ノート:今城誼子

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220.220.171.87さんのご加筆の中で、検証をお願いしたい件が2点あります。

1)今城が「大真協会」なり「真の道」の信者であったという件が「濡れ衣」となっていますが、入江など宮内官僚側には警察や公安などの調査ルートもあり、それが本当に官僚たちの事実誤認だったのか、実際に何らかの新興宗教に帰依し、香淳皇后に影響を与えていたのか、疑問が残ります。加筆に際しては河原著の記述をそのまま採られたのだと思いますが、更なる検証が必要なのではないでしょうか。

2)官舎の退去、電話取り外しの件ですが、これらは今城が辞職してから1年近く(入江日記が手元になくうろ覚えで済みません)経ってからのことで、退職後に常識(少なくとも民間の)では考え難いほど長期間の居残った上で、この電話問題を引き起こしています。ご加筆によると「退官後の新居が完成する迄の間、赤坂御用地内に仮住まいを許された」とありますが、果たして当初から本当にそのような長期にわたる残留が許可されていたのでしょうか。

上記2点に関し、単なる出典の明記という意味ではなく、信頼性のご検証を希望いたします。---八帖院惟光 2009年6月15日 (月) 11:30 (UTC)[返信]


1)入江が、今城が新興宗教の信者であるとする根拠は、昭和41年2月4日の日記の、 「保科さんから聞かされた所によると魔女が行くのは『誠の道』という宗団の由。堺の鷹司さんから話があった由」 等、所詮、噂話をもとにした程度の話だと認識しています。

「「宮中祭祀というブラックボックス」所収「対談」原武史・保坂正康には、今城と新興宗教の関連は「1983(昭和58)年の『週刊新潮』にすでに出ており」とありますが、保科正康が今城と新興宗教との関わりを述べるのは、入江日記からも当然と言えます。何故なら、入江に今城と新興宗教との関わりを告げている当事者の、まさに関係者なのですから。

噂では無く、警察や公安などの調査によって、今城と新興宗教との関わりが明白になったことが日記に書かれているなら、該当部分をお示し下さい。

2)今城の退職後の家は、まずは松林を切り開くことから始められ、切り開いた場所に建てられたそうであり、また、当初からそのような予定だったようです。であるなら、通常の住居の完成よりも長くかかって当然ではないでしょうか。