ノート:チェ・ゲバラ/削除

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関連項目 : Wikipedia:削除の過去ログ

削除依頼 2004年5月[編集]

ノート:チェ・ゲバラ/削除[編集]

履歴を見てみました。

謝辞を追加されたことと、それが白紙化されたことと、2つの問題があるように思いました。

謝辞の追加について:[編集]

主な問題点[編集]

まず、おおまかな話からします。

  • 「謝辞」は、GFDLの文脈では特別な意味を持つ言葉で、一度追加すると、この「セクションは改変したり、除去したりしてはいけない」という拘束性を持つものとなります。扱いが非常に面倒で、例えば改変しただけでも、GFDL違反になり、GFDLによって与えられている許諾が取り消されてしまいます。
  • このように扱いが面倒な要素なので、ウィキペディアでは、謝辞を含む投稿は基本的に受け付けない、ということになっています。そこで、謝辞は削除した方がよいのではないか、ということになります。
    • ちなみに、謝辞を受け付けないという旨は、Wikipedia:著作権に書いてあります。このページの内容は、投稿ボタンを押す際に投稿者が必ず同意するように求められる形になっています。

その他の点[編集]

ですが、もう少し細かい点を考えると、ややこしい部分もあります。

  • まず、謝辞が今回付け加えられたのはノートのページですが、その謝辞の内容からは、明らかに、記事に追加するべき謝辞だったもののように思われます。
  • ウィキペディア日本語版では、ノートと記事とはそれぞれ別々の文書だという風に考えています。それぞれ独立の履歴がついていますし。削除される際などにもそれぞれ独立に削除されます。(記事のみ、ノートのみなどの削除が行われます。)そこで、記事につけるべき謝辞をその記事のノートにつける、というのは、多少大げさな喩えを使えば、自分が書いたある小説についての謝辞を、同じく自分が著作者として出版した同小説をめぐる対談集の中で述べる、というような形になります。小説だけを読む人は謝辞の存在に気がつきませんし、小説と対談集とは別々に販売、流通されますし、別々の著作物です。
  • ですが、記事本文中に謝辞を追加するのは、いかにもウィキペディアらしくない、という判断からOpponentさんはノートの方に謝辞を追加したのかな、と思います。それ自体は少しも不可解ではないのですが、例えば、対談集がそれ単独で流通するものであるように、ノートのページもそれ単独で複製されたり改変されたりします。そしてGFDLではそういう事態を想定していないために、「謝辞」のセクションは、記事に付属した謝辞ではなくて、ノートのページに付属した謝辞として扱われることになります。

もうひとつややこしい点があります。追加されたセクションが謝辞というものになっていて、厳密にはGFDLに定められた謝辞(Acknowledgement) というセクションになっていないことです。

  • GFDLは正式なライセンスは日本語ではなく英語で書かれていますので、ライセンスのどこにも、「謝辞」という日本語についての規定は含まれていません。Acknowledgementという語についての規定があるのみです。ただ、現在流通している日本語の非公式訳の用語ではそのようになっていますし、ウィキペディア日本語版でも同じ用語をあてていますが、厳密には「謝辞(Acknowledgement)」です。これは、GFDL内にある規定により、Acknowledgementなどのセクション名を英語以外の言語に訳す場合には、訳語に続けてカッコでくくって原語を示すことになっているからです。今回追加された謝辞のセクションはその規定に従っていません。そこで、それが有効なのかどうか、少しよくわからない部分があります。
  • もしかすると、そういうあれこれの事情を考えて、わざわざ、GFDL上は意味のない(従って扱いの面倒ではない)セクションを追加したかったので、英語を付記せずにおいた、ということかも知れません。追加されたOpponentさんは英語力も法についての知識も豊富な方ですので。
  • ただ、ウィキペディア日本語版では、履歴についても履歴(History)という表記をとらず、単に履歴とだけ記しています。そのような例があるので、今回のものもGFDL上有効、という風になる可能性もあるかも知れません。

以上の2点、(謝辞がノートのページにあることと、謝辞というタイトルがAcknowledgementという原語の表記を伴っていないこと、の2点)を考えると、これをどう扱ったらよいかについて、かなりよくわからなくなります。

ですが、基本的には、謝辞のセクションがGFDL上有効であるかどうかは不明ながらも有効である可能性が高いので、それは削除の対象にするか、何らかの措置(後述)をとるのがいいのではないかと思います。

削除するとしたら、謝辞のセクションがどこに付随しているのかが問題になり、もしも記事に付随しているのであれば記事と一緒に削除しなければならないわけですが、おそらくこれはノートにのみ付随しているものだろうと思うので記事はそのままに、ノートのみを削除、ということでいいのではないかと思います。

削除以外の措置[編集]

謝辞を基本的に受けつけない、というウィキペディア日本語版の方針は、これまでに多くの議論を経て決まった方針ではありません。ただ、次のような理由から避けた方が無難だということはすぐに思い浮かびます。

  • 記事に謝辞のセクションがあることは、不特定多数の人が執筆・編集することを重視するウィキペディアの仕組みに照らすと、やや不自然で、特定の人の声が前面に出すぎる感がある。(既にノートのページでMishikaさんが指摘されている点と同じかと思います。)
  • 記事に謝辞のセクションがあると、万が一誰かがそれを改変したり、除去したりすることがあればそれはGFDL違反になってしまうので、それまでの履歴を含めて、記事を丸ごと削除しなければならない可能性がある。
    • もしもそのような問題が、発生してすぐに発見されれば、Wikipedia:特定の版の削除で対処できる可能性がある。(おそらく近々そのような対処を管理者ならできるようになる。)
      • けれども、問題に気づかずにずっと後になって、多くの人が加筆変更などを行った後で判明した場合には、多くの版を削除することになってしまう可能性もある。
  • ウィキペディア外で、その記事の文章などを利用したいと思う人にとっては、謝辞(Acknowledgement)のようなセクションは扱いが面倒なのでない方がよい。

これらの論点の内、幾つかは、今回の件にはあてはまりません。ノートページは各発言者が署名をして個々の声を前面に押し出してよい場所ですし、ウィキペディア外でコンテンツを利用したい方にとっても、ノートページの利用価値は限られているので、ノートページにひとつぐらい謝辞がついていても問題はないのではないか、と考えることもできると思います。

改変されると後で面倒なことになる、というのが最大の問題だと思います。ですが、これについては、ページを移動させて、「ノート:チェ・ゲバラ 謝辞を含むページ」のような形にしてしまうことで対処できるようにも思います。

  • 他の方がそのセクションを改変する可能性が少ない。
  • 仮に改変したとしても、それ以降他の人が気づかずに加筆・編集を続けてしまうことがない。(記事についての議論には「ノート:チェ・ゲバラ」を使うでしょうから。)

削除の代わりに移動でもよいかな、と以上から思いました。

もうひとつ、今からだとちょっと遅いですが、紛らわしくない形で、明らかにGFDL上無効な形で謝辞を述べる、ということであれば、それは削除することはないように思います。OpponentさんがGFDL上有効な形での謝辞の表明を意図していなかったのだとしたら、例えば「この記事の紹介についてのコメント」といった類のセクションのタイトルにするとか。そうすると、GFDLとは関係がないので、著作権法やライセンスに関連したややこしい議論は回避でき、それを理由とした削除の必要もない、他の人が改変したり除去したりしても問題も発生しない、ということになると思います。

これは、例えば、ノートページを一旦削除した上で、Opponentさんに再投稿してもらう、という形でなら実現できそうです。

もちろん、そういうコメントを書くことはウィキペディアにはふさわしくない、といった意見もあるかとは思います。個人的にはノートページであること、この記事は主な執筆者がOpponentさんであるらしいこと、などを考えるとまああってもよいのではないかと僕は思いました。「現時点での主要な執筆者の一人として光栄に思う」というような感想の表明は、まあいいのではないかと。


改変について[編集]

謝辞のセクションは、少なくともOpponentさんによって一度改変を受けているようです。また、ページが丸ごと白紙化されてもいるようです。

このような行為は、GFDLに規定に反している可能性があるかと思います。(ちょっと不条理で不便な話ですが。:-( )

謝辞のセクションがGFDL的に有効なものであるとしたら、それを改変したり除去したりすることは、GFDL違反ということになりますので。

#ちなみに、GFDL違反、というのは、基本的には、著作権侵害ということです。GFDLは、文書の著作者が、複製や改変を一般公衆に対して許諾する仕組みです。その許諾の条件に反すると、許諾が取り消されることになっています。(これもGFDL内に書いてあります。)そこで、許諾なしに、無断複製や無断改変を行ったことになってしまい著作権侵害の可能性が非常に高い行為を行うことになってしまいます。

ただし、Opponentさんが謝辞を自ら改変された際には、その文書の著作権者はOpponentさんのみ(他の方は誰も書き込みをしていない)ので、問題ないでしょう。自分の著作権を自分で侵害する、ということは考えにくいので。

では白紙化はどうか、というと、ちょっとよくわかりません。白紙化は通常の意味の「改変」とは違う部分もありますので。ただ、確実に問題がない、とは言えないように思います。

これは、Opponentさんの著作権に対する侵害だと思うので、Opponentさんがそれを問題にしないと確約して下さるのであれば、問題ないと考えてもよいような気もします。

まとめ[編集]

問題は、ウィキペディアでは受け付けない謝辞(Acknowledgement)に相当すると思われるセクションが追加されたことと、それがその後改変、除去されていることです。記事にではなくノートページに追加されたことも、GFDLとの関連でちょっと話をややこしくしているように思いました。

それについて想定可能な措置と、それについての僕の意見は、以下の通りです。

  • 放置
    • 問題あり
  • 記事と合わせて削除
    • たぶん必要ない
  • ノートページのみ削除
    • たぶんこれがよい。
  • ノートを削除の上、再投稿
    • GFDL上明らかに無効になる形で、かつ、他の方々がそういう感謝の表明などがあってもよい、という点で意見の一致を見るなら、これが一番よいのではないか。
  • 移動
    • 謝辞のセクションが一度白紙化されたことについて、Opponentさんから著作権上問題がないとする許諾を頂いた上でなら、これでもよいかも知れない。

以上です。前例のないケースであることといろいろややこしい細部があるので長くなりました。すみません。質問、ご意見などありましたらよろしくお願いします。Tomos 21:16 2004年5月21日 (UTC)

解説とご意見を拝見して (Opponent)[編集]

毎度、分かりやすく詳細なご解説をどうもありがとうございます。痛み入ります。ご指摘のとおり、「自分が書いたある小説についての謝辞を、同じく自分が著作者として出版した同小説をめぐる対談集の中で述べる」(感謝の意をどこか別のところにのせておきたい)程度の気持ちでした。また、「記事本文中に謝辞を追加するのは、いかにもウィキペディアらしくない」、というよりも記事本文中に謝辞はあってはならないとも思っていたからでもありました。しかも謝辞(Acknowledgement)という意味合いではなくて感謝の意のちょっとした表明(Address of Thanks) ならば、問題はないのではなかろうか、と思ったのも事実です。ウィキペディアへの報告を兼ねて「現時点での主要な執筆者の一人として光栄に思う」という表明をどこかに残しておきたかっただけというご指摘も、まさにその通りです。朝になって、「自分のページでやればいい」、との 219.173.119.31 さまのご指摘に深くうなずくところもありました(ただ、このノートは記事チェ・ゲバラの内容がほぼ固まってから半年以上経過しているにもかかわらず空白になっていたので、ついここに書いてもいいかな、と軽く考えてしまったからです)。そこで元の記事を次のように変えて、わたくしのノートページに copy & paste するという方向で解決したいと思いますがいかがでしょう。

感謝の意とご報告[編集]

  • 『週刊 WebSPA!』誌上において長野県知事・[[田中康夫]]さまご執筆の「[http://spa.fusosha.co.jp/oomedama/pero_007.html 東京ペログリ日記リターンズ」(007、4月22日)]で、「エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナに関しては、WEB上のフリー百科事典として知られる『[[ウィキペディア]]』に詳しい」、と書いて下さいました。読んでいただいたうえにご紹介までいただき、現時点での主要な執筆者の一人として光栄に存じます。ありがとうございました!<br> - [[利用者:Opponent|Opponent]] 04:36 2004年5月20日 (UTC)<br> - [[利用者:Opponent|Opponent]] 09:07 2004年5月21日 (UTC): ページ(007、4月22日)の特定

結論[編集]

つまり、「ノートを削除の上、自分のノートページに再投稿」という形です。これもまた同様に、「仮に改変したとしても、それ以降他の人が気づかずに加筆・編集を続けてしまうことがない」ということになりますから。
- Opponent 01:03 2004年5月22日 (UTC)

上にある、Opponentさんがご自分のノートページに書こうという「感謝の意とご報告」案ですが、文章中の「主要な」と「ありがとうございました!」を削除するともっといいかなと思います...よね?

Opponentさん、あなただろうとだれだろうと、ウィキペディアの記事本文について「謝辞」や「感謝の意」などを外部に対して言う権利など持っていないのではないですか? ウィキペディアの記事はすべて署名のない匿名記事だということにも注意してください。219.164.9.159 01:21 2004年5月22日 (UTC)

IP利用者もしくは一時的に名乗って使い捨てにするハンドル(「捨てハン」、参照: 「ハンドルネーム」)らしき方からの発言に対して、わたくしは原則的にお応えしない主義です。けれども上記ご発言は見解の違いが鮮明になっていて、行き違いの原因を示すものと思われますので例外的にお応えしておきます。「『謝辞』や『感謝の意』などを外部に対して言ったつもりはございません。田中知事が「IP利用者」、「ログイン利用者」、のどちらであるかを知る術はありませんが、外部ではなく内部だと考えました。ご多忙のため執筆や編集をなさっているとは考えにくいところですが、読むだけでも利用者と言えるでしょう。特に、「WEB上のフリー百科事典として知られる『ウィキペディア』に詳しい」、とのご推薦は、ウィキペディア利用者としての立場からおっしゃった(すなわちウィキペディアの趣旨に賛同するユーザとしての意思を表明なさった)発言だとわたくしは理解いたしました。そう考えたからこそノートに書き込むに至ったわけです。利用者間における感謝の表明は、さまざまなノート上において、Googleで検索しても、たくさん書かれていることがうかがわれます。ですから、ウィキペディア利用者間の感謝の表明(謝辞)のひとつとして、「ウィキペディア利用者のお一人としての田中知事に対する感謝の意の表明」、というのがわたくしの意図するところでした。
- Opponent 03:20 2004年5月22日 (UTC)
詭弁ですね。そもそも田中知事がウィキペディアンであるという保証はありませんし、仮に田中知事が何千と登録してあるHNの中の誰かだとすれば確かに貴方の言う内部の人間ですが、そのウィキペディアンに対してではなくここに来ているほとんどの人間が外部の個人と考える個人に対して謝辞を述べるという行為がすでにwikipediaからすると逸脱した行為としか言いようがありません。そもそも田中知事がウィキペディアンである、という解釈はあくまでも貴方個人のものではありませんか。貴方の猫の額にも劣る広さの物差し、価値観でそのように判断するのは今後のwikipedeliaにとって危険だと判断せざるを得ません。
また、件の記事は貴方一人で執筆したものではなく、貴方が執筆する以前にすでにかなりの大きさの記事が出来ていたことは否めません。これは田中知事が件の記事を見て、と言ったところで貴方だけが喜ぶ筋合いのものではありませんよね。せめて「執筆した一同」などの文言を加えるべきだった、と考えます。
「現時点での主要な執筆者の一人として光栄に思う」とありますが、文章そのものを始め、行間からもそのような姿勢が全く伝わりません。いいかげん自分勝手な執筆はお辞めになったらどうですか?バカの壁というものがある限り、貴方は今後もこのような騒動を起こしますよ。ちなみにこれは捨てハンではありません。今後このHNで執筆する予定ですので(笑)Tori 06:14 2004年5月22日 (UTC)
わたくしも捨てハン同様のIP利用者としてこのウィキペディアにかかわっています。IP利用者でいる理由は、利用者‐会話:Nnhでの220.220.116.204氏の理由と同じです。Opponent氏は、IP利用者をすべて無責任な参加者のものとみなしているようですが、それは得手勝手で一方的な見方です。同じページにあるUrania氏の意見もよく読んでください。
さて、Tori氏の指摘する通り、わたくしもOpponentさんの「猫の額にも劣る広さの物差し、価値観」が「今後のwikipedeliaにとって危険だと判断せざるを得ません」という意見には、賛成します。そしてそれ以上に、Opponent氏の執筆・編集の姿勢は、このウィキペディアに参加する多くの人々を不愉快にさせ、この百科辞典の質を高めていこうとしている人々のヤル気を喪失させるものだと判断します。それは、今回の「謝辞」の件だけではなく、上原ひろみそのほか多くのページにおける過去のOpponent氏の姿勢を観察しての判断です。
Wikipedia:コメント依頼/OpponentにあるOpponent氏への「即刻wikipediaより出て行くべきです。中立的な記事を書けず、人の中立性には文句を言う。議論は不毛。人の意見を聞かない。おまけに勘違い。貴方のためを思うと、人との協調が図れず自分自身の中立性が保障できない以上、立ち去ったほうが良いと考えます」といった意見を書いた方のように、「出て行け」とまでは言いません(「議論は不毛」「勘違い」という指摘はまったくその通りであると同意します)。しかし、早くここから出て行って欲しい、とOpponent氏に対して思う人は、これからもあとを絶たないのではないかと思います。めったやたらにどこかでコピーしてきた文献リスト(文献の内容を吟味していないためだろう、記事と関係のない文献まで入っているリスト)を付け加える、本文中に外部リンク(しかもディープリンク)を張りまくる、執筆・編集の内容以前にそれだけでも、苦々しく、うんざり思っている参加者が多いことは、そうしたページの編集履歴を見れば判るのではないですか? 現状のままでは、Opponent氏のウィキペディアでの活動もそろそろ限界ですね。218.47.145.87 07:41 2004年5月22日 (UTC)
OpponentさんはGFDL上に規定されている謝辞(Acknowledgement)セクションを作りたいということではないようですから、GFDLや著作権上の問題としては、紛らわしくないセクション名であれば問題ないと思います。利用者‐会話ページでも、記事のノートでも問題ないし、他人が改変することがあっても、それで著作権上の問題が発生することもないだろう、と。
謝意の表明は、参加者間では盛んに行われていますし、推奨されることはあっても、問題ではないだろうと思います。読者の立場から執筆者に、また逆に賞賛などを表明した読者に執筆者が、感謝する、ということは起こっていますし。
ただ、今回の記事への賞賛なり評価なりは、直接Opponentさんの会話ページに書き込まれたのとも少し違います。でも、もしも田中康夫さんが、例えば記事のノートページに、参考になりました、どうもありがとう、と一言お礼を書き込んでいたら、それにOpponentさんが主要執筆者の一人としてお返事をすることが問題か、というと、そうでもないように思いました。(むしろ誰も返事をしない方がまずいようにも思います。)
では問題があるとすると何か、ということを幾つか考えてみました。
  • ウィキペディアを代表する、という語り方であればちょっと問題かも知れません。ですが、Opponentさんは主要な執筆者の一人として発言なさるようですから、この点では問題ないと思います。Toriさんが提案された「執筆者一同」としてお礼を述べるのは、むしろ不適切ではないかと僕は思います。
    • 記事は全て匿名の文章である、というのは一面ではその通りですし、ウィキペディアの最も重要なポリシーのひとつである中立性の観点もそういうことを考慮して立てられたものだろうと思います。ですが、履歴にはきちんと投稿・編集者の名前が残りますし、GFDLの基本的な方針は、文書の作成者が誰であるかがきちんとわかるようにしておくべき、という考え方を含んでいるように思います。そこで、この点からも、謝辞の類は原則として問題がある、とは言えないかなと思いました。
  • どこかの日記からリンクされる、という程度のことであればそれほど珍しくなくなりつつあるように思います。そこで、それに対して感謝を表明するとしたら、手短にするのがいいんじゃないか、とも。でも今回のものは一応、著名な文筆家、政治家によるマスメディア上での発言なので、いいんじゃないかと思いました。
  • Opponentさんの執筆された記事や発言については、いろいろと批判もあるようで、そういうことがあって今回の論議が持ち上がったという部分もあるのかと思いました。つまり、ここで感謝の意の表明に反対している方はもっと大きな問題をOpponentさんの言動に見出して、その一貫としてこの件を位置づけている、というような。
    • 僕の考えすぎかも知れないですが、例えばわざわざ謝意を表明することで、Opponentさんはむしろ他のウィキペディアの参加者に対して自分の活動を誇示しているのではないか、とか、これまでOpponentさんに折に触れて向けられて来た批判をわかっていないからこういうことをするのではないか、といった受け取り方もあるかと思いました。
    • ただ、個人的には、「誰がやったか」という理由で行為の可否を左右せずに、「どういう行為であるか」のみを問題にするのがいいんじゃないかな、と思います。
僕もOpponentさんとは一度ならず議論を交わし、時に意見を異にしてきたので、僕も僕なりに納得していない点もあれば教えられる点もありますが、(Opponentさんに対する批判についても賛否入り混じった感想を持ちますが)、今回の件については、例えば、「もう少しこういう風な言い方にしたら他の、これまでの事情を知っている参加者から見てもよい感じがするものになると思うけれどもどうか、」という類の提案を考えることはできても、基本的に謝辞の表明には問題がある、という風には言えなさそうに思いました。

Tomos 23:10 2004年5月22日 (UTC)

ひとこと。Tomosさんは、「履歴にはきちんと投稿・編集者の名前が残ります」と言っていますが、それはこのウィキペディアという仮想空間内でのみ通用する約束事の世界のなかでのこと、広く考えてもウィキペディアを話題にしているWikiペディアを語る板などの掲示板のなかでのことであって、外の世界から見れば、ウィキペディアは、どこのだれが執筆・編集しているのかまったく判らず、名前など一切残っていない、いや、名前など残りようもない、という認識を持つべきではないでしょうか? わたくしがここの参加者で名前を知っているのはただ一人、『読売新聞』夕刊(2003年9月2日)にウィキペディアが紹介されたとき(2版・9面)に知った方についてだけです(電子版は[1])。ハンドルネームはこの仮想空間でこそ通用していますが、『百科辞典』をつくるといったような文筆・学術・出版の世界では、ハンドルネームは無責任な匿名となんら変わらない、ということを厳しく認識するべきです。ウィキペディアの閲覧利用者から見て、ウィキペディアの情報がどこか信頼できない、最終的に信頼できない理由は、ここにはだれが書いたのかの責任表示がまったくないからです。とはいえ、この匿名性をどのように活かしていくのかが、ウィキペディアのもっとも重要な鍵のひとつだと思われます。しかしながら、上に述べたような認識をつねに持っていなければ、匿名性を活かしていくこともできないのではないでしょうか? 匿名性のなかでどのように閲覧者からの信頼を構築していくのか、その点の議論がウィキペディアには欠けています。
最後に、Opponentさんに対しては、「いいかげん自分勝手な執筆はお辞めになったらどうですか?」というToriさんの意見はまったくその通り、同じことをOpponentさんに提言します。220.220.121.4 00:03 2004年5月23日 (UTC)