ノート:宇喜多秀家

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219.108.251.82 (15:16 2003年12月27日)さんのコメント:

正しくは宇喜多です。八丈島に遠流になったあと、「浮田」姓を名乗らされましたが。

本文中に書く内容ではないので、移動しておきました。Mulukhiyya 06:21 2003年12月27日 (UTC)

秀家の出陣式が上杉征伐のためというのは全くの誤りです。もしそうなら当然秀家は会津へ出発していなければおかしいですし、一貫して反家康の態度を取り続けた秀家がどうして上杉征伐において家康の戦勝を祈願する出陣式をやる必要があるのでしょうか。上杉側の戦勝を祈願したのなら、それはとりもなおさず打倒家康を表明した行為に他なりません。よって、この記述は訂正させていただきます。反論があるならどうぞ。--漬けマグロ 2008年1月3日 (木) 07:28 (UTC)[返信]

では反論を。 宇喜多旧臣の庭瀬戸川家で、同家に多くあった同時代人の聞き書きから編纂された「戸川記」によれば、宇喜多左京亮を先発に、宇喜多秀家はそののち会津出陣のために上洛し、のち三成に賛同して蜂起したとする記事があります。石田三成の蜂起が秀家の祈願より後のことから近年、蜂起の首謀を秀家とする説まで出ているようですが、先の聞き書きを含めよくよく考えれば、この時点では自らの会津での戦勝を祈願したとみるのがより史料と状況に則しています。また感情的な面は別として、この年春に起こった「宇喜多家騒動」では家康の仲裁をもって沈静しているように、そう一面的に「一貫して反家康の態度」と言えるかどうか、白黒は付けがたいと思います。近世初頭の成立とはいえ、同時代人及び関係者の聞き書きからなる史料の記述を覆す具体的史料がございましたら受け入れさせていただきますがいかがでしょうか。上記をご検討いただいた上で、訂正を元にお戻しいただけますと幸いでございます。--としちゃん26歳 2008年1月3日 (木) 13:02 (UTC)[返信]

そのような記述があるとすれば、それは完全な誤りと言えるでしょう。なぜなら、宇喜多左京亮というのは秀家の従兄弟で、関ヶ原の前のお家騒動で宇喜多家を去っているからです。彼はいったんお預けになったあと家康の家臣になっており、後に大坂夏の陣で千姫を救出したと俗説で語られている(本当は違うのですが)坂崎出羽守その人なのです。これは誰一人異論がない歴史的事実です。彼が挙兵や関ヶ原の時点で秀家に従軍しているわけがありません。この一事をとっても、とても信用できる記述ではありませんね。騒動が「家康の仲裁で沈静した」という見方も全く誤っています。家康は左京亮ら4人の重臣をお預けにすることで宇喜多家から4人の経験豊富な侍大将を引き離し、それによって宇喜多家の弱体化に成功したのです。関ヶ原のドサクサの間に4人をちゃっかり自分の家来にしていることでも、家康が秀家に親身になっているわけでもなく、秀家が家康に感謝しているわけでもないことは明らかでしょう。事実、行動として秀家は終始反家康の行動をとっています。前田利家と家康が一触即発になった時は利家のもとに参じていますし、三成が加藤清正ら7将に襲われた時にも三成を保護しています。秀家が家康に応じて本気で上杉と会津で戦うつもりだったとは全く考えられません。また、その「戸川記」以外のいかなる史料に秀家が家康に従軍するなどという記述があるのでしょうか。具体的史料としては、ぜひ当時の第一級資料である「梵舜日記」を読むことをお奨めします。これを読めば、秀家も高台院も三成側(反家康)だったことが理解できるはずです。ちなみに、客観的にも史料の価値と信用性ははるかに「梵舜日記」の方が上です。よって誤った記述に戻すことには断じて賛成いたしかねます。--漬けマグロ 2008年1月4日 (金) 07:26 (UTC)[返信]

「凡瞬日記」という日記は知らないのですが、何でしょうか?。「梵舜日記」は読んでいますが、漬けマグロさんが断言するほど日記そのものには核心的な記事はなく、多分に解釈の余地を残しているように思いますげとも。あと「宇喜多左京亮というのは秀家の従兄弟で、関ヶ原の前のお家騒動で宇喜多家を去っているからです。」というのは何に拠ってお書きですか?。通説的見解を批判する漬けマグロさんが、通説を疑うこともしないというのは大変残念ですね。--としちゃん26歳 2008年1月4日 (金) 08:24 (UTC)[返信]

字を間違えたのは私のミスです。その点は訂正しておきます。核心的な記事がないというのはいささか腑に落ちませんね。普通に読んでも、次のようなことがわかるはずです。1、高台院、および孝蔵主は大坂城を退去してから、宇喜多秀家やその妻で養女の豪姫とは頻繁に会っているのに、俗説では高台院派とされる加藤清正、福島正則らのいわゆる武断派と全く会っていません。毎日のように豊国社に参拝している高台院が、清正らが豊国社に参拝した日に限って必ず参拝していないことも書かれています。また小早川秀秋は俗説では高台院の指示によって西軍を裏切ったとされていますが、生前の秀吉が高台院に「秀秋はお前の甥ではないか。お前が可愛がらなくてどうするのだ」と叱る手紙が現存している通り、高台院は秀秋と全く面会しておらず、最も仲が良かったのは豪姫と秀家であることが読み取れます。2、秀家の出陣式に高台院は自分の代理として東殿局を代参させており、これは秀家を支持していることを表明したのも同然です。逆に支持していないなら自分の代理を出す必要はないからです。もしこれらの行動が、秀家と高台院の家康支持を表すものなら、いつ、なぜ、どのタイミングで三成側に寝返ったのか教えてください。実際には秀家は終始豊臣家擁護の立場にあり、一度も家康側につく行動をしたことがありません。あるというなら指摘していただきたい。それなのにどうして秀家が家康に従軍する予定だったなどという曲解をするのか理解に苦しみます。また、そんな説を私は聞いたことがありませんが、としちゃん26歳さんの独自見解なのでしょうか?独自見解が必ずしも間違っているとは思いませんが、秀家の政治的行動を見てもあまりに説得力がなさすぎます。100歩譲ってそういうことを秀家が言ったという資料が万が一見つかったとしても、実際の行動を見る限り、軍を率いて上洛するための方便と解釈するべきではないでしょうか。私は通説になんでも逆らっているわけではありません。明らかな矛盾や反証があるのに、俗説がそのまま信じられていることに警鐘を鳴らしているだけです。宇喜多左京亮が秀家の従兄弟で宇喜多詮家という名であったこと、坂崎出羽守直盛と改名したことは現存している彼や秀家の手紙などでも明らかです。私の記憶では徳川実記にも彼の来歴の記述があったはずです。このウィキペディアの坂崎直盛の項に書いてあることは唯一、「秀家の名代として上杉征伐に従軍した」というのが誤りである以外はすべてその通りです。直盛は家康の裁断で彼の元にお預けになっていたはずです。--漬けマグロ 2008年1月7日 (月) 07:05 (UTC)[返信]


家康の会津征伐は、名目にしろ「反豊臣」とされた上杉氏を討つために出陣が催されたもので、諸大名からも動員がなされました。例えば毛利氏も出兵の求めにより吉川広家と安国寺恵瓊が家康を後追いするかたちで奥州へ向かわせ、輝元自身も領国から出勢しようとしていました(『戦国期毛利氏史料撰』『安国寺恵瓊』など)。毛利氏は実際に奥州行きを行おうとしていたのであり、石田三成の蜂起にあたり恵瓊の説得で一転して家康攻撃に転じたというのが、同時代史料から読み取れる事実関係です。この顛末は宇喜多左京亮を先手として遣わし、後に出陣しようとした宇喜多秀家が蜂起した石田方に与同したといった趣旨の「戸川記」の記事などから判断されるその経過と相通じるものがあります。 そして情勢としては奥州出陣の趣旨からして「秀家自身が反家康だから」などといった基準で判断できるものとは次元が異なるもので、高台院も名目とはいえ「反豊臣」征伐の出陣に臨む可愛い秀家に心付けしたとして別に問題ないのでは?。人間の行動とは白黒だけで決まるわけじゃなくてもっと複雑で豊かなものと思いますがね。あと署名をお忘れなく。--としちゃん26歳 2008年1月4日 (金) 15:41 (UTC)[返信]

清正らに襲われた時に三成を保護しているなど、一貫して家康と対立する政治行動をしている秀家と、毛利を同列にされる時点ですでにおかしいでしょう。毛利は周知のごとく吉川広家や福原広俊ら家康に通じる派と安国寺恵瓊ら三成に協力的な派に分かれており、その政治行動は複雑です。人間の行動云々というのはその通りですが、明快に自分の立場を表明する人もいるのですよ。また、政治的立場というのは明快にしないと余計な誤解を与えることもあるのです。明快にしないために所領を大幅に減封されたり、没収された大名が関ヶ原では多く見受けられますよね。--漬けマグロ 2008年1月7日 (月) 07:05 (UTC)[返信]

横から失礼します。ここのノート見ただけでは、いくつか疑問点があるのでよろしければ教えてください。なお、わたしは秀家が関ヶ原の発案者であるという説に対して肯定も否定もしない立場ですし、漬けマグロさんの執筆に関して何ら異議をはさむものではありません。

  1. 7月1日の出陣式が家康打倒のものだとするには状況証拠しかないように読めますがそれでよろしいですか?
  2. 出陣式が家康打倒のものだとして、それに高台院の代理が参加しているということは、高台院も秀家から家康打倒の兵をおこすことを聞いていたことになりますが、そのわりに三成や毛利など、後に西軍につく主な大名に対しては事前に根回しをしてないようです。普通に考えれば根回ししていて当然だと思うのですが、これについてはいかがですか?

とりあえず以上です。--Blowback 2008年1月13日 (日) 11:03 (UTC)[返信]

返事が遅れて失礼しました。Blowbackさんの質問にお答えします。 1、7月1日の出陣式が家康打倒のものだというのが状況証拠しかないというのは、「梵舜日記」に「家康打倒を祈願した」などの文言が明記されていないという点ではその通りです。ただ、秀家の政治的立場は常に豊臣家擁護にあり、非常に明快です。彼が家康の会津出兵に協力するというのは前後の行動から見ても明らかな矛盾が生じます。その点から、秀家の出陣式が上杉家相手の戦勝祈願と見るよりは、打倒家康の挙兵を意味すると判断できるわけです。 2、高台院は側近中の側近である考蔵主が三成の縁戚で大津城の開城交渉に尽力していること、三成の三女辰姫を養女にしていること、大谷吉継の母東殿局や小西行長の母などが側近にいること(逆に武断派の親族の女性が全く周りに見当たらない)などから見ても明らかにその政治的立場は三成側です。彼女の心が武断派にあったとしたならば、なぜ彼女の周りがこのようなメンバーで構成されているのか説明して欲しいものです。彼女が東殿局を代参させたのも秀家の出陣式が家康打倒のためだったという状況証拠になります。また、関ヶ原のあと、高台院が慌しく宮中に逃げ込んだりしているのも、彼女が家康の報復を恐れていた証拠でしょう。津田三郎氏は俗説に沿って西軍の残党の報復を恐れての行動と推測していますが、これは三成らの処刑の3日後に家康が上洛する直前の話で、当然当時の京都は東軍に制圧されており、そのようなことはあり得ません。 3、事前の根回しがどの程度あったかは推測になってしまいますが、確かにハッキリした証拠があまりにも少なすぎます。私が三成や高台院が首謀者ではなく、秀家が挙兵の発起人だったと考えるのは、三成や高台院のような賢明な人が首謀者なら当然根回しをすると思うからです。真田昌幸、大谷吉継、佐竹義宣、津軽為信など、三成と最も仲の良かった大名たちに全く事前の相談がなかったことは史料や彼らの行動で確認できます。秀吉への報恩の気持ちが強い秀家が血気にはやって家康打倒を宣言したために、彼を見捨てることができなかった高台院や三成が支持せざるを得なかったと見るのが最もうなずける説明ではないでしょうか。ただしこれは私の推測なので、記事にするほどのことではないと思います。--漬けマグロ 2008年1月14日 (月) 14:26 (UTC)[返信]

お返事ありがとうございました(返事が遅れたとはまったく思っておりませんので気になさらないでください)。こんな質問をした理由は、最初に“秀家の出陣式が上杉征伐のためというのは全くの誤りです。”と断言されましたので気になったわけです(状況証拠だけでは有罪になり難い、といったところです)。根回しに関していえば、三成が首謀者だとしても同じことが言えましたね。--Blowback 2008年1月14日 (月) 15:57 (UTC)[返信]

blowbackさんがそういう結論を導いたのが不思議で仕方ありません。明確な証拠がない限り、秀家が家康に協力しようとしていたとか、家康の戦勝を祈願したなどと思うほうが間違いなのです。そうでないと明らかな矛盾が生じるのですから。また、三成が首謀者でなぜ同じことが言えるのでしょうか。三成が真の首謀者なら、当然事前に真田昌幸や佐竹義宣や津軽為信や、特に親友の大谷吉継に相談しないわけがないでしょう。彼らに相談せずに誰に相談するのでしょう。毛利や島津や上杉はわずか19万石の三成が容易にコントロールできる相手でないことは明らかです。あるいは独力で家康に勝てると思っていたとでも言うのでしょうか。そんなわけがありません。だから三成は秀家に引きずられたと見るのが最も頷けると書いたのです。

私の書き方がまずかったでしょうか、どうも勘違いなさっているようです。私は自分の中ではっきりどっちだと結論を出していません(漬けマグロさんのご意見のほうに傾いている派ではありますが)し、現状で出す必要もないと考えています。
根回しの方は、秀家にしても三成にしても、「ちゃんとやっておくべき事をやっていなかった」という点に関して両者同じ事が言えて、私がわざわざ「秀家がちゃんと根回ししてなかったのは云々」と問うたのは愚問だったな、ということです。ご理解いただければと思います。--Blowback 2008年2月15日 (金) 17:07 (UTC)[返信]

了解しました。こちらこそ勘違いしてすいませんでした。--漬けマグロ 2008年2月16日 (土) 16:59 (UTC)[返信]