ノート:山内容堂

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出生日について[編集]

「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞社編)には、山内豊信の出生日は「文政10年10月9日(1827年11月27日)」と書かれています。また、かつてあったオンライン版ブリタニカ日本語版には「1827年3月7日」(新旧暦の別は不明)と書かれていたようです(現在は見ることができません。ブリタニカ日本語版オンライン版には間違いが結構あり、これもそのまま信用はできません)。

現在書かれている「文政10年10月29日」の出典は何なのでしょうか。もし出典が出せないようなら、出典の確実な「文政10年10月9日」に書き直すべきと考えますが、いかがでしょうか。nnh 2008年10月18日 (土) 12:36 (UTC)[返信]

人物に関しては知りませんが、 「文政10年10月29日」を、グレゴリオ暦に変換すると「1827年12月17日」、ユリウス暦でも「1827年12月5日」なので、 いずれにせよ現在の記述「文政10年10月29日(1827年11月27日)」は誤りですね--aki4 2008年11月26日 (水) 14:36 (UTC)[返信]


国会図書館の「近代日本人の肖像」http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/206.html では文政10年10月9日生まれとなっていますね。出典の確かなものへ書き替えて構わないと思います。61.124.18.23 2008年11月27日 (木) 10:29 (UTC)[返信]

岩倉具視の一喝について[編集]

有名な小御所会議での、容堂への岩倉具視の一喝は「丁卯日記」と『岩倉公実記』にありますが、どちらにも容堂の批判についての記述はあるものの、容堂の批判に対する叱責は『岩倉公実記』のみであって「丁卯日記」には不敬発言への叱責・反論はなく、その他同時代史料にも岩倉の叱責は記されていないそうです(高橋秀直の「幕末維新の政治と天皇」より)。 天皇の権威を高めるために『岩倉公実記』に挿話として登場した、という説があることも載せたいのですが、どうでしょうか。--まーち 2008年12月8日 (月) 12:36 (UTC)[返信]

東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介[編集]

「東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介」という記述がありますが、中岡慎太郎の脱藩は吉田東洋暗殺後であることは明らかであり、記述の正確さに欠けると思われます。

藤田東湖の薦めで容堂と改めた[編集]

「前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。」という記述がありますが、藤田東湖の没年は安政2年10月2日(1855年)であり、「藤田東湖の薦めで容堂と改めた」とは藤田東湖の没年を鑑みると不自然ではないでしょうか?

「藩主就任」について[編集]

「藩主就任」 のセクションにおいて、豊信が土佐藩主に就任した日付を記載したいのですが、「藩主に就任した」との記述がある文献を今のところ見つけられていません(「家督を相続」などの記載は存在しています)。 豊信の藩主就任についてや、藩主に就任するということについて一般的な事実の記載がある文献について教えていただけると幸いです。 Dassaim会話2022年1月9日 (日) 09:12 (UTC)[返信]