ノート:新田部親王

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「廷臣項目に官位は定義部分に続いて記載することが一般化しつつある」というご主張は「Wikipediaは多数決ではない」という理念に適わざるものかと心得ますがいかがでしょうか。見出しと本文に重複する記述をするのはむだなことだと思います。見出ししか読まずに本文を読まない怠惰な読者に配慮する必要があるとも思えません。

「浄広弐は諸王の位階」ではありません。親王と王を一括した皇親の冠位です。ちなみに、皇親で最高位の草壁皇子でさえ、上から6番目の浄広壱であったことに留意してください。浄広壱が従四位下相当の冠位であるというのは、参考文献に掲げた宇治谷孟さんの説に従ったものですが、このような誤解を招くのであれば削ってしまいましょう。そもそも冠位と位階は、国家権力が支配下にある人々をランク付けするための道具であるということでは同じ範疇に属するものですが、りんごとみかんが同じくだものであってもあくまで別物であるのと同様、あくまでも別個の制度です。「冠位Aは位階Bに相当する」などという発想法自体がまちがいなのかもしれません。

冠位と位階が別物である以上は「冠位」をわざわざ「位階」に書き換えることも避けるべきです。赤リンクが増えるのは望ましいことではないかもしれませんが、そのために記事に嘘があるのでは本末転倒です。現在Wikipedia日本語版に「位階」の記事のみあって「冠位」の記事がないのは、単にコミュニティに記事を執筆する力量と熱意が不足しているか、そもそも「冠位」という記事がWikipedia日本語版には不要であるか、そのふたつ以外に理由はないはずです。

Snap55さんが「中央政府」という単語を一生懸命に「朝廷」に置き換えようとする理由がいくら考えてもわからなかったのですが、やっと理由がわかりました。正直言いまして「なんだそんなことか」と少しがっかりしています。21世紀に生きるわれわれが奈良時代の歴史を叙述しようとするとき、奈良時代に存在しなかった単語・熟語を使わずに叙述することは不可能です。天皇を指しているのか、皇親一般を指しているのか、太政官の議政官たちを指しているのか、太政官隷下の諸官司を指しているのか、貴族社会全体を指しているのか、曖昧模糊として漠然とした「朝廷」などという単語よりも、ほかに間違えようのない「中央政府」という単語のほうが百科事典の記事としては適切だと考えますがいかがでしょうか。五衛府や授刀舎人寮が、たとえば大和国の国衙などの地方政府に属する軍隊であるのならばともかく、そうでないならば「中央政府」という単語の使用に不都合があるとは思えません。

本文の記述を「<ref></ref>」を使って欄外にくくりだしてしまうことは「出典を明示する」の理念に沿うものであればともかく、濫用は厳に慎むべきかと存じます。いくらワンクリックで相互に参照できるとはいえ、記事の可読性を低下させることは避けられません。--呆庵入道 2009年11月6日 (金) 12:04 (UTC)[返信]


ご意見ありがとうございます。当方の見解を述べたいと思います。
  • 「Wikipediaは多数決ではない」
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは民主主義の実験ではありませんですね。もちろん、多数決で全てが決まるわけではないことは承知しておりますので、納得できる理由があれば合意させていただきます。但し、現時点で多数の支持が得られている方針を覆すのであれば、それ相応の理由が必要と認識しています。ご主張の理由である「見出しと本文に重複する記述をするのはむだ」については、以下理由にて反対させていただきます。
少なくとも奈良時代~鎌倉時代にかけての廷臣については、官位が身分を表す最もわかりやすい属性情報である。具体的には廷臣に関する一次情報といえる例、①六国史の死亡記事、②各種系図、ではほぼ官位が記載されているとの実態があり、これらの情報はWikipediaの人物項目の定義情報で必ず記載されている「生没年月日」情報より精度は高い。ついては、彼らが生きていた時代において、官位は通常の人物属性情報と比べて情報の重要性が格段に高いと判断し、例え重複していたとしても、重要な情報として定義文内に含めることが適切。なお、「怠惰な読者に配慮する必要があるとも思えません」については、百科事典たるWikipediaの本質を無視した意見との懸念を指摘する。
  • 浄広弐は諸王の位階
学術的な話と理解しています。当方の執筆根拠は『日本の歴史 3 奈良の都』青木和夫、中公文庫、1973年です。この点については、当方も参考文献を多数あたっておらず、実態として定説が定まっていないようですので、現時点では削除でも反対しません。
  • 位階と冠位
当件は、「冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階」のことになりますので、ご指摘の内容に同意致します。
  • 中央政府か朝廷か
用語の正しさという点では、「中央政府」も「朝廷」も誤りではないと認識しています。確かに「朝廷」という文言は曖昧な用いられ方をしていますが、敢えて当時の人々が使用していない言葉を使用する必要性を全く感じません。「奈良時代に存在しなかった単語・熟語を使わずに叙述することは不可能です。」のご指摘はその通りですが、当時使用されていた言葉と別の言葉を用いるには、当時は該当事象を表す言葉がなかった、あるいは、帰化人→渡来人のように、特別の事情があり、学術的に別用語を用いることが一般化されている場合に限るべきだと思います。従いまして、何らかの事情があり、現在の国史学において「朝廷」という言葉より「中央政府」との表現が一般化されているのであれば、ご指摘に従いたいと思います。
  • <ref></ref>の件
「新田部親王」に直接関係がある事項ではなく、あくまでも参考情報であり、情報の優先度が低いことから、本文から外した方が読者に優しいとの判断で脚注化しました。
--Snap55 2009年11月6日 (金) 15:57 (UTC)[返信]

丁寧なお答えをいただきありがとうございます。

  • 定義部分に官位情報を含める点については、単に「一般的である」というのみでは納得できなかったというだけで、あらためてご説明いただいてなるほどと納得がゆきましたので撤回いたします。お手数をおかけいたしまして申し訳ありません。該当部分は当方で原状に回復したいと思います。ありがとうございました。
  • 「怠惰な読者」云々については、確かに記事の編集に際してその可否の理由として持ち出すのはいささか不適切でしたので撤回いたします。ただ、そのような読者が存在するならば非常に嘆かわしいことだ、という感想は持ちます。
  • 「浄広弐」が親王と王を一括した皇親の冠位であることについては、とりあえず、吉川弘文館『国史大事典』と小学館『日本史大事典』を使って確認したものです。冠位から位階への移行に際しての対応関係についても対応表が作成されていますが、そもそも階数が異なるものを整合させようとしているのですっきりと説明できている記述は私も発見できていません。ことに冠位と品位の比較は難しいようで『国史大事典』ではその試みは最初から放棄されています。これだという根拠が見いだせない以上、何も書かないのが穏当かと思います。
  • 「中央政府」という表現はもっぱら機能面に注目してあえて一般名詞を選んだのみですので、現在の史学における取り扱いについては承知しておりません。「朝廷」のほうが適切であるという根拠があればそれに従いたいと思います。あるいは「太政官」で置き換えるのであれば当方の懸念は解消いたします。
  • <ref></ref>の件については、以前の版では「大将軍」の称号について年月日や典拠を示さずに無前提に記述されていたので、なんらかの修飾を加える必要があると考えたものです。『続日本紀』の記述が単なる任命記事であれば、当然脚注で充分なものと考えますが、典拠記事自体の解釈に疑義がある本件では、その疑義があるということ自体が一定の重要性を有する情報ではないかと考えた次第です。

--呆庵入道 2009年11月8日 (日) 08:50 (UTC) —以下が別コメントであることを明示するために改行--Snap55 2009年11月8日 (日) 15:02 (UTC)[返信]

だいぶ合意が進みましたね、まさに「合意は議論によって決まります」という感じです。今少しおつきあいいただければ幸いです。
  • 中央政府か朝廷か
「朝廷」の概念ですが、Wikipediaの同項目では「大王や天皇が政治をおこなっていた場所(朝庭、朝堂)。もしくはその政府・政権のこと」と定義されています。また、一例ですが教科書においても同様に、律令制度に基づく天皇以下二官八省という都に設置された政治体制自体を「朝廷」と定義しているケース[1]もあります。従いまして、朝廷は「政府・政権」のことを指すことは明らかであり、ご指摘いただいたように「朝廷」という言葉について、天皇、皇親一般、太政官の議政官、太政官隷下の諸官司、貴族社会全体のいずれを指すのか不明確[1]、という懸念は当たらず、「朝廷」の文言を使用することによる誤解は発生しないと認識しています。また、衛門府は諸門の禁衛・出入を司り、衛士府は宮掖(正門そばの小門)を禁衛し、兵衛府は閤門(大門の脇の門)を守る[2]、とされていますので、朝廷を「政治をおこなっていた場所」とみなしても全く問題はないでしょう。なお、これら軍事力が「太政官」配下の組織であることを否定しませんが、「太政官の軍事力」との表現を用いると、政府内に別の軍事力(神祇官の軍事力?)があるような誤解を与える懸念がありますので、反対致します。
  • <ref></ref>の件
  • 授刀舎人寮の話
神亀5年の中衛府への拡大改組の件は、直接新田部親王に関係ある事項かどうかは微妙ですが、これにより神亀5年以降授刀舎人寮の機能は新田部の管轄外となり、直轄の軍事力全体の統括者でなくなったとみなせることからことから、脚注レベルで記載すべき事項と考えます。
  • 忍坂女王・石田女王の話
新田部親王とは直接関係ない話であるため、本文に入れるほどではなく、脚注レベルの記載で十分との認識です。
脚注は出典提示目的のほかにも、該当項目との関連性は薄いものの掲載しておくことに意味がある情報について、読者に対して優先度が低い情報であることを明示するために、積極的に活用すべきと考えています。
--Snap55 2009年11月8日 (日) 15:02 (UTC)[返信]


  • 「中央政府」か「朝廷」か
Wikipediaが「朝廷」をどのように定義しているかは、いわゆる「三次情報源」に依拠することになるのでいかがなものかと。しかし『新しい歴史教科書』は、その学術的水準について多々論難はされているものの、いちおう文部科学省の検定は合格していますし「二次情報源」の条件は満たしていると思われます。
それでも「朝廷」とすることに釈然としないのはなぜだろうとここ2日考えていて、ふと「なるほど『新しい歴史教科書』を執筆した人々にとっては「朝廷」は「政府」であってもらわなければ困るだろうな」とニヤリとしたときに、はったと気がつきました。私は、南北朝時代以降の、いかなる意味においても政府ではなくなってしまった「朝廷」を念頭に置いて考えるからしっくりこないのだと。
新田部親王について述べた記事においては「朝廷」イコール「中央政府」であることは暗黙裡の当然の前提でわざわざ断るまでもない、と言い切ってしまっていいのかどうか。新田部の生きた時代が明記されている以上は、読者が迷ったり誤ったりする心配はないのかもしれません。Snap55さんが強く「中央政府」は適切でないと主張されるのであれば、それを押し切って反対することはやめましょう。
神祇官の存在は完全に失念していました。確かに養老令に基づいて組織された政府組織は「二官八省」です。「神祇官に属する軍隊」というのはかなり独創的な発想ですが、100%ありえないとは言えませんね。「太政官」案は撤回します。
  • <ref></ref>
すみません、11月8日のコメントで私の念頭にあったのは「大将軍」についてはのみで、授刀舎人寮と石田・忍坂の両女王については念頭にありませんでした。「大将軍」の記事は脚注でなく本文中に書くべきだと考えますが、授刀舎人寮のその後の変遷については脚注に記すことに同意いたします。これはまさに注釈だからです。両女王については…。うーん、本人の娘というもっとも近い近親者についての事績が本文中にあってもおかしくはないと思いますし、おそらく両女王のリンクが赤から青に変わる日が来るのは相当に遠い先の話だと思うので、できれば本文に書いた方がいいのではと考えたのですが、脚注に配しても特に反対はいたしません。--呆庵入道 2009年11月11日 (水) 11:02 (UTC)[返信]
ご返答ありがとうございます。中央政府or朝廷の件、授刀舎人寮の件は合意が形成されたと思いますので、当方にて加筆させていただきます。石田・忍坂の両女王の件はそれほどこだわりありませんので、このままとさせていただくことで結構です。議論にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。--Snap55 2009年11月11日 (水) 13:56 (UTC)[返信]
こちらこそ、当方の粗雑で拙い議論に辛抱強く丁寧におつきあいいただきありがとうございました。--呆庵入道 2009年11月13日 (金) 14:41 (UTC)[返信]


脚注[編集]

  1. ^ 『市販本 新しい歴史教科書』扶桑社、2001年、55頁
  2. ^ 『官職要解』和田秀松、講談社学術文庫、1988年、34頁

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

新田部親王」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 17:24 (UTC)[返信]