ノート:孔融

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(あいまいな記憶で申し訳ないのですが)「北海の相(「国」の実務上の長)」であったと記憶していますが「相」を「太守」と称するのは広く行われたのでしょうか(実質的には太守と思いますが)。常陸介を「かみ」と呼ぶ事例があったと聞きます。同じようなことでしょうか?--羊鶴 2004年8月17日 (火) 13:18 (UTC)[返信]

ご指摘の通りです。よく調べていませんでした。手元にある『漢辞海』を按ずるに(モロハシじゃなくてごめんなさい)、秦以降の「太守」は郡の長官、後代には知府・知県の称とあります。孔融の経歴は、北海国の相→青州刺史なので、異なります。
訂正しておきます。即時削除のstub記事だったので、救おうとして記憶だけで書いてしまいました。なおかつ「太守」というその言葉は、コーエー『三国志』からやっちゃったと思います。いけませんね。ちょっと専門外だと甘いことしすぎでした。--Aboshi 2004年8月17日 (火) 14:07 (UTC)[返信]

早々にご丁寧に有難うございます。僕は全くの門外漢(「吉川英治の三国志演義」くらいしか典拠を知らないレベル)で、わけがわからないヤツなのですが、太守と国相はともに二千石で同格(俸給という意味でも、行政権能という意味でも)だった気がするので、正式には「相」であっても「太守」と称した例があるのではないかな?という気がするのです。ないのかなぁ。 上で「常陸介」を引っ張ってきているのも、常陸国の「守」は親王に与えられて遥任(現地赴任せず)で、実質的には介(すけ、次官)が長官の役割を担うため、介にして「かみ」と呼ばれることがあったそうなので、そんなこともあるかなー、と思ったのです。--羊鶴 2004年8月17日 (火) 15:02 (UTC)[返信]