ノート:墨俣城

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墨俣について調べています。墨俣城および墨俣川の戦いに関する記述には納得できない観点の内容が散見されます。現在の墨俣城については、「明治40年の渡辺博士の城跡の調査のひとつであり確定ではない。」「現在の模擬天守は、実際の場所は不明であるのに建てる意義はあるのかという議論があったこという噂がある。」「武功夜話においては、城跡を案内する際に…森部ハ此先ニ候よと腰をのはし指差候、右ハ洲俣渡口に於て。…と位置でいえば、現在の対岸になる。」と調べるほど現在の墨俣城を一夜城として記述するには無理があるのではないでしょうか。さらに、現在の墨俣城は墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)と名乗り、後世に役立つ資料館であり、必ずしも「跡」とは名乗っていません。断言する記述や画像は妥当と考え難いのですが…。さらには戦国時代にこだわりすぎて、江戸時代は街道が通り宿場町が存在したこと、その文化については見受けられないのが残念です。--[[利用者:]] 2011年6月3日 (金) 13:50 (UTC)

"墨俣城が木下藤吉郎による一夜城築城の逸話で知られる。"は秀吉関連の概説書のほとんどで触れられる内容(俗説として否定する対象ですが)やドラマなどの創作物でもさかんに登場し、なおかつ地元にその伝承に基づいた資料館ができていることから、記述されるべき内容であることが理解できます。削除される理由はなんでしょうか。--彩華1226 2009年2月19日 (木) 17:43 (UTC)[返信]

絵本太閤記で説明している。重複。また、現存地の復元ではなく、本物は川の底である。--Sabkakusikaku 2009年2月20日 (金) 03:40 (UTC)[返信]

削除される理由について一切述べていただけませんでしたので、「一夜城築城の逸話で知られる」を復帰しました。「写真を見て、天守のある復元を一夜に築いたという誤解を排除するため。」とありましたが、誤解を生じさせないために、テンプレに「模擬天守」、概要に「史実とは異なる」と書いてあるわけで、あまりにもこの項目を閲覧する人を馬鹿にした発言であり看過できません。また重複というのなら「信長公記・絵本太閤記には、洲股とあり、当てる漢字がまったく異なる。」も削除すればいいんではないですか。結局、自分の編集を一字一句変更されたくないだけじゃないですか。--彩華1226 2009年2月20日 (金) 14:46 (UTC)[返信]

(コメント)Sabkakusikakuさん始めまして、彩華1226さんこんにちは。失礼ながら、この議論に当たってお二方の会話ページを拝見させていただきました。

早速なのですが、独自研究ではないのかという意見や史実に正確であるべきという主張は理解できるのですが、そのまえに、議論の最中に当該部分の編集をされるのは編集合戦を起こしかねませんのであまりよろしくないと思います。(Wikipedia:論争の解決Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないWikipedia:エチケットこれらも参考になります。)

本記事に関して。「概要」は、物事の大まかな外観や内容のことですので、多少重複してもいいと思います。また、読みにくければ読みやすいように修正されることもあります。今回は引用文を組み込んでおられることが読みにくいと指摘されているものと思われますので、引用文のまま記述する場合は改行を入れて引用符を用いられてみてはいかがでしょうか。(Wikipedia:表記ガイド#引用符Wikipedia:引用のガイドライン/草案 )--ムカイ 2009年2月21日 (土) 04:50 (UTC)[返信]

コメント依頼中です[編集]

問題が波及していますので、Sabkakusikaku氏の行為についてコメント依頼に出させて頂きました。--yasumi 2009年3月1日 (日) 11:36 (UTC)[返信]

「城」の定義について[編集]

ちょっと思ったことなのですが、川合康氏の『源平合戦の虚像を剥ぐ』などを読むと、中世前期の公家日記などに出てくる「城」とは頑固な建築物を指すのではなく、逆茂木や掻盾を置いた簡素な構造物を指すという指摘があります。私は城郭史に疎くて、戦国期における「城」の定義や、墨俣城を巡る研究史においてこのような観点から考察した論考があるのかわからないのですが、「一夜城」における「城」の定義はどのようなものなのでしょうか。中世前期における「城」の定義からすれば、そのようなものを本当に一夜か、あるいはそれに近い時間で設置することは可能なのではないかと思ったので、問題提起させていただきます。--でここ会話2015年1月17日 (土) 12:23 (UTC)[返信]

コメントでここさん、こんにちは。お疲れさまです。
城の定義ですが、障害物で囲ってあり武装してあるものが防備してあれば、城の一種といえると私は思います。陣所でさえ低い土塁を築く場合もあるのですから、あとはそれらを城というか否かにかかってくることではないでしょうか。これは、聚楽第を城というかと同じような議論になります。
結果として、主観的に城というか否かです。ただし、この議論はウィキペディアの編集にはほぼ無意味ではないかと、私は思います。少し固いでしょうか。--ムカイ会話2015年1月17日 (土) 14:37 (UTC)[返信]
ムカイ様、コメントありがとうございます。この問題は読んでいて疑問に思った読者としての視点なのですが、墨俣一夜城を考察した論考の中に、上述のような観点から論じたものがあれば、著述して良いのではないかとも思いますね。私は文献をまったく集めてないので、タッチするつもりはありませんけど。戦国期に中世前期のような「城」の定義が該当するとなれば参考として著述して良いかもしれませんけど、議論があってもいいですね。--でここ会話2015年1月17日 (土) 14:43 (UTC)[返信]
早速のお返事ありがとうございます。私的な議論でなければ結構です。また、私はあくまでも3方針に則った記述を望みます。--ムカイ会話2015年1月17日 (土) 15:16 (UTC)[返信]