ノート:奴国

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「博多付近に存在した」の記述[編集]

「奴国とは、1世紀 - 3世紀前半にかけて、博多付近に存在したと記録されている国」となっていますが、 1世紀の倭奴国と 3世紀の奴国 (魏志倭人伝で最初に登場するほうの奴国) が同じクニであるという論証はあるのでしょうか?

・後漢書には、 倭奴國奉貢朝賀 - 倭國王帥升 - 倭國大亂 - 有一女子名曰卑彌呼~共立為王 と、 倭奴国が邪馬臺国に繋がっていると読める記述があります。
・旧唐書には、 倭国者古倭奴国也 とあり、 貞観五年に遣使してきた倭国は、 その昔の倭奴国であったと記述されています。
・翰苑では、 倭国の歴史として、 中元之際紫綬之榮 (倭奴国への金印綬与の件) と 景初之辰恭文錦之獻 (景初三年倭女王遣大夫難升未利等 の件) を共に記載しています。
これら史書の記述によると、 1世紀の倭奴国は 3世紀の奴国ではなく邪馬壹國に繋がっていると判断されるべきではないでしょうか。 すくなくとも、 中国側は、 1世紀の倭奴国と 3世紀の邪馬壹國は同じクニであると認識していたと言えるでしょう。
ここでの「博多」は定義として曖昧なまま使われています。少なくとも江戸時代までの商人町であった地域の「博多」(おおむね現在の那珂川-那の津通り-御笠川-国体道路に囲まれた地域)には古墳時代に56mの長さの古墳が建造されたことだけは発掘調査から判明していますが、それが奴国だとは分かりません。ともあれ(これすらも確実ではないのですが)「北部九州に存在したと推定される国」のほうが妥当だと考えますが如何でしょうか。--Pontafon 2009年7月16日 (木) 00:50 (UTC)[返信]