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ノート:フランシスコの平和の祈り

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3月20日付のMichael Tiaraさんの編集を除去しました。以下に理由を記しておきます。

もともとの記事では『平和の祈り』の「初出のフランス語版テキストから(日本語に)訳出したもの」を示すという趣旨で拙訳を載せておりましたが、Michael Tiaraさんはその訳に「口語訳」とタイトルを付けた上で、「文語訳」と題された訳文を加えています。

しかし、この「文語訳」は明らかに初出テキストからの翻訳ではありません。オリジナルテキストは、8組の対句、と3組の受動態と能動態の対比、4組の反語で構成されていますが、Michael Tiaraさんが示されたのは8組、3組、3組で違います。(英語翻訳では「人は忘れることで、見出し」の句を欠くものが多く見られますので、この「文語訳」は英語版からの翻訳であるように思えます。)また、オリジナルの「あなたの光」が単なる「光」になっている点も、Renouxが示した「グループB」系のテキストからの翻訳であることをうかがわせます。いずれにしても、このような訳を載せると「以下に示すのは、初出のフランス語版から訳出したものである。」という本文と齟齬をきたします。これが除去の主な理由です。

また、現在の記事構成では、訳文を二つ載せる理由はありません。Michael Tiaraさんが記載した「文語訳」が広く知られた本訳文であるというのであれば、日本でどのような訳文で、どのように広まったかという記述する節を新たに起こしてもらって、(それを書いていただければ、大変に興味深い記事になると思いますが)広く知られていたか、歴史的価値のある訳文を選んで記載するべきでしょう。もちろん、それを裏付ける文献も付けてです。掲載を希望されるのであれば、是非それをお願いします。

最後に訳文について補足しておきます。本文記事をお読みになればお分かりになる筈ですが、この祈祷文は大変に異文が多いためにどのテキストを選択するのかという判断基準は必要でした。そこで、オリジナルテキストが確定している以上、そのオリジナルテキストからの日本語訳を用いるべきだと考えました。実際に流布されている日本語訳のひとつを選ばなかったのは、初出テキストに忠実な訳が見当たらず、著作権の問題も回避しておいた方がよかろうという判断です。敢えて拙訳を用いたのは、それが理由です。 --おーた会話2013年4月2日 (火) 14:11 (UTC)[返信]

訳文について気づいた範囲で修正しました。「忘れられることで人は見出し」は再帰動詞のもう一つの意味「我を忘れる」と福音書の記述に鑑み、「己を捨てることで人は見出し」と訳出しました。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録) 2014年8月8日 (金) 23:24 (UTC)--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録2014年8月8日 (金) 23:54 (UTC)[返信]