ノート:山家集

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内容が西行の記事になってしまっている[編集]

内容が山家集じゃなくて西行になっているような… --竹麦魚 2004年12月15日 (水) 21:20 (UTC)[返信]

こちらのページにある文章と一部類似が見られるようですね。。[1] ちょっと咄嗟に著作権に関わるかどうかまで判断できないですが、気がついたのでメモしておきます。--Tomos 2004年12月15日 (水) 22:51 (UTC)[返信]
その後進展はないようですが問題は無いのですか? --122.103.121.178 2007年4月17日 (火) 01:19 (UTC)[返信]

加筆および除去した部分の報告_2005年4月[編集]

これは全く、山家集の紹介というより西行の伝記ですな。あまりに見苦しかったからノートに移し、少しだけだが家集について加筆した。

西行法師(1118年 - 1190年)は俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、父は左衛門尉康清(やすきよ)、母は監物源清経の娘。現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれ、平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔であった。佐藤氏は代々、宮城の守衛をする家柄で、紀伊国那賀郡の荘園・田仲荘(たなかのそう)の預所をしており、裕福な豪族であった。

外祖父の源清経は、今様や蹴鞠の達人で、遊里にも通じた数寄者であった。こうした境遇の中で育った義清も、父方の「武」と母方の「風流」を兼ね備え、16歳で徳大寺家に仕え、18歳の年に巨額な任料を納めたことによって、左兵衛尉に任じられ、主家徳大寺家の関係もあって鳥羽院の北面の武士として仕えるようになった。

しかし、1140年保延6)23歳の時に突如出家をする。理由は定かではない。

出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進してたが、1144年天養元)頃、陸奥、出羽へ旅に出た。

1149年久安5)前後に高野山に入り隠遁する。その間も和歌に精進し、多くの歌人と交わったが、崇徳院徳大寺実能徳大寺公能藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。

1168年仁安3)には四国へ修行の旅に出て、讃岐国の崇徳院の白峰陵に詣でて、院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。

1180年治承4)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。

1186年文治2)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。

陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1189年(文治5)、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年建久元)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。

--以上の署名のないコメントは、Yume149会話投稿記録)さんが 2005-04-09 06:08:22 (UTC) に投稿したものです。