ノート:文系と理系/過去ログ1

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精神医学と心理学について[編集]

本文中の「理系に属する精神医学が文系に属する心理学を基盤としているように」の一文は事実誤認です。
精神医学と心理学は一部重なり合う部分もありますが、出自も目的も異なるもので、一方が他方の基盤となるというような関係ではありません。Diogenesis 2004年11月16日 (火) 19:18 (UTC)

私は詳しくないので書き直せませんが、「対象が重複している」とか、「互いに影響を与えている」関係と言えばいいのでしょうか。このような関係は、哲学と数学にも言えると思います。Skink 2004年12月18日 (土) 16:27 (UTC)

区別の由来(その1)[編集]

>これは、学問の入り口である大学において、文系に属する学部と、理系に属する学部とで異なる入学試験項目を設けることが多いことに由来する。

むしろ、(旧制)大学への予備課程として位置づけられていた旧制高校において、明確に文科・理科の別が設けられていたことが大きいのではないかと思うんですが。(そこでは、大学入試はあまり重要ではない。)さらにいえば、日本が西欧の学問を取り入れた時期が、専門化がどんどん進んでいる時期で、追っかける立場とすれば全部を一度に追いかけるより、分担して追いかけたほうが早く追いつける、ということだったのでないかと思います。160.185.1.56 2005年8月2日 (火) 03:25 (UTC)

考古学者は炭素年代測定法を用いますが、完全に化学や物理を学んでいるとは到底思えませんし、また事実誤認です。 これは経理担当の職員が電子計算機から得た数字を報告書に記載しているのと同じ感覚であり、ひとつの道具でしか扱っていませんので、「考古学に至っては放射性炭素年代測定など理化学的検査も行う」などというような発言をされると理系人の私から言わせると実に腹立たしいです。これを削除依頼とかえさせていただきます。
--以上の署名のないコメントは、60.42.174.147会話/Whois)さんが 2006年6月3日 (土) 12:37 (UTC) に投稿したものです。

区別の由来(その2)[編集]

パスカルの「幾何学の精神と繊細の精神」あたりから始まったという説を高校生時分に読んだ記憶があるのだが。--以上の署名のないコメントは、59.156.120.56会話/Whois)さんが 2009年5月9日 (土) 17:15 (UTC) に投稿したものです(KurodaSho会話)による付記)。

区別の由来(その3)[編集]

リベラル・アーツは大きく二つに分けてはない別物ですが、この学者が言うには当時西洋で学問を理系と文系(宗教学を含めた文系)に分けたのはデカルトらしい。--以上の署名のないコメントは、たまに無敵会話投稿記録)さんが 2013年7月3日 (水) 22:31 (UTC) に投稿したものです(KurodaSho会話)による付記)。

全体にわたる改稿を施しました[編集]

2015年10月1日 (木) 18:36‎(UTC)において、記事全体にわたる改稿を行いました。

  • 序章(定義文)について、改稿前は単に「学問を大まかに分類する方法」と述べられていましたが、記事全体を見渡す限り、いままで本記事の骨組みを作ってきた方々(以下、「筆者」とよびます)はどうやらその源流を明治以降の日本の教育政策に求めたがっているようです。実際、記事の多くの部分が「日本の高等教育史」とタイトルづけてもいいくらいに教育史に固執しており、またわざわざ「文系と理系」なんて評論めいた名前の記事を立てた初版著者の意図も邪推すると、「そもそも学問を文系と理系に分けるのは明治期の教育官僚の偏見のせいであって、実際はみんな対等で同質なんだ」というプロパガンダのための記事のように思えます(さらに穿った見方をすると、どうやら筆者は「被差別側」、すなわち文系分野の立場から文理平等を訴えているようにも見えます)。わたしがそれに賛同するかはさておき、とりあえず記事全体の要約として、「高等教育の現場において学問を大まかに二分類するための」と述べておきます。加えて、「文系と理系」がまとまった一つの概念ではなく、単に一般社会に定着した「文系」「理系」という用語であるとの定義に変更しました。
  • 第1章は「定義」というタイトルでしたが、定義めいたものを述べているのは第一文のみで、そのあとに続くのは定義ではなく「性質」の説明です(またしてもここに文系蔑視に対する反動のような主張を見出すことができますがそれはさておき)。そもそも「定義」とはある程度厳密でなくてはならず、「文系」と「理系」をそれぞれ「定義」と呼べる精度で述べ切るのは無理があると思います(「人間の活動」ってのは、いったい何だ?「自然界」ってのは、どこからどこまでだ?)。よってタイトルを「概要」に変更し、定義ではない性質の説明を加えやすくしました。
    • 第一文は各学問分野が「対象とするもの」を以て分類の根拠としていましたが、近年では「数理○○学」だの「○○工学」だの、従来文系が担っていた対象が数理的あるいは物理学的アプローチによって再検討される例が増えてきました。それらが一般に「理系」と称して異論ないであろうことを考えると改稿前の定義は古すぎると考えます。しかしながら伝統的に「人間」を相手にする学問が文系で「自然」を相手にする学問が理系とされてきたのも否定しがたい事実ですから、その両方を記しました。
    • 「研究の現場において研究者自身が文理の別を強く意識する機会はなく、自分の専門分野がどちらに属するかをことさらに強調することもない」には異論があるかもしれません。しかし、先述の数理○○学のような、定義の仕方によって文系とも理系ともいわれうるような分野の専門家が、どちらかに決められて目くじらを立てるようなことは無いように思います(もっとも、「文系学部廃止」が政府で検討されている昨今においては、保身のために「理系だ」と言い張る人も出てくるでしょうが)。よりよい表現をお持ちの方はご教唆ください。
  • 第2章「高等教育の準備教育としての文系と理系」も改題しました。旧制高等学校は一応高等教育なので・・・。
    • 「文系入試の数学は難度が低い」との記述がありましたが、一橋大学の入試なんか見ますと果たしてそうだろうかという気が致しますし、微積分を学んでいないはずの文系受験生に回転体の体積を求めさせる京都大学の問題などは、もはや難度が低いというものではないように思います。後に続く文が「数学ができないから文系に進む人が多い」という趣旨であることを考えると、この文は「文系入試において数学はあまり重要でない」ことを主張したいだけなのだろうと思いますので、難度ではなく配点へと論点を換えました。(しかし、数学というのは性質上、きわめて点差のつきやすい科目であって、得意な人なら満点も見込めるので、配点が少し低いからと言って入試全体に与える影響が小さいとはいえないのでは。難関の入試になれば合格できるのは上位数%の受験生だけであって、その上位数%の中に数学の苦手な人が果たしてどの程度いるのか・・・と考えると、後に続く「数学ができないから文系」というのは疑わしい気もします)
    • 「数学ができないから文系を目指そう」に要出典タグがついていますが、どちらかというと出典を要求すべきは「数学ができない中高生が多い」の部分でしょう。「数学ができない中高生が多い」ことが証明されれば、そこから文系志望に流れていくことは(とりあえずは)自然な論理として承服されます。ただ、先ほど小字部分で述べたような事情もあり、あえて「数学ができないから文系を目指そう」にもタグは残しておきましたが・・・。
    • こまかいことですが、地理で受験できる私立大学はほとんどないので、3教科型入試の例から削除しました。些末なことではありますが後で編集合戦になっても困るので一応ここに報告しておきます。
  • 第3章も第2章にあわせて改題したうえで、一つ明らかに話題が異なる段落を分割しました。ここでは便宜上第3.1章と呼びます。
    • 「社会科学が140万人と一番多く、続いて工学が44万人、人文科学が40万人である。理・工系合わせた学生は52万人で、全体の約5分の1である。」とは、おそらく何らかの統計を見て書かれたものでしょうが、本記事の初版がもう10年以上前に書かれたものであることを考えると一体いつの統計なのかはっきりとしません。リーマンショック以降の理系人気というより、過熱する医学部人気で溢れた受験生の受け皿としての理工系人気のような気もしますが)を反映しているかどうかも怪しいですし、そもそも文系は「社会科学」と「人文科学」という大まかな括り(教育学部は人文科学に入れてるんですかね?)でリストアップしている一方、理系は学部単位で比較されているというのも不自然です。医歯薬系についてはどうせ割合で言えば微々たるものでしょうから別にいいのですが、農学などは一定の割合を占めているはずですし、それが示されていないことにもデータの恣意性を感じます。また、筆者もおそらくわかっているように近年ではリベラルアーツ教育のための「教養学部」なるものを置く大学がありますし、慶応のSFCのように文系なのか理系なのかよくわからない学部もありますし、東京大学のように1~2年生がまだ「社会科学」や「工学」などの括りに属していない大学もあることを考えると元データの集計方法を確認したくなります。
    • 技術士試験や徴兵のことは、大学における専門教育とは話題がかけ離れすぎていますので分割しました(3.1章)。
  • 第4章は、私が最も腑に落ちなかった部分です。
    • 第1節にて「学問間のつながり」と称して「数学の応用だけが理系じゃないよ!文系だってね・・・」という主張が展開されていますが、「これらの例だけでも、単に数学や理科との親和性だけが文理を隔てるものではないことが容易に分かる。」とは論理が飛躍していると思います。ここでいう「これらの例」とは「理系でも数学を使わない分野がある」「文系でも数学を使う分野がある」「心理学や精神医学は文理の境界にある」「農学には農業経済学という分野が・・・」などという、いわば「例外の列挙」にすぎません。筆者は後の節で科学とは何たるかという壮大なテーマの考察に取り組んでいますが、本来科学とは共通法則を見つける営みであって、単に「こんなのもある」「あんなのもある」と珍しい例外をコレクションする営みではないのです。よって、真に科学的な「文系論・理系論」を書きたいならば、例外を恐れずにまずざっくりと大枠を決めてしまうという方針をとるべきでしょう。
      • しつこいようですが、本記事は「文系と理系」という記事名でありながら、実態は科学を文系と理系に分類することへの不満・批判、およびその区分を廃止すべしとのプロパガンダのもとで立項された印象を強く受けます。しかしながら、せっかくこうして「文系と理系」というテーマで記事を立てたからには、文理の区分が意味なきものとして唾棄するのではなく、むしろ文理区分の根拠とその意義を積極的に認めて、そのうえで問題点を探求すべきであると考えます。実際に私は、文理の区分には少なくとも根拠はあると考える立場です(まあ、今回の改稿では、元があまりにもアレだっただけに、私の立場をすべて記事に反映することは到底できなかったわけですが)
      • 改稿後の記事にも盛り込みましたが、理系の学問はすべて数学ないしは物理学を軸につながっているのです。改稿前の記事には「理系でも数学的知識が要求されない分野がある」とありますが、その分野を本気で学び、研究に生かそうと考えたときに数学的知識を要求しない理系の分野を、私は知りません。もちろん、数学をあえて「避けながら」理系の学問を平易に解説することは可能ですし、そのための本やテレビ番組なんかも無数に出回っているわけですが、数学や物理学の知識なしに、理系の最前線で研究に従事することは、おそらくどの分野でも無理です(「数学的知識」とは具体的にどの程度までなのか、という議論もあるでしょうが、たとえば高校数学で理系生しか学ばないことになっている微分積分なんかを「数学的知識」と呼ぶであれば、大体の分野に関わってくるでしょう)
    • 第2節の科学論考は扱いに困りました。「文系分野は非科学」とまで過激な主張をした文献を私は存じ上げないのですが、まあおそらく筆者はどこかでそのような言説を見たことがあるのでしょう。しかしそれにしても卑下しすぎです。何とかしたいとは思うのですが、今のところは保留にしておきます。(後の章に「文系と理系をめぐる観念的な印象」とかいう章があるので、そちらに移動してもよいでしょうね)
    • 第3節「学際主義」は、これは「文系と理系を区分する規準」よりもむしろ、「学問の区分と文系・理系」にふさわしい内容です。移動しておきます。
      • しかしその内容については疑問だらけです。「哲学では数学・物理学・化学・生物学が古くから研究されてきた」というのは確かに事実といえば事実ですが、それはまだ学問が哲学から分離する前の話です。タレスとかヘラクレイトスとかが万物の根源はどうたらこうたらと言っていたころのお話です。現代の哲学者は、物理学や化学の研究をしたりはしません。もちろん、物理学や化学から哲学へ転向する人間が皆無とは言いませんが、それは哲学そのものに興味を持ったからであって、「哲学者となったうえで」物理学や化学の研究をしたいのではないでしょう。最初の一文の前半と後半とのつながりが明確ではなく、間にもう2文くらい入れてくれないと理解できない内容になっています。
      • 第2文も順当な論理を構築していません。「こうした」とありますが、「リベラル・アーツ」とは「哲学」の意味ではありません。「古来より存在している」といいますが、いつからいつまでなのか。遅くとも18世紀ごろには、すでに学問は現在の形で細分化されていましたし、そのころの哲学はすでに「哲学」することに専念しており、細分化されすぎた科学全体を俯瞰し分野間の橋渡しをするという世話役のような仕事をする余裕はなかった(実際、そんな仕事はしていなかった)でしょう。
      • 第3文・第4文でようやく現在の話になりますが、前の文との繋がりはさておき、「文系と理系の双方の考え方を同時に扱おうとする態度が要求される分野」とは、たとえば何なのか、具体例を2~3挙げるべきでしょう。というのも、筆者は第1章で「有意な成果や果実を得るためには総合的な知見や能力が重要」と明言し、その後も文系と理系を区別することには概ね否定的な態度を取り続けてきたにもかかわらず、ここに来ていきなり文系の考え方理系の考え方なるものが存在するという前提を持ち出されては、読む方が混乱するだけです(もちろん、第1章と第4章の「筆者」が別人であろうことは知っています。しかし、読む人間にとってはそんなことは知ったことではありません)。まずは「文系の考え方」と「理系の考え方」とやらを説明したうえで(その説明を完成した時点で、もう既に文系と理系を区別することの意義を認めてしまったようなものなのですがね)でないと、学際系とやらの理解はおぼつかないと思います。
      • ところで、「文工融合」という言葉は、私にはあまり聞きなれない言葉だったので軽くGoogle検索してみたところ、どうも静岡大学のウェブサイトくらいしか引っかかりませんでした。その静岡大学のページも、本記事に挙げられている金融工学や経営工学の意味ではなく、情報学の意味で使っていました。しかし用例があるのは事実ですので、あえて否定はせず、「こういう言葉を使う者もいる」くらいの記述に落ちつけました。
    • 第4節の博士号云々も、「文系と理系を区分する規準」とは関係のない内容です。「専門教育での位置づけ」あたりに移動しておきます。
  • 第5章は基本的に、もと第4章にあった「学際主義」節を踏襲したような内容になっているため、重複するようなコメントは割愛します。「学際主義」節の問題が解決しない限りこちらも手を付けられません。
    • 一つ気になるのは、「形式科学と経験科学」節にある「社会科学・言語学」の例です。そもそも社会科学とは複数の学問の総称ですから「言語学」という一学問と比較対照するのは文脈的におかしい(スケールが違いすぎる)わけですが、仮にこれが「(任意の)社会科学」(つまり、社会科学に属する学問ならどれでも)という意味なのだとしても、あるいは単に「社会学」の誤りだとしても、これらはいずれも経験科学であることに間違いありませんから同じく経験科学である言語学と対照するのは「形式科学と経験科学」の例に適いません。黙って除去しようかとも思いましたがひょっとしたら私の学識が甘いだけかもしれないと思ったので要検証タグで様子見です。
  • 第6章「文系と理系をめぐる観念的な印象」はなかなか手ごわい章です。たしかに「文系と理系」は、第1章の末尾にもあるように好奇的ステレオタイプの格好のネタになっており、どこかのシステムエンジニアが著した『理系の人々』なるコミックエッセイも記憶に新しいところです。したがって文系と理系を論じるのであればそれらにも言及する必要があることは理解できますが、まあこういうのは「数学の才能は男女で違うのか」というような大真面目に研究されているテーマもあれば、「理系男子は女の子としゃべるのが苦手」とかいった些末なものまで多々あるわけです(実際、理系は文系に比べて女子が少ないのは事実なので、否定はしませんが)。こういう、世に星の数ほど出回るステレオタイプのうち、どれを選んで解説するか、どれが取り上げるに値するかというのは検討が必要ですね。
    • なお、この章にひとつ、章題とは関係のない「生涯賃金・平均所得」に関する段落がありました。後の章「文理別・学部別収入に関する調査」に入れてもよかったのですが、せっかく「理系離れ」というこれまでにないテーマが含まれているわけですから、新たに第6.1章「文系人気・理系人気」を立てて独立したテーマにしました。ただしそのままコピペすると唐突すぎるので、簡単なリード文を添えました。極端なことは書いていないつもりですが、問題のある記述があればご指摘ください。
  • 第7章「文理別・学部別収入に関する調査」は、真面目に検証しようと思ったら出典を一つ一つ精査しなければならず、面倒なので検証は行っておりません。
  • 第8章「政治における文系と理系」は面白い観点ですが、くだらない情報まで挙げすぎてあたかも(日本の)理系の政治家が多いかのような印象を与える記述が目立ちます。脚注として「前原誠司は法学部出身だが、高校時代は数学と物理が得意であった。また、小沢一郎も政治家を志す前は、「農学者になりたかった」と出演した情報ライブ ミヤネ屋で語っている」という一文が載せられていましたが、高校時代に理系科目も含めた全科目において優秀な成績(いわゆるオール5)を収めていた政治家なら枚挙に暇がありませんし、農学者を目指すだけならだれでもできるわけですから、これらのエピソードを以て前原氏や小沢氏が理系(寄りの人間)であるとは言い難いでしょう。この文については、勝手ながら除去させていただきました。
  • 第9章・第10章「○○的と捉えられることが多い学問」は、先週までに私が多く加筆した章の一つですが、原則として既存の記述の削除はしていませんでした。今回の改稿で疑問に思われる部分を除去しました。
    • 「家政学が理系に分類されることがある」とまで言い切るのはやや言い過ぎな気もします。確かに家政学には理系寄りの分野もありますが(実際、私も苦し紛れにそう書いた)、ほとんどは対象・手法ともに文系的であることが多いように思います。しかし、日本家政学会が「ウチらは総合科学や」と高らかに宣言なさっているわけですからここは立場を尊重してあからさまな文系扱いは避けるべきでしょう。よって、結論部分は除去せず、そのかわり「中学校の技術科が工学と対応してるから、家庭科もきっと理系じゃないの?」という支離滅裂な理由づけ(全く…そこまでして家政学は理系であるという結論にもっていきたかったのかね)を除去し、「家政学にも理系寄りの分野がある」という主張で代替しました。
    • 「法学は文系・理系から独立した分野(法律系、法系)とする考え方も存在する」というのは、聞いたことがありません。「考え方も存在する」という煮え切らない言い方から察するに相当マイナーな分類なのだろうと思いますが、ご存知の方はご教唆ください。ついでに言えば、近縁分野である政治学や経済学を差し置いてなぜ法学だけが独立系統を形成できるのか、その理由まで加筆されればなお良いですね。
    • 要出典タグが付いていた「日本では地質学・地球科学を文系的と捉えている者も多い」については、このまま読むと明らかに正しくない文のような気がするのですが、「ひょっとすると言いたいのはこういうことかもしれない」という想像はいくらか浮かびます。おそらく大学受験を戦い抜いてきた者たちの間に「地学なんて文系の人がやるもの」という固定観念が植え付けられていて、「地学=カンタン」というイメージから地学系の学問をバカにする者がいるからではないのか(実際、気象予報士国家試験の合格者には文系出身者も多い)とか、弁護しようと思えばいくらでもできるので、冷淡に削ることなくできるだけ残す方向で修正しました。
  • 関連項目については、正直言って「なんでこれがあるの」とか「なんでこれがないの」とか、言いたいことは山ほどあるのですが、余分なものを指摘すると今度は足りないものまで指摘せねばならずキリがないため、いちいち指摘するのはやめます。ただひとつ、文科と対をなす(つもりで加えられたであろう)理科という関連項目は、リンク先を見ると「中等教育までの教科」に関する内容であったため、関連項目としてふさわしくないと判断しこれを除外しました。--114.178.122.210 2015年10月1日 (木) 18:54 (UTC)

テーマに沿わない記述を除去しました[編集]

2015年10月30日 (金) 21:17(UTC)‎において、再び全体的な改稿を行いました。IPは114.178.122.210から継承しています。以下、便宜的に2015年10月1日 (木) 18:36‎(UTC)の私による改稿を「前回」と称します。また、章番号・節番号は今回改稿の直前のものを使用しました(したがって前回の説明に用いた番号とはズレがあります)。

前回の改稿は、あくまで「述べられているステートメントが正しいか否か」を文単位・段落単位で検討して、明らかにふさわしくない記述を修正することが主目標でした(というか、元の記事があまりに混沌としていたのでそれをするだけで精一杯だった)。今回は、それぞれの記述が「文系と理系」という大テーマに沿うかどうかという観点も採り入れ、節単位・章単位で見ることにしています。

  • その観点で見ると明らかに引っかかるのが第6章第2節(形式科学と経験科学)です。内容をよく読むと、これは「文系・理系」に関連した話ではありません。一応、前の節(同一学問系の細分化)の末尾に前置きがあるのですが、前の節で主張されている「学問が細分化されたために、同一の学問系内でも学問の相互理解が難しくなった」ことは、「形式科学と経験科学」の話とは全く関連しません(同値関係も対比関係も因果関係もない)。前節末の一文の言わんとすることによれば、「形式科学と経験科学」節の内容は、「学問の相互理解を困難にする(単なる)理由のもう一つ」として主張されているに過ぎません。しかもその「相互理解が難しくなった学問」は、ほとんどが経験科学同士です。相互理解の困難性が形式科学と経験科学の違いに起因するならば、同じグループに属する経験科学同士であれば相互理解は容易であるとの反証を許すことになり、前節との矛盾が起こります。形式科学と経験科学との差はここで持ち出すべき論点ではありません。
    • もしこの節の主張が「文系は経験科学だが、一方理系は形式科学だ」とかいう内容ならば、(主張の正しさは置いておいて)少なくともテーマに沿った内容を述べているとは認められるわけですが、この節で対比されているのは「数学と物理学」「哲学と論理学」という、同一系内の学問同士であって、肝心の「文系と理系」どうしの対比が述べられていません。(まあなんといいますか、筆者はただ語りたかっただけなのでしょう。だからこうして無理やりな論理を構築して科学論考に繋げようとした、ということですかね)
  • 同様に問題となるのが第5章第2節(「科学」の捉え方)です。「科学の捉え方」というタイトルで釣っておきながら、実際にはただただ「解決するのは難しい」「科学は定義できていない」「見解が統一されていない」などという、目が覚めるような結論を期待してわざわざ時間をかけて読み進めていた読者を裏切るような、中身の乏しい振り子型の文章が続きます。一応節の冒頭には「理系分野は科学、文系分野は非科学」とかいう胡散臭い一文がありますが、これは内容の正しさを吟味するまでもなく、そもそも「文系と理系を区分する規準」などとは呼びがたいものであり(「理系=科学、文系=非科学」が仮に正しいとしても、それは「文系と理系を区分した結果」として現れる性質にしかなりえず、「区分する規準」とはいえない)、話題としてはあまりにお粗末です(科学であるものが理系、科学でないものが文系という稚拙な分け方をする人が現実に居るとは到底思えない)。ところで冒頭の一文は、形の上では文理の対比になっていますが、節全体の内容を踏まえればどちらかというとこの一文は従属的、すなわち後半を導くための導入に過ぎず、結局はこれが書きたかっただけじゃないのかと疑いたくなります。
  • 第6章第1節,同第3節については、一つにまとめて構わないと思います。第1節で「究極に進んだ専門化が学問間の相互理解を妨げている(だから文系・理系というざっくりしすぎた分け方は無意味だ、とでも主張したいのでしょう)」という話を、第3節で「(専門化とは反対に)学問同士が融合する学際化という現象も起こっている(少なくとも文理融合の話は、「文系と理系」という大テーマに沿う話ですね)」という話を、それぞれ取り上げています。これらは対をなす現象ですから、「専門化と学際化」という対比のもとで一節にまとめます。また、第3節の冒頭にあった根拠不明の一段落は出典が1か月間つかなかったため削って、また「文系と理系」の対比には関係のない理工学の話題も削りました。
  • 前回の改稿時には気づかなかったのですが、じっくり読むと第5章第1節(学問間のつながり)も章題(文系と理系を区分する規準)に沿う内容を何一つとして述べていなかったのです。「文系と理系を区分する規準」と呼べるものは全く明確に述べられておらず、ああでもないこうでもないという振り子型の文章が延々と続くだけのものでした。前回の改稿で私が加筆した部分にはじめて「基準」という言葉が登場しますが、出てきたのは言葉だけで、残念ながら「文系と理系を区分する規準」と呼べるだけのハッキリとした内容には到底なっていません。私は前回の改稿で「数学や物理学との親和性が文系と理系を分ける基準として有用だ」という趣旨の文を記事に加えましたが、それは別に「理系」たることの定義でも条件でもないですね。数学との親和性はあくまで理系学問の性質に過ぎないことは強調しておくべきでした。
    • なお、改稿前には例によって「心理学や精神医学は文理の境界上にある」「農学には農業経済学という分野があってね」「理系でも英語は必要でね・・・(このへんは私が増補したところでもありますが、先日バッサリと削られてしまいましたね。まあ、「文系と理系」という大テーマからは確かに外れた話題ですから、妥当な処理だと思います)」とかいう注釈がたくさんなされていますが、この手の「文系の○○学を学ぶためには理系の△△学の知識が必要」といった類の記述は後の章でもたくさんなされていますから、章の本題から外れる内容は第11章・第12章「○○的と捉えられることが多い学問」にまとめておきます。「例外よりもまず汎論」という方針です。
    • いずれ、この章が「学問を文系・理系に区分する意義(効果)」というタイトルで生まれ変わる日が来ることを切に願う…。
  • 第2章(専門教育の準備教育としての文系と理系)~第4章(社会制度とのかかわり)までと第6章(学問の区分と文系・理系)の4章をまとめて「歴史と現状」とし、記事の後ろの方へと移動しました。記事の構成としては、解説事物の本質に近いものを前面にもって来るべきです。「歴史」は、決して物事の「本質」ではありません。まずは歴史うんぬんよりも、解説事物の特徴や性質から述べる方が、流れとしてはスムーズです。歴史のほうは第2章の冒頭に少しあるだけで、ほとんどは現状を述べている部分なので、同じ現代史的なテーマでまとめられる部分はまとめて整理しようという方針でおります。なお、第4章(社会制度とのかかわり)に「農学科と農業経済学科だけ文系扱いされた」という記述がありましたが、これらはあとで分野ごとの各論を述べる際に補足すればよいことで本章からは除去しました。
    • あまり真剣な提案ではないのですが、文系と理系の対比を明確にするならば、文系における数学の話題が出たときに理系における国語の話題が出た方がいいと思います。今回もあまり極端なことは書いていないつもりなのですが、問題があればノートでご指摘ください。
  • 序章(定義文)と第1章(概要)は、記事全体の要約になっていなければならないためどうしても単独で修正しにくい部分なのですが、第2章以降が抜本的に改訂されればそれと連動して改訂できるので、その時が来るのを期待して今回は手を加えませんでした。序章も第1章も前回私が加筆・修正した部分ですが、どちらも苦し紛れであるのは確かです。「文系」「理系」が単なる用語であるという定義には我ながら不満に思うところはありますが、今回はまあこの辺で。
  • 第7章(文系と理系をめぐる観念的な印象)は、前回改稿時のノートにも書いたとおり、「何を取り上げ」「何を取り上げないか」について踏み込んだ議論が必要かなと思いますが、この章のテーマはあまり本質とは関係ないと思うので、今回はあまり手を加えませんでした。しっかしまあ、編集画面を開いてソースを読んでみますと、コメントアウトされた部分で展開された喧嘩が実に醜いというか、反論するなら記事じゃなくてノートに書けよと思わず呟いてしまうものですね。「理系だからネクラなのか、ネクラだから理系を目指すのか」という論点は、あとで何かのネタにもなるかな、と思いましたが、そんなのはごくごくありふれた些末な話題ですし、邪魔なのでバッサリ削ってしまいました。そして、もう一つのコメントアウト部「基礎科学は実学よりも厳密さを以て当たらねばならない」という主張は削除しました。医療の現場で広く用いられる吸入型全身麻酔はそもそもなぜ効くのかよくわかっていませんし、工学では、安全性が数学的に全く証明されていない暗号を実用化して金融取引や機密通信に用いたりしていますし、まして法律実務に至っては医師や技術者の責任を断定するのにそこまで厳密なプロセスを踏んでいるとは思えませんし(こういうことを言うと法律家からクレームが来そうですが)、むしろ実学がいちいち厳密さにこだわっていては技術の実用化が100年くらい遅れて社会の進歩に全く資しませんから、基礎学系より実学のほうがアバウトなのは疑いのないことでしょう(それでも医学や工学は理論こそ厳密でなくてもちゃんと実験を重ねて実証的に安全性を議論しているから文系学問よりは厳密だと思う)。なお、文系と理系をめぐるこの手のステレオタイプは何も最近になって発生したものではないので「歴史と現状」節には含めませんでした。
  • 第8章(文系人気・理系人気)も、時代に関係なく存在する現象なので「歴史と現状」節には含めませんでした。ここはもともと私が自ら独立させた節なので、私からあまり文句をつけることはないんですが、まああえて何かを指摘するならば、節内で触れられている「理系離れ」の原因は別にあるだろう、ということです。記事中では理系離れの原因が収入の低さにあると述べられていますが、マスコミは文科省が行う全国学力調査の結果をもとにして「子供たちの理科離れが~~」と論じていますし、某タレント科学者(本当に科学者なのかはさておき)の方は「最近の子供は工作をやらなくなった」ことが理科離れの原因だとか言ってます。この記事の他の部分でも「数学が苦手な人が文系を目指す」という傾向があることが指摘されているように、果たして理系離れの原因が本当に収入だけにあるのかということは、検討の価値があるでしょう。しかし、この議論も本質とは関係ないので今回はひとまず置いておきます。
  • 第9章(文理別・学部別収入に関する調査)と第10章(政治における文系と理系)も、本質とはかけ離れたアラカルト的な内容なので今回の改訂では基本的に放置です。第9章に関しては、今回もまた出典をいちいち検証したりはしていません。記事の肝がまだできていない段階でそこに手を付けるのは優先順位からしておかしいとも思います。
  • 第11章・第12章(○○的と捉えられることが多い学問)には、第5章第1節(学問間のつながり)から移してきた内容を加えました。「○○学を学ぶためには△△学の知識も必要」とかいうのは、どちらかというと余談と言うべき内容で、本論ではありませんから、記事の後ろのほうにこぢんまりとまとめておくのがよいと思います。
    • 前回修正した家政学の件ですが、やはり「理系に分類されることがある」とまで言い切るのは見直すべきでした。修正しておきます。
    • 前回指摘した「法系」の件について、嬉しいことに先日ほかの方が加筆してくださいました。大変ありがたいことですが、当該編集時に付されたコメントを見ると、どうやら加筆者の方自身も「(この意味での)法系」という言葉はご存じないようです。自分自身も聞いたことがない言葉に、無理してこじつけの解説を付す必要はありません。せめてGoogle検索でも国語辞典でもなんでもいいのでそういう言葉が実際に(社会科学という意味で)使われている用例が見つかればよいのですが、1か月待っても誰も出典を示せなかったということはおそらくその用例自体がないということでしょう。実際、小学館の『日本国語大辞典』には「英米法」や「大陸法」の意味での「法系」しか載っていないのを確認いたしましたから、まあそういうことなのだと思います。
  • 関連項目の大幅な修正も現段階ではお預けです。ソーカル事件などは、文系と理系の乖離と対立を象徴する事件として記事中で触れてもよかったかもしれません。理系に属する人間の立場から見れば、司法における事実認定の自然科学性を裁判所の立場で明確に否定したルンバール判決(最判昭50・10・24民集29-9-1417[1])も衝撃的だったのですが、次回修正する機会があればぜひともソーカル事件も盛り込みたいところですね。(記事中に「文系分野は非科学」との言説が紹介されていましたが、ソーカル事件を念頭に置いて改めて読むと、非科学と言われても仕方ないなあと感嘆してしまいます)

ところで、記事の冒頭に(コメントアウトされていますが)「各投稿内容・記述について出典情報をご存知の方は追加をお願いします」という一文が置かれているのは呆れてしまいます。「書いたのはお前だろ。お前が立証しろ」と思わずつぶやいてしまいます。あたかもそこに書かれている内容・記述が正しいものであると信じたうえでそのようなことを言っているように聞こえますが、そもそも間違った情報に出典を付して証明するなんてことは困難極まりないわけです。

ただでさえ、このテーマは文系と理系の違いとか意義とかについてちゃんと語っている文献が存在しなくて、記事に出典を追加しようにもある文献の主題から外れた余談のようなところから引用してくるより他に方法がないというのが正直なところですから、ちゃんとした出典を示しながら編集するのは至難なのです。そのうえ引用された本の著者さまからみても、本論と関係のない傍論ばかりが引用されるのは不本意でしょうから、できるだけそういう卑怯なことは避けねばと考えると出典付けは相当難しくなります(一応、NORは編集者自身による文献批判を禁じていますから、ちゃんとした出版物のなかの一文である以上はそこだけ引用してもかまわないということなんでしょうけれども)

…という事情を鑑みて、これだけ無出典の独自研究が溢れている記事の現状を見ますと、「ご存知の方は出典の追加を」とか偉そうなこと頼む前に、いっそ記事全体をいったん削除もしくは白紙化して最初から書き直すほうがいいんじゃないのかとさえ思えます。解説対象の本質に全く迫っておらず、歴史的経緯や周辺事項の説明ばかりに字数を割いているこの記事は、このままではケースE:百科事典的でない記事に該当して削除対象となる恐れがありますし(個人的には一度消してしまうというのもありだとは思う)、プロパガンダ的視点に偏っていることから中立的な観点を満たしているとも思えません。

とはいえ、ここ最近の皆様の編集により、少しずつ改善をみているのは確かです。「かつて農学者を目指していたから小沢氏は理系の人間で、高校時代に数学や理科が得意だったから前原氏も理系の人間だ」とか、「家政学は対応する中学校の科目(家庭科)が技術科と双璧をなし、技術科は工学と対応するのでゆえに家政学は理系だ(キリッ」とかいうトンデモ理論が無造作に並んでいたあの頃に比べれば、だいぶマシにはなったと思います。もうすこし様子を見て、削除依頼なり加筆依頼なり、何らかのアクションは起こすべきと考えています。--153.201.106.138 2015年10月30日 (金) 21:46 (UTC)

  • 気分次第で削除するような編集はなさらないようお願いします。課題の多い記事であるという問題意識は共有しますが「とりあえず削除」は控えて頂くようお願いします。--大和屋敷会話2015年10月31日 (土) 06:09 (UTC)
コメントありがとうございます。「気分次第」とおっしゃいますが、いったい何を根拠に言っているのか理解できません。私はちゃんと削除の理由を詳細に述べていますし、「とりあえず」などという軽い考えで編集しているわけではありません。存在すべきでない理由があるから消したのであって、「消したい気分だから消した」などとは、私は一度も書いていないはずですよ。そもそも、記事の本題とは関係のない持論を「気分次第」に発表してきた過去の執筆者のほうに問題があるのであって、私は蓄積された過去の不正な編集を無効化したまでです。
あなたも「問題意識を共有している」などとおっしゃるなら、そろそろちゃんとしたアクションを起こしてはいかがですか。編集履歴を見る限り、あなたは他者の編集を取り消してばかりで特に大きな加筆も修正もなさっていないようですが、「課題の多い記事である」と認識なさっているのであればなぜその課題に自らメスを入れようとしないのやら。他人の編集をボタン操作一つで「とりあえずリバート」するのはさぞかし簡単なことでしょうけれど、リバートしたならその理由まで説明する責任はあるでしょうね。説明されないのであれば、それこそ「気分次第」のリバートだったということになります。--153.201.106.138 2015年10月31日 (土) 13:16 (UTC)

【お知らせ】IP:114.178.122.210会話 / 投稿記録およびIP:153.201.106.138会話 / 投稿記録(同一人物)は、新たにアカウントを取得し核青となりました。

最後の発言から1週間が経ちましたが、誰からもコメントはありません。特に大和屋敷氏に対しては、ご本人の会話ページにも不適切なリバート等について指摘申し上げましたが、現時点で何の反応もありません。私による上記発言の前までは、ほぼ毎日のペースで活発に編集なさっていた方なのですが、先週からピタリと編集実績が途絶えています。ひょっとしたら私のけしかけに応じて「課題に自らメスを入れる」準備をなさっているのかもしれませんが、だとしてもそれは自身の会話ページや記事のノートページにおける議論を1週間も無視してよい理由にはなりえず、したがってこのまま反応が無ければ議論に対する姿勢が消極的であるか、もしくは単に本記事への関心が薄いと考えるより仕方がありません。
ご本人には直接申し上げましたが、こちらにも大和屋敷氏によるリバートについて見解を述べておきます。まず前提として、H:RVに解説されているリバートとは、「主に荒らし行為に対処するため」の機能であって、「通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集への対処としては、推奨される行為ではない」とされています。念のため荒らし行為とは何かも確認しておくと、「百科事典を改良するためになされた誠実な努力が感じられるような編集」は荒らし行為には該当しないことになっており、例えば今回のケースで適用が問題となりそうな不当な白紙化については「まとまった内容の除去ではあっても、その内容を確認すれば除去の理由が明白である場合、通常荒らしとは見なされません。また、一見してまともな内容の除去ではあっても、要約欄に一応その理由が書いてあったり、リンクや参照などがされていれば、通常荒らしとは見なされません。」とされています。これを本件についてみますと、2015年10月30日 (金) 21:17‎ (UTC)における私の編集は、要約欄どころかノートページにまで編集の趣旨が詳細に示されており、文レベルあるいは字句レベルでもって真剣に検討された結果踏み切られた編集であることは明白です。よって、当該編集は「百科事典を改良するためになされた誠実な努力が感じられるような編集」であって、それゆえ荒らし行為には該当しないことは明らかであり、これに対してリバート機能を使用することはリバート機能の目的に反することが明白です。また現にこうして編集者自身が主張しているように「通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集」であることもまた疑いないですからこれに対してリバート機能を使用することは「推奨される行為ではない」と考えられます。当然、大和屋敷氏の指摘するような「気分次第」という指摘は的を射たものではなく、「気分次第」であると判断なさった根拠が全く示されていないためリバートを正当化する理由としては無効なものであります。したがって、2015年10月31日 (土) 6:08‎ (UTC)における大和屋敷氏によるリバートは、関連文書を読まず荒らし行為の定義も理解せずに行われた不正なリバートと結論付けるよりほかなく、当該リバートの取り消しが相当であると思料します。
念のためあと1日ほど待って、反対が無ければ当該リバートの取り消しもしくは同一内容の再投稿を実施します。反対する場合には、「百科事典を改良するためになされた誠実な努力が感じられるような編集」ではなく、なおかつ「通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集」ではないことを証明してください。
なお、当該編集において私が除去した部分は、そもそも記事のテーマに沿っていないことに加え、いずれも明白な独自研究、もしくはエッセイ的であってケースE:百科事典的でない記事に該当する恐れがあるなどの深刻な問題を複数抱えており、除去することには正当性があります。よって、当該編集に問題があると主張する場合は、その点も踏まえたうえでよろしくお願いします。--核青会話2015年11月7日 (土) 14:34 (UTC)
約1日待ちましたが反対がありませんでした。よって、2015年11月8日 (日) 10:28 (UTC)において核青は、2015年10月31日 (土) 6:08‎ (UTC)における大和屋敷氏によるリバートおよびその後の同氏による2編集を取り消しました。--核青会話2015年11月8日 (日) 10:31 (UTC)
コメントを編集(下線部を追加)--核青会話2015年11月8日 (日) 11:32 (UTC)

人文科学と自然科学の乖離を主張する一段落の除去について[編集]

2015年10月31日 (土) 6:14 (UTC)および同 6:26 (UTC)における大和屋敷氏による2編集で、香内三郎氏による論文を出典として、「チャールズ・パーシー・スノーは自身の論文の中で~と述べた」旨が示されています。本来これは孫引きと言って、あまりよろしい引用方法ではないのですが、まあそれはともかく。

しかしながら、この編集には重大な事実誤認が見受けられます。香内氏による論文の中では、チャールズ・パーシー・スノーはあくまで「文学的人間(文人)」と「自然科学者」とを対比して、両者のコミュニケーションが成立しなくなったことを述べている、とされているのであって、けっして人文科学の学者と自然科学の学者が対比されているわけではありません。香内氏も

「科学者」としての実績もあり,多くの「小説」(その出来映はともかく)も書いているスノー

と書いているように、スノーについて認められるのは小説家(それは一種の芸術家であって、学者とは明確に異なる)としての側面であり、人文科学の学者としての側面ではありません。

よって、大和屋敷氏による当該編集群は、出典の読み違えによる誤記を含むと考えられ、さらにその誤記を訂正したところで、「文系と理系」という大テーマにはそぐわない(本記事では現在のところ小説家に関することまでは扱わない、おそらくこれからも)ので、当該段落は除去させていただきました。--核青会話2015年11月8日 (日) 11:32 (UTC)

ご返答ありがとうございます。しばらく投稿がなかったので、てっきり本記事への興味を失われたのかと思っていました。いくつか誤解をされているようなのでご説明いたします。
まず引用方法についてですが、私はin-text attributionを批判したのではありません。私が指摘したのは「孫引き」のほうです。つまり、「A氏の著書AAAによれば、B氏が著書BBBにおいて『XXX』と述べたという」みたいなものです。常識として、A氏の著書にそう書いてあったならば、普通、そこに示された書籍情報からB氏の著書を探して読むことは、都会の図書館でなくても容易なことです。ならば、実際に確かめてから加筆するのが筋じゃないですか。実際、多くの大学では入学したての1年生にそのように教えるでしょうし、孫引きの多いレポートが低評価されるというのもほとんどの学校で共通な事情でしょう。Wikipediaにおいても、たとえば「太陽は地球の周りをまわっている」ことを記事で立証したい場合には、(ここから架空例になります)
天文学者の田中三郎は、『私たちの地球』の中で、太陽は地球の周りを周っていると述べた。 — 山田太郎、『いま注目される天動説』(山田太郎出版,2011),p.97
と孫引きして書くよりは、
天文学者の田中三郎は、
太陽といふのは地球の周りを廻つてゐるものであります。 — 田中三郎、『私たちの地球』(田中三郎出版,1935)、33頁
と述べている。
とダイレクトに原典から拾って書くほうが、より自然に受け入れられるでしょう。また、これに加筆しようと思った人が将来出てきたとしても、前者であれば(おそらく田中よりも無名と思われる)山田に対する批判という形で文をつなげなくてはならないので面倒ですが、後者であれば有名な田中大先生に対する数多の批判の中から
しかし鈴木次郎は
田中先生の時代は、まだ観測技術が未発達だったが、今では地球が太陽の周りをまわっていることが分かっている。 — 鈴木次郎、『天動説は終わった』(鈴木次郎出版,2015),p.277
と述べている。
というように、容易に加筆することができます。そして、この鈴木氏の著書を引用した彼は、おそらくその記事のノートで天動説肯定の一文を削除することを提案するでしょうが、その議論の際も、山田氏の著書をもとにするのか田中氏の著書をもとにするのかでは議論のしやすさに大差があります。(架空例はここまで)
むろん、Wikipediaの執筆のために世界に一つしかない1000年以上前の古文書にまで当たる必要はないと思います。また、ある学者Aがテレビで行った発言を載せるために、わざわざテレビ局まで出向いてテープを探すような労力を惜しんで、ある本において「A氏はテレビで~と述べた」と書いてあるのを引用したとしても、それは許されるでしょう。要は、「現実的にかけられる手間は全部かけるべき」ということです。
また、内容自体についてですが、私はなにも「スノーは理系と文系が乖離しているとは述べていない」と主張したわけではありません。出典として示されている香内氏の論文の中には、そのようなことが書かれていないと主張したまでです。つまり、一言で除去理由を縮約するなら出典無効ということになります。私は個人的には、日本における「文系と理系」を説明するためにわざわざ50年以上前の外国人の意見を引用することはあまり適切だとは思わないので、わざわざ図書館へ行ってスノーによる原典(もしくはその翻訳)を探す気も起きませんが、もしスノーの言説を引用したいのであれば(私はそれ自体には反対というわけではありません)なるべくスノー自身の著書を直接引用すべきだと思います。ちなみに大和屋敷様が上にあげられたウェブページやPDFファイルの多くは、学問としての文系と理系ではなくどちらかというと「文系の人」と「理系の人」との乖離をスノーが指摘した、と言っているように見えます。(あんまり真剣には読んでないですけど)
最後に、「もうすこし何とか記事にしたかったのですがどうも今ひとつ良さそうな引用元がありません。」というのは私も心の底から同意したいことですが、私は近々この記事に大幅な加筆をすべく準備しているところでありますので、その時には、もしお読みになる機会があればご指摘いただければありがたいです。--核青会話2015年11月19日 (木) 14:10 (UTC)

大幅な加筆を施しました[編集]

「文系と理系をめぐる観念的な印象」ほか[編集]

2015年11月23日 (月) 6:06 (UTC)において、大幅な加筆を施しました。今回加筆分は、本来予定していた内容の一部に過ぎないもので、これから何度かにわたって加筆を続けていくつもりでおりますので、今回は第一弾ということになります。

今回の加筆は‎第4章(文系と理系をめぐる観念的な印象)の増補が中心です。第2章(文系と理系を特徴づける性質)もかなり増補しましたが、こちらはまだ完成版ではなく、中間発表的な位置づけです。

前回の大改稿時には「“文系と理系”の本質に関わる説明が完成するより前に本質と関係ない部分を修正するのは順番が違う」という趣旨のことを述べましたが、自ら反故にする形となりました。弁明させていただくと、やはり文系・理系の意義とか本来の目的とか導入の根拠とかいうのをちゃんと解説した書物というのは極めて少なく、それよりも文系・理系に対するどうでもいいようなイメージを偉そうに語る書物のほうが圧倒的に多いので、第4章の原稿が先に(ほぼ)完成してしまい、このまま隠し持っていても仕方ないということで、「本質」の説明が完成する前に周辺事項たる「イメージ」の加筆を先に行い、一足早く世に問うことにしたわけです。

さて、その第4章ですが、従来の内容は「文系と理系に対して一般に持たれているイメージ」をいくつか挙げながらそれに対して反論する、という方針の下で書かれたものでしたが、本来「イメージ」というのは主観的なもので、したがってこの方針だと章の内容がどんどん主観的で偏ったものになるおそれがあります。前々回から散々述べているように「一般に持たれているイメージ」というのは真面目なものから些末なものまで多々あり、またそれぞれのイメージを支持する人の数もまた物によって様々です。よって今回の加筆では、章の方針を一新し、「文系論・理系論の執筆に熱心な著名人」が取り上げた観点のみを話題として採用することとし、またその解説も専ら著名人の見解の紹介という形に限ることで、少なくとも記事執筆者の主観は排除しようと試みました。何を以て「熱心」とするかは諸説あろうと思いますが、私が思うに

  1. 「文系」「理系」をあからさまに書名に冠する本の著者
  2. 文系・理系の高等教育をともに受け、両方の学位を持っている者
  3. 出身大学・学部とは文理を異にする学問分野の高名な研究者であって、その分野において大学や研究機関に確固たるポスト(目安として准教授以上)を有する者
  4. 文系・理系を問わず幅広い分野の専門家と交友関係を持ち、取材などでかかわってきたジャーナリスト

のうち複数に該当するような者であれば、すくなくとも「文系と理系に対するイメージ」を語る資格はあると言えるでしょう。逆に、これらをすべて満たさない者は、個別に考える必要があると考えます。(この基準は私が勝手に提案したもので、特に第三者の承認を得たわけではない)

解説の執筆に際しては、できるかぎり「引用」にこだわりました。本章では「イメージ」という主観的な事物を扱うだけに、なるべく論者の言葉をそのまま根拠とするほうが、各論者に対する誤解を生ぜしめず、正確に解説できると考えたからです。引用に際してはできるだけ枠囲みを用い、引用の要件を満たすように努めました。第2章についてもそれは同様です。--核青会話2015年11月23日 (月) 07:55 (UTC)

迅速なレスポンスありがとうございます。自分のしていることが正しいのか、間違っているのか、誰からも指摘されぬまま独り相撲を取るというのは、時として不安になるものですから、読んでくださる方がいるということがわかるだけで励みになります。--核青会話2015年11月25日 (水) 17:28 (UTC)

雑感[編集]

返事ついでにもう一つ、独り言みたいなコメントを残しておきます。例によってほかの部分の加筆原稿作成は難航しておりますので、時々また「観念的な印象」の加筆のほうに逃げたくなることがあります。相変わらず、そちらの方が筆が捗るんです。そういう本のほうが圧倒的に多いのは、きっと、そういう本のほうが売れるからでしょうね(苦笑)。

記事中にも何度か脚注で示した『理系バカと文系バカ』という本には、「文系と理系をめぐる観念的な印象」に相当する事柄が(些末な物も含めて)沢山載っているんですが、この本から引用するのが果たして百科事典にふさわしいのかどうか、悩んでおります。べつに竹内薫ご本人を批判するつもりは全くないんですが、この本(第5章まである)の第1章には一昔前に流行った「血液型性格診断」よりはだいぶマシかな、という程度の文系・理系ステレオタイプが列挙されており、中には「えーこれってどうなの?」と思うようなのもあるわけです。「文系と理系をめぐる観念的な印象」に使えそうなネタは主にこの章に集中しており、扱いに困っているところです。なお同書の第2章と第3章はわりと真面目な内容で、特に第2章は「理系の経営者は育ちにくいのか」「政治家も官僚も文系ばかり」とかいった、「文系と理系」に関する比較的まともなテーマを考察したような内容にはなっています。しかし著者が理系の人間であるからなのか、やはり軸足はほとんど理系に置かれていて、第3章に至っては、理系とりわけ物理学の話しか書いていません!そして第4章に至っては、第1章で「理系の人間は文系を見下す傾向にある」(記事中にも紹介した部分ですね)と述べたにもかかわらず、ご自身でその好例を演じてしまっています。シメの第5章では、「理系の人間は文系的センスを磨き、文系の人間は科学に関心を持つべし!」とかいう、この手の「文系論・理系論」本にありがちな、自己啓発的な結論にもっていって終わります。(ちなみに、彼の言う「文系的センス」とは人文科学の素養という意味ではなく、どうやらコミュニケーション能力や経営センスという意味らしいが、一方で文系の人間には自然科学、とりわけ物理学に関心を持つことを勧めている。よくわからないなあ…)

この記事の全体にわたって、太田次郎氏のご著書を引用させていただいています。こちらの本もまた、竹内氏や志村史夫氏の本と同様、時折データを交えながらも基本的には自分の書きたいこと(三者とも自身の専門の話になるとかなり饒舌になる!)をただつらつらと書き綴っていくだけのエッセイに過ぎず、興味のない話を2ページも3ページも延々と読まされることになんとか耐えながらその中に一行でも拾える記述がないか、と目を皿にして読んでいたわけなんですが、そのなかでも太田氏の本が非常に優れていたのは、「本の中で文系の事情にもちゃんと触れている」ということでした。むろん、彼も竹内氏や志村氏と同様、理系の人間ですから、彼の書く「文系論」がどこまで本当かはわかりませんが、しかしながら彼は、『文科の発想・理科の発想』というタイトルを見て手に取った読者を落胆させぬよう、随所に(ほとんどは冒頭部だが)文系と理系との対比」を入れようという努力は感じられるわけでして、太田氏のこの誠実な態度には頭が下がります。竹内氏や志村氏(ともに物理学がご専門であるが)の本が、本の後ろの方へ読み進むにつれてだんだん「物理学への招待状」のような内容になっていくのと違って、太田氏の本はそこまで(彼の専門である)生物学を猛プッシュするような内容にはなっておらず、結果的に「文系と理系」というテーマから大きく軸足を外した内容にはなっていなかったのが好印象でした。(それに太田氏の本はなるべく中立的に書こうと努めているのが伝わってきて、全体的に落ち着いた論調で「過激な主張」が無いのもよかった)

一線級の学者は専門の方で忙しいでしょうから、こういった「文系論・理系論」の本を書きたがるのがあまり有名でない学者か、もしくはそもそも学者ですらない人だというのは仕方のないことなんですが、それにしても今みつかっている「文系論・理系論」の本がどれもこれも理系側の人間の書いた本であるということには、なんだか作為のようなものを感じます。1冊くらいは、文系の学者による「文系論・理系論」が読んでみたいものですが、なぜ無いんでしょうね。今はそれだけが不思議です。--核青会話2015年11月25日 (水) 17:28 (UTC)

「歴史と現状」の増補、理系イメージの追加、「官界」節の新設ほか[編集]

2015年12月12日 (土) 13:11 (UTC)および同13:54 (UTC)において、再び大幅な加筆を行いました。上の節で解説されている 2015年11月23日 (月) 6:06 (UTC) の編集を第一弾と呼ぶのならばこちらは第二弾ということになりましょうか。正直言って加筆作業は難航に難航を極め、そろそろ行き詰まってきた感があるので果たして第何弾まで続くのか(あるいはこれで終わってしまうのか)自分でも見当が付きません。もう少し粘っても大した進展が見られなければ加筆依頼に出すとか強化記事選考に出す(つい最近そういうものがあることを知った)とかいった広報活動をしてより多くの人に査読・編集に参加してもらうことも必要でしょう。(今すぐにそれをしないのは「もう少し頑張ればこの行き詰まりを打開できるかも」という淡い期待があるから……かもしれません)

純粋にデータ量の増減だけで見るなら、今回の加筆のメインは第4章「文系と理系とをめぐる観念的な印象」(微妙に改題しました)と、第7章「政治における文系と理系」ということになりましょう。どちらも何千バイトかは増加しました。しかし私個人としては、今回の編集で最も進歩したなあと思う部分はむしろ第3章「歴史と現状」節の「歴史」節です。橋爪大三郎氏のご著書の中に、「文理の区別は“何のために”生まれたか」についての、ほんのわずかな言及がありましたので、喜んで引用させていただきました。今までこの記事においては全く言及されていなくて、それでいて最も待望されていた論点がようやく追加されたことに、ひとまずの安堵を覚えます。これで記事の根幹部分が、やっと今から建設され始めたというものです。「ひとまずの」とか「され始めた」とか言っているのは、まだまだこれだけで満足してはいないからです。「要するにカネなんだよ」という橋爪氏の指摘には、いささか軽佻さや乱暴さを感じずにはいられません。「私たちは旧制高校ができてからの実に100年以上もの間、(予算の問題はすでに解決しているにもかかわらず)“発展途上国”だった明治期の日本をずっと引きずってきたのか?」「橋爪氏自身も含めてこれだけ多くの人が文理区分を廃止しろだの何だのと言って批判しているのに、なぜ誰も改革に着手しようとしないのか?」などなど疑問は噴出するばかりで、何度首をかしげても足りません。そもそも、橋爪氏は自説を支持する根拠を全く挙げてはおらず、内容の正確性自体が担保できていません(いちおう、出版物だからWP:RSは満たしている)。よって、さらなる追加調査を行う価値は大いにあると考えますし、また、行う必要があるとも思います。ひとまず、努力の方向性が示された、という意味での大きな大きな一歩です。

それに比べると、ほかの部分の加筆にはあんまり思い入れはありません。第4章の「理系は会話下手」節と「理系はオタクが多い」節も、もともとあった「文系は言葉で考える」節と「日本の文系は前提の吟味をしない」節に対応させる意味で、やや不本意な言い方をすれば「数合わせのために」追加したような節であります。「文系の話題を述べた節が2つあるならば、理系の話題を述べた節も2つあった方がバランスがいいでしょ」という単純な動機によります。もちろん、内容自体は極めて真面目に、かつ慎重に書いた自負はあります。ただ一点、情報源として用いた『理系白書』という本(2003年刊行の新書版と2006年発行の文庫版があり、記事では両者を混ぜて使ってしまったので紛らわしくなってしまいました。すみません)についてなのですが、これは新聞社が編纂した本なので内容も新聞記事テイストになっていて、インタビューや具体例のみを列挙して抽象化せずに終わる項目が非常に多く、扱いに困ります。ウィキペディアの記事に新聞記事のインタビュー部分を引用・利用することが「百科事典的でない」と、将来指摘されるおそれがないともいえない。その時には一応、私としては「必要かつ正当な利用である」と主張する構えではおりますが、グレーであることは否定しません。(原典に抽象化されたまとめがない分、可食部がインタビュー部分くらいしか無いんですがねえ…)

第7章「政治における文系と理系」には、文字通り「政治」家の話題しか触れられていなかったので、政界を霞が関から下支えする日本のエンジンたる官界の話題を追加しました。本当ならば章題を「政治・経済における文系と理系」とでもして経済界の話題にも触れたかったのですがもう少しデータ収集をしてからちゃんと時間を取って書こうと思っています。調べる時間も書く時間も十分にとれなかったので今回はお預けです。この章の内容が充実してきたら、そのうち第3章の「社会とのかかわり」節と統合して記事の前のほうに持ってくることも考えられます。

今回の加筆は、レイアウトの決定にやや雑なところがあって、「段落を入れ替えて説明の順番変えた方が良いかなあ」と迷いながらも強引に決定した節もあれば、「本当はこの節に書くべき話題ではないかもしれないがとりあえずここに置いておこう」という安易な考えで挿入した段落もあります。前者の例としては「歴史」節、後者の例としては「専門化と学際化」節の冒頭にねじ込んだ旧制高校寮の話なんかが該当します。もう少し頭が冷えてから考え直したいと思います。--核青会話2015年12月12日 (土) 17:18 (UTC)

【追伸】次回の加筆(もしあればだけど)では博士号の話題を増補したいなと思っています。それから、面倒くさがってずっと手を付けていなかった第6章の検証にもそろそろ手を付けたいところです、すごく気乗りしませんが。--核青会話2015年12月12日 (土) 17:30 (UTC)