTC)[返信]

せっかくの妥協案だろうと思いますが、「イグノーベル賞受賞者の一覧」を本項目に組み入れるのは反対です。理由は単純に長すぎるからで、現在その状態であれば分割提案を出すでしょう。 Zorac 2006年4月13日 (木) 13:04 (UTC)[返信]

他の記事と兼ね合いと中立的な観点について[編集]

一覧が別記事として存在する以上、この記事に一覧(しかもたった1年で更新が必要になる情報や一国の視点でしか記述されていないもの)が果たして必要でしょうか。それに別記事と記述が重複していると、仮に間違いがあった場合両方訂正せねばならず、片方しか訂正されなかった場合矛盾された記述となる可能性があるのです。そういった状況は避けるべきではないでしょうか。--Nutural povin ga teido 2006年10月9日 (月) 04:28 (UTC)[返信]

賛成です。この記事の一覧は削除が妥当と考えます。ところで、上の方の提案から既に半年以上経過しておりますが、異論がひとつもないということで、調整したいと思います。--MT6 2007年8月25日 (土) 11:57 (UTC)[返信]

調整が完了しました。--MT6 2007年8月25日 (土) 11:59 (UTC)[返信]

一覧を戻します。向日葵三十郎 2007年12月2日 (日) 20:23 (UTC) 反対がなかったので戻しました。続いて日本人受賞者を戻すことを提唱します。向日葵三十郎 2007年12月27日 (木) 09:55 (UTC)[返信]

日本人受賞者を、リンクではなく同一記事に含める、という方針なのでしょうか。既に十分な記述があり、これ以上の受賞例は不要な気がします。
本日、初めてこの記事を目にしました。十分な受賞例が記述されており、どのような趣向か伺うことができました。「読み応え」という点からも十分です。しかし、受賞例が少々冗長なようにも感じられました。途中からの議論参加となり心苦しい限りですが、ご考慮願います。--eveningmist 2008年1月9日 (水) 10:59 (UTC)[返信]
日本人受賞者についてですが、別記事のままで良いと思います。--Daddy t3 2008年1月9日 (水) 11:39 (UTC)[返信]