ノート:味噌

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差し戻しの方法[編集]

味噌 の全般の項目に渡って、2006年5月9日 (火) 16:08 から5月27日にかけてIPアドレスが 221.37.80.99 の人物によって不適切な表現に書き換えられています。以前の版に差し戻す方法をご教授願えないでしょうか?

Wikipedia:以前の版にページを戻す方法です。 --Tietew 2006年5月27日 (土) 21:28 (UTC)[返信]

利用者: 220.28.244.175の編集[編集]

利用者: 220.28.244.175による2010年1月2日 (土) 23:11(JST)の編集は、信憑性のある出典が無いのに今までの記事内容と逆の事に入れ替えています。そういった記述前には、ノートでの議論を行うべきですので「編集前に」このノートで討論をお願いいたします。同様の行為を続けられると荒らし行為と見なされますのでぜひお願いいたします。--121.102.116.209 2010年1月2日 (土) 14:27 (UTC)[返信]

味噌の由来[編集]

「そもそも末醤とはなにか?」

末醤の記録は、平城宮から出土した763~64年に書かれたとされる木簡(*1)にも見える。

『延喜式』(927年撰進、967年施行) の「大膳職下」の「造雑物法」には、未醤として収録され、唯一、その材料配分が示されていて「未醤料。醤大豆一石。米五升四合。蘗料・小麦五升四合。酒八升。塩四斗。得一石。」とある。ただし、醤の場合『延喜式』の記録と平城京跡から出土した天平三年(731)と書かれた木簡の記録を比較すると、配合の違いは見られるが同じ米麹が使われていて、その他主要な材料もほぼ同じであることから(*2)、『大宝令』にある末醤も上記『延喜式』に書かれている材料と大差はないものと考えられる。 製法の記録がなく、はっきりとは分からないが材料の量に比べて収量が少なく、今日の麦味噌(麹造りに小麦は使わないが)は、大豆の質量の約5~6倍程度の味噌が得られる (*3)ことから、当時の末醤は水気の多いペースト状の今の味噌と異なるものであることは間違いない。鎌倉時代の『塵袋』に末醤の由来として「末ハ搗抹ノ義也。(原料を)末セサルハ常ノヒシホ、末シタルハミソナリ。」とあり(*4)、そうであるならば、ほぼ均一な固形あるいは粉末であることがうかがえる。本文下記の脚注[2]の飛鳥資料館のサイトでは、末醤に「こなみそ」と仮名書きがあるが、正確なことは分からない。

「朝鮮から伝来した?」

さて、本題に入るが、中国の文献には末醤・未醤という醤は見当たらない。しかし、朝鮮には突如15世紀中期以降の文献に末醤と書かれるようになり、これが18世紀まで続くが、いずれも味噌玉・味噌玉麹の意味で使われている(*5)。さらに遡ると穀醤の表記は『三国史記』(1145年成立)の新羅・神文王三年(683年)の条にある王妃を迎えるに際しての結納品中に出てくる「醤」と「豉」(シ・くき)」だけである(*6)。

ところが、『大宝令』(701年)には「醤」「豉」のほかに「末醤」が収録されていることから、「末醤」は日本独自のものと断言できるのである。 そもそも、朝鮮では伝統的に豉の系列の今日「メジュ」と云われる味噌玉から醤油と味噌が造られているが、そのメジュが日本に伝わって味噌になったとすれば『大宝令』などの古文献に味噌玉に相当する品名の記録がある筈であるが全く見られない。このことは、日本では醤油に近い系列の醤と末醤は最初から別物と認識していたことの証であろう。

以下は蛇足。 朝鮮においてはメジュという言葉は12世紀以降のもので(*7)、それ以前の味噌玉の呼び名と表記は不明で、古くは中国の文献にある「豉」と同義と理解されている。 ちなみに、、味噌玉を末醤と表記したのは官医である全循義の『山家要録』(1459年)が最初であるが、『救荒撮要』(1554年)では未醤という字で収録されていて、それ以降の『救荒補遺方 (1660年)』などでは末醤と書かれていることを見ると、これらの朝鮮の文献に見られる末醤・未醤は、明らかに日本語からの借用で、おそらくは、15世紀前半の室町期に3回(1420年、1439年、1443年) 来日した朝鮮通信使とは無関係ではなかろうと推測する。

  • 1) 重文で木簡第一号に指定。大膳職跡推定地から出土。

http://www.nabunken.go.jp/publication/news/nabunken-news9.pdf

  • 2) 「醤」は、『延喜式』に「大豆三石。米一斗五升。蘗料・糯米四升三合三勺二撮。小麦、酒 各一斗五升。塩一石五斗。得一石五斗。」とあるのに対して、平城京跡で発見された「二条大路木簡」(下記サイト参照)には、「天平三年(731)四月六日造醤 大豆六石四斗 塩六石四斗 可无多知六斗四升・酒一斗二升」とある。可无多知は米飯に生えるカビ(麹の和名。蘗〔はく〕に同じ)のことで、塩の配合や小麦の使用の有無の違いはあるものの、これらは時代の変化とも言えるだろう。 

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/27673/1/058.pdf

  • 3 ) 農水省のサイトでは、味噌1kg作るのに、麦味噌で約170gの大豆が必要とされている。 http://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/daizu/d_tisiki/#Q37
  • 4) 『塵袋』の味曽の項を参照。『塵袋』は問答式で書かれていて、問は「味曽ト云ハ、正字歟(か)、アテ字歟(か)」

http://kiifc.kikkoman.co.jp/foodculture/pdf_03/j_018_021.pdf http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/koma_kojisyo-titekitaikei.html

  • 5) 『山家要録』(全循義 撰、1459年) に「末醤薫造」の項があり、そこでは大豆から作る味噌玉(薫造は麹造りの意)の意味で使われている。後の『増補山林経済』(柳重臨著 1766年) の末醤も同様。『救荒補遺方 (1660年)』の末醤も同じ味噌玉の意であるが、大豆だけの造り方はなく、大豆と小麦(容積比で2:1)で造ると書かれている。
  • 6) 例えば、「ハンギョレ新聞」(2009-11-05)参照。

 http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/852648.html

ただし、上記の翻訳文には原文(ハングル)では漢字併記として未醤・豉などはあるが、末醤(二か所)はないことと豉は豆支と書かれている。

豉は、豆と塩からつくる発酵食品で、紀元前2世紀頃の中国の遺跡等から出土していて、2世紀頃の中国の文献に記録があり、3世紀頃の同じ中国の「説問解字」という辞書にも収録されている。

  • 7) 「メジュ」(메주・英文表記mejuなど)なる言葉は、北宋の奉使高麗国信書状官・孫穆(そんぼく) が編纂した『鶏林類事』(1103年) に「醤曰密祖」(高麗人は醤を密祖と云う)とあり、その密祖の発音に由来する。そのためメジュには漢字表記がないが、近年、韓国の文献にメジュに末醤と漢字併記されるなどの混用もまま見られる。 なお、当時の中国では醤は穀物(特に大豆)と塩で発酵させた食品一般を云い、味噌に限定した意ではない。新井白石は「東雅」(1719年)で、上記の一文を見て「醤と未醤(ミソ)は同じもの。醤の和名ヒシホは、(ミソの)ミがヒになり、ソがシオとなったのである」とか「ミソは高麗語の密祖を語源としている」など、強引に味噌と密祖を関連付けているが、牽強付会説にすぎないことは明らかであろう。

http://kindai.ndl.go.jp/「東雅」(巻之十二・三四六~三四八頁)参照。                         --Pixie win 2010/11/07

Qnc氏による掲載すべきでない外部リンクの除去[編集]

利用者:Qnc氏による、ブログやショッピングサイトなど掲載すべきでない外部リンクを除去しました。 [1][2]幼稚園のサイト[3]個人ブログ ノート:抗酸化物質#掲載すべきでない外部リンクも参照してください。 --Diamboroid会話2012年10月24日 (水) 23:53 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

味噌」上の2個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月28日 (木) 18:36 (UTC)[返信]