ノート:ウィーン分離派

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

分離派の由来?[編集]

  • ミュンヘンのグループ(1892年)に「分離派」と命名したのは、ゲオルク・ヒルトだという(Georg Hift、1896年に「ユーゲント」を創刊)。 ネーベハイ『クリムト』P65-66
  • ドレスデンのグループも分離派と呼ばれた。『Pan』2-2(1896)
  • マックス・ブルクハルト[1](1854-1912)は『聖なる春』第1号(1898.1)で古代ローマの故事を紹介している。
平民の一部が悪政に反抗して故郷を離れ、長老たちに「第二のローマをつくる」と脅す事件が再三起こった。これを民衆離反(セセッシオ・プレビス Secessio plebis)と呼んだ。
(「聖なる春Ver sacrumの由来)大きな国難が起こった時、民衆は最寄りの春がもたらしたあらゆる生き物を「聖なる春の贈物」として神々に捧げた。聖なる春に生まれた子供たちが成長すると、故郷を去って見知らぬ土地行き、新しい社会をつくった。 ネーベハイ『クリムト』P64-65 (…というのだが、元ネタがよくわからない)

--2016年10月30日 (日) 15:21 (UTC) --2016年11月5日 (土) 16:59 (UTC) --忠太会話2016年11月18日 (金) 14:03 (UTC)[返信]