ノート:宗教/過去ログ1

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全ての宗教が科学というわけではありませんし、全ての宗教が「知る」ことを目指してはいません。snufkin 15:25 2003年3月21日 (UTC)

たびたびすいません、
>宗教は象徴をもっている場合がある。宗教は集団で行う儀式をもっている場合がある。
象徴または儀式をもたない宗教があるのでしょうか?snufkin 16:53 2003年3月21日 (UTC)

  • ある場合を知っているけど、ない場合を知らないだけの可能性があるので、そういう書き方にしました。
    • とりあえず、仏教は今はシンボル=象徴はありますが、ゴータマ・ブッダの始めた当時はなかったそうです。ボクもそう聞いていましたし、仏教の記事にそう書き込まれています。(ボクが書いた部分ではないです)。
    • 儀式ですが、「儀式」と「修行」はたぶん違うものです。儀式があるけど修行がないものや、その逆もあると思います。
    • 例えばですね、「自由に生きること」を宗教にすることもできると思います。その再、シンボルも儀式も修行もなくて作れるかも知れないです。「普通に生活すること」がその修行のやりかたと言う場合もありかと思います。
    • 日本人は意識していないですが、「日本人の常識/風習」は宗教の様なものです。他の民族と混ざりあっていないので、特に明確に宗教化していないだけだと思います。(「当り前じゃん」で住んじゃうし、「当り前じゃない」って虐げられることもなさそうだし)。
ただ、意味を定義する辞書じゃないから、きっちり定義しなくても良いんじゃないかと思います。
『宗教は象徴をもっている場合が多い。宗教は集団で行う儀式をもっている場合が多い』、に直しておきます。
--Setu 19:31 2003年3月21日 (UTC)

    1. 仏教の象徴の一つは仏です。具象である必要はありません。
    2. 儀式は定型化された宗教的行動なので(宗教として行われる)修行は儀式です。
    3. あたりまえですが既存の宗教が対象です。
    4. 「日本人の常識/風習」の一部は宗教ですね、何か関係があるのでしょうか。

きっちり定義するのが目的ではありません。各論の列挙はいたずらに議論を招くのではないかと思ったからです、お題がお題なだけに。 snufkin 04:19 2003年3月22日 (UTC)

■宗教と科学の関係はホットな話題なので別項目をもうける方が良いと思います。「外側の科学」、「内側の科学」に関する記述もその中に盛り込んではいかがでしょうか。snufkin 22:20 2003年3月22日 (UTC)

  • 「宗教と科学」を作って、記事を移動します。時期が来たら独立させるつもりでしたが、また早いかと思っていました。--Setu 04:23 2003年3月23日 (UTC)

■前述した「場合がある。」のお返事お待ちしています(のんびりです:-)。snufkin 04:38 2003年3月23日 (UTC)

  • 「場合がある」は既に「場合が多い」になってますが、断定する意味はありますか? 断定すると「宗教」はお題ががお題なだけに…。議論が起きる可能性があります(既に起きてる?) --Setu 07:13 2003年3月23日 (UTC)

■「場合が多い」とわたしの書いたものとは意味が異なります。変える理由を伺っていますし、 setuさんのお考えに返答もしました。「ない場合を知らないだけの可能性がある」、「断定すると…議論が起きる可能性があります」は返答になっていません。

「世界の真理や仕組みについての分野」は一部の宗教の一部の特徴です。第一~第二段落を別項目にすることを提案します。snufkin 03:39 2003年3月24日 (UTC)

  • 「場合が多い」は「ほとんどの場合。。。を持ち、例外は知られていない」でも良いです。
ただ、言い切ると100%と言うことになるので、誰かが宗教を持って来ても「。。。を持っていないので宗教とは認めません」とお役所の様な事になってしまうなあと、思っているだけです。「100%に限りなく近い模様」という事ならボクは意義はないです。
反例がないからと言っても、証明にはならないと思います。もし、世界中の宗教を調べたとか、調べた人が言ってるとか、宗教学会での通説になっていると言うのなら、仕方がないですが。
「世界の真理や仕組みについての分野」が一部の宗教の一部の特徴と言うことでしたら、特徴の一部に移動します。てっきりそういうものだと思っていたのですが、違うと言う方がいると言うことは、多分、違うと言うことです。(とくに、宗教では理論や理屈が中心ではないですから)。
ボクの書いた事でも、違うと思ったら、変えて構いません。ただ、ボクのやり方としては、人の発言は消さずに変えるのが好みです。移動するとか、別の説明を並べるとか、言葉を足すとか。違うと思って消したい時は、多分、ノートで指摘すると思います。明らかに違うと思ったらその場で直してからコメントしますが。
沢山の意見がならんで、出来て行くものだと思っています。また、マイナーな意見は、マイナーな意見として分かる形で残したら良いと思います。
--Setu 07:00 2003年3月24日 (UTC)

■「場合が多い」について。
setuさんが挙げられている理由は「宗教」の記述についてではなく、「記述される事柄全て」に当てはまってしまいますよ。
また、学会で通説になっていなかったらどうなるのですか?
■「世界の真理や仕組みについての分野」について
「特徴の一部」って何ですか?(泣)。 ■精神世界について
これに関する記述は「ニューエイジ」に移した方が適切と思われます。
snufkin 21:39 2003年3月24日 (UTC)


Setuさんの記述を活用しつつ、もう少し一般的に「宗教とはこんなものだと思われている」という点を中心に書き直してみました。それほど深く考えて書いたわけでもないので、「ここは違うんじゃないか」という点があったら特に断りなく直して下さって構いません。
それを見て「いや、その直し方は違うんじゃないか」と僕が思ったらそのときはまた相談しに来ます。:-)

あと、以下の部分は、うまく組み込めなかったので引用しておきます。特に「精神世界」よりも「神秘主義」や「ニューエイジムーブメント」の方が項目名としてはいいだろうと思って関連部分を書いたのですが、「精神世界」という語の含みをカバーできているかどうかはちょっとよくわかりません。

場合によっては、人々の生活の全てが宗教のなかにある場合もある。また、現代の多くの人々に見られるように、宗教との関係をほとんど持たない場合もある。
宗教を組織として捉える場合と、宗教を個人的な真理などの探求と捉える場合がある。前者の場合、個人の行動や思想を宗教がある程度規定する。後者の場合は、探求者は各種の宗教から情報を得ることを自由に行い制約されないことが多い。前者を特に組織宗教と呼んだり、後者を宗教性や、精神世界と呼んで区別することもある。

Tomos 23:58 2003年3月24日 (UTC)

■Tomosさんお疲れ様です、とてもわかりやすくなったと思います。
ただ宗教の名のもと起きた争い、殺戮、戦争について触れられていませんね。宗教の思想的な側面に立ち入ると、宗教の排他性、残虐さがぼやけてしまいます。
わたしがここで象徴と儀式について書いたのは(ギデンズの受け売りもあるが)思想面とのバランスをとるのに有効な見方だと思ったからです。新新宗教、ニューエイジの極端な一般化・相対化への予防線でもあります。残念ながらTomosさんのお気に召さなかったようですね。
わたしは新新宗教、ニューエイジを排撃するつもりも理由もありませんが、「宗教」項が特定の宗教に偏ってしまうのは反対です。snufkin 00:57 2003年3月25日 (UTC)

  • Tomosさんありがとう。とても良い感じです。良い記事になっていると思います。英語版を翻訳しないと行けないかなと思いましたが、必要はなくなったと思います。
「信じる」については、そうじゃない場合もあると思ったので追加しておきました。位置的に正しいかどうか分かりません。
「組織宗教 と 宗教性の探求」を 最後にいれておこうと思います。組織宗教を離れた宗教性の探求がニューエイジ・ムーブメントにつながっていったように説明できると思います。場合によっては、2500年前の釈尊も当時の組織宗教を離れた宗教性の探求から始まった例になるかもしれないです。カーストなどの権威に対抗して広まっていったのですから。インドの宗教から必要のないものをソギ落して、宗教性だけを受け継いだのが仏教の成立のように見ることもできます。
また組織性の強い、特に排他的な一神教が原因になった戦争の例などに結びつけて行くこともできると思います。
--Setu 06:52 2003年3月25日 (UTC)

とりあえず気に入っていただけたのならよかったです。

僕の書いた部分では、「一般に宗教と考えられているのはどんなものか」を前に出しました。「厳密に宗教を定義しようとするとどうなるか」は後回しになっています。最後に、「でもこういう定義にも限界がある」という形で禅の話をしたらいいんじゃないか、と思いました。(あまりできませんでしたが。)まあ実際に、上座部仏教は宗教なのかどうか疑問に思う人もいるわけですし。
そんなわけでSetuさんの「信じる」についての記述は、最後に持ってくると流れ的にいいのではないかと僕は思いました。
それから、象徴と儀式の問題ですが、僕の理解不足で書けなかっただけです。Snufkinさんの考えている象徴の意味や、考えがよくわかっていない気がします。
「宗教とは象徴と儀式を持ったものである」というような定義がよいと思ったのでしょうか?
あるいは、「宗教の特徴の中には象徴と儀式が含まれる」(他にもあれこれ含まれるものがある)ということでしょうか?
ギデンスの説について書くべきだということであれば、「宗教の定義についての様々な学説」という類の書き方で冒頭か最後に加えるといいように思います。「多くの学説で指摘されているのはAとBとCとDという特徴で、他にEやFやGを挙げる説もある」といった類の記述が冒頭に来るといいな、とは思います。

あと、宗教の残虐さなどの話ですが、これは是非記事中にあるとよいのではないかと思います。戦争だけでなく、新興宗教が引き起こす社会問題、アメリカのカトリックの司祭達による子供の性的虐待など、宗教がニュースになる時には社会問題として結びついていることも少なくないと思いますし。

いずれにせよ、よかったらいろいろ添削して下さい。

自分の記述した部分について他に考えたこと:

  • 道教や儒教についての記述が抜けてました。それを持ち出すと、仏教ももう少し扱い易くなるのではないかと思います。
  • 宗教には必ずしも制度があるわけではない、ということを書いた最後の部分ですが、2つの物事を一緒にしているのを分けた方がいい気がしました。
    • 新しい宗教が興るときには既存の制度の外で起こることが多いわけですし、制度批判をするならキリスト教の宗教改革でもやったわけです。ニューエイジの独特さはそういうところにはないような気がしました。
    • そもそも制度化が起こりそうにない、特定の教祖や神や教義を共有する集団として閉じそうにない、という点がニューエイジの特徴で、それは「あの予言者もこのシャーマンも同じ地球外文明からのメッセージを受け取った」「そしてそのシャーマンはこんな教えも唱えている」というようなところで人がそれを信じたりするという印象があります。これを宗教性と言うべきなのかどうかわかりませんが、これは「既存の宗教の外に新しいもうひとつの宗教を創る」というのとは質的に違うと思いました。

最後に、禅宗が非教条主義的なのか、という点についてはよくわかりません。Setuさんが禅のそういう部分を大切にしているのだろうなというのは他の記事などから察していたのですが、禅一般、あるいは仏教一般の傾向としてはどの位あてはまるものなのでしょうか? たとえば道元の正法眼蔵には、時間や永遠についての話がトイレの正しい使い方についての教えと、同居していた気がします。そういう教えに忠実に生きようとする人たちが永平寺にいることを考えると、禅宗が教条主義的な宗教ではないと言えるのかどうか、疑問を感じました。また、一般に、禅宗は制度化されていないかというとそんなことはないと思います。

あるいは、例えばキリスト教徒と自称する人たちが教会に行かず、食事時に祈りをささげることもなく、毎日聖書を読むわけでもないけれども、だからと言って破門されることもないし、たまに訪れた教会で咎められることもない、といったことと比べて考えると禅がどう特別なのか、といった辺りとの比較で考えていくともう少しわかりやすい説明が出来るでしょうか?

ただ、その一方で、「単一の神を信じることが他の神を信仰することに対する非寛容につながることがある」というのは、珍しい意見ではないのでそうした意見があることを記述・説明すること自体は問題無いだろうとも思います。

Tomos 10:28 2003年3月25日 (UTC)

  • 禅を例にあげたのですが、多分他の多くの宗教もそうだろうと思います。「禅」が、特に特別というわけではなく、「例」をあげとかなくちゃ行けない気がしたので、多少そうだと知っている禅をいれました。
教義というのは、宗教的知識に書き換えました。決まりは禅には沢山ありますが、基本は不立文字で、悟りは言葉には表現できないが基本です。 同じ事を老子もいってますよね。 言葉で表現できれば信じる事は可能ですが、表現不能なら直接知るしか方法がないわけです。
たとえば「本質は無である」と知識で言っても、信じこんで言っても、OKにしてくれないのが禅だと思います。「無を知り、無になり切って、無を体現して見せないとならないのが禅」なのではないかと思ってます。禅に深く入ったことはないので禅がそうなのかは言い切れませんが、聞いたり読んだ話ではそうですし、禅ではないけれど悟りを教える人達はそうです。だから深かれ浅かれ、ゴータマ・ブッダの悟りや、ボーディダルマの悟りを直接「知る」のが道だという感じです。
ただ、キリスト教だとしても、「神は愛」をただ信じるのと、「神の愛を知ること」はまた違うと思います。神の愛を自分の中で直接こういうものだと知ると言うことです。そういうのはキリスト教でもしている人達はいます。目が見える人は光を信じる必要はなく、光を知っています。最初から目の見えない人は光があることや光の性質を信じるしか方法はないです。知ることができると信じることを必要としないです。


目を閉じたまま、光の存在を議論したり、光の性質を知識として集めている人がいるとします(まあ、そんな人はいないですが、例として)。そういう人に、目の明け方を教えてあげると、一辺で光の事を知ります。ただ、知識を信じる(信頼してついて行く)ことや、教義にしたがって生活すると「知る」に至るばあいもあると思うので、「信じる」に対する良い悪いの判断は入れないつもりです。
--Setu 18:32 2003年3月25日 (UTC)

宗教と政治が完全にいったいだった例は近代より前にも少なく、また、世界的に見て宗教は現在でも政治に影響力をもっていますので、下記部分を大幅に変更しました。

  • 近代になって宗教と科学、宗教と政治はそれぞれ独立した場合が多い。国家の最高権力者と、宗教のリーダーが同じであったり、最高権力者が宗教のリーダーによって任命や、承認されたりした場合があった。これはそれまで生活や社会と区別がしづらかった宗教を独立したものとして改めてとらえなおすきっかけともなった。

I t 16:55 2003年3月25日 (UTC)

  • 良い感じです。--Setu 05:33 2003年3月26日 (UTC)

語源と機能を追加、定義および国家との関わりを修正しました。が、下記記事との整合性に少々難有り。気になりましたら、適宜修正してください。I t 09:00 2003年3月31日 (UTC)

  • 単なる質問ですが、『幕末期に翻訳・作成された単語』ということで、幕末以前には何と言われていたんでしょうか? 単に信仰って感じかな? --Setu 09:48 2003年3月31日 (UTC)
  • 手元にある本によると、当時、思想関連では「宗旨」「教法」「法教」「宗門」などと使われていたそうです。宗教一般をさす語としてはじめて使われたのは1869年に日本と北ドイツ連邦で結ばれた修好通商条約中で使われた"Religionüsubung"の訳だそうです。ちなみにそれ以前にも「宗教」という語は一応、仏教(宗派の教え?)をさす用語としての用例が無いこともないそうです。まあ、おそらく幕末より以前には、「宗教」に相当する言葉が無くても問題なかったんじゃないでしょうか。--I t 15:06 2003年3月31日 (UTC)

ところで質問ですが、

  • 宗教が何であるかについて、一つの視点を与えてくれる「儒教は宗教なのか思想なのか」、という論争がある。

この論争って、どんなものでしょう?この文章を読んだ人はおそらくわからないし、僕は良く知らないです(儒教については辞典くらいしか読んだこと無いですが)。何か具体的な事例や論点、あるいはリンクはありませんか? 儒教の起源は周王朝の祖先祭祀や儀礼への復古運動?がその起源ですので、中国の王朝の文化を基礎とした宗教(復古運動)として問題ないと思います。その後、呪術的傾向が強まった時期もあったそうですし。儒教から成立した朱子「学」ならば、儒教を基礎とする学問であって宗教ではないとするのかもしれませんね。日本の中世の儒教は仏教とセットだったそうなので、独立したの宗教とは言えないのかもしれません。江戸時代の朱子学は、中国文化ではなく日本文化の上に接がれた支配階級の学問ですし。なんにせよ、「儒教は宗教なのか思想なのか」とは、誰がどのように議論しているものでしょうか。おそらくその議論には、儒教の定義とともに宗教の定義がなされているはずで、しっかりしたものならいいリンク先になるでしょう。(正直に言うと、今のままでは直上の僕の文章とつながりが悪いので、修正か移動か削除したいです。) -i_t 05:57 2003年4月5日 (UTC)

儒教の書物で読んだことがあるのは論語(孔子と弟子の言行録)だけですが、その範囲で言えば、儒教は宗教ではなく思想です。確かに儒教の起源は周王朝成立時点での祖先祭祀や儀礼への復古運動です。が、論語に「子、怪力乱神を語らず」とあるように、宗教くさいことや現実的でないことは何も言っていません。祖先祭祀について言っているのは、礼(祭祀のやりかた等。たとえば、身分不相応な立派な葬式をしてはいけない(先進篇第十一章)など、要するに礼儀作法の延長にあるもの)についてだけです。あとは、為政者は徳を積んで民衆が自然とそれにならうようにするべきだ(行政官の心得)とか、生き方の立派さなどの人物評、自分が重く用いられないことへの嘆きなどが、論語の主な内容です。その後の儒教についはなんともいえません。詳しい人よろしくです。
-Sutou 06:50 2003年4月5日 (UTC)

こんにちは。ご指摘の点に限らず、今のこの記事はいろいろ面白い点についての説明などもあるけれども、全体として要領が悪いというか、うまくまとまっていないと感じています。誰かが思い切った再編成をするべきではないか、と感じました。(自分でやろうかとも一瞬考えたのですがやりませんでした。誰も手を付けないようならやってしまうかも知れません。)

それはそうと、儒教が宗教であるかどうかですが、「儒教には神の概念がない」点がよく指摘される点だろうと思います。ただ、シャーマニズムや「天」「祖先の霊」などの観念と結びついているから宗教、という考え方もあるのだったように思います。これが具体的に何か「論争」の形をとったかどうかは僕は知りませんが、「儒教は宗教なのか?」という疑問自体は、素人でも学者でも一応扱うことがあるものだと思います。具体的に詳述するには不足かも知れませんが、そういう議論があるということを知るには例えば以下のようなサイトが参考になると思います。

教育基本法及び教育振興基本計画について
中央教育審議会 第26回基本問題部会 議事録
2003/02/17
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/002/030203.htm
(中嶋という委員の最初の発言)

儒教は宗教か
世界宗教の社会学入門 第11回 いわき明星大学開講科目
(2002/12/12)
http://www.iwakimu.ac.jp/~moriyuki/swr/11/11.htm

また、
京都産業大学 日本文化研究所 活動記録
http://www.kyoto-su.ac.jp/department/ksuijc/ijcj4000.htm を見ると
村上一三「儒教は宗教か ‥‥西洋哲学から見た儒教‥‥」
という題目の発表があることがわかります。これは後に同大学の紀要にも掲載されたようです。

沈黙の宗教
武川正吾 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~takegawa/columns/col19981008.html これは専門家によるものではありませんが、加地伸行『沈黙の宗教--儒教』という本の感想で、同書で儒教が宗教であるか否かが議論されている旨が記されています。

Tomos 07:29 2003年4月5日 (UTC)

■儒教についてです。
Sutouさんは原典から引用されていますがそれでは原理主義と同じになってしまいますよ。 Tomosさんが引用されたサイトは全て、日本の儒教が宗教か思想かというお題ですよね。中国、韓国、その他ではどうなのかという議論ではありません。日本の宗教事情の特異性から出てくる話題ではないかと思います。
儒教が宗教か否か、というのはキリスト教を基にした宗教観に対する効果的な反証として宗教学、社会学で取り上げられています。前提は、儒教は宗教、です。
Tomosさんへの遠い返答ですが、 >象徴の意味や、考えがよくわかっていない気がします。「宗教とは象徴と儀式を持ったものである」というような定義がよいと思ったのでしょうか?あるいは、「宗教の特徴の中には象徴と儀式が含まれる」(他にもあれこれ含まれるものがある)ということでしょうか?

Setuさんと応答してから多少調べてみたのですが、ぼくがノート:宗教で書いた事は、社会学で認知されている'宗教'に限定しなければいけませんでした。いわゆる'人々の営み'としての宗教ととらえるが個人的な要素(哲学、信仰)を含みきれていないと指摘されているからです。含みきれていないとされる部分がまさに議論百出しているわけでそこから定義困難になってしまっているようです。
とはいえ、象徴と儀式という特徴の提示は、主流の宗教とその他多くの(ある意味土着の)宗教を内包する見方として一定の認知はされているはずです。もともと最低限の共通要素として注意深く選ばれた経緯があります。ですから、お答えは「定義ではなく特徴」となります。snufkin 18:26 2003年4月6日 (UTC)

  • 利用者の立場から言うと、宗教だと言われるものが、宗教をたどっていける「世界の宗教」にあるのが良いと思います。「世界の宗教」にあるものが、ウィキペディアでいう宗教となります。100%宗教ではない場合は、「宗教に含まない場合もある」などのコメントをつけて、実際の記事で説明をしておいたら良いのではと思います。
儒教は、江戸時代に国教のひとつだったと記憶しているんですが、違うでしょうか? 100%かどうかはともかく、含む場合もあったら、何らかの形で含めるのがウィキペディアのスタイルだと思います。
宗教の定義ですが、「誰かが言ったことを鵜のみに信じる」ような事があると、まあいわゆる宗教になると思います。その意味では、儒教は宗教ですし、場合によってはマルクス主義だって宗教になってしまいます。梅原猛さんの本で、「マルクス主義は、ユダヤ教の神を他のもので置き換えた場合に見える」そうです(それゆえに絶対的な真実があり、排他的なのだという指摘)。
個人的な意見としては、
  • 信仰宗教:誰かが言ったこと(または伝わっていること)をそのまま信じる宗教。
    • 検証のない科学はないので、科学ではないです。
  • 探求宗教:探求によって宗教知識を(個人的に)検証しながら行う宗教。
    • 科学的な手法では検証できないので、科学ではないです。
と、区別したいですが。そういう分類って宗教学にはないんでしょうか?
--Setu 06:11 2003年4月7日 (UTC)

中国などの儒教の件:余り僕の出る幕ではない気がしますが、「天子」「天命」という考え方は初期の儒教にあったものなので、儒教は中国においても宗教だった、という話にはならないのでしょうか?

マルクス主義の件:「宗教」というのはそういう意味でも使われることがあると思います。ある道徳的な価値観や政治的な立場などを「信じている」というのはよくあることでマルクス主義に限ったことではないように思いますが。宗教は単に「信じること」だけではなくて、神のような畏怖や尊敬の対象になるような存在や力を信じること、とするとより一般的に宗教だと考えられているものになるんじゃないでしょうか。

儒教を含めるか否かの件:注釈付きであれ、なしであれ含めるのがいいだろうと思います。

探求宗教の件:禅の他にはどういうものがありますか?

Tomos 07:23 2003年4月7日 (UTC)

容量が30kbを超えて、WARNINGが出るようになってしまったので、一言だけ。私が論語をもとに文章を書いたことについて「Sutouさんは原典から引用されていますがそれでは原理主義と同じになってしまいますよ。」というのは、ちょっとひどい(T_T)。それだと、聖書・コーラン・お経・日本書紀・十七条憲法などの一次資料を引用しても原理主義者にされてしまいますがな... - Sutou 08:35 2003年4月7日 (UTC)

Snufkinさんのいうように、「儒教は宗教か」はキリスト教を基にした宗教観に対する反証として使われているようですね。そもそも宗教という概念が欧米から輸入されたものであり、宗教研究も欧米が先行してましたから、「宗教」の基準となる視点としてキリスト教的視点が強いといえるでしょう。それでは不都合がありますし、あるいは、欧米でも宗教研究が進むにつれて定義が変わっているので、、、定義が変わっていること、およびその経緯を記事にすべきですね。神道非宗教論なども併せて書くとよさそうですね。 蛇足ながら、Sutouさんのように原典の内容を宗教とする態度は、キリスト教「プロテスタント」的な宗教への姿勢ですね。これもひとつの視点、かな。
「探求」「信仰」は、ある程度以上の組織の宗教になれば、大概両方の面が出てきますよ。修行や神秘主義は「探求」になるし、修行をしない在家信者はどちらかというと「信仰」でしょう。
1週間ほど時間をもらえるならば、宗教ページを僕が(あるいは他の方が)一旦まとめなおしてみましょうか?その後に修正していただくということで。

ところでWarningも出てることですし、過去の履歴はを見れますから、ノートを仕切りなおしとする(一旦真っ白にする)のはどうでしょうか。i_t 13:20 2003年4月8日 (UTC)

  • ありがとう。「探求」「信仰」はほとんどの宗教にあるって書こうと思ってましたが、i_tさんが発言してくれたようです。ある宗教のある宗派が、探求的傾向が強いとか、信仰的傾向が強いとか、ある宗派は探求で信仰を排除とか、ある宗派は信仰のみで探求を禁止とか、そういうのはあると思いますが、探求のない宗教はほとんどないと思います。
スーフィーの様にイスラム教の中にありながら、隠れて探求する要素の多い宗派もありますよね(全部が隠れてる訳じゃないのかな?)。
インド最大のモスクと言うのに行って来ましたが、モスクのドームの下で手を合わせると、金色の光の様なのを感じて、「ああ、これがアッラー」だと思いました。太陽意識とか、銀河意識とかと関係していると思います。信仰も「知っていて信仰する」(感じていて信仰する)のと「鵜のみに信仰する」のがあるように思います。バリに行って祭りをみて感じたのは、知っている人達によって信仰されていると感じました。非常に繊細な人々です。
長くなった会話は、上の区切りの線の上を、子供のノートのページに移動するとどうでしょう? (名前の付け方のルールってあるのかな? ノート:宗教/過去ログ1とか?)。(あとで、ボクの発言のうち、古いので必要はないと思われるものは消そうと思います)。
--Setu 16:26 2003年4月8日 (UTC)